ちょ、ちょ!? と、とにかく落ち着いて織莉子ちゃん、今は気が動転してるだけで、後で絶対に後悔するからっ!?
「いいえ。今こうしないと、それこそ私は後悔します」
突然な行動に慌てふためき、俺はそれを止めようとソファーベッドから腰を上げた。
しかし、彼女はそれに耳を貸さず、胸元のリボンを解いていく。
中学受験を間近に控えた少女達が、必ず一度は憧れるという、質素ながらも格調高い、白樺女子学園の制服。
身に纏うのは、そんな制服を引き立て役に甘んじさせる美少女。
長い髪を左でサイドポニーにして、決意に満ちたその表情は、凛々しさの中にも可愛らしさが覗き、まだ幼くも見える顔立ちとアンバランスな程、その肢体からは女性特有の柔らかさが見て取れる。
「先生。私は、本気ですから。……だから」
そんな少女が、目の前で一枚一枚、衣服を脱いでいた。
心臓はさっきから爆発寸前。見てはいけないと分かっているのに、視線も離せない。
織莉子ちゃんと知り合ってもう一月以上。彼女の事もかなり理解できていると踏んでいたが、流石にこれは予想外に過ぎる。
元々、俗世間からは少しずれているような印象で、実際そんな子だったが、ここまでエキセントリックな行動を取るとは……。見誤っていた。
というか、本当にどうすれば良いんだよこれ。
手を出したりすれば、間違いなく俺の人生が終わる。
けど、出さなかったとしても、絶対に織莉子ちゃんの心を傷付け、二度と手の届かない存在になってしまう。
行くも――いやこの場合は逝くか? とにかく地獄、戻るも地獄。俺は今正に、人生の岐路に立たされていた。
……どうする? ……どうするよ俺ぇ!? いっそのこと助けに降りて来てくれ爺ちゃぁあんっ!!
「ちゃんと、見て下さい……」
心の中の悲鳴には、もちろん気付いて貰えず。
無情にも最後の一枚が、パサリ、床に落ちていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
でっけぇ……。
思わず、白亜の豪邸を見つめて呟く。
逐一地図と見比べながら、初めて赴いたこの場所。延々と同じ石壁を伝って歩かされていたが、一つの家を囲う物だったとは。
向かう御宅の苗字に、まさか、とも思っていたのだが、その懸念は当たってしまったようだ。
ろくでもない先輩から押し付けられた、気の乗らないアルバイト。それでも、今度こそ縁を切る口実が出来たのだから頑張ろうと、心に決めていた。しかし、その結果がこれ。
マジどうしよう……。初仕事で相手がこれとか、間違いなく荷が勝つぞ……。
『どちら様でしょうか』
うゎあっ!?
――と、立派な門構えの前で悩む俺に、何か、機械越しの様な女性の声が掛けられた。
周囲をよく見れば、ちょうど胸の高さにインターフォンが据えられている。先ほどの声はここから聞こえたのだろう。
『御用が御有りなのでしたら、どうぞお申し付け下さい。そうでないのでしたら、即刻、御引取りを願います』
あ、ああ、すみません、違うんです――いや違わないのか? ちょっと待って下さい……。
今にも通報されそうな険のある声に、俺は慌てて鞄を探る。
ええと、確かここに入れて………………あった!
俺――じゃなくて、僕は、組合から派遣された家庭教師の者です。本日、受け持たせて頂く美国織莉子さんに、面会の約束が……。
『ああ。話は伺っております。ただいま門を御開け致しますので、そのままお進み下さい』
新品の登録証を示すと、得心の行った声が返り、滑らかに鉄門が開く。
ほっと一安心するも、突っ立っている訳にも行かないので、とにかく言われた通りに脚を進める。
門と玄関を繋ぐ石畳に、手入れの行き届いた青い芝生。遠目に見えるのは庭園だろうか。
俺みたいな一般人が思い描く、リッチな豪邸の具現。そうとしか言い様が無い。
ぼけーっとそれ等を眺めているうちに、重厚な、木製らしい玄関の扉が近づいていた。
その前にはスカートを穿いた人影があり――
「先程は失礼を致しました。わたくし、当家に仕える使用人の――」
……メ、メイドさん?
「――は?」
――全身像を認識した瞬間、目を疑ってしまった。
胡乱に眉を歪める、少しばかり年上かと思える女性は、その身をメイド服に包んでいるのである。
先に言った先輩に無理やり行かされた、「お帰りなさいませ♪」的な喫茶店の安っぽい偽物ではない。実用性重視な、クラシックメイド。
声や言っている事を考えるに、さっき対応してくれたのはこの人なのだろう。
す、すげぇ、本物だ……。
「……使用人の、奈々瀬と申します。お見知り置きを」
少々ジト目になりながらも、静々、彼女は腰を折り曲げてくれる。
それに習い、僕は、と自己紹介を――
「中でお嬢様がお待ちです。こちらへ」
――しようとしたのだが、扉を開かれる事で遮られた。
なんだか、微妙に慇懃無礼な対応をされている気がする。普通に綺麗な顔立ちをしているのがまた、言動をキツく感じさせた。
そりゃあ変な反応しちゃったし、この家に比べたら俺なんか場違いもいい所なんだけどもさ。
こっちだって仕事で来てるんだから、もうちょっと柔らかな物腰で接してくれてもいいんじゃないか? はぁ……あ……?
思わず心の中で溜息をついてしまったが、そんな物もすぐさま吹き飛ぶ。何故なら、本日二度目の驚きが、俺を襲っていたからだ。
広々としたエントランス。
二階までが吹き抜けとなっているそこは、正しく別世界だったのである。
シックな赤の絨毯が敷き詰められ、壁沿いには、おそらく俺の一生分の給料で買えるかどうか、という高級感を漂わせる花器。
一際に目を引くのは、中央奥にある、途中で左右に分かれる二階への階段――その踊り場に飾られた、大きな一枚絵。
髪をシニヨンに編んだ、女性の肖像画。
時間ごと切り取られた、浮世離れの美しさ。しかし、垂れ目がちな大きい瞳が親しみを感じさせ……優しい、母親の様な印象を受けた。
そして、俺と同じく、優しそうな人を見上げる背中。……女の子? ああ、そうか。彼女が――
「ようこそ、おいで下さいました」
瞬間、世界が狭くなった。
左のサイドポニーを揺らし、黒い長袖のワンピースドレスをふわり翻す少女が、ゆっくりと、階段を下りる。
手すりに乗せられた細い指のしなやかさ。
コツ、コツ、と近づいて来る心地良いリズム。
俺の前に降り立った彼女は、スカートの両端を軽くつまみ、僅かに体を低く。
異常なほどに高まった集中力が、一挙手一投足を確実に捉えて、目に焼き付ける。
「初めまして。私が、今日から貴方様の生徒となる、美国織莉子です。どうぞ、よろしく」
一目惚れという現象が、現実に起こりえる物なのだと知ったのは、この時だった。
柔らかそうな髪質に、天使の輪を戴く艶やかさ。
つぶらな瞳は、まるで本物の宝石の様に――いや、それ以上の輝きを宿し、鼻筋や顎のラインも、高名な彫刻家が身命を賭してようやく削りだせるかどうか。
こんな、美術雑誌に溢れかえっている野暮ったい表現しか頭に浮かばないのが、悔しくて堪らない。
家の爺ちゃんが生きていたら、『何を捨ててもお近付きになれ』って言いそうな位に、煌びやかだった。
「……どうか、なさいましたか?」
耳に届いた旋律で、彼女に見惚れている事に気づいた俺は、慌てて言葉を返そうとする。
……あ、え、はいっ!
