この選択しかなかったのよ。あの男に惨めったらしく乞うしか。
わたしは感情を捨てようと思った。感情があるから憎いと思う、感情があるから辛いと思う。どうせ人体実験されている身だ、まともな身体ではないし、生きて此処を出るつもりも考えてない。何も口答えせず、黙って大人しく、ただ命令にしたがって実験を受ける。
唯一の抵抗は、あの男を視界に入れてやらない事だった。……それしか出来なかったけれど。初めは恥ずかしさでどうにかなりそうだった布切れみたいな検査衣も、今では気にするのも馬鹿らしくなる。
「第四接種開始」
わたしに新たなウィルスが投与された。ピリッとした痛みが身体中を駆け巡る以外の変化は、相変わらず表れない。何時間か放置された後の血液検査は、あの男を喜ばせていたらしい。本当に、本当にどうでも良かった。
「キミってさぁ、笑った事ある?」
ある日の事だ。わたしを実験室に連れていこうと扉を開けて入って来た作業員らしき男が、突然わたしに話しかけてきたのだ。当然わたしは何も答えないし、男の顔も見ない。
──此処に来て初めて、あの男以外に話しかけられた。
今までは誰もわたしになど話かけてはこなかったのに。
「ボクはネイサン。キミの世話とか、移動させる時なんかを任されたんだ。よろしく」
次の日も男は話かけてきた。
「ここだけの話さあ、機密事項だとかで詳しい事なんも知らされてなくてね。どんな恐い事やらされるんだろうって思ってたけど、正直ラッキーだった」
……本当に何も知らされてないのだろうか。わたしがどういう存在なのか知ったら、きっと逃げるだろうに。
「話しかけるのも駄目とか言われたけどさ、こう静かで不気味な空間だと、なんかつい喋ってしまうんだよね」
次の日もそのまた次の日も、ネイサンは独り言の様にわたしに話しかける。……正直、話しかけられるのも嫌になるくらい。
「此処ってさ、時間の感覚狂っちゃいそうだよね」
昨日見た番組でさあ……なんて、一方的な話を振ってくるネイサンに、わたしは懐かしくも苛立ちを覚えていく。
「わたしにもう話しかけないで」
ある日の事、痺れを切らしたわたしが、遂にネイサンに言葉を返した。これ以上わたしの感情をかき乱されたくなかったからだ。
「驚いた……! キミ喋れるんだ」
ネイサンはとても驚いていた。でも、恐怖の目でわたしを見てはいない。何だか喜んでいる様子だった。
「初めてボクの顔を見てくれたし、なんか、嬉しいよ」
──言葉なんて返さなきゃ良かったわ。
「この部屋にもカメラはあるし、盗聴もされてる」
「だろうね」
「だったら……」
「独り言だと思ってくれて構わないし」
「死にたいの?」
「死にたくないし」
……あぁ、これ以上話していたくない。わたしは返すのを止めてネイサンに背を向けた。それを気にもしないネイサンは、鼻歌混じりに部屋を出て行った。それからというもの、ネイサンはカメラなどお構いなしに、移動中の廊下でも笑顔で接してくるようになった。
「喜べダイアナ」
半月経ったある日、ネイサンに連れられて実験室に入ると、その中でウェスカーが待っていた。薄笑いを見せるこの男の顔など見たくない。視線だけを下に向けたまま、目の前の椅子に座る。ネイサンは黙って静かにこの部屋から出る際、わたしとウェスカーを見つめていたのか、彼からの視線を肌に感じ取った。
そして、この実験室で二人だけになるとウェスカーは、わたしの左肩に手を乗せながらゆっくりと後ろに回り、わたしの両手の拘束具を外した。
「もう、ウィルスを接種しなくて良い」
耳元で囁かれた『接種しなくて良い』という言葉に、わたしは思わずウェスカーに顔を向けてしまう。サングラス越しのこの男と目が合ったのは仕方がなかった。
「この前打ったウィルスにも、お前は支配されなかった。変異させる事もない、変わらず美しいままだ……」
「ウィルスをもう打たないって、どういう事? まさか家族に手を出すんじゃ……!」
「落ち着け」
「家族には手を出さないって言ったわ!」
今まで耐えていた感情が溢れ出しそうになる。わたしは椅子から立ち上がり、ウェスカーを睨んだ。
「……ほう、溢れそうな力は感情によって左右されるのか?」
意味がわからないと苛立つわたしに、ウェスカーは静かに笑って指を指した。指された先はわたしの髪の毛だ。元々肩ぐらいまであった長さの髪は、胸元を過ぎる長さまで伸びていたのだったけれど、今のわたしの髪は明らかに異常な早さで伸びていた。──腰の辺りまでた。しかも、髪の色が金髪に変化している。
一体どういう事なのか。わたしの髪の色は両親に似た、明るめのブルネットだった筈なのに。今はブロンドの様な髪色になっているのだ。
「ウィルスによって髪の変化は予測済みだったが。一向に表れないと思っていたら、抑えていたのか?」
