綾乃が泣き止むまで抱き締めたあと、僕は怪我の治療のために綾乃を保健室に連れて行った。
車椅子のことに頭が回らず、綾乃を抱っこしたまま向かってしまったけど、綾乃は特に何も言わなかった。
完全に日の落ちた校内には、他の生徒の姿はなかった。
深い後悔が胸を刺す。なんでもっと早くに駆けつけてあげられなかったのか。
学校中を駆け回ったせいで滝のように流れていた汗は止まり、髪も制服もべっとりと僕の体にまとわりついていた。
保健室につくと、保険医の先生は僕たちの姿を見てすぐ異常に気付いたのか、僕に対して綾乃をベッドに寝かすよう指示をすると、僕を一度保健室の外に出して綾乃から事情を聞き始めた。
廊下で五分も待たないうちに、保険医の先生が出てきた。
もう中年の域を超えた既婚の女性である先生は、緊迫した雰囲気ながらも落ちついた笑顔を見せ、僕に綾乃についていてあげるように指示すると、駆け足でどこかへ向かって行った。
自分の不甲斐無さからくる罪悪感が、胃のあたりをずんと重くしている。
綾乃を酷い目に遭わせてしまったという負い目から、保健室に入りたくないという気持ちが沸き出たが、今一番苦しんでいるのは綾乃だろうと思い直す。
せめて近くにいて、できることをしてあげなくてちゃ。
重い足取りで保健室に入ると、ベッドに横になっていた綾乃が、僕に気付いて体を起こそうとしている。
駆け寄って、綾乃の背を支えて体を起こすのを手伝う。綾乃は特に嫌がる素振りを見せなかった。
「ありがとう」
綾乃はなんていうことのないような、普段通りの笑顔でお礼を言ってきた。
綾乃の頬には大きなガーゼが貼られている。大泣きしたせいか、目元も赤い。
腕や足にも擦り傷があり、消毒はされているようだけど、出血してないからかガーゼや絆創膏は使っていなかった。
痛々しい綾乃の姿を見て、胸が苦しくなる。
涙が溢れて、声を押し殺すために歯を食いしばった。
綾乃をこんな目に遭わせたあいつを、消し去ってやりたかった。
俯いて涙を落とす僕の腰に、綾乃がベッドの上から飛びついてきた。
しっかりしがみつけなくてずりずりと落ちていく綾乃の上半身を、慌てて支える。
「なんでたっくんが泣くの? 私はもう大丈夫だから」
綾乃は僕のお腹に貼り付いたまま、僕を見上げて笑顔でそう言った。
凄く懐かしい、何一つ飾っていない綾乃の自然な笑顔だった。
ほんの数日前にお泊まりした時も見たはずなのに、何故かそれが遠い出来事のように感じた。
綾乃は僕をベッドの脇に座らせると、そのまま抱き付いて腫れていない方の頬をずっと擦り付けている。
なんで綾乃はこんなに平然としていられるのだろうか。
凄く怖い目にあったはずなのに、そんなことはまったくなかったかのように、凄く上機嫌だった。
「ねぇ、さっきみたいに撫でて」
僕の制服に顔を埋めながら、甘えた声で綾乃はそう言った。
僕が気付けていないだけで、まだ綾乃は怖いのかもしれない。
僕は綾乃を抱きしめるようにすると、綾乃の背中と頭をゆっくりと撫でさすった。
綾乃の制服についた泥や、擦り傷のついた腕を見て、また涙が溢れてきた。
悔しい。
なんで綾乃がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
泣いていることを綾乃に気付かれないようにと、歯を食いしばって嗚咽を堪えていたけど、鼻をすすったことでばれてしまったのか、綾乃はゆっくりと自分の腕を動かし、慰めるように僕の体を撫でた。
そうしてしばらくすると、突然保健室の扉が開け放たれた。
激しい音に驚いて扉の方を見ると、あゆみさんが息を切らせながらこちらに駆け込んでくるところだった。
僕は綾乃ともども、あゆみさんに思い切り抱き締められた。
あゆみさんは抱き締めた僕らの体を優しく撫でながら、僕や綾乃の頭や目元にキスをしてきた。
不思議と恥ずかしいとは思わなかった。
ただくすぐったさと、心地よい安心感があった。
しばらくあゆみさんにそうされていると、自然と僕の涙も止まっていた。
