人間が夢を見るのは、寝ている間に記憶を整理する脳の働きの副産物だと聞いたことがある。
だとしたら。
同じ様な夢を繰り返し見る場合は。
毎日毎日。
一日に何度も繰り返し。
記憶の本棚をひっくり返しては。
同じ思い出を読み返していることが。
原因なのでは。
ないだろうか。
大好きな人のお腹の上に腹這いになって、彼の男性器を口いっぱいに頬張る。
四肢の無いこの身では、全身を彼に委ね、彼にしがみつく以外のことはできない。
小さな口で可能な限り彼を受け入れようと、顔の形が変わるくらい頬の内側に擦りつけたり、条件反射でえずいてしまうくらい喉の奥まで飲み込んでみる。
口は、四肢の無い私がもっとも表現豊かに彼に奉仕できる器官だ。
だから、私の内から止め処なく溢れ出すこの想いを伝えるために、一生懸命舌を這わせ、喉の奥まで頬張った。
これは夢。
その証拠に、彼のソレに鼻先まで近付いたことがあるからか、臭いや熱はリアルだが、そのものの大きさや形は非常に曖昧だ。
味は、彼の体と全く同じ。
実際にどうなのかはわからないけど、そういう味が夢の中で補完されているのは、私が彼の体を舐めまわしたことがあるためだろう。
ちなみに、舐めた際に彼の許可があったことは一度もない。
脳にある記憶とは、何も自分が見聞きしたり体験したことだけではない。
当然、日中起きているときに、自分が想像・妄想したことも含まれる。
その妄想が強烈な内容なら、脳が整理した際に零れる副産物も、こういう内容に偏ってしまうこともあるだろう。
決して、私が日がな一日そんな妄想ばっかりしているから、連日こんな夢ばっかり見ることになっているわけではないはずだ。
四肢の無い私が人の体の上でバランスを取るためには、わずかに残っている短い腕や脚を限界まで広げて、彼の体に蛸のように貼り付くしかない。
すると、彼の下半身に顔を埋めている私の股間は、彼の胸の辺りで限界まで開かれることになる。
お尻の穴まで彼の顔前に曝け出し、それを意識するために私のアソコがひくひくと動くのが自分にもわかった。
彼の視線を意識しながら、私は必死に頭を動かし、舌を限界まで伸ばして彼のモノに巻き付ける。
吸い付きながら頭を動かすと、口の端から涎とおならのような下品な音が零れ落ちる。
自分が苦しいとか、疲れるとかはまったく考えていない。
ただただ彼に尽くしたくて、彼を気持ちよくしてあげたくて、そのためだけの一つの性処理道具になったつもりで、私は必死に繰り返す。
その私の動きが、唐突に邪魔される。
喉の奥まで刺さっていた彼のモノが一気に引き抜かれ、口の中が寂しくなる。
私は首を伸ばし、舌を限界まで突き出しながら、離れてしまった彼の先端に吸い付こうとする。
それは傍から見たら酷く下品で、浅ましい姿だろう。
唇を尖らせ、届くことなく空を切る舌を伸ばしながら、私が短い腕をばたつかせて少しでも近付こうとしていると、無情なことに私の体はさらに引き下げられ、彼のモノから遠ざけられた。
そして、股間から襲い来る衝撃。
私の陰部すべてに吸い付きながら、興奮で大きく尖った陰核を執拗に舐め上げる。
彼の柔らかくて熱い舌が、私の体液で汚れた陰部を、隅々まで舐め上げ、啜り上げていく。
強烈な快感に対する脊髄反射と、大きすぎる刺激から逃げようとする理性が、私の体を大きく跳ねさせる。
でも、逃げられない。
私の細い体では、どれだけ暴れても彼のたくましい腕から逃れることはできない。
私は獣のような唸り声をあげながら、与えられる刺激に必死に耐える。
だが、いくら耐えたところで、彼が止めることはない。
何故ならこれは夢だから。
私が自分で望んだ夢だから。
やがて、大きく膨らんだ泡が破裂するように快感が私の全身を駆け抜けると、私の視界は一瞬で真っ白に染まってしまった。
