「へぇ~。本当に色んな物があるんですねぇ~」
あー、うん。そうだねー。
「あ、見て下さい先生。しつこい跳ねも一瞬で直る寝癖直しだそうです。こんな物も売ってるんですねっ」
う、うん、それは分かったから。もうちょっと落ち着いて? 見られるから、ね?
「……あ。す、すみません。私ったら、はしゃいでしまって……」
少し恥ずかしそうに、織莉子ちゃんは舌を見せてはにかむ。
そんな仕草も恐ろしく可愛い彼女に合わせて苦笑いしながら、俺は自分達の居る場所を見回す。
白く清潔な、合成素材っぽい床材。
昼間でも明るい照明に、道路へ面した雑誌コーナー。
右億の飲料コーナーと、正面奥には弁当やサンドイッチ。
そう。彼女が行ってみたいと言った場所とは、極普通の近所のコンビニエンスストアだったのである。
もしや可愛い女の子とデートが出来るのかと密かに心躍らせて、精一杯お洒落してみた結果がご覧の有様だよ!!!!!!
お願いだから、誰か俺の事を指差して笑ってくれ。
馬鹿め。お前なんかを彼女がデートに誘うはずが無いだろう。と罵ってくれ。
その後で結構ですから、惨めなこの男を哀れんで下さい。
ああぁあぁ……有頂天になってた過去の俺をカイザーナックル付きでぶん殴りたいぃ……。
まぁ、お洒落ったってガイアが俺に輝けと言ってる訳で無し、日和って少し高級なだけの普段着っぽい格好で纏めたんですがね。
むしろ、それにかこつけて買わされた堂本さんのゴスロリ服の方が高かったんですがね。どんな趣味やねん。似合ってたけど。
ちなみに織莉子ちゃんは、細やかな刺繍が高級感を漂わせる、春らしい色合いのツーピースに肩掛けポーチ。これまた良く似合っている。
つーか、諦めるって弟に言っておいて結局来てるし。何してんだよ、ほんと……。
「せっかくですから、いろいろ買って行きましょうっ。お昼ご飯とか、おやつとか。お小遣いも多めに貰って来ましたしっ」
枯れた笑みを浮かべるこちらの事などお構い無しに、がま口を握り締めて店内を巡りだす彼女。
どうでもいいけど、なんで普通の財布じゃないんだろう。ブランド物の長財布とか持っていそうなのに。まぁ、妙なギャップがあってこれも可愛いんだけど。
それに、どうしてわざわざ休日に約束までしてコンビニくんだりまで出向かなければならないんだ? この御時勢、老若男女が一度は利用した経験があるだろうに。
織莉子ちゃんと一緒なら嬉しいっちゃ嬉しいけど、これも疑問だ。
カゴを取り、お菓子のコーナーを物色する背中にそれを訪ねてみると、彼女はチョコレートの箱を手に、声だけを返す。
「私、実は自分の手で買い物をした事が無いんです。お父様とお買い物に行った事はありますけど、支払いをした事が無くて。必要な物は、言えば用意して頂けますから。
それに日用品――ペンのインクやシャーペンの芯とかは、奈々瀬さんが何時も常備してくれていて、買いに行こうにも行けなくて……。
大分前、何も言わずにこっそり出掛けてみようとしたんですが、玄関で捕まってしまいましたし……。今回は先生と一緒ですから、何とか許して貰えましたけど」
なるほど……。大変だね、箱入り娘っていうのも。
俺だったら息が詰まりそうだよ……。
「そうなんですっ。確かに、街を歩けば危険に遭遇する事もあるでしょうけど、過保護すぎると思うんです、私。
この歳になってお買い物すらした経験が無いなんて、逆に恥ですよっ。……あ、このお菓子、美味しそうです。八百円ですか、安いんですね」
……うん。買い物した事が無いのは確かにちょっとあれかもねー。
ちなみにそれ、最近発売した、かなり高いけどかなり美味しいって噂の商品だよー。
「え? そ、そうなんですか。じゃあ……こっちにしましょう。ご、五百円ですっ。お買い得、ですよね?」
どこぞの有名料理人とコラボったらしいチョコを棚に戻し、今度はムースタイプの極太ロッキー(梅イチゴ味。個人的にはもうちょっと安ければなぁと思う部類)を両手で示す。
そうだねー、なんて返事をしながらそれを受け取りつつ、だめだこりゃ、と思った。
確かに値段的には高くないが、決してお買い得じゃあ無い。もうちょっと庶民の金銭感覚を覚えてからでないと、とてもじゃないが一人で買い物になんか行かせられん。
奈々瀬さんもきっと同じだろう。笑顔でこの子を送り出しながらも、内心で冷や冷やしていたのが手に取るように分かる。
おそらく、こうしてお出掛けが許されたのは、奈々瀬さんなりの信頼の証。
なればこそ、その信頼に応え、織莉子ちゃんの金銭感覚を是正せねばなるまい。これも仕事の内だ。頑張ろう。
決意も新たに、飲み物はどうする? と促せば、彼女はまたもや瞳を輝かせてガラス扉にかぶり付く。
「そうですね……。あ、これ、興味があります。“超生命体飲料”……凄いキャッチフレーズですね」
手に取ったのは、ビビッドな色合いが有名な炭酸飲料だ。
……うーん。俺は好きだけど、いいのか? てっきり清涼飲料とかを選ぶと思ったのに。
「奈々瀬さんったら酷いんです。小さな頃から、炭酸飲料は体に毒だからって、自分の好きなラムネくらいしか飲ませてくれなかったんですよ。
だから一度、合成着色料と添加物がたっぷり入った、体に悪い炭酸飲料を飲んでみたかったんです!」
そっかー。気持ちは分かったけど、CMに使えそうな輝く笑顔で作ってる人に怒られそうな発言するのは控えようねー。
というか、小さい頃から? あのメイドさん、そんなに昔から織莉子ちゃんの家に? 俺と大して歳は変わらないように見えたんだけど。
「はい。物心がつく頃には、もう側に居てくれました。子供の頃からお姉さん代わりで、頼りになる人なんですよ。ちょっと過保護ですけど……」
懐かしむ声と綻ぶ顔から、相変わらずの信頼度を見て取れる。
きっと、俺なんかには立ち入れない位の積み重ねがあるのだろう。
無条件に信頼できる人物が隣に居てくれるというのは、俺にとってのそれが喪われているのもあるが、少々羨ましい。
「先生はどうしますか? 普段はどんな物をお飲みに?」
ん? もっぱら緑茶かな。
子供の頃、爺ちゃんにこれでもかって飲まされたから、もう飲まないと落ち着かなくて。
つっても安物だけどね。
「なるほど。健康的でいいですね。では、この『土左衛門』を……なんでこんな不吉な名前の商品が……?」
さぁ……? 別のにしようか。
――と、こんな風に楽しく(?)会話しながら、二本のペットボトルをカゴに足し、メインとなるファストフード・コーナーへ。
ヨーグルトや菓子パンなど、女の子が好きそうな物もあるが、意外な事に織莉子ちゃんはそれを無視。
真っ直ぐ、カウンター近くのおにぎりが並ぶ棚の前に。
「うわぁ。凄い種類ですね……。考えた事も無い具が沢山です」
唖然とする彼女の言葉に、そうだね、と頷く。
定番の梅、鮭、おかか、ツナマヨ、高菜は当然。他にも、海老マヨ、オムライス、唐揚げ、ネギトロ、辛子明太子、ソーセージにチャーハンなどなどなど。
とにかく種類が豊富なのが売りだ。個人的には、海苔がしっとりしてるタイプの鳥五目とか好みだが……。
今までの言動から察して、これも食べた事が無いのだろう。
試しに、もしかして食べたこと無い? と聞いてみれば、案の定、織莉子ちゃんは肯定を返す。
「はい。あ、普通のおにぎりはもちろん食べた事がありますけど、こういった大量生産品は。
前に無理を言って、海苔がパリパリの作りたてを奈々瀬さんに用意して貰った事も……。ようやっと本物が食べられるんですね……。感動ですっ!」
お手軽な感動だねー、とか思ったが、真剣に選んでいる所へ水を差す事も無い。彼女と並んで、俺もおにぎりを選ぶ。
バランス的に考えれば、隣にあるサラダ系や、甘いサンドイッチも買っておくべきか。うん、そうしよう。
……ってあれ。寝癖直しがカゴに入ってる。いつの間に……。
「ちょっとぉ、邪魔なんですけどぉー」
「あ、も、申し訳ありません」
カゴの中身を確認して驚いていたら、唐突に不機嫌な声。横を向けば、男連れの女性がこちらを睨みつけていた。
よくよく観察すると、その男は織莉子ちゃんをだらしなく眺めている。……なるほど、嫉妬か。
あまり気分はよろしくないが、触らぬ神に祟り無し。すみません、と一言誤り、俺は織莉子ちゃんの肩を引いて道を譲る。
通り過ぎ様、女性は「ふんっ」と鼻を鳴らし、男は妬ましそうな視線をこちらに。
うーむ。これが美少女を連れて歩く優越感と弊害か……。この子と一緒だと、本当に退屈しないな。
「ごめんなさい、先生。私がはしゃいでいた所為で、不愉快な思いを……」
謝りながら、しゅん、と肩を落とす織莉子ちゃん。
先程までの笑顔も、申し訳無さそうに消えてしまった。
それがなんだか寂しくて、大丈夫だよ、と笑い掛ける。
俺だって、あんな風に目の前を占領されてたら邪魔だなぁって思うし。
あの人が正直者なだけさ。気にしない気にしない。
「……はい。やっぱり、先生はお優しいですね。見ず知らずの方にも気を配られて」
………………違うよ。
織莉子ちゃんの前だから、格好付けたいだけ。
「――あ」
――って言ったら、どうする?
