歩いても、歩いても抜けられなかった。身を屈めながら進み、キリトは汗をぬぐった。
「どこだよ……ここは」
わずかに土の匂いがする。キリトがあたり後ろを振り向くと、木漏れ日に照らされた木々の間にところどころ顔を出した岩肌が見えた。時折どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。のどかな風景と言えばその通りだろう。
しかしキリトはここに来た覚えがない。気がついたらここにいたのだ。まるで夢のように始まりがあやふやな光景。
「……ゲームの中ってことはないよな……」
ゲームというのはVRMMOのことだ。それはプレイヤーの脳に働きかけ、仮想空間を作り出すものだ。キリトはそれの「発端」となった事件と少なからぬ因縁を持ちつつも、多くのVRMMOを体験している。もしかしたらこの空間もそれではないかと考えるのはあたりまえだろう。
キリトは首を傾げた。少なくともゲームの中にアクセスした記憶はないはずだ、それに本当にゲームなら「汗をかく」こと自体おかしい。
「とにかく。進むか……」
キリトは思考をいったん打ち切って足を進める。足元で土の音が鳴る。
「腹が減った」
キリトはお腹を押さえながら呟く。しかし道は変わらずにけもの道。虫があまり出ないだけましと思わねばやっていられない。そもそもここはどこなのか、何度も考えたことをキリトはまた考える。多分に気をまぎらわすための行動になっている。
坂を上る。この場合人里を探したほうがいいような気もキリトにはするけれど、彼は何かの雑誌だったかで遭難した時にはその場から動かない、または頂上を目指したほうがいいと聞いたことがある。
しばらく歩くと目の前が開けた。キリトは木々が遮っていた日光を受けた。いきなり明るくなったことで目を細めて腕をかざす。彼はゆっくりと目を馴らしてから前を向くと、小さく笑った。
眼下には深緑の緑が広がり、その先に青い海が見える。
キリトの前に地平線の彼方まで青い世界が広がっていた。その上を白い雲が流れていく。今まで聞こえなかった海鳥の楽しげな声まで聞こえてくる。太陽からの光が世界を明るく照らすことが、皮肉にすら思える。
「は、はは」
笑うしかないじゃないか。キリトはそう思って地面にドカリと座り込んだ。乾いた笑いと複雑な笑顔が彼の心境を表している。
「……どこだよ、ここは」
ぽつりとキリトは言った。本当にここがどこだかわからない。その上目の前の海を見ると嫌なことを考えてしまった。
(島……とかじゃないよな……)
脱出が不可能になりそうな想起を彼は声には出さない。それを言ってしまえば本当になってしまいそうで怖い。それに口に出してしまえば認識し直してしまいそうでいやだった。
キリトは立ち上がる。絶望的な状況であっても諦めるには早い。それにここが島だと決まったわけではない。もしかしたら半島。いや単に海に面した場所なのかもしれない。
眼下に見下ろす森を下り。海岸まで行ければ何かわかるかもしれない。キリトはそう思って、いままで来た道を引き返す。頂上についてもいないのに、下へ降りることは焦燥がさせる。
木が少なくなっていく。地面が平坦になって砂が混じる。キリトは汗でべっとりとした黒のシャツを辟易しつつ歩く。
意外にくだりは速かった。あの海の見える開けた場所から見える浜辺までは遠く感じたが、それはもうキリトの見えるところにある。もちろん時間はキリトの体内時計の観測に過ぎないけれど。
森を抜けた。キリトの前には白い砂浜と青い海だけがある。
波の音が緩やかに聞こえる。太陽に熱された砂から、熱い空気がキリトには感じられる。彼はまた額をぬぐう。しかしぬぐった腕にも汗が付いていて、上塗りしたようになってしまった。キリトは不快げに顔をしかめた。
