受付に坐っている青年は、コンシェルジュとよぶには服装がやや古風だった。貴族の邸宅で働く従者のお仕着せだからだろうか。
頭部に髪をなでつけた容貌は端整だが作り物めいている。背筋をまっすぐ伸ばし、正面に顔を向けたまま微動だにしない。
観察眼のある人間なら、見開いた目が瞬きひとつしていないことに気づいただろう。彼は
「おはよう、シュテファンくん」
ヘルベルト・カーン博士は礼儀正しく挨拶した。待機モードを解除された受付係の瞳に生気が戻る。
「おはようございます、カーン博士」
「いつもの定期診断なのだが、入ってもよろしいかね」
「しばらくお待ちください」
受付係の表情が失われ、動きが止まる。入力されている情報と照会するためだ。数瞬後、確認が取れたらしく、彼は微笑んだ。
「伺っております。どうぞ、なかにお入りください」
博士は安堵の息をつく。
一般用エレベーターに表示されている最上階はこのフロアまでで、ここより上は個人の邸宅だ。
貴族のプライベート・エリアは彼らの城や所領に等しく、司法や警察の管轄権が及ばない。一種の治外法権だ。無断で侵入する者は殺されても文句は言えない。
しかし、博士の持っているパスは主人のごく私的な領域にまで入ることが許されている。秘密を共有する者だからだ。だが、それも今日までだ。
<庭園>に足を踏み入れた博士は一瞬、本物の森のなかにいるような錯覚をおぼえた。
清々しい緑林の涼気。土の匂いと草いきれ。花々が放つ素晴らしい薫り。
どこからともなく吹いてくる風が梢を揺らし、木漏れ日が万華鏡のような光を散らしている。
自然林に見えるこれらの樹木も実を言えば、人間の目に最も美しく映るように計算され、絶妙なバランスで配置されているのだ。
芝生は坐ったり寝転んだりするのにちょうどいい長さに刈られ、雑草のたぐいも一切生えていない。みごとに咲いた芍薬にしても紅百合にしても、花がらは摘まれ、散り敷いた花びらも一枚残らず取り除かれている。醜いもの、見栄えがしないものは徹底して排除されている。
これほどの庭園を維持するには莫大な費用がかかるだろう。
園内で使役されている自動人形も、富裕な家庭でしか購入できない高級品だ。しかも所有者は自動人形たちを、テーマパークで子供を相手にするような動物のキャラクターにカスタマイズしている。
これら全てがたった一人の少女のために作り上げられ、運営されているのだ。主人の少女への執着の強さ、耽溺ぶりがうかがえた。
自分はいま、その少女をここから連れ出そうとしている。
主人が急な用でしばらく留守にするのは確認済みだった。本家にあたる侯爵家の当主が亡くなり、葬儀に参列しなければならなくなったのだ。
博士にとっては千載一遇のチャンスだった。これを逃したら、もう二度と好機には恵まれまい。
森の奥から、女の子の笑う声が聞こえた。
心拍数が跳ね上がった。足音を忍ばせて、繁みからのぞいた。
可憐な八重咲きの薔薇がこぼれんばかりに咲いているのが見えた。
その傍らに、紅い髪を長く伸ばした少女がいる。身に纏っているのは薄紅色のシルクとシフォンのドレス。シフォンには小花の刺繍が散らされ、ほっそりした胴にはシルクの薔薇の飾りがついたサッシュを締めている。
彼女を囲むように、メイド服を着た白ネコ型の自動人形が三体いた。
少女は、いましがた編み上げたばかりの薔薇の花冠を自分の頭に乗せている。メイド猫に見せようと、顔をこちらに向けた。
カーン博士は息を呑んだ。
これほど近くで見たことがなかったから分からなかったが、立体映像などはるかに及ばない美しさだ。触れたら、たちまち溶けてしまいそうな淡雪のような儚さと繊細さ。それでいて見る者を幻惑するような妖しい魅力を発散している。
まさに<
満ち足りた少女のようすを見ているうちに、博士の両眼に涙が滲んできた。
悔恨の情に胸を締めつけられる。
あの少女は幸せにちがいない。しかし、それはしの幸福だ。作り物なのだ。何もかも。
「ユディト様、ユディト様」
繁みから姿を現し、博士は呼びかけた。
メイド猫たちが一斉に博士を見る。瞳孔が大きく開く。ぴんと立てた耳をこちらに向けてくる。博士の身分照合をしているのだろう。
博士は胸もとに忍ばせた拳銃を意識する。しかし、メイド猫たちは動かない。少なくとも博士を敵対者とは認識していない。
「ユディト様」
出来うるかぎり平静さを保ちながら話しかけた。少女は可愛らしい顔に、あからさまな警戒の色を浮かべている。当然だろう。生まれてこのかた、主人以外の人間を見たことがなかったのだから。
「あなたは誰?」
「ダガール・バーンシュタイン伯の代理の者です。お嬢様をお連れするよう言付かりました」
「ダガールのお知り合い?」
「そうです。どうか、私と一緒に来てください」
「でも……ダガールはここから出ちゃ駄目って言っていたわ」
「そのお方からのご命令なのですよ」