お、俺は――じゃないっ、ぼ、ぼきゅは……ぁ。
「ふふっ、そんなに緊張なさらないで下さい。私まで緊張してしまいます」
――が、あまりに緊張してしまったせいか、物凄く恥ずかしい噛み方をしてしまった。
せめてもの救いは、それを見た彼女が口元へ手を寄せ、本当に楽しそうに笑ってくれた事か。
……すみません。僕は、その、こういった仕事は、初めてな、ものでして……。
「そうなのですか? ……良かった。実は私も、家庭教師の方をお招きしたのはこれが初めてなんです。一緒ですね?」
小首をかしげ、柔らかな笑みを浮かべる少女に、そう……ですね、なんて愛想笑いをしながら、俺は高鳴る心臓の痛みに耐えている。
先に続いて実感していたのは、どうやら一目惚れというものが、著しく平常心を奪うらしい事。
流石に十九年も生きていれば、恋の一つや二つ経験がある。
けれど、こんなのは、初めてだ。体が震え出すのを我慢するのに、全神経を注がねばならないのは、初めてだ。
「……そうだわ。奈々瀬さん、準備を」
「かしこまりました」
そんな緊張感の元凶は、ふと何かを思いついたのか、側に控えていたメイドさんに指示を出し、それを受けた――奈々瀬、さん? が姿を消す。
主語と目的語が抜けているのに通じる辺り、二人の主従関係の長さが伺えた。
つーか、冗談抜きでサッと消えたんですが。忍者かあの人。
「あの……先生、と、お呼びしてもよろしいでしょうか」
……! は、はい、どうぞ、お好きなように……。
そうだ、僕は、なんとお呼びすれば……?
「そうですね……。先生が良いと思った呼び方で結構です。いっそ、『織莉子ちゃん』、とでも。如何でしょう?」
い、いや、今日お会いしたばかりで、流石にそれは。
無難に、美国さん、でお願いします……。
「確かに、少し性急でしたね。不躾な物言い、失礼致しました」
気を遣ってくれているのか、やけに親しく接してくれる美国さんだが、それに甘える訳にはいかない。きっと彼女だって、俺が断るのを織り込み済みだろう。
美国。
今の日本に住んでいて、この苗字から真っ先に連想する人物は、おそらく一人。
代々、政治家や実業家を輩出してきた家系であり、多方面に大きな影響力を持つ名家の当主にして、現職議員でもある、美国久臣氏。
その一人娘こそ、彼女――美国織莉子。
天と地ほども身分の差があるのだ。無礼な真似を仕出かしたら、マグロ漁船に乗せられる……かも知れない。注意しないと。
「それはそうと先生。お仕事の話の前に、少しだけお時間を頂いても?」
――なんて、それこそ無礼な事を考えていたら、今度は唐突な申し出。
疑問には思ったが、断る理由も無くて頷けば、「どうぞ、こちらへ」と美国さんは歩き出す。
ゆったりとした足取りの背後に付くと、俺と比べて少し低い、女の子としては長身な彼女のうなじが目に入る。
綺麗に結い上げられた髪は解れも無く、真っ白で細いそれを隠さない。
俺なんて、年がら年中跳ねっぱなしの後ろ髪に、大変な苦労をしているのだが。
それにしても、本当に綺麗だ……。思わず、指で《つー》ってしたくな――
「さ、着きました」
――ぅあい?
目的地は案外近かったのか、それとも、見蕩れていて時間感覚が変になったか。あるいは両方か。
いつの間にか動きかけていた腕は、到着を知らせる声に止まった。ビックリして変な声まで上がってしまう。
しかし、気付いていない――いや、あえて無視してくれたのだろう。美国さんは数歩前に躍り出てこちらを振り返る。
そして、その姿を目で追えば、またもや驚きが俺を襲う。
「我が家自慢の薔薇園です。さぁ、もっと奥へ」
何種類ものかぐわしい薫りが混じる、春めいて来たそよ風の中、咲き乱れる薔薇園を進む背中。
絶妙な加減ではためくスカートに、尻尾の様に揺れる髪。
美しいはずの花は、後姿だけの少女にすら負け、書割に成り果てる。
それは、作為的なくらい現実離れして見える光景で。物語の中に飛び込んでしまったような――ウサギを追いかけるアリスにでもなった気分だった。
……ウサギ? ……バニー……バニーガール……うわ、超見てぇ。見たら見たで処刑されそうだけど。
と、馬鹿な想像をしながらも、俺は誘われるように穴の中へと踏み入る。
程なく、薔薇園の中央らしき場所に、高級そうな茶器の乗るテーブルが見えた。
付かず離れずな位置に例のメイドさんの姿があり、美国さんが手ずからお茶の用意をしてくれている。
普通なら使用人がしそうなものだが、どうやら美国家ではこれが当たり前らしい。
「お砂糖は幾つがよろしいですか。それとも、ジャムの方がお好みでしょうか」
あー……すみません。
こういった、ちゃんとしたお茶は、飲み慣れていないもので、その。
……お任せします。
「分かりました。では、私の好みと同じ様に」
いい加減とも取れる返事を気に留めず、彼女はティーカップに角砂糖を一つとジャムを一杯。歩み寄れば、甘い香りが強まった。
メイドさんによって椅子が引かれ、俺は会釈をしながらとりあえず腰を下ろす。
すると、目の前に先程のティーカップが差し出され、美国さんは「どうぞ」と立ったままにそれを勧める。
どうぞと言われましても、正直、君を立たせたままで一人お茶を頂くなんて、もうありえない位に居心地が悪いんですが。
しかし、そんな事を主張できる訳も無く、言われるがままカップを手に。
い、頂きます……。
「はい」
……注目されてる。めっちゃ注目されてます。
美国さんだけじゃなくってメイドさんにもガン見されてます。「マズイとか言ったら殺す」みたいな感じです。
くっそお願いだから止めて下さいメイドさんに蔑まれるとか何処の業界の御褒――
――あ、うまい。
「……良かった。気に入って頂けましたか?」
思わず素の反応が出てしまう程、美味しかった。
すうっと口に流れた瞬間、バラが香る。種類なんて分からないが、ついさっき通った花の通路で感じた匂いだ。間違うはずが無い。
けれど主張し過ぎず、感じた時の様にさり気なく消え、紅茶自体の香りを邪魔しない。まぁ、こっちも種類なんて分からないけど。
砂糖とジャムが入っているはずなのに、全然くどくもない。なんだか、落ち着く味だ。
……知らなかった。紅茶って、こんなにうまい物だったんだ……。
「少し恥ずかしいですが、そう言って頂けると、手作りした甲斐があります」
え、手作り?