「…………あー…」
寝起きのためかややかすれている呻き声を漏らしながら、私はゆっくりと目を開けた。
私の全身を覆うのは心地よい虚脱感と、甘い余韻、そして汗まみれで貼り付いたぐちゃぐちゃの寝間着
。
掛け布団は、自分で跳ね上げたのか私の横に丸まっている。
寝返りを打つと、背中に外気が当たってスースーと気持ちがいい。
きっと敷布団も、大いに私の汗を吸い込んでいるんだろう。
だけど、最後の一線は死守した。
ここ数日間、毎夜見る淫夢を予測して、私は寝る前にオムツに履き替えていた。
寝る前より圧倒的に重量感を増したオムツが、堅固な守りで私から漏れ出た体液をしっかり吸着してくれた事実を伝えてくる。
この歳になってオムツを履くなんて、と思うかもしれないが、私のような身体を持つ人間は、あるものは便利に有効活用していかなくてはならな。
自身の粗相を、自身だけで後始末出来ないのだから当然のことだ。
ただ、1つ言い訳をさせて貰えば、私だってこの歳までずっと夜のお供にオムツを使用していたわけではないことは伝えておきたい。
仕方なかったのだ。
やむを得なかったのだ。
たっくんと彼氏彼女の関係になれた翌日に、敷布団に大きな地図を描いてしまった以上は…
「……たっくんが悪い」
ボソリと愛しい人の名前を呟くと、途端に気恥ずかしさが襲ってきて、胸の奥から溢れ出るもどかしさを誤魔化すために、丸まった掛け布団に抱き着いてモニョモニョする。
すると私の股間が掛け布団に圧迫された瞬間、平時ならば絶対に触れない部分に強烈な刺激が走り、はたから見れば滑稽なほど腰がビクンと大きく跳ねる。
寝ている間に無意識にハッスルしていた余韻が、敏感な部分を大きく突起させていたようだ。
「………たっくんが全部悪い」
だいぶ自業自得であることは十分承知しているが、それでもあえて罪をなすり付ける。
初日はまあ、不本意ながらも全面的に自己責任だった。
2日目3日目の夜も、まだ納得出来た。
しかし数日に渡って生殺しの状態が続いた現在となっては、心の通じ合った思春期の男女として、もっと現実世界において情欲が満たされてもいいんじゃないかと愚痴りたくなる。
それと合わせて、蛇の舌のような不安が、心の奥底の醜い部分からチロチロと顔を出す。
自分はこんなにも連日連夜愛しい人を求めているのに、こんなにも毎朝羞恥に身悶えしているのに、何故彼は自分を求めてくれないのだろうか、と。
自分はそんなに、男性から見て魅力の無い女なのだろうか、と。
大きく深呼吸して、ネガティヴになった思考を振り払う。
大丈夫。大丈夫。
彼だってきっと求めてくれている。
ただちょっと間が悪いだけ。
タイミングが噛み合わないだけ。
「…よし」
布団から起きて、もそもそと身支度を整える。
今日もお母さんにお願いして、シャワーを浴びさせて貰おう。
好きな人の前では、少しでも綺麗な体でいたいから。
こんな不安を感じる暇も無いくらい、彼を私に溺れさせればいいんだ。
なんて我ながら柄にも無いポジティブな考えに少し苦笑しながら、私は四苦八苦しながら重たくなったオムツを脱ぎ捨てた。
・・・・・
綾乃が学校に復帰して数日が経った。
僕と綾乃の関係に特に変化はない。
あの会話は夢だったんじゃないかと思うくらい、僕らは今まで通りだった。
でも、僕はそれで満足だった。
僕らの間にあった原因不明の薄い膜は取り払われて、綾乃と僕の距離感は元に戻っている。
そのかわり何かズレというか、綾乃の言動がいつもとどこか違うことが増えた。
でも、綾乃が変な言動を取ることは前からあったことだし、その回数が増えただけという感じで、僕には特に気にもならなかった。
