二月二十二日、火曜日。
相変わらず、何も起きない、退屈な日々。
退屈しのぎに談話室の漫画や小説を読んでみたりしてるけど、どの病院もほとんど同じ漫画しか置いてなくて、つまらない。
パパもママもお仕事で忙しくて、滅多に会いに来てくれないから、いつも一人ぼっち。
時たま頼んでいた本を持って来てくれるけど、すぐに帰ってしまうし。早く続きも読みたいけど、これ以上迷惑はかけたくないし……。
どうして私だけ、こんな体なんだろう。パパやママは、普通なのに。
なんで、私だけ……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ストレス性の胃潰瘍――それが悪化した事による、早期胃癌。
幸いにも発見が早かったため、内視鏡による手術と、一週間ほどの短期入院で済むが、発見が遅れていたらと考えると寒気がする。
まさか、こんな形で人生初の入院を経験する事になるとは、思いも寄らなかった。
自分からしてみれば、ちょっと胸焼けが酷いくらいにしか思っていなくて、至って健康なつもりだったのだが……。人生、何があるか分からないものだ。
ここは、つい先日入院した病院の中庭。
漂白されたような白さの壁に落ち着かず、病室を抜け出し、ベンチに座って日向ぼっこをしながら、最近読み始めたライトノベルのページを捲っている。
ここ最近は、『~が~で~する』のような説明タイトルのラノベしか出ておらず、正直期待はしていなかったのだが、暇つぶしにと読み始めてみれば、これが面白かった。
読まず嫌いなんてするもんじゃないと痛感し、最新刊まで大人買いして一気に読み進め、今もこうして読み返している。
現在三ヶ月連続刊行中で、来月の二十日には最終巻が出る予定となっている。とても楽しみだ。
そんな事を思っていたら、不意に風が吹き、ツン、と頭に何かが当たったような感覚がした。
目を向けてみれば、ひらひらとベンチの上に舞い落ちる、紫色の栞があった。ディフォルメされた可愛いネコのイラストが書かれている。
一体どこから……?
何の気なしにそれを手に取り、周囲を見渡してみれば、中庭に面した上階の窓から、こちらを見下ろしている人が居た。
自分と同じく眼鏡をかけた、三つ編みの少女。
視線が合うと、彼女は慌てた様子で室内へと引っ込んでしまった。
もしかして、この栞は彼女が落としたものなのだろうか。そうじゃなくても、確かめるくらいはした方がいいか……?
しかし、そう思ってから悩む。
いきなり見ず知らずの男が尋ねて行ったら、吃驚されるんじゃないだろうか。目が合っただけで慌ててたみたいだし、あの見た目からして引っ込み思案そうだ。どうしよう……。
顎に手を当て考え込んでいると、中庭から続いている廊下を歩く看護師さんの姿を見て、思いつく。
そうだ、看護師さんに頼んで渡して貰えば良いんだ。そうすれば直接会わずに済むし、もし間違ってたとしても受付とかで預かって貰えるはず。我ながら良いアイディアだ。
そう考えて、適当な看護師さんを捕まえようとした、その時だった。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきて、病院内の気配が騒がしくなる。
看護師さん達は、患者を不安にさせないためか、表面上はいつも通りに見えたが、漂う空気が緊迫している気がした。
緊急患者の搬入口の方角も、にわかに慌しくなり始めている。
もしかして、何か大きな事故でもあったのだろうか……?
流石にこの状況では、落し物を渡して貰うためだけに捕まえるのも気が引けてしまう。しかし、やはり初対面の人に会いに行くのも、また気が引ける。
そのまましばらく悩んでいたのだが、忙しそうにする看護師さんに迷惑をかけるのも嫌で、結局、自分で届けようと考え直した。
栞とライトノベルを片手に、エレベーターへと足を向けながら、ふと思う。
今回は流石に仕方ないかも知れないが、こんな風に他人に気を使ってばかりだから、いつの間にかストレスが溜まっていたのかも知れない。
もうちょっと自分勝手になった方が、この世界はきっと生き易いのだろう。
今まで、ずっと。
いつも他人の顔色を伺い、場の空気を呼んで、それを壊さないようにするのが当たり前だと思ってきた。それが自分の処世術で、今までそれで生きて来たのだから、悪い事だとは思わない。
けれど、健康が脅かされたとなれば、話は別だ。
他人に嫌われないために、自分の意見を殺す。
そんな生き方は、変えた方が良いのかも知れない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
人通りのほとんど無い廊下を、スリッパの音が響いていく。
通り過ぎた部屋の数から考えるに、次の部屋がさっきの少女の部屋となる。
大きめの引き戸の横には、部屋に滞在する人物のネームプレートが付けられている。確かめてみると、そこには『暁美ほむら』という名前が刻まれていた。
ほむら――平凡な自分の名前と違い、格好良い名前だ。先程チラッと見た時の印象とは随分と違う。
まぁ、この部屋がさっきの少女の部屋であるか、まだ確証はないけど。
若干緊張はしていたが、このままで居るのも据わりが悪いので、意を決して、病室のドアをノック。
「ひ、ひゃいっ!!」
すると、中からは上擦った少女の声が。
その可愛らしい声に安心すると共に、緊張が深まる。
だが、ノックした手前、黙っている訳にも行かず、なるべく落ち着いた声で中の少女へ呼びかける。
さっき中庭で、紫色の栞を拾った者なんですけど、落としませんでしたか……?
「あっ……。え、と……は、はぃ、わ、私の、です」
その返事に、思わず溜息をつく。
間違ってなくて良かった……。しかし、まだ渡していないのだから、安心しきるには早い。
控えめに、入っても良いですか? ともう一度声をかけると、室内からも再び声が返る。
「は、はいっ……。ど、どぅぞっ」
極度の緊張が伺える返事に、逆になんだか落ち着いてしまい、ちょっと苦笑いしながら、ゆっくりとドアを引く。
視界に入って来たのは、小さめのサイドテーブルと、その上に乗る花が生けられた花瓶。そして、ベッドの上で半身を起こす、薄紫のパジャマに身を包んだ三つ編み眼鏡の少女。
見た目通り引っ込み思案な子なのか、こちらの姿を確認した後、彼女はすぐに視線を逸らしてしまう。
ゆっくりと近づいてみると、やはりガチガチに緊張している様子が伺えた。
どんな病気かは分からないが、個室に入院しているのを考えれば、必要以上に負担をかけるのも良くないだろう。ここは早いとこ栞を返して、立ち去った方が良さそうだ。
そう思い、どうぞ、と出来るだけ優しい声で、手の中にあった栞を彼女へ差し出す。
「あ、ありがとう、ござい、ます」
躊躇いがちに小さな手を伸ばし、彼女はそれを受け取る。
その時、彼女が胸元に抱えていた文庫本の表紙が見えて、気がつく。
彼女が読んでいるのは、自分が今読んでいるのと同じタイトルのラノベだった。
枕元を見てみれば、今までの既刊が枕の横に積まれている。
「……あ」
少女の声に顔を戻すと、彼女の視線はこちらの手元に寄せられていた。その中には、既に読み終えている最新刊。
積まれた既刊をよくよく見てみれば、どうやら最新刊だけが抜けているらしかった。
試しに、少女に向けて問いかけてみる。
……もしかして、まだ読んだこと無い? この巻。
「えっ!? あ、えと、その……そう、です。ごめんなさい……」
その問いに答えながらも、なぜか謝ってくる少女。
なんで謝られたのかはよく分からなかったが、とりあえずそれに手を振り、謝らなくても、と返して考える。
確か前の巻は、鬼とも思える引きで終わっていて、早く続きを読みたいと感じさせてくれる終わり方だった。
正直、あそこで読むのを止められるのは、かなり酷だと思う。
広い病院内で、こうして出会えた同好の士。自分はもう読み終えているのだから、貸してあげてもいいのだけど……。
「………………」
謝ったきり沈黙を保つ少女。この気まずさが、行動する事を躊躇わせる。
見知らぬ男から本を貸されて、喜ぶ女の子が居るだろうか……。
まぁ、本当に読みたい本であれば喜ぶだろうが、押し付けがましくは無いだろうか。
目の前の少女からは、強く主張すれば、簡単に意見を押し殺してしまいそうな、そんな弱さを感じる。
例え善意からの行動でも、押し付けるような形になれば、それはもう独善だ。
本当に、どうしよう……。
――と、そこまで考えて、思い至る。
さっき看護師さんに話しかけられなかったのもそうだが、今考えている事も、結局は同じだ。必要以上に周囲へ気を遣い過ぎなのかもしれない。
そうだ。これは切っ掛けだと思えばいい。自分を変えるための、切っ掛け。
もし、受け入れて貰えたなら。
その時はもう少しだけ、自分の思った通りに行動してみても、いいのかも知れない。
緊張を誤魔化すため、一度瞑目し、軽く深呼吸。そして、おずおずと口を開く。
あの……?
「は、はいっ!? ごめんなさいっ……」
話しかけられて驚いたのか、彼女は咄嗟に謝る。
その慌て具合に、やはり緊張は解れてしまい、自然と微笑みながら本を差し出す。
「……え?」
もし良かったら、読んでみない? もう読み終わってるから、貸してあげるよ。
「えっ……あ、でも……ご迷惑、ですから……」
予想通り、彼女は遠慮がちに首を横に振る。
しかし一瞬だけ、その顔が嬉しそうに輝きかけたのを、自分の目は見逃さなかった。
……続き、気にならない?
