綾乃の家にお泊まりしてからというもの、綾乃の態度がおかしい気がする。
登下校は相変わらず一緒だけど、なんだかずっと猫を被っている感じで、凄く居心地が悪い。
綾乃とは毎日会話もするし、笑顔も見せてくれる。僕が何か間違ったことをすれば、綾乃はちゃんと注意してくれる。
でも、いままでとは何か違った。
綾乃が普段、学校で見せる姿とはまた違う。僕と綾乃の間に薄い膜が一枚張られているような感じがしていた。
教室で机に突っ伏して、深くため息をつく。
綾乃の変化の原因がまったく思い付かない。
いや、ひとつだけ心当たりはあるけど、あゆみさんは秘密にしてくれると言っていたし、それではないと思いたい。
でも数年ぶりにお泊まりしたあの日の朝、綾乃は何かに気付いて、あえて追及しなかったように見えた。
そこで、僕に何があったのかばれたのかな。
シャワーを浴びて、寝間着も下着も取り換えていたけど、布団は取り変えていなかったし、部屋の中の匂いでばれたとか…
いやでもそうすると、綾乃がアレの匂いを知っているってことになってしまう。
それはない、はず。
綾乃に実物の匂いを嗅ぐような機会はないはずだ。
ずっと一緒にいて、彼氏がいるような様子はまったくなかったし、そもそも僕らは中学生だ。例え付き合ってる男がいたとしても、そんな匂いを知ることはないだろう。
机に顔を押し付けたまま、再びため息をつく。
よくよく考えると、綾乃に恋人がいるはずがないと決めつけるのは、僕のとんでもない思い上がりだ。
確かに登下校では毎日一緒だけど、最近はたまにしか家にあげてもらえていなかった。
恋人を呼んで、家で会っていた可能性は十分あるだろう。
そもそも、学校では丸っきり顔を会わせないんだ。クラスメートとは、一日のうち僕よりもずっと長い時間を一緒にいるし、そこで彼氏が出来ていたとしてもまったくおかしくない。
そして綾乃には、そのことを僕に報告する義理も義務もない。
自分で考えた内容にさらに落ち込み、三度目のため息を吐こうと息を深く吸い込んだ瞬間、脇腹を突かれた。
「うひゃっ」
体が勝手に跳ね上がる。驚いたせいで、変な声が出た。
肺一杯に空気が溜まっていたせいで、思いのほか大きな声になってしまったらしく、クラスメートのほとんどが僕の方を見ていた。
首を回して犯人を捜すと、僕の斜め後ろで笑いを堪えている田中さんがいた。
田中さんはうつむいて、肩を震わせている。
ぱっと見は泣いているようにも見えるが、これは笑いを堪えているんだろう。両手で口元を押さえているが、右手が義手だから、にやけ顔の半分が隠し切れていなかった。
クラスメート達は僕から田中さんの様子に目を向けると、すぐに興味を失ったのかそれぞれがまたおしゃべりに戻った。
僕だけが田中さんを見ている。
「…脇腹は弱いからやめてほしいんだけど」
精一杯のしかめっ面を作って、田中さんに抗議する。
僕のその表情すらおかしかったのか、田中さんの口の端からぷすーっと息が抜け、さらに激しく肩が震えた。
「んんっ、いやぁごめんごめん。そんなに反応するとは思わなくてさ」
田中さんはわざとらしく咳払いをすると、満面の笑みで笑いかけてきた。笑いすぎたのか、顔がほんのり赤くなっている。
「何か用?」
「何、脇弱いの?」
質問に質問で返された上、まったく話が繋がってない。
平静を装って振る舞った分、馬鹿を見たような気になる。
「まあ…」
曖昧に返事をしながら、脇の話題があがったせいか、視線が自然と田中さんの脇にいく。
脇が見えない。胸が制服を押し広げて、後ろ手を組んだ田中さんの脇は僕の視界に入らなかった。
「どこ見てんだよ? やらしー」
そう言いながら、田中さんはじとっとした目をしながら僕に顔を近づけてきた。
僕が座っているせいで、田中さんの胸元が視界を埋め尽くす。
「え、いや、別に」
田中さんってこんなに胸が大きかったっけ?