『僕が綾乃のことを変だと思ってる』なんてことがバレたら、綾乃にオシオキを受けることはわかりきってるから、なるべく言わないようにしてる。
けど、たまにポロっと出るんだよね。
そのときはそっぽを向かれてしばらく無視されるか、顔を真っ赤にしてアタックを食らうかのどっちかだった。
なんにせよ、今まで通り綾乃のそばにいられるということだけで、僕はとても充実した気持ちで毎日を過ごしている。
お昼休みの暇つぶしに、僕は図書館に向かった。
最近のお昼休みは田中さんとおしゃべりしていることが多いが、今日は田中さんがお友達と楽しくおしゃべりしていたので、やることのない僕はこの間ちらっとだけしか見ていない深海魚図鑑を見に来たのだった。
ちなみに、田中さんが頻繁に話しかけてくれるようになる前は、机に突っ伏して寝るか、席に座って一人でぼーっとしていた。
別に友達がいないわけじゃないけど、クラスメートはみんなお弁当を食べる際に特定の誰かとグループを作るため、お昼休みは一人のことが多かった。
相変わらず、学校内で綾乃と僕の間に接点はない。
というか、なんの巡り合わせかあの日から僕は、学校内で綾乃をチラリと見かけることすらなかった。
もしまた学校内で綾乃と顔を合わせて、以前と同じ対応を取られたとしても、僕は欠片も嫌な感情は抱かないだろうという自信がある。
自信はあるのに、それを実証する機会がなくてとてもに残念だ。
胸を張って自分が成長したと実感できる機会なんてなかなかないので、学校内で綾乃と鉢合わせることを楽しみにしてるけど、自分から探しに行くのはなんか違う気がしてやらないでいる。
…休み時間ごとにトイレに行くくらいは許される範囲だよね。
まあ結構な確率で田中さんに話し掛けられるから、それはあまり実践できてはいないしセーフなはず。
綾乃との関係が元通りになって浮かれ気分な僕は、最近さらに距離が近くなった田中さんのスキンシップを受けるとズボンがすぐに突っ張ってしまって、迂闊に動けなくなるっていう事情もあるけど。
悩みがないのは良いことなんだけど、浮き立った僕の心には簡単に雑念が沸いてしまう。
ズボンの突っ張りは机の下でのことなので、田中さんにはバレてないと思うけど、机で隠すのを優先するから田中さんのスキンシップから距離が取れなくなって、それが逆に最近の悩み事だ。
くすぐり系の攻撃を受けるとつい体が反応しちゃって、机に硬くなったのをぶつけて痛い思いをすることもあるし。
田中さんとは動画投稿サイトの話をよくするようになった。
綾乃の趣味と田中さんの趣味はだいぶ似通っているようで、僕も話題に困ることなく会話できている。
教室での田中さんとの会話の中で、綾乃に関しての噂話も少し聞けた。
綾乃に関する根も葉もない噂は、もう影も形もないそうだ。
田中さんは「私たちの年頃だと話題の移り変わりが激しいから」と言っていたけど、僕はそれに「そうなんだ」としか言えなかった。
同じ年頃の子のことなんて、僕と違うらしいとしかわからないし。
綾乃の噂話のように、僕は田中さんからクラスや学校のいろんな話を聞けるようになった。
いままでそういう情報がまるっきりのゼロだったから新鮮ではあるけど、正直僕には興味がない話が多くて、田中さんも軽く情報を教えてくれるだけで特にそこから話題を広げたりはしなかった。
僕がそういった噂話にほとんど興味がないと田中さんはわかっているようだけど、毎日の会話の中で必ず何かしらの情報を教えてくれた。
誰と誰がデートした。遊びに行った。告白した。喧嘩した。仲直りした。
田中さん自身も、そういった話題はあんまり楽しくなさそうな感じで話している。
楽しくないというか、興味無さそうって言った方が合ってるかも。
それでも繰り返す田中さんの姿を見て、僕はこれが必要なことなんだろうと思った。