「だれも……いないな」
キリトがあたりを見回しても人影はない。弓なりになった海岸線には白い影、海鳥が優雅に飛んでいる。それすらも彼には恨めしい。
「……」
喉はからから。空腹はさっきから。キリトは息を吐いた。ふらふらと歩いていくが彼には行く場所がわからない。とりあえず涼しさを求めて海へ向かう。
海の水が心地いい。キリトはすねのあたりまで水に浸かった。靴と靴下は砂浜に置いてきた。足元を鮮やかな色をした魚が通る。透明な水に日光が反射して七色に光る。
どうすればいいだろう
キリトはずっとそれを考えている。
潮風が頬を撫でてくれるのが慰めてくれているようにも感じる。そうして軽く彼は笑った。潮風が、などと考えた自分の心があまりに滑稽で笑ってしまった。詩人みたいだと心の中でつっこんだ。
すこしだけ余裕が出てきたらしい。キリトは砂浜に向かって戻り始めた。あしもとの水が塩水じゃなければいいのにと思いながら。
「ん……?」
遠くに動いているものが見える。なにか黄色の頭をしたなにかが森の中からでてくる。キリトははっとした。
「まさか、人!」
しぶきをあげてキリト走る。巻き上げた水が顔にかかっても気にしない。ただ足が砂と波と水にとられて思うように進まないのがもどかしい。だから声を出した。
「おーい!」
手を振るキリト。遠くの人影も気が付いたのか、手を振り返しくる。声が聞こえる。
「ぉーィ」
人影がこっちに向かってくる。あちらも砂浜を走るものだから時折体が揺れて、かたむく。苦戦しているのだろう。一度こけた。だがすぐに起き上って向かってくる。
「あ、れ」
キリトはじゃぶじゃぶとかき分けながら進み、なにか疑問を覚えた。近づいてくる人影はカーキ色のコートだがマントを羽織っていて、その頭は金髪。どこかで見たようなというかさっき聞こえた声もどこかで聞いたことがある気がする。
人影の速度が遅くなった。振っていた手も止まる。
人影が踵を返した。いきなり後ろへ向かって逃げるように走り出す。
「あっおい!?」
キリトは驚く。疑問を覚えているとはいえ初めてここで見つけた人である。逃がすわけにはいかない。急いで浜辺に上がるとはだしのまま駆け出した。
二つの人影が浜辺を走る。一方は金髪、一方は黒髪。小さな足あとが広大な浜辺についていく。
「な、なんなんだ」
キリトは息をきらしながら人影を追う。空腹のときに行う運動ほどきついこともない。だが彼の追っている人間もそれは変わらないはずなのだ。キリトは最後の力を振り絞って駆ける。
「こ、のおお」
キリトのスピードが上がる。砂が膜を作って宙に飛ぶ。追う背中が近付く、キリトには思考する暇も余裕もない。捕まえることしか頭にない。
森が迫る。そこに入られれば見失うかもしれない。キリトは息を止めて腕を振った。三歩、相手との距離。
無意識の行動だった。キリトは地を蹴って飛びつく。必死がそうさせたのだろう。
「にが、すかああ」
叫ぶキリトが両手を伸ばす。そして相手の足首を掴んだ。
「ワッ??」
相手が叫ぶ。そうして顔からこけた。キリトは内心で喝采を上げる。相手を気遣うことよりも、捕まえたことへの喜びしかない。だがすぐに気が付いて、足首から膝、腰と手を絡ませる。逃がすものかと相手に体重をかける。
「い、いたいナ。キー坊」
「はっ?」
捕まえた相手から懐かしい呼び名が聞こえる。SAO事件から一度も会っていない人の声。まさかとキリトは聞き返す。
「あ、るご?」
振り向かず、金髪が動く。肯定したということだろう。
「なんであんたがここに!?」
キリトはアルゴを抑えたまま、身を乗り出す。
「うあああああああああ」
