廊下の喧騒が止み、玄関のドアが閉まる音がすると、綾乃が肩で息をしながらリビングに戻ってきた。
鼻息荒く、怒った猫のような吐息をついている。
どうやらあゆみさんはまた買い物に出掛けたらしい。
あゆみさんとの間でどんな会話があったのか、綾乃も僕がお泊まりすることに納得しているようだった。
最近では夕飯にはお呼ばれしても、その後あゆみさんが泊まっていくよう僕に言うと、烈火のごとく怒って反対していた綾乃とは思えない。
しかし心変りの理由を問い詰めることはしなかった。
それが綾乃を怒らせるであろうことは十分に想像できたし、何より僕自身、もっと綾乃と一緒にいたいと思っていた。
自分からわざわざチャンスを潰すようなことはしない。
制服を着替えるために、一度家に帰る。
綾乃は何故か少し不満そうな顔をしたけど、引き止めることはなかった。
家で制服をハンガーに掛け、シャワーを浴びる。
今日1日過ごした分と、なによりさっきの出来事でかなり汗をかいていた。
それに、汗臭いままでは綾乃に嫌われる。
お風呂場から出ると、僕の携帯に母親からメールが入っていた。
僕の両親は共働きで、二人とも帰りが遅い。
昔から綾乃の家に入り浸っていたのも、それが原因のひとつだ。
そうだ、綾乃の家にお泊まりすることになったことを言わなくちゃ。
いまさら駄目だと言われることは想像できないけど、そういった連絡は徹底するようにと口を酸っぱくして言われていた。
メールを見ると、母親から「父には連絡済み。御迷惑をかけないように」と書かれていた。
あゆみさんが連絡してくれたのかな?
うちの両親と綾乃のご両親は、僕が生まれる前からの友人らしい。
詳しい話は知らないけれど、家が隣同士になる前からの付き合いだと聞いた覚えがある。
全部あゆみさんから聞いた話で、僕自身当時は子供で興味もなかったからあんまりよく覚えていないけど、今度両親に聞いてみよう。
僕は下着を替えて部屋着に着替えると、綾乃の家に向かった。
実は綾乃の家には、綾乃のご両親の好意で僕の寝間着も布団も置いてある。
あゆみさんが言うには下着も用意してあるとのことだったが、流石にそこまで甘えるわけにはいかないので、お借りしたことはない。
もしかしたら、ただのあゆみさんの冗談なのかも知れないけどね。
綾乃の家のチャイムを鳴らすと、あゆみさんが出迎えてくれた。
そんなに準備に時間をかけたつもりはなかったけど、何か買い忘れただけですぐ済ませて帰ってきたのかな。
僕の姿を見たあゆみさんは、上機嫌な笑顔から露骨に不満そうに唇を尖らせた。
この豊かな表情の変化が、あゆみさんを若々しく見せている要素のひとつだと思う。
実際、中学生の娘がいるとは思えないくらい若く見えるけど…女性の年齢は、僕には到底推し測れなかった。
「たっくん、あとでちゃんとうちでもお風呂に入りなさい」
あまり聞いたことのない、少し低いあゆみさんの声音に僕は驚いた。
綾乃みたいな感じで、やっぱり親子なんだなと感じたけど、少し戸惑った。
「え、でも…シャワー浴びてきましたけど」
「駄目よ~、ちゃんと体の芯まで温まらないと、風邪引いちゃうんだからね~」
さっきまでの様子はなく、普段通りのほんわかした雰囲気で、あゆみさんは僕の腕を引いて家に招いた。
夕飯は綾乃のご両親も一緒で、四人で食べた。
綾乃は一人でも食事ができるが、最近はその姿をあんまり見られたくないのか、僕と食べるときはあゆみさんの給仕を受ける。
学校では、持参したお弁当を個室で食べている。
特別な措置ではあるが、確かにあの姿を大勢に見られるのは、年頃の女の子には辛いものがあるだろう。
うちの学校は給食制ではなく、自弁、学食、購買で好きに食事ができるので、個室で食べることがそんなに目立つものでもなかった。
それに、様々な事情で個室で昼食を取る生徒は他にもいたので、それ自体もそこまで特殊なことではなかった。
綾乃のご両親とは僕が物心つく前からの付き合いなので、特に緊張することもなく、普段通りに楽しく食事が出来た。
今日の夕飯はとても豪勢だった。
お赤飯が出たけど、何かお祝い事があったのかな?