顔を背けて、慌てて視線を反らす。
女性は男の視線に敏感だ。特に胸を見ているのはすぐわかるというのは、あゆみさんの言。綾乃も僕が胸元を見ると過剰反応する。
「ふ~ん?」
背けた僕の顔を追いかけるように、田中さんが背後から覗き込んでくる。
なんだか近い、というか、肩に何か当たっている気がする。なんだか柑橘系のいい匂いがして、鼓動が早くなった気がした。
「なんかさ、最近元気なくない?」
そのまま耳元で、田中さんが小声で言ってくる。
だから近いって。田中さんフレンドリーさが、一段階上がってる気がする。
田中さんは僕の真横に移動した。
田中さんはスカートの前で義手を左手で撫でながら、ちょっと深呼吸をした。
「私でよければさ、相談に乗る、けど」
言葉の最後の方はだいぶ小さくなっていたが、近くにいた僕の耳にはハッキリと届いた。
そんなに元気がなかったかな。田中さんにはかなり心配をかけているようだ。
ただのクラスメートで、しかもあんまり絡みのない男子のことまで気にかけてあげるなんて、田中さんはなんて優しい人なんだろう。
嬉しい申し出だと思う。
実際僕には、相談が出来るような同年代の友達がいない。
田中さんに相談すれば、綾乃と同じ女子中学生としての目線で何か意見をもらえるかもしれない。
でも、綾乃は学校では極力僕との接触を断っている。
ここで綾乃の名前を出すのはまずいよね…
「実はさ、僕には幼馴染みがいるんだけど」
「知ってる。玉岡綾乃さんでしょ?」
御存知でしたか…
というか、なんで知ってるんだろう?
自慢じゃないけど、学校での僕と綾乃の赤の他人っぷりはなかなかのものだと思っていたんだけど。
「ああ、うん、それでね」
「…あ、ちょっと待って」
頭に浮かんだ疑問は脇に置いておいて、本題に入ろうとした僕を田中さんが止めた。
真顔というか、無表情になっている田中さんを初めて見た。
「もう休み時間終わっちゃうし、お昼休みにご飯食べ終わったら図書館にきて。そこで話ししよ」
田中さんは早口でそう言うと、自分の席に戻って行った。
黒板の上に掲げられている時計を見ると、休み時間の終了まであと5分ほどだった。
相談するのに図書館なんだ…図書館では一切の会話が禁止されているイメージのある僕としては、非常に違和感を感じた。
しかし、田中さんはもう席に戻ってしまったし、次の授業が終わればもうお昼休みだ。まあ、あんまり図書館に行ったことないし、図書館のどこかに談話室みたいなものがあるのかもしれない。
僕は次の授業の準備をすると、再び机の上に突っ伏した。
あの日からここ数日の間で、ずいぶん精神的疲労が溜まっている気がした。
母親の手作り弁当を手早く食べ終えると、僕は図書館に向かった。
田中さんはまだ友達と食事をしていたけど、先に行って待っていればいいかと思って声はかけなかった。
うちの学校は図書館がある。図書室ではなく、図書館だ。
校舎とは完全に切り離されて、一つの建物が建っている。
そんなに大きな建物ではないが、僕個人の感想としては、外観は非常に図書館らしいと思う。
中に入ると、二階まで吹き抜けになった天井の高い大部屋がある。
本棚が綺麗に整列しており、その本棚を壁にして区切られるように、ところどころに長机と椅子が並べられていた。
入口のカウンターに図書委員の生徒が一人座っている以外は、図書館の中には誰もいなかった。
僕は図書館のこの雰囲気が好きだった。
天井が高くて、明るく解放感がある。しんとした静けさの中、本の匂いが漂っている。
それでも僕がこの図書館に来ない理由は、単純に読書に興味がないからだ。
基本的に本を読むと眠くなるんだよね。
図書館の中を歩く。
別に目的なんかはない、田中さんが来るまでの時間潰しのつもりだったが、足は自然と興味のあるものに惹きつけられていたようだった。
図書館の一番奥、分厚い背表紙の並ぶ図鑑コーナー。
昆虫や魚、植物、動物など色んな種類の図鑑が整然と並べられている。
おぉ、深海魚図鑑がある。
ほとんど人の手に触られたことがないのか、新品同然の綺麗さだった。
手に取って立ち読みを始める。本当にこいつらは、どんな目的があってこんな形状を選んだんだろうか。
「こんなところにいた」
突然後ろから声を掛けられて、びっくりして振り向く。
田中さんが少し頬を膨らませながら、僕を睨んでいた。目元が少し赤い。
「あ、はい」
思わず対綾乃用怒られモードになりそうになった。
こんな顔の田中さんも、初めて見た。
僕のなかの田中さんは、いつも快活に笑いかけてくれる気さくな人で、明るいクラスの人気者だった。
「…心配したんだから」
「ごめんなさい」