キリトは女性の腰を捕まえた上で押さえつけていることにやっと気が付いた。真っ赤になって飛び上った。
二人は落ち着くと木陰に座った。キリトが口を開く。
「で、なんでアルゴがいるんだ?」
「それはキー坊だって同じだロ」
アルゴは前髪を弄りながら独特のイントネーションで話す。その顔には「おひげ」が書かれていてキリトは懐かしさを覚えた。以前も彼女はこの格好でいた。しかしあることに気が付いた。キリトはアルゴとSAOのなかでしかあったことがない。つまり彼女の容姿はゲームのままと言うことだ。
「ここは、ゲームの中なのか…?」
「どうだろうネ」
キリトの顔からアルゴは彼の心を読む。もともと自分も思っていた疑問なのだろうか、すぐにわかったらしい。彼女はキリトのから少し顔を背けて海の方を見た。心境的にはさっきのキリトとあまり変わるまい。ここからは脱出できそうにない。
「アルゴ」
「ン?」
「ここから出れる方法とか、知らないか? というかここはどこなんだ?」
「……」
アルゴは黙り込んでしまった。キリトも何を言っているんだと自分の発言を悔いる。
アルゴは昔、情報屋をやっていた。その時はキリトも良く助けられた記憶がある。だから反射的に彼は聞いてしまったのだ。答えられないだろうことくらいわかる筈なのに。キリトはそう思った。アルゴは海を見たまま答えない。
不安なのだろうか。キリトはその涼しげなアルゴの顔から気持ちを読み取ろうとする。彼女はキリトよりいくつかは年上なのだろうが、それでも子供であることにかわりはない。SAOのような完全な仮想空間ではなく、どこかわからないこの状況では怖くなってもおかしくはない。事実キリトもそうなのだから。
キリトがそんなことを考えていた時、アルゴはにやりと笑った。キリトは驚く。彼女はそんなキリトの顔を面白そうに眺めつつ言った。余裕のありそうな笑みを浮かべながら。
「知りたいなら、10万コルでいいヨ」
キリトはその言葉がしばらく理解できなかった。「じゅうまんこる」という意味が分からなかった。だがそれが分かった時、クスリと笑みがこぼれた。コルというのはSAOでの貨幣単位、つまりお金の単位だ。アルゴが情報屋をやっていたころ彼女は必ず情報の代価を取った。その分情報は正確だったわけではあるが。
キリトの笑みはある種の思いだし笑いだろう。
「もしかして、あんた……。それを知らないから逃げたんじゃないのか?」
キリトは言う。アルゴは何も言わずに横を向いた。それは取り澄ました顔に見える。これも昔話だが、情報屋として彼女は「知らない」と言うことを嫌った。ここでもそうらしい。そんなことで逃げたのかと思うとキリトには面白かった。
彼はそれで心が少し軽くなった気がする。笑ったことが良かったのだろうか。
「まあ、いいや。俺は今金なんて持ってないしな……」
「ザンネンダナア」
わざとらしい嘆息を漏らすアルゴ。キリトは苦笑しつつ立ち上がる。少し汗の匂いがしてまたもここがゲームの中なのか現実なのかわからなくなった。
「とりあえず、探索してみよう」
キリトはそうアルゴに呼びかける。アルゴもこくりと頷いてから立ち上がった。
「小屋……だよな」
キリトは信じられないといった風情で言う。彼はあれからアルゴと一緒に浜辺をそって歩いた。なにかが見つかればいい程度に思っていたのだが。まさか木造の小さなコテージが見つかるとは思えなかった。アルゴと歩き出して10分もたっていない。さっきまでいたところからは木が邪魔して見えなかったのだ。
キリトの頭に疑問符が浮かんだ。それもそうだろう。ここには道もなく民家もない。だれがこんなところに来ると言うのだろうか。だれがこんなところにコテージを立てたのだろうか。そんなことを考えている彼を横目につかつかとアルゴがコテージに歩み寄っていく。