心の中にあった重く暗い感情も、いまは小さく萎んでいる。
「…それじゃあ、帰りましょうか」
あゆみさんはそういうと、綾乃を抱きあげ、僕の背中を軽く押して保健室の出入口へと促した。
廊下に出ると、保険医の先生とあんまり見た覚えのない年を取った男の人が二人待っていた。
保険医の先生が綾乃の車椅子を押して、あゆみさんの前まで持ってきた。
あゆみさんは先生にお礼を言うと、綾乃を車椅子にゆっくりと降ろした。僕の手があゆみさんに優しく引っ張られ、綾乃の車椅子の手押しハンドルのグリップを握らされた。
「この度はこのような事態となり、誠に申し訳ございません」
僕らの様子が一段落つくのを待っていたのか、一番年かさの男の人がそういうと、先生たちは深く頭を下げた。
大人がこんな風に頭を下げるところを、僕は初めて見た。
顔を上げたその人を改めて見る。とても真剣な目であゆみさんを見る姿に、僕はやっと思い出した。
この人、校長先生だ。
後ろにいるのは、たぶん教頭先生だろう。こちらは少し自信がなかった。
「今回のような事態を招いたのは、ひとえに我々の不徳と致すところであります」
そう話す校長先生の後ろで、保険の先生と教頭先生が直立不動の姿勢で気をつけをしているのを見て、僕は自分が凄く場違いな気がして緊張してきた。
視線をさまよわせると、あゆみさんは柔らかな笑みを浮かべながら校長先生とまっすぐに視線を交わしていた。
「いえ、こちらこそ素早い対応を取っていただき、ありがとうございます」
初めて聞く、あゆみさんの凛とした声。
綾乃に似ていると思ったけど、逆か。綾乃があゆみさんに似ているのか。
あゆみさんが大人であり、綾乃の保護者であることを強く実感した。
「本件について、学校側でも全身全霊を持って対応させていただきます。もちろん、警察に届け出るというのであれば…」
校長先生が言い募るのを、あゆみさんがゆっくりと手を上げて止めた。
「そういったお話は、また後日で。まずは娘と相談いたします」
あゆみさんは優しくそう言うと、綾乃の肩にゆっくりと手を置いた。
緊張で強張っていた綾乃の肩が、ゆっくりと弛緩したのがわかった。
「…そうですか、わかりました。学校としても、いつでも対応できるよう準備してお待ちしております」
校長先生が再び深く頭を下げると、後ろに立っていた教頭先生も深々と頭を下げた。
保険の先生が先に立ち、僕らを昇降口へ案内してくれた。
そういえば僕は、外履きのまま校舎内に入ってしまっていた。
それを保険の先生に謝ると、先生は「気にしなくていいのよ」と優しく笑ってくれた。
あゆみさんは車で学校に駆けつけたようで、昇降口を出ると目の前に綾乃の家の車があった。
綾乃を後部座席に座らせ、車椅子を車の後ろに積むのを手伝ったら、あゆみさんに押されて綾乃の隣に座らされた。
あゆみさんは先生に改めてお礼を言うと、車を発進させた。
帰り道の車内は、誰も一言も喋らなかった。
家に着くと、僕は一人だけ車から降ろされた。
あゆみさんはこれから、綾乃を連れて病院に行くらしい。
女の子の顔に傷が残ったら一大事だと言うあゆみさんに、僕も付き添いたいと言いたかったが、あゆみさんはいつも通りのほんわかした雰囲気なのに有無を言わさぬ圧力で、言外についてくることを許さなかった。
走り出す綾乃の家の車を見送ると、僕は家に入った。
翌日、綾乃は学校を休んだ。
「えっ…大丈夫なんですか…?」
愕然とした思いで僕がそう言うと、あゆみさんは僕に飛び付くとぎゅうっと深く抱き締めてきた。
僕の顔があゆみさんの豊満な胸に埋もれる。
二年生になって僕の背もだいぶ伸びたけど、あゆみさんの方がまだ僕より背が高かった。
反射的に逃げようとしたら、さらに強く抱き締められた。
「大丈夫よ~、ただのズル休みだからぁ」
僕の耳に触れるほど唇を近付け、あゆみさんがイタズラっぽく囁く。
耳のくすぐったさや柔らかいあゆみさんの体より、あゆみさんのゆっくりとした心音の方を強く感じて、僕はあゆみさんの言葉を信じることにした。
