結局綾乃は、今週も丸々学校を休んでしまった。
金曜日の朝、今日も綾乃には会えないんじゃないかとどん底のような気分でいつも通りの時間に綾乃の家に行ったところ、あゆみさんに抱き締められながら今日の夜お泊りしに来るようにと言われた。
その言葉を聞いた瞬間、自分でも異常に思うくらい気持ちが高揚して、思わずあゆみさんを抱き締め返してしまった。
僕は全身から溢れ出す感情を抑えるように、あゆみさんの背中に手を回してぎゅっと抱き着いた。
あゆみさんはそんな僕の頭を優しく撫でて、僕が手を離すまで抱き締めていてくれた。
「それじゃ~、気をつけて行ってらっしゃいねぇ~。浮かれて怪我なんてしないようにぃ~」
恥ずかしさを誤魔化すために足早に立ち去ろうとした僕を、あゆみさんが大きな声で見送ってくれた。
気分が浮ついているのが自分でもわかった。昨日までとは違う理由で、足元がふわふわしている。
僕はあゆみさんに頭を下げると、再び駅に向かって歩き始めた。
駅についたら、いつもの駅員さんにも一目で察せられてしまった。
「綾乃ちゃん、元気になったんだ?」
僕の顔を見るなり、女性の駅員さんは満面の笑顔でそう話しかけてきた。
そんなに僕はわかりやすい顔をしていたのだろうか。なんだか気恥ずかしくて、僕は誤魔化すように頬を掻いた。
「はい、えぇと…はい、そうです」
「よかったね! じゃあ週明けからかな?」
駅員さんは凄く嬉しそうに、僕の肘にトンッ、トンッと体を当ててくる。
友達のような、まるで実の弟にでも対するかのような距離感だ。
駅員さんは肘で僕を突っついてるつもりなんだろうけど、時間差でなにかあったかいものがポヨンと当たってる。
「ええ、たぶん」
僕はピンクになりかけた意識を逸らすために、今度は駅員さん側の指で頬を掻いた。
最近女性の胸ばかり意識している気がする。駅員さんの胸なんて今まで気にしたことなかったのに。
…意外とおっきいなこの人。
「あれあれ~、照れてるの~?」
駅員さんがニヤニヤしながら僕の頬を突ついてくる。
僕が腕を折り曲げたせいで、腕に当たる表面積が増えた。
「えっ! いや、なんの話ですか」
焦る。
バレたのかな。
そうならもう今後、ここで駅員さんに合わせる顔がない。
僕の慌てた様子にドヤ顔した駅員さんは、胸の下で腕を組むとふふんと鼻を鳴らした。
胸の大きな人が腕を組むのは反則だと思います。
僕は吸い寄せられそうになる視線を、無理矢理駅員さんの顔に向けた。
「そりゃわかるよ! あんなにこの世の終わりみたいな顔してたのに、もうすっごいウッキウキしてるんだもん」
あ~、そっちですか、よかった。
でも、そんなにわかりやすかったかな。
駅員さんに直接聞こうかと思ったタイミングで、駅のホームに電車が来る。
同時に、駅員さんの上司だか先輩らしい人も現れた。
「あ、おはようございます」
「お疲れ様です! 先輩もナイトくんのお見送りですか?」
「おはようございます、お気をつけていってらっしゃいませ…お前はちょっとこい」
この人先輩だったんだ。
先輩駅員さんは、僕に笑顔で挨拶をしてくれたあと、渋面を作って駅員さんを睨んだ。
怒ってる、というよりは苦虫を噛み潰したような顔だ。
駅員さんが制服の二の腕をつままれて連行されて行く。
ジュンシンナダンシチュウガクセイヲユウワクスルナ
ナニイッテルンデスカセンパイ? アッソレッテセクハラデスヨ!
ウルサイダマレクジョウガキテルンダヨ
エー!?