「う。そ、それは……」
言葉に詰まり、チラチラと差し出された本を見る彼女。
やはり、読みたいという気持ちが強いのだろう。それを後押ししようと、自分はもう一度本を勧める。
自分の事は気にしないで? せっかくこうして同じ趣味の人に会えたんだし、感想とか話し合おうよ。
同室の人は皆、年配の人ばっかりだから、話が合わなくて退屈だったんだ。
「……いいん、ですか?」
躊躇いがちに尋ねる彼女に、微笑みながら頷く。
もっともらしい言い訳にも聞こえるが、これは本当の事だ。
気の良い人達ではあるのだけど、やたらとお菓子を勧めて来るし、演歌と健康食品と病歴の話しかしないし……ぶっちゃけ辛い。
「………………」
そうこうしている間も、彼女は迷っているみたいに、手を伸ばしかけては引っ込めている。
「……っ」
だが、やがてそれが本の表紙に触れると、意を決したように喉を鳴らし、しっかりと本を受け取った。
そして、両腕でそれを胸に抱き、俯いたまま。
嬉しそうな声音で、感謝を告げた。
「……ありがとう、ございます……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二月二十三日、水曜日。
今日は、吃驚する事が沢山ありました。
閉め切った病室が息苦しくて、換気をしようと窓を開けたら、風にお気に入りの栞が飛ばされてしまって。
どうしようと思ってその行方を眺めていると、それは、中庭のベンチに座っていた男の人に当たって。
私の栞を拾ったその人は、何かを探すように周囲を見渡した後、急に顔を上げて、それが私の視線と重なりました。
私と同じ眼鏡をかけた、年上っぽい男の人。
吃驚して、慌てて部屋の中に戻っちゃったけど、栞の事が気になってもう一度覗いてみたら、その人は姿を消していて。
その時の私は、お気に入りの栞が取られてしまったと思って、凄く悲しくて。
枕に顔を埋めて、いきなり吹いてきた強い風に八つ当たりしようかと思ったほどでした。
だけど、私が悲しみに暮れていた時、突然、ドアがノックされました。
こんな時間にドアがノックされるなんて、初めての事で。驚いた私は、ドアの向こうに奇妙な返事をしてしまって。
けど、もっと驚くような事が、そのすぐ後に起こりました。
なんと、一度目が合っただけの、あの男の人が、わざわざ栞を届けに来てくれたんです。
その事に混乱した私は、自分がパジャマ姿である事も忘れて、部屋へ招き入れてしまいました。
男の人はそんな事、気にも留めていないみたいだったけど、本当に恥ずかしかった……。
私のいるベッドに歩み寄ったその人は、優しく声をかけ、栞を手渡してくれました。
でも、お医者さん以外の男の人がこんなに近くまで来るのも、初めてで。
緊張で胸が痛くなってしまった私は、顔を見ようともせず、俯いたまま、お礼を言う事しかできませんでした。
思い出してみると、随分と失礼な態度だ……。後でちゃんと謝らないと。
そんな時、逸らしたままの視界に思わぬ物が飛び込んできて、私は「あっ」と声を上げてしまいました。
男の人の手には、私が今読んでいるのと同じタイトルの小説。しかも、まだ持っていない最新刊があったからです。
私の手には、その一つ前の巻があって、男の人もそれに気付いたみたいで。
読んだこと無い? と聞かれて、それがなんだか、自慢をされているみたいに感じて。
だけど、そんな風に感じてしまった自分が凄く嫌で、私は、咄嗟に謝ってしまいました。
男の人は、謝らなくても、と言ってくれましたが、やっぱり自己嫌悪。
でも、一番驚いたのはこの後。頭の中で自分を責め続けていたら、男の人は私に本を差し出して、読んでみないか、と言ってくれました。
一瞬、続きが読めると思って嬉しくなっちゃったけど、でも、知らない人にそこまでしてもらうのは悪い気がして。
私はせっかくの申し出を遠慮してしまいました。本当は、もの凄く読みたかった癖に。
けど、その人は私の気持ちを見透かしたみたいに、続きが気にならないかって、ちょっと意地悪な質問をしてきて。
内心をズバリ言い当てられた私は、上手く答える事が出来ませんでした。
そんな私に、男の人は更に本を薦めてくれて。優しそうなその笑顔に助けられて、私はようやく、本を受け取る事が出来ました。
その後、男の人は満足そうにもう一度微笑んで、また来るね、って言って、部屋を去って行きました。
そしてようやく、まだ名前も聞いてない事に気付いたんです。私って、ホント馬鹿だ……。
また来るって言ってたし、その時はちゃんとお名前を聞いて、ちゃんとお礼を言おう。
その時のためにも、まずはちゃんと本を読み込まなくちゃ。これを書き終えたら、もう一度最初から読んでみようっと。
こんなに長く日記を書いたのは、久しぶり。
いつもこんな風に、色んな事が起きればいいのになぁ……。
……やっぱり駄目。そんな事になったら、私の心臓が持たない。
早く、治りたいなぁ……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
中庭で栞を拾い、三つ編み眼鏡の少女――暁美さんと出会ってから、数日が経過した。
その間に自分の手術は無事終わり、経過も良好。明日には退院となる。
病院に滞在するのも、今日一日で最後。
明日には、彼女とも会えなくなる。
それをきちんと伝えるため、先日借りた推理小説を手に持ち、ようやく通い慣れ始めた廊下を歩く。
この数日の付き合いで判明した事が一つある。それは、暁美さんは意外とお喋りである、という事だ。
事、本に関しては饒舌になり、話すという行為自体に熱中しているようにも見えた。聞けば、幼い頃から入退院を繰り返し、友人は殆ど居ないらしい。
ご両親も仕事で忙しいため、滅多にお見舞いには来てくれないらしく、会話をする機会に飢えていたのだろう。
医師や看護師さん達とも、あまり長く話す事は出来ないだろうし……。
そこへ来て同じ趣味を持つ自分が現れて、色々と触発されたのかもしれない。
と、そんな事を考えているうちに、暁美さんの病室の前に到着していた。
慣れた手付きで、控えめにドアをノックすると、部屋の中から、相変わらず緊張した返事が聞こえてくる。
「は、はいっ。どちら様ですか……?」
その問いかけに自分の名を告げると、ドアの向こうから「ど、どうぞ……」と返事が返り、失礼します、と一声かけてからドアをスライドさせる。
ベッドの上では、パジャマの上にガウンを羽織った暁美さんが、本を片手に待っていてくれた。
……いや、待っていてくれた、と言うのは、流石に自惚れかも知れないが。
でも、自分自身、彼女と話す事は楽しいのだから、彼女もそう思ってくれている事を願おう。しかしそれ故に、明日にはお別れしなくてはならないのが寂しい。
それを隠すように、こんにちは、と勤めて明るく挨拶をしながら、手近な椅子に座る。
「はい……。こんにちわ、お兄さん」
軽く頭を下げ、挨拶を返す彼女に、借りていた推理小説を差し出し、素直な感想を告げる。
面白かったよ、この本。普段、推理物とかはあまり読まないんだけど、凄く良かった。
暁美さんに勧められてなかったら、一生読んでなかったかも。
ありがとう。
「あ……。良かったです、気に入って貰えて」
本を受け取った彼女は、嬉しそうに微笑み、大事そうに両手で抱える。
その後、本の内容について、あれやこれやと話しに花が咲いた。好きな登場人物や、ミスリードの狡猾さ、主人公やヒロインの心情などなど……。
話す事は尽きなかったが、しかし、いつまでも引き伸ばすわけにも行かず、それが一段落した辺りで、おもむろに口を開く。
あの、さ……暁美さん。話したい事が、あるんだけど……?
「……? はい、なんですか?」
笑顔のまま小首を傾げる彼女に、一瞬言葉が詰まりそうになるが、きちんと話すべきだと思い直し、もう一度口を開く。
実は、ちょっと前に、手術が無事に終わって、経過も良好でさ。
それで……。明日、退院、するんだ。
「……え……」
その言葉を聞いて、彼女の表情は一変した。
笑顔が抜け落ち、落胆したみたいにその肩も落ちる。
「……っ……そう、なんですか……。良かったですね……おめでとう、ござい、ます……」
暁美さんは、胸に手を当て、何かを必死に堪えているような、そんな強張った表情で、お祝いの言葉を掛けてくれる。
その言葉に、ありがとう、と返しながらも、自分の言葉がそんな表情を強いてしまったのだと思い、とても心苦しかった。
だが、それと同時に、ある不謹慎な感情も沸き起こる。
それは嬉しさ。
少なくとも、こんな表情を見せてくれる程には、彼女にとって自分の存在は大きいのだと感じて、嬉しくなってしまった。
無論、自分の勘違いかも知れない事は分かっている。
でも、彼女は別れを惜しんでくれている。そんな風に感じてしまって。
言おうかどうかと内心迷っていた言葉はそれに後押しされ、すんなりと口から出す事が出来た。
それで、さ……。
退院しても、お見舞いに来て、いいかな?
「……え……なんで……?」
なんでって……。
折角、こうして友達になれたのに、このまま会えなくなるのは寂しいし……。
「……とも、だち……? 私が……?」
えっ。
「えっ」
………………あれぇっ!? 友達だと思ってたの、自分だけぇ!?
「えっ……えっ」
困惑する暁美さんの表情を見て、恥ずかしさに頭を抱え込む。
なんと言う事……友達以前のラインで止まっていたとか、予想外にも程がある……。
折角、勇気を振り絞って、いい台詞で決めるつもりだったのにっ。
あぁぁああぁぁあぁ、恥ずかしくて死にそうぅぅ……。
「え、あ、あのっ、ち、違うんですっ、私、その、吃驚しちゃっただけでっ、う、嬉しいですっ、とってもっ」
……ホントに……?
