私には、産まれた時から両手両足が無い。
先天性四肢欠損症というらしいが、生活する上ではそんな長い言葉はまるで聞かないし、言葉を聞かないからわかる通り、世界的にも非常に珍しい症例だそうだ。
それでも私は、そんなに辛い人生を歩んで来なかった。
私が産まれる数十年前に、まったく同じ先例があったおかげだそうだ。
もちろん奇異の目で見られることも多いし、無遠慮な言葉を投げ掛けられることもあった。
しかし私がやるべきリハビリプログラムも、生活の知恵も、補助器具も、そして世間全体としての偏見も、先人の努力のおかげで大きく負担は軽減されていた。
そしてなにより私には、とても頼りになる幼馴染みがいた。
だから私は、多少行動が不自由な他は、何も辛いことのない、幸せな人生を歩んでいられている。
・・・・・
朝の気配に目を覚ます。
ベッドの上で体を捻り、目覚まし時計を確認すると、目覚ましの長針は鳴り出す三分前を指していた。
目覚まし時計のスイッチを押して、アラームを解除しながらベッドから起き出す。
時刻は午前5時。
以前は6時起きだったけど、あの子に「男臭い」と言われてから、身嗜みを整えるためと、ついでに思春期の男児として軽くトレーニングするために、起床時間を一時間早めた。
元々早起きは苦ではないし、もう一年も続けていれば慣れる。
僕はジャージに手早く着替えると、早朝のランニングに出発した。
午前7時、いつものように家を出ると、すぐ真横にある幼馴染みの家のチャイムを鳴らした。
「は~い、たっくんちょっと待ってね~。ほら綾乃、たっくん来たわよ」
のんびりほんわかした女性の声のあと、鋭い声音の声が少しだけ聞こえた。
声が小さいうえに早口で、なんと言ったかはよく聞き取れなかった。
しばし、玄関先で待つ。
以前は寝ているのを起こすところから着替えまで手伝わされていたものだけど、中学生になってからは、家にあがることすら禁止されてしまった。少し寂しい。
「ごめんなさいね~、お待たせ~」
綺麗で胸の大きな女性が、玄関ドアを勢いよく開けて飛び出してくる。
前にもう少しドアの近くで待機していたら、飛び出してくると同時に抱き締められたので、今は近すぎず遠すぎず、不自然じゃない距離に立つようにしている。
「おはようございます、あゆみさん」
大きな胸に目が行きそうになるのを堪えるため、僕はゆっくりと頭を下げ、幼馴染みのお母さんに挨拶する。
「はい、おはようございます。いつも礼儀正しいわね~。
でも、そんなに他人行儀じゃなくていいのよ~、たっくんはうちの子みたいなものなんだから~」
「ちょっと、お母さん邪魔」
両腕を柔らかく広げながら、僕を抱き留めようとするかのように近付いてきたあゆみさんの後ろから、剣呑な声が聞こえる。
小さな駆動音を響かせながら、キャタピラー式の車輪が動く音がする。
車椅子に乗った僕の幼馴染みである綾乃が姿を現した。
腰まで届く綺麗な黒髪はお団子に結い上げ、可愛らしい桜色のリボンがヒラヒラしている。
「あら~、ごめんなさいね~。
でも本当に、たっくんがいてくれて助かるわ~。なんなら一緒に住んでくれてもいいのよ~?」
「お母さん!」
そう言いながら僕の頭を抱き寄せたあゆみさんを、綾乃が驚くほど大きな声で叱責する。早朝の住宅街ではかなりご近所迷惑だと思うよ…
短い腕でポカポカ叩く綾乃の頭を優しく撫でながら、あゆみさんは上機嫌な顔で家の中に入っていった。
柔らかくて温かい感触が僕の顔に残っていて、顔が少し暑い気がする。
「ほら、行くわよ! 遅刻しちゃうでしょ!」
綾乃に小突かれ、気を取り直す。そんなポカポカ殴らなくても。
綾乃は僕と同じ中学校の制服を着ている。
2年生になって背が伸びた僕と違って、綾乃の制服はまだ少しサイズが大きい気がする。
いや、一部分だいぶ余ってるような…卒業するのと遺伝子の力が発揮されるのと、どっちが先なんだろう。
「失礼なこと考えてるでしょ!」
車椅子の角で体当りされた。
自分は転倒せず、僕に怪我はさせずと絶妙なコントロールではあるが、科学技術はそんなことをするために洗練されたんじゃないはずだ。
幅広のキャタピラーのついた、座席部分も360度回せて高さも自在に返られる最新式の全自動型車椅子。
昔、綾乃が「可愛くない」と言っていたので、「戦車みたいでカッコいい」と力説したら、何故かひどく怒られたので言わないようにしているが、今でもカッコいいと思っている。
