意識がはっきりとしない。見えている世界は逆転。何かが耳に詰まっている様な、深い海の底にでもいる様な感覚。わたしは動いていないのに、何故か前へと進んでいる。
──そうだ、わたしはエクセラに……。
ぼんやりとした頭の中で、施設からここまでの事を思い起こしてみた。
クリスがこの地に来たというのをウェスカーから知らされたわたしは、直ぐに施設から別の場所へと移動になった。
……今度は何処へ。
寄生体に寄生されながらも武器を持って言葉を話す、人間の成れの果てとなってしまった見張りの数名に囲まれる様にして歩く。行く先々で作業をしている者達が目に入るのに、普通の人間が一人も見当たらない。もう、いないのだろうか。
久しい外の空気、微かな潮の香りがわたしの鼻をかすめた。──船だ。しかも大きい。
乗り込んだ船の甲板を通り、奥へと進む為に船倉へ。中は入り組んでいてとても進みづらかった。そして階段やエレベーターを使って出た先は、船の中央。
暗くなっている空、いつの間にか船も動いている。
──これは……。
船央甲板、広い場所の真ん中に集められた大量の人の死体に気付いたわたしは、目の前の異様な光景に驚いた。一体、何のつもりで死体を積み上げているのか見当がつかない。
数分、数十分と、この場所からそれ以上進むでもなく待たされた。わたしを此処まで連れて来た寄生された者達は、一人二人と元来た道を戻って行き、今は一人だけになっている。
「お待たせ」
嫌な女の声でわたしは振り向いた。エクセラは何やら勝ち誇った様な笑みでわたしに近づいて来る。
「アルバートが望む世界はもう直ぐ」
ゆっくりとわたしを中心にして回りながら、エクセラが暗い夜空を仰いだ。──その時、四方からわたしへの囲む様な視線。先程戻った者達だろう、どの場所からなのか。
……近い。わたしは目で追って確かめる。
「新しい世界で私は生きる。そして彼の隣に立つのはこの私、私だけなの。だから……!」
言葉の途中、此方へ銃口を向ける目の前の見張りと、四方の視線に気を取られ過ぎていたわたしは、避けようと動いた瞬間に真横にいたエクセラから、注射器で腕を刺されてしまったのだ。
「……ぐっう!!」
打たれたのは、いつもの動きを止める薬。
「邪魔、本当に邪魔。アルバートと私の世界にあんたは不必要なのよ! 彼を救うのは私、私に出来ない事は無いの。だからもう用済み。最後の足止めになりなさい」
倒れて動けないわたしを見下ろすエクセラは、別の注射器を胸元から取り出して見せる。
「ウロボロスよ。たまたま運が良かっただけのあんたが、ウロボロスにまで選ばれるとは思えない」
邪魔なものを排除出来る喜びなのだろう。表面の美しさを歪ませる程の醜い心を露わにして、エクセラは下品な高笑いをした。
「エクセラ」
いつの間に。甲板に姿を現したウェスカーが、エクセラとわたしのもとへとゆっくり歩み寄って来た。
「アルバート!」
わたしから急いで離れたエクセラは、正面から抱きつく様にしてウェスカーに擦り寄る。
「船にまで乗り込まれたのよ。私達を邪魔するものは全部終わりにしなくちゃ。ウロボロスを打って此処に置いて行けば……、クリス・レッドフィールドを止めている間に飛び立てるわ。貴方の代わりの安定剤は私が必ず見つけてみせるから! ねえ、良いでしょう?」
ウェスカーは、言葉の代わりにエクセラを優しく抱き締めた。
「アルバート……!」
抱き締め返された事が嬉しかったのだろう、エクセラは優越に浸った顔でわたしを一度見る。
「彼に相応しいのは私よ」
首に己の腕を回し、見せつけるかの様にウェスカーと唇を重ねるエクセラ。彼女が持っていた注射器は、自然にウェスカーが手に取った。
それをどうするつもりなのか……。
「──え?」
自分の唇を先に離したエクセラは、右側の首元を手で押さえる。それはウェスカーが、ウロボロス入りの注射器をエクセラに打ったからだ。
「今のは?」
理解するのに時間がかかっているらしい。困惑の表情でウェスカーを見つめている。思いもよらなかったからだろう、まさか自分が打たれるなどとは。
「アルバート? い、今、何を……っ」
突然むせる咳をし始めたエクセラは、足をもつれさせて一歩後退。視線をエクセラから外したウェスカーは、ショルダーホルスターから拳銃を取り出すと、瞬く間に目の前と四方にいた者達を撃ち殺した。
「新しい世界への資格があるのかは、ウロボロスに訊かねばならんからな」
「あ、アルバート……!」
回りきりった薬の所為で、わたしの意識が一気に朦朧とする。動けない体は、わたしの前に移動したウェスカーに簡単に担ぎ上げられてしまった。
「待って、ま、待って────!」
連れ去られながら耳に入って来るのは、愛しい男の名を呼ぶ悲痛なエクセラの声だった。
──今は、どうなって……?