なんのために必要なのかはわからないけど、田中さんが僕のためを思って教えてくれている、必要な情報なんだろう、と。
だから僕は、興味はないけどなるべくそういった話も頭に残そうと耳を傾けている。
あんまり空返事すると田中さんに義手で耳を引っ張られるしね。
空返事をしたり上の空だったりと失礼な態度をとっちゃっても必ず続けられているから、僕は勝手に「田中先生のお勉強タイム」と名付けている。
名付けてしまってからは、毎回田中さんが噂話を始めるたびに頭に浮かんでしまって、これもいつかポロっと言ってしまいそうだ。
思ったことをすぐ口に出すなと綾乃にはよく言われており、おかげさまでだいぶ回数は減ったけど、それでも相変わらず残ってる僕の悪い癖だった。
図書館に到着。目当ての本を見つけた。
深海生物図鑑。こういうのは好きなんだけど、買うと高いんだよね。
この図鑑も、僕のお小遣い5か月分は優にあった。
大事に読もうと強く思った。
結局図書館までの道のりで綾乃に出会うことはなかった。
まあそれが目的じゃないんで別にいいんだけど。別に。
分厚い本を持って、僕は図書館の奥にあるこの前田中さんと話をした一角へ向かった。
図書館の中はガラガラでどこの席も空いてはいるけど、あそこは椅子が高価そうで座り心地がいいからだ。
主に誰から、とか他意はないけど、不意打ちを避けるために袋小路になった一角の出入り口を正面に据えるように、僕は座った。
それでも、その本棚で出来た出入口の先は、すぐまた別の本棚なので、視界は完全に遮られている。
落ち着いて読書出来るように意図された配置なのか偶然なのか、僕にはよくわからなかったが、すぐどうでもよくなった。
僕は図鑑を、机の上の出入口が視界にギリギリ入る位置に置くと、ページをめくり始めた。
「……………」
「…………………………」
「…………………………………………あの」
「…………………あのっ」
「ぅっ!?」
唐突に掛けられた声に驚いた僕は、読んでいた図鑑を宙に放り上げてしまう。
「ああっ!」
意外なほど高く浮かび上がってしまった本を、僕は机の上にダイブするように身を乗り出してキャッチした。
実際のところ、そんなに本は飛んでなかったけど、慌てていた僕は大げさな反応をしてしまった。
本を無事にキャッチしたことで、僕はほっとして机の上にぐでっと身を委ねた。
長々と、深い安堵のため息を吐く。
唐突な驚きと緊張の連続に、僕の心臓は全力疾走した直後のようにドクドクと音を立てていた。
「……ふふっ」
真横から聞こえた女の子の笑い声に、脱力しきっていた僕は机に突っ伏したまま顔だけを向けた。
そこには見覚えのある、前髪が鼻先まで届いた長い黒髪の女の子が口元を押さえて震えていた。
髪の毛で隠れていない口元を手で覆っているせいで、その子の顔はまったく見えなかった。
女の子が白い手袋をしているのが、とても印象的だった。
「んんっ…! あ、あの、驚かせてごめんなさい…」
いつの間にか僕の隣の椅子に座っていた女の子は、体を僕の方に正対させて居住まいを正した。
口元にあった手が太ももの上に移動したため、綺麗なピンク色をした柔らかそうな唇が、黒髪の陰からチラチラと見えた。
その綺麗な唇が少し開いた瞬間、図書館にチャイムの音が鳴り響いた。
僕はどこからともなく鳴り響くチャイムに釣られるように、なんとなく図書館の天井を見上げた。
ちょうど僕の頭上に、壁面に張り付いた灰色のスピーカーがある。
まあ、そうだよね。
予鈴かな? そろそろ教室に戻らないと…
「あの……これ、本鈴です…」
口に出してはなかったはずなのに、僕の思考に答えるように隣の女の子が喋る。
……え?
「えぇっ!?」
そ、そんなっ、遅刻しちゃうよ!