「いや、別に何も」
僕が笑って首を振ると、綾乃はフンッと鼻を鳴らした。
二人横に並んで、駅に向かって歩き出す。
これも以前は、僕が綾乃の車椅子を後ろから押して通学していたんだけど、半年ほど前から綾乃に禁止されてしまった。
あゆみさんに相談したら「照れてるのよ」と笑顔で返された。意味がよくわからない。
自分の両親に相談したら「何かあったとき、横にいた方がすぐ対処できるだろ」と言われた。なるほど確かに。
だからその次の日から、常に車道側を歩くように気をつけるようにした。
そしたらそれからしばらくは、何を話し掛けても綾乃が答えてくれなくて困った。
駅に着く。
エレベーターでホームに向かうと、いつもの女性の駅員さんが、笑顔で手を振ってくれた。
「おはようナイトくん、綾乃ちゃん」
「おはようございます」
綾乃と二人で挨拶を返す。
ナイトは僕のこの駅でのアダ名みたいなものだ。
いつからかそう呼ばれ出して、「内藤」と呼ばれてるんだと思って訂正したら、笑って「お姫様をお守りするキミはナイトでしょ」と言われた。
自分は騎士と言われるほど立派な存在じゃないとは思ったけど、綾乃がお姫様みたいに可愛いのは事実だし、僕の行動が傍目から見てそう見えるということは、少し気恥ずかしかったけど素直に誇らしかった。
綾乃は若干うつむき、耳まで真っ赤にしている。
この駅のホームにいる間はいつも、本物のお姫様のようにお淑やかだ。まるで借りてきた猫のよう。
駅員さんと二つ三つ雑談していると、すぐに電車がきた。この時間の電車はとても空いている。
駅員さんがホームと電車の間に渡し板を置いてくれる。
綾乃と一緒に電車に乗りながら、駅員さんにお礼を言った。
電車のドアが閉まって発車しても、駅員さんはすごくいい笑顔で手を振り続けて見送ってくれた。
あんな笑顔で出来る仕事に、僕も将来就きたいといつも思う。
僕が駅員さんに手を振り返していると、駅員さんが見えなくなったあたりで脇腹を軽くつつかれた。ビクリと体が跳ねる。くすぐりには弱いからやめてほしい。
綾乃の方を見ると、怒ってるような少し泣きそうなような顔で僕を睨んでいた。睨んでるんだから怒っているんだろうけど、なんだか少し違う気がする。
「ああいう人が好みなの?」
「え、いや、どうだろう」
一瞬何の話かわからなかった。駅員さんのことか。好みってのは女性としてってことだろうけど。
「あの子供っぽい動きは好感が持てるよね」
駅員さんは僕らに手を振るとき、これでもかと高く手をあげて振ってくる。
迎えるときも見送るときもだ。社会人としてはどうなんだろう。
たまに先輩か上司みたいな人にお小言を言われてるけど、「他ではやるなよ」と言われてるだけみたいだし、いつもあんな感じなわけじゃないはずだ。
「ふ~ん?」
まだ綾乃が何か聞きたそうな感じで、キョロキョロと視線を動かしている。
「制服を着て働く女性はカッコいいよね」
ファッションに疎い僕としては、スーツ姿の女性より制服姿の女性のほうが、より働いてる感がわかりやすい。
まあ無職でスーツ姿の女性ってのもなかなかいないだろうけど。
「……そう」
それきり綾乃は黙り込んでしまった。
理由はよくわからないが、経験則としてここでしつこく理由を質問すると怒られることだけはわかっている。
でも、一緒に黙り込んでいると、綾乃が声を殺して泣き始めることがたまにあるので、綾乃が黙っていることを気にせずに、僕は話し掛け続けることにしている。
泣き出すことなんて本当に極々稀だけど、そんなことになるくらいなら、無視されてでも話し掛け続けたほうがずっといい。
丸っきり話を聞いてないってわけでもないみたいだし。
綾乃の大好きな猫の話題を出せば効果は抜群なんだけど、そんなにネタも豊富なわけじゃないし温存したい。
僕は目的の駅に着くまでの十数分の間、昨日観たテレビの感想をひたすら話し続けた。
目的の駅に着く。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。いつもありがとうございます」
強面の駅員さんが、手早く渡し板を設置してくれると、丁寧に挨拶をしてくれた。
僕たちをまったく子供扱いしていない折り目正しい挨拶で、されてるこっちが恐縮してしまうくらいだけど、顔には凄く優しい笑顔を浮かべてくれている。
目付きは凄く鋭いんだけどね。駅員さんってより警察官…刑事さんって言ったほうが似合いそう。