そして冒頭に戻る。
徐々に回復してくる意識。抑えられた感覚が、今までよりも早く戻っている様に思えた。壁を背にもたれかかっていたわたしは、僅かに動かせた顔を上げて今の状況を掴もうとした。
──薄暗い。船内……船蛇室か。
前方には、此方に背を向けたウェスカー。丁度、船蛇室の真ん中だろう場所に立って、何かを呟いているらしい。
──動け、動くのよ、わたし……!
ウェスカーから目を自身へ。両手を見つめ、握る動作を試してみる。まだまだ完全じゃないにしても、いつもとは違って動けているし吐き気も無い。これなら足も直ぐに動かせる様になるかもしれない。
──待って。
『動ける様になってどうするの?』と、急に心の中で自問自答。止める事すら出来ない、しない自分が今更何を──。
「クリス、いるんだろう?」
"クリス"と耳にして我に返った。モニター画面に映し出された甲板の様子を見つめながら、ウェスカーが船内放送用のマイクを使ってクリスに話しかけているのだ。声も聞こえず、わたしの角度からは見えない。でも直ぐ近くに彼がいる事を知って、心臓が小さく波打った。
──クリス。
ウェスカーはクリスにウロボロスが世界に放たれる事を告げると、エクセラへ向けても言った。
「やはりお前には資格がなかったようだな。今までご苦労だった。最後の仕事をくれてやる」
それはつまり、エクセラはウロボロス・ウィルスに適合しなかったという事。やがてウィルスは暴走し、
エクセラが用意したであろう大量の死体が、確か甲板中央にあった。すれば彼女だったそれが、一気に巨大化するのは確実だろう。
──尽くした全て、無駄だったわね。
気持ちを利用され、簡単に裏切られた憐れな女の末路。どちらかと言えば嫌いな女だったし、いくらウェスカーの為とはいえ、今までしてきた事を思えば同情なんて絶対してやらない。
「……お別れだ、クリス」
わたしの思考は、最後にクリスへ別れを告げたウェスカーへ飛んだ。エクセラを足止めに使い、その間にどうする気か。
──もしかして空から……?
甲板にいたあの時エクセラが、わたしをクリスの足止めにしている間に『飛び立てる』と言っていたのを思い出した。ウェスカーは航空機を使ってウロボロスを世界に放つつもりらしい。
船が揺れた。ウロボロスに取り込まれたエクセラによるものなのか。マイクを切ったウェスカーが此方へ振り向き、わたしに歩み寄る。
このままだとウェスカーが。でも、どうしたら……。動悸が激しくなる。わたしの前に立つまでの僅かな時間、どう行動したら良いのか考えた。抵抗するのも逃げるのも止めてしまった自分に、一体何が出来るのかを。
──ウェスカーを止める?
どうやって。超人的な能力を得てしまったウェスカーを、どうやったら止められるの。何か武器になる物を探すか手にする……駄目だ。薬が邪魔してまだ完全に動けない。
「う、……だ、め……っ」
もう喋れなくなってしまったのかと思っていたのに、力一杯息を吐く様にしてみたら、意外にも呆気なく声が出せるようになった。それと同時、わたしはウェスカーに抱き上げられる。
エレベーターの中に入れば、ミシミシと音を立てて少しだけ揺れた。
「これで奴も終わる」
足止めが成功すると思っているらしい勝ち誇った表情だ。
「ほ、本当に、クリスがこんなところで終わるとでも……?」
挑発気味に返せば、『またお喋りが始まったようだな』と、ウェスカーに鼻先であしらわれる。
「独り言も、寂しいでしょう? だから、あ、いてをしてあげて、るのよ」
「黙っていろ」
エレベーターのドアが開いて機関室に出ると、ウェスカーは高い段差から下へ、わたしごと飛び降りた。
「わ、たしを、あんたの言う新しい世界へ、連れて行く気? ……それとも、わたしもエクセラみたいに、ウロボロスを打って捨てる?」
問いには何も返さない。開いていた隔壁の二つが、通過とほぼ同時に閉まった。ウェスカーが機関室から出る扉の前に立てば、あらかじめエクセラにでも命令されていたのだろう寄生された二人が現れ、カードキーを使って扉が開けられる。
「もう、降ろ、して」
格納庫を目前に、わたしはもう立てる事を伝えた。
「……まだ薬は切れてない筈だが?」
「打たれ過ぎたから耐性がついた、んじゃない? また改良した方が、良いわよ」
格納庫に繋がる自動ドアを抜けると、ウロボロスを積んだ爆撃機が目に飛び込む。自ら降りようと地面に両脚を下ろした直後、思っていたよりも力が入らなくてバランスを崩したわたしは、そのままウェスカーの胸にしがみ付いてしまった。
一瞬、酒に酔って現実逃避をしたあの時の事が頭を過る。
