狛村さん。
女の声に振り返った死神は、わずかに体を強ばらせると何か用かと答えた。
普段と同じようにと自身に言い聞かせる、だが。もしかしたら、以前とは違う自分の態度に彼女は気づいたかもしれない。
「今夜、家に来る」
女の言葉に迷ったが、彼はすまんと一言、呟いた。
「忙しいのね、じゃ、また」
気にする様子もなく女は、また今度と言いにがら離れていく、その後ろ姿が振り返ることもない、やはり、気づいていない、いや、わざとそんなふりをしているのかとも思ってしまう。
以前の自分なら誘いを断ることはしなかっただろう。
だが、今は違う、現世に行くと必ずといっていいくらい会いに行っていたのに、その回数も少なくなっていた。
人間の女を死神とはいえ、半獣の自分が恋人、いや伴侶のような扱いで接していることは一部の者しか知らないことだった。
だが、そんな事は今や秘密ではなくなった、いや、それどころか。
ウェルムコンドの王、バラガン・ルイゼンバーンの女だったという事実、昔といっても、今の彼女の歳を考えると理解しがたいことだった。
彼女はただの人間だ、それなのに、いつ、どこで出会い、関係を持ったのだろうか。
いや、そんなことより気になったのは。
彼女の態度だ、何かかあったわけではない、だが。
見なければ良かった、見たくなかったと思ったのだ。
バラガンという男と付き合っていたことを責めるわけでもない。
死神だから、人だから、産まれた世界が違うからという、そんな事は無意味だと知った今、女が悪いわけでもない。
昔のことだ、だが、互いに今も、そう思うと、今の自分は何なのか、わからなくなってくるのだ。
自分の気持ちと同じくらい、いや、思うほどに彼女の気持ちはないのかもしれ
ないと、会うことを自ら避けて拒むほどに会いたいと思ってしまう。
だが、いつまでも避けているわけにはいかない。
知りたいのは自分ではなく、相手の、女の気持ちだった。
ふんと吐き捨てるようにバラガンは言った。
あの男に捨てられるぞと。
女は眉間に皺を寄せると、嫌な言葉を平気で言うのねと呟いた。
「あの男に避けられておるのだろう、儂とおまえの事を知って」
暗い月のない夜に現世に降り立ったウェルムコンドの王を女は呆れながら見
た、周りには結界が張られていて、ここは二人だけの空間だった。
「おまえは捨てられた」
「別れの言葉なんて聞いてないわ」
「同じ事だ」
「そんな人じゃないわよ、狛村さんは」
すると骸骨の口から笑いが聞こえてきた。
「あれを人というのか、獣の顔で、体で、死神でありながら、人と、笑わせてくれるな」
「笑いにきたの、あたしを」
するとバラガンは女の前に立ち、手を伸ばした。
「この手を取れ、来い」
「昔、貴方は拒絶したわ」
あのときはと、骸骨は昔の記憶をたぐり寄せた、信じられなかったのだ。
「あのときは、おまえは若く、儂は老いていた」
今は女も若くはなく、だが自分はどうだろう。
昔と変わらないままだろうか、いや、それ以上に老いただろうか。
それとも若くなってしまっただろうか。
「わからんのか」
「終わったと分かったら」
来るか、バラガンの返事に答えようとした時、空間が揺らぎ、結界の砕ける音
がした。
死神のような骸骨の男のそばには女が、寄り添うように立っていた。
狛村の金色の目が光り、口から女の名前を呼ぶ声が漏れた。
「取り返しにきたのか、死神」
バラガンの問いかけに答えはなかった。
ただ、視線は女だけに向けられていた。
自分を見ている死神の顔に、様子に、女は何かを決めたようだった。
三人の間の沈黙を破ったのは女だった。
「あなたと行くわ」
それは狛村に向けられた言葉ではなかった。
無意識に腰の刀に手をかけた大きな手が震える、いや、それだけではない、心
臓も、体もだ。
「さようなら」
別れの言葉に、ばさりと風に煽られたように黒いマントが揺れて女の体を包み込もうとした。
骸骨の口が大きく開き、そういうことだ死神と嘲るような笑いが響く、その瞬
間、狛村は刀を抜いた。
後悔、それとも罪の意識か。
まるで、主人しかられた犬のような態度だった。
畳の上で裸のまま、全身を晒している女を見る狛村の顔は視線は情けないほど狼狽えて、意気消沈したものに変わっていた。
ほんの少し前までとは別人のようだった。
刀を抜いて切りかかろうとした瞬間。
庇うようにバラガンの前に立つ女の姿に狛村は無力なまでに何もできなかった。
そして、そんな自分をあざ笑うかのように相手は女の背中を押したのだ。
「しばらく、おまえに預けてやろう」
という言葉を残して。
そして狛村は女を自分の家に連れ帰ると、無言のまま抱いた、それは強引に。
「別れるつもりだったんじゃない」
視線が背中に突き刺さるようで返す言葉もないまま、うなだれることしかでき
ない、謝ることしかできないが、女は聞こうとはしないままに先ほどから責めるよう
な言葉だけは口にする。
だが、その声は。
どこか楽しそうな、いや、嬉しそうな、笑うような感じがすると思うのは気のせいだろうか。、
落ち着いて、物静かな性格だと思っていたのに。
こんなに激しい獣のような狛村は、今まで見たことがないと言う。
お主だけだと狛村は胸の内で呟いた。
他の男に、人間であれ、死神であれ、誰だろうと取られたくない、奪われたく
ない。
奪われるくらいなら。
あの男と一緒に。
「あたしも、一緒に切るつもりだった」
この問いかけには答えなければいけない。
振り返った狛村は口を開いたが、否と答える事はできなかった。
「久しぶりに顔を見て、声を聞いて、抱かれて、あたし、好きなんだわ」
思わず、狛村は女のそばに近寄り、その顔を覗きこんだ。
寝たままの女は見上げながら手を伸ばすと鼻面を顔を撫でてくる。
「あたし、狛村さんが好きなんだわ」
聞き慣れた筈の言葉と声の筈だった。
狛村の口から出た言葉に女は呆れた顔をした。
つい先ほどまで、あんなにも激しく抱いたのに。
また、いや、まだ、足りないというのだろうか。
「嫌だと言ったら」
「抱きしめるだけだ、それ以上は何もせん」
本当はと、何か言いたげに、だが、その言葉を飲み込んだまま女は口づけた。
しばらくは預けておいてやるという、男の声を思い出した女は眼を閉じた。
未練がないといえば嘘になる、だが、今は、この死神に、獣の腕に、毛皮の中
に全てを埋めていたい。
そんなことを思いながら女は好きよと口を開いた。