何か話しながら離れて行く二人を、僕は電車の中から見送った。
「ナイトく~ん! いってらっしゃ~い!」
女性駅員さんは先輩駅員さんに引っ張られながら、僕の方を振り向いて大きく手を振ってくれた。
先輩駅員さんはその様子を見て、一瞬困ったような笑顔を見せていた。
あれなら、怒られるにしてもそんなに厳しくはならなさそうだ。
「おはようございます」
電車を降りると同時に、いつものように強面の駅員さんに丁寧に挨拶をされた。
「おはようございます」
僕は駅員さんに負けないように、出来る限り丁寧に挨拶を返した。
礼儀作法なんてならったことないけど、この駅員さんをお手本にして真似てるし、だいぶ見栄えはいいはずだ。
僕の顔を見た駅員さんは、ふっと笑顔を浮かべた。
鋭い目付きの険まで取れた、普段よりずっと優しい笑顔だった。
「…玉岡さんはご回復されましたか」
駅員さんは優しい声音でそう言ってきた。
理由はわからないけど、凄く嬉しそうだ。
「あ、はい…えっと、そんなにわかりやすいですかね…?」
女性駅員さんとの会話を思い出して、僕はついそんなことを聞いてしまった。
我ながらかなり突拍子もない会話展開だ。
「晴れやかな顔をされていたので、そうではないかと思いまして」
駅員さんが苦笑する。ちょっとしたイタズラに成功したような、この人には珍しい表情だった。
僕はなんだか恥ずかしくなって、頭を掻いた。
そんなに僕ってわかりやすかったのか。
「誰かのために心を痛めて、心配することは素晴らしいことだと思いますよ」
駅員さんは僕の肩に手を添えると、駅のホームの階段へ僕を促した。
今日はホームでの挨拶だけでなく、駅の改札口まで一緒に来てくれるつもりみたいだ。
いつもより話す時間が取れたので、僕は以前からずっと疑問に思っていたことを聞くことにした。
「あの、なんで僕みたいな子供にまでそんなに丁寧にしてくださるんですか?」
僕の問いかけに駅員さんはちょっと驚いた顔をしたあと、少し照れたような顔をした。
僕が言うのも失礼だろうけど、10歳くらい若返ったような、少年みたいな笑顔だった。
この人はこんな表情もできるんだ。なんだか凄く新鮮な気持ちだった。
「それはですね…あなたのことを尊敬しているからですよ」
駅員さんは立ち止まると、真摯な瞳で僕にそう言った。
それこそ、大人が子供にするようなものではない、強烈な誠意と敬意を感じた。
「そんな、駅員さんに尊敬されるようなことなんて何も…」
この駅には、通学する時しか来ない。
だから中学校にあがってからの、駅のホームでの短い時間以外は、ほとんどこの駅員さんとの接点はなかった。
帰りの時間は少しずれたりもするせいか、この駅員さんが対応してくれることは稀だった。
「少しお時間を頂けますか?」
いつも通りの時間にきているから、ホームルームまではまだかなり時間がある。
僕一人なら走れば5分で学校に着くし、時間は十分だけど…
「僕は大丈夫ですけど、あの」
「私も、忙しくなるまでまだ少し時間がありますので」
僕の言いたいことを察して、駅員さんは先んじてそう言ってきた。
一緒に駅のホームの階段脇に移動する。
まだ通勤ラッシュには時間があって、駅のホームには誰もいなかった。
「私があなたを尊敬している理由は、あなたの玉岡さんに対する態度ですよ」
駅員さんはゆっくりとした声でそう話し始めた。