ウイルスのせいでこんな髪に。あぁ、嫌だ。わたしはブルネットが好きだったのに。
「似合っているぞ」
小馬鹿にする様に笑いながら、わたしの髪に手を伸ばそうとするウェスカーの手を払う。
「実験なんてわたしだけで充分でしょ?」
「そうだな、お前が利口にしていれば、だ。それにウィルス接種を止めるのは今の状態をキープする為。折角今の状態を完璧に維持しているんだ、崩れでもして醜くなれば元も子もない」
「……それなら、わたしはこれからどうなるの?」
「予想を反して優秀だったお前の遺伝子は、私にとって最高の結果を残してくれた。ウィルスを直接受ける事はもうないが、それ以外の血液抽出等は今後も続行する。この先も私がお前を支配する事に変わりはない」
わたしは一人、新しく用意された個室の隅に寄りかかって座っていた。何故かと言うと、あの後ウェスカーから「ご褒美だ」と言われ、実験動物用の薄暗いゲージの様な部屋より、格段広い個室に移動となった。
中はモダン造りな仕様で、家具は広めのベットにスタンドテーブルだけという、少々殺風景だ。窓は無く、備え付けの照明は暗めだったので、この部屋から廊下へ出ると、明るさのギャップを感じてしまうだろう。
以前誰かが使っていたかもしれないと思うと、なんだか部屋の雰囲気に慣れない。此処に来てから狭い空間の中で過ごし、哀しくもその環境に慣れてしまっていたわたしには、いくら部屋が広くなろうとも、隅でもたれ掛かりながら座る方が喜ばしいと思えていた。
手から拘束具を外され、『自由の身だ』と言わんばかりだけれど、出入り口の自動ドアはしっかりと頑丈にロックがかけられている。嫌でもわかるのは、隠されたカメラの場所だった。結局は監視体制に何の変わりもない。拘束具が外されたのは、わたしが逆らわないと思ったからなのか。
「やあ、随分と良い部屋に移動出来たね」
暫くしてやって来たのはネイサンだった。この部屋の移動の際は武装マスクが一緒だったから、彼は後で聞かされたんだと思った。
「家具が寂しいから殺風景には見えるけど、トイレも、お、シャワーもあって別々で、最高だね」
弱冠変なテンションのネイサンに取り合う気は勿論無くて、そのまま一方を見つめて無言を貫いた。
「……おっと、これ、食事」
銀のトレーに乗せられた食べ物をスタンドテーブルに置いたネイサンは、今頃わたしの髪の毛に気付いたらしい。
「あれ? キミの髪ってブロンドだったっけ? しかも伸びてる」
早く部屋から出て行ってほしかったんだけど、一向にネイサンは出て行ってくれなかった。
「あ、あのさぁ……」
ネイサンは、何かを躊躇っている様だった。
「此処のボスとキミって、どういう関係なんだい?」
一方だけを見ていたわたしは、彼の質問の意味があまり理解できなかった。
「……その、さ、ただの知り合いじゃなさそうっていうか」
ちょっと待って。もしかしてネイサンは何か変な誤解をしているんじゃないだろうか。わたしは思わず溜め息を漏らした。あの男との事を誤解されてるままなのは嫌だけど、わざわざ弁解するのも面倒だ。
「知らない方が良いのよ。何もね」
「え?」
それはどういう意味なのか。更に追及してきそうなネイサンに、冷たく「出て行って」と告げれば、何かわたしに言いたげな顔をして、彼は出て行った。
やっと一人にはなれたけれど、監視カメラの存在は消えてはくれない。わたしはカメラがある場所をひと睨みした。もしかしたらあの男が見ているかもしれないと思うと、無性に腹が立つ。
ネイサンが持って来た食事は食べる気がしない。……というか、食欲という欲求が全く起きないからだ。精神的なもの以外、きっとわたしの中の何かが、異質なモノへと変わってしまったからなのかもしれない。
わたしは立ち上がって部屋中を視界に入れた後、目の前の広いベットに倒れ込む様に寝転んだ。ぐっすりと眠る気にもなれずに、暫く天井を見つめていたのだけれど、いつの間にかわたしの瞼は閉じてられていった。
──懐かしい夢を見た。
あれはS.T.A.R.S.に入隊して一週間が経った頃だった。今まで、勉強やパソコンモニターを相手にばかりだった日々が多くて、大勢の中で仕事をしたり、交遊関係や今後のS.T.A.R.S.での不安がわたしにはあった。不馴れな職場で上手くやっていけるだろうか。毎日そんな事ばかりを考えていた。
「キミは……確か新しいS.T.A.R.S.の隊員、だったね?」
職場の廊下でバッタリ、R.P.D.署長のブライアン・アイアンズに出くわした。入隊式で会った以来だったので、わたしは慌てて姿勢を正して署長に挨拶をした。
「はい……! 日々精進出来るように努力を心がけています!」
「堅苦しい挨拶はいいさ」
そう言ってアイアンズ署長は、わたしを上から下まで舐め回す様にいやらしく見つめ、腕を回してわたしの肩を軽く抱いてきたのだ。
──信じられない……!