僕はあゆみさんが離れることを待ったが、だいぶ長い時間が経ってもあゆみさんは僕を抱き締めたまま放してくれなかった。
僕の方から離れようとしたら、あゆみさんは抵抗してきた。
あ、これはからかわれてるな…
離れようと色々試してるうちに気持ちが落ち着いてきて、急にあゆみさんの柔らかさを意識し始めてしまった。
あっ、ヤバイ。これ以上はっ。
下半身に血が集まって行くのを感じて僕の焦燥感が頂点に達した瞬間、あゆみさんはパッと僕から離れた。
「それじゃあたっくん、いってらっしゃぁ~い。ちゃんと毎日来てね~」
あゆみさんは僕の肩を掴んでくるりと回れ右させると、道路まで僕の背を押しながらそう言った。
「…いってきます」
色々と釈然としないものを感じながら、笑顔で手を振るあゆみさんに僕は頭を下げた。
あの言い方だと、綾乃はしばらく休むのだろうか。
僕は綾乃が学校を休む理由を考えながら、駅への道を歩いた。
駅に着くと、いつもの女性の駅員さんが僕に手を振ってくれた。
いつもとは違い、体の前で小さく手を振っている。上司の人にあの振り方は止めるように言われたんだろうか。
「おはよう、ナイトくん」
駅員さんが笑顔で挨拶してくれる。
少し寂しそうな、何かを心配しているように感じた。
「おはようございます。あっ…すみません、今日は綾乃は休みなんです」
綾乃のためにいつも通り待っていてくれたのかと思い、僕は慌てて頭を下げた。
「ううん、大丈夫だよ。綾乃ちゃんのお母さんから、連絡頂いてるから」
駅員さんはゆっくり首を振ると、普段通りの明るい笑顔でそう言った。
それでも少し、僕には駅員さんの笑顔が曇っているように見えた。
駅員さんは僕の背を軽く押して促すと、僕の隣に並んで歩き始めた。この人は僕より少しだけ背が低い。
中学校に通い始めた時は、駅員さんの方が背が高かったことを思い出した。
「綾乃ちゃん風邪なんだって? 平気そう?」
駅のホームへ向かって歩きながら、駅員さんはそう話しかけてきた。
あゆみさんは風邪って説明してるんだ。
「えぇと、僕も顔を合わせてないのでなんとも…ただ、あゆ…綾乃のお母さんは大丈夫だって言ってました」
僕の言葉を聞き、駅員さんはあからさまに少しだけホッとした表情を見せた。
「そっか、良かった…人伝に聞いたからさ、心配してたんだよね」
駅員さんの笑顔が普段の感じに近付く。
そうか、綾乃のことで心配してくれてたのか。
僕は駅員さんの思いに少し嬉しくなると同時に、そんなことを欠片も連想しなかった自分を恥じた。
「心配してくださってありがとうございます。しばらく休むみたいだけど、すぐ良くなると思います」
だいぶ自分の願望が入った考えだったが、僕は精一杯の笑顔で駅員さんにそう答えた。
僕がお礼を言うなんて筋違いの上に烏滸がましいことこの上ないと思ったが、駅員さんの気持ちに応えたくて自然と口から出てしまった。
「綾乃ちゃんに、お大事にって言っといてね!」
駅員さんが僕の肩を軽く叩くと、ちょうど駅のホームに電車が入ってきた。
「わかりました。いつもありがとうございます」
僕は駅員さんに頭を下げると、電車に乗った。
「なんのなんの! それと、降りる駅の方にも綾乃ちゃんが休みだって伝えてあるから!」
駅員さんが元気よくそう言うと同時に、電車のドアが閉まった。
駅員さんはいつもの調子で大きく手を振って見送ってくれた。
「おはようございます」
電車から降りると同時に挨拶をされてびっくりする。
見ると、いつもの強面の駅員さんが丁寧に挨拶をしてくれていた。
「えっ? あっ、おはようございます…あの、綾乃は…」
駅員さん達の間で伝達ミスがあって、綾乃が電車を降りる準備をしてもらってしまったのかと思い、僕は慌てて事情を説明しようとした。
「いえ、連絡は貰っております。風邪をひかれたそうで」
慌てる僕に、駅員さんはゆっくりと話しかけてきた。
普段と違って駅員さんの口元は真一文字に引き締まっており、その鋭い眼光からは優しさと気遣いが感じられた。
