※この作品はR-18です。

魔法少女まどか☆マギカR‐18   作:七音

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 前日譚 佐倉杏子

 

 

 傾き始めた太陽が街並みを照らし、建物達の影が伸びを見せ始めている。

 その影を追うようにして街中から離れ、足を東へと向けた。

 

 今日は日曜日。現在、午後二時三十分。

 昼食を消化しきった頃を見計らい、着慣れた安物のランニングウェアを着て、柔らかな日差しの中、散歩を兼ねて、まだ見慣れぬ街をランニングしている。

 隣には、愛犬であるメスのラブラドール・レトリバー、メロゥが元気に併走していた。

 もう十一歳――人間に換算すれば六十歳くらいのはずだが、衰える様子は見せず、こうしてすこぶる元気で居てくれる。

 

 親の仕事の都合でこの街に引越してきてから、早一週間。

 荷物の運び入れや転入手続きで忙しかったが、最近ようやく落ち着いてきた。

 結局、いつものように両親は仕事に行って帰ってこず、一人で荷物を解いていたので、こんなに時間が掛かってしまった。

 仕事でハイスペックな分、家庭では廃スペックな両親をサポートするのが自分の役目とはいえ、引越しは流石に初めで。

 学校もあったため、ちゃんとした散歩の時間が取れず、メロゥには退屈な思いをさせてしまっていたが、今日は久々に、一日コイツに付き合ってやろうと思う。

 

 真新しいビルの間を縫うように進んでいると、やがて、背の高い建物が少なくなっていく。

 前方には、川を跨ぐように架けられた大きな鉄橋が見えている。それを越えれば再開発された地区は途切れ、昔ながらの風景が広がっていた。

 放棄されたかつての工業団地でもあるそこは、今ではガラの悪い連中がたむろする場所となっているらしいが、自分には縁遠い場所だろう。

 

 解体途中で放置されたアパートを迂回しながら、道なりに進む。

 確か地理的には、ここは既に隣の街、風見野市である。

 今でも多くの人達が住むこの辺りでは、なぜかレンガ造りの家が多く見られ、地面の舗装にもレンガが使われていた。

 その建築様式は、近代的な見滝原の物とは大きく違い、まるで異国に足を踏み入れたかの様な情景が広がっている。

 

 

「ワンッ!!」

 

 

 だが、それに見惚れていた時、急にメロゥがリードを引っ張り、近くの雑木林の中へ向かおうとする。

 いつも大人しいあの子がこんな事をするのは初めてで、軽く握っているだけだったリードは、簡単に手から離れてしまった。

 その隙にメロゥは、林の中に在ったらしい坂道を上っていき、後姿がどんどん小さくなって行く。

 慌ててそれを追い坂道を登っていくと、その先には小高い丘があり、見慣れぬ建物が建っていた。

 

 古びた教会。

 

 つい脚が止まり、その教会を眺める。そこは、手入れされずに伸びきった草が覆い、人が住んでいる気配は無かった。

 もしかして、メロゥはここに入っていったんだろうか……?

 生い茂る草を踏みしめながら、少しだけ隙間の空いた扉に手を掛ける。錆び付いた蝶番の立てる不快な音を聞きながら、何とかそれを開くと、教会の内部が目に入ってきた。

 

 頂点から少しずれた位置にある太陽から注ぐ光が、割れたステンドグラスを通して室内を照らす。

 内装は全て朽ち、かつての様相を忍ばせるだけだったが、それだけに、とても儚く、美しく見えてしまった。

 木製の階段を上り、祭壇の上へ。

 そこにある小さな演壇には、くすんだ色の燭台が乗っていた。

 指でなぞってみると、その埃の量から、主を失って長い時間が経っているのだと分かる。

 

 誰も訪れないのに、ただ残り続ける教会。

 無性に寂しくなった。

 

 

 

 

 

「ここは私有地だ。無――」

 

 ひょぁあっ!? 

        《ゴリッ》

           おぐっ!?

 

「――断で、入るな……」

 

 おおぉおぉぉおおぉおぉぉおぉ……。

 

 

 

 

 

 背後からの突然な声に驚き、飛び上がった体が演壇の角に当たった。

 それが丁度脇腹を抉って、床を転がりながら悶絶する。

 ちょ、まぢで痛い!! い、息がっ!! 息が出来ないっ!!

 

 

「……ぷっ、あははははははっ!」

 

 

 笑い声に気づき、床に転がったまま、涙目で見上げる。

 そこには、こちらを指差し、腹を抱えて大笑いするポニーテールの少女が居た。

 彼女の隣には、行儀良く座り込む、姿を消した筈の愛犬の姿。

 

 

「ふっ、くくくっ、ひ、ひょあって……。あは、あっはははははは!」

 

 

 ……ど、何処のどなたか、存じませんが……そんなに、笑わないでぇ……。

 

 

「ふ、ふふ、いや、わりぃ………………ぷふっ」

 

 

 痛みと恥ずかしさで、鼻の奥がツンとしてくる。

 ちくしょう、なんだこの状況……いてぇ……。

 

 それから、ややあって。

 結局、彼女の笑いが収まったのは、脇腹の痛みが引き始めたのと同じくらいだった。

 体を休めるために階段へ腰を下ろすと、彼女も笑い疲れたのか、隣に座る。

 メロゥはさも当然の様に自分の隣ではなく、見知らぬ少女の脇に陣取った。

 なんでだ……。

 

 

「あ~、笑った笑った。こんだけ笑ったのは久しぶりだよ」

 

 

 目尻に溜まった涙を指で拭いながら、少女は未だ笑顔を浮かべている。

 なんだか悔しくて、そりゃ良かったな、と脇腹を擦りながら半眼で睨む。

 だが、彼女には全く効果が無いのか、窘めるように口を開く。

 

 

「ま、不法侵入の罰ってとこだろ? その位で済んでよかったな」

 

 

 自分だって同じ穴の狢だろうに、とその言に対し反論すると、少女は一瞬顔を曇らせるが、すぐにまた強気な表情を見せる。

 

 

「……っ、あ~、アタシは良いんだよっ。不法侵入してる奴を注意する為に入ったんだからっ」

 

 

 ……苦しい言い訳。

 

 

「おら」

 

 

 おぅふっ、や、やめ、ごめんなさいっ。

 

 

「素直でよろしい」

 

 

 思った事をつい口に出してしまったら、少女はその手で脇腹を攻撃して来た。

 鋭い痛みに、体を曲げながら咄嗟に謝ると、彼女は割かしすぐにその手を引っ込めた。

 

 

「んで? なんでこんなとこに入って来たんだ?」

 

 

 なんで上から視線なんだ、なんて思ったが、口に出すとまた攻撃されるかもしれないので、それを飲み込み正直に言う。

 

 仕方ないじゃないか、メロゥが――その子が勝手に行っちゃったんだから。

 こんなの初めてだし、こっちだって吃驚したよ。

 

 

「へぇ、お前、メロゥていうのか……。良い名前じゃん」

 

 

 それを聞くと、少女は優しげな笑顔をメロゥに向け、その頭を撫でる。メロウも随分と気持ち良さそうにしていた。

 自分に懐くのには一~二ヶ月掛かったのに。……なんだこの悔しさは。

 彼女は恨めしい視線を向けられていることに気付かぬまま、メロゥを撫で、優しく語りかける。

 

 

「良かったな~、ちゃんと迎えが来てくれて……」

 

 

 その表情には慈愛が満ちていて、ステンドグラスから差し込む光と相まって、幻想的にすら感じた。

 

 

「でも、飼い主ならちゃんとリード握っとけよな? 事故とかに遭ったらどうすんだよ?」

 

 

 ――が、こちらに向ける視線はどちらかと言えば冷たく、その落差にガッカリしてしまう。結構可愛いのに。

 そして、内心、自分でも失敗したと思っている事を突かれた事にイラッとしてしまい、つい乱暴な口を利いてしまった。

 

 分かってるよ、んな事。引っ越してきたばっかだから、多分、メロゥも戸惑ってるんだろ。

 こっちだって、好きでこんな寂しい所に来た訳じゃないっての。

 

 

「……寂しい?」

 

 

 それを聞くと、少女が呟くようにして聞き返してくる。

 そこに反応されるとは思っていなかったので、なんとなくだけど、と言葉を濁す。

 

 

「………………」

 

 

