ユディトは自分の生い立ちをしらない。
生まれたときから、ずっと独りでここにいるからだ。
暮らしているのは超高層ビルディングの最上階にある、巨大なガラスのドームで覆われた<庭園>だ。しかし、ユディトはここがクリスタルガラスで閉ざれた空間であることすら気づいていない。
<庭園>はとても広くて不自由を感じたことはなかったし、欲しいものはすぐに与えてもらえる。愛情ならダガールがたっぷり注いでくれる。
だからユディトはいつも幸せで、ユディトにとってはこの箱庭のような<庭園>とダガールが世界の全てなのだった。
今日のユディトは、髪の色に合わせたワインレッドのタフタのドレスだった。
スパンコールとビーズを鏤めた胸元の飾りに、手首まで覆うレースの袖。細い首には二連の真珠を巻き、まとめ髪の頭にはドレスと同色のヘッドドレスをつけている。
ダガールは立ち尽くしていた。中世ヨーロッパの姫君をおもわせるユディトの姿に釘付けになったまま、しばらく言葉を失っていた。
「きみは古典的な顔立ちの美人だから、クラシカルなドレスがよく似合うね」
ため息をつくようにようやく言うと、ダガールは微笑んだ。
「これからも、きみにふさわしいドレスをたくさん仕立てて上げよう」
二人は手をつないで、木立の中に歩み入った。これもまた中世風に装ったメイド猫たちがバスケットを持って後から続く。
ピクニックだ。さほど遠い距離ではない。森の奥に行くことは禁じられている。
梢で囀る小鳥や、ひらひらと舞う蝶、木陰にひっそりと咲く白い花の群生を見つけては、ユディトは歓声を上げた。
ほどよく開けた処に来た。頭上を覆う樹冠から、陽が降り注いでいる。
メイド猫たちが草地のうえに布を広げ、クッションを敷き並べる。バスケットから食器と茶器を取り出し、軽食の用意をする。
ユディトはハート型のワッフルに苺のジャムをぬってダガールに差し出した。
「召し上がれ」
「ありがとう」
ダガールにはやはり彼好みのスモーキーな薫りのする紅茶が供された。ユディトにはダブルハンドルの美しいカップに注がれたホットミルク。
ダガールが陶製の小さな壷を開け、いつものように砂糖菓子をユディトの口もとに持ってくる。ユディトは素直に口を開く。砂糖菓子を食べさせてもまだ唇を撫でつづけるので、ダガールの手を両手でつつみ、指をしゃぶる。
坐らせたまま、ユディトの上半身をはだけた。白い華奢な身体が陽にさらされる。
「綺麗だ、きみは本当に綺麗だ」
ダガールがユディトを抱き締めながら肌に口づけしてくれるので、ユディトの心は幸福感でいっぱいになる。
巨大な都市建築群が燦然と輝いている。
帝都は不夜城だ。真夜中であろうと瞼を閉ざすことはない。
皇家の直轄地、帝国を構成する諸侯国、そして海外に数多ある植民地から吸い上げた莫大な富を今夜も旺盛に消費している。
ガラスのドームを王冠のように戴いた超高層ビルディングが、商業区の一等地にひときわ高く聳えていた。
所有者は貴族社会の一員であり、国内有数の資産家でもあるのだ。
夜遅く、人目を憚るように
自らも男爵の称号を有する博士は、研究者らしい知的な顔に苦悩の影を刻んでいた。平民出身の彼が末席とはいえ貴族に列せられることになった功績。それは彼に名誉と成功を、出資者には巨億の富をもたらした。
しかし、彼はそのために赦されざる禁忌を冒した。研究を続けるための出資と引き換えだったのだからやむを得なかったのだ、と博士は自分に言い聞かせてきた。それでも成功すればするほど、罪の意識は重く彼にのしかかってくるのだった。
博士は持参してきた製薬会社の箱から、複数の
ミルクにしか見えない白い液体のほうも医薬品である。こちらは畜産業やペット業界で繁殖を目的に使用される。本来は動物用だが、人間に用いられることもある。人間にはどういった用途で使われるかを知っている博士は手を慄わせた。
博士は視界のすみに主人を伺い見る。
主人はゆったりとソファに掛け、葉巻を燻らせながら帝都の夜景を眺め下ろしている。博士は、くつろいだその様子に畏怖の念を深めた。
「その砂糖菓子だが、次からは新しい成分を添加してもらいたい。リストはそこだ」
手にした葉巻で、テーブルのうえのタブレット型コンピューターを示した。
そこには、例の少女が生まれてから今日までの記録が載っている。工業製品を扱うような無機的な内容なのは、作製したのが製造会社だからだ。内分泌系の項目に新たに付け加えられた薬品名と分子式を見た博士は顔色を変えた。
「伯爵様、これはッ」
「治験データはすでに取ってある。問題はない」
「しかし……!」
「きみは命じられたことだけしていればいいのだ」