僕の綾乃に対する態度と言われても、全然尊敬される理由として納得できなかった。
そんな僕の疑問符に気付いたのか、駅員さんは優しく微笑むとさらに説明を続けてくれた。
「全てのお客様に誠意と真心を持って対応する、というのが私のこの仕事に対する信念です」
それはよくわかる。この人は僕や綾乃以外のお客さんに対しても、非常に丁寧に対応していた。
「こういう言い方はお気に障るかと思いますが…私は最初の頃、玉岡さんに対するとき障害者として意識している自分に気付いたんです。他のお客様とは違った、『障害を持つ』お客様として対応していました」
それは普通なんじゃないのかな。
綾乃が大変な思いをしていることを間近で見ている僕でなくても、綾乃の姿を見ればその苦労は誰にでも推し量れると思う。
その上で対応を意識するのは、別におかしなことではないと僕は思った。
「そうですね。私も、あなたのことを知らなければ、それが当然のことと考えていたかもしれません」
僕の表情の変化を読み取ったのか、何も言っていないのに駅員さんはゆっくりと頷いた。
そんなに表情に出てるのか僕は。色々気をつけよう。
そんな僕の感情の変化すら丸わかりだったのか、駅員さんは苦笑するとさらに続けた。
「あなたは玉岡さんを、一人の女性として気遣っていました。障害者ではなく、一個の人間として対等に」
だから、駅員さんは僕を尊敬しているのだと言う。
駅員さんはまっすぐに僕を見つめた。そこに嘘は欠片もなかった。
僕は顔が赤くなるのを感じた。頬が熱い。
こんなことを言われたのは初めてだったし、しかもこんな立派に働いてる大人の人からこんな風に思われているなんて想像もしていなかった。
嬉しさと気恥ずかしさで悶えそうになる。
口元がにやつきそうになるのを、俯いて必死で堪えた。今絶対変な顔してるよ…
「宇田川さんは私の目標です…こんな話に付き合ってくださってありがとうございました」
駅員さんは僕の背をそっと押すと、階段へと促した。
あまりの気恥ずかしさに駅員さんの顔が見れず、僕は中途半端な返事を返すことしかできなかった。
結局僕のニヤニヤは、学校につくまで収まらなかった。
道行く人に変な目で見られた気がする。駅員さんと話し込んだせいで、同じ学校の生徒も結構歩いてる時間帯になってしまったのがさらに恥ずかしかった。
教室に入ると、いつも僕が一番乗りなのに、今日は結構なクラスメートが既に教室にいた。
机に頬杖をついてぼーっとしている田中さんが目に入る。
そういえば図書館での二度目のあれから、田中さんとまったく話をしてなかったなぁ。
そもそも、僕から挨拶したこともない気がするし、たまには僕から声を掛けるべきかな。
とりあえず挨拶くらいはいいだろうと思い、田中さんに近付く。
横から近付いたせいか、田中さんは僕に気付いていないようだった。
「田中さん、おはようございます」
「ふぇっ!? えっ? あっ、ただ…宇田川、おはよう…」
なんか可愛らしい悲鳴を上げながら体をびくりと跳ねさせた田中さんは、わたわたと慌てながら僕に挨拶を返してくれた。
いきなり声を掛けたからびっくりさせちゃったかな。
しかし、僕から声をかけて無視されたりしなくてよかった。
寂しいボッチ男子に深い慈悲の心で話しかけてただけなのに、何勘違いしてんだとか思われてないよね?