「はい。このジャムは、ここに咲いている薔薇で作ったんです。ちゃんと紅茶に入れても大丈夫なよう、試行錯誤しているんですよ?」
はー、すっごい……。
としか言えない。今日はなんて日だ。
初めて尽くしで、驚きっぱなし。吃驚するのにも慣れて来てしまった。
「……気分はどうですか。落ち着かれましたか?」
対面の椅子に座りながら、美国さんは一言。
それでようやく、俺のためにこの席を設けてくれたのだと気付いた。
確か、紅茶にはリラックス効果があった気がするし、爺ちゃんも、『緊張してる時は、少し甘い物を口にするだけでマシになる』って言ってたっけか。
よりにもよって、受け持つ予定の生徒――しかも中学生に気を遣われるとか、駄目過ぎだろう、俺。
わざわざ、すみ――。
「……先生?」
謝りかけて、また思い出す。
『詫びの言葉よりも、感謝の言葉と一緒に頭を下げられる人間になれ』
そうだ。今言うべきは、すみません、じゃない。
……わざわざ、ありがとうございます。紅茶がこんなに美味しいものだと、初めて知りました。
教える筈の人間が逆に教えられるなんて情けないですが、知る事が出来て良かったです。
ありがとうございました。
「あ……」
言いながら、頭を下げた。
どんな反応をされるか、少し不安はあったのだが、次に耳へ届いた声を聞き、間違ってなかったのだと確信する。
「うふふ。凄いわ、奈々瀬さん。お父様の目に狂いは無かったみたい」
「そのようです。わたくしが浅慮でした。では……?」
「ええ、お願いします」
何だかよく分からないが、どうやらあのメイドさんにも認めて貰えた? ……様だ。
が、顔を上げた時に彼女の姿は無く、美国さんと二人きりに――
「先生様、こちらを」
うぉ、は、はいっ。
――なったと思った瞬間、横合いから何かを差し出された。
B5サイズの小冊子。表紙に描かれる紋章――これは、白樺女子学園の校章か?
「一学期分の通知表です。参考までに、ご覧になって下さい」
はぁ……。じゃあ、失礼して……。
確かに、これから勉強を見させて貰うのだから、どの教科が得意なのか、逆に苦手なのかを知っておければ有り難い。
そう思い二~三ページ捲ってみるのだが、脳へ飛び込んで来た内容に俺は目を疑う。しかし、何度まぶたを瞬いても、紙面に躍る文字は変わらない。
……これは、誰かが何かを教える必要性があるのだろうか。
俺の手の中にある通知表を見れば、誰もがそう思うはずだ。
なにせ、それに綴られた評価は、体育と家庭科の二つを除いて、全てが最高評価なのだから。
こんな通知表、初めて見たぞ……。
「確かに、珍しいかも知れませんね。こんなに凝った通知表を作るのは、白樺か見滝原くらいだと聞いた事があります」
いや、そっちじゃなくて……あ~、やっぱりいいです……。
うっかり漏れた呟きに反応され、意味の取り違えを指摘しようとするも、別に間違ってもいなかったので、後ろ髪を撫で付けながらそれを飲み込む。
事実、こんなに上質な紙を使い、普通なら表紙・裏表紙を含めて四ページで済む物に二十ページもかけるなんて、普通じゃお目に掛かれない。弟が見滝原に通ってはいるが、普段は別々に暮らしているせいで見る機会も無かったし。
でも、なんか自信無くなって来た……。二つ以外オール10って超人か。その二つだって低い訳じゃないし、備考欄には生徒会長をしてるとまで書いてある。
俺がやった事あるのなんて、クラス委員がせいぜいですよ。世界が違い過ぎる。
……そう言えば。
どうして久臣氏は――美国さんのお父様は、家庭教師なんてお付けになられたんでしょう。この成績なら、そんな者は必要ないでしょうに。
それに、雇うにしても、もっと……正式な資格を持ったプロの方々が良かったのでは……?
「……それが、私にも分からなかったんです。お父様はただ、『今の内に美国と関係の無い、普通の人とも接してみなさい』、としか……」
美国と関係無い、ですか……。
どういう事だろうか。まぁ確かに、俺と美国家とは全く接点なんてありはしないが。
家は極普通の中流家庭で、何をやっても直らない跳ねた後ろ髪と、やたら絡んで来るロクデナシな先輩が憎い大学一年生で、女子中学生にときめいている変態だ。係わり合いになる方がおかしい。
……自分で考えといてちょっと傷ついた。
何でこうなったんだ……。俺ってロリコンだったのか? いや、身体付きだけ見ても、美国さん大人顔負けのモデル体形だし……。
「お父様は、何故、あんな事を仰ったのでしょうか」
唐突な問い掛けに、はぃ? と上擦った声が出た。
美国さんにも届いたはずだが、彼女はそれを無視。静けさを湛える瞳で、空を見上げる。自分自身への問いかけだったのかも知れない。
とりあえず、またも失礼な事を考えていたのはバレなかった様だ。危ない危ない。本当にしっかりしろよ俺。
「自分なりに考えてもみたんです。ああ言われたのは、私に至らない点があったからでは、と。でも、それを尋ねても、何も答えては下さらなくて……。
私はずっと、お父様の恥にならぬ様、努力をしてきたつもりです。
お父様が立派な方なのは知っていましたけれど、それは、私が優れた人間である証ではない。だからもっと頑張って、精進しなければ、と」
自戒している間にも、言葉は紡がれる。勤勉さを窺わせるその姿は、見ているこちらが背筋を正される程。
この子は本当に十五歳なのだろうか。身体付き的な意味じゃなくて。
普通なら、まだ遊びたい盛りだろうに。俺が彼女と同い年の頃なんて、比べるのもおこがましい位、怠惰な馬鹿だったのに。
それとも、これこそが永く続いている名家の証明なのか? やっぱり、違うんだな……。
「……ですが、一人で考えていても、答えは出なくて。何をすれば良いのか。何を学べば良いのか。お父様の考えている事が分からないなんて、生まれて初めて、でした」
――なんて思っていると、美国さんは一瞬、不安そうに顔を俯かせた。
年相応の、悩める少女の顔。
不意打ち気味なそれすら美しく、ずくん、と心臓が脈動する。
「けれど、先生のおかげで分かった気もするんです。……お父様は、勉強を通じて、それ以外の事を学ばせたいのではないでしょうか。
先程の先生からは、物事に対する真摯な姿勢を――お父様に通じる誠実さを感じました。……先に、謝らせて下さい。申し訳ありません。
失礼なのは存じているのですが、生まれ育った環境は、全く違うように思えたのに……。それは、私にとって意外でした」