「お大事にしてください、とお伝え頂けますか」
この駅員さんも、綾乃のことをとても心配してくれているようだった。
そういえば渡し板もないし、それを伝えるためだけにここで待っていてくれたのだろうか。
「わかりました、必ず伝えます」
内容はたいした伝言ではないのだが、僕はこの事を綾乃に伝えることと伝言を任されたことに、強い使命感と充足感を感じた。
僕の答えを聞くと、駅員さんは少しだけ口元を緩ませ、優しく微笑んでくれた。
「ありがとうございます。それでは、気を付けていってらっしゃいませ」
駅員さんはいつも通り、子供の僕にはもったいないような丁寧なお辞儀をしてくれた。
「はい、いってきます」
僕は元気よくそう言うと、駅のホームの階段を上がっていった。
それから土日を挟んで一週間、綾乃は学校を休み続けた。
あゆみさんは断固として僕を綾乃に会わせてくれず、毎朝抱き締められてはぐらかされた。
駅員さん達からの言伝ても、「たっくんから直接伝えてあげて」と言われ、まだ達成することが出来ていない。
まだ綾乃が学校へは行けないことは、あゆみさんから連絡が行っているみたいだが、駅員さん達は毎朝変わらず僕のことを待ってくれていた。
日に日に落ち込んでいく僕の姿を心配してくれて、凄く申し訳ない気持ちになってしまった。
綾乃が「大丈夫」であることは疑っていない。あゆみさんがそう言うなら、それは本当だと信じていた。
ただ、僕は綾乃に会えないというただそれだけの理由で気分が落ち込んでいた。
綾乃に会えないから落ち込んでいるという自己分析はすぐできたが、なぜ綾乃に会えないと落ち込むのかという理由は自分でもよくわからなかった。
朝、俯いたまま学校の階段を上がる。
なんだか気持ちがふらふらと不安定で、僕は一歩一歩確かめるように踏み締めながら、階段を上がった。
そのとき急に、僕の視界に影が差した。
反射的に顔をあげると、階段の上から僕に向かって女子生徒の背中が降ってきた。
僕は咄嗟に片足を二段下ろし、深く腰を落とした。
普段から何度も妄想していた、階段で上から落ちてきた人を受け止める体勢だ。
受け止めた衝撃は、思っていたより軽かった。普段のトレーニングのおかげだろうか。
低い位置で受け止めたため、横抱きになった女子生徒の顔を覗き込む。
長い前髪の間から、きつく閉じた目が見えた。
すぐ抱き留められたことに気付いたのか、女子生徒はパッと目を見開いた。
「大丈夫ですか?」
慌ただしく周囲を見渡す女子生徒と視線が合ってから、僕は尋ねた。
どうして落ちてきたかはわからないが、おちるとき足首を捻っている可能性だってあるだろう。
「えっ、あ、はぁ…」
呆然と小さく二度頷いた女子生徒を、ゆっくりと立たせる。
周りには誰もいないけど、女の子の体に意味もなく触れていることはよろしくない。
「知らない男子に触られるなんて嫌だよね。ごめんね」
立ち上がっても大丈夫そうだったので、僕はそう言うとまた階段を上り始めた。
女子生徒はポカンと立ち尽くしており、彼女の目は長い前髪に隠れて少しも見えなかった。
「おはよ、宇田川」
教室の机で突っ伏して朝のホームルームの開始を待っていると、田中さんが挨拶をしに来てくれた。
「おはようございます」
体を起こして、田中さんに頭を下げる。
田中さんにあのとき相談に乗ってもらって、色々なことが解決したような気持ちになっていたけれど、ほんの数時間で相談する前より気持ちはドン底に落とされていた。
そして今日まで一週間、どんよりとしている僕の雰囲気を察したのか、田中さんは以前よりさらに頻繁に話しかけてくれていた。
せっかく相談に乗ってもらったのに、こんな姿を田中さんに見せるのは凄く心苦しかった。
あのときの放課後、田中さんに相談に乗ってもらっていなければ、僕は綾乃のことを探さなかったかもしれない。
綾乃が薄い膜を張った延長で、僕に何も言わずに帰ったと考えてしまっていたかもしれない。