言いながら僕は軽く頭を下げた。
何を心配されたのか気になったが、同じような流れで綾乃に質問して怒られた経験がある。
あのときの綾乃はむすっとして黙り込んだだけだったが、同じことを田中さんにされると、確実にどうしていいかわからなくなると思う。
綾乃に対するご機嫌の取り方が、他の女性に通用する気はまったくしなかった。
「ん、許す」
田中さんは僕が頭を下げたのを見ると、腰に手を当てて笑顔でそう言った。
表情がころころ変わる。一瞬、あゆみさんを思い出した。
腰に手を当てた際に胸を張ったせいで、突き出されて強調された部分に目がいきそうになり、さりげなさを装って横を向く。
この動作は、あゆみさんに合格点をもらったものだ。
いまふと気付いたけど、合格点をくれたってことは、僕のこの動作が何を意味するものだかあゆみさんは気付いていたってことなのか…
「じゃ、こっちきて」
快活な声や動作とは裏腹に、田中さんは僕の制服の袖の端をほんの少しだけつまんで引っ張っていった。
図鑑コーナーのさらに奥、本棚が壁のように周囲を囲んだ、まるで個室のような空間があった。
その空間には、四人掛けのテーブルが1つと椅子が4つ置いてある。面談室みたいな作りだなぁ。
テーブルは長机とは違う、重厚な木製のものだった。置いてある椅子もパイプ椅子じゃない、木製の背もたれにしっかりクッションがついてるようなものだ。ここ、勝手に使ってもいいのかな。
「そこ、座って」
そう言いながら田中さんは、図書館の一番奥まった位置にあたる椅子を僕に勧めた。
特に悪いことを隠れてやっているという感じはないので、ここは普通に生徒が利用していい場所なんだろう。
僕が言われるままに椅子に座ると、田中さんは僕の右隣に座ってきた。テーブルを挟んだ向かい側じゃないんだ…
田中さんは椅子を動かすと、僕にぐっと近寄ってきた。腕がかすかに触れて、お互いの体温がわかる距離。
「それじゃ、さっきの話の続きを聞くよ」
田中さんは僕の顔を見ながら小声でそう言った。なるほど、内緒話をするために近付いたのか。
少し田中さんの顔が赤い気がしたが、田中さんの真剣な眼差しを見て、僕も正直に悩みを話すことにする。
「えーっと、僕には幼馴染がいるんだけどね」
「うん」
「最近、その子の態度がちょっとおかしいんだ」
「…おかしいって、どんな?」
どんなだろう。強い違和感は感じているが、それがどういうものか上手く言葉が浮かんでこない。
僕にはたびたびそういうことがあった。頭が悪いから、人とも上手く話せない。
僕は田中さんの真剣な表情に背中を押され、正直に感じたまま話すことにした。
「いままでと違う、薄い膜を間に挟んだ感じかな。お互いの体温も上手く感じられないし、吐息も感じられない。膜を挟んでいるせいで、向こう側のその子が霞がかかったようにぼやけてる感じなんだ」
自分でもよくわからない表現になった。
でもこれが、僕が感じている違和感の感想だった。
田中さんの口元が引き締まる。健康的な色をした唇が、真一文字に細められた。
僕の言葉が足りないのか、それとも別の理由からか、田中さんは僕の目をじっと見ている。
何か深く考え込んでいるよう。僕の悩みに真摯に答えようとしているのが伝わってきた。
「宇田川は…」
田中さんが口を開いて、また閉じた。田中さんの視線が揺らぐ。
「正くんは、その子とどうなりたいの?」
僕の気持ち、僕の考えか。そんなものは最初から決まっていた。
「元通りに、今まで通りに仲良くしたい」
「それは、無理、だよ」
間髪入れずに返された答えに、衝撃を受ける。一気に田中さんを否定する感情が頭を渦巻くが、すぐに収まった。田中さんは、真剣な眼差しで僕を見ている。
「それは、なんで?」
自分でもわかるほど、声が震えていた。図書館内で小声にしようとしたせいもあってか、声はかすれてしまった。
田中さんが一瞬だけ、かすかに目を見開いた。傷付いたような、悲しそうな顔。
僕の何が彼女を傷つけたのかまったくわからなかった。罪悪感が胸に沸く。
すぐに田中さんは表情を元に戻し、僕の目をさっきより強い感情を込めて見つめてくる。綾乃が時折見せるような、深い覚悟と意志の強さを感じさせる眼差しだった。
「正くんがその子に嫌われたってことは絶対にないよ」
「…なんでそう思うの?」
「それは…上手く言えないけど、それだけは絶対にない」
田中さんは少しだけ口ごもったあと、それを打ち払うようにはっきりと言いきった。
僕の二の腕から伝わる彼女の柔らかさと温かさが、その言葉を素直に信じさせる。
「その子の態度が変わったのは、その子がそうなりたいと思ったから。だから、正くんがどんなに望んでも、元通りには戻れない」