「はいっ、勿論ですっ。本当に……嬉しい、です」
暁美さんは身を乗り出すようにして、慌てふためきながらも、必死に弁解してくれている。
その表情を見て、彼女が嘘を言っていない事を悟り、溜息と共に胸を撫で下ろす。
良かった……。本当に、良かったぁ……。
「は、はい……ごめんなさい、勘違い、させちゃって……」
暁美さんは、体を縮めて恐縮してしまっている。そんな彼女の様子を見ながら、思う。
どうして自分は、彼女の言葉に、こんなにも意気消沈したり、喜んだりしているのだろう。
友達だから? ――違う。
今までにも、友達と喧嘩したり、笑い合った事はあった。
だけど、言葉一つに、こんなにも心が震えた事は無かった。
じゃあ、女の子だから? ――これも違う。
職場に女性は居るが、別にあの性悪女共に何言われようと、腹立たしいだけで他に得る物は無い。
いや、そもそも仕事でなければ、積極的に関わりたいとも思えない。
「とも、だち……友達、かぁ……」
暁美さんは、何かを確かめる様に小さく呟き、はにかむ。
それを見て、ゆっくりと胸が高鳴っていき、ようやく気付く。
自分が彼女に、恋をし始めている事に。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二月二十八日、火曜日。
今日も、お兄さんがお話に来てくれました。誰かに本をお勧めするのは初めてだったけど、気に入って貰えて本当に良かった。
でも、その本の話をする中で、お兄さんが明日、退院する事を知りました。
それは、とても喜ばしい事のはずなのに。私の胸は、どうしようもなく苦しくなりました。
原因は多分、ずっと一人で、ただなんとなく本を読み続ける日々を、思い出してしまったからだと思います。
出会ってからというもの、お兄さんは毎日のように私の病室を訪れてくれました。
そして、つっかえつっかえな私の言葉を、いつも笑顔で聞いてくれて。
本なんて、時間を潰すために読んでいただけだったのに、誰かとお話しする事で、あんなにも楽しい気持ちになれるのを知って。
だから私は、それに夢中になって、いつか終わりが来るなんて、想像もしてなかった。
もう、お兄さんとお喋りする事が出来なくなる。
それを自覚した途端、私の胸は、針に刺されたみたいな痛みに襲われました。
けど、それに気付かれてしまったら、きっとお兄さんは心配してしまうだろうから。
必死に痛みを我慢して、お兄さんに、何か返事をしました。
痛みを表情に出さないように、それだけに集中してたから、何を言ったのかは良く覚えていません。
お兄さんが、ありがとう、と返してくれたので、変な事は言っていないと思うけど……。
でも、それきりお兄さんも黙り込んでしまって、部屋には気まずい雰囲気が漂いました。
その時の私には、それがとても辛くて。どうせさよならするなら、早く行ってくれないかな、なんて、とても酷い事を考えてしまいました。
だけど。その辛さは、お兄さんの言った一言で、簡単に消えてしまいました。
また、お見舞いに来たい。
お兄さんは、そんな風に言ってくれました。
その言葉に驚いていた私は、妙な返事をしてしまったみたいで、なんだかしっちゃかめっちゃかになっちゃったけど。
でも、ついさっきまで感じていた胸の苦しさは、跡形もなく消え去っていました。
どうして、お兄さんはいつも、私が欲しいと思っていた言葉をくれるんだろう。
こんな私を、友達だと言ってくれて、あんなにも、優しくしてくれるんだろう。
分からない……。
分からないけど、でも……。
お兄さんと、またお話が出来る。
私にはそれが、とても嬉しい事に感じられました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いつものように、控えめに病室のドアをノックすると、少しだけ緊張しているような声が返ってきた。
「は、はい、どうぞっ」
それに小さく笑いながらドアをスライドさせ、声の主に向かって軽く手を上げ、こんにちは、と挨拶。
こちらの姿を確認した暁美さんは、嬉しそうに顔を綻ばせ、自分を歓迎してくれた。
「はいっ。こんにちわ、お兄さん」
その笑顔に、心が温かくなる。
ただお見舞いにやって来るだけで、彼女は本当に喜んでくれて。
今となっては、この笑顔を見るために来ているといっても、過言ではないかもしれない。
「いつも、ありがとうございます。お休みの日に、わざわざ来てくれて……。ご迷惑じゃ、ないですか……?」
しかしその笑顔は、すぐに不安そうに歪んでしまった。
おそらくは、こちらの都合の事を気にしてくれているのだろう。
それが無用な心配である事を教えたくて、彼女の頭を撫で、微笑みかける。
心配しないで? 自分が勝手に会いに来てるだけなんだから。
暁美さんと話すのは楽しいし、好きでもない相手のお見舞いになんて、来やしないよ。
「すっ!? ……あ、そうか……。は、はい、ありがとう、ございます……っ」
……なにやら驚いていたが、なんだろう……? まぁ、暗い顔は消えてくれたし、良しとしよう。
とりあえず、立ちっ放しなのもあれなので、いつもの椅子に座ると、すぐ脇のテーブルにパンフレットのような物が乗っているのに気付く。
よく見てみると、それはとある中学校の入学案内だった。壁に張られたカレンダーを見てみれば、十六日と二十五日の所に印が着けてある。
そう言えば、先週来た時にもうすぐ退院して学校に行くんだって言ってたっけ……。
確かめるつもりで、もうすぐ学校だね、と聞いてみると、彼女は嬉しさと不安がない交ぜになった、複雑な表情を浮かべた。
「はい……。そうなんですけど、ちょっと不安で……」
そう呟く暁美さんに相槌を打ち、続きを促してみれば、彼女は不安気な声を返す。
「私、転校の挨拶とか、凄く苦手で……。緊張すると胸が痛くなるし、質問責めにあったりすると、頭が真っ白になっちゃって……」
その言い分に、自分は酷く納得してしまった。なんと言うか、見た目通りの悩み。
挨拶でテンパり、質問されて慌てる彼女の姿がいとも容易く目に浮かぶ。
しかし、彼女にとっては真剣な悩みなのだ。茶化してはいけないと思い直し、顎に手を当てて考える。
「……?」
暁美さんは、考え込むこちらを見て首を捻っている。
とりあえず、すぐに思いついたアドバイスは、最初から趣味を明かす、と言う事だ。
偶然とは言え、同じ小説を読んでいた事が切っ掛けで自分達は仲良くなったのだから、あながち間違いでもないはず。
しかし問題は、女の子の趣味として、世間一般で認められているかどうかだ。
女の子の流行なんて知らないし、下手したら趣味が切っ掛けでイジメに発展、なんて事も在り得るかも知れない。……まぁ、極端な例ではあるけど。
普通の女の子なら、やっぱりお洒落とかファッションとか、そういう物に興味があるんじゃないだろうか……。後は恋愛くらいか?
「……どうか、しました?」
しかし、ほとんど病院から出た事のない彼女にそれを言うのは酷だ。どうすれば……。
と、そこまで考えた所で閃く。
病院の中でも、少しならお洒落できる所はあるじゃないか。
……ねぇ、暁美さん。イメチェンしてみない?
「え? イメチェン、ですか?」
突然の言葉に驚いたのか、彼女は目を丸くしていた。
それに構わず、自分は提案を続けてみる。
そ、イメチェン。髪形変えたり、コンタクトにしてみたり――は、今は無理だから、眼鏡だけ取ってみたり。
見た目が変わると、意識も変わるって言うし、どうかな? これを期に、転校デビューとか。
「えぇ……? む、無理ですよ、そんな……」
だが、暁美さんはあまり気乗りがしないらしく、消極的な返事を返す。
しかしその顔を見るに、どうしても嫌、という感じではなさそうだ。
これなら、もうちょっと押せば……。
大丈夫だって、暁美さんの髪、すっごく綺麗だし。
三つ編み解いてストレートにすれば、大分印象変わるんじゃないかな?
「き、綺麗だなんて、そんな……でも……うぅ……」
ちょっとだけ、試してみようよ?