というか遅刻確定じゃないか。
何より僕だけじゃなく、この子だって先生に怒られちゃうかもしれない。
僕は椅子を蹴立てながら女の子を見る。
「わ、私は…図書委員なので…」
彼女は長い前髪の向こう側から僕を見上げながら呟いた。
多少遅くなっても、大目に見てもらえるのだと。
そっか、よかった。授業に遅刻して怒られるのは、僕だけみたいだ。
安堵した僕は、息を吐きながら椅子に座りなおす。
すると女の子は見かけよりかなり強めの力で、僕の肩をガシッと掴んだ。
「あのっ! もう行かないと!」
グッと掴まれてよろけた拍子に、結構強めの口調で言われた。
そうでした。急がないと。
僕はもう一度立ち上がると、そのまま走り出した。
しまった。あの子にお礼を言ってなかった。
「ごめんなさい! ありがとう!」
本棚に隠れて見えなくなった女の子に向けて、僕は大きな声でお礼を言った。
普段の図書館では絶対に出せないような大声を出せて、少し気持ちよかった。
図書館では静かにしないとね。
図書館を飛び出し、全速力で教室を目指す。
ああ、廊下は走っちゃいけないんだった。
でも。だけど。
悩みながらも全力疾走したため、答えが出る前に僕は教室に着いてしまった。
結局、既に教室には先生が来てしまっていたけど、先生はとても苦々しそうな顔で「早く席に着きなさい」と言っただけで、特に怒られることはなかった。
五時間目に遅刻しても怒られなかったので油断していたら、六時間目の体育が終わった後に先生に呼び出されてしまった。
職員室の中で先生は僕に、時間を守ることの大切さを様々なご自身の実体験を例に出して教えてくれた。
僕は呼び出しを受けて慌てて体操服から制服に着替えたため、制服にじっとりと汗が染み込んでしまっている。
さらに、話を聞いている間もずっと汗が流れ続けていた。
六時間目の体育がマラソンだったのもいけなかった。
頭から顔を伝って汗が流れているけど、先生から叱られている手前拭うことを我慢して直立不動だ。
先生は一時間ほど僕に時間を守ることの大切さを説明すると、「次からは気をつけるように」と言って僕の退室を促した。
僕は先生に謝罪して廊下に出た。
罪悪感から肩を落としてトボトボと教室に戻る途中、ふと先生が「時間の守り方」を教えてくれていなかったことに気付いた。
遅刻した僕が悪いんだけど、間違えた人間に正しい対処方法を教えなくていいのだろうかと純粋に疑問を感じた。
まあ、いいか。
次から気をつけよう。
でも、どう気をつけたらいいか自分でもわかってなくて、なんとなくもやもやした感じがする。
あ、これはダメだ。
たぶんまた遅刻しちゃう気がする。
過去の自分の経験から照らし合わせて、これはまた同じことで怒られるパターンだと思った。
誰もいない教室で悶々と考え事をしながら、僕は帰り支度を整えた。
一人でウンウン唸りながら下駄箱に向かうと、そこでは綾乃が何人かの友達と一緒にお喋りをしていた。
今日も友達が一緒かぁ…
じゃあ、いつも通りゆっくりあとをついて行こう。
ちょっとこのもやもやを綾乃に相談したかったけど、別に電車を降りてからでも話せるかと思い直す。
上履きをしまって外に出ようとしたところ、いつもなら絶妙なタイミングで先を行っているはずの綾乃とその友達集団姿が見当たらなかった。
いや、友達集団はいる。
その集団の中心にいつもいるはずの、綾乃の姿だけが見当たらなかった。
その光景を見た瞬間、僕のお腹の奥から吐き気のような何かが噴き上がってきた。
僕は居ても立っても居られなくなり、昇降口の玄関扉に向けて飛び付くように駆け出した。
ハッキリとはしない、霞がかかった靄のような嫌な記憶が頭の奥から湧き出てきて、慌てて左右を見渡す僕の背後から、苛立ちのこもった声が呼び掛けられる。
「ちょっと…ねぇっ!」
振り返ると、綾乃が車椅子を動かしながら僕に向かって近づいてきていた。
よかった…