あ、いえ、本当の事ですし、お気になさらず……。
「はい。ありがとうございます」
事実、受けた教育も雲泥の差があるのだろう。
さっきも言ったが、中流家庭の出だし、学校も一時期以外は真面目に行っていたが、所詮、公立だ。まぁ、勉強以外の事は、小さい頃に爺ちゃんから散々仕込まれたけど。
物心つくかつかないかの子供にとって、それ等はとても難しいものだったが、不思議と、十年以上経った今でも深く心に残り、不意に脳裏を過ぎっては、その意味を噛み締めさせるのだ。
つまりは、こんなに評価されているのは爺ちゃんのおかげであって、ちょっと後ろめたくもあるのだが……。
「何事にも真摯に向き合い、どんな状況でも公正さを失わない。これが、私の目指している物の一つなんです。
本当はただ、勉強だけをお教え頂くつもりでした。けれど私は、先生の中に模範とすべき姿勢を見ました。ですから、どうかご助力をお願いします。
勉強は勿論、少しでもお父様に近づける様、どうやってその心の持ち方を身に着けたのかを――人としての在り様を、見習わせて下さい」
そう言って次に見せた表情は、決意に満ち、凛々しく背筋も伸ばして、真っ直ぐにこちらを射抜く。
強い意思の込められた視線から、目を逸らせない。
本当はそんな立派な人間じゃないと否定しなくちゃいけないのに、褒められた事が嬉しくてそれも出来ない。
息が止まり、瞬きも忘れて見つめ合う中、俺の顔から零れたのは、自分でも意外な、軽い微笑みだった。
……信じているんですね。お父様の事を。
「はい」
花が咲く。
心から誰かを尊敬し、そんな自分自身もが誇らしいのであろう、満開の咲顔。
表現の一つとしてしか知らなかった言葉だが、ああ、確かに。今の彼女にこれほど相応しいものは、他に無い。
分かりました。僕にどれだけの事が出来るのか、あまり自信はありませんが。
少しでも美国さんの力となれる様、全力を尽くさせて頂きます。
「……はい。よろしくお願いしますっ」
メイドさんに見守られ、薔薇と紅茶の香りを感じながら、二人、微笑み合う。
きっと、難しい仕事になるだろう。
物を教えるのが初めてという事もあるが、それに加えて要求されたのは、明確な形の無い、人としての在り方。
言葉で伝えるにはあまりに抽象的で、俺の語彙もまるで足りない。一朝一夕で教えられる物でもないし、アルバイトの大学生には無理難題もいい所。
それに、改めて教える必要なんて無いほど、彼女は実直に思える。
だが、それでも。
君の咲顔を見つめていられるなら、やってみよう。……なんて、ポエミーな事を考えてしまっていた。
全く、似合わないったらありゃしない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「じゃあ……これで。どうでしょう?」
机に向かい、ペンを踊らせていた指を止めて、美国さんがこちらを見上げた。
その斜め後で頭を捻っていた俺は、促されるようにして、ノートに描かれた達筆な文字を覗き込む。
脳裏に描いていた数式、ヒントとなる参考書の解説、示された答えを照らし合わせれば……。
うん、合ってる……と思います。というか、これで合ってなかったらお手上げです。
「やっぱり、難しいですね。先生と一緒でなければ、解けなかったと思います」
肩の力を抜き、そう言ってくれる彼女へ、買い被りですよ、と苦笑い。
事実、俺は唸っていただけで、大した事をしてないのだ。いやはや、この子の冴え渡った頭脳には舌を巻く。
……ところで……。
「はい?」
こてん、と首を傾げる美国さん。
そんな姿も可愛いなぁこんちくしょう、なんて感じつつも、俺は忸怩たる思いを言葉にする。
……用意してきた問題をあっという間に解かれて、苦し紛れに鞄へ入れっ放しだった大学の課題を押し付ける家庭教師って、どう思われます?
「………………こ、個性的でよろしいんじゃないでしょうか? 難しかったですけれど、とても良い刺激になりましたっ」
あはは、ありがとうございます。
優しさに胸を抉られるのってこんな感じなんですねー。
本当にすみませんでした……。
「あ、頭を上げてください先生っ! ……そ、そうだわ、休憩、一旦、休憩を取りましょう! 今、お茶をお持ちしますから、あちらに座ってお待ち下さいっ」
広々とした部屋の窓際。丁度、陽だまりになっているティーテーブルを指し示し、美国さんは飛び出して行った。
御構い無くー、と一応は返すものの、本心ではその提案が有り難かったりした。
一息つかないと、情けなくて、雪みたいに解けて消えてしまいそうだ……。
時は数日ほど過ぎ去り、場所も移って。ここは美国邸の中にある、彼女の自室。
曰く、「狭苦しい部屋で申し訳ありません」だそうで。
……どう見ても俺の借りている、割と快適な1Kの五~六倍は広い。置いてある家具だって、完成度は歴然。値段なんて考えたくもない。
普通なら嫌味にも聞こえそうな言葉だったが、そう感じさせないのは、美国さんの持つ朗らかな雰囲気のせいだろう。
それとも、これが惚れた弱み、という奴なのか。まぁ、今はどっちでもいいか。
はぁあぁ……。
溜息をつきながら、俺は指し示された椅子へと腰掛ける。
今日は事実上、俺の初仕事の日である。とはいえ、結果はあの様だ。溜息も出よう。
想像していた以上に、彼女は聡明だった。おそらく、中学・高校で学ぶ事は既に頭へ入っているのだろう。でなければ、大学一年生である俺が詰まった問題を理解できる筈が無い。
頭が良くて、美人で、やんごとない家柄。
これだけ揃えばいくらでも増長できようものを、きちんと謙虚さも持ち合わせている。
完璧な人間も、居る所には居るものだ。
……あー。それにしても、なんでこう女の子の部屋ってのは妙にいい匂いがするんだ?
俺の部屋とは比べ物にならん。マイナスイオンでも発生してそうだ。
ついでに、美国さんは「お父様以外の殿方がこの部屋に入るのは初めてです」とも言っていた。おかげで、落ち着くんだけどもドキドキしてしまうという相反する感覚に苛まれている訳だが……。
いい年して何やってんだろう俺は、とも思う。
女の子の部屋に上がって興奮するなんて、まるで中学生だ。本当に、何やってんだろう。
こんな醜態を晒したんだ。契約を切られる可能性もあるし、いっそのこと深呼吸でもして、存分にこの空気を味わっておくか?