 彼女はそれきり黙りこんでしまった。初対面の少女と二人きりで、この状況はすこぶる気まずい。

 ……いや、無理に会話する必要なんて無いじゃないか。このまま帰ってしまえば良いんだ。どうせ二度と会う事も無いだろうし。

 そう思い、立ち上がろうと脚に力を入れた瞬間――

 

 

《ぐぅ~》

 

「……ん?」

 

 

 ――空気の読めない腹が、空腹を訴えた。それが耳に届いたのだろう、少女もこちらに視線を向けている。

 そういえば、冷蔵庫に何もなかったから、昼飯は軽く済ませただけだった。

 散歩が終わったら適当に買い食いしようと思っていたのだが、自分で考えていたよりも腹の虫は短気だったらしい。

 流石に恥ずかしく、腹に手を当てながら俯いていると、隣に居た少女が突然立ち上がり、二~三歩階段を下りる。

 そして、服のポケットから真っ赤なりんごを取り出して、振り返った。

 

 

「……食うかい? 腹、減ってるんだろう?」

 

 

 唐突な申し出に困惑していると、彼女は押し付けるようにしてそれを渡してくる。

 

 

「いいから、食っとけって。ホントはアタシが食うつもりだったけど、そんな気分じゃないしね」

 

 

 りんごを渡し終えると、少女はメロゥの頭を一撫でしてからこちらに背を向け、扉の方へと歩いていく。

 錆び付いた扉に手をかけ、それをくぐろうとした時、ふと気づいたように彼女が振り向いた。

 

 

「それ食ったら、さっさと帰れよ。ここには、悪い噂があるからな。……祟られるかも知んないぞ?」

 

 

 ……悪い噂?

 

 鸚鵡返しに聞き返すと、少女は唇を歪に吊り上げる。

 

 

「ここはね、無理心中した牧師一家の教会なんだよ……。そんで、死んでる事にも気づかない哀れな長女が、出るんだってさ……?」

 

 

 その口振りは、淡々としていて。

 それ故に、真実めいて聞こえてしまった。

 反応を返す事ができず、口を噤んでいると、少女は肩の力を抜くように、ふっと笑った。

 

 

「……ま、信じるかどうかは、アンタしだいって奴。じゃ、もう来るなよ」

 

 

 止める間も無く、彼女はそのまま去って行く。

 思わず伸ばしかけた手が宙を彷徨い、行き場を無くして膝の上に落ちた。

 右手にある、鮮やかな色をしたリンゴを見つめ、服で拭ってから、かじる。

 

 それは、あまり甘くなかった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 一週間後。

 先週と同じく、いつものランニングウェアへ袖を通し、メロゥを連れて家を出る。

 この前は途中でトラブルがあったものの、ランニングのコースとしては結構良いルートだった気がして、あの日の足跡を辿るよう、脚を進める。

 だが、その景色は、先週とは些か趣を変えていた。

 

 突発的異常気象による、スーパーセルの発生。

 

 幸い――というか、奇跡的・天文学的な確立で、人的被害は生じなかったものの、高層ビルのいくつかは倒壊し、他にも多くの建物が被害を受けていた。

 運よく、引っ越した家は見滝原の隅っこだった為、自分の家は被害を受けずに済んで助かったのだけど、破壊の爪痕は生々しく姿を横たわらせている。

 おかげでいくつもの道路が寸断され、交通網にも多大なダメージが残るそうだ。

 だが、危うく住宅街へと到達しそうだった時、スーパーセルは急激に速度を低下させ、発生した時と同じく、突如として姿を消した。この異常な事態に対し、専門家達は首を傾げ、大いに頭を悩ませているらしい。

 また、倒壊した物の内幾つかには、明らかに爆発物が使用された形跡が残っていて、災害に乗じた某国のテロではないか、という声も上がっている。

 ま、両親の勤め先は無事だったし、自分にはあまり関係の無い事だが。

 

 そんな事を考えていると、視界に入ってくる建物の形が変わり始め、風見野市に入った事が分かる。こちらには被害らしい被害は無いようで、至って平穏そのものだ。

 と、メロゥが併走するスピードを落とし始める。それに習って自分も走る速度を落としてみると、すぐ近くに、あの教会へと続く道が見えてきた。

 メロゥは、まるで誘うようにこちらを見上げた後、その道へ進もうと脚を動かすが、今度はリードを引っ張るような事をせず、ギリギリの所で立ち止まって、再びこちらを見つめる。

 もしかして、またあの教会に行きたいのだろうか。

 

 ……あの子も、居るのだろうか。

 

 どちらかと言えば、メロゥはラブラドールらしからぬ、気難しい性格だ。

 小さい頃、里親として引き取ったは良いものの、両親には懐いて自分にはなかなか懐かず、苦労をした覚えがある。

 だが、あの少女は瞬く間にメロゥを手懐け、そのメロゥはこうして、彼女が居るであろう場所に向かおうと誘っている。

 少し――大分――かなり――滅茶苦茶悔しいが、やはりメロゥは、あの少女の事が好きになったのだろう。

 しかし、悔しいからと言って、初めてこんな風に自己主張するメロゥの気持ちを無碍にする事も出来ず、溜息をつきながら、坂道を登り始める。

 その後姿を、メロゥは満足げに尻尾を振りながら着いて来ていた。

 

 程なく丘を登り終え、視界に教会の姿が入ってくる。

 被害は無いと思っていたが、やはりこちらでも風は強かったのだろう。

 先週来た時にはまだ付いていた扉が、教会の中に向かって倒れてしまっていた――大部ガタついていたし、仕方ないかもしれない。

 ドアの外れた入り口をくぐり、祭壇を見上げると、そこには予想通り、ポニーテールの少女が立っていた。

 

 

「ワンッ」

 

「……ん? アンタ等は……」

 

 

 彼女はこちらに背を向けていたが、メロゥの声に振り返り、こちらを見下ろす。

 

 

「もう来るなって、アタシ言ったよね? ……なんで来た」

 

 

 その言葉には、明確な拒絶の意思が乗っており、視線は冷たかった。

 少女らしからぬその迫力に気圧されそうになったものの、隣に居るメロゥの気配に助けられ、気を取り直し、口を開く。

 

 それは、分かってたけど……メロゥが、どうしても来たがってたんだよ。だから、仕方なく……。

 

 

「メロゥが……?」

 

 

 

 冷たかった視線は、隣に居るメロゥに向かうとその温度を和らげる。

 少女は、ポケットに手を入れたまま、肩をすくめる様な動作をすると、ゆっくりと階段を降りて来て、メロゥの側にしゃがみ込む。

 

 

「全く……。アタシに会いに来ても、なんもくれてやんないぞ……?」

 

「クゥン……」

 

 

 相変わらず落差の激しい対応に面食らうが、メロゥは嬉しそうに鼻をピスピス言わせて、自分を撫でる少女の手を受け入れている。

 その光景を見ていると、胸の内に、ふつふつと湧き上がる感情があった。

 ――ああ、そうか、これが。

 気付かれぬよう、静かに瞑目し、一度深呼吸をしてから、自分は意を決して少女に話しかける。

 

 ……なぁ、この後、時間あるか?

 

 

「……ん? まぁ、暇っちゃあ、暇だけど……なんだよ?」

 

 

 彼女はこちらを見上げ、胡乱気な視線を向ける。

 それに負けぬよう、腹に力を込めて。

 はっきりとした言葉で、告げる。

 

 ……勝負だっ!!

 

 

「は?」

 

「ワフ?」

 

 

 そう――この感情は、嫉妬だ。

 長年一緒に生活してきて苦楽を共にしたと言うのに、どこの馬の骨とも分からない女にメロゥを寝取られて堪るかっ!!

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 行け、メロゥッ!

 

 

「ワンッ!!」

 

 

 掛け声と共に、澄み切った青空をフリスビーが駆ける。

 緩やかに弧を描くその軌跡をメロゥが追いかけ、やや高度が下がった所で、後ろ足を力強く伸ばし、跳躍。見事、その口にフリスビーを咥える事に成功する。

 メロゥは、それを咥えたまま勢い良く反転し、一直線にこちらへ。

 それを迎えようと、自分は両手を広げしゃがみ込む。

 

 

「……お? お~、よしよし。良く取れたな、偉いぞ~、メロゥ~」

 

「ワンッ、ハッ、ハッ、ハッ……」

 

 

 ――のだが、メロゥは真横を通り過ぎ、その斜め後ろに立っていた少女――佐倉杏子の元へ嬉しそうに駆け寄った。

 そんな姿を見せ付けられ、自分は芝生に膝を落とし、両手を地面に突きながら咽び泣く。

 

 ……何故だ、何故だメロゥ!? 一緒に過ごしたあの十一年間は嘘だったと言うのか!?