実際僕はあのとき、いままでと何も変わらずに綾乃と一緒に家に帰るために綾乃を探し始めた。
そして綾乃もそれを望んでいるという田中さんの言葉に力を貰って、学校中を走り回りながら綾乃の居場所を聞いて回ったのだ。
その事について田中さんにはお礼を言いたかったが、あの日何があったかを、学校中の生徒の誰も知らないようだった。
田中さんにいたっては、綾乃が学校を休んでいることすら知らないかもしれない。
だから僕は、自分の口から漏らす愚を犯さないためにも、田中さんにお礼を言うことができないでいた。
「なんでそんな他人行儀なんだよ、いつも」
田中さんは明るく笑いながら、僕の頭を義手で軽く小突いた。
僕の机に田中さんが腰掛け、机の上に置いていた僕の腕が田中さんのお尻に押し退けられた。
「親しき仲にも礼儀ありって言うからね」
僕は田中さんに触れた腕をパッと引いて机の下に隠しながら、なるべく平静を装ってそう言った。
「ふ~ん?」
僕の反応をどう受け取ったのか、田中さんは少しニヤニヤしながら言った。
僕が田中さんを下から見上げていると、田中さんはニヤニヤ笑いを引っ込めて少し困ったような顔をすると、僕の耳元に顔を近付けてきた。
僕は視線が田中さんの首元から下に引き寄せられそうになるのを、意志の力でぐっと堪えた。
僕ってこんなにいやらしい人間だったっけ…いやでも、昔からあゆみさんには視線の位置で注意されてたな。じゃあ昔からこんなか。
いやいや、ノーブラ薄着でぶるんぶるん揺れるあゆみさんのアレは、性的なものは関係なく子供でも注視してしまうだろう。
いままでのアレと最近のコレは別物な気がする。
「玉岡さんさ、ずっと休んでるんだって…?」
一瞬で色々考えていた僕の思考が、田中さんの言葉に反応して急激に現実に引き戻される。
噂をすればじゃないが、ちょうどさっき田中さんはその事を知らないと思っていたため、僕は反射的にパッと田中さんの顔を見た。
僕の耳元に顔を寄せていた田中さんと鼻同士が当たりそうになり、僕は慌てて仰け反った。
田中さんは頬を赤く染めながら、ばつの悪そうな顔をしている。
「ああ…うん、なんか、風邪、引いてるみたいだね」
田中さんだけに聞こえる程度に声を抑えて、僕は答えた。
僕の返事に田中さんは怪訝そうな顔をする。
「そう…今日のお昼図書館集合ね」
ちょっと不機嫌そうな田中さんの声音。
怒っているわけではないが、少し不満そうな顔をした田中さんは、そのままスタスタと自分の席に戻っていった。
何かお気に召さないことがあったのだろうか。
女の子のことは、本当によくわからない。
お昼休み。
相変わらずさっさとお弁当を食べ終えた僕は、普段の帰りの下駄箱で綾乃にするように、さりげなく田中さんの視界に入る位置に回った。
田中さんはすぐ僕に気付き、目が合う。
田中さんは視線と小さな手振りで、僕に先に行くよう示した。
僕は小さく頷くと、すぐに教室を出た。
これで前回のように怒られないはず。やっぱり報告連絡は大事だよね。
まあ、田中さんに呼び出された理由によっては、別の件で怒られるんだろうけど。
図書館に着き、中に入る。
誰もいないようなシンとした静けさの中、僕は田中さんが来るまでの暇つぶしのために、一直線に図鑑コーナーへと向かった。
あまりの静かさから、僕は今日も図書館の中は無人だと思っており、周囲にまったく注意を払わずに早足で歩いていた。
そのせいで、本棚の角を曲がった瞬間、ちょうどそこを歩いていた人と真正面からぶつかってしまった。
「きゃっ」
小さな声で、僕とぶつかった女子生徒が悲鳴をあげる。
かなりの勢いでぶつかってしまったのか、女子生徒は後方へと倒れていき、その手がなすすべもなく空を掴んだ。
僕は素早く手を伸ばして、その伸ばされた女子生徒の手首を掴んだ。
掴んだ感触が思っていたより軽くて、僕が慌てて引っ張ったせいか今度は女子生徒は僕の胸元に飛ぶようにして倒れこんできた。
「あっ! ごめんなさい!」
僕は女子生徒を抱き止めると、すぐに二歩離れて深々と頭を下げた。
