比企谷八幡がイチャラブするのはまちがっている。R 作:暁英琉
「……ちょっと買いすぎてしまったかしら」
学校帰り、近くのスーパーで買い物をすませたのだが、荷物がいつもの倍近く重い。体力がないことは自覚しているけれど、まさか買い物程度で息が上がってしまうとは……都築に運転してもらえばよかったかしら。いえ、それじゃあ無理を言って一人暮らしをさせてもらっている意味がないわね。
なんとかマンションまでたどり着き、台所で中身を取り出す。
小麦粉、ベーキングパウダー、豆乳エトセトラエトセトラ……。
その他の食材もそこそこな重さだったのは事実だが、小麦粉を調子に乗って三キロのものを買ってしまったのが今回の苦行の原因だった。地味に豆乳も重かったけれど。
買ってきた食材には当然夕食に使うものもあるのだが、こと先に挙げた三つの食材は別の目的のために購入した。さすがに強力粉は普段使わないし、ベーキングパウダーも切らしていたのを知ったのは昨日のことで、それより先に“約束”を取り付けなくてよかったと心底安心したものだ。
『明日は昼食を持ってこないで』
部活でそう伝えると、彼は最初こそ「え、昼食抜き? なんかの罰か?」とか嘯いていたが、最終的には了承してくれた。別に「楽しみだ」って言われて赤面してしまったなんて存在しない。本当にない。
そう、これは彼の昼食を作るための材料たちだ。
「……まさか、誰かのお昼ご飯を作る日がくるなんてね」
きっかけは数日前にあった由比ヶ浜さんの依頼後の帰り道。連れ立って歩いていると、彼が私のクッキーをねだってきたのだ。
正直あの時は驚いた。小腹がすいたと言ってきたのだけれど、昼食や味見の時にあれだけ辛そうに食べているのを見ていたのだから、小腹程度なら我慢しそうなものなのにと思ったのは当然だろう。
『その……辛いのではないの?』
そう尋ねてしまったのも仕方のないことだと思う。
訳が分からず少々混乱してしまう私の質問に彼は「確かに食べるのは辛いんだけど」と苦笑しながら――
『雪ノ下のクッキーめちゃくちゃ美味かったからな。無理してでも食いたい』
「~~~~~~~~っ!!」
ハッ、いけない。思い出し悶絶なんてしてしまった。けれど、仕方ないではないか。あの体質の比企谷くんが「無理してでも食べたい」って言ってくれたのよ? 友人にそこまで言ってもらえる味が提供できたのなら、最高ではないだろうか。
……あれ、友人……よね? 友人……だと、思う……のだけれど。そもそも友人の定義ってなんなのかしら。
まあ、今はそんなことはどうでもいい。どうせ――恥ずかしいし違ったら怖いし――確認することなんてできないのだし。
つまるところ、私の料理は彼がリピートしてしまうほど美味しかったということだ。
ということは、私が料理を作れば体質に起因する彼の食改善を少しでも促すことができるのではないだろうか。……そう思いついたのが昨日だ。
「まあ、作るのはパンだけどね」
いくら味が良くても、複数の触感のある料理は負担をかけてしまうだろう。そうなるとやはりパンに行き着いてしまうのが少しもどかしいのだが、何はともあれ作ると宣言した以上はちゃんと作らなくては。
エプロンをつけて拳を握りながら気合を入れる。
せっかく食べてもらうのだから、最高の味を提供したいと思うのは当然のことだろう。
「そろそろね」
タイマーを確認して香ばしい香りを溢れださせているオーブンの蓋を開く。かすかにジジ、と熱源がチリつく音が聞こえるオーブン内では、数個の丸パンが綺麗に焼き上がっていた。パン作りは実家で作って依頼だったけれど、腕は落ちていない……かしらね。
「一つ味見してみましょうか」
焼きたてアツアツなパンを一つ手に取り、一口大にちぎって口に運ぶ。
……うん、美味しい。これなら他のパンも問題ないかしらね。
出来の良さについ緩んでしまう頬を引き締めながら、もう一口食べてみる。まあ、これで味が変わっていたらそれはそれですごいことだけれど、当然ながらさっきと同じ味だ。
彼は喜んでくれるだろうか。また「美味い」と言ってくれるだろうか。少し怖くて、それを覆い隠してしまうほど楽しみで仕方ない。
今から明日の昼休みに想いを馳せていると、時計十時を示しているのが目に入った。色々とアレンジを試したりしていたし、なんとなく発酵の間もずっとここにいたせいか時間の経過を忘れていたようだ。早くお風呂に入って、今のうちに来週提出の課題を……。
そこまで考えて。
「あ……」
とても大事なことに気が付いた。
「……夕食、作ってない」
***
「うっす」
「こんにちは、比企谷くん」
昼休み。部室の定位置で待っていると、十分ほどして彼もやってきた。人込みを避けるために時間をずらしていることは分かるのだけれど、つい「今日は来ないんじゃないか」と不安になってしまう。
まあ、そんなことはおくびにも出すわけもなく、ここ数日をリフレインするように出迎える。
定位置になった私の隣に腰を下ろす彼は手ぶらだ。約束通り昼食を持ってこないでくれたことに内心ほっとしながら、小さめの紙袋を手渡した。
「本当に作ってくるなんてな。サンキュ」
気恥ずかしそうにはにかみながら紙袋を受け取ると覗き込むように中身を確認して……驚いた目を向けてきた。
「え、雪ノ下さん……パンを手作りですか?」
