あの男がこの部屋を去ろうとするまで、わたしは眠りはしなかった。窓側の椅子に身を委ねるように深く座りながら、昇る朝日を窓越しから浴びていた。
「ご褒美だ」
部屋から出ていく前、ウェスカーはそう言ってわたしに携帯電話を渡してきた。
「いらない」
「やるんじゃない、貸してやるんだ。かけたい相手にかけても良いぞ」
わたしはウェスカーを見上げた。薄い笑みを見せ、漆黒のサングラスの向こうは何を見つめ、何を考えているのか……少しも読めやしない。渡された携帯電話に目を向け、わたしは暫く考えた。手が僅かに震える。ゆっくりとボタンを押し、かけた先は──家族の、家の電話だった。
呼び出し音が耳に当てた携帯電話から聞こえると、わたしの心臓は破裂しそうになった。
『……はい』
──耳に馴染んだママの声だ。元気そうな声に、堪らず心が痛んだ。
『声が聴こえないわ。どなたかしら?』
懐かしいママの声に、何度も何度も喋り返そうとはしたけれど、わたしは何も言えずにそのまま電話を切った。
「いいのか?」
「もういい……」
携帯電話をウェスカーに返し、わたしは虚ろに窓側の椅子に座り直す。
「折角のご褒美も無駄だったな」
「……そうね」
まだ、手が震えて止まらない。わたしの様子を嘲笑いながら、背を向けてウェスカーは言った。
「暫くは此処にいてもらう」
「見張りは置くの?」
「必要ない」
わたしが逃げ出さない、何も出来ないだろうという、余程の自信があるのだろう。……けれど、もうそんな事どうでも良い。
この広い部屋で一人になって数時間。わたしはやっと椅子から立ち上がって、ベッドの横に備えてある電話の受話器を手に取った。
「部屋を替えてほしいの……」
フロントに電話をし、部屋を替えてもらった。先程まで居た部屋にはいたくないし、何より、あまり高い場所が得意じゃないわたしは、二階の部屋に移動した。わたしにはこのくらいの高さが丁度良い。ついでの様に朝食を進められたけれど、それは断った。……食欲なんて、もう一生わかないのかもしれない。
部屋の前に見張りもいないこの状況は、早く逃げろと言わんばかりの自由さがある。
──だけどわたしは逃げない。
逃げ出すのはきっと簡単だ。……でも逃げ出したところでどうなるというのか。盾にされた家族に万が一の事があれば……。それに、普通の人間ではなくなったわたしが、普通の暮らしを求めても良いのだろうか。そうだ、良い筈がない。
──クリスには知られたくないわ……!
わたしはウェスカーの思惑通りに、 この地でおとなしく待つしかないのか。
気分を変えたくて、前日の夜に行った一階のテラスに脚を運んだ。夜で気づかなかったけれど、周りは手入れの届いた庭が広がり、南国が漂う木々が目に付く。上の階から見えた海の微かな匂いが、わたしの鼻を掠める。
「やあ」
声のした庭の方へ目をやった。
「あなた、昨夜の……?」
声からして、昨日の夜に此処で声をかけてきた男らしい。
「どうしてまた来たの? 此処には近付かないでって言ったのに」
ウェスカーはいないが、わたしは辺りを警戒しながら改めて男を見つめる。
──そんな、まさか……。
とても驚いた。昨夜は気付かなかったけれど、この男はどことなく、彼に……、クリスにそっくりだった。
「オレの顔に何かついてる?」
「い、いいえ………」
わたしは慌てて目を反らした。
──似てる……。あの人にそっくりだわ。
「何しに来たのかは知らないけれど、忠告してるのよ」
クリスに似ている彼は、周りをきょろきょろとしつつ、気にもせずに庭からテラスに入って来た。
「そういえば名前がまだだったね。オレはジャック、ジャック・ライリー。バカンスでこの島に来たんだ」
「島……?」
また島か……。はあ、と溜め息を漏らすわたしに、ジャックと名乗った彼は、「良ければキミの名前が知りたい」と言い出した。
「訊いてどうするの?」
「キミの名前が知りたいだけだ」
真っ直ぐにわたしを見つめてくるジャックに、わたしはドキリとした。彼はクリスではない。……会いたいと、どんなにか願ったあの人ではないんだ。
「帰って」
わたしはそう言って、直ぐにもホテルの中へ戻った。でも次の日の午後、またジャックがテラスの庭に現れた。
「どうして来たの………」
「わからない、キミは?」
わたしにもわからなかった。ジャックが現れるのを待っていたのか、『来るな』と言う為だけにこのテラスに脚を向けたのか。
「キミがこのホテル一帯を貸しきったんじゃなかったら、誰が? キミの友達、家族?それとも恋人?」
「……あなたには関係ない。命が惜しかったら、近づかないことよ」
「何? そんなに危険なお金持ちの彼なんだ?」
冗談だとでも思っているのか、ジャックは気にもとめていない。
次の日、また次の日もジャックは庭に現れた。会わなければ良いのに、わたしは毎日テラスへと向かい、ジャックと少しの言葉を交わす。交わす言葉はたわいのない話だ。ほぼ一方的にジャックから話しかけてくる。それにまともに答えはしないのだけれど……。
「……ダイアナ」
はっとして我に返る。半月ぶりにウェスカーが戻って来たにも関わらず、わたしは部屋の窓側からテラス側の庭に目を向けながら、意識を別へと飛ばしていたらしい。けれど別に焦りはしない。ウェスカーが戻った目的はただ一つだけだから。
「久し振りにゆったりと時間を過ごせたようだな」
行為の後の抽出後、気だるさにベッドに身を委ねたままのわたしを見下ろしながら、ウェスカーが言った。返事はしない。話したくはない。瞼を閉じてクリスの顔を浮かべながら、わたしはジャックの顔も浮かべていた。
心此処にあらずだった暫く、いつの間にやらウェスカーが部屋からいなくなっていた。
──用が済めばいなくなる。
まるで自分は家畜じゃないか。必用なものを搾り取る作業を行われ、済めばまた放置。必用になればまた搾り取りにやって来る。わたしはそれを拒否することも諦めて、されるがままの日々を送ってる。
──クリスが知ればどう思うの? ジルが知れば悲しむ?
