しとしと――と、雨が降っていた。
私は、窓際に近い二人掛けの小さなソファへ座りながら、窓ガラスにぶつかり、弾ける雨粒を眺めている。
昨日の夜から降り始めた雨は、昼過ぎになっても未だに降り続けていた。
風は殆どなかったものの、湿気を含んだ空気と暗い雲に覆われた空は、外出しようという気分を少なからず削いでいた。
「雨は嫌いじゃないけど、休みの日に降られると、ちょっと気が重いね」
投げかけられた言葉へ振り向くと、そこには、両手にカップを持った眼鏡を掛ける男性。少し――いや、大分年上な、私の恋人が立っていた。
彼の言葉に、そうね、と頷き、麦茶で満たされたそれを受け取る。
私は今、彼の部屋に居る。
この雨が降っていなければ、普段通り公園で待ち合わせをして、そのまま何をするでもなく街を歩くか、新しく買った本を薦め合ったりするはずだった。
しかし、この雨ではそれも出来ず、毎週末のデートは中止になり。
……けれど、それを電話で話した後。
一人で窓から景色を眺めていたら、何故か分からないけど、唐突に、彼に会いたくなってしまって。
居ても立ってもいられず、気が付けば、傘をさして彼の家に押しかけてしまっていた。
「……雨は、嫌い?」
彼はそのまま隣に座り、麦茶を一口啜ってから、不意に問いかけてくる。
首を傾げると、彼は心配そうな視線を私に向けていた。
「いや、なんか辛そうな――悲しそうな顔をしてる気がして。勘違いなら、ごめん」
茹だるような残暑を和らげてくれる、貴重な雨。しかし言われてみれば、彼の言う通り、私は雨が好きではなかった。
それは、薄暗い雲と降り注ぐ雨を見ていると、あの頃を思い出してしまうから。
ずっと一人で、誰の事も信じられなかった、あの寂しさを思い出してしまうから。
なんだ、簡単な事だった。彼に会いたくなったのは、ただ単に寂しかっただけ。
ほんの数ヶ月前まで、一人で居る事に何の疑問も、感慨も抱かなかったのに。
私は、随分と弱くなってしまったみたいだった。
その事に気づいて、小さく笑ってしまう。
「どうかした?」
不思議に思ったのか、彼は再び問う。
そんな彼に首を横に振りながら、私は問いの答えを口にした。
確かに、雨は嫌いだったけど。でも、今はそうでもないみたい。
「それは、どうして……?」
……こんな季節でも。
貴方と、こうしていられるから。
「え? ……っと」
体重をかけ、彼の肩に頭を乗せる。二人の間にあった雨に冷える空気がなくなり、お互いの体温が直に伝わる。
いつもなら、こんな事は恥ずかしくて出来ないのに、どうしてだろう。
隣に彼が居て、静かな雨音が響いているだけで、こんなにも素直になれる。
こんな風に甘える事が出来るなら、あんなに嫌いだった雨も、好きになれるかもしれない。
私は、孤独に耐えられなくなるほど弱くなった。でも、きっとそれで良い。
弱くなった代わりに、今の私には、沢山の仲間が居て。
唐突に襲う寂しさを埋めてくれる、大好きな人が居る。
この弱さは、私を強くしてくれる。
そんな、気がする。
「……っ」
彼は照れているのか、私の方を見ようとはせず、かなりの勢いでカップを傾けている。
いつもは彼の方からこういう事をして来る癖に、いざされる側となると恥ずかしいらしい。
自分の行動に、好きな人が照れてくれるというのは、存外嬉しいものだった。
彼も、こんな気分だったのかも知れない。……いい事を知った。
こんな表情が見られるのなら、これからは、もうちょっと勇気を出して甘えてみよう。
長い沈黙が支配する部屋の中に、静かな雨音だけが響く。
まるで子守唄の様にも聞こえるそれが、私にはとても心地良かった。
「……ぐ~……す~……」
気づくと、すぐ側から寝息が落ちてきていた。確かめてみれば、彼は空になったカップを手に持ったまま、ソファに寄りかかって居眠りをしていた。
やっぱり、仕事で疲れていたのかもしれない。
彼は最近、職種を変えたばかり。私の前では、新しい事を始めるのは楽しいと強がっていたけれど、それでも疲れないわけではない。
私が押しかけなければ、一人でゆっくりと休む事が出来たのに。そう思うと、少し心苦しいのだけれど。
それ以上に、初めて見る彼の穏やかな寝顔が、私は嬉しかった。
寝顔は前にも一度見た事があるけど、あの時は色々あって魘されてたし……と言うか、あれは気絶……?
