決して捕まらず正体を見せない相手が気になるのは探偵だけではない、逃げる側もだ。
妻が亡くなったとき、同時に失ったものは自分自身がらしく在るべき居場所だった。
全てが終わったと思った。
だが、そんな自分に生きがいを与えてくれた人間がいた。
この人の為なら自分は、どんなことでも、なんだってできると、そう思った。
それが、たとえ悪行と言われ、人から後ろ指を刺されるようなことでもだ。
平和という、ぬるま湯に浸りきって、ロンドンの人間は堕落している。
しかも、街を騒がせている犯罪と、それを犯す者達は、あまりに低俗で愚かだ。
そう言って、男は彼に見せた、これは私が作ったものだ。
スペルバウンドという犯罪組織の全貌を。
普通の人間には到底、理解できないものだった。
軍事、麻薬、犯罪、それは普通の人間なら拒絶し、嫌うものだ。
だが、完全に排除されるべきものではないということも事実だ。
スペルバウンドは大きくなっていった。
軍資金が足りなくなれば貴族達と取引する。
慈善事業や博愛精神を口にして多額の寄付をする彼らとて人間だ。
うまい話があると目の前に餌をぶらさげれば、犬のように尻尾を振ってくる。
従わない連中には弱みを握り、恐喝や脅しでいうことをきかせる。
命を奪う、殺人などは最終手段だ。
いや、そんなことをしなくても十分だった。
それぐらい、ロンドンの社交界、上流貴族達の腹の中は腐敗していたといってもよかった。
「ところで、例の者だが」
一瞬、何を言われたのか、セドリック・モランは分からなかった。
「ホームズを出し抜いた探偵だ」
正体がわかったと言われて、モランは驚いた。
会いに行ってみようではないかと言われて驚いた。
「会いに、ですか」
「一週間後にラフィール侯爵家でパーティがある、そこで会えるだろう」
「パーティ、ですか」
益々、意味がわからない。
そんな自分に組織のボスである男は予告状が届いていると答えた。
「アルセーヌ・ルパンからだ、怪盗が現れたならば探偵もだ」
「危険です、ホームズも」
「勿論、あの男も来るだろう、でなければおもしろくない」
表向きは慈善家だが、陰では麻薬と密輸の取引を行っている侯爵家を訪れたモランは、そこがスペルバウンドのアジトの一つであると聴かされて驚いた。
「ようこそ、教授、大佐は初めてでございますな、ゆっくりとおくつろぎください、ところで、宝石ですが」
「罠は仕掛けたのか」
スコットランドヤードが守ってくださいますと侯爵は、にやりと笑った。
最初は偽物を用意し、それをルパンに盗ませようというヤードの提案だったが。
偽物などを用意しては侯爵家の名誉にかかわるし、自分はルパンなど恐れてはいない。
それにヤードを信頼している。
「なるほど、スコットランドヤードは、おまえの口上にまんまと乗ったわけだ、しかし、ルパンにまんまと盗まれてしまったら、どうする」
困りますなと侯爵は呟いた。
だが、そう言った顔からは、少しも、そんな様子など伺えそうにない。
「世の中には、まだ私の知らない宝石が山のようにございますからな」
「確かにな、侯爵」
「ところでホームズですが、いらしております、それにルパンらしき人物も」
「すると私は出遅れたというわけか」
「本気で、仰っておられますか」
心外ですなといわんばかりに侯爵は笑った。
贅沢なドレスに身を包んだ老若男女が酒とおしゃべりとダンスに心と体を奪われていた。
「モラン」
見ろと言わんばかりに広い室内を見回していた男の鋭い目が、ある一点に集中した。
その先には一組の男女が談笑に夢中になっていた。
「あの男が」
「ホワイトですか」
いいやと首を振り、ルパンだよと男は笑った。
「しかも、素顔のままだ、女好きとは聞いていたが」
モランは内心呆れ、その男をじっと見た。
口説いているのだろう。
女は顔を赤らめながらも、うっとりとした表情で相手を見ている。
離れた場所からでもありありとわかる、男を誘うように扇子で口元を隠し、囁いている様子だ。
「ところで、君はどんな女性が好みだ」
突然、ボスは何を言い出すのか。
モランは驚いた。
「社交界、貴族の淑女は温室の花だ、しかも毒を持っている」
確かにとモランは同意した。
十代のうちに社交界に出て、跡目を継ぐ為に少しでも階級が高く、財産のある相手を見つけて結婚することに必死になっている女達ばかりだ。
綺麗に着飾っていてもドレスの下には何が隠されているかわからない。
「だが、例外もある」
一瞬、誰のことを言っているのだろう、そう持ったとき。
「失礼ですが」
静かな女の声だった。
「モリアーティ教授でしょうか」
「いかにも、あなたは」
女は仮面を取るとにっこりと笑い、隣にいるモランにも笑いかけた。
初めてお目にかかりますと頭を下げる女性に男は、ああと小さくため息を漏らした。
「まさか、そちらからご挨拶いただけるとは思いもしませんでした、しかし、なんと」
「大胆不敵で剛胆で、勇気があるのか、無茶なのか分からない、だろう」
突然、間に割って入るように声をかけてきたのは先ほどまで女性と親しく話していた男だった。
このとき、モランは隠し持っていた腰の拳銃に手をかけた。
だが、モランと声をかけられてはっとする。
「ところで、何か用かね」
「決まっている、盗みに来たんだ」
そう言って男は女性の手を取った、すると女は不思議そうな顔をした。
「宝石の代わりに君の心を盗んでみせよう」
このとき、初めてモリアーティという男が声
をたてて笑った。
そばにいたモランは驚いた、いや、彼だけではない、これには怪盗も唖然とした表情になった。
「なるほどね、ホームズだけではなく、怪盗までもが出し抜かれたというわけだ」
突然、モリアーティは女の手を取ると、広間の中央へと歩き出した。
音楽に合わせて踊り出す、優雅な動きとステップは見る者を魅了した。
このとき、モランは亡くなった妻とダンスをしたことを思い出した。
仕事が終わり、家に帰ると夕食の後、彼女とよく踊ったことを。
君しかいない、ずっと、そう思っていた。
これからもずっと私の手を取って、踊ってほしい、そう思っていた筈なのに。
君は、もういない。
はっと我に返る。
目の前にいたのは自分の上司であるボスと踊っていた女性だった。
「踊りたまえ」
自分が、この女性と。
辞退しようとしたが、有無をいわさず視線で命令され、モランは女性の手を取った。
何故、自分に踊れなどと、分からない。
戸惑いながらも、モランは女性に尋ねた。
「ホワイトと申します、モラン大佐」
女はにっこりと笑い、ぎゅっと手に力を込めた。
そのときモランは気づいた。
彼女の手に光る指輪に。
「あなたが」
驚きの声を漏らし、そして尋ねた、いやそうせずにはいられなかったからだ。
だが、彼女は答えず小さく笑っただけだった。