ダガール・バーンシュタインは振り向いて、カーン博士を見た。政財界の有力者であり、博士の最大の出資者である男の眼差しは彼の心臓を芯まで凍らせた。
「きみはもう後戻りできない。忘れるな。私たちは共犯者なのだ」
ダガールは重厚な樫の扉を押し開いた。
邸内の最も奥まった場所にあるこの部屋は、家政用の自動人形以外は誰も立ち入ることができない聖域だ。
闇の中でも目が利くのか、それとも慣れているのか、ダガールは躊躇いのない足取りで壁際の小卓までたどり着くと、枝つき燭台の鑞燭に火をともした。
炎に照らし出されたのは、ようやく二十歳になったばかりと思われる若い男性の肖像画だった。
貴族らしく礼装をして椅子にかけ、右肘を脇机に乗せている。身体をやや横向きにしているが、上半身をひねるようにして正面に向けている。
面差しが愕くほどユディトに似ていた。
この人物はもともと中性的な顔立ちをしている。ユディトが成長してあと数年したら、見分けがつかなくなるではないかと思われるほど二人は酷似している。
似ていないのは表情だった。こうした絵画は宮殿の居間に掲げられて後世に伝えられるものなのだから、少しは表情を繕うべきなのに、それすらしていない。
美しい容貌に笑みひとつ浮かべず、傲慢な眼差しをこちらに投げかけている。高貴さと表裏一体の冷ややかさだった。
ダガールは歩み寄った。抱擁するように両手を広げると、肖像画の人物に頬ずりした。
「あなたが悪いのですよ。私の想いを知っていながら、あんな男と死んでしまわれるから。あのときから私は人間であることをやめてしまったんです」
ユディトは独りで森の中を歩いていた。
いつもはお供としてどこにでも附いてくるメイド猫もいなかった。
執事ウサギのクローヴィスに見つかったら、きっと怒られてしまうだろう。単独で行動することは禁止されている。
でも、私はもう子供じゃないわ、とユディトは頬をふくらませる。恋人と呼べる方だって、ちゃんと居るんだから。
「見つけた」
苔むした古樹の根もとに、白い花の群生があった。触れたら折れてしまいそうなくらい細い茎の先に、星形の花が咲いている。
草むらに腰を下ろす。
黒いヴェルベットのワンピースからのぞく、繊細なレースのパニエがふわりと広がる。坐ると地面に届くくらい長い髪は毛先を綺麗にカールさせて、白いリボンでポニーテールにしている。この前のお姫様スタイルもいいけど、こういう動き易い服装もユディトは好きだ。
満開になったものを集めて、手もとに小さな花束を作っていく。ガラスの水差しに活けたら、とても見栄えがするだろう。鼻を近づけ、にっこり笑った。
「いい匂い」
「……ト! ユディト!」
森の入り口から自分の名前を呼ぶ声がして、ユディトは顔を上げる。
「あ! ダガール!」
手を振る少女に気づいたダガールが駈け寄ってくる。ずいぶん長いこと探し回っていたのか、髪をふり乱し、息を切らしている。
「どうしてこんなところに来たんだ。森の奥に行ってはいけないといつも言っているだろう!」
「ごめんなさい。でも、珍しいお花が咲いていたから」
ダガールの剣幕に怖じたように、先日のピクニックで見つけた白い花を差し出した。
「その花がほしいなら、庭の中央に移し替えてあげるよ」
ダガールが両膝をつく。ユディトの頬をつつむ手が慄えていた。瞳にはうっすらと涙が
「もう二度と私の傍から離れないでくれ」
強く抱きすくめられた。
「…………ユダ様」
ダガールが来ない。
いままではどんなに長くても三日とあけず来てくれたのに、もう五日も姿を見せなかった。
事情を知ろうにも白ネコのメイドたちは口がきけなかったし、唯一お喋りができる黒ウサギの執事に訊いても、
「旦那様はお忙しくて」を、繰り返すばかりだった。
自分とよく似た、でも違う名前で呼びかけられたことが心のわだかまりとなっていた。
ユダって誰なのだろう。ダガールとどういう関係があるんだろう。どうしてその名前で呼ばれたんだろう。訊きたいことが次から次へと湧いてくる。
白い大理石の
枕もとに、たくさんのぬいぐるみが置かれている。独り寝のとき淋しくないようにと贈られたものが、いつの間にかこんな数になってしまったのだ。いちばんのお気に入りは等身大のピンクのテディベアだった。ユディトはクマちゃんにダガールのベストを着せていた。ダガールは贅肉のない均整の取れた身体つきをしていたから、ベストは専用に誂えたようにぴったりだった。ユディトは寄り添い、頬を押し当てた。
「ダガールの匂いがする」
切なくなって、テディベアを抱き締めた。
「ダガール。早く来てよ。私、さみしくて死んじゃうわ」