初恋、だったかどうかは分からない。
気が付いた時には、彼女を目で追うようになっていた。
彼女を愛していたと理解したのは、彼女が居なくなってからだった。
美しい人だった。
彼女と幼馴染であった事は、思うに、例えようの無い幸運だったのだろう。
そんな彼女は今日、とある男性と永遠の愛を誓った。引き会わせたのは……どうでもいいか。
他にも、同じ日、なんと十以上年の差があるカップルまで式を挙げたらしい。
そう言えば、昔となりの部屋に住んでいた男も、随分と若い女の子を連れ込んでいた。漂ってくるラブ臭に耐え切れず引っ越してしまったが、やっぱ通報しときゃ良かったか……。
ともかく、目出度い日だ。
こんな日には、似合わない。三十路過ぎな男の嘆きなど、似つかわしくない。
だからこうして、喉を焼く酒で涙腺を誤魔化す。
小洒落たバーで出されたウィスキーは、値段の割りに上物の筈なのだが、風味も何も感じない。
喉が焼ければ焼けるほど、悲鳴を上げたくて堪らなくなった。
年甲斐も無く泣き喚いて、十年前を呪いたくなった。
けれど、彼女は幸せそうだった。確かに、幸せそうだったのだ。
それがどうしようもなく悔しくて、でも、少しだけ安心して。
ごちゃ混ぜになった感情をぶちまけたくて、空になったグラスをカウンターに叩き付ける。
チクショオォオオっ!!!!!! どいつもこいつも末永く幸せになりやがれぇぇえええっ!!!!!! ………………はっ?
「うわぁぁあああんっ!!!!!! 皆私を置いて幸せになってればいいのよぉぉおおおっ!!!!!! ………………ふへ?」
予期せず絶叫が重なり、左を向く。
そこには、エメラルドグリーンのドレスの上にストールを羽織った、アルコールを嗜むには少々早くも見える童顔の女性が、カクテルを前にこちらを見つめていた。
ハーフリム眼鏡越しの瞳は涙で濡れているのに、あまり悲壮な感じがしないのは何故だろう。
「あの、お客様。店内ではお静かに……」
あ、すいませ……お。
「あ、すいませ……あ」
またも声が重なった。
静かに立ち去るウェイターを尻目に、三つ隣の席を観察すれば、その足元には白い紙袋があり、ドレスを着ている事から、なにかイベント事の帰りかと考えられた。
にしては連れも居ないようだし、「すんっ」と鼻を鳴らす姿からは……なんと言うか、めんどっちい雰囲気が醸しだされている。
……が、どこか引っかかる。
まるで、昔何処かで会った事があるような、友達の友達のそのまた友達で、微妙に顔の覚束無い知り合いのような……。
それがどうにも気になってしまい、空いたグラスを片手に席を立つ。
あの。隣、よろしいですか?
「え、あ、はい。どうぞ……」
居住いを正す女性の声には、若干の警戒心が伺える。それも当然だ。
場末のバー……なんて呼ぶには失礼な位にお洒落な店内といえど、偶然台詞が重なっただけの見知らぬ男に話し掛けられたのだから。
本当に、吃驚だ。こんな行動を取れるだなんて。
酒が入って気が大きくなっているのか、それとも、人恋しいだけ、か。
まぁ、どうでもいい。今はとにかく、この奇妙な慨視感の原因を究明したい。
何か、御ありに? 随分と……辛いご様子ですが。
「……いいえ、とんでもない。辛いだなんて、あり得ませんよ。……ええ、とても、お目出度い日なんです」
お目出度い、ですか。
失礼でなければ、お聞きしても……?
「……今日は、教え子の結婚式だったんです。思い出すだけで胸が一杯になるような、とても良い式でした……」
それは……目出度い、ですね……。
おめでとうございます。教え子という事は、御教職に?
「ええ。もう長い事やっています。特に、新婦さんのお母様とは、学生時代からの友人という事もあって、感慨深くて……」
そうでしたか……。
奇遇な事もある物だ。まさか、同じく結婚式の帰りとは。ひょっとしたら、例の歳の差婚な人達の式だったり……流石にないか。
しかし、教え子の結婚式に呼ばれるだなんて、よっぽど慕われているのだろう。
なのに、何故この人はこんなにもどんよりとした空気を背負っているのか……?
「ほら、見て下さい。ブーケまで貰っちゃったんですよ? ふふっ、気を遣わせちゃった。まぁ、もう直ぐ大台に乗る独り身が居るんですもの、当然ですよね……? ふっ」
足元の紙袋から小さなブーケを取り出し、彼女は嗤った。
……うわぁ。なにこの暗黒微笑。顔が左右非対称になってる。怖ぇ。
声掛けたの、失敗だったか? お近付きになりたくない類の笑顔だぞ今の。
「個人的には、お相手の男性はちょおっと問題がある気がするんですよ。初めて聞いた時なんて、本気で通報しようかどうか迷った位ですもの。
でも私、《生徒を見る目》だけには物凄く自信があるんです。その自信が言うんですよね。
あぁ、この人を愛してるんだな、この子が選んだ人なら、きっと幸せにしてくれるんだろうな、って。それが分かったら、もう何も言えませんでした……。
先を越されちゃったのは凄――少しだけ悔しいですけど。
それよりもですよ! 詢子ったら――あ、さっき言った友人の事なんですけどね? 『和子がそう思うなら一安心だね』なんて言うんですよ!? 酷いと思いません!?