 

 

「アンタも大げさだね~。別にいいじゃん、このくらい。な~メロゥ~、よ~しよしよし」

 

「ワンッ!!」

 

 

 メロゥを褒めちぎりながら、彼女はふてぶてしく言い放つ。

 あの後、自分達は場所を移し、見滝原と風見野の境目辺りにある、とある運動公園にやって来ていた。

 もちろん、自分と彼女、どちらがよりメロゥに好かれているかを確かめるためだ。……が、あれだけ意気込んだと言うのに、結果はこの様である。

 

 ……いいや、まだ、まだだ。まだ勝負は始まったばかり……。これから、嫌と言うほどメロゥとの絆を見せ付けてやる……!!

 

 

「ふ~ん……。ま、暇だから良いんだけどさ。んじゃ、次アタシな」

 

 

 佐倉は、メロゥから渡されたフリスビーを手に取ると、少し離れてから、助走をつけて腕を振りかぶり――

 

 

「……そらっ、取ってこぉいっ!!」

 

「ワンッ!!」

 

 

 ――勢い良く振り抜く。

 思いの他、そのフリスビーは高く飛び、それを追うメロゥの姿は、瞬く間に小さくなった。

 

 

「ありゃ、力入れすぎたか……?」

 

 

 彼女は、失敗した、という顔つきでメロゥを見送っているが、それに胸を張って答える。

 

 メロゥなら大丈夫さ。

 見てな。

 

 

「……おう」

 

 

 そのやり取りの間にも、メロゥの姿は随分と小さくなっていた。

 そして、遠くで小さな影が高く跳躍し、またしても、見事にフリスビーをキャッチして見せる。

 

 

「おぉっ、結構跳ぶなぁ」

 

 

 佐倉の感心するような声が、メロゥを褒めてくれているようで、少し誇らしい。

 そして、再びこちらに戻ってくるあの子を迎えるため、腕を広げる。

 

 さぁメロゥ、この胸に飛び込んで来いっ!!

 

 

「ワンッ!!」

 

「よ~しよし、ちゃんと取れたなぁ、凄いぞメロゥ~」

 

 

 なんでだぁぁあああ!!!!!!

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ………………。

 

 

「……ま、まぁ、こんな日もあるって。偶々、偶々だよ、きっと……」

 

「ワゥン……」

 

 

 ………………。

 

 

「あ~……え~と……そ、そうだ! うんまい棒食うか? ほら、いっぱいあるぞ?」

 

 

 ……コンソメボディブロー味……。

 

 

「そんな味あったか……? ……あ、あった。ほら」

 

 

 膝を抱え、差し出されたそれをモソモソと食べながら、自分は敗北感に打ちひしがれていた。

 二十戦全敗。

 あの手この手でメロゥの気を引こうとしたが、その尽くは佐倉の前に敗れ去った。

 最後の方なんて、彼女も気を使ってメロゥを呼んだりしなかったのだが、それでもメロゥは彼女を選んだ――最初から呼んでなかった気もするが。

 今はこうして、心配そうに側に居てくれるが、やはり悔しい。

 これが、NTRかぁ……新しい世界だ……。

 

 

「……め、メロゥは、えっと、ラブラドール、だっけ? やっぱり、随分と人懐っこいんだなっ、一回会っただけなのにこんな――」

 

 

 ……自分に懐くには二ヶ月掛かりました……。

 完全に懐くのには更に一年掛かりました……。

 

 

「――あ~、っと……ド、ドンマイ……?」

 

 

 ……はぁ。

 

 溜息をつき、芝生に寝転がる。柔らかい風が吹き、佐倉の長い髪が風にそよぐ。

 運動後の心地よい疲労感が体を襲い、このまま眠ってしまいそうだった。

 

 

「……なんか、悪かったな。アタシ、もう行くよ」

 

 

 だが、その沈黙が気まずかったのだろう。彼女は立ち上がり、この場を去ろうと背を向けた。

 それを見てメロゥもすっくと立ち上がり、側へと歩み寄る。

 近づくメロゥに気付いたのか、佐倉は一旦立ち止まり、視線の高さを合わせて優しく微笑む。

 

 

「じゃあね、メロゥ。ご主人と仲良くするんだよ」

 

「クゥン、クゥン……」

 

 

 そう言い残すと、彼女はもう立ち止まろうとはせず、ゆっくりと、公園の外に向かって歩を進める。

 メロゥは、彼女との間をぐるぐると回るようにして、迷うように行ったり来たりしていた。そんな姿を見て、なんと言うか、諦めがついた。

 しかたない、と溜息をつきながら立ち上がり、自分は佐倉の背中に呼びかける。

 

 また、会えないか?

 

 

「……は?」

 

 

 こちらを振り返った彼女の顔に浮かんでいたのは、呆気に取られた表情だった。

 メロゥの一番を取られたのは、正直悔しい。だけど、佐倉と一緒に過ごした時間は、楽しかった。

 まぁ、人見知り・犬見知りの激しいメロゥと一緒だと、散歩仲間もなかなか出来ず、ずっと一人だったせいもあるのだろうけど。

 メロゥの行動に一喜一憂し、これほどはしゃいだのは子供の頃以来だった。彼女だって、あの様子からしてメロゥの事を憎からず思っている――と思うし。

 それなら、友達になれるかもしれない。そう思ったのだ。

 

 

「いや、でも……」

 

 

 佐倉は、困ったような素振りをし、自分とメロゥの間で視線を迷わせる。そんな彼女へメロゥと共に近づきながら、話しかけ続ける。

 

 メロゥがこんな風に誰かを好きになったのって、初めてなんだよ。

 このままお別れしたんじゃ、メロゥが寂しがるだろうし、なにより……。

 

 

「……なにより?」

 

 

 勝ち逃げされるなんてプライドが許さんっ。

 こっちが勝つまで、嫌でも付き合ってもらうからな、覚悟しろよ? な、メロゥ?

 

 

「ワンッ!!」

 

「………………」

 

 

 佐倉は、口をポカンと開けて、こちらを見つめている。

 それに自分は不敵な笑みを返し、メロゥはつぶらな瞳を期待で輝かせる。

 

 

「……ったく」

 

 

 やがて、開きっ放しだった唇が弧を描き――

 

 

「しょうがない。特別に付き合ってやっても良いけど、その代わり、アタシが勝ったらなんか奢れよな?」

 

 

 ――メロゥの頭を再び撫でながら、彼女は挑発的な笑顔を見せる。

 

 

「ま、この様子じゃ、どうせ次もアタシの勝ちだろうけど? 逃げるんなら今のうちだよ?」

 

 

 ……言ってろ、今度は絶対に負けないからなっ!

 

 

「ワンッ、ワンッ!!」

 

 

 佐倉の言葉に、強気に返事を返す。

 不敵に笑いあう二人の周囲を、メロゥが楽しそうに走り回っていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 この日を境に、日曜の散歩の時間に、新しい仲間が加わった。

 昼に運動公園で待ち合わせをして、日が暮れるまで二人と一匹で過ごす。勝負は今もって負け越していて、毎回ご飯を奢らされたが、それでも楽しかった。

 しかし、奢るのに掛かる金額が結構な負担になり、少しでも節約しようと、自作のお弁当を持っていく事もあった。

 最初から負ける時の事を考えていては勝てる物も勝てないのだろうが、佐倉は遠慮無しにバカスカ食うので、こっちの方が安上がりなのである。

 幸い料理には自信があったし、彼女もそれを気に入ってくれたので助かった。

 

 そんな関係が一月ほど続くと、流石に佐倉の事も少しは理解出来ていた。

 多少露悪的な部分があるものの、根は真っ直ぐで、良く笑う優しい子なのだ。きっとメロゥも彼女のそんな所に惹かれたのだろう。

 未だに、名前と風見野に住んでいる事位しか知らないのはちょっと寂しいが、あの笑顔を見るに、心配するような事は無いと思う。

 