きっと……いや、絶対似合うからっ、ね? 一回だけっ。
「う~ん……」
顔の前で両手を合わせ、頼み込んでみる。
すると彼女は、しばらく迷った後、おずおず、といった様子で口を開く。
「……じ、じゃあ、一回だけ……。後ろ、向いててくれますか……?」
心の中で大きくガッツポーズをし、分かった、と言って後ろを向く。
背後からは、リボンを解くシュルシュルという音が聞こえる。
それから、髪を整えたり何だりしているのだろう、衣擦れの音も。
「え、と。終わりました」
しばらく待っていると、背後から声が掛かり、ちょっとだけ期待しながら振り向く。
これが漫画なら、垢抜けない文学少女が眼鏡を取ってみると超美人だったりするのだろうけど、流石に現実には、そんな事は起こらな――。
「……ど、どう、ですか……? 変じゃ、ないですか……?」
――――――。
「……? あ、あの……?」
――――――綺麗だ。
「………………うぇええっ!?」
自分の口から思わず洩れた一言に、暁美さんは、ボンッ、と効果音を付けたくなる程の勢いで真っ赤になる。
うっかり漏らした言葉がどれほど気障ったらしい物なのかは、自分自身、顔の熱さで理解していた。
しかしそれでも、慌てふためく彼女から目を逸らす事が出来なかった。
三つ編みを解き、眼鏡を外しただけで。
目の前の少女は、垢抜けない文学少女から、深窓の令嬢へと変貌を遂げていた。
長い間結われていただろうに、その髪には全く癖が付いておらず、サラサラと肩や胸に落ちている。
不安気にこちらを伺う姿は著しく男心をくすぐり、どうしようもなく保護欲を掻き立てた。
こんなの、卑怯である。
「ぁあぁぁの、わわ、私ぃぃ……」
舌を噛むのではないかと心配になる程、暁美さんは動揺している。その様子に見蕩れながらも、自分の心には酷い焦燥感が生まれていた。
まさか、暁美さんがこんなに美人だなんて思わなかった。それ自体は嬉しい誤算だが、しかし、美人であればこそ付き纏う問題がある。
もしも、自分が中学生だったとして。
転校生としてこんな美人が来たら、放って置くだろうか。いいや、あの頃の自分なら、何が何でも御近付きになりたいと考えただろう。
そしておそらく、そんな考えを抱く男子中学生は、転入先である学校に五万と居ると思われる。
暁美さんはもうすぐ退院する。そうすれば、自分と彼女の関係はどうなるのだろうか。
年齢も離れていれば、生活する時間帯も違うし、自然と疎遠になってしまうのが普通だ。
そしていつしか、彼女も恋をして。
だけどその時、自分は、間違いなく隣に居ない――――――少なくとも、このままでは。
「うぅぅぅ……」
赤い顔で、恥ずかしそうに俯き、シーツをぎゅっと掴む暁美さん。彼女の隣に、自分以外の男が立つ。
考えただけで、胸をナイフで突き刺されたような、強い痛みを感じた。
しかし、このまま何もしなければ、高い確率でそれは現実になる。
迷っている暇は無かった。
あ、あの、暁美、さん……。
「ひゃいっ!? な、なんですかっ!?」
ビクッ、と驚いて体を跳ねさせる彼女に、そう声をかけたが、二の句が告げずに口篭もる。
今更になって、怖くなった。
もし、今から言う言葉を拒否されたら。
そんな事になったらどうしようと、弱気な事を考えてしまった。
「……あの……? お兄さん……?」
……駄目だ、弱気になるなっ!!
変わるって決めたじゃないか、あの日……この子に本を受け取って貰えた、あの日にっ。
このまま何も言えなければ、さっき想像した事が現実になるかもしれないんだ……。
そんなの、嫌だ――そんな未来、認められるかっ!! さっきあれだけ気障な事を言えたんだ、もう一回くらい、言えるはず……!!
「……どうか、したんですか?」
目を閉じて、深く、深く、深呼吸をして。
彼女を真っ直ぐに見据えて、口を開く。
……暁美さん。
「……? は、はい……」
来週の日曜日……。
退院祝いに、二人で遊びに行かないか。
「……え……」
その言葉が余程意外だったのか、暁美さんは目を丸くして呆然とする。
自分は、そんな彼女の大きな瞳を見つめながら、じっと返事を待つ。
「……? ……えっと……え? ……あ、の……それって……?」
こちらの意図を確かめるように、彼女は呟く。それにしっかりと頷き、言葉を返す。
暁美さん――いや、ほ……ほむら……ちゃん。
自分と、デート、して下さい。
「……っ!?」
自分の口から出た明確な言葉に、彼女は再び顔を真っ赤に染める。
全てを言い切った達成感からか、それを可愛いと思える程、自分の心は凪いでいた。
「あああのっ、えぇえっと、その、ぉ……」
段々と声が小さくなって行き、それと共に、彼女の体も縮こまる。
「………………」
病室には、もどかしい沈黙が広がって。
しかし、それが続くに釣れ、凪いでいた心に波紋が沸き立つ。
やっぱり、駄目なんだろうか……。もうちょっとオブラートに包んだ言い方をした方が良かっただろうか……?
……良く考えたら、出会ってからまだ二週間程しか経っていない。
そんな男からの誘いに、色良い返事なんて期待できるのだろうか。
不安に苛まれ、つい、頭を俯かせてしまった、その時。
唐突に、沈黙は破られる。
「――かで――」
沈黙を破ったのは、か細い声。
その声に惹かれ、俯いていた顔を上げてみると。
「私なんかで……良かったら……」
暁美さんは――ほむらちゃんはそう言って、はにかんだ笑顔を見せてくれた。
その笑顔は、自分が知る女性の笑顔の中で、一番輝いているように思えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
三月十三日、日曜日。
今日も、お兄さんがお見舞いに来てくれました。
こんな風に、定期的にお見舞いに来てくれる人なんて今まで居なかったから、本当に嬉しい。
けど、それが負担になっていないかが不安で、つい暗い顔をしてしまったら、お兄さんは優しく頭を撫でてくれて。
子供扱いされて悔しい反面、嬉しかったりもして、ちょっと複雑。
それはともかく、今日はイメチェンをしてみよう、と言う事になりました。
転校デビューって言ってたけど、正直、髪形を変えたりするだけで変われるなら、こんなに悩まないと思う……。
でも、お兄さんは妙に食い下がって来て、しかたなく、一度くらいならと思って、私はそれに挑戦してみる事にしました。
自分では大して変わらないと思っていたけど。けれど、それを見たお兄さんは、私の事を、綺麗だ、と言ってくれて……。
パパ以外の男の人に、そんな事を言われたのは、記憶にある限りでは、生まれて初めてで。
自分でも、顔が真っ赤になっていくのが分かりました。
しかし、その後にお兄さんの言った、二人で遊びに行こう、と言う言葉は、私を更に混乱させました。
私にはそれが、デートに行こう、と言っているみたいに聞こえてしまって。
デートなんて、私には一生縁の無い……本の中でしか体験できない事の筈で。
それが勘違いである事を確かめたくて、恐る恐る聞き返すと、お兄さんは真剣な声で、デートをして下さい、と言い直しました。
……私の事を、ほむらちゃん、と、名前で呼んで。
その響きに、私の胸は、自分でも吃驚するくらいに跳ねてしまって。
なのに、いつもなら感じるはずの苦しさは、全く感じなくて。
いつもと違う反応を返す心臓に慌ててしまった私は、ただただ、うろたえる事しか出来ませんでした。
何か言わなくちゃ、そう思っているのに、何て言ったらいいのかが、分からなくて。
だけど、その時、思わぬ事が起こりました。
口が勝手に、私なんかで良かったら、と返事を返していたのです。
なんでそんな事が起きたのかは分からなかったし、言った後に急に恥ずかしさが襲ってきて、胸が押し潰されそうでした。
でも。
眼鏡を外しているから、視界はぼやけていたのに。
その返事を聞いて、お兄さんが、嬉しそうに微笑んでくれた気がして。
私の胸は、また一つ、大きく跳ね上がりました。
それから後の事は、あまり良く覚えていません。
いつの間にか、待ち合わせの時間と場所を決めて。
ようやく正気に戻ったのは、お兄さんが部屋を出て行く時、照れ臭そうに、もう一度、私の名を呼んだ時でした。
それを見送ってからというもの、私の体は、どこか変になってしまったように感じました。
私を呼ぶお兄さんの声を思い出すだけで、胸はとても苦しくなるのに。
痛いどころか、逆になんだか、胸が暖かくなるような、そんな感じがして。
こんなのは、生まれて初めてでした。
もしかして、これが恋、なのかな……。
デートに誘われたんだから、勘違いしても、良いんだよね……?
