比企谷八幡がイチャラブするのはまちがっている。R 作:暁英琉
由比ヶ浜結衣。部室にやってきた髪を頭のサイドにお団子でまとめた少女のことを、わたしは知っている。比企谷くんと同じF組所属――当の比企谷くんはまったく知らなかったようだけれど――で葉山くんと同じグループの女の子。
そして、一年前の交通事故の当事者の一人だ。比企谷くんが守った犬の飼い主が彼女だった。あの頃はまだ髪を染めていなかったはずだが、いつからかピンクのような明るい茶髪に染めたようだ。高校デビューというものだろうか。
そんな彼女がここに来た理由。
「あの、その……クッキーを……」
しどろもどろになりながら比企谷くんにチラチラと視線を向けている。そこにあるのが羞恥というよりもいたたまれなさなのを考えると、つまりはそういうことなのだろう。
そう考えると当の比企谷くんに一度退出してもらうべきなのだけれど……。
「…………っ、……っ」
……無理そう、よね。まださっきまでの“特訓”のダメージ……ではなく疲労――それはそれでどうなのだろう――が残っているらしい彼は机に突っ伏したまま荒くなった息を整えようとしている。そんな彼に席を外せというのは酷というものだろう。
かと言ってこのままだと話が一向に進まないので。
「由比ヶ浜さん、ちょっとついてきてもらえるかしら」
わたしたちが場所を変えることにした。やはりどこかおどおどしながらもこくりと頷いた彼女はわたしに続いて部室を後にする。
人気のほとんどない特別棟の廊下を歩く。なんとなく足が向いたのは一階にある自動販売機だ。適当なジュースの販売ボタンを押し、出てきたそれを差し出す。
「ここなら依頼の話もできるかしら?」
「あ、ありがと。依頼のことなんだけど……その……お礼をしたい人がいて、クッキーを手作りしたいの。けどそういうのやったことなくて……」
ふむ。お礼をしたい人というのは比企谷くんのことだろう。さっきの態度もそうだし、彼が彼女のことを知らなかった点を考えても飼い犬を助けてもらったお礼をまだ言っていないだろうことは想像がつく。
要は、クッキー作りのサポートをしてほしい、ということか。
「そういうことなら料理本とか、友達に聞くとかもっと手頃な方法もあると思うけれど」
自分用に買ったパックジュースにストローを挿しながら尋ねる。
書店に行けばお菓子作りの本なんていくらでもあるだろうし、確か彼女の交友関係はかなり広かったはず。お菓子の作れる友人なんていくらでもいるだろう。わざわざ公にもなっていないこの部に行き着く前に、そこで目標を達成しそうなものだけれど。
しかし、わたしの疑問に由比ヶ浜さんは頬を掻きながら力なく笑った。
「一応、本屋さんにも行ったんだけど、数が多いからどれがいいのか全然分かんなくてさ。それに……友達に聞くのはなんか恥ずかしいっていうか……」
「……なるほど」
確かに友達に自分の無知を知られることは恥ずかしいことなのかもしれない。わたしに友達と呼べる人がいないからよく分からないけれど、聞くは一瞬の恥ともことわざで言うことを考えれば得心がいく。
書店も友人もダメ。どうしたものかと悩んでいた彼女に声をかけ、奉仕部への相談を提案したのが平塚先生だったわけだ。
「奉仕部ならきっとあたしの願いを叶えてくれるはずだって平塚先生が言ってたから……」
平塚先生……それは部の理念と違うと思うんですが。わたしはいつから神龍になったのだろうか。
いや、そうして彼女をわたしたちのところに連れてくることが目的だったのでしょうけど。この機会を上手く活かせといったところか。
まあ、ここはそのお節介に乗ることにしようか。
「分かったわ。その依頼、引き受けます」
となると家庭科室の使用許可を得る必要があるわね。そう考えて歩を進めようとして、もう一度自販機に向き直る。
お金を入れて押したボタンは黒と黄色の警戒色の缶を購入するもの。
「えっ!? 雪ノ下さんそれ飲むの!?」
「わたしじゃなくて、今部室で待ちぼうけになっている人の分よ」
まあ、自分で飲んでも構わないのだけれど。
「クッキー作り、ね」
