墨が無くなった事に気付いた時には、もう陽が中天に至っていた。
少々根を詰め過ぎたかな、と上半身の凝りを解す。
或る程度根幹は出来上がったものの完成にはまだ遠い。
既存のものを流用し易い律や一篇二篇令は良い。
名が変わる事は有っても体制そのものが大きく動く事は先ず無い。
精々が細々とした例外規定を二三追加するか否かだろう。
──しかし、これは想定外だったなぁ。
偶然に齎された知識に因って、新たな律令の撰修を余儀無くされた。
だが新し過ぎる知識、概念と呼ぶべきそれは現状誰も理解出来ないであろう情報と化している。
言うなれば土台の上に屋根を載せる様なもの。
──流石に千年以上も先の発見と通説を流布するにはなぁ。
無論、知識と呼ぶのも烏滸がましい現在の対処法や理屈よりはずっと良い。
陰陽道や大和の信仰、或いは大陸の儒教に絡めて風説としてそれとなく周知させるのが吉か。
軽く一息を吐き出して、墨の下りていない令へ目を向ける。
医疾令は間違いなく筆を加えるとして……倉庫令、喪葬令辺りも絡んで来そうだ。
実際の治療や予防に関しては別途指南書でも用意して置かないと……あぁ、どんどん仕事が増えていく。
いっそ八意殿に丸投げしたい。
衛生管理や治療法細則は彼女が直接文書で纏めてくれるものの、それらを扱う為の下地は自分が作る他無い。
「藤原殿、如何為された?」
増え続ける仕事に嫌気が差してきた頃、多治比殿が顔を出した。
「いえ、同じ姿勢で居たもので多少体が固まりましてね」
「律令の見直しであったか。確かに基とした大陸と様式が違うとは言え、よくもまぁ改善案が出るものだ。鼠とてそこまでぽんぽんとは産むまいに」
「ははは……」
感心の眼差しを空笑いで受け流しつつ筆を置く。
朝方、大和の老人衆が陳情と言う名目で難題を持ち込んでいたと記憶している。
多治比殿の表情から察するに、言いたい事だけ言って帰ったらしい。
自分が持っている訳でもない権威を振り翳すのがお好きな老人達の事だ、大方新しい寺の建立とその利権についてだろう。
さぞかし面倒だっただろうな、と苦笑が漏れたのか多治比殿は溜め息を一つ溢して腰を下ろした。
「全く、銭も人も出さぬのに甘い蜜だけ吸わせろと喧しい事この上無い」
「樹液に殺到する虫よりも見境の無さそうな人達ですからね。いっそそのまま干からびてくれた方が火葬しやすくて良い」
「藤原殿がそこまで言うのも珍しいものだ」
「やらなくて良い仕事を増やされるのは意外と腹立たしいのですよ」
疲れた笑みを交わしながら近習の持ってきた茶で喉を潤す。
屋内とは言え今日は陽射しが強く、黙っていても額に汗が浮かんでくる程だ。
多少は休みを入れた方が作業も捗るだろう。
そう言えば、と互いに冷たい茶で一息吐いた所で然も思い出した様に口を開く。
「御子息の婚儀は明日でしたね」
「あぁ、不安と期待で妙に落ち着かぬ。儂自身の時の方が余程気楽で有ったわ」
「上手く収まれば良いのですが」
「いやはや全く。あやつは如何にも思慮が足らん。出来る事なら才媛と名高い水橋の珠にみっともない所を見せぬ様に奮起して欲しいものだ」
それは無理だろうな、とはおくびにも出さず神妙に頷く。
紫ちゃんに探って貰ったが、彼女は如何やら望月君に惹かれつつ有る。
女性にしておくには勿体無いとまで紫ちゃんに言わせる程の才女だ、家の存続──この場合は名では無く物件としての家そのもの──を主幹に置いた婚姻と割り切って居るだろうし、必要以上に干渉も献身もしないだろう。
これが望月君相手なら、持ち得る才の全てで影に日向に尽くす筈。
可哀想な事に、彼女の心が靡く事は無いと断言して良い。
凡そ平穏な結果は彼女を水橋の家に押し込め、子息は妾の家を渡り歩く辺りだろう。
彼女は思い出の詰まった家を手に入れ、子息は僅かばかりの名声と変わらぬ自由を手にする。
──いや、多分それは無いな。
あれだけの執着を見せた望月君の事だ、婚儀に乱入して拐っていくくらいはやるだろう。
まぁそれをやると多方面に宜しくないので実際は最後まで取って置きそうではある。
やらない、と断言出来ない辺りは流石と言うべきか。
「しかし御子息もよく承諾しましたね。水橋家の名声が流れてくるとは言え、あれだけ浮き名を流している様ですしまだまだ遊び足りないとゴネそうですが」
「なぁに、藤原殿も知っての通りあやつは家内の言には弱いのでな。久し振りに一家揃って夕餉を楽しむ事を条件に言い含めて貰ったわい」
「成程、母は強し、ですね」
愛妻家としても名の知れた多治比殿らしい手段に思わず笑みが零れる。
しかし子息が望んだ訳でも無い、か。
紫ちゃんの情報待ちにはなるけれど、これは一騒動有ると考えておくべきだろう。
水橋家の名声に興味は無く、その資産も路傍の石が如く。
となれば彼女自身に何かしらの価値を見出だした?