綾乃がそう望んだのか。それなら、僕が何をどうしようと変わることはないだろう。
でも、なんで綾乃は僕との間に薄い膜を張ることを望んだんだろう。
嫌われて距離を取られたというのが一番しっくりくるが、田中さんはそれは絶対にないと言う。
頭が混乱した。
「でも、僕は嫌なんだ」
暗い感情が、僕の口から零れ出た。
人の足を引っ張る、自分勝手な泥。
「正くんは、その子のこと嫌い?」
田中さんの眼差しが揺らぐ。先ほどまであった強い意志の力が、ろうそくの炎のように頼りなく揺れるのが見えた。
「嫌いじゃないよ」
即答する。嫌うわけがない。例え綾乃に嫌われることがあっても、僕が綾乃を嫌いになることは絶対にないだろう。
「じゃあ…」
田中さんの瞳の揺らぎが一層強くなる。唇が震えて、何かを逡巡しているようだった。
田中さんがパッと下を向く。僕の二の腕から、田中さんの温かさがなくなった。
田中さんは俯いたまま、自分のスカートをギュッと握り締めている。強い力が加わっているのか、右手の義手は傍目からわかるほど震えていた。
僕は田中さんの言葉を静かに待った。彼女は真剣に僕の悩みに答えてくれようとしている。
長いようで、非常に短い時間。田中さんは下ろしたときと同じ勢いで顔を上げると、困ったような泣きそうな笑顔を僕に向けた。
「ごめん、こんなの卑怯だよね」
僕は田中さんの言いたいことが理解できなかった。
田中さんの言葉の意味を理解しようと、彼女の目を見つめていると、田中さんの頬を一筋の涙が伝った。
あまりの衝撃に、息がつまる。全身の血管が一気に狭まり、血流が止まったかのような感覚。
「いやぁ、ごめんごめん。これは気にしないで」
田中さんは腕で乱暴に目元を拭いながら、いつもの調子で笑った。
図書館の中であることをまったく気にしていない、明るい声。
田中さんは僕にぐっと密着すると、吐息を感じる距離で僕の目を見てきた。
田中さんは悪戯に失敗したような拗ねた顔を一瞬だけ見せると、すぐ真剣な眼差しで僕を見つめてきた。
口元には先ほどまでと違って、柔らかい微笑が浮かんでいた。
「宇田川はさ、そのまんまでその子のことを待っていてあげたらいいんじゃないかな」
優しい、だけど真剣な声音。僕は黙って田中さんの言葉に耳を傾けた。
「宇田川は何も気にすることないよ。いつも通り、いままで通りにその子に接してあげて」
私なら、そうして欲しいから。
田中さんは声に出さず、唇の動きだけでそう言った。
そうか、それならそうしよう。
田中さんは真剣に僕の悩みに答えてくれた。
僕では理解しきれない部分も多々あったけど、だからこそ、田中さんの言うことを信じようと思った。
「うん、わかった」
僕が頷くと、田中さんは僕から離れながら、声を出さずに笑った。
花が咲くような、満面の笑顔。
田中さんが立ちあがると、図書館内に予鈴が鳴り響いた。まもなく、お昼休みが終わる。
僕も立ちあがる。さっきまであった心の中のもやもやは、ほとんど取り払われていた。
「相談に乗ってくれて、ありがとう」
僕は田中さんに右手を差し出す。
田中さんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になって義手を差し出してきた。
そうか、右手じゃなくて左手を出すべきだったかな。
田中さんが躊躇なく義手を僕の手のひらに押し付けてくるので、僕は田中さんの義手と握手した。
固い握手は信頼の証というらしいが、田中さんの義手を壊しそうで怖かったので、出来るだけ柔らかく包み込むように握る。
「どういたしまして」
田中さんはいつも通りのフレンドリーな笑顔で応えた。
僕が義手を撫でまわしてしまったとき以上に、田中さんの耳から首元まで真っ赤だった。
「顔真っ赤だね、どうしたの? 暑い?」
田中さんに笑顔で思い切りお尻を蹴られた。
右の手のひらの肉が、義手の指に思い切り抓られる。
「うるせー、早く戻らないと遅刻するよ!」
田中さんは左手で僕の背中を思い切り叩くと、走って図書館から出て行った。
地味に痛い。色々な箇所が痛い。廊下を走っちゃいけないんだぞ、くそぅ。
痛い目を見た腹いせと田中さんへの反抗心から、歩いて教室に向かったら次の授業に遅刻して、僕は先生に怒られた。
・・・・・
制服も脱がずに、私はベッドに飛び込んだ。
色々な感情が胸の中で渦巻いて、悶えそうになる。実際、我慢できずにベッドの上で全力で体を悶えさせた。
ベッドに仰向けに寝転がって、自分の義手を眺める。
自分のじゃない、自分の体。
なんでお前だけいつも触ってもらえるんだよ!
