春の目覚め。そしてリハビリ生活。
真っ暗な闇。
上も下も右も左も解らない闇の中で、誰かの声が聞こえる。
視界全てを黒一色に塗り潰されている所為で、自分の体勢を整える事さえままならない。
それでも声のした方へと足を向けると、見渡す限りの黒の中に、ぽつんと金の色が浮かんでいた。
金の色が、揺らぐ。
「────」
声が聞こえる。
誘われる様に足を向け、金の色を追う。
近付いたと思う度に、金の色はふわりと舞いながら離れてしまう。
足が重い。
誘われる方向へ進むに連れ、重圧が増す。
「────」
また、声が聞こえる。
幾度と無く追い縋るが、その度に距離を離されてしまう。
鉛でも巻き付いているかの様に重い足を上げ、それでも追う事を止めない。
「────」
まだ、声が聞こえる。
少しずつ周囲に明かりが生まれ始める。
重く沈み込む足を無理矢理振り上げ、前へ前へと進む。
やがて光が勢いを増し、視界が光に埋め尽くされていく。
不意に、金の色が揺れる。
何故だか解らない。
けれどその色をこの手に抱きたくて、右手を前に伸ばす。
瞬間、世界から全ての色が消えた。
眩い光が目を刺激する。
力が入らない瞼を無理矢理こじ開け、弱々しくも目を開く。
視界いっぱいに光が飛び込み、思わず眉をしかめた。
徐々に目が慣れうっすらと色が生まれる。
最初に飛び込んで来たのは、緑。
鮮やかな緑が揺れその下の柔らかな紅が、じっとこちらを見ていた。
「あら、漸くお目覚め?」
優しく慈愛に満ち溢れた声。
その声を聴いて目の前にあるのが人の顔で、それが女性だと解った。
ぼんやりとした頭で何かを喋ろうとし、
「────」
声が出ない事に気付いた。
喉だけでなく、肺まで渇き切っている。
口をぱくぱくさせていると、女性は水差しからコップに水を注ぎ渡してくる。
受け取ろうとするが、手はピクリとも動かない。
次第に瞼も下がり意識も朦朧としてくる。
不意に、唇に何かが触れた。
ゆっくりと唇を割り少しずつ水が流れ込んできた。
力を振り絞り、なんとか水を飲み込む。
水分を得た喉は冷たさに震え、体内に滑り落ちた水はすぐに吸収されていく。
唇から何かが離れ、熱が空気に冷やされた。
「まだ寝てなさい」
聴いているだけで安心出来る優しい声が、耳を擽る。
程なくして意識が吸い込まれていき、再び夢の世界が姿を現していった。
目が覚めて、何故か飛び上がりそうになった。
でも全身が動かず、僅かに首が動くだけに留まる。
一先ず状況を把握しようとして頭を落ち着ければ、白い天井が目に映った。
「……っ、ぁ、っぅ」
知らない天井だ、と言おうとしたら掠れた様な音が聞こえた。
自分の声がその音だと気付くのにしばらく掛かり、途端に喉、いや全身の渇きが襲ってきた。
水が欲しい。
その思いに応えたのは、聖母の様な微笑みを湛えた緑髪の女性だった。
「水よ、飲みなさい」
彼女が差し出してきたコップを受け取ろうとするが、身体は全く動かない。
なんとか上体を起こすと、女性はコップを口元に持ってきてくれた。
ゆっくりとコップを傾け、咽せない様に気遣ってくれる。
あっという間に水を飲み干し四杯目を胃に収めた所で、ようやく人心地が付いた。
「さっきよりは回復したみたいね」
「あ、あの、あぃ、あ」
「ゆっくり、落ち着いて喋りなさい。急がなくてもいいから」
「あの、ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
柔らかく微笑み、身体を元の状態に寝かせてくれる。
身体を起こすだけで相当な負担だったらしく、全身にどっと疲れが押し寄せた。
「長い間寝てたんだから、まだ身体を動かすのは無理ね。今は体力を回復させる事に専念なさい」
女性は額にキスをして離れた。
すぐに眠気が意識を刈り取っていく。
眠りに落ちる直前、ふっと花の香りが広がっていった。
それから一週間、緑髪の女性に看病される日々が続いた。