「……っ! て、撤回します……。先生は、意地悪な方、です……」
紅くなった顔を隠す様に俯き、解れてもいない髪を直す振り。
ああ、これだ。
この表情が、俺を惑わせる。変に期待を持たせる。諦めたく、なくなってしまう。
……いや、駄目だ。こんなのは気の迷い。彼女だって、こういった経験は無さそうだし、それっぽい空気に流されそうになってるだけだ。……きっと。
俺は、良い先生で、良い友達で、いなくちゃ。
さ、まだ何か買う? もういいなら、早く会計を済ませよう。腹減っちゃったよ、俺。
「はい。これ以上買ったら、食べ過ぎでお腹が裂けちゃいます。あっ、お会計は私に任せて下さいねっ!」
気を取り直して催促すると、織莉子ちゃんは笑顔に戻りレジへ向かう。
コンビニを出て行くカップルを横目にその背を追い、カゴをカウンターに。
店員さんの「温めますか?」に、「お願いします!」と喰い気味な返事をする姿がちょっと可笑しい。
そして、滞りなく会計が済み、商品が入った袋を二つ受け取って安心した後は、今後の相談だ。
で、何処で食べようか、これ。
せっかくいい天気なんだから、外で食べてみる?
「良いアイディアですっ。なら、いい場所を知っていますよ。少し歩くんですが、
《バシャリッ》
話しながら出口に向かおうとしていたその時、不意に、何かの落下音。
振り向いてみれば、俺達の後ろに並んでいたらしい少女が、財布の中身をぶちまけてしまっていた。
「あー、大丈夫ですか?」
「……はい……」
やる気の無さそうな店員さんの声に、それ以上の覇気の無さでか細く答えるショートカットの少女。
彼女は気だるい顔付きで、落としてしまった小銭を拾い集める。
幸い、他には誰も並んでいないが、随分おっとりした子の様だ。服装がやけにスタイリッシュで、そのギャップが目を引く。
……手伝ったのが良いか? でも、金だしなぁ。変に触るとネコババだの何だの言われそうだし――
「大丈夫?」
「……え」
――と、そんな事を考えている間に、織莉子ちゃんはしゃがみ込む少女へと近づいて、手早く小銭を拾い上げ、唖然とするその子に差し出す。
それはあまりにも自然体で、俺の懸念が、全くの常識外れな錯覚すら覚えさせる。
「これで全部かしら?」
「う、うん」
「良かった。気をつけてね」
「あ……」
返し終えると真っ直ぐにこちらへ戻り、まるで何事も無かったかの様に「さ、参りましょう」と先導する。
多分、彼女にとっては本当に、何でも無い事なのだろう。
ごく当たり前に他人を気遣い、それを濫りに誇りもしない。
後の面倒まで予想し、考え過ぎて動けなかった俺なんかよりも、この子の方が、よっぽど。
本当に優しい子だね、君は。
「えっ? ……もう、なんです急に? 同じ手には二度も引っ掛かりませんよ?」
口をついた褒め言葉に若干頬を緩めながらも、織莉子ちゃんは澄まし顔。
どうやら、これもさっきの冗談の続きと取ったらしい。けど、またあの顔をされたら不整脈でも起こりそうだし、これでもいいか。
『素直に誰かを褒められるのは、誰かに褒められるのと同じくらい意味がある』
頭に浮かぶ爺ちゃんの言葉。
良く覚えてるもんだ、と内心で苦笑し、そりゃあ残念、なんて肩をすくめて見せた。
すると彼女は、こちらを覗きこむ様にちょっとだけ前屈みになりつつ、「はい、残念でした」、と上機嫌で自動ドアを潜り抜けようとする。
……あっ、織莉子ちゃん前――。
《ガンッ》
「はぅ゛っ!?」
――が、ちょっとだけタイミングが早く、透明なガラスにおでこを強打してしまった。
こちらに余所見していた所為もあるだろう。
コントでしか聞いた事の無い音と、見た事の無い仰け反り具合だった。
「ぅ、ぃ、痛い、で、す……」
……っく。お、織莉子ちゃん、大丈……夫……ぷっ、ふ、ふっくっく……。
「うぅぅ……! い、意地悪です、先生は意地悪です!」
あ、ちょっと待って織莉子ちゃ――ぶははははっ、ひぃーっ!
「笑わないで下さいー! もう知りません!」
落差のあるイベントが立て続きに起こり、耐え切れなくて、思わず腹を抱えて大笑い。
それが恥ずかしいのか、彼女はぷんすか怒って早足に歩き出す。
俺は目に笑い涙を浮かべながら、ずんずん先に行ってしまうその背中を、急いで追いかけた。
……あぁ、本当にどうしよう。
そんな風に、可愛く怒った顔を見せられたら。
ますます、君へ夢中になってしまうじゃないか。
「……おり、こ……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……むぅ……」
難しい顔に、険しい視線を乗せて。
ハンカチを敷いた、日当たりの良いベンチに腰掛ける少女が唸っていた。
固唾を呑んでそれを見守っていると、やがて、ペリッ、という音と共に、表情は一変する。
「出来ましたっ。凄いですね~。こんな仕組みになっていたんですか~」
しげしげ、ビニールの包みを観察する純真無垢な笑顔に、良く出来ました、と、俺は小さく拍手。
その少女――織莉子ちゃんが手に持っているのは勿論、おにぎりである。
縦にぐるーっと線を剥いて、左右に引っ張るアレだ。ちなみに具は海老マヨ。
拗ねてしまった彼女の御機嫌を取りながら、コンビニより歩いて約十数分。
辿り着いた五郷公園は、多くの緑に囲まれ、すり鉢状に段差のついた広場が中央に据えられる、大きな公園だった。
日曜日である事も手伝ってか、多くの人が集まり、小さな女の子を連れた父親らしい男性など、家族連れも見かける。
手に包みを提げている辺り、外での昼食が目的らしい。まぁ、それは俺達も同じなのだが。
「それでは早速。頂きます。……はむ」
律儀に挨拶してから、海老マヨおにぎりを両手でしっかり持って頬張る。
パリッと海苔が音を放ち、耳から食欲をそそった。
しかし、頬張るといっても彼女の一口は随分小さいらしく、噛み口からは白いご飯だけが覗く。
「美味しいです……。奈々瀬さんが作ってくれた物とは、また違った味わいがありますね」
ほぅ、と一息つき、満足そうな織莉子ちゃん。
ただのコンビニおにぎりでも、こうして食べる味はプライスレスみたいだ。
そんな姿に胃袋を刺激され、彼女に習い、頂きます、とおにぎりを食べ始める。具は豚の角煮だ。ついでに言えば、これは奢られた物である。
コンビニを出た後、俺が食べる分の代金を支払おうとしたのだが、織莉子ちゃんは頑として譲らず、払うから、と言っても「止めて下さい!」なんて言葉が返り、ついにはお札を手に言い合い。
如何わしい交際を強いているとしか見えない光景は、当然、周囲の注目を集めてしまい、俺達は逃げるようにして公園に飛び込んだのだった。
いやー、通報されなくて本当に良かった。
それにしても、今日はあったかいね。風も強くないし。
「はい。絶好のピクニック日和になってくれて、助かりました。ただのおにぎりですが、こうして日の光を受けて、お友達と――先生と一緒に食べるのは、格別です」
空を見上げ、眩しさに目を細める彼女へ、ホントにね、と軽い同意をしながら、俺は内心で悶えていた。
「友達と」のままなら普通に感想として聞けたのに、何でわざわざ「先生と」って言い換えるんだ。
明らかに好感度の上昇を狙われてる気がするぞ。実際上がったし。どうしてこんなに男心のツボを突くのが上手いんだよ……。つっても、この子は素でやってるんだろうなぁ……。
もし織莉子ちゃんが男だったりしたら、ギャルゲーの主人公みたいな一級フラグ建築士にでもなりそうだ……。
「んむ、ん、っん。はぁ……。海老マヨ、美味しかったです。ご馳走様でした。さて、次は……これにしましょうっ」
――と、一銭の得にもならない想像を繰り広げている間に食べ終えたのか、彼女は二つ目のおにぎりに着手した。
手に取ったのは……今度はネギトロか。
「ネギトロ……。これって、お寿司のネタじゃあ? あ、もしかして酢飯になっていたり?」
いや、前に食べた事あるけど、普通のご飯だったよ。
というか、あったかい酢飯っておんまり美味しくないんじゃない?