挨拶ミッションを無事にこなした僕は、自分のネガティブな想像にありえなくもないと思い、早々に自分の席へ向かおうとした。
「あ、あのさっ」
田中さんに呼び止められた。
僕が振り向くと、田中さんは何かに怯える様な顔をしたあと、一度ぎゅっと目を瞑ると僕と視線を合わせた。
「この間は、ごめんね」
だんだん尻すぼみになる田中さんの声。
この間って図書館でのことかな。何か謝られるようなことがあっただろうか。
ああ、僕を蹴ったことかな? やっぱりあれは組み替えた足が当たっただけだったんだね。よかったよかった。
「いや、大丈夫。気にしてないよ」
僕は左右に手をひらひらさせながら苦笑した。
あんなことにこんなに心を痛めるなんて、田中さんは律義な人だなぁ。
田中さんがほっとした表情になったのを見届けると、僕は自分の席に向かった。
早く放課後になってほしいと思ってる。
携帯電話が震えたので見てみると、母親から『全て了承済み』とのメールが入っていた。
長かったような短いような学校での授業を終え、僕は家に帰ってきた。
両親は仕事のため、相変わらず家の中は無人だったけど、いつものことなので僕は特に気にしなかった。
制服を脱いで、シャワーを浴びる。
駅から家まで早足で歩いてしまったので、少し汗をかいていた。
久しぶりに綾乃に会って、また男臭いと言われたらかなりへこむから、僕は念入りに体を洗った。
頭をよく乾かしてから、綾乃の家に向かう。
チャイムを鳴らすと、すぐに玄関が開いた。廊下で待ってたのかと思うくらい早かった。
僕を出迎えてくれたのは、綾乃だった。
久しぶりに見た綾乃の姿に歓喜の気持が沸き上がると同時に、僕の背筋をぞくりとしたものがよぎった。
眉を寄せ、口元をへの字に曲げたしかめっ面をした綾乃の瞳が、妖しく光った気がした。
「…いらっしゃい」
「あ、ひ…久しぶり…」
僕がどもりながら挨拶すると、綾乃は小さく頷くと車椅子を動かして家の中に入って行った。
「早くあがりなさい」
綾乃が背中越しに声を掛けてきたのでを、僕は返事をしながら慌てて追いかけた。
家の中には綾乃の他には誰もいなかった。
綾乃のお父さんはこの時間はいつもいないけど、あゆみさんは買いものなのかな。
久しぶりに会った上に、いきなり綾乃と二人きりになって、僕は緊張し始めていた。
「あれ、あゆみさんは?」
「出かけてるわよ」
僕が問いかけると、綾乃は背を向けたままそう答えた。
てっきりリビングに行くのかと思ったら、綾乃はそのまま自分の部屋に向かった。
綾乃には何か用があるのかなと思って、僕はそのままリビングの扉を開けた。
「何してるの、こっち」
リビングに入ろうとした僕に綾乃が声を掛けてくる。
僕が振り向くと、綾乃はもう自分の部屋に入るところだった。
心臓がバクバクいっている。何か凄く二人っきりであることを意識してしまって、綾乃の部屋に入ることが凄く緊張する。
綾乃の部屋に入ると、綾乃は車椅子から降りて部屋に敷かれた布団の上に座っていた。
さっきまで寝てたのかな。僕は綾乃の体調が急に心配になってきた。
「体、大丈夫なの?」
僕は布団の上に乗らないようにしながら、綾乃の斜め前に座る。
何故か僕は正座してしまった。
僕が座ると、綾乃は何故か心底不満そうな顔をした。
「…別に、大丈夫よ。見ての通り、怪我も治ったわ」
綾乃が少しだけ横を向き、僕の方に頬をつき出す。
綾乃の頬はなめらかでやわらかそうで、いまはほんのりと桜色に染まっていた。
言い知れない恐怖が、僕の心の底から突き上がってくる。
綾乃の傷が完治したのか、もっとよく見て確認したかった。
「…ねぇ、もう少し近くで見てもいい…?」
「えっ!? …い、いいわよ…?」
綾乃はびっくりした顔で僕の方を見ると、ぶっきらぼうに返事をして、目を瞑って横を向いた。
