誰もいない、明け方の地底湖の中、ドロシーはしばらく呆然と横たわっていた。
これが夢だと思いたかったが、身体中の怠い感覚、下腹部の痛み、湖の水の冷たさが確かな現実感を彼女に与えていた。
「出さ…なきゃ…」
自分の大切なところに好きでもない男の子種が満ちているのが耐えられない。
ボロボロの身体を起こし、用を足すときのポーズで自分の膣に指を入れると、ネバネバした液体が押し出されてくる。
(こんなにいっぱい…あんな奴の…)
指を使って精液を掻き出し、地底湖の水で指を洗い、また指を入れる。
しかし一晩中注ぎ込まれた精液は、いくら掻き出しても彼女の大事なところから後から後から垂れ出てくる。
「う…うう…嫌ぁ…」
初めて男の欲望を、劣情をその身に受け、後戻りできないほどに穢されてしまった。
いくら洗っても取れない膣壁の精液は、どれだけ忘れようとしてもともあの男に陵辱された証はその身に刻みつけられて消えないことを暗示するかのようだった。
そんなドロシーを湖内から見守る影があった。
湖の中に潜み、ドロシーや討伐隊の目から逃れていた山椒魚型獄鬼と蛙型獄鬼だ。
オスカーのARMが解けたことでドロシーの姿は彼らにも認知できるようになっていた。
彼らからすれば虚空からドロシーが急に現れたように見えたので随分驚いた。
しかし彼女が弱っていることを素早く察知すると、自分たちの仲間を大勢殺し、更にはクィベリオン様までも倒してしまった敵に“仇討ち”を開始する。
「な…」
ドロシーの周りを2体の蛙型獄鬼、3体の山椒魚型獄鬼が囲む。
便所座りで精液を掻き出す姿は例え低知能型の獄鬼相手でも見られたいものではなく、彼らをキッと睨みつける。
すぐに戦闘体制に移ろうとするが、ARMがなかなか発動しない。
魔力自体は時間経過と共に回復しているはずだが、陵辱された直後のショックでARMとのシンクロを可能にする集中力はない。
頭は闘わなければと思っているが、心が限界まで消耗していた。
「う…く…離れなさい!」
なんとか出現させたダガーARMで獄鬼を牽制するが、山椒魚型獄鬼のタックルで容易に転倒してしまう。
「きゃっ!」
M字開脚のような状態で尻もちをついたドロシーの秘部に、獄鬼の視線が集中する。
秘部から垂れ出る精液に気づくと、獄鬼達の目に欲情の火が灯る。
それは獄鬼の本能だった。異種族の生き物の生殖器を使わないと繁殖ができない獄鬼は、何が何でも自分の子孫を残す為に他の雄の精液を掻き出して自分の精液を膣奥に注ぎ込む闘争本能を持っていた。
要は既に種付けされている雌を見ると、“先客”に負けない程激しく種付けしようとする習性があるのだ。
「な…何よあんた達…きゃ!」
山椒魚型獄鬼がドロシーに覆いかぶさる。だらしなく膨張した紫色の肉棒を目の前の雌に挿入しようとする。
人間の男に辱められるのも身を切られるような苦痛なのに、こんな汚らしい生き物に犯されるなんて…想像するだけでゾッとする。
続いて蛙型獄鬼達、他の山椒魚型獄鬼もドロシーに覆いかぶさる。
我先にとドロシーと交尾したがっている。
所詮は下級獄鬼。仇討ちなど忘れ、完全に生殖本能に従って動いていた。
「やっ…やだ…」
ドロシーは悦んで獄鬼と交接する畏鬼教信者の悍ましい姿を思い出す。
この一線だけは越えられない。人間以外の化け物のを受け入れるなんてことは、絶対に避けたい。
既にブヨブヨしたペニスの1本がドロシーの秘裂を的確になぞり始めている。もう少しすれば強引に膣内を割って入っていくだろう。
「いやぁぁぁーーーっ!!!」
獄鬼の1匹がグェェェ…と呻く。興奮の雄叫びではない。その獄鬼の首は植物の茎で締められている。
見れば他の獄鬼達にも同じようなものが巻き付いている。周囲に生えていた葦が急激に生長し、彼らの身体を締め上げていた。
何事かと思ってあたりを見渡すと、小柄な老婆がドロシー達に向かって手のひらを向けている。灰色の髪を三つ編みに結った老婆…
「モンビ…」
しかしドロシーの意識はもう限界だった。瞼が重くなり、頭は考えることを放棄し、微睡みへと誘った…
小さく身震いしたドロシーは、意識を取り戻して目を開いた。
その瞳に木製の天井が映る。ドロシーはベッドに寝かされていた。