駅を出て学校に向かう。
学校までは徒歩で15分ほど。
通学には早くて、部活の朝練に向かうには遅いから、この時間は誰にも会わない。
綾乃はもう普通に話してくれている。
薄板一枚挟んだような、学校用の距離感。
駅を降りたあとはずっとこんな感じで、また帰りに電車に乗るまでは変わらない。
学校にいる間は僕は、完全に他の同級生と同じ扱いを受ける。いや、綾乃とはクラスが違うから、顔を会わせることすら稀だ。
決して僕が悪い扱いを受けているわけじゃない。
綾乃はたくさんの同級生と等しく仲良くして、たくさんの同級生に等しくお世話になり、そして等しくお礼を言っている。
誰か特定の人に頼らず、みんなと仲良くして、綾乃はいつも大勢の友達の輪の中心にいる。
それが僕には堪らなく寂しい。
下駄箱で綾乃と別れると、僕はひとりで廊下を歩いた。
バリアフリー対策が完璧なこの学校では、校舎にエレベーターが設置されているが、教員や特別な事情のある生徒以外は使ってはいけないことになっている。
五体満足な僕は、一段飛ばしで階段を駆け上がった。
・・・・・
笑顔でクラスメートの話に相槌を打ちながら、朝の失態を思い返す。
私はたっくんに…宇田川くんに甘えすぎている。
それにあの横暴な態度。今日のは流石に嫌われたかもしれない。
電車の中でずっと話し掛けてくれたのに、相槌すら返さなかった。
自分が同じことをされたらどう思うだろうか。宇田川くんにいくら話し掛けても無視される自分を想像して、悲しい気持ちになる。
そんな感情は欠片も表に出さず、自分の思い描く完璧な優等生を演じて、私は八方美人に話題に乗る。
周囲には男女問わず数名のクラスメートが私を囲んでいて、みんな年相応の笑顔で談笑している。
演技はもはや苦ではなかった。
自分が生きていくための必須スキルだと割り切ると、自然と気持ちが切り替わり、思い描くような振る舞いが出来た。
同級生たちを騙しているような気になることもなるが、最近は自然に振る舞えるようになったためか、罪悪感を感じることもなくなった。
決して特定のグループに属さず、誰かの悪口は絶対に言わない。みんなで仲良く出来ることに、何を悪いと思うことがあるだろうか。
この学校には私と同じではないが、身体に障害のある子が結構な数いる。
そういう校風だからか、偏見やいじめも特にない。
宇田川くんにまったく会えないことだけが問題だが、宇田川くんの学校生活のためにも、不必要な接触は極力避けるべきだろう。
でも、知らない間に別の女の子と仲良くなってたらどうしよう。
もう中学二年生になり、周囲でもチラホラそういった話題があがっている。
誰かが付き合ったという話は出ないが、誰が誰を好きとかいう話や、あの先輩がカッコいいなんて話は、まったく同じ話題でもほぼ毎日繰り返されている。
宇田川くんだって男の子だし、そういったことに興味もあるだろう。
一年生の後半頃から、急に背が伸びてカッコよくなったから、きっとクラスの女子に注目されているに違いない。
でも、朝は女の駅員さんにデレデレしていたし、年上の女の人が好きなのかな。
あの駅員さんは背が低いけど胸が大きくて、トランジスタグラマーというヤツだ。
制服姿に大きな胸を押し込んで、愛嬌のある動作で笑顔を振り撒くのは、同性から見ても可愛らしいと思う。
「あやちゃん、どうしたの?」
いつの間にか黙ってしまったらしい。
笑顔で「何でもないよ」というと、気を利かせてくれた女の子が、みんなでお手洗いに行くことを提案してくれた。
そういうわけではなかったが、気遣いはとてもありがたかった。
お礼を言うと、女の子ははにかんだ笑顔を返してくれた。
みんなで廊下を移動する間も、女の子同士のお喋りは続く。
誰と誰が手を繋いで歩いているのを見たとか、見なかったとか。
伝聞に伝聞が重なった噂話で、真偽のほどは定かではないが、みんな真相はどうでも良い感じ。
宇田川くんと私が、手を繋ぐ姿を想像する。
車椅子の私は、手を繋いで歩くことはまずないだろう。
だから、手を繋ぐとしたらもっと特別な…
想像して顔が赤くなったのを誤魔化すように、ふと顔を横に向けると、階段の踊り場で宇田川くんが知らない女の子と手を繋いでいた。
・・・・・
休み時間、移動教室から自分の教室に戻るために一人で廊下を歩く。
僕はハッキリ言って、学校に友達らしい友達があまりいない。