「お待たせしました」
――と、馬鹿なことを考えている間に準備が整ったのか、ティーセットの乗ったカートを押す美国さんが戻って来た。
彼女はテキパキとそれをテーブルに並べてくれる。わざわざ、お菓子まで用意してくれたようだ。
手持ち無沙汰だし、本当は手伝いたかったが、作法も何も分からない門外漢。
ここは大人しく持て成しを受けよう。
「本日はニルギリを用意しました。とても飲みやすい紅茶なんですよ。合わせて、クッキーもどうぞ。頂き物で申し訳ないのですが……」
いえ、とても美味しそうです。
美国さんは恐縮するが、見た目にも高級感が漂うクッキーだ。多分、これも一枚うん百円のお高い物だと推測できる。
家庭教師としての威厳はもう地に落ちているし、恥の上塗りも気にし始めたら欝になる。遠慮無くご相伴に与ろう。言葉の使い方は間違ってるが。
頂きます、と一声かけて、湯気の上るカップに口をつけると、爽やかな苦味を感じた。
そう言えば、今回は砂糖を入れていない。けど、個人的にはこっちの方が好みだ。それに、一緒に食べるクッキーの上品な甘さをスッキリ洗い流してくれて、これがまた心地良い。
はぁ……美味しい。こんな贅沢を知ったら、普通の紅茶を飲めなくなりそうですよ。
「まぁ、それは大変。でしたら、次からはもっと美味しいお茶を淹れて、もっと紅茶の虜になって頂きましょうか?」
あはは、勘弁して下さい。
――なんて、二人で笑い合う。
実を言えば、紅茶よりも君の虜になっているんですが。現在進行形で。
出会ってからという物、彼女への好感度は右肩上がり。どうにか顔には出さずに済んでいるが、このままでいたら、メーターが振り切れておかしな事になりそうだ。
ただでさえ、年上としての権威までもが失墜しつつある今、そんな真似は出来ない。少しでも仕事に関係する話をして、意識を切り替えなければ……。
それにしても、驚きました。大学生形無しの知識量ですね。これは、独学で?
「はい。生徒会長という役目を担っているからには、生徒の皆さんの手本となれる様、頑張っています。
それに、お父様のお仕事に関係する方がお見えになられた時、お話の相手を勤めさせて頂く事もありますので、勉強だけは疎かに出来ません」
……という事は、学業だけじゃなくて一般教養も自発的に学んでいる、と。
本当に、凄いですね。なんだか、こちらの方が見習うべき点が多い気がします……。
「そんな、大した事では。学校の勉強は、予習・復習を繰り返せば良い点が取れますし、教養に関しては、知っているだけでは意味がありませんから。
無理に詰め込んでも覚えていられませんし、何事もどう活かすか、だと思います」
御尤もです。
まぁ、皆がそう出来るようなら、落ち零れなんて存在しないんだけど。
俺だって、勉強を習慣付けるのにどれだけ苦労した事か。
それに加えて他の事も進んで学ぶとか、真似できそうも無い。というかしたく無い。本当に完璧超人だなこの子。
なんていう感想は胸に仕舞っておいて。
でも、それだけ勉強に時間を割いていると、遊ぶ時間……趣味に没頭する時間とか無さそうですね。
大変じゃありませんか?
「いいえ。何も、四六時中勉強している訳ではありませんよ? ちゃんとメリハリをつけるようにしています。でないと疲れてしまいますし、薔薇園のお世話も出来ませんから」
あぁ、やっぱりあのバラの世話は、美国さんが?
「ええ。元々は、薔薇が好きなお父様のために、お母様が始めたんです。それを私が引き継ぐ形で……。
最初は大変でしたけれど、大切に育てた花が、美しくその身を咲かせるというのは、嬉しいものなんですよ」
そうでしたか……。
誇らしげに、だが、ほんの少しだけ寂しそうに、彼女は語った。
美国さんの母親――美国夫人は、幼い彼女を残して世を去っている。
ネットで調べられる情報だが、その原因は病死。どうやら、生まれた時から体が弱かったらしい。
夫人もまた良家の生まれで、いわゆる政略結婚だったわけだが、それを抜いても仲睦まじい夫婦だったようだ。
その分、失われた時の悲しみは深かったと、共感できる。俺自身、物心が付く前に、家族を失った事があるから。
おそらくあの薔薇園は、二人きりの親子にとって、大切な思い出に触れるための場所なのだろう。
『悲しみは海ではない。いつか、すっかり飲む干す事ができる』
うろ覚えだが、これも爺ちゃんから教わった言葉。ロシアのことわざらしい。
いつの間にか触っていた、自作の改造ストラップ(爺ちゃんから貰った木のお守り)の感触に、懐かしさを感じながら。
物悲しくも思える雰囲気を変えるべく、俺は口を開く。
上品な趣味で、羨ましいです。僕の趣味なんて、精々マンガを読んだり、ネットしたり、友達と遊び歩くくらいですから。比べ物になりません。
「ふふ、趣味なんですから、上品も何もありませんよ。楽しめればいいじゃありませんか。……あ。でも私、よく考えたら漫画って読んだ事がありませんでした」
え? それは、珍しいですね。全くですか? 童話とかくらいは……。
「はい、流石に絵本くらいは子供の頃に。ですが、お友達の方々が話す、いわゆる少女漫画というのは……。面白いのでしょうか?」
さぁ……。僕も、少女マンガには手を出した事が……。
っていうか、噂じゃ物凄く過激だって聞くんだけど、勧めていいもんだろうか?
エロマンガや昼ドラも真っ青な内容を載せてるらしいが……。なんか、悪い事を教えてる気分だ。
……やっぱり、少女マンガは止めておこう。初体験には刺激が強いだろうし。
うーん。とりあえず、興味がおありでしたら、僕が持ってるのをお貸ししましょうか。
なんでしたら今度、持ってきますが。これもある意味、勉強みたいなものですし。
「そうですね……」
少し上を見上げ、自分の顎を指でツンツンする美国さん。
そのまま少し悩んでいたが、決心がついたのか、大きく頷く。
「……ちょっとだけ、興味があります。皆さんがお話しているのをただ聞くだけというのも、寂しかったですし。お願いできますか?」
分かりました。それじゃあ次の機会までに、読み易い物を厳選しておきましょう。
楽しみにしていて下さい。
「はいっ」
ぱぁ、と、咲顔が咲いた。
同じく笑顔でそれを眺めながら、俺は一応、真面目に考える。マンガ初心者にお勧めできるジャンルとは、なんだろう。
気軽に読めるコメディ物とか、四コマとかだろうか。女の子だし、やっぱり恋愛物か、それとも、スポ魂物もいいかも知れない。
悩むところだが、個人的には一押しのギャグマンガとかあるし、読ませて反応を見てみたい所だ。
……勉強も教えないで何やってんだろうか俺。
爺ちゃん曰く、『いい加減な仕事で得た金は泡銭と変わらない』、なんだし、真面目に仕事しなきゃ駄目だろ。
「……ところで先生。少し、質問をしてもよろしいでしょうか?」
あ、はい。どうぞ。なんでもお答えしますよ。
――と、気を引き締めていたところへ、丁度良く質問が飛ぶ。これで少しは、家庭教師らしい事が出来そうだ。
そう思った俺は姿勢を正し、胸を張って美国さんからの問い掛けを待つ。
が、どうしてか彼女はやや俯き加減。言い辛そうに顔の前で指を組む。
「……その。先程、先生は仰っていましたよね。よくお友達と遊び歩く、と」
は? ……ええ。確かに言いましたけど、それが?