「お。おい」
キリトの呼びとめに手をひらひらして返しながらアルゴは木造の階段を上がって、玄関に手をかける。「オ」と彼女が小さく言ってからドアが開いた。
「開いてるみたいだナ」
アルゴは後ろを向いてキリトに手招きする。
「はいろウ。きょーはんしゃ」
「誰が共犯者だ」
にししと笑ってアルゴが中に入っていった。
中には小さめの椅子とベッドが一つ。床はむき出しではなくカーペットが敷いてあった。そう大きくはないコテージだが二人で休むにはちょうどいいだろう。キリトはそう思い足を踏み出そうとして、何かを蹴る。見ると足元に脱ぎ散らかされたブーツがあった。アルゴの物だろう。
靴のまま中に入るところだったとキリトが思って靴を脱ごうとする。そこで靴はさっき脱いでおいてきた、靴下もないということを思い出す。彼は間抜けな行動をしたなと苦笑しつつアルゴの靴をそろえる。
「うん?」
そういえばアルゴはどこに行ったのだろう。見回してもいない。ただ奥の方にドアがあった。
「アルゴ」
と呼ぶと奥のドアが開き、アルゴが顔だけを出す。何をやっているんだとあきれつつキリトは近寄ろうとした。
「いくら出すかナ。キー坊は」
「はあ?」
またにししとアルゴは笑い、扉から彼女は手を出した。その手には、ペットボトルに入った清涼飲料が握られている。キリトはごくりと唾をのんだ。本当に喉が渇いている。
「しーえむはおわリ」
ばたんとドアを締めるアルゴ。キリトははっとしてドアに駆け寄った。たたく、ドアを。
「おいアルゴ。なんだよ今のは! それなんだよ」
「オイシイナア」
「金なんてないって、アルゴ。あるごさん」
ドアノブを回しても開かないということは鍵がかかっているらしい。キリトの声が哀調を帯びる、中ではわざとらしく「オイシイ」などと言う声が聞こえる。キリトは必死に呼びかける。
「開けてください。アルゴさん!」
青い海。青い空。片手にはサイダー。
キリトはペットボトルを傾けて喉を鳴らして飲んだ。冷たい刺激が口と喉を潤す。しゅわしゅわと炭酸が心地いい。キリトは3分の2を飲み干してからペットボトルを口から離して息を吐く。
「こんなに、おいしかったけ……」
サイダーが好きになりそうだった。普段そんなに飲むわけではないがキリトは残りも一気に飲み干す。
キリトはコテージの脇についたバルコニーにいた。
さきほどアルゴが「しかたないなア」と恩着せがましくドアを開けた部屋の中には小さ目なキッチンがあった。そこにある冷蔵庫には飲み物が豊富に入っていた。
キリトは誰がこんなところにとも思ったが、横でアルゴがおいしそうに飲み物を飲むので我慢できずにキリトもサイダーを一つ掴んでここに来たのだった。からかわれた手前アルゴのそばで飲みたくなかった。
「開けてくださイ、あるごさん」
声にキリトは後ろを向いた。そこにはアルゴが立って、キリトの真似をしている。
「キー坊。オレっちがやさしい人間で助かったナ」
「やさしい……?」
キリトはじとっとした目でアルゴを見る。それを彼女は面白そうににこっと笑った。キリトは不意を突かれてうっと下がる。だがくやしいこのままではやられっぱなしな気もする。
「あんた。あせくさいぞ」
「ニャ!?」
キリトの反撃に予想外にアルゴは反応した。さすがに女の子に汗臭いもなかったか、とキリトは思うが反撃成功にほくそえむ。それを少し恨めしげにアルゴは見た。マントを片手でつかんで鼻に押し付ける姿は気にしているとわかりやすい。
「電話、見たか?」
「……」
キリトは話題を変えた。アルゴは首を横に振ってこたえる。
「そうか」