 それを理解してからと言うもの、変な対抗意識は全く無くなり、メロゥを挟んで、自然と名前で呼び合うようになった。

 仲良くなり過ぎたのか、別れる時間になってもメロゥが離れようとせず、結局、家まで来る事も多くなって、その流れで夕飯をご馳走したりもした。

 そして、普段から両親が不在がちなのを知ってからは、気軽に家にも上がるようにもなり、休日ともなれば、朝からずっと一緒に居るのがもう当たり前だ。

 普通なら、男子学生の一人暮らしなんて警戒すると思うのだが、彼女は特に気にしていないようで。

 最近では毎日の散歩も一緒にするようになっている。

 

 いつの間にか、杏子とメロゥと自分、並んで昼寝が出来るぐらい、互いに気を許していて。まるで、生意気な妹が出来たような、そんな感じだった。

 

 

 だから、その時の自分は、考えもしなかったのである。

 この気の置けない関係が、悩みの種になるだなんて。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「佐倉さん、それは恋よ」

「杏子、そりゃ恋でしょ」

 

「……へぁ?」

 

 

 異口同音の二重奏に、少女は思わずフォークを取り落としてしまう。

 三角テーブルを囲む二人――巴マミ、美樹さやか。その視線を一身に集めるのは、今回の相談者である佐倉杏子であった。

 現在、一同が集まる巴家には、奇妙な沈黙の帳が降っている。

 そして、それに耐え切れなくなった杏子は、プルプル震えながら口を開く。

 

 

「……ナ、ナニイッテンダヨ、オマエラ。アタシハ……」

 

「うわ、すっごい棒読み。っていうか、どう聞いてもそうとしか思えないって。ねぇ? マミさん」

 

「ええ、ホント。でも、ちょっと嬉しいわ。佐倉さんもしっかり青春してるのね」

 

 

 きゃっきゃうふふ、とでも表現しようか。

 口元をもにょもにょさせる杏子を放って、マミとさやかは笑い合う。

 

 ――大事な、相談があるんだ。

 

 そう集められた二人にとって、彼女の言い分はあまりに可愛らしく、笑みが浮かんでしまう内容だった。

 が、相談した杏子の方からすれば、置いてきぼりにされた上で笑われたようにも感じられてしまい、気恥ずかしさも手伝って、彼女はテーブルをバンッと叩いて声を荒らげる。

 

 

「そ、そんなんじゃねぇって! アタシは――」

 

「一緒に居ると楽しいのに苦しい」

 

「――ぅぐ」

 

 

 しかしそこへ、マミの一撃。

 

 

「名前を呼ばれるだけでなんかドキッとする」

 

「ぁう」

 

 

 さやかの追撃。

 

 

「えぇと、後は、一人になるといつの間にかその人の事を考えてたり……」

 

「最近は外食だと物足りなくて、家まで押しかけてるんだっけ?」

 

「……もう、やめてくれよぉ……イジメだろこれぇ……」

 

 

 最後に、二人揃っての口撃に止めを刺され、杏子は涙目になってガラステーブルに額を押し付ける。

 彼女自身が、とある少年と出会ってから、己の身に起きた変化を説明する時に使った言葉の数々。

 それは他人の口から発せられたというだけなのに、銃弾にも等しい殺傷力で胸を打ち抜いた。汗顔の至りとは、正にこの事だろう。

 恋。

 よりにもよって、恋。

 あまりにも自分に似合わない事柄を突きつけられ、杏子は「ん゛あ゛~」と唸り続ける。

 

 

「で、どんな人なのよ、その男の人って。杏子をこんなにする位だから、よっぽどのイケメンか、それとも口説き上手だったり?」

 

「……んなんじゃねぇよ。アイツに口説かれたことなんて一度もねぇし。まぁ、顔は………………そ、そこそこ? だとは、思うけど」

 

「ふふっ。そっかぁ、そうなんだぁ」

 

 

 鷹揚に頷きながら、ご満悦な顔のマミ。

 それがまた妙にこそばゆくて、杏子はつい悪ぶった物言いで返す。

 

 

「な、なんだよマミ。顔のついでにキャラまで崩れてんぞ?」

 

「酷い言い草……。まぁ、気分が良いから許してあげます。それよりも、佐倉さんはその人のどんな所に惹かれたの?」

 

「………………散歩中に自転車で轢いた事は一回あるな」

 

「杏子、それは流石に苦しいよ。……ほい」

 

「……ぁむ」

 

 

 苦し紛れなお惚けに突っ込むさやかは、不貞腐れる口元に、小さく切り取ったショートケーキを運ぶ。

 杏子は無言のままにそれを頬張り、満足そうな鼻息を漏らした後、渋々といった様子で所見を述べ始める。

 

 

「なん、つーか。最初はただの暇潰しだったんだよ。

 アタシはマミ達みたいに学校行ってる訳じゃないし。街をブラブラするのにも飽きてきてたし。

 だけど、意外と、楽しくてさ……。アイツ、本当にコロコロ表情変えるんだよ。

 嬉しい時はガキみたいに歯を見せて笑うし、悔しい時はそれこそ歯軋りするし。見てて飽きないっていうか……」

 

「ふんふん。それでそれで? 他には?」

 

「……う、ほ、他? えーと……後、は……。

 作ってくれるメシが、美味い、し。なんだかんだで、イイ奴だし。一緒に居て、落ち着くって、ゆーか。

 ………………んぁああっ!? やっぱアタシ帰るぅ!!」

 

「マミさん、確保ぉ!!」

 

「大丈夫、逃がさないわっ!」

 

「んべっ!?」

 

 

 言っている内に恥ずかしくなったか、杏子はその場を逃げ出そうとするのだが、瞬時に展開された拘束魔法に脚を捕られ、べちん、とフローリングへ顔面から墜落。

 リボンに一本釣りされながら恨み言を残す。

 

 

「お、お前、等……ここまでするかぁ……?」

 

「全く、相談してきたのはそっちでしょうに。しっかし、恋愛相談ならまどかも呼べば良かったんじゃない? ほむらは……まぁ、あれとして」

 

「……いや、あんま多くに知られたくなかったし。なんか、二人で出かける約束もしてるみたいだったし……」

 

「ああ。あの二人、仲良いもんね~。まどかに彼氏さんが居なかったら、そっちの趣味があるんじゃないかって疑ってるとこだよ、ほんと」

 

 

 さやかの脳裏に浮かぶのは、一見クールで本当にクールな黒髪ロングの美少女。

 しかしその本性は、ちょっと危ない気配が漂うほどに、さやかの親友である鹿目まどかへ親愛を傾ける、まどか大好き人間である。

 きっと彼女は今頃、大好きな子の隣で鼻息荒く無表情にはしゃぎまくるという、器用な真似をしている事だろう。

 今まで歩んできた苦難の道を思えば当然かも知れないが、それにしたってあれな気がするさやかだった。

 

 

「そうかしら? 私には、少し違うように思えるのだけど」

 

「あれ、そーですか?」

 

 

 ――が、未だにぶーたれる杏子の身嗜みを整えながら、マミは首を傾げた。

 

 

「ただ単に、距離を計りかねているみたいにも見えるの。浮かれている、って言えば良いのかしら。

 それに暁美さん、鹿目さんと一緒の時でも、ふと寂しげな表情をする事があるのよ。

 まるで、何かを懐かしんでいるような……けど、胸に何かが(つか)えているみたいな……」

 

「……そうなのか?」

 

「え、いや、どうかな……? あたし、全然気付かなかった……」

 

「まぁ、あくまで私の主観として、ね? 本当の所は、暁美さん本人にでも聞いてみないと」

 

「ですかね~。とりあえず、ほむらの話はここまでって事で。今はそれより、杏子の初恋の方が重要でしょ!」

 

「うっ……だ、だから、アタシは、そんなんじゃ……」

 

 

 話をさて置き、ズビシッ、と人差し指を突きつけられ、杏子は狼狽える。

 だって、恋、なのだ。

 本来なら、さやか達と同じく学校に行かなければならない身でありながら、自分の力だけで生きる事を強いられた彼女が、必要無いと放り投げてしまった事柄の一つ。

 さやか達との出会いによって、それと同時に諦めていた様々な物――他者との絆や、己が力を振るう意義も取り戻せたと思っていたら、こんな余計な物まで。

 別に悪い事ではないのだろうが、あまりにも唐突な気がして。自分がそんな事態に陥るだなんて、想像だにしていなくて。

 だからこそ、杏子はそれを素直に受け入れられず、俯き加減に認めようとはしないのだが、そんな彼女にさやかは呆れ果て、ちょっとした例え話を始める。

 

 