布団の上に上がって、綾乃の傍ににじり寄る。
目を瞑っていても僕が近付いたことを感じたのか、綾乃の体がぴくりと少しだけ震えた。
僕は綾乃の頬に手を添え、頭を両手で包み込むようにしながら綾乃の頬を観察した。
綾乃の長いまつ毛が震えたのがわかったが、綾乃は特に抵抗せずに僕のなすがままにさせている。
僕は宝石を鑑定するかのように、見る角度を変えながら綾乃の頬をじっくり見た。
綾乃の顔は精巧な彫刻のように整っており、僕の目には傷痕は少しも見つけられなかった。
「よかった…」
安堵の息を吐くと、僕の瞳から大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
なんで涙が流れるのかは自分でもよくわからなかったけど、胸につかえていた棘のようなものが少しだけ楽になった気がした。
僕の涙が綾乃の太ももに落ちて、綾乃がぎょっとして僕の顔を見る。
僕の泣き顔を見た綾乃は、自分も泣きそうな顔になりながらも優しく微笑み返してくれた。
「もう…なに泣いてるのよ」
綾乃がその短い両腕で、僕の頭を抱え込む。
自分でも止め方のわからない涙を零す僕の頬に、綾乃は頬を擦り付けて抱き締めてくれた。
いつまでそうしていたかわからないけど、僕はいつのまにか綾乃を抱き締めていた。
綾乃は僕をあやすように、腕で僕の体をずっと撫でてくれていた。
「ごめん、いきなり泣いたりして」
僕はそう謝りながら綾乃から離れようとしたが、綾乃は僕の頭を腕で挟んで離れようとしなかった。
凄く近い距離で、僕と綾乃は見つめ合った。
「ううん、心配してくれたんだよね。私こそごめんね、こんなに心配かけて」
綾乃が微笑む。屈託のない笑顔だった。
それを見た瞬間、僕の心臓が激しく跳ねた。綾乃を押し倒したいという謎の衝動を必死で抑える。
こんなときに何を考えてるんだ僕は。
「結局あの後ね、私はただの子供のケンカだよってお母さんに言ったんだけど、相手の子は責任感じて転校しちゃったんだって」
綾乃が視線を下に向けながら、辛そうにそう言った。
そうか、あいつは転校したのか。その事実を聞いても、僕は何も感じなかった。
いや、少しだけ暗い感情が沸いた。その程度で済ませるものか、と。
しかし綾乃は、そうなった責任が自分にあるかのように受け止めているように見えた。
何故かわからない。綾乃は完全に被害者で、僕には綾乃が苦しそうな顔をする理由がまったくわからなかった。
「お母さんに聞いたんだ。私の何が、あの子を怒らせちゃったのかなって」
綾乃はぽつりぽつりと、小さな声で話を続けた。
あゆみさんは思い悩む綾乃に「好きな人に拒絶されると、愛情が裏返って憎悪してしまう人もいる」と答えたそうだ。
「そう言われるとね、私もちょっと、冷たい態度を取っちゃったかなって思うんだ。好きな人に想いを告げて断られた上、あんな態度取られたら、私も怒ると思うし」
綾乃は目を閉じると、僕の胸におでこをくっつけた。
「だから私、その子が転校するって聞いて、そんな必要はないってお母さんから学校に伝えてもらったの」
学校も綾乃の意思を受けて、相手側にそう伝えてくれたようだ。
だが、相手側は頑として譲らなかったという。
相手の親御さんから手紙で謝罪文とともに「そちらの娘さんのためにも、これだけは道義を通したい」との連絡がきて、そのまま転校してしまったそうだ。
「告白を振って傷付けて、怒らせて傷付けて…せっかく、私のことを好きになってくれた人だったのにね…」
綾乃の震えた声から、深い後悔が伝わってきた。
あんなヤツのことなんて何も気にする必要はないのに、綾乃は自分を責めていた。
だけど僕には、綾乃が何に後悔しているのかまったく想像がつかなかった。
僕は綾乃の頭を抱き締めた。綾乃のために、僕は何ができるんだろう。