別にクラスメートからいじめられてるわけではなく、それなりに会話もするが、一緒に行動する人というものもない。
たぶん僕のほうがおかしいんだと思うが、同級生と話してもあまり面白くない。
お笑い番組より北極海のドキュメンタリー番組のほうが面白いと思うんだけどね。
観てるテレビ番組が違えば会話も弾まないし、向こうも会話が弾む相手と話したいだろう。
階段を一段飛ばしで駆け上がる。
親指を意識すると、階段の昇降だけでも体が鍛えられるらしい。
親指だけを引っかけるように意識して階段を上がっていたら、盛大に足を滑らせた。
ズバンと大きな音が立つが、直ぐにフォローに動かした逆足と咄嗟についた両の掌が床を叩いただけなので、特に怪我はない。
すぐ立ち上がると、僕はまた歩き出した。
「おい、もっとリアクションをしろ。リアクションを」
後ろから頭を叩かれる。教科書の角で叩かれたのか、少し痛い。
振り返ると、右腕が義手の女の子が、ケラケラと快活そうに笑っていた。
「転んどいてノーリアクションすぎるだろ。変なヤツだなー」
「田中さん」
何がツボにハマったのか、クラスメートの田中さんはお腹を押さえて笑っている。
ショートカットなのとその動作が相まって、女子の制服を着てなかったら美少年にも見えるかもしれない。
絶対怒られるから言わないけどね。
もう痛くはないが、頭の叩かれたあたりをさする。
どうやら田中さんの義手の先端で頭を小突かれたようだ。
田中さんの義手は手の形をしていない。
指が二本だけというか、金属製の薄い鉤爪を二つ付けたような形をしている。
ハンガーのフックみたいな形と言ったほうが近いかもしれない。
「リアクションと言っても、怪我もしなかったしね」
「だからってあんな盛大に転んどいて、何フツーに歩き出してんだよ」
僕の返答がさらにツボにハマったのか、田中さんは目尻に涙まで浮かべて笑っている。大爆笑だ。
横を通る生徒達が何事かとこちらをジロジロ見ていくが、話し掛けてくることはなかった。
「だからって、何も叩くことないじゃないか」
「アハハハ、あー悪い。ツッコミを入れずにはいられなくて、ついな」
田中さんは左手でチョップでもするようにして僕に謝りながら、右手の義手をカチャカチャ動かした。
なるほど、ツッコミなら仕方がない。
しかしどうやって動かしているんだろう。凄いカッコいい。
「ねぇ、その義手、少し見せてもらってもいい?」
「えっ!? べ、別にいいけど…」
田中さんは一瞬凄く驚いた声を出したけど、快く義手を見せてくれた。どれ、ちょいと拝見…
「あっ」
僕が義手を掴むと、田中さんは小さな声をあげた。
大事な物だから慎重に扱わないとね。壊したら一大事だし。
義手の先端を摘まむと、何の素材かはわからないけど弾力があってふにふにしているけど、固さもしっかりあるものが使われている。
まさに人間の指みたいだ。
とすると、叩いたのはこの先端部分じゃなくて、手の甲の部分に当たるこっち側かな?
「あうう」
甲の部分というか、フックの湾曲部分は剥き出しの金属みたいになってる。
いや、中に導線が通ってるっぽい感じがあるし、ただ金属だけってわけじゃないか。
「あっ」
おお、前腕部分もなんか柔らかい。どんな不思議物質で出来ているんだろう。科学の進歩は偉大だ。
科学の偉大さに思いを馳せながら、田中さんの義手を撫で擦っていると、田中さんの左手がスカートの裾をぎゅっと握り締めていることに気が付いた。
顔をあげて田中さんを見ると、田中さんは首から耳まで真っ赤にしていた。
顔はもうゆでダコみたいで、目は潤んで荒い息を吐いている。あれ、なんか田中さん泣きそう…?
「こら! 宇田川! こんなところで何をしとる!」
最新の義手は触覚もあるだなんて知らなかった。
田中さんが庇ってくれたけど、公衆の面前で女子の腕を撫で回したということで先生から厳しくお叱りを受けた。
被害者である田中さんが必死にフォローしてくれたから怒られただけで済んだけど、確かにとんでもないことをしてしまった。
田中さんには誠心誠意謝罪をして、どのような処罰も受けると言ったけど、田中さんは「他の子にはこんなことするなよ」と笑って許してくれた。
なんて男らしい人なんだ、田中さん…
本人に言ったら絶対怒られるから言わないけど。
大失態に肩を落としながら、放課後の廊下を歩く。
下駄箱では、綾乃がクラスメートと談笑をしていた。
これは今日は、駅までは女子同士で帰る感じなのかな?