しかしこれも詳しくは聞かない。昔お赤飯が出たときに理由を聞いた時は、綾乃が物凄く怒ったうえに数日口を利いてくれなかった。
あのときは流石の僕もどうしていいかわからなくて、泣きながらあゆみさんに相談したんだっけ。
あゆみさんは「たっくんは何も悪くないのよ」と言ってくれ、そのあとすぐ綾乃とは仲直りできたけど、いまだに僕の中では謎の事件だった。
「どうかしたの?」
黙りこんだ僕を綾乃は怪訝そうな顔で見ていた。
危うく考えていたことが口から出そうになったけど、お赤飯をかきこんで間を繋ぐ。
何か別の話題を…
「ん、お赤飯食べるの久し振りだなと思って」
言ってからサッと血の気が引いた。
全然話題回避出来てないじゃないか!
綾乃を横目で見ると、綾乃は相変わらず怪訝そうな顔で「そうなの?」と言っている。
よし、地雷源は回避したようだ。
「弘樹はあんまりお赤飯が好きじゃないからね」
綾乃のお父さんが、ゆったりとした声音で僕の話題を拾ってくれる。
弘樹とは僕の父親の名前だ。
綾乃のお父さんは眼鏡を掛けたいつも優しい笑顔を浮かべている人で、見るからにインテリといった感じのスマートでカッコいい人だ。
厳つくていつも無口な僕の父親とは大違い。
「へぇ~」
正直、自分の父親の好物に欠片も興味が沸かなくて、その心情が相槌に出てしまったが、綾乃のお父さんは特に気にした様子もなく食事を再開している。
そもそもこの家の人は、食事中にあまり喋らない。
ある程度一般常識を身に付けた頃にそのことに気付いた僕は、なるべく綾乃の家では静かに食事をしようと努めたことがあったが、異変に気付いた綾乃のご両親に無理していることがすぐにバレた。
「そんなことは気にする必要はない」「むしろたっくんの話を食事中に聞くことをいつも楽しみにしている」と綾乃のご両親から畳み掛けるように言われて以来、僕は気にするのをやめていた。
綾乃も特に、僕が食事中に喋ることを咎めはしなかった。
むしろ僕が黙って食事をすることを決行した日は、涙目になって僕や自分の両親をキョロキョロと不安げに見ていたっけ。
その姿があまりに可愛くて、食後にそのことを綾乃本人に言ったら、ブレイクダンスみたいに体を回転させて顔を蹴られた。
幼い頃の綾乃は、非常にアグレッシブだったんだ。
当時の僕は褒めたつもりだったんだけどね。
流石にあれが無謀な行いであったことは、いまではよく理解している。
夕食を終えて、リビングで寛ぐ。
綾乃のお父さんは、夕食を食べ終えるとすぐに自室へと行ってしまった。
綾乃のお父さんは、リビングから出ていく前に僕の頭を撫でながら「綾乃のことをよろしくね」と声をかけてくれた。
僕はいまさらどうしたんだろうと思いながら、「はい!」と威勢良く返事をした。
綾乃のお父さんは、「まあ、たっくんなら大丈夫だろうけど」と苦笑しながらリビングを出ていった。
何について言われているのかまるでピンと来なかったけど、あゆみさんは綾乃のお父さんを追い掛けて廊下に出ると、思い切り抱き付いたようだった。
仲の良い夫婦だなぁ。
綾乃と二人で、リビングでテレビを観る。
家にご両親がいるせいか、あんまり緊張はしなかった。
僕が世界の海のクジラ特集を夢中で観ていると、綾乃から何度も「口、閉じなさい」と注意を受けた。
何かに熱中するとアホ面を晒すのは僕の悪い癖だ。直さないと。
「たっくん、お風呂開いたから入りなさい~」
しばらくテレビを観ていると、あゆみさんに声をかけられた。
振り向くとあゆみさんに抱き締められた。うわ、ブラジャーしてない。柔らかい。
綾乃がリビングに入ってくると同時に、あゆみさんはパッと僕から離れた。
どうやら二人でお風呂に入っていたみたいだ。いつの間に行ったのか、まったく気付かなかった。
僕はあゆみさんのハグで赤くなった顔を隠すようにしながら、慌ててお風呂場に向かった。
すれ違った綾乃からお風呂上がりのいい匂いがして、さらに僕は顔が赤くなった気がした。