自分の義手に少し嫉妬して、指先部分を撫でる。
最新技術で触覚はあるが、成長期なのもあってあんまり高価な物は買えなくて、何かが触れているという程度の弱い感覚しかしない。
今日のことを思い出す。
まず浮かぶのは、強烈な自己嫌悪。そして義手に向けた比ではない、うずみ火のような嫉妬。
だがそれを、大きなため息とともに体外に押し流す。
そんなことより、もっと重要で重大なことがあった。
好きな人とたくさん話が出来た。
好きな人とたくさん触れあえた。
好きな人に、ありがとうと言ってもらえた。
体の奥から浮かび上がってきた強い感情に、再び身悶えする。口元がにやけているのが、鏡を見なくてもよくわかった。
再び義手を見る。今度は、左手で抱き締めるように触る。自然と、義手が顔に近付いた。
彼が触った部分を見る。滑り止めと触覚機能を持たせるための、特殊な素材でできた鉤爪。
そっと唇をあててみた。胸が高鳴る。間接的に彼に触れることができた気がした。
義手の指に舌を這わせる。彼の味がしたような気がしたが、たぶん気のせい。
義手を頬に押しつけながら、彼のことを考える。
今日初めて、彼は私の胸を見てくれた。
男性がよく見せる、いやらしい視線。いつもは嫌悪感しかわかないその視線が、彼が向けるものだとたまらなく嬉しかった。
そのあとちょっと調子に乗っちゃって、大胆に迫って盛大に空振りしてしまったりもしたが、彼と触れあえただけで良しとしよう。
よく頑張った、あのときの私。
彼の二の腕を挟んだ胸の間が熱を持っている。
まったく気にしてくれなくてがっかりしたが、元々そういうところが意識し始めたきっかけだったし、そこを拗ねるのはお門違いだろう。
私と接する人は、まず間違いなく、右手の義手かこの大きく突き出た胸を見る。
それが私にはたまらなく嫌だった。
義手を見て曖昧な笑顔を向けられることも、胸にいやらしい視線をじろじろと向けられることも。
だから私は、みんなそういうものなんだと折り合いをつけて、開き直ることにした。
人の視線を気にしない、快活で空気の読めない私はそうやって形作られた。
それでも、話しをしている相手の視線が義手や胸元にいくことは、嫌なままだった。
でも、彼だけは違った。
彼はいつも、私の目を真正面から見返して会話をしてくれた。
クラスメートの中では、それが嫌だとか気味が悪いとか言われて、彼は敬遠されている。
最近、彼との距離が縮まったと感じるのは、独り善がりの願望に過ぎないのだろうか。
彼が私の義手に興味を持ってくれたとき、凄く嬉しくて、みんなの目の前で恥ずかしかったけど、触らせてあげた。
私の胸に目を奪われた彼をからかったとき、恥ずかしそうにしているのが凄く可愛かった。
少し私のことも見てほしくて、わざと彼の腕を胸の間で挟んだとき、彼は私を信頼しきった目で、じっと私を見つめてくれていた。
左手が、自然と自分の胸を這う。服の上から撫でる、もどかしい感触。
義手でスカートをたくし上げ、そのなかに潜り込ませる。
目をつぶって彼のことを思い浮かべる。体は完全に火が付いていた。
義手の指先で、下着の上から触る。
微妙な力加減の調整ができないから、普段は左手でしているが、いまはこの自分で上手くコントロールできない感じが、私の妄想を加速させた。
経験のない彼が、私を気持ち良くしようと一生懸命触ってくる姿を想像する。
力が強くて痛かったり、見当違いのところを触ってもどかしかったりという感じが、逆に興奮させ、快感を増幅させる。
ベッドで寝転がり、自分の体をまさぐりながら制服を脱ぐ。
制服に皺がつくからという現実的で冷静な判断もあったが、彼が我慢できずに私の体を貪っている姿を想像しながら、少し乱暴に服を脱いでいく。
