いつの間にか眠っていたわたしは、ベットに横になった状態のまま目を開け、少しの間惚けていた。夢のせいで懐かしい思い出に浸っていたのだ。クリスを好きになったあの日の事を……。
わたしはつい、『クリス』と彼の名を呟いてしまっていた。瞳を閉じ、再び名を呼ぶ。そうすると、不思議と心が温かくなった。
──クリス、貴方は無事なのかしら?
再び目を開けてゆっくりと上半身を起こす。辺りに視線を流し、シャワールームへと目をやる。
──体を流したい。
ベットから降りてシャワールームの扉を開けた。一応シャワールームを集中して見るけど、カメラが無いことに少しだけホッとはした。……でも、盗聴器を仕掛けられている可能性はあるだろう。だけど気にしても無意味。取り合えずはシャワーを浴びたかった。
わたしはシャワールームの扉を閉めて、着ているものを脱ぐ。いくら慣れてきたとはいえ、一旦実験が終ったのなら、まともな服に着替えたいものだ。そう当たり前の事を願いながら、わたしはシャワーの蛇口をひねった。
浴び終えた後、備えられていたバスタオルで身をくるんで扉を開ける。……誰かの気配がして、咄嗟にわたしは身構えた。
「ご、ごめん!」
誰かと思えば、入口側で背を向けながら謝るネイサンがいた。
「そ、それ新しい着替え!」
ネイサンが背を向けたままで指を指すのはベットの上だった。その上には、やっとまともらしい衣服が置かれている。わたしはそれを奪い取る様に掴むと、そのままシャワールームへと入って扉を閉めた。
服はグレーのタートルネックにジーンズだった。久し振りに着る普通の服に何故だか戸惑い、微妙な違和感を感じつつもわたしは、嬉しさを噛み締めながらそれに着替え終えた。シャワールームから扉を開けて出れば、ネイサンはまだ背を向けたままだった。
「……まだいたの?」
わたしの声にやっと振り向いたネイサンは、服に着替えたわたしを見て笑顔になった。
「普通の格好だとさ、なんかいつもと違って見えるね」
そんなネイサンに何も返さず、わたしは背を向けてベットの上に座り、タオルでまだ濡れている髪を拭いていた。いつまでもこの部屋に留まるネイサンに、まだ何か用なのかという様な顔を向ければ、突然目の前に何かをつき出された。よく見るとそれは、可愛らしいラブラドールの写真だった。
「可愛いだろ?」
無言で写真を手に取り黙って見つめるわたしに、ネイサンは「あれ、興味ない?」と、乾いた笑いをする。わたしはと言うと、何故唐突に犬の写真を見せられたのか、意味がわからなかった。だけど、その写真から目を離す事はしない。
「ラルフって言うんだ。少しヤンチャでね、手は焼くけど、コイツがまたかわいくてしょうがないんだ」
ネイサンは愛犬との話を色々と語り始めた。わたしはそれを黙って聞いている。……話の合間には、家族の事も話に出してきた。
「ありがとう」
楽しそうに話ていたネイサンは、急に話を中断したかと思うと、今度は突然にお礼を言い始めた。その声がとても悲しく切なげで、わたしはつい顔をネイサンに向ける。
「キミに話を聞いてもらえるとは思わなかったよ」
ネイサンの表情はいつもと変わりなく、笑顔のままだ。
──何かあったの?