「まぁだ認めないの? んじゃあ、こんなのはどう? 杏子の好きな人って、高校生なんでしょ? その人がもしも今、女子高生と密かに合コンとかしてて、王様ゲームとかでラブラブしてたら――」

 

「よし、ちょっとアイツ締めてくる」

 

「――ぬぇええっ!? だ、だめだよ杏子、ちょっと落ち着きなって!? もしも! もしもの話なんだからっ! そんな一狩行こうぜ的な気軽さで変身しないでってばぁ!」

 

 

 ――が、しかし。それを聞いた瞬間、杏子はすっくと立ち上がり、深紅の衣装に身を包む。

 その表情に病み(誤字ではないカモ)を見たさやかが必死に縋りつかなければ、架空の女子高生との浮気疑惑によって、件の彼は酷い目に遭っていた事だろう。

 まぁ、そもそも浮気とか言える関係性ではないのだが。今の所は。

 

 

「ほら、どうどうどう。とにかく座って! ……たく、これだからツンデレは」

 

「ツンデレってのが何かは知らねぇけど、使い方が間違ってるのと褒められてないのは分かるぞオイ」

 

「う~ん、今のは美樹さんがちょっと悪いわね……。それじゃあ、こんなのはどうかしら? 佐倉さん、目を閉じてくれる?」

 

「え? う、うん……」

 

 

 とりあえずは落ち着いたのか、変身を解き、再び腰を下ろす杏子へ、今度はマミが。

 言われた通り、胡坐をかきながらも目を閉じた彼女は、静かに次の言葉を待つ。

 

 

「それで、よく思い出してみて。

 その人と一緒に居ると、嬉しくて、楽しくて。だけど、見つめてると胸が苦しいから、目を逸らしたくなって。

 でもそうしたら、いつの間にかどこかへ行ってしまいそうで、目を逸らせなくて、もっとドキドキする。そんな覚え、ないかしら?」

 

「………………」

 

 

 杏子は答えない。

 けれどその顔は、明らかに、瞼の裏へ誰かを想い描いていて。

 そんな彼女を可愛く思いながら、マミ自身も瞼を閉じ、その体験を言葉にしていく。

 

 

「初めは特別な存在じゃなかった。言葉を交わす事があったとしても、気持ちを分かち合おうとは思っていなかった。

 だけど、彼は話しかけてくれた。ぎこちなくだけど、笑いかけてくれた。何度も、何度も」

 

「……何度、も」

 

 

 二人はそれぞれに、違う人物を思い出す。

 マミは、かつて命を助け、そのお礼と称して、色々な関わりを持つ事になった少年を。

 杏子は、かつてを過ごした場所で出会い、不覚にも大笑いさせられてしまった少年を。

 共通しているのは、胸に秘めた想いの差はあれど、彼等に働きかけられなければ、二人共、こうしてはいなかったであろうという事実。

 

 

「そして段々と、胸の中で彼の存在が大きくなっていく。

 話した事を思い出して、つい一人で笑っちゃったり。会えない時間が寂しくなったり。彼の笑顔を思い浮かべるだけで、不思議と心が温かくなる。

 どうしてだか分からないのに、心地良くて。でも時々、胸を締め付けられるようで……」

 

「笑顔……」

 

 

 杏子の脳裏で巡る、共に過ごした時間。

 飾らず、気負わず、遠慮なんかせずに笑い合った時間。

 マミの言った通り、段々と心を占めて行った、平凡な存在。

 こんなにも悩ませる、厄介で……少しだけ、特別にも思える、“アイツ”。

 

 

「私も、最初はこの気持ちに自信なんか無かったの。でもね? ある時、ふと思ったのよ。

 この人の声が、笑顔が嬉しい。側に居てくれるのが、とても幸せ。……他の誰にも、渡したくない」

 

 

 そこでマミは、ちら、と視線を滑らせた。

 向けた先に居る、真剣な顔をしたショートカットの少女は、頭上に「?」を浮かべて首を傾げて。

 くすり、小さく笑ったマミは、彼女に何も言わず視線を戻す。

 

 

「そして、ようやく気付いた。私は、もうとっくに、彼に恋してたんだ、って。

 この気持ちが、きっと、好きっていう気持ちなんだ、って。

 佐倉さんはどう? 貴方はその人に向けた気持ちを、どう呼びたい?」

 

「……ん……」

 

 

 問い掛けられ、より深く、杏子は己が内を探る。

 初めて声をかけた時の、間抜けな悲鳴。

 遊びに誘われ、子供のように、一緒にはしゃいだ公園。

 作ってくれたご飯が美味しくて、それを素直に褒めた時の、はにかみ。

 陽だまりの中、揃ってうたた寝をし、目覚めた時、隣に誰かが居る安心。

 気を抜き過ぎてしまったのか、偶然帰って来た彼の両親に見つかって恋人と勘違いされた時、驚くほど跳ねた心臓。

 

 そして、彼自身にそれを否定された時の、奇妙な寂しさ。

 言い繕い、誤魔化しながら同意を求められ、とりあえず笑い返していたけど、その実……。

 

 

「……あ」

 

 

 ――と、そこまで考えて、杏子は気付く。

 普段は嫌でない笑顔なのに、それが苦しかった。これは、さやかとマミが言っていた事の証明では、と。

 あの日から、杏子はおかしくなった。彼と過ごした時間を思い返して思い出し笑いをしては、関係を否定される言葉に沈み込む。

 楽しくて苦しい。嬉しくて寂しい。そんな、甘い矛盾。

 どんなに鈍い人間でも、ここまでお膳立てされれば、理解する他に無い。

 

 自分が、恋をしているのだ、という事実を。

 

 何かが杏子の胸に、すとん、と落ちた。

 ようやく、収まるべき所に落ち着いたような、そんな感覚。

 この気持ちを、彼への感情をどう言い表すかと問われたなら、それは彼女と同じく、きっと――

 

 

「あぁ……。アタシは、アイツの事が……」

 

 

 

 

 

 ――好き、なんだ。

 

 

 

 

 

「ん、へへ」

 

 

 なんだか無性に、あったかくて、むず痒くて、おかしくて。

 杏子は、パーカーの袖に半分隠れた手を胸の上に置き、緩やかに目を細めて、軽く顔を伏せ、頬を染める。

 今の彼女を美術の題材としたなら、きっとその作品には、「恋」や「乙女」というフレーズが似合う事だろう。

 

 

「マ、マミさん、どうしよう、どうしようっ!? なんか杏子が物凄く可愛いんですけどぉ!?」

 

「ちょっと美樹さん、揺らさないで、手ブレしちゃうわ?」

 

「……お前等なぁ」

 

 

 そんな少女に見惚れる二人は、隣り合う肩を揺らしたり、携帯のカメラを向けたりと騒がしい。

 余韻に浸る間も無く現実に引き戻され、恋する乙女の顔はぐんにょりである。

 

 

「さて、と。これで目出度く、佐倉さんが自分の気持ちを確認できたわけだけど……」

 

「むしろ、問題はここからですよねぇ……」

 

「うぇ? こ、今度は何だよぉ?」

 

 

 ややあって。

 マミは紅茶を一口含んだ後に隣を見やり、それを受けたさやかは、腕組みをしながら、ある問題を定義する。

 

 

「ねぇ杏子。確かあんたさ、毎日のようにその人ん家にお邪魔して、ときどき一緒に昼寝までしてるって言ってたよね」

 

「……そう、だけど。や、やっぱマズイかな? 厚かましい、かな……?」

 

「………………。あたしね、杏子の事、可愛いと思う。それこそ、男だったら絶対に放っておかないくらい」

 

「か、かっ? なんだよもうさっきからぁ! 恥ずかしい事、言うなっての……」

 

 

 珍しい、正面切っての褒め言葉に、杏子はもじもじ顔を逸らす。

 が、「そこが問題なのよ」と、さやかは更に言葉を続ける。

 

 

「そんなあんたが無防備に隣で寝てるのに、襲いかかったりイタズラしないなんて、そっちの方が問題よ! つまりは女として見てないって事じゃない?

 だって男子高校生だよ? 性欲の塊だよ? 目の前で可愛い年下の女の子がおへそ出して寝てたりしたら、普通は襲うでしょ?」

 

「………………え」

 

 

 折角、年頃の女の子として自覚が出て来た所でそれを全否定され、ピシッ、と凍り付く杏子。

 視線だけを横に向ければ、マミも苦笑いを浮かべていた。

 

 

「後半の意見はともかく、意識されていないっていう可能性は、否定できないわね……。

 私も一回だけだけど、寝ている間に胸を悪戯されたし……。気づかない振りは、してあげたんだけど」

 

「ぅおぉ、さ、さっすがマミさん……! 先輩もその黄金ボディの魅力には抗えなかったか……!