綾乃とはいつも、下駄箱か駅で合流して家に帰っている。
綾乃は友達が多いから、最近は駅で合流するほうが多い。
そんなとき綾乃はこうやって、下駄箱で僕が来るまで友達と雑談している。
そして一瞬だけ僕と視線を合わせると、そのまま女子集団で駅まで向かうのだ。
僕のほうが早く下駄箱に来ることもたまにあるが、待っていればすぐ綾乃は現れた。
置いてきぼりにされたことは一度もない。
この学校は、放課後の校内清掃というものがなかった。
身体的に掃除に参加できない生徒が複数名いるためで、特例免除するくらいなら全生徒無しにしたらしい。
学校教育として良いか悪いかはわからないけど、生徒としては楽だし、変な確執も確かに減るとは思う。
事情があるとはいえ、一部の人だけ楽をしてれば逆恨みも出るし、悪意はなくても些細な軽口が人を傷付けることもある。
僕は靴を履いて、再び綾乃のいる集団が視界に入る位置に移動する。
綾乃の学校生活をむやみに壊さないため、不自然にならないように気をつける。
寂しいけど、僕の感情よりも綾乃の生活が大事。
僕の様子に気付いた綾乃が、一瞬だけ僕の方を見た。なんか今凄く睨まれたような。
綾乃はすぐ余所行きの笑顔に戻ると、女子集団と共に下校をし始めた。
その集団のずっと後ろを歩きながら、綾乃を怒らせた心当たりについて考える。
今日は一日顔も合わせなかったから、怒られるようなことは何も…いや、あった
田中さんの件だ。
あれだけ派手に先生に怒られ、指導室にまで連れていかれたのだから、きっと噂になっているだろう。
あれが綾乃の耳に入れば、女の子に恥をかかせたと怒られることは想像に難くない。
綾乃はいつも、僕のことをデリカシーがないだの女心がわかってないだの鈍感だのと怒ってくる。
自覚があるから反論できないし、改善しようにもやり方がわからないから、とりあえず怒られワードだけは言わないように気を付けている。
女の子に男らしいって言っちゃいけないんだよね。
キャタピラーで足を踏まれたときは折れたかと思った。
しかし不用意に謝ることも危険だ。
怒っている内容と違ったとき、もっと怒られる。場合によっては泣かれる。
泣かれるのは辛い。本当に辛い。
普段ズケズケ物を言う綾乃に声を殺して泣かれると、自己嫌悪と罪悪感で死にたくなる。
綾乃は泣くとき、大声を出して泣いたりは絶対しない。
罵ってくれたり、暴れて殴ってくれたりすればこっちとしても気が楽になるのに、本当に何も言ってこない。
それでしばらくして泣き止むと、小さな声で「ごめんね」って言ってくるんだ。
悪いのは僕なのに。
それで僕も一生懸命謝って、いろんな支離滅裂なことを言ってると、いつの間にか綾乃も笑ってて、普段通りに接してくれるようになる。
いつも綾乃に許してもらっている。
僕は綾乃の寛大さに甘えているんだろう。
親しき仲にも礼儀ありというし、幼馴染みという関係に甘えて、相手に対する思いやりを無くしてはならないと思う。
しかし、さしあたってどうしようか。
とりあえず様子見、と消極的な決定を決めたころ、僕は駅についた。
綾乃はすでに友達と別れて、駅員さんに渡し板のお願いをしている。
駅員さんは朝のお兄さんとは違う人だったけど、凄く自然な感じで綾乃をエスコートしている。そうか、あれがデリカシーか。
大人の対応に感心して、参考にしようと見ていると、綾乃と駅員さんの乗ったエレベーターが上に行ってしまった。
慌てて階段を駆け上がる。親指を引っ掛けるだけじゃなくて、指の付け根まで乗るように意識する。
これで転ばないはずだ。
階段を上がると、綾乃はすぐに見つかった。でも、なんだか声を掛けづらい。
駅員さんの前で怒られるのは嫌だなぁ。
そんなことで二の足を踏んでいると、またエレベーターは行ってしまった。
駅のホームへ駆け降りる。
綾乃はまだ駅員さんと談笑していた。
今日対応してくれている駅員さんは爽やかイケメンって感じで、話をしている綾乃も心なしかいつもより楽しそう。
あれは学校用の顔じゃないような気がする。
朝の駅員さんは無口な人で、とても丁寧に対応してくれるけど、電車待ちしていると間が持たなくて、たまに綾乃は助けを求めるように僕を見てくることがある。
そんなとき僕は学校であった馬鹿話なんかをするんだけど、今の綾乃はそんな様子もなく会話を続けている。
それで結局、声をかけるタイミングが掴めなくて2つ隣の車両から電車に乗った。
こんなことは初めてだった。
電車の中を移動して、綾乃のいる最後尾車両に向かう。
最後尾車両の一番奥に綾乃はいた。
車窓から流れる景色を見ていた。夕日に照らされた横顔はとても綺麗だった。
綾乃の横に立つ。
綾乃はこちらを振り向きもせず、ずっと外の景色を見てる。
何か話さなくちゃ。でもこの横顔をずっと見ていたい。
お人形さんみたいに整っているのに、強い意思を持つことが一目で見てとれる凛々しい顔。
綾乃は同年代の子よりずっと大人びている。
綾乃のきゅっと締まった桜色の小さな唇が、震えるように微かに動いた。
「なんでこっちに来なかったの」
電車の音で掻き消されそうなほど小さな声なのに、綾乃の澄んだ声は僕の耳にハッキリ届いた。
「いや、トイレ寄ってたらギリギリになっちゃって…」
「嘘」
咄嗟に嘘をついてしまったが、すぐに見破られてしまった。
僕のことに気付いてたのか。そんな様子は感じられなかったけど。
ヤバい。嘘をついたときは正直に全部話した方が、結果的に被害が少ない。
僕はさっきまで自分が考えていたことを、洗いざらい話すことに決めた。
「綾乃がイケメンの駅員さんと楽しそうに喋ってたから、あの駅員さんの前で綾乃に怒られるのは嫌だなぁと思って声をかけられませんでした」
言いながら頭を下げる。他に言い忘れてることはないよね?
