ダガールは、帝国の領邦のひとつハイデルン辺境侯の遠縁にあたる一族に生まれた。
そして十五の歳から行儀見習いとして、本家である侯爵家に上がり、七年間、二歳下の主人に仕えてきた。
ハイデルン侯爵嗣子・ゲーニッツ子爵ユダ・シュヴェーゲリン。それが彼の名前だった。
初めてユダと会ったときに、ダガールを捕らえた烈しい感情。それは恋などという生易しいものではなかった。
天使のような、という表現があるが、彼の容貌はそんな言葉では言い表せなかった。男女の性を超越した、そのためにかえって人間味を感じさせないその美貌。
そして、その瞳。
主人は自らの存在でもって、十五歳の少年を永遠の
しかし美しい肉体に、それに似つかわしい高潔な魂が宿るなど幻想にすぎない。
優しくなんかなかった。むしろ、無慈悲だった。
美しくて、冷酷で高慢。誰に対しても無関心。彼は自分しか見ていなかった。
ダガールの、自分への恋慕を知ると、彼は嘲笑した。ダガールの想いを
惨めだったし、屈辱的だった。それがためにユダを怨みもした。しかし、どれほど冷たくあしらわれようと、彼を愛する気持ちを抑えることはできなかった。
たとえユダの心が自分に向いていなくても、傍に居られればそれでいい。自分はユダの忠実な
十六年前、彼の主人は心中めいた不可解な死を遂げた。
社交の場が宮廷のある帝都から所領のある郊外へと移ろうとしていた夏の終わり、ユダはブラウエルシュタットの猟館に赴いた。狩りの季節がはじまる頃だった。ダガールは別の用件があって同行できなかったが、附いていかなかったことを一生後悔することになった。
低く雲が垂れ込めた暗い午後、猟館に一人の青年が訪ねてきた。
貧しい身装りで顔色も悪く、重い病でも患っているようだった。
応対した召使いは当然、ユダがその青年を追い返すものと思っていたが、なぜかユダは邸内に招き入れるよう指示した。
それから数時間後、ユダの私室で二人は折り重なるようにして死んでいた。
二人の身体には無数の傷があり、部屋の前を通りかかった召使いも言い争う声を聞いていた。両者のあいだに何かの諍いがあったことは間違いない。
問題は遺体の状況だった。
ユダの胸には短剣が突き刺さっていたが、柄を握っている青年の手に、ユダの両手が上から重ねられていた。どんな経緯があったか分からないが、ユダは自ら命を絶ったのだ。
後日行われた検死によれば、青年は内臓をひどく損傷していて、骨折箇所も複数あった。大きなケガをして余命いくばくもない身となった青年が、死に臨んで過去に因縁のあったユダを道連れにしたのだろうと推測された。
二人の死は覚悟の上の心中にも見えたが、貴族の体面を守るためにも情死とするわけにはいかず、無頼の徒による殺人事件として処理された。
ユダが相手の男にどのような感情をいだいていたのか、最後に何を思っていたのかを知る術はもうない。彼はいま、一族の霊廟に眠っている。
主人は死んだが、ダガールは苦悩と絶望のなかに独り置き去りにされた。
「なぜです。私がどれだけ愛していたか、あなたはご存じだったはずなのに」
ちょうどその頃、再生医療の分野、とくに幹細胞工学の研究は飛躍的な進歩を見せていた。
皮膚などから取った体細胞を初期化し、得られた多能性幹細胞からさまざまな臓器を作り出すことに成功していた。
心臓、肝臓、網膜、血液、神経細胞、そして生殖細胞まで。
多能性幹細胞は胎盤にはなれないために、そのままでは個体に成長できない。しかし、幹細胞から精子と卵子を作り、受精させれば個体を作り出すことができる。同一の存在にならないという点でクローンとは異なるが、それでも一人の人間の細胞から、新たな人間を生み出すことは可能なのだ。
それが天啓となった。
そうだ。あの方を甦らせるのだ――女児として。
ダガールは気づいてしまったのだ。心の奥底にひた隠しにされていた欲望に。
もしユダが女であったなら。もし、
気づいてしまった以上、それは実現されなければならない。
ハイデルン辺境侯の遠縁であるダガールは、同じく親戚筋のバーンシュタイン伯爵家の養嗣子となり、その財力を利用して、目的を叶えるための適材を見つけ出した。
幹細胞の遺伝子改変、あるいは人工染色体の導入による能力増強。あまりに大胆かつ先鋭的すぎるために周囲から理解を得られず、不遇をかこっていたヘルベルト・カーン博士に資金援助を行った。そして研究を続ける代わりに、なかば脅迫して、自分の要求をのませたのだ。
あらかじめ切り取ってあったユダの皮膚片から多能性幹細胞を作成し、そこから生殖細胞を作る。得られた受精卵の遺伝子スクリーニングによる男女の選別を行い、選ばれた受精卵を代理母の子宮に移植する。
そして十ヶ月後、女の子が誕生した――
「きみに与えつづけた砂糖菓子は第二次性徴の発現を止めるものなのだよ。きみは私の願いのままに成長を遂げた。少女の
ダガールはユディトの両頬を手で包み、微笑っている。彼女を見つめる瞳には抑えきれない歓喜があった。口づけしようと顔を寄せてくるのを見て、ユディトは反射的にその手を払った。
「いやッ!」