「……それもそうですね。では、頂きます」
あむ、と三角形の頂点をパクリ。
それを飲み込んでから、二口三口とまた頬張り、ようやく具に辿り着いた――
「――っ!? ~! ~~っ!!」
――かと思いきや、いきなり口元を手で覆い、目をぎゅうっと閉じて脚をじたばた。
な、なんだ? 突然そんな可愛い行動を取られても……あ、そういやワサビ入りだったか、このおにぎり。そのせいか。
随分といい所に当たった様で、織莉子ちゃんは目尻から涙まで零していた。
それでも必死に飲み下そうとしている姿がいじらしいからまた困る。
「っ、はぁ、っ、か、から、辛いです、ぅ……」
大丈夫? ほら、ジュース飲んで。
彼女の手は塞がっているので、代わりにペットボトルの蓋を開ける。
差し出してあげれば、それをゆっくり傾け、辛さを洗い流して「ぷはあ」と一息。
もしかして織莉子ちゃん、ワサビ苦手?
「はぁ……はぃ……。ワサビだけは、どうにも……。他の辛いものは、全然平気なんですよ?
唐辛子も、マスタードも、辛味大根なんか大好きですし、カレーだって食べられます。
……でも、ワサビだけは、駄目なんです。どんなに気をつけて食べても、鼻につーんと来るあの感覚が、絶対に、確実に来るんです……」
そう言って肩を落とす姿からは、ただならぬ悲壮感が漂ってきていた。
意外な弱点があったものだ。勝手な印象だが、食べ物の好き嫌いも全く無さそうだったのに。
いや、さっきの自動ドア正面衝突事件もあるし、ひょっとしたら、普段は完璧に見せているだけの天然箱入り娘だったりするのか?
友達が居ないって悩んだり、ジャンクフードに憧れたり、子供舌だったり。こうして見ると、完璧な存在とは程遠い、普通の女の子。
もしかして、俺の前でだけ、こんな姿を見せてくれるのだろうか。
個人的にはそんなのもチャームポイントにしかならないから、そろそろいい加減にして欲しい。もしそうなら惚れるぞ。既に惚れちゃってるけど更に惚れ直すぞ。
……まぁ、好き嫌いは誰にでもあるし、仕方ないよ。
でも、どうする? まだ半分近く残ってるけど。ツライなら無理して食べなくても……。
「い、いいえ。そんな勿体無い事、出来ません。が、頑張って食べます……。ぁ、あ……む……っ、ぅ」
ジュース片手におにぎりを口へ詰め込む彼女は、まるで苦行に挑む修験者の如き決意の表情。
どんだけ嫌いなんだ……。俺もらっきょうだけは死ぬほど嫌いだから、喰えと言われたらこんな顔するかも知れないけど、実際に見せられると苦笑いしか浮かばない。
なんだか、一人で美味しく食べているのが後ろめたくすら感じてしまった。
「………………っくん。っはぁあぁぁ……。お、美味しかったです……ご馳走様、でした……すんっ」
たっぷり十分ほど時間を掛けて、ようやく仇敵を討ち果たした後は、肩で息をしながら小さく見栄を張る。
それは、親に叱られながら大嫌いな物を食べ終え、ほんのちょっとだけ成長した、小さな女の子の様で。
微笑ましさを堪えきれず、勝手に頭を撫でてあげそうになる手をビニール袋に誘導し、俺は口直しを勧める。
よーく頑張ったねー、織莉子ちゃん。
デザート系のサンドイッチも買ってあるんだし、これで辛いのを忘れなよ。
ほら、すっごく甘いよー。
「……なんだか、酷く子供扱いをされている気がします」
そんな事ないよー?
ほぉら、生クリームと苺だよー?
食べないなら俺が貰っちゃうよー?
「むぅ。……頂きます」
若干膨れながら、しかし、甘さへの欲求は誤魔化せないのか、手渡したサンドイッチは瞬く間に消えていった。
その後も、たびたび会話のやり取りを繰り返しては、食事も進んでいく。
多めに買った――じゃないな。買って貰ったはずが、結局、おやつ以外は二人で食べきってしまった。おかげで少し腹が苦しい。
けれど、それすら奇妙な満足感をもたらしていた。
「はぅ。ちょっと、食べ過ぎてしまいました。おなか一杯です」
織莉子ちゃんも同じ感想なのか、苦しそうにお腹を撫でながらも、ご満悦な顔。
不思議だ。コンビニのおにぎりなんて、一人で食べたら味気ない食事だろうに。
彼女の言った通り、二人で食べれば、こんなにも充足感を与えてくれた。
……不思議なもんだ。
「先生。ありがとうございました」
――と、空を仰いで満腹感を騙していたら、唐突にお礼を言われてしまった。
あれ? お礼を言われるような事したっけか? 奢って貰ったんだから、お礼を言うのはむしろこっちなのに。
どうしたの、急に。俺、なんかした?
「お出掛けに付き合って頂いて、ですよ。私一人でも何時かは来れたと思いますけど、こんなに楽しくはならなかったと思います。
先生のおかげで、とても楽しいお出掛けになりました。ですから、ありがとうございます、なんです」
燦々と降り注ぐ陽光を浴びた花は、この瞬間、間違い無く俺にだけ向けられていた。
それが、どうにも嬉しくて。ともすれば、だらしなく落ちてしまいそうな頬を隠すため、俺は意地の悪い笑みを顔に貼り付ける。
……そうだね。俺も本当に楽しかった。
自動ドアに突っ込んだり、ワサビに悶絶する織莉子ちゃんを見るのは、全然飽きなかったよ?
「や、やです、もう! 今日の先生は意地悪ですっ! 忘れて下さいー!」
あっはっは、どうしようかなー。
こちらの腕を掴み、グラグラ揺らしての抗議。
珍しく直接的な行為に少し驚きつつ、彼女もこういう事をするのだと知れたのが、また嬉しくて。
自分の中にある、彼女への気持ちを実感する。
弟に言われた通り、口ではああ言っておきながら、諦めるつもりなんて毛頭無いのだろう。
そうでなければきっと、こんな風にからかうのが楽しかったり、触れる手に胸を高鳴らせる事も、無い。
ああ。この出会いを棒に振るには。
この気持ちを諦めるには、この子は可憐過ぎる。
だったら――
……うん。忘れるのは無理だけど、でも、その代わりに約束するよ。
また何処かへ行きたくなったら、俺が何処へでも連れて行ってあげる。何か、やってみたい事を見つけたなら、それも手伝ってあげる。
何時でも、どんな事でも。俺は君の先生で、一番の友達だからね。それで許してくれない? ……織莉子ちゃん。
「あ……」
――だったらもう、覚悟を決めるしかない。
年齢の差は、あと数年もすれば気にしなくて良くなる。
身分や生まれの違いも、俺が死ぬほど努力すればどうにかなる……かも知れない。
血の滲むような努力が必要になるだろう。
俺みたいなただの一般人が、彼女と対等の存在になれる可能性なんて、それこそ奇蹟の様な確立だろうし、例え叶ったとしても、当の本人に好かれなければ全くの無意味。
けれど――
「えっと、その……は、ぃ……。よ、よろしく、お願いします……」
――微かに頬を染め、恥ずかし気に、膝の上で指を組む姿は。
そんな不確かな未来をして、希望を見出させてくれるのだった。
会話は途切れ、俺と彼女の間を、穏やかな春の風が吹く。
揺れるサイドポニーは、その心情を表しているかのようにそわそわ。花も恥らう乙女が、そこに居た。
俺の言葉がこんな表情を引き出したとなると、やっぱり、希望を抱いてしまうのはしょうがないと思う。
……まぁ、あくまで希望的観測だけども。いきなり変なことを言われてびっくりしてるだけかも知れないし。
っていうか、連れてってあげるとか手伝ってあげるとか、良く考えたら上から目線過ぎないか?