気持ちすらわかってあげられない人間が、役に立つことがあるのだろうか。
「綾乃は、どうしたいの?」
僕の声も震えて、かすれていた。
綾乃はゆっくり顔を上げると、僕の顔をじっと見つめた。
綾乃は慈愛に満ちた瞳で、僕に柔らかく微笑んでくれた。
「そうね、私は美少女だから今後もこういうことがあるだろうし、上手くかわせるようにならなくちゃ、ね!」
綾乃はわざとおどけてそう言った。
辛い思いをしているのは綾乃の方なのに、逆に気遣わせてしまった。
僕は綾乃の頭を再びぎゅっと抱きしめた。
「僕に協力できることなら、なんでもするから」
僕がそう言うと、綾乃は僕の体に深く抱きついてきた。
綾乃の太ももが、正座している僕の膝を挟んだ。
「うん、ありがと…」
しばらく、僕らは抱きあったまま動かなかった。
父親の言葉を思い出す。
相手のことを思いやれ、と。
余計なことに気を回さず、ただ相手のために考えて行動しろ、と。
人と感性がずれている自覚がある僕は、この言葉を胸に行動してきた。
ほとんど上手くいってない気がするけど、せめて綾乃に対してだけは、上手くいかないなんてことが無いようにしたかった。
「あー…えっと、ね…」
どれくらい時間が経ったか、綾乃が身じろぎをしながら、何か言いにくそうに声をあげた。
綾乃の頭から手を離して、綾乃の顔を見る。
綾乃は珍しく目をキョドキョドさせて、困ったような誤魔化し笑いを浮かべていた。
「どうかした?」
「あー…うん…実はね、たっくんにお願いがあるんだけど…」
おお、綾乃からのお願い。
なんでも言ってください、精勤に努めさせていただきます。
と、そこで僕はあることを思い出した。駅員さん達からの伝言だ。
忘れる前に伝えておかないと。
「あっ、そういえばいつも朝対応してくれる駅員さん達が、綾乃のこと心配してたよ。お大事にしてくださいって伝言を任されてたんだ」
やっと達成出来て、僕は晴れ晴れとした気持ちになっていた。
「えっ、あ、そうなの? それは心配かけちゃった、なぁ~って」
しかし僕が想像していたほど、綾乃は喜ばなかった。
いや、喜んではいるけど、すっごい複雑そうな顔をしている。
なんか「ふ、雰囲気が…」とか「このKYが」とか言ってるし。
KYですみません綾乃さん。
「それで、お願いって何?」
綾乃の気配が負の方向に振れたのが見えた気がした僕は、慌てて話を戻す。
綾乃が我が意を得たりといった感じで、ぱっと表情を明るくする。
「そうそう! それでね私今回男の子に圧し掛かられて凄く怖い思いをしたわけじゃない? だから変なトラウマになっても困るしその克服する協力をたっくんにお願いしようと思って!」
綾乃が早口で捲くし立てる。
あれ、さっき今回の件はあんまり気にしてないみたいな話を自分でしてなかったっけ?
僕が不思議に思って首を傾げると、綾乃は焦った様子でさらに言い募った。
「べ、別に何か難しいことをするわけじゃないの! ただのあのときの状況を再現して、辛い思い出を乗り越えようってだけだから! たっくんはこのまま私を押し倒して馬乗りになって、腕を押さえればいいだけだから!」
綾乃の目がぶれすぎて、ぐるぐるしているように見える。
綾乃はそのままこてんと後ろに転がると、布団の上で大の字になった。
「さあ!」
さあ、って言われましても。
綾乃は恥ずかしさがマックスになってるのか、真っ赤な顔で引き結んだ口元をぷるぷるさせていた。
僕が綾乃言われたとおりの体勢になると、綾乃はほっと安堵の息を吐いた。
「これでいいの?」
なんだか恍惚とした表情の綾乃に問いかける。
視線は合ってるはずなのに、綾乃の目の焦点が合ってない。
僕はもう一度問いかけた。
「ねぇ、これでいいの?」
「ふぇっ!? あっ、うん、もう少し強くしてもいい、かな」