惚れた……流石にその線は薄いか。
例の歌人に熱を上げているのは周知の事実だし、何より当人もそれを喧伝して虫が寄らぬ様にとなけなしの知恵を回している。
となれば……伴侶と言う立場を都合良く利用する心算か。
都殿へ婚儀を済ませて尚も言い寄るのを、親の懇願に折れて祝言を挙げただけで本心は貴女に有る、とでも嘯くのだろう。
望むのなら本妻の立場を、ともすれば身分を捨てて何処か遠い国へ逃避行をしても良い。
そんな上っ面の言葉が女性の心を動かすと信じて止まない辺り、如何にも哀れな男だ。
「さて、邪魔してしまったな。そろそろ長屋王の所へ行くとするか」
「進捗は如何です?」
「知識の吸収には目を見張るものが有る。が、自らの発想よりも歴史をなぞるきらいが有るな。成功への執着と失敗への過剰な恐れを併せ持つ割に度胸も無く小さく纏まろうとするのはいかん」
「ふむ……現状では参議止まりですか。私達の後を継げるくらいまで成長してくれると嬉しいのですがね」
「書の上では過不足無いのだが、動き流れるものを扱うには思慮が足らぬか。やれやれ、老骨には堪えるわい」
「後進の育成も私達年寄りの仕事ですからね」
「わっはっは、儂は兎も角藤原殿はもう二十年程せねば年寄りの仲間には入れぬぞ」
「やだなぁ、二十年後と言ったら多治比殿よりも年上になってしまうではありませんか」
互いに笑い声を上げてお茶を飲み干し、それぞれの仕事に戻る。
どすどすと肉体と歴史の重み両方を感じさせる足音が遠ざかって行くのを聞き流しながら、新たに墨を磨っていく。
近習を下げて暫くは一人で書を相手取る事とした。
二刻は過ぎただろうか。
積み上げた書が四つ山を重ねた辺りで、ふと鼻を擽る匂いに気付く。
「この甘い香りは……ほっとけぇき、かな?」
「残念、どら焼きでしたー」
振り向けば盆を両手に持った少女が立っている。
最早一族の証とも言われ始めた金の髪が目映く輝く。
そう言えば彼女も髪の色は金か。
何らかの因子を持つ者に共通する色なのか、はたまた望月君の譲れない『ふぇちぽいんと』なのか。
十中八九後者だろう。
「しかも濾し餡とカスタードの二種類をお取り揃え!」
「これはまた豪華だねぇ。お茶を用意させようか」
「紫ちゃんはその辺りも抜かりありません!」
ふっふっふー、と得意気に笑う紫ちゃん。
一旦書を纏め台を空けて盆を置くと、隙間から見た事の無い形状の筒を取り出した。
取っ手の付いた白っぽい筒の頭には注ぎ口らしき出っ張りが見える。
続けて取り出したのは同じ様に白い色合いの陶器が二つ。
此方も取っ手が付いているが、これは恐らく湯呑みだろう。
「変わった形の湯呑みだね?」
「西洋で使われてる意匠のものなんだって。こっちは熱が逃げない作りになってて、結構長い間熱々のお湯を入れておけるんだよー。詳しい事は良く知らないけど」
「へぇ、それはまた面白いね。と言う事は中身も西洋の飲み物かな」
「おぉっ、大正解。西洋のお茶で、色合いから紅茶って呼ばれてるんだよ」
注ぎ口から赤褐色の水が流れ出たと思えば、普段の茶とはまた違った香りが湯気と共にふわりと広がる。
どの程度淹れてから時間が経ったのかは不明だけど保温性はそれなりに有る様だ。
紅葉狩りに出掛けた先で温かいお茶で一服すると言うのも面白そうだ。
湯呑みを受け取り早速一口含むと茶葉の香りが一気に駆け巡って行き、豊かな甘味と仄かな渋味が舌を撫でて喉を濡らす。
流れるままどら焼きを摘まむと鮮烈な『かすたぁど』の甘さが味覚を捕らえて離さない。
紅茶の香りと渋味がどら焼きの甘さを引き立て、どら焼きの甘さが紅茶の香りと渋味を引き立てる。
「成程、これはまた良い組み合わせだねぇ」
「だよねー。緑茶も良いけどカスタードと合わせるのならやっぱり紅茶が一番。気付けば無くなっちゃうから妹紅ちゃんや映姫ちゃんは二分もしない内に幸せ笑顔からしょんぼりさんに変わってたり」
「あはは、目に浮かぶ様だ。食べ過ぎは夕飯に差し障る、と言われて泣く泣く諦めてるのを見て望月君がこっそり晩御飯の後で出す分を作ってそうだね」
「それも大当たりー」
からからと笑いつつどら焼きを頬張る紫ちゃん。
季節の食べ物を入手がてら時折様子を見に行く事は有るけど、こうして妹紅の話を聞くのもまた違った安心感が有る。