家庭科室の使用許可を得て部室に戻ったわたしたちは、比企谷くんに掻い摘んで依頼を説明した。顎に手を当てて小さく呟いた彼はチラッとわたしの後ろにいた由比ヶ浜さんに視線を向けると、少しだけ目を細める。
「見た目ビッチなのに、乙女みたいなことすんのな」
…………いえ、まあ……言わんとしていることは分かる。明るい色に染められた髪にナチュラルよりも少し濃い目のメイク、ボタンを外したりして下品のギリギリ手前くらいに着崩された制服という姿はなんというか、遊び慣れている感じがするもの。
それでも“ビッチ”はどうかと思うけれど、これも自分に近づけないため、か。
「はああ!? ビッチじゃないし! あたしはまだ処……ってなんでもない!」
由比ヶ浜さん……。
「別にわたしたちの年齢でヴァージンであることは普通ではないのかしら?」
「ちょっ、雪ノ下さんまで何言ってんの!? ちょっと女子力低いって!!」
なんだろう。なんとなく分かってはいたけれど、彼女の価値観はわたしとはだいぶ違うようだ。その「早く貞操を捨てたほうが偉い」みたいな思考をわたしが理解することはこの先もないだろう。ただ、比企谷くんは「その発言がビッチ臭い」とか言って火に油を注ごうとするのはやめてちょうだい。小声だったから由比ヶ浜さんには聞こえなかったみたいだけれど、そんな口論をしたところで時間だけをいたずらに浪費してしまうだけだから。
話題をそこで打ち切って家庭科室に移動。貸出用のエプロンとバンダナを由比ヶ浜さんに手渡して、わたしも身に着けた。
ちなみに一応比企谷くんのものも借りてきたのだが、「雪ノ下……俺だぜ?」の一言で不用になってしまった。いえ、今の一言だけ聞くと料理の一切できない上にやる気のない男子にしか見えないけれど、実際には料理をするほど食事に執着がなく――むしろ疲れる――、そもそもエプロンをつけることでも敏感に身体が反応して体力を使ってしまうのが理由なことは彼のためにも明言しておきたい。
それにしても……。
「んしょ……ここを、こう? あれ、違う?」
なぜエプロンをつけるだけで由比ヶ浜さんはこんなにも時間がかかっているのだろうか。まあ、家での料理でエプロンをつけない人もいるでしょうし……どちらにしても調理実習でエプロンはつけるわよね。
「はあ、着せてあげるからこっちにいらっしゃい」
クッキーを作る時間を考えるとこの待ち時間ももったいない。仕方なく由比ヶ浜さんの後ろに回り、エプロンの紐を結ぶことにした。
「……なに?」
エプロンを着せ終えて顔を上げると、かすかに笑っている比企谷くんと目が合った。「別にー」とそっぽを向いた彼をじっと見つめ――決してにらんではいない、決して――続けていると、彼はまた小さく笑ってきた。
「いや、なんか今のお前、世話焼きな姉ちゃんみたいだなって思ってな」
む、一応わたしは妹であって姉の肩書は存在しないのだけれど。
「……わたしの妹がこんなに手がかかるわけがないでしょう」
「なんかバカにされた!?」
馬鹿にしていないわ。客観的事実を述べただけよ。
わたしの反応が甚く気に入ったのか、比企谷くんは身体を丸めるようにお腹を抱えてククッと笑い出す。その反応がまた心外で、渋面を作っているのが自分でも分かった。
「なんか、楽しい部活だね。ヒッキーも思ってたイメージと全然違う。もっと怖い人かと思ってた」
わたしと比企谷くんを交互に見た由比ヶ浜さんが少し呆然とした声を漏らす。まあ確かに、昼休みに見た彼の雰囲気や視線の鋭さを考えるとそんな評価になってしまうのもしかたがないのかもしれない。
「別に、怖い奴で間違いねえよ。雪ノ下が特別なだけだ」
意図してか低いトーンで威圧するように視線を鋭くした彼。その言葉に由比ヶ浜さんは喉から悲鳴のなりそこないのような音がヒュッと鳴り、わたしは……胸の奥が一つ跳ねたのが分かった。
いえ、落ち着きなさい雪ノ下雪乃。恐らく彼の言葉に大した意味はない。“特別”というのも、秘密を知っているわたしなら変に気構える必要がないという意味だろう。
そうは分かっていても、そんなわたしの思考などお構いなしに胸の奥はまた一つ大きく跳ねてしまって。
「さ、早く作り始めましょう」