ホッとした僕に向かって、ちょうどギリギリぶつかる位置で綾乃が停止する。
綾乃の車椅子の角が綺麗に僕の腕にヒットして、結構痛かった。
少し恨みがましい目で綾乃を見ると、そんな僕の気持ちを打ちのめすようにキッと強い眼差しを向けられた。
これは僕じゃなくてもわかるくらい、明らかに怒っている綾乃だった。
僕が先生からお説教を受けていたせいで、だいぶ待たせてしまったから怒らせてしまったのかもしれない。
「ほら、早く帰りましょ」
綾乃は絶妙な運転技術で車椅子を操作すると、僕にすっと自然な動きで寄り添った。
動きは自然だけど、僕らの体勢は非常に不自然だった。
向かい合うような、横に並ぶような感じ。
綾乃の短い腕どころか、その小さな肩が僕の体に触れそうな距離だ。
僕の左手が綾乃の太ももの間に潜り込むところだったので、僕は慌てて腕を跳ね上げた。
というか、あまりに自然な動きで距離を詰められたせいで、一瞬スカートの中に手が入ってしまった。
腕を上げる直前、綾乃の足が僕の手を挟み込むように動いた気がするけど、きっと気のせいだと思う。
だって、綾乃がそんな動きをする理由が思い浮かばないし。
僕は腕を跳ね上げたその動きが不自然じゃないように、自分の後頭部を掻いた。
それが周囲で見ている誰かに向けて不自然じゃないようになのか、綾乃に向けて不自然じゃないようになのかは、僕にはわからなかった。
綾乃の眉間が、ピクリと危険な皺を一瞬だけ刻む。
やっぱり、綾乃に向けての不自然じゃないアピールだったのかもしれない。
理由はわからないけど、身に染み付いた何かが取った防衛本能だったのかも。
「……ほら」
綾乃の手が僕のお腹に添えられ、グッと押される。
帰宅を催促しているのはわかるけど、あんまり顔を近づけないで欲しい。
自分でもわかるくらい汗臭いから、ちょっとこの距離は綾乃に臭いと嫌がられるかもしれないと気が気でない。
「で、でも、友達はいいの…?」
こんなに遅くまで綾乃と一緒にお喋りをしてくれていたんだから、いつもなら友達と一緒に帰るはずだ。
綾乃の友達集団を探して振り返ろうとしたら、僕の胴体がガシッと何かに挟まれた。
何か、というか、見るまでもなく綾乃の両腕だった。
振り返ろうとしていた首を下に向けると、綾乃がガッチリと僕の胴体にしがみついていた。
車椅子の上からそんな姿勢を取ったせいで、今にも落っこちそうになっている。
綾乃の体がほとんど宙に浮いて、僕の脇腹に頭を押し付けることでなんとかバランスを保っている状態だった。
落ちそうになって慌てたのか、綾乃は凄く荒い息を吐いている。
「ちょっ、危ないよ」
僕も慌てて、綾乃を支えてあげる。
綾乃の腋の下に腕を差し入れて抱え上げると、僕はすぐ手を離した。
仕方ないこととはいえ、僕が綾乃に触れている姿を誰かに見られるのは、あんまり良いことではないはず。
田中さんの義手を触っただけでも先生からお叱りを受けたのだから、間違いない。
車椅子に座り直した綾乃は、真っ赤になった顔を俯かせながら、大きく深呼吸をして落ち着こうとしている。
なんで急にこんな危ないことをしたんだろう。
生まれながらに二の腕までしかない綾乃は、正面から転んだらろくに受け身も取れない。
上手な転び方や倒れ方を訓練しているらしいけど、それでも顔面から真下に落ちたら対処は難しいはずだ。
心配する僕をよそに、綾乃は一際大きく深呼吸をすると、前髪の間から僕のことをちらりと見上げてきた。
車椅子から落ちそうになる恐怖で涙目になったのか、その潤んだ綺麗な瞳と目が合う。
でも綾乃は、目が合うと同時に顔ごとそっぽを向いてしまった。
顔を僕とは反対側に向けたまま、綾乃は車椅子を動かし始めた。
「…ほら、早く帰りましょ」
どうやら今日は、僕と一緒に帰ってくれるみたいだ。
たまたまタイミングが良かったとかではなく、わざわざ待っていてくれた上に、一緒にいた友達を差し置いてまで綾乃が一緒に帰ってくれることが、僕にはたまらなく嬉しかった。