墨が、落ちる。
地図に作られた点が、少しずつ広がっていく。その様を、皇甫嵩は遠い目をして見つめていた。
漢は、もう終わりかも知れない。そう思った。
良く、保った方なのかもしれない。党錮の禁があった。宦官の専横は歯止めが効かない。外戚もいて、もはや政はその体を成していない。
だが、己が育ち、己が守ったこの漢を、見殺しにしていいのか。いや、そんなことは許されない。許されるはずがない。
例え徒労だと笑われても、この身が滅んでも、守る。それが漢に生まれし、皇甫義真の使命だ。
地図には、黄色い布を巻いた信者たちの拠点が、墨の点で作られていた。それは今も、紙を食むように拡がっていた。
人が集う大通りの中、他人を掻き分けるように駆ける三人の男。その中央、小柄な男の腕の中には、少女が一人、抱かれていた。
「離して、ください!」
少女が声を上げ、小柄な男に抵抗する。細腕で胸板を押された。その細やかな反抗に、思わず頬が緩んだ。
「何、笑ってるんですか!離して!」
「いや、可愛いなと思って。」
笑みを浮かべたままそう返すと、少女は気恥ずかしそうに俯いた。元々、私は容姿にそれなりの自信があった。それが効いたらしい。
「何やってんだ、阿呆。」
懐かしく、それと同時に、焦りを思う声がした。これは、ちょっと不味いんじゃないだろうか。
突然、頭に衝撃が走った。視界が揺らぐ。足が地面から離れた。身体が、地面に突っ伏していた。
「お前、帰って来て早々何やってるんだよ。この女好きめ。」
「ああ、久しぶりだな、惇。今はその顔、見たくなかった。」
「私もだよ、操。」
曹操が抱えていた少女は、気付いたら夏候惇の腕の中にいた。そして少女は、夏候惇の顔を見て頬を赤く染めていた。おい、待て。そいつは女だぞ。確かに男みたいな性格しているが、確かに女だぞ。
「何でここに?」
「純だよ。兄が馬鹿しそうだから見てくれないかってさ。」
「だってよ、仁。責任とれよ、兄として。」
「なんで俺が。」
曹仁が不満気に声を上げた。連れてきた二人の内の一人だ。そして、もう一人。
「袁紹殿も、操の悪ふざけに付き合われる必要はありませんよ?」
袁紹は少しばつが悪そうな顔をしていた。しかし惇は相変わらず随分と世話焼きな女だ。普通、他家の御曹司に説教なんてするのか。
「偶にはいいじゃないか。こうして遊ぶのも悪くない。」
「遊ぶ相手を考えてくだされ。操のようなろくでなしより、ましな男は居るでしょう。」
「ろくでなしって、お前な、もうちょっと言い方があるだろ。」
「うるさいぞ、駄目男。」
右手に持っていた竹簡で頭を叩いてきた。この女、腹立つ。惇の方が背が高いから、随分と叩きやすそうで非常に恨めしい。
詮無い言い争いをしていたら、遠くで誰かが走っている音が聞こえた。忘れていた、追われていたのだった。捕まると面倒だ。
「おい、惇。その娘ちょっと貸してくれ。」
何か言いかけた夏候惇から、無理やり少女を引っ手繰る。そして、そのまま袁紹に渡した。
「じゃ、後は頑張れよ、本初。」
「え?」
呆けた声を上げる袁紹に、追ってくる奴を指さした。すると、呆気にとられた顔が、徐々に焦りへと変わっていった。
「お前、後で覚悟しとけよ。」
そう吐き捨てて、袁紹は少女を抱えて逃げ出した。それを手を振って見送る。さらばだ、本初。心の奥底から、無事を祈っている。
「下種か。」
簡潔かつ鋭く惇に言われた。
「確かにその通りだが、ああした原因はお前にもあるぞ。」
「共犯にしようとするな。」
「その竹簡、俺宛てだろ。」
この女は良くも悪くも糞真面目だ。俺の物以外で俺の頭を叩いたりはしないはずだろう。
夏候惇の顔が一瞬だけ驚愕に染まった。解りやすい奴だ。
「ほら、寄越せよ。」
何か複雑な顔をしながら、竹簡を手渡してくる夏候惇。その顔で、内容の検討がついた。
竹簡を手に取る。一瞬だけ、夏候惇の手に力が入るのを感じた。
「お前、先に読んだな。」
竹簡を留めていた紐を解きながら、夏候惇にそう声をかけた。