「すみません、周りをよく見てませんでした!」
大きな声で謝ってから、僕は慌てて口を噤んだ。ここは図書館だった…
「…いえ」
女子生徒の遠慮がちな声が聞こえて、僕は顔を上げた。
女子生徒は前髪が長く、目が隠れて見えない。どこかで見た気がする。
「あ、手首思い切り掴んじゃったけど、大丈夫?」
そう言った瞬間、僕の頭に殴られて赤くなった綾乃の顔が浮かんだ。
女の子の身体に傷が付くということが、血の気が引くほど怖くなる。
急激に動悸が早くなり、恐怖が胃のあたりに押し寄せた。衝動に駆られ、僕は女子生徒の了承も取らずに、彼女の手を取って制服の袖を捲ってしまった。
女子生徒の腕には、特に痕は残っていなかった。
僕がほっとした瞬間、女子生徒の手を握っていた僕の手が振り払われる。
顔を上げると、女子生徒は僕が掴んでいた手を胸に抱いて、俯いていた。
「ご、ごめっ…!」
再び大声で謝りそうになったのを、慌てて自制する。
図書館の中で僕はどれだけ大騒ぎをしているのか。
初対面の女の子の手を勝手に握ってしまい、さらには振り払われたことで凄まじい罪悪感が溢れてきた。
全身の毛穴が一気に広がり、冷や汗が噴き出した気がした。
「ごめんなさい、怪我させてないかなって思って…」
図書館の中にふさわしいはずの小声で、僕は女子生徒に謝罪した。
女子生徒は手を胸に抱いて俯いたままで、長い前髪の向こう側から僕を見ているようには感じるが、怒っているのか悲しんでいるのかまったくわからなかった。
そこで僕の後ろから、コンコンと何かを叩くノックのような音が聞こえた。
振り向くと、そこには田中さんがいた。
なんか凄い怒ってる。田中さんは無表情のまま、視線だけが鋭く僕の目を見ていた。
田中さんは本棚に寄りかかり、義手の甲の部分で再び本棚の木枠を叩いた。
乾いた音が、静まり返った図書館によく響いた。
「………何してんの?」
田中さんは低くて良く通る声でそう言った。
田中さんのこんな声も、こんな姿も初めて見た。
いや、田中さんとは知り合ってからそんなに付き合いがあるわけじゃないので、当然ではあるんだけど。
え、なんであんなに怒ってるんだろう。
僕の思考が激しくぶれる中、固まってる僕に田中さんはゆっくりと近付いてきた。
僕は自然と唾を飲み込んだ。
怖い。
綾乃マジギレモードに近いモノを感じる。
「何、ナンパ?」
田中さんは僕の隣に並びながら、義手を僕の肩にかけた。
鎖骨の隙間に絶妙にフィットした義手の先端が、僕の体に食い込む。
痛い痛い、痛いです。
それでも僕は、声に出さずに痛みに耐えた。
こういうとき正直に「痛い」というと、綾乃は「は?」とか言いながらさらに攻撃を仕掛けてきていたからだ。
とりあえず事情を説明しよう。何か誤解があるようだし。
「…あの、大丈夫です」
僕が喋り出す前に、女子生徒は走って本棚の間に姿を消した。
しばらくして、図書館の正面扉が開け閉めされた音が聞こえてきたから、たぶん図書館から出て行ったんだろう。
なんだかあの子には色々と申し訳ないことをしてしまった。
今度会ったら、ちゃんと謝っておかないと。
「こっち」
僕が女子生徒の走り去った方向を見ながらぼんやりしていると、田中さんが僕の肩にひっかけた義手で僕を引っ張った。
いだだだだだだだ。
僕がすぐ振り向いて引っかかっていた義手を体から外すと、田中さんは僕のほうを見ないまま義手を僕の首にひっかけ、そのまま引っ張っていった。
鍵爪状の形をした義手の手の部分に僕の首が収まるわけがなく、相変わらず義手の先端部が僕の首の後ろに食い込んでいて、あまつさえ今度は義手の指でつねられてまでいる。
田中さんは前回と同じ奥まったスペースまで僕を連れてくると、そのまま僕を椅子に座らせた。
田中さん自身も僕の隣にどかりと座り、僕のほうを向いて足を組んだ。
田中さんは胸の下で腕を組み、胸元がぐっと強調される。
少し俯いている僕の視界には、足を組んだ際に少しスカートがずれた田中さんの太ももがよく見えた。
「で、何してたの?」
