学校について、昇降口で宇田川君と別れた。
最近、宇田川君に元気がない気がする。
普段通り振舞ってくれてはいるんだけど、ふとした瞬間に寂しそうな、苦しそうな表情をする。
それもほんの一瞬のことで、宇田川君はすぐ笑顔になると、そんなことは欠片もなかったかのように元通りになる。
その一瞬の憂いを帯びた表情が、凄く大人っぽくて胸が高鳴るが、高鳴った胸はそのあとすぐにぎゅうっと締め付けられるように苦しくなる。
彼を苦しめている何かに思い至らない自分が、彼に悩みを相談してもらえない自分が、凄く無力な存在に思えて苦しくなる。
だから私は、精一杯の大人を演じる。
まだ演じているだけで、中身は全然宇田川君に追い付いていないけど、嘘がいつか本当になることを信じて。
いつか宇田川君が、私を頼ってくれるようになると信じて。
私は校舎玄関にあるマットで念入りに車椅子の汚れを落とすと、校内へ続くスロープを上った。
横目で私の名前が書かれた下駄箱を見る。
皮肉なものだが、靴を履かない私にも下駄箱が用意されていた。
普通の生徒と差をつけないための学校の配慮なのかはわからないが、いまのところこの使われることのない下駄箱の存在でからかわれたことは一度もない。
開ける必要のない自分の下駄箱入れの前を通り過ぎようとしたとき、そこから白い紙の端が飛び出しているのが見えた。
他意はないが、私は毎日の登下校時に自分の下駄箱を横目に見ながらこのスロープを通っている。
だからあの白い紙は、間違いなく昨日私が下校した以降に入れられたものだろう。
スロープを戻って、自分の下駄箱に近づく。
私のような生徒でも開けやすいように工夫された、大きな引き手のついた下駄箱を開けた。
下駄箱の中には、ハートのシールの貼られた封筒が一つ入れられていた。
どう見てもラブレターだ。
一瞬、宇田川君からの物かと胸が高鳴るが、すぐ冷静になる。
毎日一緒に登下校している以上、それはありえないし、そもそも宇田川君はラブレターなんてものは書かないだろう。
彼は本もほとんど読まないし、文章を書くのも苦手だ。毎年夏休みの読書感想文では、四苦八苦している。
車椅子の脇に下げられた鞄の口を開けて固定すると、下駄箱に入り込んでいる手紙を苦労して引きずり出す。
三分の一ほど出てきたところで、両腕で挟んで鞄の中に落とし込んだ。
周囲を見渡すが、他の生徒の姿はない。
私たちの年齢は、こういった話題に飢えている。騒がれるのは私も、手紙をくれた人も本意ではないだろう。
お昼休みになったら手紙を読むことに決め、私は教室に向かった。
お昼休み、空き教室で一人お弁当を食べる。
お弁当のご飯は小さなおにぎりがいくつも入っているような形になっており、おかずもスプーンで食べやすいものばかりだ。
それでも、いつも違った内容だったり、たまに気合いの入ったキャラ弁だったりして、お母さんのお弁当作りに対する情熱と、私に対する深い愛情には頭が下がる思いだった。
特殊なスプーンをお弁当の中に差し込み、持ち手を腕で押し下げることで、ご飯を口に運ぶ。
肩と頬でスプーンを挟む必要がない分、ずいぶんと楽だ。
それでも、机の上に誤ってこぼさないようにお弁当箱にぐっと顔を近付けるため、犬食いのようになってしまい食べ方がみっともなくなる。
昔は自分だけでも食事が出来るんだと見せたくて、宇田川君と一緒に食事する時も一生懸命こうやって食事をしたものだが、今考えるとかなり恥ずかしい姿を見せていたと思う。
食事を終えて、鞄の中から朝下駄箱に入っていた手紙を取りだす。
ピンクのハート型シールで封をされたそれは、ご丁寧なことにのり付けまでされて厳重に密閉されているようだった。
私の腕では、どうやっても開けられない。
私は軽くため息をつくと、鞄の中からハサミを取りだした。
机に置くタイプの、私のような体でも使えるハサミだ。
ハサミの間に慎重に封筒を入れ、中に入っているだろう手紙を切らないようにしながら封を切っていく。
これでイタズラだったらどうしてやろうか。
そもそも、開けた中身がちゃんとした内容であっても、それがイタズラではないという保証はないのだから、それを気にしても仕方ない。
万が一本物だった時、相手を傷つけないためにも、慎重に行動するべきだろう。
封を切り終え、まずハサミを鞄にしまった。
両腕で封筒を持ち、封を切った側を下にしてゆっくりと揺する。頭を出した紙を引っ張り出し、机の上に広げる。
『今日の放課後、体育館の裏で待っています』