お風呂場に入り、体を簡単に洗う。
さっきシャワーを浴びた際に念入りに体を洗ったから、そんなに汚くないはず。
湯船に浸かって、今日1日のことを思い出す。
特に綾乃を抱き締めた感触思い出して、一気にのぼせそうになった。
お風呂場に充満した匂いが、さっきすれ違った綾乃と同じ匂いであることに気付く。
僕の股間が、お腹につくくらい硬くなった。
自分でスルという知識はあったけど、僕はやったことがなかった。
ここまで自己主張したことは今までなかったし、なによりそんなことをした自分は、綾乃と顔を合わせられなくなるような気がした。
お風呂の中で皮を剥いて洗う。触るとちょっと痛くて、そもそもここを擦ると気持ち良くなれるだなんて信じられなかった。
僕は冷たいシャワーをさっと浴びて頭を冷やすと、お風呂場を出て用意されていた寝間着に着替えた。
リビングに戻ると、あゆみさんはいなくて綾乃1人だけだった。
「ねぇ、髪を乾かすの手伝って」
綾乃は真っ赤な顔でそう言うと、ふいっと僕に背を向けて座った。
僕は綾乃の後ろに座ると、綾乃の髪に巻かれていたバスタオルを慎重に外した。
胸がドキドキする。
今日は何故か、綾乃の対応がいつもと違う。
昔に戻っただけと言えばそうなんだけど、以前はこんなにドキドキしなかった。
綾乃の髪をドライヤーで乾かしながら、ヘアブラシで慎重に梳る。
綾乃は上機嫌に鼻歌なんか歌っている。
凄く懐かしい光景。昔はよく、こうして綾乃の髪をとかしたっけ。
昔から僕が髪をとかしているときは、綾乃はいつも機嫌が良さそうだった。
だからいまだに、髪をとかすことを禁止された理由がわからない。
いや、いま理由がわかった気がした。
綾乃の髪をとかす僕の股間は、痛いくらいに張りつめていた。
綾乃の綺麗な黒髪の感触。ちらちらと見えるうなじ。髪の間から見える、可愛らしい形の綾乃の耳。そして髪をとかす度に香ってくる、お風呂上がりの女の子の匂い。
無防備な綾乃の背後で、見えないことをいいことに僕の寝間着はそれとわかるほどテントを張っていた。
こうなることがわかっていたから、綾乃は僕に髪を触らせなくなったんじゃないだろうか。
そういえば、僕が綾乃の髪を褒めちぎってから、禁止されたような気がする。
気持ち悪いと思われたんだろうか。
いやでもそうすると、今こうしていることが説明つかない。謎は深まるばかりだ。
「私の髪、どう?」
綾乃が声をかけてくる。
とても上機嫌で、最近聞かなくなった甘えるような響きがあった。
「凄く綺麗だよね」
僕は綾乃の髪を優しく梳る。
一本一本が艶やかに輝き、まるで小川のように滑らかに指の上を流れる。
髪は女の命というが、確かにこの髪を守るためなら、僕は命をかけられるかもしれない。
「ふふふ」
綾乃は小さく笑うと、また鼻歌を再開した。
後ろからでもわかる、ニマニマしてる雰囲気。
学校では絶対に見られない姿だが、だからこそ自分だけが綾乃を独占できているようで、凄く愛しく感じる。
何気なく、綾乃の足に目をやる。
綾乃の寝間着は年中半袖半ズボンで、今日も例に漏れず綾乃の細くて白い太ももが見える。
膝から下がなくて筋肉を使わないせいか、女の子にしても綾乃の足は細い。
だが若さのせいか肌に張りがあり、見るからに柔らかそうだ。
自分が怖くなる。
綾乃をこんな目で見たことは初めてだった。
よくない考えが浮かびそうだったので、それを振り切るように、僕は綾乃に髪を乾かし終わったことを告げた。
そろそろ寝る時間になったので、布団に向かう。
僕の布団は、綾乃の部屋に、綾乃の布団にぴったりくっつけるようにして敷かれていた。
確かに数年前まではこれが当たり前だったけど。
敷いてくれたあゆみさんは、何も疑問に思わなかったのだろうか。
綾乃が何も言い出さないので、僕が何か言うのも変に意識しているようで気まずい。
いや、ここはちゃんと申し出てリビングに布団を持っていくことが、デリカシーある行動なんじゃないだろうか?