確かに《男を見る目》は無いかも知れないけど、私は駄目男検知器じゃないってぇのよぉ!!!!!!」
途中からヒートアップしてしまったのか、女性は――和子、さん? は、カウンターをバンバン叩く。
その音に釣られ、周囲の注目を集めると共に、鋭く光るウェイターの眼光。
お、落ち着いて下さい、見られてますから、ね?
「あらやだ、私ったら……。こほん、まぁ、あの頃はちょっと大人気無かったし、私にも悪い所がちょっとはありましたから、それは良いんです。この話はここまでにしましょう」
いや、ここまでも何もそちらが勝手に喋って――。
「何か問題でも?」
いやー今日は晴れて良かったですねー折角のお目出度い日ですからねー。
と言いながら、華麗に手の平を返す。だって怖かったから。今日は厄日だ。もしかして、女難の相も出ていたりするのだろうか。
……取り合えず、おべっかでも使って御機嫌とっておこう。
身の安全のためにも。
それにしたって、そんなに焦る事は無いんじゃないですか?
もう直ぐ大台って事は、まだ二十代でしょう? こっちなんてもう三十過ぎ――。
「えっ!? 見えます!? そんな風に見えます!?」
うぉあ、あ、はい、見えます、けど。え? 違――。
「やっだ、もう♪ そんなに煽てたって何にも出ませんよ♪ あ、何か飲みます?」
痛、あの、痛いですから、叩かないで……後、気も遣わないで下さい……。
途端、上機嫌になった和子さんは、こちらの背中をバシバシ叩く。この反応からして、大部若く見積もってしまったようだ。
やっぱり、女難の相、出てるかなぁ。よく考えたら、あいつも年上だったもんなぁ。
なんて思い、諦めたような心境で、店内上部にある絵画を無心に眺める。
すると、彼女は唐突にカウンターへ頬杖を突き、顔だけをこちらに向けた。
「……どうしてかしら。お酒が入ってるとはいえ、初対面の人に、こんな……。
貴方が悪い人には思えなくて……それに何だか、初めて会った気がしな――やだ、本当に酔ってるかな。忘れて下さい」
再び一転、寂しさに彩られる横顔。放たれるのは、酸いも甘いも噛み分けた女の色気。
ちょっと躁鬱が激しいのが難点だが、その
……何故だ。どうしてこんなに気になる。妙な慨視感もそうだが、この人には、こんな表情をして欲しくない。
この人に似合うのは、もっと――
「そう言えば。そちらはどうなさったんですか? 私が言うのもあれですけど、妙な事を口走っていらして……何か御ありに?」
――などと、妙な事を考え込んでいた時、今度は彼女の方から質問が投げられる。
それでようやく、ついさっきまでクダを撒き散らしていたのを思い出す。人生の一大事とばかりに嘆いていたものを、すっかり忘れ去っていた。
本当に、今日は可笑しい。
そんな気持ちが口元を苦笑に象らせ、大した事では無いと己に言い聞かせるように、口を開く――
いえ、こちらもお目出度い事なんですよ。
子供の頃から惚れていた幼馴染が結婚して、今まで見た事の無い笑顔を向けられて、「彼と出逢わせてくれてありがとう」なんて……。
御礼を……言われた、だけ……で、ぇ……。
「……うわあ……」
――が、実際口にすると意外にダメージを負ってしまった。思っていたよりも傷は深かったらしい。塩を塗りこまれたような痛みに、涙が零れた。
和子さんもなんと言って良いのか分からないのか、こちらに向けて手を差し出そうとしては引っ込めるを繰り返す。
その顔には、労りの念の様な物が込められている気がして、勝手に言葉が引き出されていく。
何が、いけなかったんだ……。
照れ臭くて想いを伝えなかったから? いつも肝心な事は誤魔化してたから? あの二人を、引き合わせたから?
どうして、こうなったんだよ……何で……こんな筈じゃなかったのに……。
若い頃はもっと、思い通りに生きられると思っていたのに……上手くいかない事、ばっかりだ……。
「………………」
見苦しい言い訳に、彼女は何も返さない。
当たり前だ。
こんな事ばかりを言って、未練タラタラな男になんて、掛ける言葉は――
「……飲みましょう!」
はへ?
「辛い事は飲んで忘れるに限ります!
まぁ、忘れられない事だってあるでしょうけど、誰かと共有できれば、その重みは半分になるでしょう?
今夜は私がお付き合いします! 派手に行きましょう!」
――無いと思っていたのに、和子さんはこちらの肩をガッシと掴み、声高に宣言した。
その瞳には、隠さない親しみが込められている。
一瞬シンパシーを感じ、直後、同類と見做された事で心の一部がずっしり重くなったが、その反対の部分は、本当に軽くなった気がした。
取り合えず、飲もう。うん、飲んで騒いで忘れよう。色々とあれだけど、女の人が隣に居てくれるだけで大分違う。
ハズ。
……よしっ、今日は飲みましょう! とことん飲みましょう! 明日も休みだし!
「その意気ですよ! よぉし、私も一番高いの注文しちゃいますよ~!」
負けませんよ? 独身貴族、万歳!!
「ばんざーい!! でもいいお話が会ったら即結婚した~い!!」
ちょっと、早速裏切らないで下さ――。
「……お客様」
あ、すんません。
「あ、すみません」
こうして、幼馴染に振られた男と、《男を見る目》の無い女による酒盛りは開幕し、それは夜半過ぎまで続く事になる。
早乙女和子という女に出会った事が、己の人生を大きく左右する事を、彼はまだ知らない。
そして、彼女が自身の《生徒を見る目》が確かである事を実感するのは、古いアルバムの中にあった、とある高校生と教育実習生の写真を見つけた時となるのだが……。
それも、まだ見ぬ未来の話である。
To Be Continued……?