ユディトは自分を産み出した科学技術についてはまったく理解できなかった。しかし、その動機となった、おぞましい欲望や執着、狂気だけは分かった。あの男の人がここにいてはいけないと言った理由も。
立ち上がり、ダガールに背を向けて走り出した。追いすがってくる気配を感じて、ユディトは叫んだ。
「来ないで!」
「私から逃げられると思っているのか!」
髪をつかまれ、地面に引きずり倒された。
「いやあッ!」
「きみは私のものだ。これからもずっと。私だけのものだ」
仰向けにされ、ドレスの裾をめくり上げられる。下着を引き剥がし、細い脚を抱え込むと、ユディトの内部にいきなり突き入れてきた。
ユディトは叫び声をあげた。
男は大きな手でユディトの頭を押さえつけ、息を弾ませながら、すさまじい苦痛を与えてくる。
ちがう、ちがうわ。こんな人、知らない。この人はダガールじゃないわ。
「やめて! お願いッ! 痛いッ痛いの!」
ユディトは喚きながらダガールを押し退けようとした。ダガールは憐れむようにユディトの頬をなでた。
「苦しいのか。可哀想に。きみも好きなあのミルクを持ってくればよかったね。あれを飲むと、とても感じやすくなるんだ。きみだって、いつも愉しめただろう」
ずっと知らなかった、知りたくもなかったことを事も無げに告げたダガールは自分だけで一方的に愉しむと、すべての欲望を解き放った。
ショックで声も出せない少女をよそに、ダガールは胸もとから銀製の
恐怖の表情を浮かべるユディトに、ダガールは笑いかけた。
「大丈夫。ちょっとの間、眠るだけだ。目が覚めたら、これまで通り楽しく暮らしていけるよ」
「いやよッ」
ダガールは丸薬をユディトの歯の間に押し込むと、手のひらで塞いだ。むりやり呑まされた薬はとてもとても苦かった。
「どうせ憶えていられないのだから最後に教えてあげよう。私がこの世でただ一人愛したのはユダ・シュヴェーゲリン。きみは彼の細胞をもとに作った複製品なのだ」
素晴らしい芳香のなかで、ユディトは目を覚ました。
大理石の
いつもと変わらない光景に、ほっとする。なんだか、とても怖い思いをしたような気がするから。
傍らにダガールが腰掛けていた。
「目が覚めたようだね」
「ダガール。いつ戻ったの」
「ついさっき。夢見が悪かったのかな。
「平気」ユディトは起き上がろうとして顔をしかめた。「でも、ちょっと頭が痛いの」
ダガールはユディトを枕の山のなかに押し戻し、上掛けを首もとまで引きあげた。
「今日はベッドで寝ているといい。私も傍についていてあげるよ」
「一緒にいてくれるの?」
「いてあげるとも」
「本当に本当?」
「本当だとも。これからもずっとずっと、きみと一緒にいてあげるよ」
ダガールの微笑みに、ユディトの顔が喜色に輝いた。
「うれしい」
「クローヴィス、」
ダガールが執事をよんだ。
目立たぬところに、影のように控えていた執事が現れた。
背が高く、細身仕立ての礼服を着こなした、白い毛に黒い斑点のある犬である。
「絵本を持ってきてくれないか。そうだな。『眠れる森の美女』がいい」
「かしこまりました」
優美ななかにも怜悧さをうかがわせる、きびきびした動きで、絵本を取りに行く。戻ってきた執事犬は、うやうやしい仕草でユディトに本を差し出した。
「ありがとう、クローヴィス」
「お安い御用でございますよ、お嬢さま」
クローヴィスは目元に笑みを浮かべて、引き下がった。
上掛けをめくり上げ、ダガールが寝台に入ってきた。枕に寄りかかるようにして、ユディトを腕の中に抱きかかえる。ユディトはダガールの身体にすっぽり包まれた。人肌の温もりとオーデコロンの匂いが心地いい。
「小さい頃、よくこうして絵本を読んであげたね。憶えているかい」
「憶えているわ」
ダガールが深みのある声で、童話を読み上げていく。ユディトはうっとりと聞き入っている。物語世界に引き込まれ、自分自身が眠り姫になったような気がした。
最後の挿し絵では、寝椅子に横たわり絹のクッションに頭をもたれて眠る姫君を、王子が目覚めさせようとしている。
「きみはこう考えたことはないか。眠り姫が目を覚ましたという話はほんとうは夢の世界の出来事なのではないか、と。王子との出会いも実は魔女が見せた夢で、眠り姫はいまもイバラの森の中で眠っているのかもしれない、と」
ユディトはきょとんとしている。話の半分も理解できていないことを知ってもダガールは不機嫌そうな様子を見せなかった。むしろ、満足そうな微笑みさえ浮かべている。
ユディトはダガールの胸にもたれ、ダガールはユディトの髪をなでている。
どれほど精を注ぎ込もうと、ユディトの胎内が生命を育むことはない。それはダガールが最初から望んでいたことだった。恋が日常生活によって色褪せ、愛が義務と化す。そのようなことを彼は望んではいなかった。ダガールは二人だけの関係が、蜜にからまるような甘美な陶酔の日々がいつまでも続くことだけを願っていたのだ。
ユディトの長い髪を指で梳きながら、ダガールが訊ねた。
「昨日は何があったのだね」
「…………」
ユディトは昨日の出来事を憶い出そうとした。しかし、いくら考えても心の中に浮かんでこなかった。ユディトはダガールに抱かれたまま、つぶやいた。
「忘れてしまったわ」