うぉお、もうちょっと考えてから発言すりゃあ良かった……。
「……うぅ……。あっ、そ、そうだわ! でしたら先生、私、以前からやってみたかった事があります!」
覚悟を決めた端から失敗したんじゃないかと後悔していたら、不意に織莉子ちゃんはポンと手を打ち鳴らし、ビニール袋からある物を取り出す。
「前から気になっていたんですっ。先生のその後ろ髪、ぜひ私に直させて下さい!」
突きつけられたのは、先ほど昼食と一緒に買った寝癖直しと、ポーチから現れた櫛だった。
……え? 後ろ髪? あぁ、確かに今日も相変わらずだけどさ。
別に構わない、けど……え、そんなんで良いの?
「ええ、勿論。では、じっとしていて下さいね」
いささか予想外だった発言に困惑していると、彼女はどこか、急かされる様にしてベンチを立ち、俺の後ろへ回りこむ。
一声、「冷たいですよ」とあった後、しゅ、しゅ、と後頭部に湿り気を感じる。
そして、首筋にそっと添えられる手に、髪へ通される櫛。ただそれだけなのに、背筋がソクリとした。
……っ。そ、そんなに凄いかな。俺の髪。
「はい。まるでパーマを当てたみたいです。でも、会う度に跳ね具合が変化していたので……。一度、櫛を通してみたかったんです」
あー。なんか、寝てる時の癖みたいでさ。
いつの間にか頭の下に敷いちゃうみたいなんだ。
格好悪いのは分かってるんだけど、しつこくてねぇ……。
「なるほど、それで。……ん、本当に頑固ですね」
優しく、ゆっくりと髪を梳かれる。
いろいろ試そうとしているのか、頭を撫でるように小さな手が動いていた。
なんだろう。凄く、心地良い。
髪を弄られているだけなのに、とても心が落ち着く。
「先生の髪って、柔らかいんですね。だから癖がつき易いのかも知れません」
そう、かな……。
……なんか、眠い……。
そっか……昨日の夜は、今日の事を考え過ぎて……あんまり……眠れなかったんだっけ……。
「あ、動かないで下さい。もう少しですから」
船を漕いでしまった俺を、織莉子ちゃんの手が支える。
強烈な睡魔に、襲われていた。
暖かい日差し。柔らかな風。落ち着いてきた満腹感。そして、耳の下から顎にかけて感じる、好きな女の子の体温。
全てが絶妙に絡み合い、極めて効果的に、意識を削り取っていく。
「せ――い? ど――なさい――た? ……先――」
そして、段々と遠くなる声を、子守唄代わりに。
俺は、優しい指先に、甘えてしまうのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
煌々と明かりが灯り、窓に暗がりへ落ちた風景を飾る美国邸の廊下を、白いネグリジェで身を包み、上機嫌に歩く少女。
既に入浴を済ませた彼女――織莉子は、この時間、珍しく家へ戻っている父に就寝の挨拶をするため、その書斎へと向かっていた。
普段はいつも深夜に帰り、朝早くから仕事に出る父。
一日の内で話せるのは、この家で会談が開かれる時か、母が亡くなってからは必ず一緒に摂ろうと決められた、朝食の僅かな時間しかない。
だから、こうして会えるのなら、挨拶程度と言えど、欠かしたくないのだ。
(今日は、とても楽しかった……。色々と恥ずかしい思いはしたけれど……)
そんな中、彼女が思い出していたのは、一ヶ月ほど前から、自分の家庭教師を務めて貰っている、一人の男性との事。
今日はお昼前から、太陽が沈むまで。長い時間を一緒に過ごした。
歳の近い(それでも四つは離れているのだが)男性と、これどほ長く一緒に居たというのは、織莉子にとって初めての経験だった。
「……っ。ぁあぁあぁぁ、私ったらなんて醜態をぉぉおぉ……」
……そして人前で自動ドアに突っ込んだり、ワサビに悶絶したのも、当然、初めて。
今まで、何処の誰にも――父にすら見せた事の少ない無様な姿(自動ドアに限って言えば彼が唯一)。
記憶と共に蘇った羞恥心に耐えるべく、彼女はフラフラ壁に縋り付き、おでこも着けて熱を冷ます。
二人で一緒にコンビニへ行った。
たったの一行で表現できる今日という日には、一行に収まりきらない程のイベントが盛り沢山。
その上――
(今日の先生は、本当に、もう……っ)
――共にそのイベントを経験した彼は、今日に限ってやたら意地悪に思えたのだ。
受けた仕打ちが思い出されて、カアッ、と頭がヒートアップしてしまう。
涙ぐむまで大笑いしなくたっていいじゃない、と、織莉子は思うのだった。
そして、あんな酷い様を見られてしまったのは勿論、恥ずかしがる理由は他にも。
コンビニの店内で、「格好付けたいから」と言われた時の、真剣な目付き。
公園のベンチで、「一番の友達だから」と宣言された時の、柔らかい笑み。
最後に、織莉子の手に頭を預け、眠り込んでしまった彼の、穏やかな寝顔。
そのどれもが、目に焼き付いて離れない。
最初の眼差しは、からかわれたのだと分かっていても、脈が早まってしまった。
二つ目の言葉を聞いた時などは、嬉しさと気恥ずかしさが入り混じり、跳ねた髪を直してあげたい、と変な事を言って誤魔化してしまった。
あの寝顔なんて、見ているこちらまで眠くなってしまうくらい気持ち良さそうで、起こしてしまうのが忍びなかったほど。
別にこれだけなら普通なのだが、勿論それでは終わらない。
いつまでも頭を持っている訳にもいかず、彼を起こさぬよう細心の注意を払って隣に戻り、どうしようかと思案していたのだが、その間に彼は織莉子に向かって倒れ、頭は太ももに着地。
図らずも、膝枕の形となってしまったのだ。年頃の男性にそんな事をしているという事実は、酷く緊張をさせられた。
起きた時の飛び上がり様(転げ落ち様?)と、その後の土下座を考えるに、これだけはワザとでは無かったのだろうけれど、とんだ災難である。
おかげで、しばらくは脚が痺れて動けなかったし、顔を真っ赤にする彼に釣られ、こちらまで大いに照れてしまったのだから。
(……でも。嫌じゃ、無かった)
――が、積極的に拒否したいとも、思えなかった。
こんなのは――いや。“これも”、初めてだった。
「デート、だったのかしら……」
消え入るように、織莉子は呟く。
恋愛関係――もしくは、それに近しい男女が交わす、逢瀬の約束。
今頃になって、この言葉が浮かんでくる。
少なくとも、思い付いた時はそんなつもりではなかった。
ただ単に、また一人で行くには踏ん切りがつかなくて。でも、彼と一緒ならそれも叶いそうに思え、思い立ったが吉日とメールを送った。
何時間経っても返信が来ず、「やっぱり迷惑だったかしら」なんてヤキモキしたものの、承諾の返事が貰えた時など、気になって全く集中出来ていなかった予習を中断。
携帯を胸に抱えて、どんな服を着ていこうかなんて考えながら、一人くるくる小踊りし、目が回ってベッドに倒れこむほど。
「……私、やっぱり変だわ」
より正確に言うなら、変になってしまった。彼と、出会ってから。
相手の都合も考えず、思いついたままに外出へ誘うだなんて。
その返事にあれだけ舞い上がるだなんて、今までに無かった。
ここまで影響を受けるとは、思いもよらなかった。
(最初は、全く興味なんて無かったのに。いいえ、それどころか……)
――勉強以外の事では、一切の関わりを持たないつもりだったのに。
実を言えば、家庭教師が来るという事へは、内心――僅かばかりではあるが、反感すら覚えていたのだ。
敬愛する父に相応しい自分へとなれるよう、常日頃から努力しているつもりではあったが、家庭教師を付けられるという事は、期待されている半面、まだ足りないのだと言われている気もして。
しかし、父の言いつけに逆らうなど言語道断。「そんな者は必要無い」という内なる不満を押し殺し、大人しく教え“だけ”を請おうと考えていた。
けれど、実際に会った彼は、見ていて可哀相になるくらい緊張しきっていて。
その様子があまりにも哀れで、胸に秘していた暗い気持ちは吹き飛び、一方的に隔意を抱きつつあった子供染みた自分を、恥ずかしいとも思った。
だが、それだけなら、こんなに信頼を寄せる事も無かっただろう。
自己紹介を済ませた後。
内心の罪滅ぼしと、気の毒なくらいの緊張を解す意味合いも兼ねて用意した茶席。
そこで彼が見せたのは、大して期待していなかった織莉子にとって予想外な、正直な人柄だったのだ。
『見知らぬ何かに直面した時が、その人の心根を見る一番の機会になるんだよ』
いつだったか、父に言われた言葉。
これに従って考えるなら、彼の心には、しっかりと誠実さが根付いている事になる。
知る事の喜びを、感謝の気持ちを素直に伝えられる、真っ直ぐな心を持っている事になる。
あの時、織莉子自身がああ言った様に。その姿勢は父と――美国久臣とよく似ているのだ。
決して綺麗事だけでは渡っていけない政治の世界を、それでも、「妻と娘に恥じる真似だけはしたくない」と、誠実さを武器に邁進して来た父。
はっきり言えば、それは時として融通の利かない頑迷さとしても現れ、故に、味方も多いが、敵はそれ以上に多かった。数日前に逮捕された大物政治家も、後者の一人。
内々のうちに聞かされた話だが、彼の人物を告発するため、以前から準備を進めていたものの、諸事情による計画の前倒しが無ければ、その毒牙に掛けられていたかも知れないらしい。
(もし、そうなっていたら……)
考えただけで、身震いしそうになる。
己の正義を貫くのは立派だけれど、もう少し御自分の身の安全も確保して欲しい、と。
しかし同時に、誇らしくもあった。
――私のお父様は、何処の誰にも負けない、最高に格好良い正義の味方。
こんな事を思い、胸を張れるくらいに。
そして、そんな父に似た一面を、織莉子は彼に見出した。
歳は倍以上離れているし、声も、顔立ちも、まるで違うのに。一瞬、父が身に纏う雰囲気を感じたのだ。
本当に、驚いた。
(私が先生を信じられるのは、お父様と似ているから?)