お兄さんは、私の事……好きなんだって……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
約束の日。
彼女は、現れなかった。
じくり、と胸が痛んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ダブルカラム式マガジンに、9x19mmパラベラム弾を一つずつ詰めて行く。
テーブルの上には、既に十五発のそれが詰められた弾倉と、弾込めを待つ空の弾倉、箱詰めされた銃弾とが犇いていた。
魔女や使い魔を相手取るには威力が心許なく、牽制程度の役割しか果たさない口径の銃――《ベレッタM92FS》。
しかし、数千数万と放った銃弾のおかげか、この銃は、彼女にとって己が腕の延長になっていた。
戦いでは何が起こるか分からない。であれば、どんな事態にも対応できるよう、攻撃力は低くとも、信頼性の高い武器は必要だ。
「……ふぅ」
溜息。
椅子の背にもたれれば、キシリ、と音が鳴る。
細かい作業による疲労を解きほぐそうと、少女は――暁美ほむらは、目を閉じて体を反らせた。
下ろした長い黒髪が、床すれすれで遊ぶ。
「ようやく、ここまで」
呟く言葉には、万感の想いが乗せられていた。
時間遡行者。
彼女を表現するのに、これ以上的確な言葉は無いだろう。
望まぬ結末を覆すため、命を懸けるに足ると信じた命を救うために、インキュベーターと契約を交わし、無数の一ヶ月を繰り返して来た。
その旅路は、幾多の絶望に塗れた、苦しい物だった。本当に、苦し過ぎて、悲し過ぎて。
しかし、立ち止まれば自分が壊れてしまう事を悟っていた彼女は、いつしか、心を冷たい殻に覆う事で、感情の揺らぎを押さえつけるようになっていた。
そんなほむらが、思わず声に熱を込めるほどの好条件が、この時間軸では発生していたのだ。
(巴マミは生存。美樹さやかも魔女化を免れ、佐倉杏子の参戦は確実。まどかも……魔法少女の体の事を知った今、契約する可能性は低い)
もっとも、過去の時間軸では、それだけでまどかの契約を押し留めるには至らなかった。
それが可能となったのは、とある人物が存在していたからである訳だが、思い出すと色々我慢できなくなりそうなので、とりあえずその存在は頭の中から追い出す。
巴マミはほむらが手ずから助け、その後のアフターケアにも時間を割いた。
まぁ、彼女が魔法少女の体の真実――抉り出された魂が、物質化されてソウルジェムに変じているというのを乗り越えられたのは、ほむらのみならず、まどか、さやかの励まし。
そして、彼女自身の恋人の存在も大きい。
未だ明かされていない、もう一つの秘密――魔女化の真実も心配ではあるが、打ち明けるのは、きちんと明日を迎えてからになるだろう。
それに、美樹さやか。
今までで最良とも言える世界での唯一の痛手は、彼女が魔女化を回避したプロセスを見逃した事だ。
一度魔法少女となったなら、恋煩いの果てに絶望し――魔女へと堕ちなかった例は無い。
それが、この時間軸ではどうだ。ほむらはとうに諦め切っていたというのに、彼女はそれを乗り越え、それが切っ掛けで、佐倉杏子という強力な魔法少女の助力まで得られた。
このプロセスをパターン化できれば、たとえ――
「……っ!!」
ズダン、と、勢い良くテーブルを殴りつける。
あまりに力を込め過ぎたためか、拳はわずかに赤く滲み、銃弾がパラパラ零れ落ちた。
(パターン化? ふざけないで。そんな事、出来るはずが無い。出来て良いはずが無い。
私は、どこまで驕っていたの。これじゃあ、奴等と――インキュベーターと同じ……。
心を物として扱う、奴等と同じ。こんなんじゃ、救える命も、救えるはずが無かった)
唇を噛むほむらの胸中に渦巻いているのは、自らへの失望。
今まで彼女は、たった一人の少女を――鹿目まどかを救う、それだけの為に、他の全てを切り捨てて来た。
誰も彼もを救えるほど、強くは無かったから。
まどかだけしか救えなくても、それでも満足だと、思えたから。
けれど、それはやはり、“ほむら”の願いでしかなかったのだ。
誰かを大切と想い、守ろうとするのは尊い行いであろう。が、守られるその人が、犠牲となった者を悼まないとは限らない。
ましてや、それが友人であったりしたならば、尚更だ。
想いは先走り、すれ違い、離れて行く。
共に過ごした時間が、過去へと追いやられて行くように。願うほどに遠ざかる、明日のように。
十重二十重と失い続け、肩へと圧し掛かる重さに、いつの間にか、いつの間にか。
優先順位を付けて、命を、自分勝手に取捨選択していた。
確実に守るため。それは正しくもあり――
「……いいえ。私は逃げていただけ。皆と、向き合う事から」
――同時に、逃げでもある。
魔法少女の祈り。胸に抱えたそれぞれの痛み。理解する事、される事。
全てを無視し、諦める事で。手順を簡略化し、単純化し、効率だけを考える事で。
ほむらは、求める理想と、襲い掛かる現実に立ち向かっていた。
そして、尽く失敗。
徐々に彼女は心を閉ざして行き、まどかの事だけを考えるようになった。
そうすれば、最初の想いを忘れずに居られるだろうと思ったから。その方が、楽だったから。
だから、彼女以外の命なら失われても仕方が無いと、諦めていたのだ。
だが、誰が責められようか。
ほむらはまだ子供なのだ。一番多感な時期に、初めて出来た友達を失い、それを取り戻す事を祈ってしまっただけの、哀れな少女なのだ。
過ごした時間がずれる事で、誰からも理解されない孤独を抱えてしまった彼女が、必死に自分を守ろうとした手段を、誰が責められるだろうか。
(それも、もう終わり)
それに、先に上げた、運命の悪戯としか言えない出来事の連続によって、それは改められている。
何度繰り返そうとも、今日この日まで、全員で生き長らえてはくれなかった、かつての仲間達。
それが揃っている。まさしく千載一遇。これを逃せば後は無いと思える好機。
――なんて、心強いのだろう。
目を閉じ、天井を仰ぎながら、ほむらは思う。
こんな感覚、久しく覚えが無い。
強大過ぎる敵を前にして、臆する事すら取り忘れてしまうような、温かく心を鎧う、何かを。
いつの間に、忘れてしまっていたのだろう。
「………………」《ピッ》
ふと思い立ち、ほむらは携帯電話を操作する。
数時間前、この部屋に集まり、明日の事を打ち合わせた仲間達の写真。
勝手に撮られ、勝手に押し付けられたデータを、彼女は一つ一つ表示して行く。
「巴、マミ」
最初に写し出されたのは、地図に目を落とし、真剣な横顔を覗かせる、巻き髪の少女。
彼女ほど気高い人を、ほむらは他に知らない。
己の私利私欲で戦う事を良しとせず、常に誰かのために命を賭け、故に孤独を耐えていた彼女。
ほむらが魔法少女となった最大の切っ掛けはまどかだが、それに踏み切れたのは、きっと、頼もしい背中を知っていたから。
その生き様は、在り方は、確かにほむらへ影響を与えていた。
「美樹、さやか」
次は自分撮りの、笑顔でピースサインを構える、ショートカットの少女。
彼女ほど情の深い人を、ほむらは他に知らない。
愛するが故に心を濁らせる事を余儀なくされていた彼女だが、それは想いの強さの裏返し。
まだ、ほむらが弱かった頃。その明るい笑顔に励まされた機会も多かった。
決して、反目したい訳ではなかった。見捨てたい訳ではなかったのだ。
「佐倉、杏子」
三番目は、自身を隠すようにカメラに向かって手をかざす、しかめっ面なポニーテールの少女。
彼女ほど不器用な強さを持つ人を、ほむらは他に知らない。
大切な家族を失い、己が祈りを見失いながらも戦い続け、いつしか、自分本位な生き方をするようになった彼女。
だが、その心根は変わること無く、誰かの為に殉じる強さを持ち合わせていた。
戦いの中で知り合えなかったが、別の出会い方があったなら、きっといい友人になってくれただろう。……もしかすれば、遅くは無いのかも知れない。
「……鹿目、まどか」
そして、最後に写し出されたのは、お茶菓子として出したクッキーを咥えている所を撮られてしまった、目を丸くするツインテールの少女。
彼女ほど優しい人を、ほむらは他に知らない。
優し過ぎて。容易く自分を犠牲にするほど、優し過ぎて。ほむらが祈りを捧げる事になった彼女。
初めての出会いで、その存在に憧れた。二度目の出会いで、並び立とうと思った。そして、三度目の別れで、「何も知らない私を助けて欲しい」と、願いを託された。
今まで、それを果たす事は出来なかった。
ほむらの魔法――時間遡行は、ただ時間を遡る物ではない。過去の可能性を切り替え、数多の平行世界を横断する事で、それを可能としている。
ただの一つとして、同じ世界は無かった。ただの一人として、同じ命は無かった。
まどかだけでは無く、マミも、さやかも、杏子も。他の人達だって。
それを救えなかった事が、今、堪らなく哀しい。
(でも、だからこそ)
もう、失いたくないのだ。絶対に。
この世界には、笑顔が満ちている。この手で作り上げたものではないけれど、掛け替えのない幸せが、確かに。
あの子が……皆が、笑ってくれているのだ。
ならば、今度こそ守る。ほむらは、全身全霊を賭して、それを守る。
「もう楽な方へ逃げたりしない。誰かを見捨てたりしない。諦めたりなんか、しない……!」
冷酷なまでにロジカルで、慈悲の無い世界がようやく見せてくれた、たった一つの優しい未来。
奇蹟のような幾つもの偶然を、必然へと変えるために。
例えこの身を捨てたとしても、ふいにする訳には行かない。
「……あ」
――と、決意を新たにしていたほむらの中に、ある言葉が蘇る。
『ほむらちゃんが、私の事を大切に想ってくれてるのは、何と無くだけど、分かってた。
私を見る目が、あの人と、少しだけ似てたから。それは、とっても嬉しい。
……でも、ほむらちゃんはどうなの?
自分の人生を、尊いって思ってる? 家族や、友達や……自分自身の事を、大切にしてる?