コテージの中に電話、またはなにか連絡手段があればと思ったが何もないらしい。キリトがバルコニーに出たあとアルゴは中でなにかやっていたのが窓から彼には見えた。実際に何をやっているのかは見ていないが、抜かりのない彼女のことだ、コテージの中で役立ちそうなものは調べつくさているだろう。
それなのにアルゴはキリトになにも言わない。おそらく何も見つからなかっただろうなとキリトは落胆する。ただできるだけ顔に出さないようにした。だから取り繕うように言った。
「なにか、見つかったのか?」
「ああ、そうだナ。まあ……」
アルゴはうんと考え込んだ。キリトはもう少し質問をひねればよかったと思う。取り繕うことが目的なのだからなんでもよかったのだが、落胆の元を言う必要はなかっただろう。
「シャワー室、とかならあったヨ…あとは着替えとカ、いやつかえそうなもの、かナ」
歯切れ悪くアルゴは言う。ただシャワー室と聞いてキリトは塩くさい体を洗いたくなった。それはアルゴもおなじだろうと考えて、さっきアルゴの腰に抱き着いたことを思い出した。
「いうっ」
変な声を出してキリトは顔を振る。不思議そうにアルゴが見てくるので一度目があった。シャワー室、腰、アルゴ。思考が連動して少年らしい「想像」が頭に浮かぶ。
「キー坊?」
「へ? いや、なんでもない」
はははと赤くなってキリトは笑う。アルゴが首を傾げるのであわてて言った。
「き、着替えがあるんだって? つかえるなら、その貸してもらおう」
「あ、ア。そうだナ。それより……」
「どこにあるんだアルゴ。俺も汗臭くて、シャツを脱ぎたくて…」
脱ぐ。思考の中で目の前の少女が。
「いや、シャツの話だ。」
「ハ?」
アルゴはキリトが一人であわてているので、なにをあわてているのか考える仕草をした。そんなことをされて困るのはキリトだ。彼ははっとしてアルゴの手を掴む。顔を近づけて、言う。
「どこだっ」
「き、きーぼ」
キリトがアルゴの手を引いてコテージに戻る。妄想とそれを取り繕うのに必死で気が付いていないが、今あれは女の子の手を引いて一度息のかかるくらいの近さで話した。興奮が冷めてから彼らは新しい妄想を打ち消すために苦悩することになる。
キリトは塩と汗の染みこんだ服を脱ぎすてて、清々しかった。適当に日の当たるところに脱いだ衣服をかける。
彼は今、黒のショートパンツ型の水着を着ていた。後ろに小さなポケットがついている。上半身には何もつけておらず、細い腕を伸ばした。
「……」
キリトはどこかそわそわしている。彼の穿いている水着はアルゴが「着替え」と言ったものである。コテージの中にあった箪笥の中にあったものだ。それも見澄ましたように女用と男用の水着が一つずつ入っていた。男ものは今キリトが着ているもので、女ものは上下飾りのない白の水着で下はあろうことかビキニだった。
今アルゴはシャワー室で着替えている。彼女はキリトに着替えがあったと言ったときに苦い顔をしていたが水着の形状が問題だったのだろう。
水着は確かに着替えとしてこの気候に最適だろうが、いつも暑苦しそうなコートを着て女っ気のないアルゴが「ビキニ」などを着る。などと考えるとキリトは先ほどの妄想と相まってもやもやとしたものが彼の中にある。それだからだろうか先ほどから落ち着かに様子で部屋の中をぐるぐる回ったりしている。
ぎいと奥のドアが開く。キリトの体がびくりと跳ねた。
折り悪くキリトはドアに背を向けていた。つまり今そこから出てきているであろうアルゴを見るためには振り向かなければならない。彼は唇を舐めて緊張を緩和させる。ゆっくりと後ろを向いた。
俯いた顔のアルゴが其処にいた。ほのかに顔を赤くして、両手で体を包むようにしている。細い肩から肩紐が降りて両胸を白いブラが覆い。しなやかな腰にビキニの紐がかかっている。