「普通のお友達って、やっぱり、そうやってお出掛けとかしたりするものなんでしょうか」
………………んん? これは、どういった意味合いの質問なんだ?
深く考えなければ言葉通りなんだろうけど、『普通の』って……。
僕にとっては、になりますが、そういうものかと……。
断られる事もありますけど、お互いに暇が合えば一緒に出かけて、適当なファミレスに入って何時間も話したり、色んな店を冷やかしたり。
まぁ、時々喧嘩したり、趣味の違いで言い合いになったりもしますが、結局は仲直り出来ますし。
「つまり、先生にとっての『お友達』とは、特に用事が無くても、会ってお話したり、お出掛けしたり、時折、喧嘩もする間柄、という事ですよね?」
そう、なりますね。普通は。
後は互いの家を行ったり来たり、下の名前で呼び合ったり、あだ名をつけたり、でしょうか。
……あの、美国さん? これは、どういった意図の――。
「……どうしましょう、先生」
――と、そこで言葉を被せられる。
彼女らしくない様に思える無作法に訝しむが、当の本人は微妙に目を細め、麗らかな日差しの差し込む窓辺を見やり――
「その方程式に当てはめると、私、お友達が一人も居ません……」
――だなんて、悲しい事を言うのだった。
その姿は、絵画にして永遠に留めておきたいほど美しいのに、纏う雰囲気は、彼女の上だけ急に雲が掛かったかのようにどんより。
っていうかなんで唐突にボッチ宣言? 瑞々しい花があっという間にドライフラワーになったぞおい。
……ぇあ、え゛? み、美国さん?
「以前から、ずうっと感じていた事なんです。私にとっての『お友達』と、その皆さんとの間には、見えない壁があるような気がして……。
その証拠に、私は先生と違って、お出掛けに誘われたり、家に招かれた事もありませんし、喧嘩なんて夢のまた夢です。
これって、本当にお友達と呼べるんでしょうか? ……違いますよね、きっと……」
いや、喧嘩を夢見るのはどうかと思うんですが。
なんて突っ込みたいが、そんな事も憚れるくらい彼女は落ち込んでいる。
どうすりゃいいんだこれぇ……。と、とりあえず慰めておくべきか?
あ、あの、今のは単なる一例ですからね? 何もそれに当てはまらなくちゃいけない訳じゃないですし、僕の価値観が絶対な訳でもありませんから、ね?
「いいえ。先生のお話で確信しました……。学校の中では親しくても、それ以外に接点が殆ど無いなんて、やっぱり変ですよ。
テレビや本の中に描かれた友人関係が特別なんだと思っていましたが、私が変だったんです。
滑稽、ですね……。今の今まで、自分に胸を張って友達と呼べる人が居ないだなんて、気付きもいませんでした……うぅ……」
空っ風に吹かれ、散ってしまいそうな枯れ尾花が目の前にあった。
図らずも、本人が認識すらしていなかった傷口を抉り、塩を擦り込むような拷問に近い仕打ちをしたのだと理解した俺は、大慌てで花に水を撒き続ける。
いやっ、お、落ち込む必要なんてありませんよっ! 僕だって中学時代は友達なんて居ませんでしたし、数の多さを競うものじゃありません!
何でも腹を割って話せる、たった一人が居れば十分だってよく言いますし!
「そう、でしょうか……? でも、そのたった一人すら、私には……」
だ、大丈夫です、友達なんてこれからいくらでも作れますよっ!
美国さんは魅力溢れる人なんですし、自分から働き掛ければ、あっという間に友達百人集まりますよっ、保証します!
……そうだ。何でしたら、僕にも立候補させて下さ――。
「っ! 是非お願いします!」
――いぃ?
テーブル越しに、いきなり手を握られた。
身を乗り出す美国さんは、両手でそれを包み込みながら、とっても良い笑顔で瞳を輝かせている。
なんだ、なんだこれ? やっこい。
何でこんなに食いつかれたんだ? 細い。
そんなに喜ぶような事か? 小さい。
ものっそい心臓がバクバクしてるんですが? あったかい。
くそ駄目だ、頭ん中がメチャクチャにぃ!
「家庭教師の先生がお友達なんて矛盾している気もしますが、私、とても嬉しいですっ! 先生がお優しい方で、本当に良かった……」
あ、はは、よ、喜んで頂けて、何よりです……。
何よりなんですけど、そんなに強く握らないで下さい。まるで心臓を直接握られているみたいで苦しいんです。
ああでも、もっとこの苦しみを味わっていたい様な気もする。いっその事、これで死んでもいい気さえする。
本当に何なんだこのアンビバレンス感は。こんな単語、自分に使うとは思ってなかったぞ。
「……あ。でも先生? 本当にお友達になって頂けるのでしたら、一つだけお願いが」
お、願い? あ~、僕に叶えられる事、でしたら……。
「私なりに考えてみましたが、先生もお友達には、もっと砕けた口調でお話なさるんですよね? でしたら、私にも普段通りの喋り方をして頂けませんか?」
普段通り、ですか。
確かに、普通の友達相手なら、「僕」なんて言わずに「俺」で済ますし、敬語なんて使いやしないが……。
でも、ぞんざいな口を利くには礼儀正し過ぎるんだよなぁ、この子。
ちょっと考えを巡らせれば、彼女が幼い頃から厳しく躾けられていた事が想像できる。
多分、俺が本当に雑な言葉遣いをしたとして、美国さんは――無理だろう。
数日前の俺と同じ様に、「お友達とはいえ、先生をお相手に礼を失するわけには……!」とか言われそうだ。
かと言って、一方的にタメ口にするのも……うーん……。
「……実は、ちょっとした憧れでも、あったんです」
無言で悩んでいると、彼女は少し恥ずかし気に顔を俯かせた。
憧れ……。
こんな、当たり前の事が? どういう事だ……?