私、嫌だよ。ほむらちゃんが犠牲になる未来なんて』
それは、あの時の――どうしてそこまで必死になるのかと問われ、皆の前で、全てを打ち明けた時の、まどかの言葉。
貴方が生きていてくれるなら、私はどうなってもいいと告げた時の、彼女の想い。
『私は、ほむらちゃんと出会って、いろいろな事を知った。この世界の事、魔法少女の事、自分の事。
だから今度は、ほむらちゃんに知って欲しいって思う。ほむらちゃんが今まで、私のために蔑ろにしてしまった物の事を。
友達と遊んだ時の楽しい気持ちや、美味しい物を食べた時の幸せな気持ちや……誰かを愛し、愛される喜び。ちゃんと、知って欲しい。
だから……。だから必ず、生きて帰って来て。私、信じてるから。ほむらちゃんとも一緒に居られる未来を、信じてるから』
未来。
もし、何もかもが上手く行って、望む明日を勝ち取る事が出来たなら。
そこに、自身の姿を書き加える事が、許されるなら。
「……私、は」
一体、何を望むのか。何を、臨めばいいのか。
大切な友の未来だけを求めて、自らの全てを投げ打って来たほむらには、そこに己の姿を描く事が出来なかった。
どうしてもその輝きに、自身の影が霞んでしまう。
「でも……」
何かが、あったような気もするのだ。
遠い、昔に。
まだ見ぬ明日へ期待を膨らませ、胸を焦がしていた。
……そんな、何かが。
『ほ■■ちゃ■』
不意に、耳をくすぐる声。
頭を撫でてくれた、優しい手付き。
微笑みながらこちらを見つめる、誰か。
その温度に身震いし、ほむらは自分を抱き締める。
(今は、駄目)
何も分からないけれど、今、あれに身を委ねてはいけない。
今のほむらに必要なのは、敵を照準する眼と、銃を構える腕と、引き金を弾く指。
そして、魔力を生み出す機械仕掛けの魂のみ。
それ以外に必要ない。求めてはいけない。
――求めてしまえば、この、心は。
無言で立ち上がり、整備済みの《ベレッタ》に弾倉を滑らせ、スライドを引いてチャンバーに弾丸を送り込む。
グリップを握る右手を若干押し出し、左手で体に引き付け、フロントサイトとリアサイトを合わせる。
向ける先には、空中パネルに映し出された仇敵――ワルプルギスの夜。
「……今度こそ」
必殺の意志を乗せた視線のまま、弾倉を排出。
本体を斜めにし、再びスライドを引いて今度は排莢。
弾倉が収まる手で、宙に踊るそれを――
「私は、明日を……!」
――掴んでみせる。
拳の中に弾丸を確認。迷いを振り切ったほむらは、窓辺に歩み寄る。
見上げた空には、その髪に似た色の、分厚い雲。
優しさも、温もりも。
自らを労る全てを振り払い、ほむらは、明日の方角を見つめる。
あの夜が、やって来る。
明けた事のない夜が、やって来る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
急ぎ足に、視界を雲が横切って行く。暮れかけた夕日に照らされたそれは、明るいオレンジ色をしていた。
地上では穏やかな風は、遥か上空で一体どれほどの強さになっているのだろうか。
夕暮れの川縁に寝そべりながら、ぼんやりと雲を眺め、そんな事を考えていた。
ほむらちゃんとの関係が絶たれてから、既に二ヶ月が経とうとしている。
なんの事はない、何回かお見舞いに行っただけの、薄い関係だ。
最初は意図して思い出さないよう勤めていた彼女の事も、日々の生活に段々と霞んで行き、思い出す事も少なくなっていた。
……思い出す余裕すら、無くしていた。
突発的異常気象による、スーパーセルの発生。
人的被害は無いものの、建造物への被害は相当な物で。自分の仕事先も、その被害を受けていて。
結果、自分は職を失った。
幸い、失業保険の申請は受理されたものの、次の就職先はまだ見つかっていない。
それでも、もっと甚大な被害を受けている人だっているのだから、自分はまだ幸運な方なのだ。それは、理解しているのに。
どうしてもやる気が湧かず、こうして街をぶらついては、時間を潰していた。
そんな中、冷え始めた風が頬を撫で、軽く身震いをする。
体を起こすと、対岸に、風力発電用に設置された巨大な風車が見えた。
夕日に陰るそれは、まるで何かの墓標にも見えて。
――馬鹿らしい。気落ちしていると考える事まで暗くなる。さっさと家に帰って、飯でも食おう。
そう思い、側に投げ出していた小さなリュックを手に取ると、僅かに開いていたチャックからある物が覗く。
包装がヨレヨレになった、あの小説の最終巻と、それに挟まれる、ネコのイラストが描かれたピンク色の栞。
あの日、ほむらちゃんに渡そうとして、渡せなかったプレゼント。
じくり、と胸が痛んだ。
我ながら女々しい。自分の分は買ってあるし、さっさと処分すれば良いのに。
もう渡す事の出来ないだろう物を、こうして後生大事に持ち歩いているのだから。
リュックからそれを取り出し、じっと見つめる。
胸に湧き上がるモヤモヤとした感情に任せ、握り潰すほどの力を込め、川に向かって手を振りかぶり――
『私なんかで……良かったら……』
――やがて、それは力無くだらりと下ろされる。胸に去来したのは、どうしようもない虚無感と無力感。
それを吐き出したくて、深く、深く溜息をついたが、それは心臓にこびり付いてしまっているようで。
仕方なく、鉛の様に重いそれを引きずりながら、半分以上沈んだ太陽を背にして、家路に着く。
じくり、と胸が痛んだ。
河川敷の土から、固いアスファルトへと地面が変貌していく。それをぼうっと見つめながら、考える。
どうして、こんな想いをしているんだろう。
どうして、こんな想いをしてまで、生きてるんだろう。
自分は、何を望んでいた……? 何をしたかった……? どうなりたかった……? 将来の夢って、何だっけ……?
なりたかった自分の姿すら思い出せず。
これからどうすれば良いのかも分からない。
目隠しをして暗がりを歩くような、不安定な未来――不安だらけの世界。
しかし、それでも生きていかなければならないのだから、さっさと頭を切り替えなければいけない。
なのに、どうしても、彼女の顔が頭から離れない。
あぁ、辛い、苦しい――――――寂しい。
どうして、あの子は来てくれなかった?
どうして、あの子は何も言わずに消えてしまった?
どうして、どうして、どうして……っ。
こんな想いするくらいなら、いっそ出会わなければ良かった。
こんな想いするくらいなら、いっそ――
――いっそ、生まれなければ良かったのに。
“――いっそ、生まれなければ良かったのに”
ゾワリ、と背筋が凍りつく。
……なんだ、今の声は。
まるで、地獄の底から掬い上げたような、絶望に塗れた甲高い声。
あまりに現実感に乏しい、しかし、悪い意味で心を鷲掴みにして離さない、少女の声。
幻聴だと必死に自分に言い聞かせながら、それでも不安を隠しきれず、辺りを見回してみると。
周囲の景色は、奇妙な雰囲気を漂わせる空間へと変貌を遂げていた。
ついさっきまで踏み締めていたアスファルトは、奇妙な柔らかさを持つ“何か”へと変わり。
最果ての見えない空間には、ありえない光景が広がっていた。
魚。
折り紙で作られたそれが、宙を泳いでいる。
それだけではない。ぬいぐるみ、クレヨン、カラフルな積み木――あらゆる玩具が、そこら中に浮いている。
常軌を逸した光景に息を呑み、思わず後ずさる――
……ぅ、あっ!?
――が、地面を踏むはずだった足は空を踏み抜き、後ろに倒れこむ。
唐突な浮遊感に驚く間もなく、全身に冷たい物が纏わりつく。
驚いて見開いた目に、泡となって空気が立ち上って行くのが見えて、ようやく気付いた。
これは、水だ。
咄嗟に手で口と鼻を塞いで周囲を見回してみれば、周囲には半透明な薄い膜のような物が出現していて、自分はそれに閉じ込められている事が分かった。
更に、外側にも同じ物が、何処からともなく吊るされているのが見える。
それはまるで、夏祭りの縁日で売られている、ヨーヨー釣りの水風船。
違うのは、満タンにまで水が満たされ、弾む気配すら見せないこと。
状況を理解できないまま、本能的に逃げ出そうとして、薄い膜をどうにか破ろうと、空いている手で必死に爪を立てる。
しかし、ゴムのように伸び縮みするそれは、全く破れる気配を見せず。
瞬く間に息が苦しくなり、動く事すら出来なくなっていく。
気が遠くなり、限界を超えた窒息感に、口が勝手に開いてしまう。
その瞬間、まるで生き物のように肺へ満遍なく水が進入し、異物感に喉元を掻き毟る。
何だ、これ。
何だよこれ。
何なんだよ。
何で自分がこんな目に……?
藻掻きながら、ただそれだけを考える。
しかし、その問いには誰も答えてくれる筈がなく。
経験した事のない、例えようのない恐怖が押し寄せる。
すると、唐突に苦しさが消え、同時に体が弛緩して行くのが分かった。
ゆっくりと、視界が狭まっていく。
ぼんやりとする意識の中で、あぁ、これから死ぬんだなと、どこか他人事のように感じている自分が居た。
その視界に、水中を漂う文庫本が見えて。それを失いたくなくて、手を伸ばす。
指が、微かに触れた――
《パンッ》
――瞬間、鈍色の光の線が走り、何かが弾ける様な音がした。
気付いた時、体は重力に従って柔らかい地面へ叩きつけられ、その衝撃に意識を取り戻して、肺に溜まった水を必死に吐き出す。
「はぁ、っ、はぁ……なんとか……はぁ……間に合った……やっぱり、不便ね……」
鈴の音のような声が響き、反射的にそちらを確認する。
落下の衝撃で眼鏡が飛んでしまったため、視界はボヤけてしまっていたが。
そこには長い黒髪を翻す、一人の少女が立って居るように見えた。
「……怪我は、無いですか?」
少女はこちらに歩み寄り、心配そうな言葉をかける。
だが、その声には聞き覚えがあり、喉から勝手に出た言葉が、驚愕に震えた。
……ほむ、ら、ちゃん……?
「……え……?」
彼女は、戸惑うように脚を止める。
「貴方は……何処かで……?」
そして、同じく戸惑うような声で、こちらに問いかける。
しかし、生命の危機を脱したのを自覚したからか、自分の意識は急激に遠くなって行き、その問いに答える事は出来なかった。
「あっ、し、しっかり……!?」
最後に耳に届いたのは、あの頃を思い出させる、どこか懐かしい、慌てふためいた声だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
頭の下に、柔らかい感触がある。まるで人肌のようなその温もりに、なんだか心が落ち着く。
いつの間に寝ていたのだろう……? なにか、随分と苦しい夢を見ていた気がする……。
眠っていた筈なのに、気だるさが取れていない――というより、むしろ酷く疲れてしまったような……。
駄目だ、思い出せない……。
理由の分からない疲労感に、自然と喉から呻き声が洩れる。
「……あ、気がつきましたか?」
すると、予想外の方向から声が降ってきて、眠気が吹き飛ぶ。
閉じたままだった目を開くと、こちらを見下ろし、首を傾げる影があった。
眼鏡をかけていないため、視界はボヤけてしまっているが、聞こえた声はまだ少女と言って良い位の年頃に思える。
「動かないで下さい」
彼女はそう言うと、何かを取り出すような仕草をし、それを顔に降ろしてくる。
近づくにつれ、物の輪郭がはっきりと見えるようになり、こちらを見下ろす少女の顔がはっきりと見えた。
長い黒髪に、同じく黒いカチューシャをつけた、とびっきりの美少女。
普段なら声をかけようとすら思えない程、自分とは住む世界の違いを感じさせる、そんな容姿の少女。
しかし自分は、その顔に見覚えがあった。
……ほむら、ちゃん……?