「なにしてんの、早く寝るわよ」
僕の決意を挫くように、綾乃が布団の中から声をかけてきた。
だいぶ綾乃の声が裏返っていた気がするけど。
「ああ、うん」
僕も布団に入る。
綾乃は僕に背を向けて寝ていて、その表情はわからなかった。
お洒落な間接照明が、ほんのりと室内を照らしている。
しばらく見ないうちに、ずいぶんお洒落なものを置いたものだ。おかげで部屋の雰囲気がなんだか凄く大人っぽい。
よく見ると猫のぬいぐるみとか小物がいっぱい飾ってある、女の子らしい部屋なんだけどね。
間接照明の演出力は偉大だ。
心臓がドキドキして、こんなんじゃ寝れないよと思ったけど、僕はあっさり寝た。
もともと寝付きがいいし、今日は色々なことがあって脳ミソが疲れていたんだろう。
そして僕は、幼馴染みの家で夢精した。
股間の辺りが物凄く冷たくて、最初は漏らしたかと思った。
慌ててパンツの中を確かめると、ぬるりとした感触が手にまとわりついた。
寝間着の隙間から溢れたのか、僕の臍の辺りまで飛んでいた。
慌てて綾乃を見ると、綾乃は布団にくるまって眠っているようだった。
初めての経験な上に幼馴染みの家という最悪の状況だったが、テンパる頭とは別に体は動いて処理を始めた。
自分の部屋着を持つと、綾乃を起こさないように静かにトイレに向かう。
ティッシュで可能な限り拭き取り、寝間着から部屋着に着替えた。
なんだか情けなくて惨めで、自然と涙が溢れてきた。
涙を拭う気にもならず、歪む視界でパンツと寝間着を小さく丸めた。
今何時なんだろう。
外は真っ暗で、少なくとも朝日が昇るまで時間がありそう。
綾乃の部屋に戻る気にはならず、かといってトイレに篭っていても仕方がない。
家に持って帰って、とりあえず手洗いしよう…
「あら~? たっくん、こんな時間にどうしたの~?」
玄関に向かおうとする途中、あゆみさんにバッタリと出会してしまった。
トイレから玄関までなんて短い距離なのに、声をかけられるまでまったく気付かなかった。
汚れた寝間着を抱き締め、僕は泣き顔を隠すように俯いた。
軽蔑される。嫌われる。怒られる。拒絶される。
黙り込む僕を前にして、何も言わないあゆみさんが怖くて体が震えた。
なんでこんなことになったんだろう。涙がいくつも床に落ちた。
気が付くと、あゆみさんは僕を抱き締めていた。
凄く柔らかい、優しい抱き締め方で、あゆみさんの温かさを強く感じて心が落ち着いていく。
「大丈夫だよ。なんにも悪いことなんてないからね」
静かな声で、あゆみさんが言う。
僕の頭が優しく撫でられた。
それで僕は、あゆみさんの胸に顔を埋めながら声を押し殺して泣いた。
だけど、頭の中は凄く落ち着いてきていた。
胸に詰まっていた罪悪感が消えたころ、あゆみさんは僕の手を引いてリビングに連れていった。
「誰にも言わないで、秘密にしてあげるからね」
あゆみさんは、僕がきつく握り締めていた指をひとつずつゆっくりとほどいていくと、僕の胸から汚れた寝間着を手に取った。
まだぬめりのついた、汚ない物のはずなのに、あゆみさんは宝物でも扱うかのように、僕ので汚れた寝間着を自分の胸に抱き締めた。
「私が洗っておいてあげる。もちろん、あやちゃんにも内緒にしておくよ?」
深い慈愛に満ちた笑顔を、あゆみさんは僕に向ける。
僕は放心したようにその笑顔を見つめながら、小さく頷くことしか出来なかった。
「まだ体ベタベタして気持ち悪い? シャワー浴びよっか?」
あゆみさんは呆けて座る僕の前に座ると、静かな声音でそう言った。
僕の寝間着を握り締めるあゆみさんの指に、僕の液体がついて少し糸を引いているのが見えたが、あゆみさんはまったく気にしていなさそうだった。
それで、なんだか安心した。
あゆみさんは、僕のことを汚ないなんて欠片も思っていないんだと信じられた。
あゆみさんに背中を優しく押されながら僕はお風呂場に行くと、シャワーを浴びて体を清めた。
お風呂場から出ると新しい下着と寝間着が用意されていたので、何も考えずに身につける。
脱衣場から出るとあゆみさんが待っていてくれて、そのまま綾乃の部屋まで付き添ってくれた
部屋に戻って布団を確認したけど、布団は特に汚れていなかった。
綾乃は僕が部屋を出ていったときと、まったく同じ姿勢で眠っていた。
あゆみさんに促されて、布団に戻る。
あゆみさんは優しい笑顔のまま小さく手を振ると、黙って静かに部屋から出ていった。
僕はそのまま、何の不安もなく熟睡したのだった。