身体を少し起こしてあたりを見回す。木製の机に椅子、棚には本やら壷やらが飾ってある。
質素な作りの民家だ。
窓から差し込む太陽は高く、昼過ぎのようだ。
「私…どうしてこんなところで寝てるの?」
毛布を取ると、自分は裸で寝かされていたことに気づく。
暖炉の側には見慣れた魔女服が干されていた。誰かが洗濯してくれたのだろう。
…ただ、その魔女服は酷く破れており、服というよりはボロ雑巾のようだった。
ドロシーは自分の魔女服の様子を見て、何が起こったのかを思い出す。
同時に股間に走るズキンとした痛み。
「う…」
泥まみれ、精液まみれのはずだった身体は綺麗に拭かれているようだったが、大事なところには手は入れられていないようだ。
膣の奥の奥まで注がれたオスカーの精液は彼女が寝ている間に垂れてきて、シーツに小さな染みを作っていた。
そういえば避妊のARMを使っていなかった。ドロシーは指にはまっていたARM・ジッパーの異空間からホーリーARM・メンフェゴーラを取り出し、臍下に押し当てる。
淡い光が溢れ、胎内の精子を不活化させる。
最悪の事態は避けられた。しかしその身体に刻みつけられた陵辱の記憶はドロシーの意識がはっきりするにつれ、鮮明になっていった。
「う…うううぅぅっ…」
毛布にくるまって、肩を震わせて嗚咽する。
しばらくした後、ドロシーの声に気付いたのか、奥のほうから誰かがやってくる音がした。
小柄な背丈に三つ編みの灰色の髪…
地底湖の入り口ではドロシーを蔦で縛り上げ、陵辱の後にも彼女の前に現れた例の老婆だった。
顔を見るのは初めてだったが、遠慮がちな表情をしたその顔つきはとても畏鬼教と手を組むような魔女とは思えなかった。
ドロシーの顔を心配そうに覗きこんでいる。
「モンビ…あんたが…看病を…?」
老婆はそれに答えず、困ったようにはにかむだけ。
「ありがとう…貴女…畏鬼教の…ウィッカの魔女じゃなかったの…?」
肯定するような目つきだが、それにも答えない。そういえば彼女は洞窟の入り口で出会った時も1言も喋らなかった。
「もしかして…口が利けない…?」
ゆっくりと、頷く。
「それなら…」
ドロシーはジッパーをもう一度出現させ、中に手を突っ込む。
その中から1つの指輪を取り出す。2人の人間の頭が額を重ねあっている意匠の施されたシルバーリングだ。
ドロシーはそれを人差し指にはめ、その指の腹を老婆の額に押し当てる。
「これでどう?…あ、私のためにシチュー作っててくれたの?ありがとう。」
自分の考えを当てられたことに驚いた表情をする老婆。
ネイチャーARM・テレパスリング。人の心を読むARMだ。
相手の額に指を当てた上、その相手がこちらを拒絶していなければ発動しないので尋問には使えないが、聾唖者と意思疎通を図るのにはうってつけのARMである。
(驚いた…変わった魔法を使うのね…)
老婆の考えが言葉となってドロシーの頭のなかに流れ込む。
「まあね。まずは改めて、助けてくれてありがとう。」
ややこしくなるので自分が異世界から来たことは説明を省いてお礼を言う。
(ええ…むしろその…助けるのが遅れてごめんなさい。 …私結構な時間あの場にいた筈なのに、貴女とあの男の存在に気付かなかったわ。)
言葉を選びながらドロシーに詫びる老婆。
「ううん… あれは仕方ないんだ… そういう魔法だったから…」
(服も一応洗っておいたけど…あれじゃあ使えないわね。代わりのものを着せてあげられれば良かったんだけど、貴女に合うサイズのものがなくて。)
「ああ、それは大丈夫。裁縫のARMがあるから、時間はかかるけど元通りになるよ」
(不思議な道具をいっぱい持ってるのね、貴女は)
「自己紹介が遅れたわね。私はドロシー。 ええと貴女は…モンビ…?」
老婆は困ったような顔をして、ドロシーに思考を伝える。
(私の名前はオーリン。邪悪な魔女、モンビによって口の利けない老婆に変えられてしまったの。本当は貴女より少し上くらいの若さなのよ。)
「モンビに!…そうだったの…ごめんなさい。洞窟で会ったとき、貴女のことをモンビだと思ってた…」
(いいえ、こっちこそいきなり襲ったりしてごめんなさい。畏鬼教の構成員だとばかり思ってた)