「……はい。お久しぶりです」
彼女は――ほむらちゃんは、そう言ってうっすらと微笑を浮かべる。
その微笑みは、見惚れる程に美しかったが、記憶の中にある彼女のそれとは、随分と雰囲気が違って感じた。
喋り方は妙に落ち着いているし、背筋をピンと伸ばしたその姿からは、かつての弱弱しさは微塵も感じられない。
そして、彼女とのやり取りに奇妙な既視感を覚えて、訝しむ。まるでついさっき、同じ問いかけをしたような……。
けれど、どうしてもそれを思い出せず、なんで、と口から声が洩れる。
「倒れていたんです、この公園の近くで。覚えてませんか……?」
だが、彼女は別の解釈をしたのか、そう言って心配そうに見下ろす。
なんとなく顔を横に向けてみれば、視界に大きな噴水が入ってきた。
何の因果か、ここはあの日、ほむらちゃんと待ち合わせをしたあの公園のようだった。
設定された時間になったのか、ライトアップされた水が、噴水から滾々と湧き出す。
水……。
水……っ!?
それを見た瞬間、あの異常な体験が脳裏を過ぎって、慌てて体を起こし、自分の体を確かめる。
「あっ……あの……?」
ほむらちゃんが心配そうな声を上げるが、それ以上に、自分は混乱していた。
服が、濡れていない。あの時確かに、全身ずぶ濡れになった筈なのに。
じゃあ、あれは夢だった……? いや、そんな筈がない。
あの苦しさが、確かに忍び寄る死の感覚が、夢な訳がない。
しかし現実には、濡れていた筈の服は乾いている。
訳が分からない。自分は、頭をどうにかしてしまったのか……?
「……ごめんなさい」
だが、混乱しきっていた頭を、唐突な謝罪の言葉が引き戻す。
隣に視線を向けてみれば、ほむらちゃんは俯き、膝の上で、小さな文庫本を握っていた。
包装がヨレヨレになった、あの本を。
「私は、貴方との約束を、破ってしまった……。いいえ、それだけじゃない」
彼女は、体を小さくし、本を両手で握り締める。
「貴方に名前を呼ばれるまで、私は、約束した事すら、思い出せなかった……。本当に、ごめんなさい……っ」
謝罪し、頭を下げるその姿を見て。
自分の胸に湧き上がったのは、とても複雑な感情だった。
再会できた事の、強い喜び。
何を今更という、激しい怒り。
そして、すっかり変わってしまった彼女への、酷い困惑。
どれもが本当の気持ちで、なのに、それ等の境目が曖昧で、入り混じる。
「………………」
結局、彼女の言葉に返事を出来ぬまま、時間だけが過ぎていく。
しかし、彼女はその間もずっと頭を下げ続けていて。
その居心地の悪さに負け、自分の感情を整理できない内に、頭を上げてくれ、と硬い声を出す。
「……っ……」
それを聞いた彼女は、ゆっくりと体を起こし、伏せられていた顔が見えるようになる。
だが、それを見た瞬間、胸の中のわだかまりがゆっくりと解けて行くのが分かった。
現金な物だなと、自分で思い、苦笑してしまう。
「……? あ、の……?」
もう、いいよ。
怒ってなんて、いないから。
「あ……」
言いながら、そっと微笑む。すると彼女は、強張っていた頬を緩ませた。何かを必死に堪えるような、強張った表情を。
そう、頭を上げた時に彼女が浮かべていたのは、自分が退院すると言ったあの時と、全く同じ表情だったのだ。
確かに、見た目も雰囲気も、随分と変わってしまったかもしれない。
しかし、その大元の部分は変わっていないのだと、今ので分かった気がする。
……ひょっとしたら、また勘違いかも知れないけど。
けれど。
そう、信じたかった。
「……でも、私は……」
しかしほむらちゃんは、まるで歯噛みするように唇を歪め、また俯いてしまう。
おそらくは、罪悪感を感じているのだろう……。二ヶ月近く約束をすっぽかしていたのだから、誰でもそう感じて当然かもしれないが。
自分としても、まだ釈然としない部分は残っているが、折角こうして再会できたのに、気まずいままで別れたくない。
でも、ただ気にするなと言っても、彼女の性格からして、余計に苦しめてしまうだけだろうから。
だから――
じゃあ、これから自分の言う事をしてくれたら。そうしたら、本当に許してあげる。……どう?
「……はい。私に、出来る事なら……」
……その本、受け取ってくれないかな。元々、君にプレゼントするつもりだったし。
「……え?」
それで、あの頃みたいに、感想を言い合おうよ。
またここで、待ち合わせしてさ?
「……っ……」
――だから、こんな風に。
自分に都合の良い提案をしてみる。
「貴方は……どうして……っ」
しかし、ほむらちゃんは俯いたまま、声を震わせて。
泣かせてしまったかと思った自分は、慌てて言葉を重ね、言い繕う。
い、嫌なら、無理にって訳じゃないけどさ? ほむらちゃんにも、色々あるだろうし。
その本だってボロボロだし、もう持ってるなら捨てちゃっても――。
「……嫌、です……そんな事、しません……」
けれど。
言い訳じみた声に顔を上げた彼女は、少し潤んだ瞳で、真っ直ぐにこちらを見つめ――
「大事に、します。ずっと、ずぅっと……」
――とても大事そうに、包装がクシャクシャになった、小さな本を胸に抱えて。
ほむらちゃんは、はにかむような笑顔を見せてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
五月十五日、日曜日。
あの夜から、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。日記をつける事に意味を失ってから、随分と時間が経ってしまった。
だけどもう、私の知らない未来は始まっている。きっとこの時間は、奇蹟のような物だから。
何があっても忘れないように、こうしてまた、日記を付け始めようと思う。
思えば、この時間軸では色んな事があった。
まどかに年上の恋人が居たり、巴マミに彼氏が出来たり、美樹さやかが魔女化しなかったり……。
聞けば彼女は、まどか達と喧嘩別れをした日に、見知らぬ男性に運よく拾われ、心を救われたのだという。
そしてその後、美樹さやかは上条恭介ではなく、自らを救ってくれたという男性と恋人同士になった。
幸せなのは結構だけれど、休み時間の度に惚気話を聞かされて、正直ウンザリしている。
最近では佐倉杏子も、とある男子高校生とよく一緒に居るらしい。
今度出刃亀してみようと、美樹さやかは皆を誘っている。悪趣味だとは思うけれど、でも、少しだけ見てみたい気も――。
書き出してみたら、全然色んな事じゃなかった。全部、男性が関っている。
奇妙な縁、だと思う。
そして、今日。
私自身にも奇妙な縁があった事を、思い出す事が出来た。
まだ、私がインキュベーターと契約する前。ほんの少しの間だけ、一緒に本を読んだ、あの人。
私は、ずっと忘れてしまっていたのに。
あの人は、魔女の口づけを受けていたにも関わらず、変わってしまった私を、分かってくれた。
あの日交わした約束を、忘れないでいてくれた。
考えてみれば、当たり前なのかもしれない。
私にとっては何年も前の約束でも、彼にとっては、ほんの数ヶ月前の出来事なのだから。
それ程までに、私と彼の時間は、ずれてしまっている。
だけど。
消え去ってしまった、あの頃の私を。臆病で引っ込み思案だった、弱虫の私を覚えてくれている人が居た。
その事が、なんだか嬉しかった。
あの日まで、私はまどかを救う事だけを考えて生きて来た。
あの夜さえ越えられれば、自分なんかどうなっても良いと、そう思っていた。
けれど、今思えば、随分と独りよがりだった気がする。
何度繰り返しても、まどかを救う事が出来なくて。いつの間にか、誰も信じられなくなって。
その内、私自身の事すら、信じなくなっていたのだと思う。
立ち止まる事はなくても、心の何処かで最初から諦めて、次があると慢心して……。
そんな私を助けてくれたのは、皮肉にも、信じる事を止めた筈の、かつての仲間達だった。
大切な人を――家族や友人、愛する人を守るために懸命に戦う、魔法少女達だった。
繰り返す事の出来ない、たった一度の人生を生きる彼女達が。その想いが、私を、永遠の迷路から出口へと導いてくれた。
どれほど感謝しても、感謝しきれない。
絶えず変化して行く日常が、愛おしい物だったのだと、初めて知った。
大切な友達と笑い合える日々が、こんなにも嬉しいと、思い出す事が出来た。
この奇蹟の時間をくれた彼女達に、どうすれば報いる事が出来るかは分からない。
けれど、今までの私では、誰も信じられない私では、居たくない。
彼女達のように、心から誰かを愛し、守り抜く。そんな人に、私はなりたい。
奇蹟なんかに頼らずに。今度こそ、自分の力で、変わっていきたい。
まずは、あの人がくれた小説を読んでみようと思う。内容なんて、すっかり忘れてしまったけど。
もう一度、読み始めてみようと思う。
皆と一緒に、新しい私を、始めてみようと思う。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……あの頃のほむらは、可愛かったなぁ。
「言いたい事はそれだけかしら?」
不可抗力だったんですごめんなさいもうしません。
「……ふぅ」
ほむらは、仕方ない、といった風に溜息をつく。現在の自分とほむらの構図はこうだ。