アルゴは少し体を傾けて腰をひねっている。恥ずかしいのだろうがキリトにはそっちの方が精神衛生上「よくない」。アルゴはなにも言わずにちらりとキリトを見た。俯きながら見たから、上目使いになってしまった。意識していない自然な行動。
「……あ、ああ。き、キガエタンダ」
アルゴのイントネーションをまねたようにキリトはぎこちなく声を出す。彼は心臓の音が聞こえる。ばくばくと動いているのが良くわかる。
「あ、うん……」
普通に返すアルゴ。いつもの語尾の上ずりがないのは余裕がないのだろう。普段が正常とするなら今が上ずっているのかもしれないが。彼女は前に出た。いつものように大股ではなく女の子らしくおずおずと出る。
「…………」
キリトはどういっていいかわからなかった。どう考えてもアルゴの体に見とれているのだけれどそれを正直に言うほど彼は女の子に対しての経験値がない。それにそもそもアルゴとキリトは恋人関係などでもない、彼らはその交友のほとんどをビジネスライクに過ごしてきた。
あぐあぐとキリトは口を動かすが次に言った言葉はほめ言葉でもけなし言葉でもない。
「恥ずかしいならあのコート。体にまいてくりゃよかったのにな……」
はっとした顔でアルゴが顔を上げた。
パレオみたいにアルゴは腰にコートを巻きつけた。さすがに羽織るのは熱いらしい。
「どうすル?」
アルゴはだいぶ調子が戻ってきたらしい。キリトに聞いた。だが彼はまだ心の整理がついていない。かといって返答ができないほど混乱しているわけではない。つまり単に恥ずかしい。
「そうだな」
とりあえずキリトは声を出した。自然に彼の目がアルゴの胸元へ…
「か、海岸を散歩しようか!」
「散歩するのカ?」
「い、いや違う。散策、いや捜索? と、にかくこの小屋みたいに何かがみつかるかもしれないだろ」
あたふたと言うキリト。アルゴは首を傾げて、彼を見る。意識したことがなかった淡黄色の瞳がキリトにはまぶしい。ぱちりとアルゴが瞬きした、そんなことまで意識してしまう。
「いくぞ!」
なにかを振り払うようにキリトはアルゴの手を取った。そしてさっきのように引く。アルゴが抗議の声を上げる間もなく、彼らはコテージを抜けてはだしのまま砂浜に降りる。
「あづー!!!」
「にゃああああ」
太陽は中天にかかっている。空のもっとも熱い時間。もちろん砂も、熱い。
さきほどの一騒ぎから一度コテージに戻った彼らは冷蔵庫から引っ張り出した冷たい飲み物を「涙目で足につける」という作業をしてから、ぐったりと二人並んでカーペットで横になった。
「キー坊の、せいだゾ…」
恨みがましい声でアルゴが言う。ただ事実だ。
「すまん」
まだひりひりする足の裏を床で擦りながらキリトは天井を見た。木組みのむき出しになった天井には天窓が一つついている。外はからの光がガラスに反射している。見るからに熱そうだった。
「夜まで、待つか」
とキリトは言って見たもののそれは逆に危険だった。街灯もない暗闇を歩くなんてことはやるべきでないとさすがの都会人である彼にもわかる。しかしあの砂浜を歩くことはできそうにない。アルゴは靴があるからできるだろうが、一人で行かせるのも男である手前気が引ける。
そこまで考えてキリトはあることに気が付く。前までアルゴに気を使うことなんてそうはなかったはずだ。元々情報屋をフリーでやっていたアルゴである。多少の危険もかいくぐっただろうしその情報を何度も買った。その時真剣に心配した記憶なんてほとんど彼にはない。
なのに今自然な形でアルゴに気をつかった。この心境の変化は何なのだろうか。こんなことを考える時点でアルゴに対する気持ちが変わった証左なのだが彼には認識できない。
「あ」
「ア」