「悪いとは思っている。でも、差出人が。」
夏候惇の声音は、少し淀んでいた。躊躇するような、そんな声音だ。恐れているのだろうか。
「別に責めはせんさ。」
悪い予感がした。これを開けたら、何か戻ってこれないような、そんな予感。だが、それは振り切るしかない。
努めて平静に、竹簡に目を落とした。其処には、皇甫義真の名が記されていた。
「曹操。君は、董卓を知っているか。」
皇甫嵩の自室に着いて早々、歓迎の挨拶も無しに質問を受けた。
「私の、涼州にいた頃の知人でね、その男から贈り物が来た。」
友人、とは言わなかった。それが気にかかった。
皇甫嵩はかつて涼州で異民族討伐に従事したことがある。その時に知り合ったのだろう。
「知らんか。まあ、そこまで知れた名でもないからな、あれは。」
「はい。どんな男ですか。」
「物よりも人か。」
董卓からの贈り物のことを言われているのだろう。事実、董卓という男のことは気になった。
皇甫嵩は少し、笑ったような泣いたような、複雑な表情をした。
「あれはな、何処かが、おかしかった。」
「狂人、ですか?」
「そうではない。狂ってはいないのだ。だが、人とは思えん。獣に近い。」
獣は智ではなく、血で動く。そういう類の人間なのだろう。
「で、その獣殿からの贈り物は何ですか?」
互いの表情が硬くなっていたので、少し冗談めかしてみた。が、皇甫嵩の顔は動かなかった。
「曹操、人の死に様を見たことはあるか?」
「唐突ですね。」
即ち、死体を見せられるのだろう。それが、董卓からの言葉だ。殺した獲物で己の意を伝える。まさに獣の所業だ。
返答はしなかった。それが、答えだ。
「どこですか?」
問うと、皇甫嵩は少し待てと言い、自室から出ていった。一人、残されてしまった。
ふと、文机の上にある紙が目に入った。地図のようだ。だが、至る所に、黒い斑点や円が書かれている。
紙は貴重な物だ。それに書かれた地図は、相応に正確なものだとみていい。それに書かれた黒の意味する物とは、一体。
「待たせた。」
皇甫嵩の声がした。何が表れてもおかしくない。獣の食い散らかした物があるのだ。覚悟をもって振り返った。
予想は、悪い意味で裏切られた。まず死体ではなく、生者であった。だが、死にかけの生者だ。
生者には腕が無く、また眼球も無かった。傷口は焼いて止血したようで、醜く腫れ上がっている。口には轡を嵌められ、僅かに呻き声が漏れていた。
皇甫嵩は死に様と言っていた。その意味が、ようやく理解できた。
「馬元義という、らしい。」
口は利けないので、名乗ってはいないのだろう。
「太平道の教徒だ。」
太平道。知っている。今、各地で群れている道教の一種だ。餓民や流れ者も取り込んで、多数の教徒を抱えているという。
不穏な匂いがした。何故、一教徒がこのような惨めな姿にさせられているのか。理由は、限られるだろう。
「反乱ですか?」
推測で、皇甫嵩に聞いてみた。すぐに、苦い顔が返ってきた。当たってしまったか。
確かに、乱を起こす気持ちはわかる。だが、そんなもので漢を殺せると思っているのだろうか。
いや、逆か。乱が成功すれば、それ即ち漢が死んでいた、ということだ。
「黄色い布を目印に、各地で徒党を組んでいるという。」
五行において、漢は火の赤とされている。それを消すのは、黄色い土だ。
黄巾は、一斉に熾すのだろう。火を消す、黄色い流砂を。
「見たまえ。」
皇甫嵩は机にある真黒な地図を指さした。
「黄巾の、おおまかな勢力図だ。黒いところに潜伏しているらしい。」
思わず、声が漏れた。冗談だろう、あの黒総てが、黄巾だと?洛陽の近くも黒いではないか。
改めて見ると、青州、豫州は黒で埋め尽くされていた。冀州や荊州北部といった都市にも手が伸びている。
「私は、陛下にこの事実総てを上表してくる。」
「して、私を呼ばれた理由は?」
「君にも、黄巾討伐の一翼を担ってもらいたい、北門鬼殿よ。」
「昔の話です。」