嫌だ。知られたくない。こんなわたしなんて知られたら、きっと彼等に軽蔑されてしまうんじゃないだろうか。
「顔色が悪いようだけど、大丈夫?」
気付くとわたしはテラスにいて、突然にジャックが現れる。
「まだいたのね……」
「バカンスを楽しんでるからね。キミは?」
「楽しんでいる様に見えるのかしら?」
テラスにあるベンチから席を立ち、わたしはジャックに背を向けた。
「キミを囲ってるヤツを見たよ」
わたしは、急いでジャックに振り向いた。
「あなたっ……顔見られてない!?」
「え? 見られてないと思うけど。前にさ、此処にこっそり入って来る途中で見たんだ」
「そ、そう……」
姿を見られていなくて良かったとは思ったけれど、万が一でもジャックを見られでもしたら……、気が気でない。
「お願いよジャック。此処にはもう二度と来たら駄目。……直ぐにでも、この地を発って」
再び背を向けて去ろうとした時、わたしの手首をジャックに掴まれた。
「離して」
「嫌だ。発つのなら、キミも一緒に」
わたしの心が大きく揺れる。……彼は、彼は違うのに。
「いいえ。わたしはあなたとは行かない」
「何故? とても辛そうなのに? ……何か弱味でも握られているのか? じゃなきゃ、こんなに隙だらけの状況で逃げ出さない筈がない」
「あなたには関係ないわ」
「オレは……!」
ジャックに背後から抱き締められた。とても暖かで、優しい力がわたしを包む。
──でも違う。彼はクリスではない。
「……またキミに逢いに来る」
ぬくもりがそっと消えた。振り返るとジャックは、テラスから足早に去って行った。それから3日、彼は現れなかった。
部屋の窓から、テラスを覗く時間だけが過ぎていく。翌日の朝、窓に何かが当たる音がして、わたしは反応する様に外を見た。
──ジャック……!
急いでテラスへと走り出し、ジャックのもとへ急いだ。
「……この地を発とうと思って」
「そう……。なるべく早い方が良いわね」
「オレと、オレと一緒に逃げよう!」
わたしを見つめるジャックの表情は、真剣だった。
「無理よ……」
「そんなのわからない!」
クリスと似た顔で向けてくる想いは、今のわたしには眩しく、とても辛かった。
「オレは……、オレはキミを人目見たときから!」
「やめて!」
わたしが顔を伏せるより早く、ジャックに抱き締められる。
「キミが好きだ」
ジャックに抱き締められていた腕の力が緩む。わたしは彼と見つめ合った。近くで見ても、彼はクリスに似ていた。ゆっくりとジャックの顔が、わたしの顔に近付いてくる。
──いけない!
「────やめて!!」
咄嗟の判断で、わたしはジャックを押し飛ばした。でも力が入り過ぎてしまったせいで、彼は勢い良くテラスから庭側へと転げ落ちる。
「ジャック!」
わたしは慌ててジャックの側に寄った。
「本当にごめんなさい! 大丈夫?」
幸い、高さは階段の一段くらいしかなかった為、ジャックは怪我もなく無事な様子だった。ジャックは少し苦笑いをしつつ、「大丈夫だよ」と言ってわたしを見る。
けれどその瞬間、ジャックの表情は一気に冷え込むように怯えた顔に変わってしまったのだ。
「な、何で傷が……?」
焦りのせいで慌ててしまったのだろう。近くにあった木の小枝の先がわたしの頬を掠め、切り傷を作った。でもその傷口が、ジャックの目の前で塞がり癒えて、消えてしまったからだ。
その時見せたジャックの目は、わたしが恐れていたものだった。──まるで怖ろしいモンスターを見てしまったかの様に、とても怯えた色をしていた。
「ごめんなさい。本当に、本当に……」
彼から急いで離れ、背を向ける。
「来ちゃ駄目だって、これでわかったでしょ? ……死にたくなかったら、全部忘れて。早く行ってしまって」
彼からの言葉は無い。わたしの後ろで、走り去る音がした。