呼びかけの声があった。そして二人とも黙り込む。お互い相手にしゃべらせようとして、どっちもしゃべらない。そして先に口を開いたのはアルゴだった。
「……オレっちがみてこようカ? キー坊」
キリトは首を横に振る。理由は気が引けるから。アルゴが少し動くずりとカーペットが音を鳴らす。
「じゃあどうするんダ」
時折海鳥の鳴き声が聞こえる。キリトは一度目をつぶった。なにか案はないだろうか、どんなものでもいいと思う。相手に伝える案の精度を度外視できる関係と言うのは、なかなかに気安くビジネスライクからは程遠いとは彼は気づかない。
「アルゴの靴を使って二人三脚とか……?」
言って。あまりの自分の意見のひどさにキリトはごろんと転がる。アルゴは一瞬目を見開いて。くっと肩を震わす。そのまま笑いをかみ殺しつつキリトに返す。
「どっちにしろ足が砂浜つくナ」
二人三脚よりも片足づつ靴を分け合って飛んで行った方がまだましだ。そう気がついてキリトは赤くなった。なんでこんなわけのわからないことを言ったのだろうか。そこで彼ははっと気が付いた。しかしそれにはとても根気がいる上に、キリトが男を見せなければならない。
「ほ、本当に大丈夫なのカ」
「ああ、こんなのらくしょーだ」
浜辺を歩くたびがくがくとキリトの足が震える。もともとインドア派の彼が考えたには「この策」は体力が必要だった。
その策とはこうだ。まずキリトが靴を履く。アルゴが靴下をはく。次にキリトがアルゴを背中におぶる。これで二人は一体。おいていくことはない。アルゴは靴下をはいているので仮に落ちてもやけどはしないだろう。
すぐ横を流れる波の音を聞きながらキリトはそう思った。もっともましな策を思いつけなかったのだろうか。
「つ、つかまっていろよ」
アルゴは彼の背中に捕まりつつ頷く。柔らかくて熱を持った彼女の肌がキリトに振れる。キリトがアルゴを落ちないように掴んでいるところは太ももだ。だが今の死力を振り絞る彼にはそんなことを考える余裕などない。
いわば時限爆弾。この状況に馴れるか。あるいはふとしたきっかけで気が付くだろう。
「あっ」
気が付いた。キリトはアルゴに見えないように目だけを動かす。顔は動かさないからアルゴは見えない。ただおんぶしているわけだから、その首に彼女の細い腕がかかり。耳元で吐息が聞こえる。
(し、しまったあああああああああああ)
いまさら後悔する。恥ずかしさのあまりキリトはそのまま海に飛び込んでいきそうになったが何とか踏みとどまる。実は海水のある海の浅瀬を歩けばいいことに気が付けるかもしれないチャンスを自らつぶす。
(平常心、平常心だ)
無理だ。手をアルゴの太ももに絡ませつつ平常心になどなれるはずがない。一度意識したからにはもう遅い。彼はそこでまてよと思考を停止させた。
時折背中に当たる柔らかい感触は……
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「どっどうしたんダ!!? うわあああああ」
煩悩を振り払うためキリトはアルゴを乗せたまま走り出す。これをおぶったままいれば気が狂う。背中でアルゴが悲鳴を上げているがそんなことはどうでもいい。むしろそれが諸悪の根源である。
「お、おちル」
ぎゅっとアルゴがキリトに抱き着く。体中を押し付ける。車で言えばアクセルをかけたと同じことだ。キリトは真っ赤になって走り、砂を巻きあげる。
脱出のための探索など頭にない。この煩悩の袋小路から彼は逃げだしたい。
「と、まレ!」
あろうことかアルゴがキリトの肩を噛む。首を掴んでもいいがそれはしなかった。
「いたっ」
キリトがふらついた。倒れる。そうわかった。ただ砂浜にそのままぶつかると危ない。足に力を入れる。彼は身を傾けて海側へ走り出した。砂が柔らかくなる。足を取られる。