曹操は北門の尉(いわゆる隊長)を務めていたことがある。鬼とはその頃に呼ばれた愛称の様なものだ。どうにも、厳格に過ぎたらしい。だが、その名のお陰で北門は今も比較的平和だ。
「返事は待たん。事は一刻を争う。出来る限り、早急に決めてくれ。覚悟が出来たら、またここに来い。」
そう言い残し、皇甫嵩は去っていった。
懐かしい匂いがした。北門は、やはり落ち着く。昔なじみも多く、歩いていて心地が良いのだ。
「お久しぶりです、曹隊長。」
「秦邵か、変わりはないか?」
「はい。隊長の作られたこの北門、壊させるわけにはいきませぬ。」
秦邵は、曹操が北門尉をしていた頃の副官だった男だ。堅実に仕事をこなす、信を置くに十分な男だった。今も新しい尉の下で、副官として励んでいる。
「そういえば、夏侯淵殿と曹洪殿が狩りから帰ってこられました。鹿を捕まえてましたよ。」
「本当か?どこに行った。俺を置いて肉を食うなど、許さんぞ。」
「大通りを南に。」
「そうか。お前も来るか?」
「お誘いは嬉しいですが、まだ仕事が残っております故。」
「残念だ。終わったらお前も来いよ。」
「了解しました。では、失礼します。」
礼をとった後、秦邵は去っていった。丁寧な男だ。
曹操は、西にやや傾いた日を見ながら、南へと歩いて行った。
道行く人に、鹿を連れた男女がいなかったか聞きながら歩いた。すぐ、南の飯屋に入っていったと教えてくれた。そこは、曹操が昔通っていた店だった。
「懐かしいな。」
思わず、呟いた。帰郷の念が胸を焦がす。詩が湧きそうだった。
だが、途切れた。皇甫嵩が言っていたことを思い出す。俺は一体、どうするべきだろうか。
陰鬱な気分を振り払った。今は、考えるのは止めておこう。
飯屋に、足を踏み入れた。すぐに、厨房で赤黒い血を付けた夏侯淵と曹洪を見つけた。
「おう、久しぶり。」
一瞬呆けた顔をする二人。特に曹洪はただでさえ大きい目が、さらに見開かれていた。
「あれー、操じゃん!そっか、帰って来てたんだっけ?」
曹洪が此方を指さしながら言ってきた。
「変わりないか?」
「うん。相変わらず惇は小煩くて、仁は馬鹿で、淵は狩りばっかりしてるよ。」
「お前は相変わらず小さいな。」
冗談めかして言った曹洪に、夏侯淵が割り込んだ。身長に触れられたのが気に食わなかったのか、捌いていた鹿の臓腑が夏侯淵の顔に飛んできた。
「何すんだ、この野郎!」
「野郎じゃありませーん、乙女でーす!ざまー見ろ!」
舌を出しながら夏侯淵を煽る曹洪。相変わらず、愉快な連中だ。
「おい淵、洪。鹿、俺にも寄越せよ。」
「ああ、もちろん。」
「その代わり、手伝ってよ。」
鹿を突きながら言う曹洪。元からそのつもりで来たのだ、何も問題は無い。袖をまくり、曹操は厨房に足を踏み入れた。
「操、なんか悩んでるでしょ?」
鹿の解体を手伝っていると、急に曹洪が聞いてきた。
「嘘吐いたって私には解るんだからねー。付き合い長いしさ、適当に下呂っちゃいなよ。」
曹洪は曹操を見ず、鹿をばらしながら喋りかけていた。
口の悪い女だ。だが、この口調こそ、彼女なりの優しさだ。どんな重い話でも、軽く流して受け入れてやると、言外に表現していた。
皇甫嵩が言っていた、黄巾征伐には仲間が必要だ。曹操一人では、何も成し得ない。だが、彼女らを戦場に駆り出して、その命を背負う覚悟が、俺にはあるだろうか。
「淵、ちょっと手貸してー。筋が切れないや。」
「はいよ、ちょっと待ってな。」
二人は相変わらず鹿を捌いている。その光景が、途方もなく幸せなものに見えた。
そうだ、俺は守らなければならない。漢ではない。彼らを、彼女らを。その為なら、俺の命など惜しくはない。痛烈に、そう思う。
今、俺が起てば、少しでも、ほんの少しでも、俺の愛する人たちを守れる可能性が増えるのだ。
だが、それには、人が必要で、俺が頼れるのは、即ち愛する人だけで、また頭の中で最初に戻ってきてしまうのだ。
俺は、どうすれば良い?