「……ね、え、わたしはいつ、まで、こうなの?」
直ぐに離れた方が良いと思ったけれど、何故だかそうしなかった。わたしは躊躇いがちに、ウェスカーの背中と腰に腕を回してみる。
「いつまで、アルバート・ウェスカーにこの身を利用されて、生きなきゃいけないの?」
回した腕に力を込め、顔を上げて何かを乞う様にウェスカーを見つめれば、サングラス越しの赤い眼がわたしを見つめ返す。
「あなたを愛したら、この苦しみから、解放され──」
言葉の途中、後頭部を少し乱暴に掴まれて、わたしの唇がウェスカーの唇で塞がれた。
口腔に入って来た長い舌が絡み付く。拒む事なく更に身を寄せて深く舌で受け入れれば、痛いくらいに目頭が熱くなった。わたしのこれまでの日々が、走馬灯の様に脳裏を駆け巡ったからだ。
そして背中に回していた手を、徐々に腰へと移動させながらある物を掴んだ時、それに気付いたウェスカーがわたしを押しのける様にして離れた。
「お前には学習力というものが無いな」
手すりに背をもたれて立つ、わたしの右手に目をやって睨むウェスカー。掴み取ったのは、ウェスカーのサバイバルナイフだ。
「それで何が出来る? 止める為に俺を刺すか?」
蔑み笑らわれた。そんなのわかってる。このナイフでウェスカーを止めようなんて、無理だって事。
「……止めるなんて、あんたを刺すなんて、しない。わたしには、出来ない」
「フン、わかっているなら無意味な事はやめろ。意識を苦痛に思うなら、新しい世界を迎えるまで待てば良い」
「ジルにした様に、わたしにも、P30を試すの?」
ウェスカーから一度も目を逸らさずに、掴んでいた右手に力を込めた。
「このナイフを取ったのは、こうするからよ……!!」
一呼吸。振り上げた手を、自分の中心へ。わたしは自分で自分の胸に、ナイフを深く突き刺したのだ。
「……血迷ったか、ダイアナ」
どうせ治ってしまうのに、更に無意味な事を何故、ウェスカーはため息を吐く。馬鹿らしいと呆れている。だけどわたしは微笑っていた。痛みは不思議と感じない。
「ぐ、う、はっ、ち、血迷っ、て、なか……、ないっ!」
残された力を振り絞り、刺したナイフを一気に引き抜けば、わたしの胸から大量の血液が噴き出した。
「ふ、ぐ、ぅ……っ!」
飛び散った血液は地面に、そしてウェスカーの頬に。掴んでいたナイフは、血に濡れた手から滑り落ちる。出続ける血液があまりにも可笑しくて咳き込むと、口からも血が溢れ出た。
「何故止まらん、何故閉じない……!」
ウェスカーは眉間に皺を寄せる。胸の傷口が再生しようと閉じかけるも、それを抗うかの様にぱっくりと開くを繰り返し、いつまで経っても完全に閉じられる様子がないからだ。
──やっぱり……。
指先に付着していた真新しい血液、治りかけの傷の様な、久しい痛みの感覚。わたしはずっと気になっていた。自分の体の中で、また何かが起きたのではないかと。
高い再生能力の衰え……否、バケモノになる以前の体に戻ったのだろうか。でも、それ以外の変化は特別感じられはしなかった。現に耳や目は良いし、怒りの感情で髪は伸びていたし。原因の全てはわからない。わたしを抑える薬を過剰に受けた事での副作用かも。
だけど、これは単なる憶測に過ぎなかった。わたしを使った安定剤用の血液採取や、原因かもしれない薬の使用は、変わらずに続けられたのだから。
自分を刺したのは、再生能力の有無を試したかったからだけじゃない。この先のわたしの運命の選択をしたんだ。どちらかの結果になっても受け入れようと。
再生すれば、何もかも諦めてウェスカーに従っていく。再生しなければ、死が待っている。
「さ、……いせ、い能力、なくなっ、たわ」
傷口は、再生しなかった。
「ざん、ねんね、死体じゃ、安定剤、もう作れない」
全てを捧げたエクセラは死んだ。大量の出血があるわたしも、もう長くはない。これでこの男を助ける者は……。
──誰もいなくなる。
失った血液の多さに意識が混濁する中、ずっとウェスカーから目を離さなかったわたしは、此処へ近づいて来る二人の気配に気付いた。
「あんたの、望み、通りには、いかない、から……」
ウェスカーへ最後に微笑みを。手すりに力の抜けた身体を完全に預ければ、浮遊感が背中から伝わった。時間にすれば数秒間。だけどとても長い。視界は砂嵐、聴こえてきたのは弱々しい心音と、自分の頭の砕け割れる音。
──これで、これでわたしは……。
体は全く動かない。少しも苦しくない。もう何も聞こえず、もう何も見えなくなった。無の中で息を吐けば、わたしの意識は静かにフェードアウトした。
もう死ねないと思っていたのに、最後は呆気ない終わりだった。