訊いてみれば良いのだけれど、わたしは敢えて訊かなかった。
「……わたしの家にも犬がいたわ。ゴールデンレトリバーよ、わたしが三才の時にやって来たの」
わたしがネイサンと会って初めてこんなに長い、しかもわたしから話しかけた事に、ネイサンは驚いた表情をしている。
「いつも一緒だった。勉強で忙しい日々の最中でも、片時もわたしの傍を離れなかった。だけどある日、わたしは家を出なくちゃいけなくなって、とても残念だけど、遠く離れて暮らしたわ。初めは凄く淋しくてしょうがなかった筈なのに。忙しい日々のせいですっかり気にも止めていられなくなっちゃって……」
ネイサンから顔を逸らし、わたしは愛犬の顔を思い浮かべた。
「……あんなにいつも一緒だったのに。病気で死んじゃったって連絡が来るまで、わたしはあのコの事を考えもしてあげられなかった。人って、なくした時にやっと気付くんだわ」
手に持っていた写真をネイサンに返して、「会えるなら、もう一度会いたいわね」と彼に背を向ける。きっとネイサンは何かを言おうとしたのかもしれない。だけど、彼は何も言わずに、そのまま静かに部屋を出て行った。
話すんじゃなかった。こんな場所で普通に、しかも大事なあのコの話なんか。まともな会話なんてしないほうが良いに決まってる。……ネイサンは、多分、良い人だろう。こんな異常な場所で、わたしのような人間に対し、懲りずに嫌な顔をせず話しかけてくれるのだから。
突然犬の話をしたのは、暇をもて余しただけじゃない、あの様子だと、きっと悲しい事があったんだろう。
──そうだ。彼を、彼をわたしの世話係から解放させてあげよう。
でも……、あの男が黙ってネイサンを辞めさせる筈がない。今までずっとわたしに話しかけていたネイサンに何もしないのは変だった。カメラも盗聴もされているのだから、絶対知っているのに。きっと、何か仕掛けてくる。ネイサンを巻き込んで……。
わたしは考えた。次に彼が来たら、此処から一刻も早く出るように伝えよう。
──でも、どうやって?
それから何時間か経過した頃、やっとネイサンがやって来た。
「やあ、……これ、食事」
まだ少し元気がない様子のネイサンは、手付かずのトレーと新しく持ってきた食べ物の入ったトレーを入れ換えて、そのまま立ち去ろうとした。
「ネイサン」
初めて彼の名を呼んだ。彼はゆっくりと振り返る。
「……今、僕を呼んだ?」
「ええ、呼んだわ」
本当はこんな風に彼を呼ぶのは仕方がなくとも嫌だった。だけど、これしか方法が無い。わたしはベットに座ったまま、ネイサンに手を伸ばした。『わたしの手を取って』と願う、眼差しを彼に向ける。
「ど、どうしたんだい? 急に、変だよ……」
戸惑いを隠せないネイサンは、「名前を呼んでくれたのはうれしいけど」と、僅かに笑いながら言った。
「……立てないの、立ち上がらせて?」
──お願いネイサン。
「大丈夫?」
そう頼めばネイサンは、持っていたトレーを置いて、慌ててわたしのもとへと近寄って来た。ネイサンが目の前に来たと同時。わたしの手を取ろうとした彼の腕を、わたしの手前に素早く引き込むと、彼の首に両腕を回して抱きついた。
「え、え! ちょ、ちょっ……」
勿論驚いただろう。もの凄く動揺するネイサンに抱きついたのだ。力を入れすぎない様にしっかりと抱きしめ、わたしは目を閉じて彼の耳元で静かに「ネイサン、こんな事をしてごめんなさい」と告げる。
カメラにはネイサンの背中側が映っているだろうが、わたしは自分の腕によって口元が隠れているため、口を読まれる事はない。話声は聴こえない様に話す。
「黙って聞いてほしいの」
ネイサンは変に思っただろうが、素直にゆっくりと頷いてくれた。
「今すぐ、此処を、この研究所を出るのよ」
それを聞いて、ネイサンに緊張が走ったようだ。心臓の鼓動が早くなった。
「……この声は聴こえてない。今から言う通りにして逃げれば良いの。わたしが具合を悪くしたという事にして、まずこの部屋を出て。実験室にわたしを連れて行った後、そのまま待機するふりをして、そうね、トイレにでも行くと言えば大丈夫。それで、そのまま何もなかったようにこの研究所を出れば良いわ」
どうしてと、ネイサンも聴こえない様にわたしに問う。
「どれくらいの大金で貴方が雇われたのかは知らない。……でも、その大金を使う前に貴方は殺される。だから、逃げるの。此処での出来事、場所を全て忘れて」