「また、悩んでる。」
気付いたら、曹洪の大きな瞳が曹操の顔を覗き込んでいた。
「言いなよ。私たちの間で、隠し事は無し。だって私たちは、家族でしょ?」
家族。その言葉が、胸に沁みた。
「血の繋がりは無いけどさ、操の家族なんだよ、皆。だから、ね?」
優しく、促された。情けないことに、それに甘えて、ようやく切り出せた。
「なあ、俺のために、死ねるか?」
曹洪の目が見開かれた。だが、それはほんの一瞬だった。
ゆっくりと目を閉じる曹洪。手が伸びてきた。柔らかい掌に、顔を包まれた。
「もちろん、家族だからね。だから、そんなに悩まないで。」
掌には、少し血がついていた。その微かな血臭と、濡れた掌が、曹操の頭を程よく冷ましてくれた。
「で、具体的に何して欲しいの?」
焼きあがった鹿を頬張りながら、曹洪が聞いてきた。
「一応言っとくけど、操のために死ねるけど、死ぬつもりは一切無いからね。」
「当たり前だ、死んでもらっちゃ俺が困る。」
「おい洪、食ったまま喋るな。」
「別にいいじゃんよー、固いこと言わないで淵。」
相変わらず鹿肉を咀嚼する曹洪。食べ終わる気配が無いので、しばらく放置することにした。
「淵、お前の答えを聞いていなかったな。お前は、俺に命を預けてくれるか?」
夏侯淵と目が合う。鋭い瞳が、熱を帯びたように見えた。
「無論。」
それが、答えだった。それ以上は必要ない。
「あー、やだやだ、格好つけちゃって。男の友情って奴?見てて恥ずかしいわー。」
気色悪い笑みを浮かべながら、曹洪が茶化してきた。なんともだらしない女だ。
「相変わらず仲がよろしいことで、羨ましいですな、隊長。」
入口から声をかけられた。曹操のことを隊長と呼ぶ人間は一人しかいない。
「なんだ秦邵、来たのか。」
「ええ。仕事が終わったら来る、と申し上げたでしょう。」
そういえば、そんなことを言っていたか。
「操、俺たち置いて、何うつもりだ?」
「仁。」
秦邵の後ろには、夏候惇と曹仁もいた。
陽気に笑う曹仁に比べ、夏候惇は明らかに曹操を心配そうに見ていた。
「あのさ、操。」
話しにくそうに口を開ける夏候惇。何を聞きたいかはわかる。なら、此方から言ってしまうべきだろう。
「皆、聞いてくれ。」
空間が静まった。
ここに集った曹操の家族たち。その一人一人に目を遣った後、堂々と口を開いた。
「俺は、戦場に行く。」
皆の表情が驚愕の色に染まった。だが、ただ一人、夏候惇だけは、心配そうな表情をさらに深刻にした。
「皇甫嵩殿直々のお誘いだ。従わないわけにはいかん。だが、勘違いしないでほしい。」
一呼吸置いた。そう、これが、曹孟徳の戦う理由。皆と共に、明日の朝日を笑って見るために。
「俺は、漢などではなく、皆を守るために戦う。それが、俺が戦う理由だ。俺の生きる理由だ。」
声に出すと、不思議と勇気が湧いてきた。そうだ、俺ならやれる。俺が、どんなことをしてでも、皆が平和に暮らせる天下を作ろう。
一瞬の静寂の後、曹仁が動いた。そして、曹操の隣に立ち、卓の上に瓶を置いた。微かに酒の匂いがする。
曹仁が手招きをして、夏候惇と秦邵も卓を囲む。すると、曹仁は瓶を開け、中の酒を一口飲んだ。そして、隣に立っていた夏侯淵に手渡す。
「俺たちは何だ?操の家族だろう?」
夏侯淵が飲み、次は曹洪。秦邵へと、皆が少しずつ酒を飲んでゆく。
「確かに血の繋がりは無えがよ、それでも家族なんだ。」
秦邵へと、皆が少しずつ酒を飲んでゆく。
「そいつが命かけて俺たちを守るつってんだ。」
曹仁が啖呵を切っているうちに、酒は夏候惇まで運ばれた。
「なら俺たちも命はって操守るのが筋ってもんだろう?」
不安そうに曹操を見る夏候惇。だが意を決し、酒を飲む。そして、最後の一人である曹操に手渡した。
「行こうぜ。俺たち皆でよ、また明日、笑って生きようじゃねえか。」
曹仁が笑って此方を見る。飲め、と顎で促してきた。
「皆、ありがとう。」
もう一度、全員の顔をゆっくりと見まわした。皆、笑顔だった。夏候惇の顔にも、もう曇りは無い。
「曹孟徳、貴殿らの命を預かる。」
瓶を呷り、残った酒を総て飲み干した。
裏話
曹操「なあ仁、あの酒めちゃくちゃ旨かったんだけど、高くなかったか?」
曹仁「べらぼうに値が張った。正直ちょっと後悔してる。」
夏候惇「台無しだな。」
夏侯淵「台無しだ。」
曹洪「台無しだね。」
秦邵「台無しですな。」
曹仁「うるせー!おまえらじゃぶじゃぶ飲みやがって、くそー!」
曹操「台無しだな。」
曹洪「今回短くない?」
曹操「作者曰く死ぬほど苦悩しているらしい。」
曹洪「死んでないから大丈夫だね。」
曹操「確かに。」