手紙の真ん中に、簡潔にそれだけが書かれていた。差出人の名前は無し。筆跡は男の子っぽい感じだけど、どうだろう。
手紙を封筒に入れ直して、鞄にしまう。
この手紙をくれた人は、私が下駄箱を見ないという事態を想定しなかったのだろうか。
手紙の端が下駄箱から出ていたから気付けたが、あれが意図してやったことでないなら空恐ろしいものを感じる。
それに、私がこれを家に帰ってから読もうと考えていたら、どうするつもりだったのだろうか。
私はイタズラである可能性が高いと考えることにして、何があってもいいように心構えだけはしておくことにした。
この手紙からは、宇田川君から感じる様な私への思いやりや気遣いは欠片も感じられなかった。
放課後一人になるための友人達に対する言い訳を考えながら、私は空き教室を後にした。
放課後、一人で体育館裏へ向かった。
友人達は「先生と個人的な相談があるので、先に帰っていてほしい」と伝えると、深く追求せずに私を一人にしてくれた。
人に言いにくい相談もあるだろうという気遣いが、彼女たちの仕草からは感じられた。
そのうえでできるだけ明るく、なんということもないかのように振舞ってくれた彼女たちに対して、深い感謝の念を抱く。
私はどこまでいっても、他の人の親切心の上に生きているのだと感じた。
宇田川君にも言わずにきたけれど、そんなに時間を掛けるつもりもないので、少しくらい待っていてくれるだろう。
私のキッズ携帯には、3つ登録できるうちの1つに、宇田川君の携帯電話の電話番号が登録されているが、押した時点ですぐスピーカーモードになるこれでは、学校内でこっそり宇田川君と話すなんてことはできなかった。
体育館裏につくと、そこには誰もいなかった。
イタズラやいじめの線も考えたが、放課後という漠然とした時間指定だったし、まだ差出人の想定する放課後ではないのかもしれない。
大きな体育館の裏側を見上げる。そこは一面コンクリートで、窓が一つもない。
この学校は全ての清掃管理が業者によって手入れがなされているので、体育館の裏とはいえ草が好き放題に生えっぱなしになっているということはなく、下草は綺麗に刈り取られている。
業者が入ってから日数が少し経っているのか、若干下草が伸びているが、それでも荒地や休耕地にあるような雑多さはまったくなかった。
学校の敷地を囲うブロック塀は高さが2メートルくらいで、足場となるようなくぼみや覗きこめるような飾り穴はない。
これは外部からの不届き者に対するものなのか、校内からの脱走者に対するものなのか。
たぶん前者なんだろうが、私の背丈から見るとぐるりと囲んだブロック塀は監獄の壁のようにも感じられた。
自力で乗り越えることができない以上は、私にとっては大差ない話だった。
私はあまり見るもののない体育館裏を車椅子で動き回りながら、手紙の差出人が現れるのを待った。
2時間待たされた。
そろそろ帰ろうかと私が考え始めたころ、突然後ろから声を掛けられた。
「あっ、あのさ!」
背後からの大きな声に驚いて慌てて振り向くと、一人の男子生徒が体育館の角に立っていた。
ちょうど体育館裏の中央付近にいる私からは、ずいぶんと遠い。
男子生徒は視線をさまよわせて立ちすくんでおり、こちらに向かって歩き出す気配がなかったので、私の方から近付いた。
たぶんこの子が手紙の差出人なのだろうが、とりあえずまずは確認をしよう。
「なにか御用でしょうか?」
出来る限りの笑顔で訊ねる。
二時間待たされた苛立ちが表に出ないようにするのに、少し労力が必要だった。
「あ、あ…」
言葉を詰まらせると、男子生徒は顔を赤くして俯いてしまった。
彼の背が高いため、私からは俯いていても顔が少し見える。
見覚えのない人だった。背が高く、肉付きは細めだが、スポーツをやっているのか貧弱な印象はまったくない。
髪もワックスを使って今風の流行りの髪型に整えており、顔立ちも整っているように見える。
私のクラスの女子達なら、間違いなく放っておかないだろう。
私は彼が話し始めるのを、静かに待った。
「俺と付き合ってくれ!」
男子生徒は顔を勢い良く上げると、熱っぽい眼差しで私を睨むように見ながらそう叫んだ。
大きな声に顔を顰めそうになるのを、ぐっと我慢する。
いけない、いけない。色々なことの積み重ねで、初対面なのに彼に対して悪感情を持っている自分を叱責する。
彼は別に、特別突拍子もないことをしているわけでは決してない。
私の理想を押し付けて、その物差しで彼を悪く思うのは、それこそお門違いだろう。
目を瞑って、一度ゆっくり深呼吸をする。