「うおっ」
キリトは身を投げ出した。そして頭から海水に突っ込んだ。
塩水が目に、鼻に沁みる。反射的に起き上る。伏せた体勢の彼の半身が海に使っていた。
「げほっげっほ。アルゴ、だ、だいじょうぶ……」
キリトはせき込みながら後ろを振り向いた。いない。彼は立ち上がって走ってきた浜辺を見渡す。どこに行ったと心が焦る。
「きーぼぉ」
後ろで声がした。顔を見なくても怒りを含んだ低さだとわかる。キリトはアルゴをおぶっていた。だから彼女を振り落としたのならば彼女は走ってきた線上にいなければおかしい。
だがキリトよりもアルゴが海側にいた。つまりそれは勢い余って彼女を投げ飛ばしたということだ。おそらく一瞬空を飛んだのだろう。
「ぶっぶじだったんだあ。よかったあ」
棒読みでキリトは言う。振り返らない。こそこそと浜辺に逃げようとする。その肩を掴まれる。小さな女の子の指が肉に食い込む。地味に痛い。
「どこに行くんダ? キー坊??」
さっきとは打って変わってやさしげな声が聞こえる。肩の手に力が入れてくるので怒りは解けていない。キリトは弁解する。
「わ、わざとじゃないんだ」
熱い空気の中で背中に冷たさを感じる少年。怒りの少女の姿が見えないだけ怖い。
肩が引かれる。キリトは仰向けに海に落ちた。
「うおっ」
急いで立ち上がるキリトの顔に水がかかる。
「げほ?!」
アルゴが手のひらに水を溜めてとめどなくキリトにかける。塩水が鼻に入ってせき込む。だがアルゴはやめない。一メートルも離れていないのにおもいっきり水をかけるから肌に当たるだけでも痛い。
「このオ」
「や、やめて」
すさまじく弱気な声でキリトが抗議する。元々彼が悪いこともあるし。投げ飛ばしたのも悪い。彼はたまらず逃げだした。水が足にかかって歩みは遅い。
彼らが会った時、アルゴは小さな矜持から逃げだしてキリトはそれ追っていったが。今度は立場が逆転する。少年が逃げ金髪の少女の追われる。浜辺に逃がしたら靴を履いているキリトの方が有利なはずだ。
「にがすカ!」
アルゴの体が飛ぶ。キリトは砂に水に足がとられて逃げられない。ぐっとアルゴが彼にとびかかって、たまらずキリトはたおれる。数センチしかない水面に頭から突っ込む。
「ぐええ」
アルゴがそのキリトの上にのっかかった。キリトは悲鳴を上げる。だがそれでも彼女の怒りは収まらない。馬乗りになりながらキリトの顔に手を回して、ひっかく。
「いっ」
痛い。切れてはいないだろうが熱い痛みが顔に残る。キリトは何とか逃れようともがく、アルゴは逃がすまいと体をのせながらキリトを押さえつける。だがキリトの方がアルゴよりも若干力が強い。
「…あうるご」
「きーぼおお」
真剣な表情で戯れる二人。もぞもぞと地味な勝負が美しい海で繰り広げられる。
キリトがうつぶせから仰向けになった。アルゴも負けじと彼のお腹に腰を乗せる。
だから、目が合う。
ぴたりと二人は動きを止めた。目があったまま小さく震えているのは一緒。アルゴの金髪から一滴の水滴が落ちて、浅い海に波紋を作りすぐに波にのまれる。
アルゴの肌は海水に濡れて、太陽を反射させている。健康的な締まった体が水をはじく。ごくりとキリトは息をのんだ。アルゴの顔赤い唇が小さく動いて、結局なにも言わない。
何も言わないのはキリトも同じだった。お腹の重みも気にならない。良くわからない感覚が彼を襲う。
キリトの腕が動いた。アルゴを包むように手をかけ、うなじのあたりで指を組む。アルゴは抵抗しない。だから彼が彼女を引き寄せるも容易だった。
アルゴがキリトの体に覆いかぶさる。おたがいの暖かさが伝わりあう。彼らは口を開かない。
しばらく、波の音だけを聞いていたかった。