確かに、それが正解なのだろう。
そう感じなければ、彼を見習おうとは思わなかっただろうし、昔からの悩み――心を許せる友が居ないのではないか、という事を相談もしなかったはず。
友達になって欲しい、名前で呼んで欲しい、なんてお願いしてしまったのも、きっと。
まぁ、父に似ているというだけで信頼してしまうのだから、「ファザコンも大概ね」などと、自分で思ったりもするが。
けれども――
(なら、お父様にああ言われたら、私はもっと変になるのかしら……)
――と考えれば、それは間違い無く違う。
父に、「織莉子の前だから――」と言われても、「そんな見栄を張らずとも、お父様はとても素敵な方です」なんて笑みを返せるだろう。
あんな風に、顔が熱くなったりはしない。
同じく、「何処へでも――」と言われても、「ご無理をなさらないで下さいね? こうしてお話できるだけでも十分ですから」なんて、逆に遠慮してしまうだろう。
あんな風に、微笑み掛けられて苦しくなったりは、しない。
うたた寝しているのを見かけたって、「やっぱり疲れているのね」と掛ける物を持って来たりはするだろうが、その顔に見入ったり、うっかり膝枕をさせられて太ももに当たる寝息にゾクリ、なんて有り得ない。
「どうして……?」
織莉子は思い悩む。
父と似ている部分を見つけて、それが切っ掛けで親しくしようと決めた。
でも、父とは違う部分に気付き、今度はそれにドギマギしている。
(この感覚は、何? 私は、どうしてしまったの? 先生は一体、私の何なの?)
何も期待していなかった、家庭教師の先生。
お父様と似ている雰囲気を持った人。
四歳ほど年上な、何時も後ろ髪を跳ねさせている人。
初めて、自分から作ったお友達。
初めて、デートをした、男の人。
(私に、色んな“初めて”を教えてくれる人……)
そして、初めての――
「……やめよう。早く、お父様に挨拶しないと」
――と、そこまで考えておきながら、何故か織莉子は思考に蓋をして歩き出す。
早く挨拶を済ませ、部屋に戻って休まないといけない。
明日も早いのだから。何も、今すぐに答えを出す必要なんて、無いのだから、と。
彼女は気付いていない。いや、気付かない振りをしていた。自分が、答えを出すのを怖がっている事に。
それも仕方無いのかも知れない。初めてなのだ、何もかもが。
親しい異性が出来たのも。家族やお年寄り以外の人に、名前で呼ばれるのも。からかわれたり、意地悪されたりするのも。
……笑い掛けてくれる声に。その表情に、父が向けてくれる親しみと似て、決定的に違う“何か”を、感じたのも。
それが勘違いであったなら、きっと、酷く傷ついてしまうから。
当たっていたとしても、どう反応すれば良いかなんて、分からないから。
本当は理解出来ている癖に、自分を守ろうと、予防線を張って。
生まれて初めて過ごす、友達との楽しい時間を崩さぬ為、ずれた努力をし続けるのだ。
しかし、封じ込めようとしても、幾度となく蘇る彼の顔に、知らず微笑みながら、彼女は歩く。
足取りが軽いのは、一体、何の所為なのか。その理由も、鼻歌に消して。
そうこうしている内に、物々しいドアの前へ辿り着いていた。目的地である、父の書斎だ。
小さく一つ咳払いをし、気を引き締めて、織莉子はドアをノックしようと腕を上げる。
「例の件、――までお隠――なられ――ですか?」
――と、その時、ドアの向こうから聞きなれた若い女性の声。
美国家に長く仕えてくれているメイド――
「相変わらず、君の言葉は耳に痛いな、七里くん。いや、だからこそ側に置いているんだがね」
「恐縮です。……が、なればこそ、僭越ながら申し上げます。事はお嬢様に関わるのです。内密に進めてしまっては、尚の事、納得しては頂けないかと」
「……分かっては、いるんだが。どうにも、ね」
それに答えているのは、先程から思考の中に現れていた人物。織莉子の父である、美国久臣。
声音から判断するに、苦笑いでも浮かべていそうな気配だった。
行儀が悪いのは承知していたが、なにやら自分の事を話しているようなので、織莉子は引き続き、耳をそばだてる事に。
「やはり、お断りするのは難しいのでしょうか」
「ああ。古い付き合いだし、今回の件でもかなりの借りを作ってしまった。借りっ放しは、マズイだろう?」
……どうやら、何か約束事の話のようだった。
それは理解できたが、どう自分に関係するのかは未だ分からず、織莉子は首を捻り――
「しかし、その代償として要求されたのが、三十も歳の離れた方とのお見合いですか。感心しませんね」
――続く言葉で、息を飲む。
(お見合い?)
確かに、そう聞こえた。
三十も歳が離れている。そうも聞こえた。
心臓を直接、冷水に晒されたような。
そんな感覚を覚えた。
「言わないでおくれ……。前々から何度も打診は受けていたんだ。そんな折にこの事件。断りきれなくてね。
それに、お見合いと言っても本当に会うだけだ。これだけ歳が離れていて、まさか本気でもあるまい」
「そうとは思えませんが」
「根拠は?」
「女の感です」
「……弱った。そう言われて外れた例がない」
困りきっている、父の声。
普段なら、何か言葉を掛けたくなるそれに、しかし、織莉子は息切れを起こしたかの如く、不規則な呼吸を繰り返す。
「だが、これはもう決まっている話なんだ。今更反故にすれば、今後の活動にも影響が出るかも知れない。嫌な思いをさせるだろうが、理解して貰わないと……」
「だからこそ、お話なさるべきだと言っているのです。御当主の決断です。聡い方ですから、最終的には理解してくれるでしょう。が、心中はお察しできます。言葉を尽くされるべきかと」
「……そうだね……。ところで、例の家――師の――はど――い? いい友――――てく――――な」
「――? ……ああ、そ――う事――か。相変わ――妙――――で――いを――」
段々と、遠くなる声。
気がつけば、ドアの前から逃げ出していた。
(お見合い……。私が? まだ、十五なのに?)
話の流れからして、そう判断するのが妥当。
こう見えても、自分は美国家の女。父と母だってそれで結ばれたのだし、何時かはこんな日が来るだろうと、織莉子も覚悟はしていた。
けれど、こんなにも早いだなんて、想定外だった。
しかも相手は――
(三十も、年上?)
全身をナメクジが這う様なおぞましい感覚に、鳥肌が立つ。
三十も上という事は、少なくとも四十代後半。
父と殆ど変わらない年齢の男が、自分に懸想しているかも知れない。
……身の毛がよだつ思いだった。
(いいえ、お父様は会うだけだと……。なら、お断り出来るはず……)
――そう、そのはずだわ。少なくとも、今回は。
「……今回?」
自分の頭を過ぎった単語に、彼女は気付く。
確かに、今回は断れるだろう。だが、一度だけだと何故言える?