「…何か怒られるようなことしたの?」
そうですね、それがありましたよね。
悪いことしたら包み隠さず自己申告。これが一番大事。
「学校で女の子に恥をかかせました」
頭を下げたまま言う。
少なくない数の乗客が電車に乗っていて、こっちをジロジロ見ているのを感じるけど、そんなことは問題じゃない。
誠意ある謝罪はどんな状況でも形を変えてはいけないんだ。
「どんなことをしたの?」
綾乃がこっちを向く。
綾乃は車椅子の座席を高さを調整して、頭を下げた僕を下から覗き込める位置を取った。
夕日のせいではなく、綾乃の目が赤い。泣きそうな雰囲気だが、表情にはそんな気配は欠片も滲んでいない。
その凛とした顔から目を反らさず、瞳を見つめ返して正直に言う。
「公衆の面前で女の子の義手を触ってしまいました」
「…なんで?」
なんで? なんでだっけ…田中さんが話し掛けてきてくれて、凄くフレンドリーに話し掛けてくれるから、今お願いしたら義手を見せてくれるかなと思って。
「義手がカッコよかったから」
「…その女の子とはどんな関係なの?」
「ただのクラスメートだけど」
そうだよ、ただのクラスメートの女の子に、身に付けているものを触らせてくれだなんて、僕はなんてとんでもないことを口走ったんだ。
「その子とはよく話すの?」
「いや全然。たまに向こうから話し掛けてくるくらいで」
綾乃の眉がピクリと動いた。
眉間に皺が寄っている。
しかし田中さんがあんまりにもフレンドリーに話し掛けてくれるから、全然気にしたことがなかったけど、僕から話し掛けたことは一度もない気がする。
挨拶くらいは当然するけど…友達らしい友達のいない僕に気を使ってくれてるのかな?
「………髪は短い方が好き?」
「長い髪が好きです」
「そ、そう…」
そこだけは譲れないから、食い気味に即答する。
返答に力が入ってしまい、僕が身を乗り出したせいか、綾乃は少し仰け反りながら視線をさ迷わせている。
まだ綾乃が僕に髪をとかさせてくれていたころ、綾乃の綺麗な黒髪をとかしながら女性の長い髪がいかに魅力的かを語ったら、思い切りビンタを…正確には遠心力と体重の乗ったラリアットを食らったことがある。
しかし今さら何を言うんだろう。
僕の女性の髪の毛に対する情熱と、綾乃に怒られてることは関係あるんだろうか。
「他にクラスでよく話をする女の子はいる?」
「いないけど」
「けど、何?」
「そもそもよく話をする男子もいないんです」
「あ、そう」
軽っ。
綾乃は興味なさそうに再び窓の外を見始めた。
なんだか機嫌が良さそうだ。
お説教も終わりっぽい雰囲気。
僕は変な姿勢になってた体を起こすと、綾乃と並んで窓の外を見た。
夕日に染まって、赤く照らされた建物が流れていく。
「やっほー、ナイトくん、綾乃ちゃん! 今日もお似合いだね!」
家の近所の駅に着くと、いつもの女性駅員さんが手を振って出迎えてくれた。やっほーって…
「いつもありがとうございます」
お礼を言いながら電車を降りる。
駅員さんは綾乃の後ろについて車椅子を押しながら、なにやら小声で綾乃に話し掛けている。
綾乃が「違います!」とか「そんなんじゃないです!」と顔を真っ赤にしながら返事をしているが、内容はまったくわからなかった。
改札口から出るとき、相変わらず手を振ってくれていた駅員さんは、上司だか先輩みたいな人に首根っこを掴まれて事務所へ連れていかれていた。
怒られるのかな。大人の事情はよくわからないけど、その人は良い人なんでほどほどにしてあげてください。
ほどなくして家につく。
帰り道は、早朝ランニング中に見掛けた猫の親子の話をした。とっておきを使っただけあって、綾乃は終始ご機嫌だった。やはり猫の話題は偉大だ。
「ねえ、うちに寄ってかない?」
玄関先で別れようとしたところで、綾乃に声をかけられた。
綾乃の家に入るなんて何週間ぶりだろうか。
「いいの?」
「…今日は特別だからね」
今日は特別らしい。特別な許可を貰えるような何かってあったかな?
