たっくんの腕に抱かれながら目を閉じていると、私を抱き締めているたっくんの腕からふっと力が抜け落ちた。
ゆっくりと目を開けると、目の前には大好きな人の穏やかな寝顔があった。
たっくんの寝付きの良さと、眠りの深さは異常だと思う。
思春期真っ只中の男子中学生が、体を好きにしていいとまで断言した想い人と1つベッドの中に入って、何もせずにこうも眠れるものなのだろうか。
たっくんの想いをちゃんと言葉として聞いても、こういう現状を見せられると、やはり長い付き合いのある幼馴染み…兄妹のような存在としての好きなんじゃないかと私の弱い部分が邪推を始める。
お母さんの言葉を思い出す。
そのままの私で一歩踏み出すこと。
一歩踏み出したら私は突っ走ってしまうだろうから、その後は全てたっくんの意思を尊重すること。
お母さんは、この展開をわかりきっていたのだろう。
いや、お母さんだけではなく、お父さんも、たっくんのご両親も。
お母さんは「たっくんのご両親にも話はつけてある」と言っていた。
お父さんが特に抗議もせずに旅行に行ったのは、全てこうなる前提で話がつけてあったからだとわかる。
たっくんは我慢した。
年相応の激しい情動を抑えて、私のことを想ってくれた。
私が逆の立場だったら、絶対に我慢なんてできなかったと思う。
現に今も、たっくんの体を弄り倒したくてたまらなくなっている。
たっくんの優しさは嬉しかったけど、お預けさせられる辛さをたっくんにも知ってもらいたくてイジワルをした。
でも、自分も我慢するはめになるわけだから、いまさらながらに諸刃の剣だったと痛感する。
太ももに挟んでいたたっくんのモノを、ぎゅっと締め付ける。
熱い脈動が強くなり、たっくんはそれに呼応するように私をぎゅっと抱き締めた。
たっくんは無意識に私に向けて腰を突き出し、さらなる刺激を求めてきた。
私は挟んでいたたっくんのモノを解放した。
ここで一時の欲望に任せてはいけない。
代わりに私は、ついばむようなキスでたっくんの唇を堪能した。
柔らかくて、温かい。
たっくんの下唇を唇で挟みこんで、舌先で柔らかさを味わうように舐めてみたら、たっくんはむずがるように頭を反らして逃げた。
眠ったまま、私の唾液で濡れた下唇を舐めとったたっくんの顔が堪らなく愛しくて、たっくんの頬や顎に私はいっぱいキスをした。
今はこれで満足しよう。
たっくんの気持はもちろん尊重するが、それをたっくん自身が覆すならなんの問題もないだろう。
幸せすぎてピンク色に染まった脳ミソで、私は欲望に塗れた妄想をする。
我慢させて、焦らして、いつかたっくんから襲わせてやる。
・・・・・
胸元が妙にくすぐったくて、僕は目を覚ました。
カーテンの隙間から差す光からして、まだ朝日が出てそんなに時間は経ってないようだ。
平日ならいつも通りの起床時間だけど、昨日遅くまで起きてた土曜の朝にしてはだいぶ早起きしてしまった。
くすぐったさの正体を探ろうと視線を下げると、僕の胸元で何かがもぞもぞと動いていた。
僕の寝間着は胸元までたくし上げられている。
何が起こっているのか疑問に思った瞬間、僕の乳首が熱い何かに包まれ、吸われ、ぬめる柔らかい物に撫でまわされた。
「ひゃっ」
くすぐったさと、それを上回る未知の感触に思わず変な声が出た。
僕が慌てて布団を捲って中を見ると、そこには綾乃のつむじがあった。
そっか、そういえば綾乃と一緒の布団で寝たんだっけ。
綾乃と1つの布団で寝るなんて何年ぶ…
「あうぅ」
僕が混乱した頭で懐かしい思い出に浸っていると、僕の乳首が甘噛みされて思考が中断される。
くすぐったいようなほんの少し痛いような未知の感覚に、僕は反射的に綾乃の頭を両手で掴んで突き放した。
強めに吸い付かれた瞬間だったので、チュポンッと面白い音が鳴ってしまった。
「ふあ…? あうぅ…ぅ?」
綾乃が起きてるのか寝てるのかわからない虚ろな目で、僕の胸元を凝視しながら両手をパタパタと動かす。
腕の動かし方から、たぶん僕に抱き着こうとしているんだろうけど、ちょっとそれは承服しかねますよ綾乃さん。寝てる人間に何してるんですか…
「お、おはよう」
おそるおそる、僕は綾乃に声をかけた。
僕の声に反応して、綾乃がゆっくりと顔をあげる。
綾乃の目はとろんと緩みきっていて、若干充血しているようだった。
寝惚けているというよりは、寝不足プラス疲労の限界って感じだった。
目の下にクマが出来てるし、もしかして寝てない?