 あえてイタズラさせ、バレてないように思わせておいて実は……。恋愛上級者のテクニック、勉強になります!」

 

「え、あ、そ、そう? ……ま、まあ、参考までに、ね?(ど、どうしよう、恋人になってからって言いそびれちゃった……)」

 

 

 キラキラしている尊敬の眼差しに、苦笑いの質が変化した事を、さやかは気付かない。

 それを受けながらも微妙に視線を逸らすマミは、内心でどうしようかと思い悩む。

 何故なら、マミの恋はテクニックもへったくれも無い、偶然と勢いに任せた代物だったからだ。

 なのに、なんでこんな尊敬を受けているのか。

 見栄を張って「私が誘惑して手を出させたの」だとか「女はちょっと積極的な位で丁度良いのよ?」だのと言ったのが原因である。

 後輩の前で格好付けたい気持ちは誰にでもあるだろうが、それが原因でいつかバレるんじゃないかと悩んでいるなら世話は無い。

 

 

(……ううん。やっぱり、早い内に撤回するべきだわ。失望されるかも知れないけど、これ以上、傷が深くならない内に……!)

 

 

 しかし、格好付けたがりであると同時に、今は亡き両親にしっかり礼儀を躾けられているマミにはそれが心苦しく、また、バレた時の反動が怖くもあり、さっさと真相を吐露した方が良いと思い至る。

 何度か静かに頷き、意を決した彼女は、おもむろに口を開き――

 

 

「あ、あのね、二人共。私、本当は――」

 

「……なぁ、マミ。アタシって、女としての魅力、無いのかな……」

 

「――え? そ、そんなこと無いわ? 美樹さんの言った通り、佐倉さんは可愛らしいと思うわよ?」

 

 

 ――それは、酷く落ち込んだ杏子の声に、遮られてしまった。

 咄嗟に慰めの言葉へと変換するも、彼女の顔は暗いまま。

 

 

「でもさ……アタシ、マミみたいにおっぱいデッカくないし……」

 

「む、胸の大きさは関係無いと思うわ、佐倉さん」

 

「可愛げも無いし、ガサツだし、大飯喰らいだし……。イタズラ、されてないし……」

 

「いやいや杏子? 何もイタズラされるのが恋の始まりって言ってる訳じゃないんだよ?」

 

「けど、さぁ……」

 

 

 いつに無く気弱な姿に、二人は杏子を励まそうと言葉を尽くす。

 が、それでも彼女のテンションは盛り下がり、ついには膝を抱えて顔を埋めてしまった。

 敵を前にして不敵な笑みを絶やさず、常に冷静さを失わなかった彼女が、これ。

 恋とは、げに恐ろしき物である。

 

 

『完っ全に落ち込んじゃってますねぇ……。ほんと凄いわ、杏子の好きな人。あの杏子をこんなにしちゃうんだから』

 

『……ええ。どんな人なのか興味が湧くわ。でも、いい変化よ、きっと。応援してあげなくちゃ!』

 

『ですねっ!』

 

 

 心で通じ合い、二人は笑う。

 そして早速、さやかは杏子の肩を叩く。

 

 

「ほらほら、落ち込まないで? 杏子は可愛いって! 【 彼 氏 持 ち 】なあたしが保証するから、ね?」

 

「この状況で惚気るとか嫌味かお前ぇ……」

 

「そうじゃなくって! ピンチはチャンス! 逆に考えれば、意識されてないってのは武器にもなるんだから!」

 

「どういう事、美樹さん?」

 

「話を聞く限り、意識されないくらい自然な距離感は築けてるって事ですよね?

 だったらそれを利用して、ちょっと過激なスキンシップも出来るはず!

 そして、例の人が我慢出来なくなった頃合を見計らって、さっきのしおらしい姿を見せれば……。

 我ながら完っ璧な作戦! 名付けて、《オーバー・スキンシップ&ギャップ萌え作戦!!》」

 

「ギャップ、ね。なるほど……」

 

「もえ……って何だ? なんか燃やすのか?」

 

 

 マミの問いに、さやかは「むっふん」と胸を張り、ドヤ顔で解説。

 肝心の杏子には微妙に意味が通じていないが、勢いに乗ったさやかは止まらない。

 

 

「要するに、マミさんがやったみたく、誘惑して襲わせちゃえばいいのよっ!」

 

「ゆ、誘惑って……! アタシはまだ、そんな関係は……その……」

 

「ああ、違う違う。何も本当にヤっちゃえって訳じゃなくって、杏子なら普通に返り討ち出来るでしょ。

 だから、襲い掛かってきた所を適当にとっちめて、それを許す寛大さを見せ付けながら、

 『本当はアタシも……』

 とか言っちゃえば、きっとめでたくゴール・イン! よ!」

 

「あの、美樹さん。それ、美人局って言うんじゃ……?」

 

「細かい事は言いっこ無ぁし! それに、マミさんだってそれで先輩をGETしたんじゃない?」

 

「う゛。い、いえ、それ、は、そうなん、だけど、ね? と、時と場合が、ね?」

 

 

 巧妙に事実を捻じ曲げて伝えているのに、加害者である事だけは何故か正解しており、またも頬を引き攣らせるマミ。

 そして、そう言えば言い訳の途中だった、という事も思い出した彼女は、今度こそ否定しようと――

 

 

「う、ううん、そうじゃなくてね? 私ホントは――」

 

「……そっか。そうだよな、マミっ!」

 

「――えぇ!? 何がっ!?」

 

 

 ――した瞬間、勢い良く顔を上げた杏子に遮られた。

 本日二回目である。

 

 

「こんなとこでウジウジしてるなんて、アタシらしくないよなっ!

 ギャップ、燃え? とかいうのはよく分かんないけど、とにかくやってみるっ!

 女はちょっと強引に迫った方が良いんだもんなっ! な、マミ?」

 

「え? あの、ちょっと違うような……積極的な方がとは言ったけど、強引にとまでは――」

 

「その意気だよ杏子! あたし達も全力で応援するから! ね、マミさん?」

 

「あ、ええ、勿論。応援も、サポートもするわ? でもその前に私の話を――」

 

「サンキューな、マミ! さやか!」

 

 

 ハイテンションな二人に三度四度と無視され、いくら初恋を自覚したからって浮かれ過ぎじゃない? もう片方はともかくとして、なんてマミは思い、同時に焦る。

 何故だか分からないが、このままで居ると、とっても不味い事になる気がする。

 何と言うか、最悪に近い形でバレる上に生暖かい視線に晒される末路が見える気がするのだ。

 そんな、針の筵の方がまだマシに感じられる未来を変えるべく、彼女はまたしても声を上げ――

 

 

「……ふ、二人共、お願いだから私の話――」

 

「でも杏子? ギャップ萌えっていうのは、積極的なだけじゃ駄目なんだからね? 引くべき所はすっと引かないと」

 

「そ、そうか? うぅ、やっぱムズいな……」

 

「だいじょぶだいじょぶ。なんせこっちには、既に実践済みのお手本が居るんだから」

 

「おお、そういやそうだな」

 

「――え」

 

 

 ――例によって、それは空回り。

 無言のまま、「私?」とマミは自分を指差し、二人が「うんうん」頷く。

 純粋に信じてくれている、二対の視線。

 寄せられる期待。

 奇妙な圧力。

 罪悪感。

 

 

「………………そうね。時には強引な方法も必要だけど、度を越すと逆効果だから、気を付けないとね?」

 

「おお~」

 

「さっすがマミさん! あたし達以上に経験豊富な大人の女! そこに痺れる憧れるぅ!」

 

「う、うふふ、そんな事、無いわ? ふ、ふふふ……」

 

 

 それ等に負けたマミは、明後日の方向を向きながら実にそれっぽい事を言い放ち、この場を乗り切ってしまうのだった。

 彼女にとって最悪の結末が、今、ここに確定した。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 玄関の扉を、特に挨拶もせず開け放つ。どうせ両親は帰って来て居ないので問題は無い。

 全く、早く帰ろうとした時に限って、先生に用事を頼まれるとか、災難にも程がある。おかげで余計に疲れてしまった。

 