それを隠すように一人で材料を取りに向かうのだった。
***
家庭科室の中はバニラエッセンスの甘い香りとクッキー生地が焼ける芳ばしい匂いに包まれる……はずだった。
「な、なんで……」
由比ヶ浜さんがこの世の終わりのような声を漏らすが、そんな声を出したいのはこっちの方だ。今はそれすら通り越して声が出ないのだけど。
まずは由比ヶ浜さんがどれくらい料理ができるのかを確認するつもりで、とりあえずプレーンクッキーのレシピを用意して作ってもらったのだけれど、わたしと比企谷くんは言葉にせずとも同じ結論に至っていた。
論外、と。
「どうやればあれだけミスを重ねることができるのかしら……」
卵はうまく割れず殻が混じっているし――しかも取り出さない――、砂糖と塩を間違えるというベタな失敗をした上にそれを誤魔化そうと分量以上の砂糖を追加したり、挙げ句の果てに「隠し味」なんて言いながらインスタントコーヒーの粉末を隠せないレベルで投入する始末。
その結果できたのが匂いだけでむせ返りそうな黒コゲのナニカである。本当になんなのこれ……。
正直絶望的な調理スキルだ。本人も自分の実力を実物として見せられて落胆してしまっているだろう。ひょっとしたら依頼を取り下げてしまうかもしれない。
そう危惧していたのだけれど。
「で、でもほら! 食べたら案外美味しいかもしれないし!」
意外に彼女はポジティブだった。一応皿に盛り付けられたナニカ――これをクッキーと呼ぶのは抵抗がある――を一枚つまみ……チラチラとなぜか比企谷くんに視線を向ける。
まさか……。
「ヒッキー、その……食べてみる?」
「え…………」
そのまさかだった。まあ、事情を知らない彼女からすればここでの彼の役割は味見役だと思うのは当然といえば当然か。実際にはただの見学なのだけれど。
一瞬逃げるように身を捩った彼は視線をわたしと由比ヶ浜さん、そして皿の上のナニカに這わせ、決心するように頷いた。
「わか……」
「駄目よ」
彼の口から紡がれそうになった了承の声を遮ると由比ヶ浜さんが驚いた顔をしたけど、今はそれに構っている暇はなく、比企谷くんを教室の隅に連れ出した。
「何を考えているのよ。確かに食べられないものは入っていないけれど、コゲているのよ? つまり苦味。ちょっと焦げちゃったなんてレベルじゃないんだから、あなたがたべたらたいへんなことになるわ!」
「いやけど、依頼だし」
「依頼一つで命の危機に陥ったら笑い話にもならないわよ!」
お前結構ひどいこと言ってるぞ、と彼の目が訴えかけてきたけれど、彼の身体のことを知っていれば当然の反応だと思う。市販のクロワッサンすら辛そうに食べるのに、ホームセンターの木炭のようなナニカを食べたら病院行きすらありえそうだ。
「とにかく、あなたは食べなくていいから」
念押しをして何事もなかったように由比ヶ浜さんの所へ戻った。
「ヒッキー、味見役とかじゃないの?」
「ごめんなさい、由比ヶ浜さん。比企谷くんは今舌に口内炎ができてしまっていて、痛みで正確な味の感想は言えそうにないのよ」
比企谷くんが一瞬変な声をあげかけて小さく喉を鳴らしたけれど、取り繕うように首肯した。
「あ、そうなんだ……。ごめんね、ヒッキー……」
「気にすんな。こっちこそわりいな、戦力外で」
とりあえずこれで彼がナニカを手に取る心配はないだろう。
そうなると、この物体の味を確認するのは――
「それじゃあ、毒味といきましょうか」
「う、うん……って! 毒じゃないし! 毒、かなぁ……?」
わたしたちになるわけだ。
恐る恐る一枚手に取り、大きく深呼吸をして――口の中に投げ込む。
…………。
………………。
苦い。最初に出てくる感想がそれだった。ひたすら苦い。インスタントコーヒーの苦さなのか、コゲの苦さなのか判別できないくらいの苦さだ。かすかにバニラエッセンスの甘い香りの名残を感じるけれど、むしろそれが余計に苦味を際立たせていた。
しかも、それがギリギリ食べられるレベルなのが始末に置けない。いえ、比企谷くんならほぼ確実に気を失っていたと思うレベルだけれど。本当に食べさせなくてよかったわ……。