しかし理由が不明でも、なんで特別かは聞いちゃいけない。聞くと顔を真っ赤にして怒られるんだ。デリカシーがないらしい。
経験則に従い、僕は黙って綾乃のあとに続いて玄関をくぐった。
「リビングで待ってて」
綾乃の家に入ると、あゆみさんは留守だった。
専業主婦でいつも家にいるイメージがあったけど、買い物に行ってるのかな。
リビングのクッションのひとつに座る。
勝手知ったる他人の家というか、このクッションは僕用に用意されたものだった。
このリビングにはソファはない。
代わりに手触りの良い絨毯と、大小様々なクッションが置かれている。
特に変わりのない、見慣れたリビング。
「お待たせ」
綾乃がリビングに入ってくる。
綾乃は制服姿ではなく、フリルの多目についた可愛らしい服に着替えている。
あれ? 自分で着替えたんだ。
綾乃が一人で着替える大変さを知っている僕としては、言ってくれれば手伝ったのにと思う。
僕が黙って綾乃を見ていると、綾乃は車椅子の座席を一番下まで下げた。
「降ろして」
綾乃が両腕を突き出してそう言うので、僕は条件反射で綾乃を抱き上げると、綾乃専用のクッションの上に優しく降ろした。
んんん? これも禁止されたはず。
いや、正確には禁止じゃなくて、綾乃が言わない限りは手を出すなって言われただけか。
じゃあ綾乃のお願いがあったから、別にいいのか。
しかし手出し禁止と言われてからは、僕が綾乃に触れるようなことは一度もなかった。
自分のクッションに戻ってから、急にドキドキしてくる。
手に残った綾乃の柔らかい感触。触った手がなんだか熱い。
こんな風に感じたことは、いままで一度もなかったのに。
綾乃を抱き上げるなんて日常茶飯事だったのに。
でも思い出してみると、中学生にあがる前くらいから綾乃には触れてなかった気がする。
いや触れるってなんだ。急に自分が、ひどくいやらしい考えをしている気がしてきた。
「こっちきて」
綾乃に呼ばれて、クッションごと綾乃の隣に移動する。
顔が熱い。きっと僕の顔は真っ赤になっているだろう。心臓の音が耳の奥で響いてる。
綾乃と二人っきりになっただけで、こんなに緊張したのは初めてだ。
僕の座った位置がまだ遠いと思ったのか、綾乃が跳ねるようにして、器用にクッションごと僕に近付いてくる。
一生懸命な動きが可愛いなと思ってると、綾乃はそのまま体当たりするように僕の横に寄り掛かってきた。
女の子の良い匂いがする。
しまった。今日は何かというと階段を駆け上がったり駆け下りたりしたから、結構汗をかいている。
今の僕は相当に男臭いはずだ。
綾乃の匂いと熱と柔らかさを感じながらも、自分が臭くて綾乃に嫌がられるんじゃないかと気が気じゃない。
「ねぇ、女の子に興味ある?」
綾乃は僕の制服に顔を埋めるようにして顔を隠しながら、ものすごく可愛い声で囁いた。
僕の体が、電流が流れたかのようにびくりと跳ねる。
「も、もちろん!」
僕は正直に答えた。というか、なんの考えもなく口から本能が駄々漏れした感じだった。
綾乃が両腕で僕を挟むようにして抱き着いてくる。こんなに甘えてくる綾乃はもう何年も見ていなかった。
「胸は大きいほうが好き?」
「……いえ、グフッ」
正直な反応を堪えたのに、何故か綾乃は僕のお腹を叩いてきた。
綺麗に鳩尾に入った。横隔膜を下から突き上げるように叩かないでください。女の子の腕力とはいえ、地味に痛い。
「手」
綾乃が腕をふりふりしながら言うので、僕は綾乃の腕の先を握った。
白くて柔らかい、女の子の細い腕。
筋肉なんてほとんどないせいか、二の腕なのに僕の手でもすっぽり覆えてしまう。
言われるままに触っちゃったけど、別にいいんだよね。こうしろって意味で間違ってないですよね綾乃さん。
「どう?」
「凄く…ドキドキします…」
いやそうじゃないだろ僕。何を口走ってるんだ。
もっとこう、別のことを言うべきだったんじゃないのか。
「知ってる。たっくんの心臓、すごいドキドキいってるもん」
恥ずかしい!
そりゃ脇の下に顔をくっつけてるんだからわかるよね。
そう言われて、心臓を静めようと息を止めてみる。
いやいや、深呼吸した方がいいのかな?