「う、だっこ」
綾乃が満面の笑みでそう言うので、その余りの可愛らしさに思考が飛んだ僕は無意識に綾乃をぎゅうっと抱き締めた。
少し痛いくらいの力で、綾乃が全身を使って僕にしがみついてきたが、それもすぐに脱力する。
どうやら寝入ってしまったようだった。
温かい綾乃の体を抱き締めていたら、僕にも急激に眠気が襲ってきた。
先程のことはとりあえず置いておいて、まだ時間も早いことだし、僕は眠気に逆らわずに二度寝することにした。
「綾乃ちゃん、そろそろ起きましょうか」
母の声が聞こえると同時に、僕の腕の中から温かな存在が取り上げられた。
僕が目を擦りながらベッドの上で身を起こすと、ちょうど綾乃を抱きかかえた母が部屋から出ていくところだった。
「一緒にお風呂に入ってさっぱりしましょうね」
ちらりと見えた綾乃の顔はまだ完全に寝ているようだったが、母にとって綾乃の意思は関係ないようだ。
ドアが閉まると同時に、僕はベッドから降りた。
我が家に鍵がかかるドアは一つもない。
別に見られて困るようなやましいこともないけど、もう僕も中学二年生なんだし、許可がない限りは部屋に入らないとかそういう気遣いがあってもいい気がする。
たぶんいくらノックしても声を掛けても、僕が起きなかったから母は入ってきたんだろうけど。
伸びをしながら時計を見ると、時刻は午前11時ちょうどだった。
休みの日とはいえ、こんなにゆっくり寝たのは初めてのことだった。
そもそも僕はいつも午後10時くらいには寝るし、休みの日でも朝は七時には目が冴えてしまうからだ。
昨日寝るのが遅かったことと、昨日一日で色々あった心労が影響しているんだろう。
僕は寝間着から着替えようとして、ふと自分の体に変な痕がついていることに気付いた。
僕の胸からお腹にかけて、いたるところに何か赤い痕がついている。
虫さされかと思ったけど、別に痛くも痒くもなかった。
なにこれ怖い。
着替えを終えて階段を下りると、お風呂場からはシャワーの音が聞こえてきた。
母と綾乃がお風呂に入っているんだろう。
僕がリビングに入ると、父が座って新聞を読んでいた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
父は新聞に目を落としたまま挨拶を返してきたが、別に新聞記事を読むことに熱中しているわけではなさそうだった。
父の顔は普段通りのしかめっ面なのだが、どことなくそわそわしていて、新聞記事のことなど目に入っていないようだ。
リビングのテーブルの上には食器類が並べられているが、料理はまだなかった。
時間が時間なので、これはお昼ご飯の準備なのだろう。
顔を洗ったりしたかったけど、今は母と綾乃がお風呂に入っているので洗面所が使えない。
僕は絨毯の上に座ってテレビをつけると、綾乃達がお風呂から出てくるのを待つことにした。
朝食兼昼食を食べたあと、僕と綾乃は両親に連れられて近場の大型ショッピングモールに連れてこられた。
正確には僕の両親が綾乃とお出掛けをしたがり、家に一人残されてもやることのない僕がそれについてきたのだ。
今回のお出掛けを母が提案した際、母に僕はどうするか聞かれたけど、今思うとあれは僕がついてこなくてもかまわないという意味でもあったのか。
いくら綾乃が遊びに来てテンションが上がっているとはいえ、そこは息子も連れて行く前提でいようよ。
現在は父が綾乃の車椅子を押し、母は綾乃の隣にべったりと付きっきりで話しかけている。