「だって……」
それでもユディトは動こうとしない。博士は焦りはじめた。
こうなったら、力ずくで連れていくほかない。
博士は意を決して少女を抱きかかえた。ユディトは大きな叫び声を上げた。
「きゃあああ!」
少女の悲鳴に呼応するように、メイド猫たちの瞳の奥に赤い光がともった。
「シャアアア!」
メイド猫たちは威嚇の声を上げ、全身の毛を逆立てた。鋭い爪が露出し、柔らかい毛の下で筋肉が隆起する。優美な肢体は敵を引き裂くことを前提とした肉食獣の攻撃性を見せはじめている。
しまった! こいつらは戦闘型のオートマタだ。
博士は少女を抱えたまま、<庭園>の出口を目指す。そのすぐ横を白い疾風がはしる。メイド猫たちが四つ足で併走しながら博士を狙ってくる。
一体が前方に回り込んだ。博士を取り囲み、唸り声を上げる。執拗に襲ってきては服の袖や裾をくわえ、引きずり倒そうとする。しかし直接は攻撃してこない。彼らはユディトを傷つけないようにプログラムされているのだ。少女を抱きかかえているかぎりは安全だった。
正面から執事のような出で立ちの黒ウサギが駈けてきた。右手に大きな段平を引っさげている。野獣のごとく鼻の上に皺を寄せ、歯を剥き出しにしている。
少女を抱えたまま、拳銃を抜いた。執事ウサギの首を狙う。自動人形の弱点は頸部だ。頭部は硬い外殻で守られていて、弾丸をはじいてしまう。
二発の銃弾が執事ウサギの首に命中した。執事ウサギは後方に跳ね飛ばされる。二度、三度とバウンドすると、首を奇妙な方向に捻ったまま、動かなくなる。
「いやああッ」
ユディトが悲鳴を上げた。
メイド猫の一体が博士の右腕に食らいついた。博士は拳銃を取り落とす。戦闘用オートマタは、鋼鉄の牙を食い込ませ、彼の腕を引きちぎろうとしている。
カーン博士はなんとか振りほどこうと、もがいた。
「何をしているのだ!」
鋭い声が響いた。
<庭園>の入り口に現れた男を見て、博士は愕然となった。腕の中の少女が叫んだ。
「ダガール! 助けてッ」
ダガール・バーンシュタイン伯爵が旅装も解かぬままの姿で立っていた。彼の目には、手にしたサーベルにも劣らぬ剣呑な光が宿っている。
「伯爵様……なぜ。お帰りは明日のはずでは」
「ユディトを独りにしておきたくなくて、予定を切り上げて帰ってきたのだ」
ダガールの視線の先には、頸部を撃ち抜かれた執事ウサギが転がっている。
「私の留守を狙ってくるとはな」
「十六年前、あなたに懇願されて恐ろしい企てに手を貸してしまったが、いまでは後悔しているのです。私たちがしたことは生命の尊厳を脅かす行為に他ならない。死んだ人間を甦らせるなんて……!」
叫んだ博士は、左腕にかかえた少女を見た。
「それだけじゃない。この子はもう十五歳になるはずだ。それなのに、この子の外見は子供のままだ。あなたは……あなたは」
ユディトは投薬によって初潮が始まる直前で成長を止められていた。彼女は決して大人にはならない。
博士が追加するように命じられたのは、脳の発育をとめ、知的成熟を抑える薬である。身体も心も成長させず、愛玩物として弄ぶ。博士にも同じ年頃の娘がいる。それを思うと、もはや良心の呵責に耐えきれなかった。
「私が狂っているとでも言いたいのかね」
ダガールの顔が歪んだ。これまで貴族の矜持によって保たれてきた仮面がめりめりと裂け、その奥から真っ黒で禍々しいものが現れ出ようとしていた。
「あの方にお仕えしていたあいだ、私は一分一秒だって正気だったことはない」
妄執に取り憑かれた男の鬼気迫る表情に、博士は真の恐怖を覚えた。地獄というものをかいま見た気がした。
ダガールがすばやく退路に立ちふさがり、サーベルを閃かせる。博士は少女を庇おうと背を向けた。次の瞬間、刃が博士を袈裟斬りにした。
かかえた少女ごと博士は地面に投げ出される。倒れ伏したまま、慄えおののく少女に手を差し延べた。
「ユディト。逃げるんだ。きみはここにいてはいけない……きみは……きみは本当は」
「ユディトは私のものだ! 誰にも渡すものか!」
ダガールが叫び、サーベルを振り下ろした。何度も、何度も。ようやく、ダガールが刀をおろしたとき、博士は物言わぬと化して横たわっていた。
肩で息をしながら、ユディトを見た。ユディトは地面にしゃがみ込んだまま怯えきった表情をしている。サーベルを捨て、よろよろと歩み寄った。
「……ユディト」
「死んだ人を生き返らせたってどういうこと? 私、死んじゃった人から生まれたの?」
ユディトの瞳は大きく見開かれていた。博士の言葉に少女は大きなショックを受けていた。それでもまだ信じられないというように、ダガールの外套の裾にすがりついた。
「嘘よね。あの人は嘘をついたのよね。そうでしょう。ねえ、お願い、嘘だと言ってよ!」
ダガールはユディトの傍らに膝をついた。
「私にはね、かつて愛した人がいたのだよ」