「ええ、どうだけど。……なぜ敬語になっているのかしら」
いつもとはまた違う態度に首を傾げる。「いや、なんとなく」と苦笑した彼はいくつか入っているものから一つ取り出して一口大にちぎり、ゆっくりと口に含んだ。
「んぐ…………ん、んむ……」
瞼を閉じて味わうように咀嚼する。時折苦しそうな声が漏れるけれど、キュッと寄せられる眉がいつもよりゆるいように見えるのは――私の勘違いだろうか。
「んっ。…………うめえ」
「そう、よかったわ」
やがてこくりと嚥下した彼が漏らした感想に、思わず緩みそうになる表情筋を引き締める。
引き締めるのだけれど、どうしても口角が上がってしまうのを自覚して、少し顔が熱くなった。
この熱は気づかれていないだろうか。自分のお弁当を口に運びながらチラリと盗み見た限りでは幸いなことに気づかれていないらしい。再びちぎったパンをもそもそと咀嚼する表情からはいままで見え隠れしていた義務感が若干だが薄れ、食事を楽しんでいるようにも見える。
「いやマジですげえな。こんなん家で作れるの? お前んち石窯でもあるん?」
「……普通のオーブンしかないわよ」
さすがに実家にも石窯はない。というか、この千葉に石窯のある家が何件あるのだろう。この人は私の実家がパン屋さんだとでも勘違いしているのかしら。いえ、ただの冗談だと思うけど。
それからはしばらく、互いに無言で食を進めていく。そもそも私たちの間では無言時間の方が多いし、気まずさからくるものではないのでさして気になることはない。
ただ……やはり自分の作ったものを食べている彼の反応が気になってしまうのは仕方のないことではないだろうか。食事の合間についつい視線を向けて、いつもよりも幾分楽しそうに食べる彼の表情に身体の中心がじんわりと熱を帯びてしまう。うれしいのか恥ずかしいのかよく分からない感情のせいで、お弁当の味が分からなくなってしまいそうだ。
今度は意識して彼を見ないように食事を続ける。これがなかなか大変で、気を抜くと目が吸い寄せられるように隣に向いてしまう。
「あれ?」
予想外に難易度の高いミッションに苦心していると、食事音だけだった部室に彼の声が響き、何事かと振り向く。決して今までの反動で喜々として振り向いたのではない。……本当よ?
隣の彼は不思議そうに首を傾げながら手元のパンを見つめていた。いつの間にか一つ目を食べ終わったのか、まだ一口食べただけらしいパンは――さっきのものより少し黄色みがかっている。
「これって……人参か?」
「ご名答」
そう、二つ目に用意したパンは生地に人参のすりおろしを練り込んだものだ。
「味にバリエーションがあれば、その分楽しめると思ってね」
ここ数日一緒に昼食を食べてきたが、彼は決まってクロワッサン二つで済ませていた。恐らく選ぶこともめんどうなのだろう。彼の体質からすれば、それは仕方のないことだ。
けれど、どうせ食べてもらうのなら、食事が終わるまでそれを楽しんでほしい。だから同じ単一触感で味を変えてみたのだ。ビタミンなど、彼が普段栄養剤で補っているものの一部も摂取することができるのも味変化に野菜を選んだ理由だ。
「あれだな。人参の甘さが……上品って言えばいいのか? 優しい感じで、これも美味いな」
なかなか味を表現する言葉が出ないのかつっかえつっかえな感想に、気づかれないようにほっと息をつく。この短い時間でどれだけほっとしただろうか。どうやら自分で思っていた以上に今日の昼食は不安だったらしい。
そんな不安要素も粗方なくなり、後は落ち着いた心で昼食を――
「いやしかし、羨ましいな」
「? 何がかしら?」
「将来雪ノ下と結婚する相手が。お前いい嫁さんになりそうだもんなぁ」
「なっ……!」
…………。
………………。
どうしてくれるのだろう。
残りのお弁当。味が分からなくなってしまったではないか。
「ふう……ごちそうさん」
「お粗末様……」
人間、味が分からなくなってもなんだかんだ食事はするもので、しばらくして私のお弁当は空になった。比企谷くんもいつもより少し早いペースで食べ終わり、いつもの甘いコーヒーをちびちびと傾けている。いくら味で誤魔化しても触感に耐えているという事実は当然あるわけで、時折息切れのようなため息を吐き出す。
「飯食い終わってから素直に『美味い』って言えるのは、たぶん生まれて初めてだな」
それでも、美味しいもので食事に慣れていこうという今回の作戦は上手くいったと言えそうだ。彼自身が食に興味を持ち、食事の頻度や量が増えていけば、相対的に口内の触覚が慣れるのも早くなる……はずだ。
それなら私がやるべきことは……。
「あなたさえよければ、その……明日からも作ってくるのだけれど……」
「それは……迷惑じゃ、ねえのか?」
迷惑。確かに客観的に見れば材料費――彼は払おうとしたら断った――や調理のための時間を奪われているように見えなくもないだろう。
しかし、私の主観で言わせてもらえば迷惑だと思ったことなんて一度もないのだ。逆に、鬱陶しく思われていないか心配なくらい。依頼の件は自由にしていいとは言われたが、やはり嫌な思いはしてほしくないから。
「私がやりたいからやっているだけよ」
「……そっか」
短くそれだけ答えてマックスコーヒーの缶を口に寄せた彼は、少しだけ笑っているような気がした。
たぶん、私も笑っていたと思うけれどね。