この老婆、オーリンはモンビ及び彼女と手を組む畏鬼教に敵対しており、植物を操る魔法で信徒を地道に退治していたようだ。
畏鬼教信徒に変装していたドロシーが彼女に襲われたのも納得だった。
彼女、オーリンはオズの国の北部、ギリキンのお姫様なのだという。
ギリキンは南部のカドリングと同じく中央部エスメラルダの統治がなされている国であり、エスメラルダ王家の分家という扱いだった。
4年前、当時17歳の少女だったオーリンはザフィーロの領主・チュリオブドに嫁ぐことになっていた。
しかし、誰もが喜ぶ幸せに水を差す者が1人いた。
北の魔女、モンビ。
オーリンの大叔母であり、エスメラルダ本家の血を濃く継いでいたにも関わらず獄鬼と通じ、堕落してしまい、王家を追われた魔女。
モンビはオーリンの家が保管している神導器を狙い、オーリンが嫁いだ日にギリキンにあるオーリンの実家を襲撃したのだ。
「神導器?」
(ええ。神導器は全てエスメラルダの王様、“オズの魔法使い”が管理しているの。
いくつかは数十年前にモンビが盗みだして獄鬼側に渡ってしまったんだけどね。
私達ギリキン分家の者が管理を任されていたのは他人の生命力を集めて若返ることができる神導器、吸精壷ビスネ)
「若返りの神導器…」
(モンビは魂や生命力を操る魔女なの。
他者から生命力を吸って老化させたり、逆に与えて傷を回復させたり、土に生命力を与えて土人形にしたり、死体を操ったりもしていたわ。)
(それなのにあいつは吸い取った生命力を自分のものにして若返ることだけはできなかった。だからビスネを欲しがったの。
でもあいつはビスネを見つけられなかったわ。 …私が持っていたから。)
今思えば襲撃を察知していたのであろうオーリンの父は、嫁入り道具と共にオーリンにビスネを託していた。エスメラルダ王家の誇りにかけて、神導器が外部の者に渡らないように。
(ギリキンの城を滅茶滅茶にしてからやっと気付いたモンビは怒り狂って私を運ぶ馬車を追ったわ。
もう少しでザフィーロに着くのに追いつかれてしまうと思った私は、あの洞窟の入り口に馬車を止めて、中に逃げた。程なくあいつの操る土人形に捕まっちゃったけど、その時にはもう私はビスネを洞窟内に隠したまま)
オーリンはしてやたりという顔でドロシーに笑いかける。
(で、いくら尋問されても決して隠し場所を言わなかった私に怒ったモンビは、私の生命力を吸って老婆に変えちゃったわけ。特に喉は入念に老化させられて、声が出なくなっちゃった。
それから、モンビはビスネを自分で探すことにしたの。ずっと土人形に洞窟内を捜索させてるわ。私もモンビを倒してビスネを掘り返そうとしてるんだけど、土人形が常にうじゃうじゃいるせいでなかなか洞窟の奥まで行けなかったんだ…)
「そうだったの…」
この娘は老婆に変えられ、ずっと孤独にモンビと戦おうとしてきたのだ。神導器が邪悪な魔女の手に渡らないように。
婚約者のチュリオブドに事情を伝えて協力を仰ぐこともできただろうが、愛する者にこの姿を見られたくなかったのだという。
(そんな日々を過ごすこと数年、最近になってあそこを畏鬼教の根城にされちゃったの。モンビは渋々彼らと手を組んで、手助けの見返りとして洞窟内を捜索させてもらってるみたい)
明るく説明するが、オーリンの苦境は察するに余りある。
結婚間近に老婆に変えられ、そのことを説明する声すらも奪われてでも、一族の誇りの為に神導器を守ろうとする姿。それはカルデアの掟の為に姉殺しの使命を科せられ、メルヘヴン中を孤独に放浪していた自分の姿と重なるところがあった、
「土人形を操るのがモンビか…そのモンビって魔女、ギンタっていう子供を探してるんだけど、どうしてか知らない?」
(ああ、ここ最近になって突然そんなことを言い出したみたい。ただ残念だけど理由は知らないわ。名前も聞いたことがないし。)
「そうなの…」
やっぱり、とドロシーは思っていた。
ギンタが今でも彼の故郷の世界で平穏に暮らしていることが確定した以上、モンビの探すギンタも名前が同じ他人だろう。
「そうだ、私がザフィーロの街に入ろうとした時にあいつに襲われたよ。すぐに逃げられちゃったけどね。」
(それが昨日の朝?)