 杏子と出会ってから季節は移り変わり、もう夏が始まっていた。

 日照時間が延び始めているため、日はまだ沈んではいないが、時刻は既に夕食時になっている。

 多分、メロゥの散歩は杏子が済ませてくれていると思うけど、流石に今日はもう帰ってしまっただろう。

 ここ最近は夕飯を一緒に食べるのが当然になっていたので、なんだか物足りない気がする。

 

 だが、溜息をつきながら靴を脱いでいたら、ふと違和感に気付いた。

 普段は暗い筈の居間に、電気が点いていた。家を出る時にはちゃんと消したはずなのに。

 怪しんでいると、居間へと続くドアの反対側――洗面所兼脱衣所の扉が、ガチャリと音を立てて開く。

 

 

「ふぅ~、サッパリした~。……お? お帰り。風呂、もらったよ~」

 

 

 そこから姿を現したのは、濡れた髪をタオルで拭く、黒いインナーとデニム地のホットパンツという姿の杏子だった。

 唖然とし、なんで、と口から疑問が洩れてしまうが、彼女は全く悪びれずに言い放つ。

 

 

「え? いや、散歩から帰ってきて、メロゥと遊んでたら汗かいちゃって」

 

 

 そうじゃなくて、どうやって家に……?

 鍵は……?

 

 返って来た答えに首を横に振りつつ、再び問いかけると、杏子はポケットを探り、何かを取り出した。

 

 

「どうやってって……コレ。オバさんからこないだ貰った奴」

 

 

 その手にあったのは、引き出しに仕舞いっ放しになっていた予備の鍵だ。キーホルダーに見覚えがあるので間違いない。

 そういえば少し前、久々に帰って来た両親に、杏子と昼寝しているのを見られて、恋人が出来たと盛大に勘違いされたばかりだった。

 しかも、『メロゥが懐くのなら悪い子な訳がない』という理由で両親に気に入られ、自由に家を使って良いという許しまで出ていた。まさか鍵まで渡しているとは思わなかったが……。

 確かに杏子なら信頼できるが、家の親は相変わらず、仕事以外では頭の螺子が二十~三十本くらい外れているんじゃないかと思う。

 そんな事を思い出し、頭を抱える自分だったが、しかし杏子はどうでも良いと、居間への扉を開きながら言う。

 

 

「んな事よりさ、アタシ腹減った。早くメシ食お~よ」

 

 

 ……それについては同意見だけど、まずは、そのポタポタと雫を垂らす髪をちゃんと乾かして欲しいんだけど? 床がびしょ濡れになるし、風邪ひくぞ?

 

 

「え? 良いじゃん別に、めんどい。どうしてもって言うんなら、アンタがやってよ」

 

 

 その指摘に、杏子は不満そうな声を上げ居間に入っていく。

 本当なら怒る所なのだが、そこそこ長い付き合いで彼女の性格は理解している。このまま放って置くと、本当にそのままにするだろう。

 仕方なく、洗面所からコードレスドライヤーと櫛を持ち出し、居間の椅子に座っていた杏子の髪を梳かし始める。

 

 

「~♪」

 

 

 彼女は気持ち良さそうに目を閉じている。

 その髪は、櫛が全く引っかからないほど滑らかで。

 同じシャンプーを使った筈だろうに、なぜかほんのり、甘い香りさえする気がした。

 

 

「なぁ、今日の晩飯は?」

 

 

 体を反らせ、こちらを見上げる杏子に、少し悩んでから答える。

 

 ……今日は、豚肉の特製ニラだれ炒めと、若布と豆腐の味噌汁に……あとは、キャベツ刻んで、漬物とかで良いか?

 

 以前にも作った事があり、好評だったメニュー。食欲が低下しがちな夏にぴったりの、ピリ辛でご飯が進む一品だ。

 それを聞くと、彼女は満面の笑みを浮かべ、再び目を閉じる。

 

 

「あ~、あれかぁ。いいんじゃない? はやく食いたい~」

 

 

 子供のように体を揺らす杏子を、大人しくしろ、と叱り付け、ドライヤーを動かす。

 完全に気を許しているのか、彼女は椅子にもたれ掛かって力を抜いている。

 出会った当初の冷たい態度とは比べ物にならないその姿に、苦笑いしてしまう。

 

 ――ただ、願わくば。

 もうちょっと、女の子としての自覚を持って欲しい。

 ダボついたインナーの襟元から、見えそうで見えない先っちょにドキドキするのは、心臓に悪いんです。

 

 

 そう、悩みの種とは、杏子の無防備さについてである。

 こういう姿を見せてくれるという事は、信頼されている証だとは思う。思うのだが、思春期の男子学生にはちょっと刺激が強すぎるのだ。

 ……実際、何度かお世話にはなったけれども。

 なんかこう、後ろめたい気持ちが湧き上がって仕方ない。

 妹のように思ってはいても、やはり杏子は余所様の女の子な訳で。

 こんな風に無防備な姿を晒されていては、いつか我慢できなくなって襲ってしまうんじゃないかと、自分を信じる事が出来ない。

 

 だから、煩悩を抑えられるかと思って、般若心経を覚えてみた。割と高確率でお世話になってしまう辺り、効果は薄いみたいだが。

 運動で発散しようと、いつも以上にメロゥと遊んだりもした。杏子が途中で乱入してきて、彼女の汗の匂いにドギマギしたが。

 必要以上に接触しないよう、注意だってした。悪戯のつもりなのか、余計にベタベタするようになって逆効果だったが。

 

 傍から見れば羨ましい環境だと、自分でもそう思うが、本当に悩んでいるのである。

 今までの、兄妹のような関係が、心地良過ぎて。

 うっかり男女を意識してしまったら、今まで通りに接する事が出来なくなりそうで。

 こんな事を考えてるのが知られたら、杏子は、離れていってしまいそうで。

 ……また、メロゥと二人だけになってしまいそうで。

 

 それだけが、本当に怖い。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「はぁ~、食った食った~。ご馳走様っ」

 

 

 食事を終え、杏子は椅子に寄りかかりながら、満足げにお腹を擦っている。彼女の言葉を背に、お粗末様、と返しながら食器を水に浸す。

 その後、メロゥに夕飯のドライフードを与え、自分も体を休めるため、テレビの向かいにあるソファへと腰を下ろす。

 リモコンを押せば、バラエティー番組が流れだした。

 

 

「……よっと」

 

 

 それが気になったのか、杏子は椅子から立ち上がり、ポスッ、と音を立てながら、隣に腰を下ろす。

 なんとなく、並んでテレビを見つめる。

 杏子は、買い置きのチョコレート菓子をデザート代わりにパクついていた。

 画面の向こうで、国民的アイドルとされているグループのメンバーが、大して面白くも無い話に爆笑している。

 いつの間にか、食事を終えたメロゥも足元に寝そべっていて、退屈そうに欠伸をしていた。

 

 特に印象にも残らない、そんな内容だったが。

 二人並んで、ただぼんやりとする時間が、とても心地良かった。

 

 しばらくそうしていると、空腹が満たされたのもあり、眠気が込み上げてくる。

 うつらうつら、首が舟を漕ぎ始め、次第に瞼が重くなってきた。しかし、トスッ、と何かが落ちてきた衝撃に、意識が覚醒する。

 太ももに重さを感じ、顔を下に向ければ、そこには浅い寝息を立てる杏子の横顔があった。

 

 

「……すぅ……すぅ……」

 

 

 しばらく、ぼ~っとそれを眺めた後、柔らかそうな頬を指でつついてみる。

 

 

「……んっ……すぅ……」

 

 

 小さく声を上げると、彼女は寝返りを打つようにして、顔を脚に擦り付ける。

 その様子に微笑ましくなるのと同時に、ちょっとした悪戯心が湧いて来た。

 試しに、聞こえるかどうかの小さな声で、起きないと変なとこ触るぞ、なんて囁く。

 

 

「……んん? ……ん~……」

 

 

 その声が聞こえたのか、杏子は再び寝返りを打つ。

 驚いて、ワキワキとさせていた手がビクッとする。

 

 

「……すぅ……すぅ……」

 

 

 しかし、彼女は仰向けに体を直すと、そのまま寝息を立て始める。

 ほっと溜息をついたが、このまま引き下がるのも何か負けたような気がして、その体に手を伸ばし、寝返りを打った際に捲れたらしい、インナーの裾から覗くへその近くに指を落とす。

 