「先生の仰る、普通のお友達の様に。下の名前で呼び合ったり、あだ名を付け合ったり……。一度でいいから、そういう事をしてみたかったんです。
昔から、私の周りには多くの人が居てくれました。でも、先ほど言いましたが、何か見えない壁の様な物が、その人達との間にはあって……。
だからかも知れません。私は、必要以上に踏み込む事をしませんでしたし、皆さんもそれを感じて、踏み込んではくれなかったのだと思います」
友達。
この言葉は存外、美国さんにとって大きな意味を持っているようだった。
憶測に過ぎないが、今まで彼女の側に居たのは、今の俺と同じ、『美国』への意識を捨てられない人間。
例えば、子供の頃から、砂場で泥まみれになって遊ぶ代わりに、綺麗な服と上品な言葉に飾られる毎日。
由緒正しい『美国家のお嬢様』に迎合する事を由とする人々で、周りを囲まれる毎日。
それは……憐れとしか言い様の無い、味気無い日々に違いない。
あくまで俺にとっては、だが。
「けれど、先生とお話して、自分で言葉にしてみて、ようやく気付けました。私はただ、待っていただけ。
自分から踏み込む事を恐れて、いつか、誰かがそうしてくれるのを期待していただけなのだと。……これでは、本当のお友達なんて出来るはずがありません。
だから、やってみようと思うんです。少し不安ですが、ああ言って下さった先生となら、強い気持ちで、その一歩を踏み出せる気がするんです。
お願いします……っ。私と――“美国織莉子”とではなくて、“ただの織莉子”と、お友達になっては頂けませんか……?」
ぎゅうぅ、と、手に感じる柔らかさ。
上目遣いの、縋る視線。
これを無意識にやっているのだとしたら、この子はとんでもない悪女の才能に恵まれている。
ふと、そんな事を思った。
はぁ……。仕方ない、か。
「……先生?」
呟く声を訝しんで、首を傾げる。
そんな彼女に向かって、俺は空いた手で後ろ髪を撫で付けながら、苦笑いを見せた。
良いよ、分かった。
「……あ」
仮とはいえ教え子なんだし、何より、友達の頼みだからね。
後から馴れ馴れしいなんて言わないでくれよ、織莉子ちゃん?
「……っ」
普通に考えれば、即行で首が(物理的に)飛びそうな軽口。
事実、キザったらしい笑いを浮かべながら、俺は背中に冷や汗をかいている。
女の子――それも、一目惚れをしている相手にこんな口を利くのは、生まれて初めてだし、繋いだままの手から、心の震えが伝わりそうで怖い。
なのに彼女は、ゆるり、眦を下げて。
手に掛ける圧力を高め、そして――
「……はいっ!」
――また、花が咲く。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「それってさ、仕事してるって言えんの? ただ女の子とイチャイチャしてるだけじゃね?」
言うな、弟よ……。
俺だって自覚してるんだから……。
「なら良いんだけんどもさー」
じるー。
ワザとらしく音を立ててオレンジジュースを啜る弟の言葉に、俺は胡坐をかきながら嘆息する。
中央に小さなテーブルがあり、壁際にベッド、その向かいにある付けっぱなしのテレビがニュースを流すここは、今は弟の部屋であり、かつての自室でもあった。
久しぶりに実家へ帰ってきた週末。
最近どうよ? なんていう定番の会話から、俺は彼に近況を報告していた。
そして、つい一ヶ月ほど前から始めたアルバイトの話をした結果が、あれだ。
……まぁ、実際そう言われても仕方が無いのだが。
「俺も噂に聞いた事あんだけど、本当だったんだなー。白女の才媛とか、完璧の体現とか……。兄貴も頭いい方だろうけど、その織莉子ちゃんには――」
おいテメェなに気安く名前呼んでんだ捻るぞコラ。
「あーはいはいこれだから童貞は。昔のリーダーと同じ反応しちゃって」
だだだ誰が童貞だぁ!? どっどどっどっ童貞ちゃうわぁ!? 彼女だって居た事あんだぞぉ!?
「そーですねー。おてて繋いでチュー止まりだったけどねー。俺はそれすら未経験ですがねー。
とにかく、勉強も敵わなかった訳だ。んで、大体の時間はそれを教える代わりに、兄貴が普段やっている事を一緒にしてる、と」
まぁ、そうだな。
「マンガ貸したり、パズルゲーで対戦したり、ただ単にお喋りしたり?」
……そう、なるな。
段々と目を細める弟に答えれば、彼は一転、得心が行ったような笑顔を見せ、腕組みをしながら何度も頷いた。
「そっかそっか。いやー羨ましいわー。俺も将来、家庭教師を目指そっかなー。女の子を誑かすだけの簡単なお仕事です、ってか」
お前そのオレンジジュース返しやがれ。
せっかく高いの買って来てやったってのに。
「だってさー、誰でもこう言うと思うんだけど。本当に遊んでるだけじゃん。それで給料貰うってんだろ? っていうか貰ったんだろ? 羨まし過ぎるわ」
そうなんだよなー。それが後ろめたいんだよー。
テーブルに肘を突き、両手で自分の顔を挟み込む。
言いくるめられたみたいでちょっと不服だが、弟の言葉自体には同意せざるを得ない。
現在、週に二日の割合でお邪魔させて貰っている訳だが、俺が美国家に滞在する数時間の内、勉強へ当てている時間は半分にも満たないのだ。
一応は、彼女が普段やっている予習・復習を手伝ったり、俺の作ってきた課題を解いて貰ったりもしているが、それは「あっ」という間に終わってしまうし、だからってまた大学の課題をやって貰うなんて忍びない。
では、残りの時間をどうしているのか。
美国さん――織莉子ちゃんたっての希望により、彼女の『お友達』として過ごしているのである。
なんと言えば良いのか……浮かれている、のだろうか。
一緒にマンガを読んで笑ったり、携帯で出来る無料のゲームで対戦したり。ただそれだけの事に、随分とはしゃいでくれるのだ。
その時間はとても楽しい物なのだが、日を追う毎に奈々瀬さんのジト目が質量を帯びてきて、肩が重いったらありゃしない。
ちなみに、「聖☆お爺ちゃん」というマンガが織莉子ちゃんのお気に入り。
いたくツボに嵌ったらしく、緩んだ顔を見せまいとベッドへ逃げ、枕に顔を埋めてプルプル震えながらシーツをポフポフ叩く姿は、とっても可愛らしくて眼福でした。
そういや、あの日だけは帰り際、「ぐっジョブです」って奈々瀬さんにサムズアップされたな。もしかして監視されてんだろうか。
「ま、それはそれとして……本気なのかよ」