僕はその数歩後ろをついて行っているんだけど、完全にお邪魔虫状態だった。
綾乃の髪の毛はいつもの編みこんだお団子頭ではなく、ツインテールになっていた。
母が様々な髪形を試した結果ああなったが、綾乃が普段より若干幼く見えてなかなか可愛かった。
とはいえ、今はその綾乃の姿も、大きな父の体に隠れてまったく見えない。
聞こえてくる話声はとても弾んでいて、なんだか僕は面白くなかった。
「ねえ、ちょっとゲームセンター行ってくるよ」
僕は父の肩を軽く叩くと、父だけに聞こえる程度の声でそう言った。
何故か少し、不貞腐れたような声が出てしまった。もやもやする。
父は肩越しに僕を見て軽く頷くと、ポケットから何かを取りだして僕に手渡した。
見ると、半分に折りたたまれた3枚の千円札だった。
用意が良すぎませんか父上。最初っから厄介払いするつもりだったでしょこれ。
「すぐ連絡がつくようにはしておけよ」
父はほとんど口を動かさずにぼそりとそう言うと、すぐに前を向いてしまった。
僕は手渡された三千円を握り締めると、ポケットに仕舞ってから踵を返して歩き出した。
ゲームセンターの方に足を向けながらも、僕は別にゲームセンターで遊びたいという気持ちは欠片もなかった。
なんとなくあの場にいたくなかっただけだったので、僕はまっすぐゲームセンターには向かわず、ぶらぶらとあっちこっちの店を眺めながら歩いた。
三千円という大金をポンと渡されて、普段なら大喜びするところだったが、何故か僕の気持は晴れなかった。
お腹の中に何かわだかまっているような、微かな薄暗い感情が滞っている。
理由はわからない。けど、覚えのある感覚だった。
学校内で友達と楽しそうに喋る綾乃を見掛けたとき、僕はよくこんな気持ちになった。
人が楽しそうにしているのを見てこんな気持ちになるだなんて、僕はなんて嫌な人間なんだろうか。
この感情は、いつも何か別のことをして気を紛らわせばすぐ消えていた。
ならやはり、ゲームセンターに行けば気は晴れるだろう。
解決策はわかっているのに、相変わらず気が進まなくてゆっくり歩いていると、後ろから誰かにトントンと肩を叩かれた。
振り返ろうとしたら、僕のほっぺたにグイっとその誰かの指が刺さった。
「お、やっぱり宇田川じゃん」
そこには、とっても嬉しそうな顔をした田中さんがいた。
「こんにちは」
僕は定番のイタズラに嵌ったのが面白くなくて、田中さんの指をそのままに挨拶をした。
やっぱりって、田中さんは確信もなくこんなことをしたのか。人違いだったらどうする気だったんだろう。
「はいこんにちは。こんなとこで会うなんて、珍しいね」
僕が意地になっていることに気付いたのか、田中さんも僕の肩に手を置いて指を頬に突きさしたまま話しかけてくる。そんな体勢だから、広いショッピングモールの通路内にしては、僕らの距離は非常に近かった。
いや近い近い近い。田中さんの胸が当たりそう。
僕達は周りの人が通りすがりに目を向ける程度には注目を浴びていた。
「ああ、うん。確かにあんまり来ないね僕は」
このショッピングモールは、僕の家から車で少し走ったところにある。
自転車で来るには少し遠いし、そもそも僕が買いたいと思うようなものはここに来なくても駅前で買えた。だから僕がここにいるのは、確かにかなり珍しいことだ。
でも、そもそも僕は外で田中さんと会ったことが一度もなかった。
田中さんがどこから通学しているかは知らないけど、駅は利用していなかったはずだから、行動範囲が被らないのは当然だろう。