「キミは……? キミも逃げれば」
「わたしは、逃げない」
「何故?」
「知らない方が良い。わたしの事も忘れて、自分の事だけを考えて。……今までありがとう」
そっとネイサンから離れた。でも、ネイサンはわたしをじっと見つめたままだ。
「OK……」
わたしを支える様に二人同時に立ち上がり、ネイサンと共に部屋を出る。見張りがいるかと思えば、不思議と誰一人いなかった。まさかバレてしまったのかと焦りはしたけれど、途中まで来ても何事も起こりはしなかった。実験室までもう少し。だったのに……。
「ごめんよ。僕は全部知っているんだ」
声のトーンを落とさず、急に口を開いたネイサンに、わたしは驚いて立ち止まった。
「キミがどんな実験をして、今どんな状態であるのかを」
わたしの心がざわりとする。
「……そして僕は、初めから死ぬ事を了承して此処にやって来たんだ」
何を言っているのだろうか。初めから死ぬ事をわかって此処にいるとは。
「僕がキミの実験を受ければ、僕の母の病気が治せるんだ」
「じ、実験……?」
一体何の実験だというのか。ネイサンの目からは涙が溢れ出していた。
「でも、もう母は死んだ。大金なんて、必要なくなったんだ」
「ネイサン……」
「今更此処を逃げ出した所で母が甦る筈もない。それに、この施設での秘密を知ったんだ。タダでは出られないさ」
虚ろぎ、諦めた表情のネイサンは、わたしを見つめながら名を呼ぶ。
「ダイアナ、キミの名前も知ってる」
唖然とするわたしの腕を引き、ネイサンはわたしを抱きしめた。
「キミなんて知らなければ良かった。……そしたら、こんなに時間をかけずにすんだ」
……ネイサンの唇が、わたしの唇を優しくふさぐ。
「な、何を…!」
わたしは目を剥き、急いでネイサンを押し退ける。押し退けられた反動のせいで、ネイサンは床へと倒れ込んでしまった。
「実験だよ。これが、僕の」
悲しい笑顔でわたしを見上げたネイサンの眼差しを、ただ見つめ返す事しか出来ない。
「うっ! ……ぐあっ!」
突然胸を押さえて苦しむネイサンに、わたしは何かに気付いて口元を押さえる。わたしが引っ掻いた男は、醜く崩れた。それならば、わたしの全ては────!
「ネイサンどうして!」
彼は何度も床に転がりながら顔を歪ませ呻く。
「これ……は、実験ぐ、さ……!」
背中や手足がボコボコと何かによって蠢き、思わずわたしは悲鳴を上げた。
「あが……! はじめ、から、しぬ、つもっ、りだったんだよぉおお! かくごは……してたぁあ」
バキバキと骨や筋肉が音を立ててねじ曲がり、ネイサンを醜く変化させていく。
「ああぁ、こんな……こんなことって、ネイサン、ごめんなさい!」
わたしは恐怖と悲しみで涙が溢れた。ネイサンは呻く声を更に上げ、残り少ない僅かな力でわたしに手を伸ばす。
「ダイアナ……くがああああああアアァァ!!!」
もうネイサンの顔は、以前のものとは違っていた。醜くくグロテスクに変貌した彼は、手を伸ばしたまま、ゆっくりと溶ける様に崩れ落ちた。その様子を何も出来ずに見届けた後、わたしはぺたりと崩れる様に床に座り込んだ。
「……実験は、どうやら上手くいかなかったようだ」
後ろからゆっくり表れたのはウェスカーだ。
「何で、こんな酷い事……」
わたしは両手を握りしめる。
「この男が望んだ事だ。金欲しさにお前の実験相手になった。だだそれだけだ。やはりお前の中のウイルスは強力過ぎて不安定だな、しかし、速効性は捨てがたい。直接ではなく抽出して安定させれば良いが………」
目の前の光景が、酷く自分に突き刺さる。
──わたしはもう、本当にただの人間じゃなくなってしまった。
こんな風に人をバケモノにしてしまう、異常な存在になってしまった。わたしは、わたしは……。ざわざわと、わたしの髪の毛がまた伸びた。床に流した涙が、ポタポタと落ちるさまを見つめながら項垂れていたわたしに、ウェスカーは「立て」と命令する。この男の命令なんて聞きたくもない。暫くそのままを貫いた。
「……ヴィニーと言えば、お前は立つか?」
思わず目を見開いてウェスカーを見上げた。わたしの妹の名前を、何で。ウェスカーは鼻を鳴らして向きを変え、何処かへ歩き出した。 まさか、まさか妹を……。わたしは今にも破裂しそうな程の鼓動に目眩を覚えつつ、慌ててウェスカーを追った。