本気って……何が。
「そのお嬢様の事に決まってんじゃん。本気で惚れてんのかって聞いてんの」
………………。
呆れた口調の問い掛けに、俺は沈黙しか返せない。
憎からず思ってはいる。けれど、それでどうにかなる物ではないのだ。
身分の差、生まれの差、年齢の差。
想いだけでどうにかなるなら、この世界はもっと、皆に優しいはず。
だから――
「本気なら……何にも出来ねぇけど、応援くらいは……」
別に、気にすんな。
人を好きになるのだって初めてじゃないし、振られるのもそうだ。
色々と考えたけど、今回は相手が悪過ぎる。……諦めるさ。
契約が終わるまでの、期間限定の友達で終わるよ。
「兄貴……」
――だから、何も期待しない。
もし、まかり間違って関係が進展しても、きっと周囲の環境がそれを許さず、押し潰される。
そんな未来が容易に想像できる程、差があり過ぎるのだ。
なら、不確かな未来に期待なんかするよりさっさと諦めて、一時だけの、夢のような蜜月を交わしているのだと思った方が、間違いも起こさずにすむ。
変に傷つくのなんて、真っ平ごめんだ。
それきり、部屋を静寂が支配する。
唯一の音は、とある大物政治家の逮捕劇を伝えるキャスターの声のみ。
なんでも、自分の罪を他の政治家になすり付け、幾人もを失脚、自殺にまで追い込んだケースもあったらしい。
下劣な人間も居たものだ。
「……あー、やっぱ無理だ。いい機会だし、言わせて貰うわ」
――と、突然、弟は頭を掻き毟り、自分の膝に両手を叩き付けて睨み付けて来る。
「兄貴さ、その物分りがいい振り、どうにかなんないの? 見ててイラっとするんだよね」
は? ……どういう意味だ、おい。
「意味も何も、言った通りだって。本当は諦められない癖に、上辺だけいい子ちゃんぶって諦めたような振りすんなよ」
……何のつもりだ、お前。いい加減に――。
「『惚れた女のケツを追っかけるなら、余計な事は無視しろ。ただ、その女の事だけを考えろ』、だっけ? 忘れたなんて言わねぇよな」
っ、それは……。
「兄貴にリーダーの事を相談した時、散々自分で言ってた事だもんな。俺が生まれる前に死んじまった、爺ちゃんの言葉。いつもはそれで説教するくせに、都合のいい時だけ忘れてんじゃねぇよ」
違う。忘れてなんかいない。忘れられる訳が無い。
十五年前――四歳の頃だ。他の事は朧気にしか思い出せないけど、あの人の事だけは、全て思い出せる。
弟の出産を間近に控えた母と、仕事一筋な父の手を煩わせないために預けられた、母さんの田舎。
古い日本家屋。厳つい手。低くしわがれた声。
母さんを生まれてもいない弟に取られたと、酷く拗ねていた俺を諭してくれた、傷跡の残る優しい顔。
忘れたくなんて無い。
だからこそ、こうして爺ちゃんから貰ったお守りを肌身離さず持ち歩いているんだから。
でも……。
だったら、どうしろってんだよ……。
「は?」
相手は由緒正しい政治家の娘だぞ? それにひきかえ、家は先祖代々平民の家系。
身分違いも甚だしいし、そもそも、織莉子ちゃんはまだ中学生だ。犯罪じゃねぇか。
こんな気持ちになる方がおかしいんだ……。だから、諦めるのが一番いいんだっ!
「だぁかぁらぁ、爺ちゃんはそういう事を考えるなって言ったんじゃねぇのかよっ!?」
そんな簡単に行く話じゃないんだよ! ちったぁ考えろ馬鹿!
「考え過ぎて駄目になった奴を知ってっから言ってんだよ! この分からず屋ぁ!」
うるさい! 何も知らない癖に、この世間知らずが!
テーブルを叩きながら、俺と弟は激しく言い合う。
顔も間近に突っつき合わせ、誰かが見ていたら間違い無く止めに入るだろう勢い。
だが、父は仕事、母は買い物で止める者も無く、互いに胸倉を掴みそうになった、その時――
《フォン》
――と、買った当時から変更していない、デフォルトのメール着信音。
出鼻を挫かれ、舌打ちしながらも発信者を確かめれば、そこにあった名前は。
……織莉子ちゃん?
「んだよ、あんなこと言っといて、ちゃっかりメアドは交換してんじゃん」
うるせぇ。仕事上の連絡に必要だから俺のを教えてあるだけだっ。
そもそもあの子から直に連絡が来るなんて、これが初めてだっつの。
しっかし、なんでいきなりメールなんか………………。
「……ん? どうしたんだよぅおっとぉ!? あっぶね、落とすなよ携帯!」
視神経を通じて脳を揺さぶった情報に、俺は硬直。思わず携帯を取り落とす。
弟が危うくキャッチしてくれたが、処理落ちした思考はまだ固まっていて、先程まで言い合っていた事も忘れ、助けを求める。
や、やび、やばい、どうしよう、どうしようこれぇ!?
「はぁ? とりあえず落ち着け――っておい兄貴っ、このメール! なんだよやったじゃん! 脈有りだよ脈有り!」
い、いいい、や、でも、かか、か、仮にも教師と教え子が、ま、マズイだろ?
「なに言ってんだよ家庭教師じゃん。無問題無問題。むしろ逆玉狙えるって!」
俺はそんなつもりじゃ……! ってか、服、服が無い! 俺、スーツ以外はファッションセンターのしか持ってない!
「おぅ、そりゃやばいな。よし、買いに行こう! 午後も暇だろ? リーダー達と堂もっちゃん呼んで見立ててやっからさっ」
リーダー? ……ああ、こいつが何時もつるんでる栄田君の事か。後もう一人居たっけか?
それに、堂本さん(堂もっちゃんの事)は確か女の子。
服選びに女子の視点は重要だ。
そりゃあ助かる……っておい! 俺はまだ行くとは……!
「いいからいいからっ、ほら携帯持って、財布持って! ……あ、リーダー? 緊急事態発生! 堂もっちゃん連れて駅前に集合してくれっ、家の兄貴に春が来たぁぁあああ!!」
かつてないハイテンションの弟に背中を押され、部屋を後にする。
大きなお世話だ、とか、誰が金払うと思ってる、とか、色々と言いたい事があるのに、俺の口は回らない。
織莉子ちゃんの送って来たメールは、きっと誰もがそうなってしまう位、有り得ない内容だったのだ。
……本当に、予想外だったのだ。
『織莉子です。
初めてメールさせて頂きます。
唐突に申し訳ないのですが、今度の日曜日はお暇でしょうか。
もしお時間が有りましたら、是非、先生とご一緒したい場所があるんです。
宜しければ、私と一緒にお出掛けして頂けませんか?』
苗字しか推測できないからタグ(“名”無し)的にはセーフ!
……という事で勘弁して下さい。