……うん。私が彼の寝顔を見るのはこれが初めて。そうしよう、うん。
自分を強引に納得させ、私は彼の寝顔の観察に入る。
「……す~……くか~……」
彼が言うには、他人に嫌われるのが嫌で、常に周りに気を遣い、それに疲れてしまう小心者。
だと言うのに、今の彼は格好を崩して、口を少し開けたまま居眠りするなんていう、だらしのない姿を見せてくれる。
ほんの少しだけ、呆れて。
でも、やっぱり嬉しかった。
これが、あばたもえくぼ、という奴なのかもしれない。
私から言わせれば、誰にでも優しくて、どんな時でも他人を気遣う事が出来て……。私のして欲しい事を、いとも容易く看破してしまう、ずるい人。
嬉しい時には、一緒に喜んでくれて。
辛い時には側に居て、おどけて見せてくれたりする。
ずるくて、優しい、大切な人。
そんな彼の寝顔を見ながら、私は、耳に届く寝息に聞き入っていた。
……そう言えば、少し前に読んだ恋愛小説に、今の私と似たシチュエーションがあった気がする。
でもその内容は、主人公の少女が、図書室のソファで居眠りをしていた思い人を見つけ、しばし寝顔を見つめた後、密かにキスをして別れを告げるという、悲しい物だった。
別れ。
彼と私の関係はまだ始まったばかりだけど、もしかしたら、そんな結末になる事も、あり得るかも知れない。
胸に、チクリ、と痛みが走る。
この世界には、永遠の幸せなんてない。
彼も、私も。
いつか、この世界から消えてしまう。
胸に抱えた想いと一緒に。
時の流れの遥かな高みから見れば、私達の一生など、それこそ瞬き程の一瞬なのだろう。
少しだけ、不安になった。
今目の前にいる彼も、私が瞬きをしてしまえば、目の前から消え去ってしまう気がする。
そんな馬鹿みたいな事を考えて、私は本気で不安になっていた。
彼を起こさないように、静かにソファから立ち上がる。
だから、確かめたくなった。
彼が今、そこに居て、ちゃんと触れられる存在なのだと。
小さなサイドテーブルにカップを置き、身を屈め、距離を詰める。
だから、これはただの確認行動。
決してやましい行為ではない……はず。
雨音を遠く感じるくらい、鼓動がうるさい。
だから、彼だって、許してくれる。
……一応は、恋人同士、なんだから。
吐息を感じた。
「……ん……あ、寝てた……?」
#$%&@*¥!!!!!! あ、あのっ、これはっ、ちがっ――きゃっ!?
「……あっ!? だ、大丈……ぶふっ!?」
直前で、目が合った。
それに慌てた私は、喉から奇妙な音を発した後、言い訳しながら後ずさるのだけれど、足がもつれて盛大に尻餅をついてしまった。
……かなり、痛い……。
あぁ、もう……。どうして私はいつもこうなんだろう。肝心な時にばかり失敗して……。
あの頃から、全然成長してない……。
痛みと悲しみで、私の目尻にはうっすらと涙が溜まって行く。
「……あ、あの……その……し、下、下!」
そんな私に、彼はそっぽを向きながら言葉をかけて。
下……? 一体何の………………っっっ!!!!!!
言葉の意味を悟り、ガバッ、と翻ったスカートを両手で押さえる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。見られた、あの反応は間違いなく見られた。
何でこんな時に限って子供っぽいのを穿いて――ってそうじゃない! そっちじゃない!
まだキスもしてないのに下着を見られたのが問題なのよ私! こっそりキスをしようとしていたのに失敗しちゃった事が問題なのよ私ぃ!
「……あはは」
あわあわと私が慌てていると、彼の小さな笑い声が聞こえた。
わ、笑われた? もしかして、失笑されてる……?
あぁぁ……うぅ……いやだ、もう……どうして、私は……穴があったら入りたい……いえ、むしろ穴を掘ってでも埋まってしまいたい……。
あまりの恥ずかしさに、私は両手で顔を覆い隠す。失敗した事は勿論、こんな醜態を晒してしまっては、彼にがっかりされたかもしれない。
それが恥ずかしくて、悔しくて。
目尻からは、勝手に涙が零れそうになってしまう。
「……ぃしょっと」
そんな時、彼の気配が、ゆっくりと近づいてくるのが分かった。
けど、彼がどんな表情をしているのか、見るのが怖くて、私は俯いたまま。
「……隠さないで」
彼は私の側にしゃがみ込み、顔を覆っている手を、そっと剥がしていく。
少し戸惑いながら、恐る恐る視線を上げてみると、私の目に飛び込んできたのは、予想していたのとは少し違う彼の顔だった。
穏やかで、慈しむ様な微笑み。
いつも彼が浮かべている表情と、似ているようで、違う。
目が合った瞬間、その瞳に魅入られたみたいに、視線を逸らせなくなってしまった。
魔法なんて、彼は使えないはずなのに。
「………………」
穏やかな笑顔が近づいてくる。
何か、言って欲しいのに。
こんな時に限って、彼は私に意地悪をする。
「………………」
瞼が、勝手に下がっていく。
「………………」
また、吐息を感じた。
雨音が消えた。