それを考えると、こんな広いショッピングモール内で田中さんに会えたことは、かなり凄い確率の偶然なんじゃないかと思えた。
「田中、さんは、よ、くここに来、るの?」
田中さんが押しあてた指を押し込んだり回したりするせいで、僕が喋るのが邪魔される。
田中さんはそれを見て、さらに楽しそうに笑顔を輝かせた。
なんだか凄く上機嫌に見える。
「うん、週末はよく来てるかな。他に遊ぶところもないしね、この辺」
そう言いながら田中さんが義手で僕の鼻を摘まもうとしたので、僕は意地を張るのをやめて田中さんから離れた。
田中さんが露骨に頬を膨らませて残念そうな顔をする。
でもほんのり頬を赤くした田中さんは、相変わらず上機嫌なままのようだった。
田中さんはラフなようで、それでいておしゃれな格好をしていた。
ジーパンにキャップ帽を被って、パッと見は美少年のようだけど、女の子らしい肩掛けポーチの紐が大きな胸の谷間にぴったり食い込み、見間違えようもなく女の子であることを主張していた。
その衝撃的な光景に、僕の股間がズボンの中で変な向きに膨らんでしまい、痛みを訴え出してしまった。
公衆の面前で何を考えてるんだ僕は。
「で、宇田川は? 一人で買い物?」
田中さんは僕の横に移動しながら、周りをキョロキョロと見渡した。
僕の腕と田中さんの腕が微かに触れあう距離。
学校の外で知り合いに会うなんて初めての経験だけど、この距離は少しおかしい気がする。田中さんから良い匂いが漂ってきて、僕はなんだかドキドキしてきてしまった。
「いや、親の付き添いできたんだけど、暇だからゲームセンターにでも行こうかなと思って」
通り過ぎていく人の視線が、微笑ましいものを見るかのような目と、何故か猛烈に憎々しげな目の二つに分かれ始めた。
何か激しく誤解されている気がする。
「じゃあさ、一緒に行かない? 私も一人で来てるから暇なんだ!」
田中さんがそういいながら、僕の腕を取って引っ張る。
女の子の柔らかな手の感触に僕の心臓が大きく跳ねる。
驚いた僕は、勢いよく田中さんの方を向いた。
田中さんはその笑顔の中に凄く真剣な、そして覚悟を決めた様な辛そうな目をしていた。
慌てて逃げそうになった腕を、僕はぐっと堪えた。
今ここで田中さんの手を振り払ったら、田中さんを物凄く傷付ける気がした。
「あ~…そうだね、僕も暇だし」
僕がそう言うと、田中さんは花が咲いたかのようにパッと顔を輝かせた。
「ホント!?」
田中さんが僕の腕に抱きつく。
柔らかな胸の谷間に、僕の腕が完全に包まれてしまった。
僕の股間は、傍から見て一目でわかるほど膨らんでいるに違いなかった。
確かに最近は、学校での僕と田中さんの距離感もかなり近付いている気はするけど、今日のこれはいつもと明らかに雰囲気が違う気がした。
心臓がうるさいくらい高鳴って、僕の顔が熱くなる。きっと僕の顔は真っ赤になっていることだろう。
「それじゃ行こっか。私、音ゲーとか結構得意なんだよね」
当惑している僕を意図的に無視するかのように、田中さんは僕と腕を組んだまま、僕を引きずるようにして歩き始めた。
自分で言うだけあって、田中さんは音楽ゲームが凄く上手だった。
流石に五指を主に使うようなゲームはやらないけど、対戦した僕は全戦全敗だった。
そもそも僕、音ゲーってやったことないんだよね。けして負けた言い訳をするわけじゃないけどさ。
主にやるのはガンシューティングなんだよ。ホントだよ。
それから、田中さんがゲームをプレイするとギャラリーが凄かった。