でも、綾乃の匂いを嗅いでると思われたらどうしよう。
そういえば名前を呼ばれたのも久しぶりな気がする。
いつも二人でいるから、特にお互い名前で呼ばないせいなんだろうけど、普段と雰囲気の違う綾乃に呼ばれると、なんだか余計にドキドキしてきてしまっ
た。
心臓を静めることなんて出来そうもない。自分で鷲掴みにして止めてしまいたい…
「私でドキドキしてるの?」
「いや…よくわかんない…」
正直な気持ちだった。
綾乃と二人っきりになって、こんな気持ちになったのは初めてだし。
そもそも、なんでこんなことになってるのかよくわからない。
頭の中はぐるぐる回って、状況判断がまったく追い付いていない。
「…私じゃダメ?」
綾乃が僕の正面に跨がるように座ってくる。
落ちないようにか、両腕両足を使って僕の胴体を挟み込んでいる。
柔らかくて、熱い。
綾乃に押されるようにして若干仰け反りながら、僕は後ろに両腕を突っ張って踏ん張る。
うおおなんだなんだどうしたんだいったい。
ふと綾乃の顔を見ると、伏せられた前髪の隙間から、涙が頬を伝うのが見えた。
バネ仕掛けのおもちゃのように勢いよく、でも綾乃を落とさないように、綾乃の両腕を脇に挟みながら両手で綾乃の頬を包むようにして顔を上げさせる。
綾乃は目を丸くして驚いていた。
「どうしたの?」
至近距離で綾乃の目を見つめながら問う。
綾乃が視線を逸らそうとするけど、頬をしっかり包んだ手で頭を固定することで、そんなことは許さないと伝える。
「たっくんに…いつも迷惑ばかり…かけてるから……」
見つめている綾乃の綺麗な瞳から、涙がどんどん溢れていく。
「迷惑なんて無い」
僕は強い口調で言う。
なんだか腹が立って、思わず少し声が大きくなってしまい、綾乃がびくりと体を震わせた。
「な、何か返そうと、思って…でも、私なんかじゃ、嫌だよね…」
「そういうことじゃない」
体を離して逃げようとする綾乃の腰を片手でしっかりと抱き締め、ポケットからハンカチを取り出す。
毎日母親から持たされてる、普段使いはしてはいけないと言われている、清潔なハンカチ。
毎日二枚ハンカチを持たされる意味がわかった気がする。
綾乃の涙をそれで拭いてあげる。傷付けることのないように、精一杯優しく。
「迷惑なことなんてないんだよ」
それだけは間違えることなく伝えたかった。
「僕は望んで、綾乃の傍にいる」
綾乃が大きく目を見開いた。綺麗な瞳がこぼれ落ちそう。
「むしろ、僕の方が迷惑かもしれないけど…」
自信が無くなる。
綾乃は一人でも大丈夫な立派な子で、自分が付きまとっている自覚はある。
何も見返りなんて望んでいない。
ただ少しでも、彼女の手足として在ることを認めて欲しかった。
「でも、綾乃さえ…あやちゃんさえ良ければ、ずっと一緒にいさせてほしい」
僕の正直な気持ち。嘘偽りのない気持ち。
この美しい少女の傍にいたい。
力強い凛とした輝きをずっと近くで見ていたい。
いつか、彼女に相応しいパートナーが現れるそのときまでは、一番近くで。
「たっくん…」
僕の両手に包まれていた綾乃が、震える瞳をそっと閉じた。
唇が何かを待つように、きゅっと結ばれる。
さっきまで収まっていた心臓がまた激しく脈打ち始める。
下火になっていた下心が急に頭をもたげてくる。
硬くなった僕の体の一部が、綾乃のお尻を突き上げた。き、気付かれたかな…
綾乃が身体をよじった。でも、何が当たっているかは気付いてない様子。
綾乃の顔を見詰める。
目尻には涙の粒が光り、染みひとつない顔は桜色に色づいている。
これは…いいのかな……僕の気持ちに応えてくれてるってことなのかな…いやでも、さっきの自暴自棄みたいな態度の延長じゃあ……いやいや違う違う、だからそもそも僕はそんなことのためにやってるわけじゃ…
再びぐるぐる回り始めた思考の中で、それでも僕の顔はゆっくりと綾乃に吸い寄せられていく。
自然と息が止まる。
綾乃も息を飲んだのがわかった。
「ただいま~。あ、たっくん来てるんだ~、いらっしゃ~い」
玄関が開く音と同時に、のんびりほんわかした声がリビングまで響く。
僕は綾乃の脇を掴むと即座に持ち上げ、僕の上からどかしてクッションに素早くも優しくおろす。
自分用のクッションをひっ掴むと、跳ねるように綾乃から距離を取って座った。
綾乃は何が起こったのか思考がついていかないのか、目を白黒させてキョトンとしている。
「は~い、ただいま~。たっくん今日はご飯食べてきなさいよ~」
あゆみさんがリビングに入ってくる。
「おかえりなさい」とか「お邪魔してます」とか言いたかったが、緊張のせいか喉がカラカラに張り付いて「お、おぉ…」と変な声しか出なかった。
あゆみさんはいつもと変わらぬ優しい笑顔で、リビングを見渡した。
怖い。自分がとんでもなく悪いことをしていたようで、さらにそれを全て見透かされたようで凄く怖い。
綾乃の顔も、あゆみさんの顔も見れず、視線が下を向く。
いや、可愛い愛娘に手を出そうとしたんだ、これは僕が悪い。素直に謝るしかない。
僕が意を決してあゆみさんの顔を見ると、あゆみさんは今まで見たことがない顔で笑っていた。
いや、見たことあるな。綾乃がたまにこんな感じで笑っていることがある。
笑顔になるのを無理に堪えているような、唇が歪んだニマニマした笑み。
あゆみさんのそんな表情を見るのは初めてだけど、親子だけあってその顔は綾乃に非常によく似ていた。
「…たっくん、今日は泊まっていきなさい」
あゆみさんはそう言うと、リビングから出ていった。
廊下からあゆみさんの黄色い歓喜の悲鳴が聞こえる。
「お母さん!」
綾乃の大声に驚いて、僕は飛び上がった。
綾乃が何かを叫びながら、リビング入り口に置いてあった車椅子に器用に乗り込んだ。
綾乃がリビングから出ていく。
廊下からは相変わらず姦しい声が響いている。
その日僕は、数年ぶりに綾乃のうちにお泊まりした。