前々から打診されていた、とも父は言っていた。借りを返して貰うのにこんな事を要求する男が、たった一度で諦めるだろうか。
その男だけではない。結婚に適した年齢になれば、それこそ引っ切り無しに見合いが申し込まれるのを予想できる。
彼女自身の女としての価値もさて置き、それだけの権威を秘めているのだ。美国という血は。
それに、ありえない事だが、もし……もしも、父が失脚し、弱い立場に貶められたなら。
窮地を脱するのに、この身を差し出せと、言われたなら。
「見捨てる事なんて、出来ない……」
あの人は、本当に強く、同時に弱い人なのだ。
愛する妻を喪って、未遂だったとは言え、自殺を計画するくらいに。
まるでダイヤモンドの如く、硬くて、脆い。
そんな父だからこそ、育てて貰った恩義に報いるためなら、この貞操を犠牲にする事だって――
「……そんなの、嫌、ぁ……」
――厭わない、筈だったのに。
いざ現実味を帯びてくると、恐ろしくて堪らない。
可能性が限りなく低かったとしても、100%有り得ない未来ではない事が、体の震えを呼び起こす。
(私は、どうすれば……)
頼りない足取りが向かった窓からは、下弦の月が見下ろしていた。
やがて雲が掛かり、弧を描いていた僅かばかりの光も消えてしまう。
ガラス一枚隔てた世界に広がる闇は、己の未来を暗示しているようで。
「先、生……っ」
もしかしたら、と期待して呟くけれど。
不安は消え去るどころか、切なさに取って代わって織莉子を苦しめる。
欠け半ばを過ぎた月が、その顔を隠してしまうまで。
後、数日しか残っていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……はぁ。っと、そろそろ着替えなきゃ……。
ボールペンを握っていた左手を休ませようと、一息つく。
そのついでに時計を確かめれば、そろそろ準備が必要な時間になっていた。当然、美国家へ赴く準備である。
織莉子ちゃんとコンビニデート(と呼んで良いのかは疑問だが)をした週末から数日。
彼女を想うための覚悟を決めた俺は、真っ先に家庭教師としての名誉を挽回しようと、問題作りに精を出していた。
しかし、思ったより集中していたのか、あと二十分もしない内に家を出なければいけない。
ただ覚悟が決まっただけで、こうも気の入り方が違うのだから、人間とは単純な生き物だ。
……本当は、前向きな気持ちだけで努力している訳じゃ、ないんだけど。実際は悩み通しだし……。 いや、せっかくこれから織莉子ちゃんに会えるんだっ、暗い顔なんてしてられんっ!
気持ちを切り替えようと、俺は両手で自分の頬をバシンと叩く。……ちょっと力入れ過ぎた……。
《ジリリリリッ》
――と、そんな時、机の上に置きっ放しだった携帯から、黒電話を真似る着信音。
着古したジャージの上着を脱ぎながら画面を確かめれば、園に表示されていたのは見知らぬ携帯の番号。……誰だ?
一瞬迷ったが、何と無く切る気分でもなかったので、俺は出てみる事に。
もしもーし。どちら様?
『あ、もしもし? 先生ですか?』
は……え、あっ、織莉子ちゃん!?
『はい、織莉子です。申し訳ありません、突然電話なんて……』
予想外の発信者にまたも驚き、思わず背筋を正しながら、いやいやとんでもないっ、と焦る。
見られている訳でもないのに、ジャージの下とTシャツ姿が恥ずかしい。
あー、っと、どうしたの? 何か用事?
『ええ……。実はまた、先生にお願いがありまして。時間、よろしいですか?』
構わないよ。でも、別に電話までしなくても。どうせこれから会えるんだし。
『いえ。お願いと言うのは、それに関する事なんです』
それ? って事は、今日の家庭教育だろうか。
もしかして都合が悪くなったとか。うーん、会えなくなるのはちょっと寂しいな……。
『今日のお勉強なのですが、少し、場所を変えようと思うんです。それをお許し頂きたくて』
場所を、ね……。
ごうやら勘違いだったらしい。
勉強する場所を変える、か。何でそんな……ん? あ、なるほど。
少し戸惑ったが、織莉子ちゃんの言いたい事が予想できた俺は、一人で頷く。
学生が勉強する場所と言えば、学校、自宅、図書館など、いろいろ選択肢があるけれども、そういった中で彼女が行った事の無さそうな場所に限ると、ファミレスや喫茶店だろう。
今度はそこに行ってみたいと言うに違いない。これなら納得が行く。
うん、たまには気分も変わって良いかもね。この間の約束もあるし、大丈夫だよ。
で、何処に行きたいの? この時間なら――。
『あ、ありがとうございます。でも、実はもう着いてるんです』
……へ? 着いてる?
どういう事か問い質そうとしたのだが、丁度その時、玄関から来客を告げるチャイムが《ピンポン》と。
魔の悪さに小さく舌打ちをし、少し待って、と電話に告げながらドアに向かう。
そして、どちら様ですか、とノブを回せば――
「こんばんは、先生」
………………織莉子ちゃん?
「はい。来ちゃいました」
――その向こうに居たのは、俺と同じく携帯を構え、もう片方の手にビニール袋を提げる、普段とは違った装いの織莉子ちゃんだった。
髪型はいつものサイドポニーだが、頭の上にはチェック柄のベレー帽。
上半身を覆っている……ポンチョ? も同じ柄で、顔には薄く色の着いたサングラスが。
なんて言えばいいんだろうか……。ステレオタイプな探偵コスチュームにも見える。とりあえず、ものすっごく可愛い。
が、問題は俺の方だった。
……ごめんちょっと待っててぇ!!
「え、せ、先生!?」
たっぷり十秒くらい見つめあった後、勢い良くドアを閉める。
う、うぉああぁぁぁあぁ!? 行きたい場所って俺ん家かよぉおおっ!?
見られた、よりにもよって織莉子ちゃんに見られたっ!? ジャージにTシャツなんて百年の恋も冷める格好を見られたぁああっ!!!!!!
ってか、こんな部屋に入れられる訳がねぇじゃん!?
ドアに背中をへばり付けて振り返る自室は、散々な有様なのだ。
コンビニ弁当の空き箱に、お茶のペットボトルの山。
脱ぎっ放しの服と雑誌が散乱し、足の踏み場も無い床。
色んな臭いが混じって淀んだ空気。
……ど、どうしよう……?
「あ、あの、やっぱりご迷惑でしたか……?」
う、ううんっ! 迷惑じゃないんだけど部屋がちょっと散らかってるんだ!? お願いだから十分――いや五分――さ、三分待ってぇ!?
悲鳴の様な返事を投げ、俺はつんのめりつつも部屋の掃除を開始する。
とんでもない格好を見られた羞恥心も然る事ながら、せめて人を――女の子を招き入れられる状態にせねば!!
まずは……空き箱とペットボトルっ。買って来た時の袋に詰めて、えぇと、とりあえずバスルームに放置っ。お湯抜いといて良かったっ。
雑誌も重ねて縛る――暇は無いから、これもとりあえずクローゼットに……あ、ソファーベッドに敷きっ放しな掛け布団も一緒にして収納っ。ついでに予備のシーツを引っ張り出すっ。
次は服をごっちゃに丸めて洗濯機に突っ込み隠蔽っ。見えなきゃ良いんだし廻すのは後っ。
それから一旦窓を開けて、両手にファブ○ーズを構え周囲に散布っ。本当は箒も掛けたいけど、時間が無いしこれで……良くないっ、まだ着替えてねぇ!
確か、こないだ買って来た奴の上下がまだ――あったっ。ありがとう弟達、今度メシ奢ってやるからなっ。
さぁ今度こそ……あ、髪も一応は梳かしておかないと……って何でお前はまた跳ねてるんだよ後ろ髪ぃ!? 織莉子ちゃんにやって貰った時は素直に戻った癖しやがって……くっそ駄目だもうええわぁ!!
はぁ……はぁ……っ……ぁあ゛、お、お待、たせ、ぇ……。
「……だ、大丈夫、ですか? とってもお疲れのご様子ですが……」
も、もちのろんさ? ……う゛ぇっほ。
心配そうな織莉子ちゃんの前で、俺は必死に強がって見せる。
かなりドタバタしたが、ここまでキッチリ三分以内。我ながら神懸かった動き。
動画撮影とかしていたら、ネットにアップしたい所だ。
「あの、わざわざお着替えにならなくても、私は別に……」
何を言ってるのかな? 俺は最初からこの格好だよ? そういう事にして下さいお願いします。
「は、はぁ……」
壁に手を突き、ワザとらしいモデル立ちですっ呆けながら、最終的にはお願いしてしまう俺。
そんな姿が阿呆らしいのか、織莉子ちゃんの目は点に。
「あ。でしたら、良い物がありますっ」
かと思いきや、ビニール袋を漁って茶色いガラス瓶を取り出す。
それは、『ファイト一発!』なCMで有名な栄養ドリンクだった。
「手ぶらでお邪魔する訳にも行かないので、コンビニで飲み物でも、と思ったんですが、間違えて薬局に入ってしまって……。
仕方なく、目に付いた物を色々と買ってみたのですけど、役に立って良かったです。どうぞ」
それって衝動買いって言うんじゃ……。
いや、ありがとう、助かるよ。とにかく、上がって?