「ええ」
(そうなの…昨日の夜はね、貴女が起こした騒動のお陰で私もかなり洞窟奥まで入れたんだけど、当のモンビが見つからなかったのよ。いっぱいいた土人形も動いてない。まるであの場にいなかったみたい。)
「本当にいなかったみたいよ。畏鬼教の信徒が言ってた」
(おかしい…いつもナゴーグの日は参加を義務付けられてる筈なのに…)
「…もうビスネを見つけたから畏鬼教と手を組む必要がなくなってバックレたのかも?」
(それはないわ。ビスネはここにあるもの)
「ええっ!?」
驚くドロシーをに、オーリンは部屋の棚の上に置かれている壷を指し示す。
片手で持てる程度の大きさで、真鍮のような金属でできた壷だ。縦に長く、口のほうに近づくにつれて細くなっている形をしている。
(貴女のお陰で洞窟の奥まで入れたって言ったでしょ?ビスネを埋めた場所までやっと辿りつけたの!)
「やったじゃない!」
(それがビスネを使う条件がちょっと難しくて…まあ、ぼちぼち元の姿に戻るつもりだよ。)
老婆は何故か顔を赤らめながらドロシーに伝える。
「まあなんにせよ良かった良かった。 …さて、私は一足先にザフィーロに戻ろうかな。
私の連れ合いがザフィーロの治療師さんに治療してもらってるんだ。もう帰ってきてる頃かもしれない」
(治療師?そんな人がいるの?)
「ええ。イブノムっていう人。難しい病気みたいで、治療師さんの故郷のギリキンで治療を受けてもらってるの」
(ギリキン出身で治癒の魔法を持つ魔女…訊いたことないけど…)
「貴女が知らないってことは最近雇われたのかな? 真っ白な白髪で、そうそう。右ほっぺに2つほくろがあったっけ。」
(右頬に…ほくろ…)
オーリンは顔を青ざめさせる。
(瞼が腫れぼったかったりする…?)
「うん。なんだ、知ってるんじゃない」
(モンビよ…そいつが、モンビ。)
オーリンが青ざめた顔でドロシーに伝える。
「嘘…あの人の魔法は傷を治す癒やしの魔法だって…っ…!」
(さっき話したでしょう。他人から吸い上げた生命力をまた別の人に注ぎ込めば傷を治せるって。…あいつ、イブノムなんて偽の名前使って、ずっとチュリオブドの側にいたんだ!私が彼を頼ってやって来たときに始末できるように…!)
「じゃあ私の連れ合いを…チップをギリキンに連れて行ったのは…」
(病気を治すなんて嘘よ…きっと何か企んでる…)
どこで生まれたのか、なぜ封印されていたのか。
謎に包まれたチップだが、地底湖の件で1つわかってしまったことがある。
チップの精液をドロシーの粘膜と接触させると魔力が回復する現象。
素直に考えれば、こうだ。
チップの精液にエネルギーが詰まっていてそれが彼の身体を蝕んでいる。
誰かがそれを粘膜越しに接触させればエネルギーはその者に譲渡される。
だが、射精しなくては高熱に悩まされるチップの体質とは別に、ドロシーが精液を魔力に変換する能力を持っているという線も考えられた。
しかしその仮説はオスカーに膣内射精されてもちっとも魔力が戻らなかったことから否定された。
特別なのはチップだけ。チップの精液だけなのだ。
イブノム、いや、モンビがそれに気付いたとすればそれを悪用しようとするのは十分考えられる。
チップを治療すると偽り彼を攫ったのだ。
チップの発作をおさめた件もモンビの魔法が生命力を操る魔法だというのなら納得がいく。
本来精液と粘膜を接触しなくては成されない“力”の譲渡も、チップの生命力を吸い取る形で成功させたのだろう。
「こうしちゃいられない。あの子を、チップを助けなきゃ!」
ドロシーは飛び起きて、身支度を整える。
オーリンは慌てて再度ドロシーに額をくっつける。
(私も手伝うよ!…でもこんな老体じゃあ力になれないし、さっきも言ったけどビスネで若返るにはちょっと条件が…)
「ううん、いいんだ、オーリン。助けてくれただけで充分感謝してる。ありがとう。」
ドロシーは老婆の目をじっと見つめる。
「領主さんはこの4年間、言い寄ってきた女性達の求婚を断ってきたんだよ。心に決めた人がいるってね。