暫く他愛ない話で盛り上がり、どら焼きが無くなった所で本題に入る。
「さて、聞かせてもらおうかな?」
「色々と見聞きしてきたよー。先ずは写真からどうぞどうぞ」
そう言った紫ちゃんの袖口から幾つかの写真が出てくる。
例の『ぽろらいどかめら』とか言う絡繰で景色を焼き付けたものだ。
差し出された一枚目。
そこには件の子息が何やら柄の悪い連中に金を握らせている場面が写っていた。
二枚目から四枚目までは東河の辺りを写したもので、どれも大橋を見下ろしているものだった。
そして五枚目。
「おや?」
五枚目には空が写っていた。
これだけ気色が違うので首を傾げていると、紫ちゃんが苦笑いしながら説明してくれた。
「いやー、ノリノリで撮影してたら例のイケメン陰陽師に見付かっちゃって。不比等さんと協力してちょっと探ってる所、って話したら納得してくれたんだけど。最初に誰何された時にびっくりしてカメラをお手玉しちゃってねー」
「成程、高宮殿は仕事熱心だからねぇ。最近漸く望月君の所の妖怪は見逃すって事で同意してくれたけど、それでも怪しい気配には敏感に為らざるを得ないみたいだよ」
「でもここ最近は凶悪な妖も出てないんじゃない? 知り合いは暢気に練り歩いてるけど」
「出ていないからこそ、なのだろうね。気の弛みで何かを見逃すのを何より嫌う御仁だから」
なるへそ、と小さく頷いた紫ちゃんが続けて取り出したのは掌に乗る大きさの四角い箱らしき物。
側面の出っ張りを可愛らしい指が押し込むと、ぱかりと箱が開く。
中には一枚の紙切れが入っていた。
「どれどれ……へぇ、屋敷の引き渡しに関する証文か」
「本来なら所有者の所には彼女の名前が有る筈。なのにこの証文ではドラ息子の名前が掛かれている。そして受取人は」
「最近話題に上り始めたきな臭い商人の名前。成程、成程。彼に三文芝居の台本を渡したのはこいつで、屋敷や家財を始末すると言ってせしめる代わりに簪でも用立てて恩を売ろうと言う腹積もりか」
「破落戸ごろつきの一人がその商人と会ってる所もばっちり押さえたよー。流石に全部バレてるとは思ってないみたい」
「そりゃあねぇ。空間も認識もずらせるのが相手じゃ分が悪いと思うよ」
「そうそう、破落戸と商人は長い付き合いらしく、ほとぼりが冷めるまで備前国の屋敷でのんびりするとかなんとか」
これで情報は揃った。
決行は今夜、東河の大橋の上でだろう。
得物は弓と見て良い。
あのご子息の事だ、態と自分の身を晒して長々と仔細を語り出すに違いない。
語り終えた辺りで東側に配置した弓兵が彼女を射抜き河へ身を落とす。
逃げる素振りを見せたなら西側、恐らく二箇所に配置している弓兵が退路を断つ。
事が済んだら当人は素知らぬ振りで罪を行きずりの物盗りか何かに被せ、下手人たる破落戸連中は備前国へ身を隠し、商人は只の商いとして屋敷と家財を手に入れる。
そうして悲劇の主人公となったご子息は傷心を癒す名目で更に歌人へ入れ込むのだろう。
同情を引く算段なのか、如何にも安い芝居だが。
「うん、後は望月君を説得するだけか」
「それが一番難題だよねー」
眉尻を下げながら紅茶を飲む紫ちゃん。
いつの間にか手元には新たなどら焼きが置かれている。
まぁ、成長期だからね。
「頭を使う時は甘い物が必須なんだよ、決して食べすぎだったりお腹ぷよぷよではないんだよ」
妙にキリッとした顔で言い切る。
どちらかと言うと自分に言い聞かせている様にも思えるが、そこは女人共通の悩みと言うか、そう言ったものなのだろう。
ともあれ最後に残るは望月君への説明と説得だ。
全てを包み隠さず話せば、今夜の襲撃は防げるだろう。
だがそれでは足りない。
望むべきは今後彼らが動き易くなる為の布石を打つ事。
ご子息を人柱として望月君の美談を作り上げ、件のはぐれ陰陽師の時の様な悲劇を生まない様に。
望月君の立場を強固にすればする程彼らの郷は安定していく。
それは妹紅の幸せにも繋がっていく筈だ。
──国の幸せを願って此処まで来たのだから、少しくらいは娘の幸せの為に動いても良い頃合だろう。
人の身なればこそ、出来る振り切り方と言うものが有る。
そして同じ様に。
愛する人の為なればこそ、振り切れる子が此処に居る。
「ねぇ紫ちゃん、物は相談なんだけどさ」
「ん、何々?」
さぁ、悪巧みを始めようか。