田中さんの容姿に惹かれて集まっているっていうのもあるんだろうけど、田中さんはゲームのスコアも凄かったし、純粋なプレイヤーとしても一目置かれているような感じだった。
僕の手には、田中さんから預かったポーチがあった。
僕はずいぶん前から、田中さんとの勝負を諦めてギャラリーの一人に交じっていた。
足でパネルを踏むタイプの音ゲーで、田中さんが最高点を更新した。
僕が拍手しようとする前に、ギャラリーから結構大きな拍手があがってびっくりする。
けして少なくない人数が足を止めて、田中さんの華麗なステップを見ていたようだ。
胸を注視していた人がほとんどかもしれないけど、僕も人のことはあまり言えなかった。
でもそれ以上に、学校では見たことがない、田中さんの生き生きとした楽しそうな表情に僕は見蕩れていた。
「やったっ、自己新記録っ!」
田中さんが息を弾ませながら、両手を広げて僕の胸に飛び込んでくる。
僕は咄嗟に両手を突き出して、田中さんとの衝突を防いだ。
田中さんのテンションが上がりすぎて、公衆の面前でとんだハプニングが起こるところだった。
「凄いね。凄く格好良かったよ」
何故か少し残念そうに、拗ねた顔をしている田中さんに、僕は素直な感想を伝えた。
拗ねていたはずの田中さんの表情が、またすぐにぱっと輝く。
田中さんの肩に置いていた僕の手に、田中さんの左手がそっと添えられる。
その、とても大切な物に触れるような手付きと、熱の籠った艶っぽい視線に、僕の心臓がドクンと跳ねる。
運動をして紅潮した田中さんの顔は、どこから見ても女の子のものだった。
「ありがと」
田中さんは短くそう答えると、肩に添えられた僕の手を優しく撫でた。
ギャラリーの視線が痛い。
小声で「死ね」とか「爆発しろ」とか聞こえてくる。
僕は危険な臭いが漂い出したその場の雰囲気を変えるため、慌てて話題を探した。
「あ、あの曲っ、知ってるんだ。僕も好きなんだよね」
先程田中さんがプレイしていた曲は、綾乃がタブレットで良く聞いている曲だった。
曲名は知らないけど、僕は速いのテンポの激しい曲調が気に入っていた。
「本当っ!? 私も好きなんだあの曲。オタク系の曲だけど、結構激しいからバレないと思ってたんだけどな~、なんだ知ってたのか~」
田中さんは、先程とはまた違った雰囲気で明るく笑った。
同好の士を見つけたというような、はにかみながらも嬉しそうな笑顔だった。
さっきまでの田中さんより、こっちの田中さんのほうがずっと安心できるし、普段の田中さんに近い気がした。
「他にはどんなのが好きなの? 一番好きなのやってあげよっか?」
田中さんが凄い目を輝かせて、鼻息荒く僕に詰め寄ってくる。
でも、田中さんの中には艶っぽい輝きはなく、遊ぶのが楽しくて仕方がないというような、子供みたいな純粋な喜びがあった。
だから僕は、特に緊張せずに田中さんの質問に答えることができた。
さっきの雰囲気より、こういう田中さんの方がずっといいな。
「あ~、曲名はわかんないだけどさ」
僕はどう伝えたものかと考え、仕方なくサビの部分を口ずさむことにした。
僕の意図を察した田中さんは、ゲームセンターの騒音に掻き消されて聞き洩らさないよう、形の良い耳を僕の顔に近付けた。
雰囲気が変わっても、距離が近いのは相変わらずだった。
「それ知ってる! 私も好きなんだ。次それやってあげるね」
田中さんは義手で僕の腕を軽く叩くと、軽やかな足取りでゲーム筺体へと戻って行った。