そりゃあ勿論、驚いてしまった。まさかの署長の行動に戸惑いながらも、拒否出来る勇気が無い。わたしは引き攣った笑顔でいるしかなかったのだから。
「……ウェスカーも、女を選ぶ趣味は悪くない」
──どう意味よ……。
実に不愉快な気分に陥り、どうやって署長から逃れようかと考えている時だった。
「ダイアナ、此処にいたか!」
後ろから慌てるような声がして、アイアンズ署長も急いでわたしから離れる。声の主は、クリスだった……。
「申し訳ありませんアイアンズ署長! 今から至急ダイアナにやってもらいたい仕事があるんです!」
「……何か事件かね?」
「いえ、ですが、彼女はネットに詳しいでしょ? ちょっと俺では対処出来なくて。本当にすいません! ホラ、行くぞ!」
そう言うと、クリスは軽く頭を下げてわたしの手を引っ掴むと、不満そうな顔を必死で隠そうとしている署長をひとり残して走り出した。わたしは突然の事に唖然としながら、クリスに手を掴まれたまま一緒に走った。
「あ、あの!」
アイアンズ署長から離れて、署内のいくつかのドアや廊下を通り過ぎた頃、わたしは漸く声を出した。
「さて……もういいか」
「え?」
彼がやっと立ち止まったのは休憩室の前で、 わたしの手をそっと離し、目の前の自販機から炭酸ジュースとホットコーヒーを買って、いたずらっぽい笑顔でホットコーヒーの方を差し出してきた。
「……あの」
差し出されたコーヒーを受け取ったわたしは、そのコーヒーに目を向けると、クリスに何の急ぎなのかを訊いてみた。
「あれは嘘だよ。それより、コーヒー嫌いだったか?」
「え、嘘……? あ、あの、えと、いただきます」
いまいち状況が掴めない。クリスは、横にあった長いベンチに腰を下ろした。
「ま、座れ」
「は、はい」
わたしは言われた通りにクリスの隣に座ると、奢ってくれたらしいコーヒーを一口飲んだ。
「あの、もしかして先輩、助けてくれたんですか?」
自分は鈍感ではないし、もしかすると……と思って、隣に座って炭酸ジュースを一気飲みするクリスに訊ねた。
「正解。迷惑だったか?」
「いえ! 助かりました……とても」
「あーいうのさ、腹が立つよな? アイツさ、抵抗出来ないの知ってて、スキンシップという名のセクハラすんだぜ? 見て見ぬふりなんて俺には出来ないし、……こう、助け船を出したってワケだけど」
クリスがあの時来てくれなかったらと考えるだけでも、あの署長のスキンシップは気分の良いものではなかった。
「先輩、本当にありがとうございました!」
わたしは急いでクリスに向き直り、お礼を伝える。
「おいおい、そんな感謝されるような事してないし、気にすんなって! ……それにさ、先輩ってのも、なんかこそばゆいし、クリスで良い」
「でも……」
「気を使うなって、折角同じS.T.A.R.S.の隊員になったんだ、何かあれば相談のるし、な? 気楽に行こうぜ!」
人を明るくさせる様な笑みで、クリスは言った。その瞬間。何もかも不安で一杯だったわたしの心の中で、彼は眩しい一筋の光となったのだ。
──可笑しいけれど、きっとこれが、わたしの生まれて初めての、恋の始まりだったと思う。