ホックを外さずにブラジャーを脱ぐ。少し痛かったが、痛みに表情をしかめた私の顔を見て、慌てて申し訳なさそうに謝る彼の姿を想像すると、凄く興奮した。
ベッドの上で裸になる。
今日初めて私の胸を凝視した彼の視線を思い出す。
いままでそんな素振りは欠片も見せなかったが、あれは相当に大きなおっぱいに執心している男性の視線だった。
普段は嫌悪感と不快感しか抱かないはずのものが、彼に向けられたと思うだけで愛しく、そして女として見られているという喜びを沸き出させる。
同級生とは比べることすら嫌になるほど、大きな私の胸。妄想の中の彼は、私の胸にむしゃぶりついた。
自分の胸を強く握る。指が深く脂肪に沈み込み、鈍い痛みを返してくる。
それも彼を魅了したがゆえの代償と思えば、ほの甘い快感に感じてくる。私は彼にめちゃくちゃにされる自分の姿を想像しながら、強く自分の胸を揉みしだいた。
私は左手を荒々しく動かしながら、右手の義手で自分の一番敏感な場所をこねる。
微調整や細かい動きが出来なくてもどかしいが、彼が私の胸に夢中になりながらも、私のことを気持ち良くしてくれようとして試行錯誤している姿を思い浮かべると、そのもどかしさが妄想にリアリティを与え、普段とは違った気持ちよさを生み出す。
いま私は、彼が触れていた場所に自分の欲望を擦り付けている。
そのことに思い至り、また、彼のあのまっすぐな視線の前にこの無様な姿を晒しているイメージが頭をよぎった瞬間。
私の意識は飛んだ。
視界が一瞬白く染まり、すぐに見慣れた部屋の天井が見えてくる。
全力疾走したあとのように荒い吐息をつくが、絶頂の快感で跳ねる体が呼吸を邪魔する。
浅ましい自分の喘ぎ声が、耳に聞こえる。それがまた、快感を突き上げた。
もどかしいまま燻っていた快感の波が、突然爆発したような、普段とはまったく趣の異なる絶頂。
わざと、義手で刺激するのを続けた。
私の様子の意味を理解していない彼が、私のことを心配しながらも手を止めない姿を想像する。
刺激が強すぎて辛いが、好きな人が純粋な善意と好意でこの責め苦を与えていると思うと、気持ち良さだけが強調されて、受け入れられた。
間を開けずに、二度目の絶頂。
体が大きく仰け反る。力が入りすぎて、おしっこが少し漏れたのを感じた。
体力の限界がきて、ベッドの上で脱力する。
ゆっくりと義手を顔の前に持ってくると、粘着質の透明な液体どころが、白く濁ってたり泡立ったりした私の体液がべっとりとこびりついていた。
お父さんお母さんごめんなさい。欠片も悪いと思っていない謝罪を心の中で済ませると、私は目を瞑って後始末の手順を考えた。
自分はそんなに性欲が強い方じゃないと思っているし、自慰の回数も一日一回程度だが、今日はオカズが強烈すぎた。
彼は天然な上に女の子にあんまり興味がなさそうだし、私のこんな姿を見たら嫌われるんじゃないだろうか。
そもそも、私のアプローチにすら気付いていない感じだ。強力なライバルもいるし、この想いは成就するのだろうか。
いたしたあとの虚脱感と、ネガティブな思考による脱力感で、一気に全身の汗が冷えた気がした。
風邪を引く前にお風呂入らないと。
ベッドから立ちあがって、後片付けを始める。
ふと、部屋に置いてある姿見が目に入った。
ショートカットの髪と、右腕の義手。そして、年に似つかわしくない大きな胸。
鏡の前で胸の谷間をぎゅっと寄せながら、ライバルの胸を思い出す。
これだけは勝ってる。そしてこれは、彼に対して大きなアドバンテージなはずだ。
少しだけ自信を取り戻して気持ちを上向かせると、私は着替えと洗濯物を手に、裸のままお風呂場に向かった。