綾乃が可愛い声を出して意識をこちらに向ける。
女の子が驚いたときに出す声は、なんでこんなに可愛いんだろう。
さっきまで張りつめていた心が緩み、僕の気持に余裕ができる。
しかし改めて冷静に状況を把握すると、また別の緊張が高まってきた。
股間に血が集まりそうになるのを、僕は必死で堪えた。
「こう?」
綾乃に言われたとおり、少しだけ腕を抑える手に力を込めた。
綾乃が重くないように、少し腰を浮かしていたため、自然と体が少し前のめりになった。
「う、うん………ねぇ、どんな感じ?」
凄いデジャヴを感じた。
前は駄々漏れさせたけど、今回は自制しないと。
「凄く…ドキドキします…」
ダメだ。何も変わらなかった。
というか、僕がどうとかじゃなくて、綾乃のトラウマ克服が目的なんじゃなかったっけ。
心臓が高鳴る。僕の股間は意思に従わず、全力でテントを張っていた。
綾乃に気付かれずにどうやって切り抜けよう…
「ねぇ、たっくん…」
綾乃の真剣な声音に、僕は逃避しかけていた現実に意識を戻した。
綾乃はさっきまでのぐるぐるしていた目とは違って、深い決意を湛えた、それでいて非常に熱っぽい視線を僕に真っ直ぐ向けていた。
綾乃の雰囲気に飲まれて、僕は息を止めた。
綾乃は一度唾を飲み込むと、ゆっくりと口を開いた。
「私は、たっくんのことが、男性として好きです。結婚を前提に付き合ってください」
綾乃の言葉に、僕は自分の耳を疑った。
綾乃は顔を茹で蛸のように真っ赤にしているが、その真剣な眼差しには、嘘や冗談を言っている様子は欠片もなかった。
心臓の音が煩い。耳鳴りがする。頭に血が上って、意識が遠くなりそうだった。
綾乃の言葉を頭が理解する前に、腹の底から沸き上がってくるドス黒い感情があった。
許可が出た。僕の物だ。貪りたい。
綾乃を蹂躙したがる体を、僕は必死で抑えた。
「へ…返事を、聞かせてくだひゃい…」
綾乃が声を震わせている。
答えてあげたいが、呼吸が浅く、荒くなって、僕は言葉を紡ぐことができなかった。
僕につられるように、綾乃も呼吸が荒くなり、唾を飲み込む回数が増えていた。
その白くて細い喉が動くたびに、吸い付きたくなる衝動が僕の背中を駆け上がる。
「…僕の気持ちは、綾乃と同じものじゃない気がする」
精一杯、僕は声を絞り出した。
僕の持つ想いは、綾乃みたいな誰かを愛するなんて言える感情ではない。
嫌われてでも傍にいたい。隣に寄り添うことが叶わなくても、道具としてでも使い続けて欲しい。
そしていま、綾乃の告白を聞いて、僕は想いが通じあったという感情より、綾乃の体を自由にする許可を貰ったという考えが先に沸き上がってきた。
これは人を好きになるのとは違う。ただの性欲だ。
綾乃は浅い呼吸を繰り返しながらも、僕から視線を逸らさなかった。
「じゃ、じゃあ…いまどう思ってるんですか…正直に聞かせて…くだ、さい」
「綾乃を無茶苦茶にしたいと思ってる」
綾乃がゆっくりと言葉を紡ぐのに割り込むように、僕は即答した。
綾乃の腕を押さえていた手に、知らずに力が入っており、僕は慌てて力を抜いた。
でも、手は離さなかった。
綾乃は大きく目を見開いたあと、泣き笑いのような顔をした。
きっと次には拒絶の言葉が出るに違いない。
こんなケダモノのような相手は、綾乃も御免被るだろう。
「私も、そうして欲しいです…」
その言葉を聞いて、僕は綾乃の可憐な唇に食らいついた。
綾乃の小さな唇に吸い付き、舐め、その柔らかさを思い付く限りの方法で堪能した。
綾乃は目をきつく閉じて、僕の乱暴な行為を受け入れている。
綾乃の唇が少しだけ開き、小さな舌先がほんの少し僕の舌に触れた。
僕は綾乃を全身で押し潰した。
熱い綾乃の吐息に導かれるように、僕は綾乃の口の中に自分の舌を滑り込ませた。