「はい。お邪魔いたします」
女の子の手には大きく見えるそれを受け取り、俺は織莉子ちゃんを招き入れる。
しゃがんで脱いだ靴の向きを正した彼女は、帽子とポンチョを脱いで自分の腕に掛けるのだが、その下には意外な物が隠れていた。
あれ。それって、白女の制服?
「ええ、そうですよ。平日に外出する時は、必ず制服を着用するようにと、校則で義務付けられているんです。
……そう言えば、先生にお見せするのは初めてでしたね。どうですか?」
その身を包んでいたのは、彼女の通う白樺女子学園のセーラー服だったのだ。
クルリ、一回転して見せてくれる。
赤茶色っぽい上品な色合いに、胸元を飾るリボンは黒で、白く縁取りがされている。長袖の折り返しも白く、襟にも同じ縁取り。
上着と同じ色のプリーツスカート(……で、合ってるだろうか)にまで、裾を白い線が横切っている。
正直に言えば、これまた可愛いのだけど……興奮する。
結構スカートが短くて、すらりと伸びた太ももが眩しい。あと胸。ぱっつんぱっつんです。十五でこれとか反則だろ。
が、こんな事を本当に口走ったら、何処からともなく現れた忍者メイドさんに素手で首を刎ねられそうだ。
なので俺は、良く似合ってるよ、と大いに自重した感想を告げる。
「あは。褒められちゃいました」
しかし織莉子ちゃんは、それでも嬉しそうに顔を綻ばせてくれた。
自然、二人で笑い合うのだが、玄関で立ち尽くしているのもアレなので、奥へどうぞ、とエスコート。
歩きながら、彼女は物珍しそうに周囲を見渡して一言。
「小さくて、可愛らしい部屋ですねっ。ベッドが見当たりませんが……先生は何処でお休みに?」
ああ、そこのソファーベッドだよ。
寝る時は背もたれを倒して、その上で寝るんだ。
一応、シーツは交換してあるんだけど……まぁ、これにでも座って。
「ありがとうございます。なるほど、実物は初めて見ました」
クッションを敷いてあげると、それに腰を下ろしてソファの弾力性を確かめている。
暗に「狭い」と言われた気がしないでもないのだが、あの部屋に比べれば本当に狭いのだから仕方ない。
俺は別段気にも留めず隣へ座り、貰った栄養ドリンクの蓋を回した。
こんなものに頼らずとも体力は回復しつつあるが、せっかく買って来てくれたんだし、頂こう。
「………………よいしょ」
そう思って瓶を傾けていたら、何故かおもむろに座る位置をこちらにずらした彼女は、頭を向こう側にして、こてん、と横たわり――
「……先生の匂いがします」
んぐっ。
――だなんて言いやがった。
あ、危ない、噴き出す所だった! なんちゅう事を言うんだ君は!?
ってか今、見えそうだった。倒れた拍子にスカートがフワッてなって危うく見える所だった! 超残ね――何でそんなに無防備なのさ!?
一人暮しの男の部屋に来てるんだって自覚しようよ、そんな事を言われたら誘われてるって勘違いすんぞこの天然娘ぇ!!
……なんて突っ込めたらどれだけスッキリする事か……。あ゛あ゛あ゛……。
お゛ふっ。ご、ごめん、もしかして臭かった? ちゃんとファブったつもりなんだけど……。
「ふぁぶ……? あ、いえ、そういう訳ではなくて……なんだか、安心できて……」
安心? そ、そうかな……。
「はい……。なんとなく、ですけど……。そう、感じて……」
体を戻した織莉子ちゃんは、上目遣いにこちらを見つめている。
緊張が走り、空き瓶を握った手が震え、漂う空気にはむず痒さまで感じた。
……いや駄目だ、このままじゃ、雰囲気に飲まれて押し倒したくなる。どうにかして空気を変えなくちゃ……。
あ、そう言えば、よく奈々瀬さんが許してくれたね。
こんな時間に一人で外出なんて、あの人なら真っ先に止めそうなのに。
「え。あ、それは、ですね……」
苦し紛れの質問に、彼女はビクンッと肩を揺らした。
途端、視線も逸らし、くるくるサイドポニーを弄りだす。
この反応、まさか……。
もしかして、家の人に黙って出てきたんじゃないだろうね。もしそうなら……。
「い、いいえっ、違います! 奈々瀬さんはお父様について朝から外出していて、それで出て来られたんです。一応、書き置きも残してありますので……。ほ、本当ですよ?」
無言で携帯を構えると、案の定、織莉子ちゃんは慌てて言い繕う。
実は非常時に備え、奈々瀬さんの携帯番号は知っているのだ。まぁ、「お嬢様に関する事以外で掛かって来たら……」って凄まれたし、一度も掛けたこと無いけど。
しかし、久臣氏のお付という事は、秘書技能まで持ってるのか? 近頃のメイドさんって凄い……。あの人が特別なだけか、多分。
……なんて感心はしたものの、焦り気味な言い訳には溜息しか出ない。
はぁ……。一体どうしたの? なんか、色々と。いきなり家を訪ねて来たり……しかも奈々瀬さんに内緒で。
何かあったのなら、話してみて。こう見えても、俺は君の先生なんだから。
「………………」
個人的にはいい台詞を言えたと思ったのだが、彼女の顔は一転、曇ってしまう。
当てずっぽうだったが、正鵠を射てしまった様だ。シワ一つ無かったスカートが、くしゃり、握られる。
しばらく無言が続いた後。
決心がついたのか、背筋をピンと伸ばした織莉子ちゃんは――
「どうしても、お尋ねしたい事があったんです。……二人きりで」
――こちらの瞳を真っ直ぐに見つめ、そう言った。
初めて出会った時を思い出させる、強い意思を秘めた眼差しに、一瞬、息が止まる。二人きりで、と付け加えられたのも、理由の一つだ。
真剣な雰囲気の中、それを気取られるのも情けなく感じ、俺は平静を装って続きを促す。
尋ねたい事って? 俺に答えられる事なら、何でも答えるよ。
「本当ですか? どんな質問にも、嘘偽り無く答えて頂けますか?」
……まぁ、貯金額とかそう言うのは勘弁して欲しいけど、大体の事は。
「……そうですか。では……」
やたら念押しされて、思わず変な事を口走ってしまったが、特に突っ込みも無いのが寂しい。
しかし、それだけ重大な事なのだと気は引き締まり、背筋を伸ばして言葉を待つ。
そして、何度か深呼吸をした彼女は、再び俺を見つめ、静かに口を開く。
「先生は……。私の事を、どう思っていらっしゃいますか」
――が、その内容を理解するには、しばしの猶予が必要だった。
どう、思っているか。
その言葉はまるで、耳に届いた単語以上の意味を、含んでいる気がした。
けれど、あまりに唐突で。そんな事を聞かれるはずが無いと思って――いや、思いたくて、俺はおためごかしな答えを返してしまう。
……そりゃあ、大事な友達で、可愛い生徒だよ。当たり前じゃないか、そんなの。
「違う、違うんです。そうじゃなくて……。それだけ、なんですか」
だが、流石に聡い彼女。そんな物では納得できないのだろう、詰め寄られた。
その様子は、縋り付いて来る様にも感じて。
重なる視線に潤いを見取り、堪らず顔を背けてしまう。
けれど、その視界を白い手が横切り――
「お願いします。大切な事、なんです。目を逸らさないで」
――頬が震える。
軽く撫でられただけで、万力に捕まったかの如く、体ごと向き合わされてしまう。
逃げられない。多分、逃げてはいけないのだと、思う。
おそらく、俺と織莉子ちゃんの求めているものは、同じ。
そうでなければ、頬を伝う指が、こんなにも熱いはずが無い。
「不躾だと承知しています。でも、どうしてもお聞きしたいんです。そうしないと、あと一歩を、踏み出せない、から……。だから……勇気を、下さい。先生は、私の事を――」
見っとも無い誤魔化しも、下らない意地も。
触れたままの指に、心ごと溶かされてしまう様な感覚を覚えた。
体中に響く声は、溺れそうな愛おしさを持って、息継ぎすらさせてくれない。
苦しさに喘ぎ、酸素を求めて口を開けば――
……好き、だ。
「――あ」
生徒としての君が好きで。
友達としての君も好きで。
だけど、ただの……女の子としての君が、一番、大好きだ。
「……っ……あぁ……」
――知らず、告白が口をついていた。
無理やり引き出された所為か、何の飾り立ても出来ず、気の利かない台詞。
なのに彼女は、酷く安堵した顔を見せ、寄り添う様にこちらの胸へ身を投げ出す。
当然、動悸は早まり、緊張はより甚だしく。
でも、通じたはずの想いを確かめたくて、胸の上に置かれた手を、おずおず握る。
柔らかい細さが、絡みついた。
「私を、想って下さるなら。その言葉が本当なら、もう一つだけ、お願いがあります」
すると、一旦距離が離れ、目尻に浮かんでいたものを指で拭う彼女と、三度、視線が合わさる。
俺は肩に手を置いて、先程と同じく静かに声を待つ。
何度も、何度も。言葉になりかけては、鼓動の音に消えていく。
そんな繰り返しの中、ようやく発せられたのは――
「……わ、私を……私の事を、抱いて、下さい。今、ここで……」
………………あんですと?