…早くビスネを使って元の姿に戻りな。随分時間が空いちゃったけど、今度こそ幸せになりなよ」
ギンタと小雪ちゃんみたいに…
その言葉を胸の奥にぐっと仕舞いこみ、ドロシーはオーリンの家を飛び出した。
今いる場所は東方領マンチキンと北方領ギリキンの間にある緩衝地帯。
オーリンが言うにはこのザフィーロはかなりギリキンに近いところにある。
ずっと北西に歩いていけばギリキンへの検問が見えてくるらしい。
モンビがチップを連れて行ったのは1日前の丁度このくらいの時間。
もう彼らはモンビの隠れ家に到着している頃だろうか。
チップをどうするつもりか知らないが、早く助けに行かないと。
ドロシーは焦るようにしてギリキンへ続く平野を駆けていく
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時はさかのぼり、イブノムがドロシーと別れた直後…
チップは馬車の中に乗せられていた。それに繋がれている動物は馬ではなく、巨大な白鳥が数羽。
ザフィーロ領主の専属治療師、イブノムの所有する大白鳥車だ。
暇な時間を持て余していると、やっと小柄な老婆がやってくる。真っ白な白髪を上品に結った魔女・イブノムだ。
無愛想な男も一緒だ。男のほうは車の外側の御者台に乗り込んだ。イブノムの雇っている、白鳥車の御者のようである。
「おまたせ坊や。さあさ、一緒に私の故郷に行って悪いところ治しちゃいましょうね。」
老婆は優しくチップに微笑みかける。
「あれ…おねえちゃんは?」
「ドロシーお姉ちゃんはこのお城で待っていることになったの。…ほら、この車、狭いから。私とチップちゃんだけでいっぱいになっちゃうのよ」
確かに小さな車ではあるが、それでも大人4人くらいは収容できなくもないサイズだ。
疑問を口にしようとするチップを黙らせるかのように老婆は優しい声で続ける。
「だから、はやく私と一緒にギリキンへ行って、ドロシーお姉ちゃんに元気な姿を見せましょう? ね?」
「おお、イブノム殿!チップ殿!」
通りかかった兵士長が彼らに声をかける。
「これから出発ですかな?」
「ええ。丁度これから」
「そうですか。チップ殿、イブノム殿は優秀な治療師です。難病のようですが彼女にかかればすぐ治りますぞ。」
イブノムは御者に合図を送る。
御者は無表情で白鳥達を鞭打つと彼らは一斉に飛び立ち、チップとイブノムを乗せた馬車も浮き上がる。
「それでは行ってまいりまーす!」
イブノムは馬車の窓から身を乗り出し、大声で兵士長に言う。
「道中お気をつけて!」
兵士長は大きく手を振りながら、どんどん上昇していく彼らを見送る。
地上から手を振る兵士長が豆粒のような大きさになった頃、イブノムは窓を締めてチップの向かいの席に座る。
「ま、もう来ないんだけどね。こんな田舎の小領。」
上品な口調はどこへいったのか。驚くほど冷たい声色で老婆はつぶやく。
「おばあちゃん…?」
チップは豹変した老婆の態度に戸惑う。
「戻らないともさ。ずっとずっと探していたものが見つかったんだ。」
老婆はチップの細い腕を痛いほど掴む。
「お前さえいれば吸精壺ビスネなんて探す必要もない」
「おばあちゃん…痛い…怖いよ…」
腕の痛みと老婆への恐怖に逃げ出したくなるが、ここは空の上。馬車から転がり降りても遠い地上へ真っ逆さまだ。
「抵抗するんじゃないよ。お前は私の物だ。…私が創ったんだからね」
彼らを乗せる馬車を引く大白鳥の姿が変化する。
肉が削げ落ち、羽もボロボロと崩れていき、骨だけの巨鳥が姿を現す。
曇り空の中、骨だけの巨鳥達がギャアギャアと乾いた声で鳴きながら馬車を引き続ける。
御者台の男は相変わらず無表情で手綱を引いている。
ひょろ長い背丈に中性的な顔…土人形の特徴だ。
イブノムは窮屈に結ってある髪を空いた方の手で解き、長い白髪を振り乱す。
小領主に仕える治療魔導師としての顔はもはや綺麗に消えていた。
少年の目の前には邪悪な魔女の姿が映る。死と魂を操るその魔女の本当の名前は、モンビ。
「もう逃しやしないよ。私の最高傑作…チペタリウス…」