まったくの無表情のままで、田中さんは僕に問いかけてきた。
田中さんは組んだ足で、メトロノームのように一定のリズムで僕の足を軽く蹴っていた。
色々目のやり場に困ったが、ここで目が泳ぐとどう受け取られるかわからない。
僕は正直に話すことで、原因不明の田中さんの怒りを静めようと試みた。
「いや、僕の不注意であの人とぶつかっちゃってね」
「それで、なんであの子の袖めくったの?」
そこも見られてましたか。
再び僕の体中から冷や汗が噴き出る。
あのときの焦燥感は僕自身もよくわからない。ただ強烈な恐怖に突き動かされて、発作的に取った行動だった。
いや、原因はどうでもいいんだ。事実だけを端的に説明すれば。
「…ぶつかったときに転びそうになったあの子の手首を思いっきり掴んじゃって、怪我させてないか確認しようと…ね…?」
不確か不明瞭なことは言わなくていいんだ。嘘はついていない。
声が震えてるのはやましい事があるからじゃないんです。
田中さんは僕の答えを聞いて、値踏みするように目を細めた。
思わず目を逸らしそうになるのを、僕は必死で堪えた。
女の子は怒ると怖い。特に、僕には理由がわからないとき、殊更激しく怒る気がする。
綾乃と田中さんの例しか知らないが、僕は心の中で強くそう思った。
「ふ~ん?」
なんだか凄いデジャヴを感じる。
ついこの間、似たような状況があったような。
田中さんからの強烈な無言の圧力のせいで、テンパッた僕の頭ではそれ以上思い出すことはできなかった。
「あの子、知り合いなの?」
「いえ、さっき初めて会いま…あっ」
僕が思わず声をあげると、田中さんがぴくりと眉を動かした。
あの子、朝の女子生徒か。
いまさらになってやっと思い出したけど、あの朝のことも田中さんに説明したほうがいいかな。
田中さんは少し眉を寄せて、黙って僕を見ている。
その表情からは怒りや苛立ちとは違う、僕にはよくわからないマイナスの感情が発せられていた。
ここは正直に話しておこう。うん。
「今日の朝、僕が階段を上ってたら、あの子が上から落ちてきて受け止めてあげたけど、知らない人です」
余計な誤魔化しを入れずに、僕は正直に話した。
田中さんは机に頬杖をつくと、ほっぺたを少しだけぷくっと膨らませた。
そのまま大きくため息をつくと、田中さんは一度だけ強めに僕の脛を蹴った。いや、組んでた足を下ろした際に、たまたまぶつかっただけに違いない。
何故田中さんがここまで怒ったのかよくわからないが、そういうことは僕にはままあることなので、僕はお叱りを甘んじて受け入れることにした。
反省の気持ちは態度で示す。僕は図書館の床に正座した。
そんな僕の姿を見た田中さんは、口から息をぷすーっと吹き出すと、声を出さずに笑い始めた。
田中さんは自分のお腹を抱えて、椅子の上で悶えている。
そんなに足を動かすと、スカートの中が見え…
田中さんの短めのスカートの奥に、水色の何かがちらついた瞬間、僕は視線を完全に下に落とした。
田中さんの笑いが収まるのを待つ。
俯いていても田中さんの白い足がちらちら見えて、さっきの水色が僕の脳裏にちらつく。
僕のズボンの中が、痛いほどに張り詰めていた。怒られてるのに何を考えているんだ僕は。
「他の女の子に、ああいうことはもうしないようにっ!」
ひとしきり笑った田中さんがふいにそう言ったので、僕は正座したまま顔を上げて田中さんを見た。
田中さんの顔は笑いすぎたためか怒りのためかかなり赤くなっており、眉を寄せて目を吊り上げて、さっきまでとは違うわかりやすい怒りの表情をしていた。
しかし、田中さんはもう怒っていないようだった。
「はい、ごめんなさい」
改めて僕は頭を下げる。
それはその通りですよね。反省しております…
「で、なんで正座したの? とりあえず座ってよ」
田中さんに促されて、僕は腰を若干引きながら注意深く椅子に座った。なるべく不自然にならないように動けたはずだ。
田中さんは僕の動きを見て、少し怪訝な顔をしていた。