――という、意味不明な言葉だった。
いや。
いやいやいや。
いやいやいやいやいや。
「あ、あの、先せ――」
ごめん、待った。ちょっと待って。ちょっとだけ時間を頂戴。
硬直する俺に、尚も言い縋ろうとする彼女との間で両手を交差させ、一先ず時間を稼ぐ。
私を抱いて? それはハグをしろって事ですか? 個人的には大歓迎だけど、前後の状況から考えるとそれは無いよなぁ?
という事は、性的な意味で食べて欲しい――つまり、Hをしたい、と。
……うん。有り得ねぇ。なんか、すっごく冷静になっちゃった。自分でも意外だ。
好きな女の子に誘われたりしたら、男は一も二も無く飛びついちゃうもんだと思ってたけど、そうでもないらしい。
今まで縁が無さ過ぎたからか? それはそれで悲しいぞ。……まぁともかくっ。
あー、んー、冗談だよね? 先生あんまり感心しないなぁこういうの。
「そんなっ!? わ、私は本気で……!」
だったら尚更だよ。そんな風に見てくれるのは、男として素直に嬉しい。
でもね、一生に一度の事なんだ。感情に惑わされて、焦っちゃ駄目だ。
もっとよく考えて……ていうか実際にしても、もしバレたら捕まっちゃうから。
第一、あと三年くらい、俺は普通に待てると思――。
「……っ、感情に惑わされて、それだけで動いて、何が悪いんですか!? 一生の事だから、時間が無いから、私は……っ」
諭そうとした言葉は、今にも泣き出しそうな、悲痛な叫びに遮られる。そのまま大きく肩を震わせ、俯いて顔まで隠してしまう。
こんなに取り乱している姿を見るのは、初めてだった。
それに、時間が無い? どういう事だ。一体、何が――
「……お見合いを、する事になったんです」
――は。
息が漏れた。
見えない手で首を絞められているかの様に、声が出ない。
お見合い? 織莉子ちゃんが? そんな、どうして、突然。
急速に状況が推移し、着いて行けなくなりそうだった俺は、事実を確認しようとする事で、何とかそれに食らい付く。
本当、なのか。それ。
「……はい。お相手は、三十も年上な方です。お父様が、そう仰っていました」
お父様って、久臣さんが? しかも三十って……馬鹿な。君のお父さんがそんな事をする訳……。
かなり忙しい人らしく、直接に会った事、話した事は無いが、織莉子ちゃんを愛し、また、彼女から愛されているのは十分に分かる。
そんな風に愛情を傾けられる人が、こんな事を許すはずが……。
「もう、決まっている事なんです。お父様への協力の見返りとして。近い内に、私はその方とお会いするでしょう。お父様の友人らしい――でも、まだ顔も名前も知らない、その方と」
見返り……という事は、その男も政治関係の人間か?
何らかの協力を得る代わりに、何かを差し出す。対価を払うのは普通の事だし、人間の暗い部分が凝り固まる政財界。
エロマンガなんかに良くある、断れない立場に追い込まれて家族を差し出す、なんてのも想像しなかった訳じゃないが、実際に起こるはず無いと思っていたのに。
織莉子ちゃんには無縁だと、思っていたのに……。くそっ、相手が政治家なんて、手の出しようが無い……っ。
……いや、ただのお見合いなんだろ? だったら、普通に断れるはず。なら……!
「はい。私もそう考えました。今回はお断り出来るだろう、と。でも、“今回は”、です。これから先、そうとは限りません」
これから、先……?
「私は、美国家の女です。今はまだ子供ですが、先生の言ったように、あと三年もすれば――いいえ、あと半年もすれば、婚約だって出来ます。
でもそのお相手は、美国家の繁栄を約束して頂ける方。……そうでなくてはいけません。お母様が、そうだった様に。私は、それを拒めない……。
お見合いの事を知ってから、何度も、何度も考えました。けれど、駄目なんです。どうやっても、先生と結ばれる未来が、見えないんです。
何か、都合の良い奇蹟でも起きない限り、私と先生は添い遂げられない。そんな結末しか、思い描けないんです……っ」
織莉子ちゃんは、幼子が駄々をこねるみたいに首を振り、制服の胸元を強く握り締める。
その姿から、抑えきれない悲しみと、諦めきれない思慕の念。そして……抗いきれない宿命を感じた。
こんな物を見せられては、いやが上にも自覚させられてしまう。俺自身の中にあった、苦い想いを。
あの日から、彼女と同じ様に考えた。
いや、もっと前から。彼女を深く知る度に、夢見ていた。この子と結ばれる未来を。何の躊躇いも無く、この想いを誇れる日を。
けれど、どんなに未来をモンタージュしても、あまりに歪で、見るに耐えない仕上がりにしかならない。
……足りないのだ。望む未来を得るには、全てが。
本来なら手を触れるどころか、話す事も許されず、遠目に眺めるぐらいしか出来ない存在。何の奇蹟か、心を通じ合えても、それで打ち止め。
己の無力が情けなかった。
好きでいると覚悟を決めたはずなのに、それすら分不相応だと、諦めをチラつかせる小賢しさが、憎かった。
「結局、駄目になるのなら。私の感じているこの想いには、何の意味があるんですか?
いつか消えてなくなって。懐かしさと一緒にしか先生を思い出せなくなるなら、どうしてこんなに苦しいんですか?
……こんな想いをするくらいなら。普通の家に生まれて、普通に育って、普通に先生と出会って……。普通に、恋をしたかった……っ」
雫が零れて、白いシーツに灰色の染みを描く。
弱く、儚く、凍える少女。
出来る事なら、強く抱きしめたかった。
けれど、そうしてしまえば、彼女はそのまま折れてしまいそうで。
この細い肩に、途方も無い血の重みが圧し掛かっているのだと。
やっと釣り合ったように見える関係も、危ういバランスの上に成り立っているだけなのだと、分かってしまって。
安易に触れて崩すのを恐れ、涙を拭ってあげる事すら、出来ない。
「このままで居たら、私は、先生の事を過去の事にしなければなりません。そんなのは、嫌です。この想いを無かった事にして、未来に進むのは、絶対に嫌。ですから……」
化粧っ気の無いその顔は、切望に色濃く染まり、雄の部分を激しく揺らす。
けれど、ああ言った手前、それに身を任せる事は理性が許さず、でも、と迷いが漏れる。
「何でも手伝ってくれるって、約束したじゃありませんか。あれは嘘だったんですか。それとも、この身を捧げたなら、私を攫って、逃げてくれますか」
それは……っ。
痛い所を突かれた。
確かに、した。約束したのだ。
もしこれを破ったら、俺は自分に嘘をついた事になる。この気持ちが、周囲に流されて変化してしまう程度の物だと、認める事になる。
それだけは、嫌だ。
しかし、現実に駆け落ちなんて大それた事をすれば、多くの人を巻き込んでしまう。家族にも迷惑を……。だが、手をこまねいていれば、いつか彼女を奪われて……。
ちくしょう、何でこんなに急なんだ、何で、いきなり……!
俺は……でもっ……俺は……俺、は……っ。
「……ごめんなさい。無理、ですよね。意地悪な事を言いました。でも、それで良いんです。
色々と言いましたが、私が美国に生まれなければ、先生と出会う事も無かったでしょう。それを思えば、むしろ感謝すべきなんですから」
次から次へと難題を吹っかけられ、言葉に詰まり、明確な意思を示せない俺を、それでも責めず。
彼女は、静かにソファから立ち上がる。
「だから、これは私の我侭です。これから先を、『美国織莉子』として生きていくための。まだ子供で――『ただの織莉子』で居られる内の、最後の我侭。……先生……」
数歩離れて振り向いたのは、諦めを感じさせる、けれど、酷く綺麗な表情。
あまりにも朧気で――陽炎の様に、消えてしまいそうで。
織莉子ちゃん、と名前を呼び、思わず繋ぎとめようとする。
そんな俺に、彼女は淡く微笑み。
今一度、自らの願いを口にしながら、何故か制服のリボンに手を掛けるのだった。
「私に、一生消えない深い傷を、つけて下さい。何があっても、先生の事を忘れられない様に。今夜限りの嘘でもいいから……私を、恋人にして下さい」