 

「……んっ……すぅ……」

 

 

 少し寝息が乱れたが、それは直ぐに穏やかな物に戻る。

 ドキドキしながらも、今度はその周囲をなぞるように、人差し指で円を描く。

 

 

「……んっ……ふっ……」

 

 

 悶えるような声を漏らし、杏子は小さく身を捩る。

 その、もどかしさを堪える顔が可愛くて、ついついくすぐるように、手を上に登らせていく。

 

 

「……ん……っ……ぅ……」

 

 

 動きに合わせて、黒いインナーが捲れて行く。

 

 

「……ぁっ……」

 

 

 やがて、うっすらと浮かぶ肋骨に触れる所まで来ると、杏子が上ずった吐息を漏らす。

 それが耳に届いた瞬間、自分が何をしようとしているのかを悟って顔をしかめる。

 自分は一体、何をしているんだ。

 彼女は自分を信頼して、こうして無防備な姿を見せてくれているのに……。それなのに、眠っている女の子に悪戯するなんて、ただのクズじゃないか。

 煩悩を払うように頭を振り、捲れてしまったインナーを戻そうと、裾を下に引っ張る。

 だが――

 

 

「……なんで、止めんのさ……?」

 

 

 ――それを杏子の手がそっと掴み、静かな瞳が見上げてくる。

 心臓を射抜かれた、そんな気がした。

 慌てて、言い訳をしようと口を開こうとするのだが、掴まれた手がある場所に導かれて、息を呑む。

 

 

「……んっ」

 

 

 なぜか杏子は、掴んだ手を自分の胸の上に置いた。

 インナーの下に何も着けていない為か、彼女の体温と柔らかさが、手の平に伝わる。

 

 

「……アンタとなら、いいよ。……そういう事、しても」

 

 

 杏子の瞳に、熱が篭る。

 それに焦がされる様に、自分の顔も熱を持ち始めていた。

 

 

「アタシはさ、アンタと出会った頃は、一人だった……。一人でいいと思ってた。きっと、それが報いだから」

 

 

 奔放な彼女には似つかわしくない、報い、と言う言葉。

 それが気になりはしたが、口を挟める様な雰囲気ではなく、上手く聞き出せる程の冷静さも失っていて、ただ、杏子の言葉に耳を傾ける。

 

 

「けど、その頃から、色んな奴と知り合って。

 アンタとメロゥにも、会うようになって――誰かが側に居てくれる暖かさを、思い出せた。

 今まで、散々悪い事してきたアタシに、こんな事願う資格、無いのかも知れないけど。それでも……」

 

 

 そこまで言うと、彼女は体を起こし、手を握ったままこちらに向き直る。

 顔には、今までに見た事の無い、真摯な表情が浮かんでいた。

 

 

「それでもアタシは、アンタと居たい。アンタと、メロゥと、ずっと。だから……」

 

 

 小さな手に、きゅっと力が篭る。

 初めて触る杏子の手は、思っていた以上に小さく、柔らかくて、すべすべとしていた。

 

 

「………………」

 

 

 彼女の目が、答えを求めている。

 だが、自分の口から出てきたのは、いきなりそんな事言われても……なんていう、情けない言葉だった。

 それが不満なのか、杏子はムッとした顔で言う。

 

 

「いきなりじゃ、ないって……。アタシ、結構前から、色々してたんだけど……?」

 

 

 静かだけれど、精一杯な“何か”のこもった言葉に、首を捻る。

 

 色々……?

 という事は、まさか、最近薄着だったのは夏だからじゃなくて……?

 

 

「……うん」

 

 

 じゃあ、妙にスキンシップが多かったのは……?

 

 

「……わざと」

 

 

 ……さっきのも、寝たふり……?

 

 

「……っ、そうだよっ、全部アンタの気を引こうとしてたんだよっ!! ……言わせんな、恥ずかしい……」

 

 

 杏子は、顔を赤くして俯いている。これも、初めて見る表情だった。

 それに加え、彼女の口から出た言葉のせいで、嫌でも緊張は高まってしまう。

 

 

「………………」

 

 

 普段と違って弱弱しい、女の子らしい表情を見せる杏子に、なんと言えば良いのか分からず、居間には沈黙が広がる。

 テレビから流れる音声が、異国の言葉のように聞こえた。

 空気を読んだのか、いつの間にかメロゥは足元から居なくなっている。

 繋いだままの手には、じっとりと汗が浮かんでいた。

 

 

「……だぁっ、もうっ!! しおらしいのなんてアタシの柄じゃないってのっ!! ギャップ萌えなんて知るかぁ!!」

 

 

 だが、杏子は突然繋いでいた手を放り出し、変な事を口走った。

 ……ギャップ萌え? え?

 杏子ってば意外と計算高い?

 なんて事を思い浮かべていると、彼女はずいっと体を寄せて詰め寄る。

 

 

「で? どうなんだよ? アンタはあたしの事、どう思ってるんだよっ?」

 

 

 杏子の顔が、吐息を感じるくらい間近に在った。

 だからこそ、緊張は限界を超えてしまい――

 

 ……ふ。

 

 

「……ふ?」

 

 

 ……風呂に入ってきますっ。

 

 

「え、あ、おいっ!?」

 

 

 ――自分が選択したのは、とりあえずその場から逃げ出すという、実にヘタレた行動だった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 服を脱ぎ捨て、体も洗わずに湯船に飛び込む。

 普段ならこんな事はしないが、そんな事も分からなくなるくらい、混乱していた。

 天井を見つめていると、杏子と過ごした今までの時間が頭の中を駆け巡る。よくよく考えれば、様々なサインがあった気がした。

 

 例えば、杏子の存在が両親にばれた時。

 両親の誤解を解こうと必死に弁解する自分を、彼女は曖昧に笑いながら、見ているだけだった。

 ……そうだ、段々思い出してきた。

 杏子がやたらベタつくようになったのも、あの頃からだ。服の隙間から覗く肌色成分に、やたらドキドキするようになったのも、確か……。

 

 どうして、こんな大事な事に気付かないで――――――違う。

 

 気付かないふりをしてただけだ、きっと。

 気の置けない関係を崩したくなくて。

 この街に来て、初めて出来た友達を失いたくなくて、自分を誤魔化していただけだ。……なんて情け無い。

 杏子の事は、勿論好きだ。

 どちらかと言えば――いや、間違いなく美少女だし、あんな事を言われれば嬉しいに決まってる。

 両親にだって覚えは良いし、メロゥも懐いているし、断る理由なんてあるはずが無い。あの笑顔がずっと側に居てくれるなら、それはとても幸せな事だと思う。

 

 ……ん、あれ、だったら逃げる必要なかったんじゃ?

 

 杏子の方から言ってきたという事は、事実上、両想いな訳で。

 両想いであれば、今まで通り側に居られる訳で。

 そこまで考えが至り、湯に浸かりながら後悔に頭を抱える。

 

 あぁぁぁぁ、失敗したぁ……。逃げたりしないで、あの場でちゃんと答えればよかったんだ……。

 そうすりゃ今頃、思う存分イチャイチャ出来てたかも知れないのにぃっ!?

 あぁもぅ、ここからどうすりゃ挽回できるんだよぉっ!?

 

 だなんて、バシャバシャ音を立てながら奇妙な踊りをしていた、その時。

 ガチャ、とドアの開く音がした。

 脱衣所に繋がっている擦りガラスには、なにやらゴソゴソと動く人影が映っている。今この家に居る人間は、二人だけ。

 という事は、必然的にその向こうにいるのは――。

 平坦な声で、何してるんですか、と問いかけて見ると、聞きなれた声が、聞きなれない声音で返ってくる。

 

 

「……アタシも、もっかい入る」

 

 

 ……なんで?

 

 

「アンタが逃げるからだろっ。……マミだって、女はちょっと強引な方が良いって言ってたし……」

 

 

 何処のどなたか存じませんが余計なこと言わないで頂きたいっ!! まだ心の準備がっ!?

 と、顔も知らぬ誰かに恨みの念を飛ばしている間に、擦りガラスが勢い良く開け放たれる。

 思わず、ちょっと待ってぇ!? と叫びながら、両腕で視界を遮り、顔を背ける。

 けれど、そんな自分に、杏子は自信たっぷりに宣言するのだった。

 

 

 

 

 

「うっさいっ、答えてくれるまでは意地でも離れないからなっ、覚悟しろっ!!」

 

 

 

 

 

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