「いえ、反省の意を示すためにですね…いや、それより何か用があるんじゃないの?」
僕はすぐに話題転換を図った。
結構長いことゴタゴタやっていたし、お昼休みの時間ももうあんまりないだろうしね。
別に他意はないんですよ田中さん。
「ああうん、玉岡さんのことなんだけどさ」
田中さんはすぐ僕の振った話題に乗ってきてくれた。
綾乃についてか。そういえば田中さんは、綾乃が学校を休んでることはどこで知ったんだろう。
「一週間くらい休んでるんでしょ? 結構、噂になってるよ」
田中さんは少し言いにくそうに、視線を若干彷徨わせていた。
綾乃のこと、噂になってるんだ。僕は全然知らなかったけど、田中さんがそんな風に言うって事は、結構広まってるんだろうか。
「それに、玉岡さんが休んだすぐあとに、サッカー部の先輩が急に転校しちゃったし。あの人、サッカー部の部長で女子に人気もあったから、こんな時期に転校はおかしいってみんな騒いでるんだよね」
生徒の間には、そんな話題もあるのか。
サッカー部の先輩が転校したとか、よくそんなことをみんな知ってるなぁ。
その人が誰かなんてまったくわからないけど、こんな時期に三年生が転校するのは確かに違和感を感じる。
まあでも、所詮僕らは中学生だし、ご両親の仕事の都合とかもあるとは思うんだけどね。
ボケッと聞いてる僕を見て田中さんは何を思ったのか、凄く辛そうな顔でそわそわと視線を泳がせ始めた。
「それで…さ、みんな玉岡さんが休んでるのと、関係あるんじゃないかって…」
三年生の先輩の転校と、綾乃の長期療養が何故繋がるんだろうか。
その発想に到る因果関係が掴めなくて、僕は眉を寄せて考え込む。
綾乃の長期療養は、学校にも風邪ということで連絡しているだろうし、綾乃のクラスの担任の先生だって、クラスメートにはそう説明しているだろう。
「あっ…えっと、ごめんね、変なこと言っちゃって」
黙ったままの僕を前にして、田中さんが少し震えた声でそう言ってきた。
田中さんを見ると、若干涙目になって、下唇を軽く噛んでいる。
さっきまでの足を組んだ尊大な姿勢とはまったく正反対に、揃えた足の上で両手をもじもじさせていた。
その姿を見て、僕の胸が少し高鳴ったが、慌てて心の中で否定する。
高鳴った理由も、否定した理由も僕自身よくわからなかった。
「いや、別に謝ることはないんじゃないかな」
田中さんは居心地悪そうな表情で、上目遣いに僕を見ている。
田中さんは何かを恐れているように見えた。
「それで、僕に話って何?」
綾乃の噂があることはわかったけど、田中さんが結局僕に何を聞きたいのかがまだ話に出ていなかった。
だけどそこで、お昼休みのまもなくの終わりを告げる予鈴が響き渡った。
その音に弾かれたかのように、田中さんが椅子から立ち上がる。
「そ、それだけなんだ。玉岡さんに、なんかあったのかと思ってさ。ごめんね、変なこと聞いて!」
田中さんは早口でそう言うと、僕の横をすり抜けて行こうとした。
反射的に僕は、田中さんの義手を掴んだ。
さっき怒られたばかりだけど、今は仕方が無い。
田中さんが慌てて振り向き、驚いた目で僕を見る。田中さんの目尻には、いまにも零れそうなほどの涙が溜まっていた。
「綾乃のこと、心配してくれたんだよね。ありがとう」
出来る限りの笑顔で、感謝を伝える。
ここ最近、多くの人が綾乃を気にかけてくれている事実を知って、僕は心の底から温かい気持ちが湧き上がってきていた。
田中さんは僕と一瞬だけ視線を合わせると、すぐに俯いてしまった。
前髪で目元が隠れて、まだ椅子に座っている僕からは、田中さんの震える唇だけが見えた。
そんなんじゃないし
田中さんは声に出さずにそう言うと、僕が掴んでいた手を振り払うようしながらに僕に背を向けた。
「それじゃ、先に行ってるね」
田中さんは震えた声でそう言い、凄い勢いで走っていった。
また図書館の中走ってるし…いや、結構時間ギリギリのはずだし、僕も走らないと。
前回の反省を生かして教室へ走った結果、僕は途中で先生に見つかりお叱りを受けた。