周りにいたギャラリーは本当に田中さんのプレイを見るために集まっているらしく、空いている筺体でプレイしている人は誰もいなかった。
周囲の人の視線が田中さんに誘われることで、僕は再びギャラリーに溶け込む。
さっきの曲ほど激しくはないけど、軽やかなテンポのポップス調の曲が流れ始める。
田中さんが曲に合わせて、華麗にステップを踏む。
凄い。さっきまでとは違って、田中さんは何かの振付なのか踊るように手足を動かしていた。
周囲を囲んでいたギャラリーがざわめく。
漏れ聞こえてくる声から察するに、こんな田中さんは初めてのようだった。
周囲の熱が高まる。どこからともなく手拍子が始まった。
僕は手拍子をする代わりに、手に持っていた田中さんのポーチを持つ手に力を込めた。
楽しそうに踊る田中さんは、凄く格好良くて、可愛かった。
曲が終わると、ギャラリーから大きな拍手と感嘆の声が漏れた。
田中さんは恥ずかしそうに筺体から飛び降りて僕の方に駆けてくると、僕の腕を引っ張ってギャラリーから逃げるように歩き出した。
「あはは、初めてやったけど、やっぱ振付あると難しいね。ちょっとミスっちゃった」
僕の腕を引きながら、田中さんが照れたようにそう言う。
義手で軽くキャップ帽のつばを押さえて、顔を隠そうとしている仕草がとても可愛かった。
そのまま僕らは、ゲームセンターを出てショッピングモール内の通路まで出てきてしまった。
「いや、凄かったよ。凄い格好良かった」
良い褒め言葉が思い浮かばない。
田中さんのことを称賛したい気持ちが高まり、少し大きな声になってしまった。
田中さんは僕の声の大きさに驚いたのか、ぱっとこちらを振り向いた。
まんまるに見開かれた田中さんの瞳と僕の視線がぶつかった瞬間、田中さんは凄く嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとっ」
なんでか、僕の顔が熱くなる。
そこで、僕のポケットに入っていた携帯電話が鳴りだす。
初期設定から変えていない、無機質なアラーム音だ。
「あ、たぶん親からかな」
僕は携帯を取り出すために、持っていたポーチを田中さんに返すとポケットをまさぐった。
「そっか。今日は楽しかったよ。また遊ぼうね、宇田川っ!」
激しく動いたせいか顔を真っ赤にした田中さんは、それだけ言うと僕に手を振りながら駆けだしてしまった。
「ああ、うん。僕も楽しかったよ!」
走り去る田中さんに聞こえるように、僕は大きな声で田中さんの背中へ向けて声をかけた。
田中さんは振り返らないまま大きく手を振ると、そのまま人ごみにまぎれていってしまった。
僕は田中さんが走り去った方をぼーっと眺めながら、鳴りっぱなしになっていた携帯電話を耳にあてた。
「「ああ、今ゲームセンター出たとこにいるんだけどさ」」
何故か僕の声が二重に聞こえた。
もうひとつの僕の声が聞こえてきたほうを見ると、綾乃がニッコリとした貼り付けたような笑顔で僕の方を見ていた。
車椅子に座る綾乃の足の上に、綾乃の携帯電話が見えた。
僕の中にあった、楽しかった余韻が吹き飛ぶ。
さっきまで少し火照っていたはずの体が、一気に冷え込んだ。
綾乃のツインテールが揺らいでいるように見えるのは、通路を流れる風のせいに違いない。あるいは僕の目の錯覚か。
助けを求めて左右を見渡すと、僕の両親はわざとらしくこちらに背を向けて、二人で腕を絡めてウィンドウショッピングをしていた。
「楽しかった?」
綾乃は目が全く笑っていない笑顔のまま、冷たい声で僕にそう言った。