ここはお呼ばれしたほむらの住むアパートの一室。自分は、床に直接正座をさせられていて。
私服姿――長めのスカートに黒いタイツ、薄い紫色のブラウスと、その上から大き目のベストを着たほむらが腕組みをし、仁王立ちでこちらを見下ろしている。
その手には、彼女が日記をつけているノートがあった。
いつものようにデートをして。その後、ほむら家にお邪魔して、彼女がお茶を淹れに行ってくれている間。
机の上に出しっ放しだったそれは、換気の為に開けていたのだろう、窓から入った風によって捲れてしまい、うっかりその内容が目に入ってしまった。
そして、いけないとは思いつつも、あの頃を思い出してついつい読み進めてしまい、今に至る。
「幾ら恋人同士とは言え、親しき仲にも礼儀は必要だと思うのだけど?」
冷たい目で見下ろすほむらに、仰る通りで……と平伏する。
自分と彼女の関係は、出会ってからの半年と言う時間の中で、大きく変化していた。
彼女と再会してからと言うもの、不思議とやる気を取り戻した自分は躍起になって仕事を探し始め、それが功を奏したのか、程なく再就職が叶った。
そこは個人経営の小さなパン屋で。初めて尽くしの馴れない仕事には苦労したが、それでも、新しい事を始めるのはとても刺激的で、楽しかった。
しかも、偶然にもそのお店は、ほむらの住んでいるアパートのすぐ近くでもあり、彼女はよくパンを購入しに来てくれた。
そして、仕事の合間に少し話をしたり、休みの日には、あの公園で待ち合わせて本の話をしたり。
ゆっくりと関係は深まって行き、いつしか、自分とほむらは、恋人と呼べる関係になっていた。
まぁ、魔法少女とか、時を遡る能力とか、色々と吃驚はしたけれど……。
勿論、最初から全てを信じられた訳ではない。
しかし、目の前で変身されたり、映画やドラマでしか見た事のない物騒な物を見せられては、信じるしかなかった。
彼女と再会した日に起きた出来事も、魔女と使い魔の話を聞いて、やはり夢ではなかったのだと知った。
どうやら、あの水は使い魔の体の一部だったらしく、逃げようとした使い魔がそれを回収しようとした結果、ああなったらしい。
更に、あのスーパーセルから街を救ったのが彼女達、魔法少女である事を知った時は、正に度胆を抜かれた。
彼女達の活躍が無ければ、数千人単位の被害が出ていたのだろうから、本当に感謝だ。
そして、ほむらが時間を遡った理由――それを聞いた時、本当の意味で、全ての疑問は解決した。
彼女の変貌振りにも納得が行ったし、友達を救う為に命がけで戦ってきた彼女が誇らしく、より好きになる事もできた。
……まぁ? 自分よりも、そのまどかとか言う友達を優先された事に、ちょっと嫉妬はしたが。
しかし、自分と違って、その子は放って置けば命を落としてしまうのだから、どちらを優先するべきかは比べるまでもない。
自分の事も、戦いに巻き込まないために会わないようにしていて、その結果として忘れられてしまったのだから、あんまり怒れないし。
……うん、でもやっぱちょっと悔しい。
と、そんな事を思いながら額で床を擦っていたら、頭上からほむらの声が降って来る。
「……まぁ、出しっ放しにしていた私にも非はあるし、それはいいわ。でも――」
許してくれるのかと思って上げようとした頭が、最後の「でも」に硬直した。
「――“あの頃は”って、どういう事なの……?」
ほむらの声に、部屋の温度が若干下がったような気がする。
恐々、視線を上に向けてみると、予想通り、絶対零度の瞳がこちらを見下ろしていた。
普通の人ならそれに気圧されてしまうのだろうが、自分にはその後ろに隠された感情が透けて見えてしまい、つい顔がにやけてしまう。
「……っ、何を笑っているの」
強気に言葉を重ねるほむらだが、やはりどうにも微笑ましく、にやける顔を隠さずに立ち上がる。
「あ……ま、まだ、話は終わって……!」
そして、怒った振りをし続ける彼女を強引に抱きしめ、言う。
さっきのは、間違い。
今のほむらの方が、何百倍も可愛い。
「……ずるい……貴方は、いつもそうやって……」
腕の中で、ほむらが悔しそうに呟く。
だが、抵抗はせず、むしろ体重を預けるように、彼女は寄りかかってきた。
全く、昔の自分自身にすら嫉妬してくれるとは、なんとも恋人冥利に尽きる。
「……っ」
しかし、不意に彼女の手が背中に回り、その手がきつく握り締められる。
いつもは自分が求めるばかりで、滅多にこんな事してくれないのに。
不思議に思い、どうした? と声をかけると――
「……怖いの」
――先程までとは打って変わり、弱弱しい声でほむらは呟く。
「今が、幸せすぎて……。まどかが居て、巴マミや、美樹さやか、佐倉杏子が――皆が居て。
こんな私を想ってくれる、貴方まで居てくれて……。こんなの、幸せすぎて……」
背中に回された腕に、まるで、縋りつくように力が込められる。
「だから、本当は、夢なんじゃないかって……。目が覚めたら、私はまだ、あの迷路に取り残されているんじゃないかって、怖くて……」
彼女の声には、隠しようのない不安が感じられた。
以前の自分なら、そんなのおかしいと一笑に伏していただろうが、ほむらという恋人が居る今なら、少しは分かる気がする。
今、この腕の中に在る温もりが、泡沫の夢だったとしたら――考えただけで死にたくなる。
だが彼女は、これ以上の苦しみを幾度となく味わってきたのだ。
大切な友達を失って。それを取り戻すために、何度も時を繰り返して。
そして今、ようやく夢見た未来を掴む事が出来た。
しかし、夢見ていたからこそ、本当に夢なのではないかと、不安に駆られている。
この小さな体の中に、一体どれ程の悲しみと諦めを抱えていたのか。
自分には、想像する事しかできない。
いや、想像した所で、それは彼女が体験した苦しみの万分の一にもならないだろう。
だからこそ。
もう、苦しむ必要はないのだと、教えたくて。
ほむらの肩に手を置き、体を離して。
今にも泣き出しそうな顔で見上げる彼女に、キスをする。
「んっ……」
軽く触れるだけだったそれは、すぐに離れ。
ほむらの額に自分の額を押し当て、目を閉じ、囁くように話しかける。
……夢なんかじゃ、ないよ。夢であって、堪るもんか。
「……あ……」
自分は、ここに居る。
ほむらの隣に、ちゃんと立ってる。
……もう、大丈夫だよ。
「………………」
もう、強がらなくたって良いんだ。
ほむらは一人じゃない。
友達が――仲間が沢山、居るじゃないか。
それに、頼りないだろうけど、自分だって側に居るから。
「……っ……」
ほむらの肩が震える。
くっ付けていた額を離し、目を開けてみると、彼女の瞳は、零れそうな程の涙で溢れていた。
一緒に、歩いて行こう。
一緒に、同じ時間を生きよう。
……大好きだよ、ほむら。
「……あな、た、は……ずる、い……っ」
溢れてしまったそれを隠すよう、彼女は縋りつく。
「どうして、いつも……そうやって、私の欲しい言葉ばかり……こんなの、ずるい……っ」
胸に擦り寄るほむらを、もう一度、優しく抱きしめる。
本当は弱虫で、泣き虫で。
だけど、大切な友達を守る為に、優しさを冷徹さで覆い、誰も信じず、傷つきながら一人で戦い続けた少女。
そんな彼女が、こうして、自分にだけ涙を見せてくれている。
堪らなく、愛おしかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……スンッ……はぁ……あまり、見ないで……」
照れ臭そうに、ほむらは顔を逸らす。
だが、そう言う割りに、その手は服の袖を掴んで離さない。
そんな、意外と見栄っ張りな所に苦笑いしながら、口を開く。
……もう、大丈夫?
「ん……大丈夫」
はにかみながら、ほむらは頷く。
彼女との間には、なにか、甘酸っぱい雰囲気が漂うのだが、それがどうにも苦手だった自分は、気恥ずかしさを誤魔化そうとふざけて見せる。
……良かった。これでも駄目だったら、ほむらの体に、もぉおっと恥ずかしい事して教えるしかなかったしね?
「……! ……っ」
すると案の定、彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
だが、こんな風にふざけた後といえば、無言で体の一部をつねられるのが自分とほむらのお約束だ。
そのため、襲ってくる痛みに耐えようと、眼を瞑って身構える。
しかし、いつまで経ってもその痛みはやって来ず、おかしいなと思い目を開いてみると――
「………………」
――ほむらは、少し赤くなった眼で、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
その眼に魅入られて、呼吸が止まる。
「……貴方なら、いいわ」
袖を掴んでいた手が離れ、自分の手と、彼女の小さな手が重なる。
細い指が、絡みつく。
「本当は、こうして触れ合っていないと、まだ、ちょっとだけ不安なの……。こんな事するのは、まだ早いのかもしれないけど……。
でも、貴方に寄りかかるだけじゃ、嫌だから……。だから、もう不安になんてならないように……」
そして、見詰め合ったまま。
ほむらは、ゆっくりと、自身の願いを告げた。
「私が、貴方の物である証を……刻んで欲しいの……」