答えは最初から決まっているが、即答されるのも彼にとって決まりが悪いだろうと思ったからだ。
「…ごめんなさい。今は誰ともお付き合いするつもりはないので」
私は頭を下げながらそう言うと、彼の横をすり抜けて行こうとした。
振った相手と一緒にいても気まずいだろうという考えからの行動だったが、彼はそうは思わなかったようだ。
「まっ、待てよ!」
横から腕を強く掴まれ、車椅子から落ちそうになる。
両足を踏ん張ってなんとかバランスを取ったが、冷たい汗が一気に背中にあふれた。
「離してください」
私は掴まれた腕を引き剥がそうとしたが、全身の反動を使って引っ張ってもびくともしなかった。
私の動作をどう受け取ったのか、彼の顔が憤怒に染まるのが見えた。
突然腕を離されてバランスを崩した私の車椅子を、彼は思い切り蹴り飛ばした。
いかに安定性に優れるキャタピラー式の車椅子とはいえ、そんなことをされれば耐えることはできない。
私は抵抗することもできずに宙に飛ばされ、無様に地面に転がった。
だが、こういった事態は何度も訓練してきた。
車椅子程度の高さでも、落ち方が悪ければ私は死ぬ。
なんらかの要因で車椅子が倒れた時、最低限死なないようにする受身の取り方は、痛みに泣きながら何度も練習していた。
頭部を守りながら、出来るだけ転がるように落ちる。
腕は多少擦り剥いたが、短く刈られているとはいえ下草の生えた地面だったので、そこまで大きな怪我はしなかったようだ。
「なにをする!」
両腕両足を忙しなく動かして素早く腹這いになると、私は体の向きを変えて男子生徒に向けて怒鳴った。
学校中に響き渡ったのではないかと思うほどの大音声。
大きな声の出し方も、いつも訓練していた。普通の人より簡単に危機的状況に陥りやすい私のような人間は、大きな声を出して周りに助けを求めなくてはならないからだ。
思いもよらない私の大声に男子生徒は一瞬怯んだようだが、私の姿を見て、見下すような皮肉な笑みを見せた。
「芋虫女が、偉そうに」
鼻で笑う、蔑んだ声。
私の何が彼の逆鱗に触れたのかはわからないが、彼は異様な敵意と悪意を私に向けていた。
男子生徒が近付いてくる。
「誰か! 誰かいませんか!」
私は少しでも離れようと体を動かしながら、大声でさらに叫んだ。
叫んだ私の声に反応したかのように、男子生徒は私に駆け寄ると脇腹を蹴りあげた。
本気で蹴ったわけではなく、私を転がそうという意図の感じられる蹴り方だったが、当たり所が悪くて息が詰まる。
仰向けに転がされた私の上に、男子生徒が跨った。
両腕を押さえ付けられる。
「ゴホッ、ふっ、ああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
私は男子生徒を睨みつけながら、獣のような叫び声を上げた。
全身に全力で力を入れながら、雄叫びをあげる私の姿に男子生徒は再び怯んだが、焦った顔になると私の口を手で塞ごうとしてきた。
すぐにその指に噛みつく。
指ごと噛み切ってやろうと思ったが、角度が悪く小指の脇に噛みつく形になった。
ぶつんという歯応えと同時に、口の中に鉄の味が広がった。
「ギィッ! いってぇなぁ!」
噛みつかれた手を慌てて引いた男子生徒は、その手でそのまま私の顔を払うように裏拳で殴ってきた。
歯を食いしばっていたので舌は噛まなかったが、殴られた衝撃と痛みで目がチカチカした。
一瞬遅れて、殴られた頬が熱くなる。
「なにしてんだ!」
そのとき、体育館裏に別の声が響いた。走る足音が近づいてくる。
私ほどの大声ではないが、明確な殺意を感じさせる声に身が震えた。
私の上に跨っていた男子生徒は、顔をハッとあげると恐怖と絶望に表情を歪ませて慌てて逃げて行った。
束縛から解放された私を、誰かが抱え上げて抱き締めた。
反射的に大声を出しそうになったが、息を吸い込んだ時の匂いで誰に抱き締められたのか気付く。
「綾乃! 大丈夫か!?」
宇田川君が汗だくの顔で私を見つめてくる。
私の頬と、私の口元から流れる男子生徒の血を見て、宇田川君の表情が暗くなる。
悲しみと怒りがないまぜになった、見てる私が悲しくなるような顔。
「あ、ひぐっ、うぅ…」
宇田川君を安心させたくて、大丈夫だよと言ってあげるつもりが、声が震えて嗚咽が漏れる。
そんな私を、宇田川君はぎゅっと抱き締めて頭を撫でてくれた。
「うわああああああああああああああああああああ」
大きな安堵感に包まれて、私は幼い頃に戻ったかのように大きな声をあげて泣いた。