まだ動き回るまでには至らないものの、身体を起こして会話するのに支障が出ない程度には回復した。
緑髪の女性は、名を風見幽香と言う。
白いシャツの上に赤いチェックのベストを羽織り、同じ赤いチェックのスカートを履いている。
スタイルも良く、最初はモデルかと思ったものだ。
そして自分の自己紹介の段となり、名前を言おうと口を開いた所で──固まった。
「僕は──誰だ?」
冗談かと思った。
必死に自分が何者なのか探ろうとするが、頭の中は靄が掛かった様にハッキリしない。
何も判らず、何も思い出せなかった。
経歴不明、身元不明、判ったのはどうやら僕は記憶を失っているらしいという事だけ。
混乱し続ける僕に、風見さんは紅茶の入ったカップを差し出した。
「飲みなさい、落ち着くから」
言われるまま口を付けると、紅茶の香りが身体に染み込み空回りしていた脳を幾分宥めてくれた。
「……美味しい」
「そう、口に合って良かったわ」
風見さんは優しく微笑んで、僕の頭に右手を伸ばした。
ぽふりと置かれた所から、風見さんの体温が伝わってくる。
「今は身体を休ませる事だけを考えなさい。別に貴方が何者でも、私は追い出したりしないから」
「……良いんですか? もしかしたら僕は凄く悪い奴で、風見さんに危害を加えるかもしれませんよ」
「ふふっ、馬鹿ね貴方は。そんな事を他人に言ってる時点で悪人失格よ」
くすりと笑って風見さんは手を離す。
急に温かさが失われて、思わず目で追ってしまった。
「随分と甘えん坊ね?」
「あ、いえ、その」
恥ずかしさや照れくささに戸惑っていると、風見さんが再度手を伸ばした。
細い指先が、髪の毛を優しく梳いていく。
気付けば目の前に風見さんの顔がある。
鮮やかな緑色の髪、紅く綺麗な瞳、黒く長い睫毛、筋の通った鼻、白くすべすべな肌、桜色の蠱惑的な唇。
美の女神だって裸足で逃げ出しそうな美しく魅力的な顔がそこにあった。
見惚れていると、風見さんの頬が少しだけ赤みを帯びた。
眉尻を下げて、咎める様に言う。
「余り見つめられると恥ずかしいわ」
「あっ、すいません。風見さん、凄く綺麗だから……」
「っ、そ、そう」
熱に浮かされた様な意識に突き動かされ、何か変な事を口走った気がする。
目を逸らしてもじもじしながら、偶に目が合うと二人揃ってすぐに逸らす。
いつの間にか手は撫でる動きを止め、指先で僕の髪の毛をくりくりと弄っていた。
風見さんからは良い匂いもするし、段々と頭がくらくらしてくる。
「は、花の手入れしてくるわね」
「あ、風見さん……」
言うが早いか、風見さんは脱兎の如く走って行ってしまった。
呆気に取られた僕はしばらくぽかんとしていた。
起きてるのも疲れるので横になる。
なんとなく、風見さんが弄っていた髪を触ってみる。
ふわっと花の香りが弾けた。
風見さんの匂いだ。
何故だろう、本来は気分を落ち着ける為の香りが、風見さんのものだと意識した途端に物凄いドキドキを呼び覚ます。
──記憶が無いってのにドキドキしてるだなんて、存外僕は逞しい人間だったのかもしれないなぁ。
それを差し引いても風見さん美人だし、ちょっと見惚れるくらいは仕方無い。
そう自分を納得させた。
取り敢えずは現状把握が肝要だ。
一体僕は何者で、どこから来たのか。
何かヒントが有るかも、と身体に特徴的な箇所が無いか届く範囲を眺めてみるが特に異常は無かった。
次に自分の嗜好や性癖なんかも思い返してみる。
自分がどんな人間だったのか推察する為の良い材料になるかもしれない。
うんうん頭を悩ませている内にすっかり寝入ってしまい、気付けば日が昇る所だった。
更に数ヶ月が経った。
体力も何とか回復して走り回れる様になり、今は風見さんの畑で農作業をしている。
風見さんは花の妖怪らしい。
妖怪というより女神じゃないかな、って言ったら顔を真っ赤にして照れてた。
綺麗で美人なのに可愛いとか反則だよね。
でも妖怪とは信じられなかった。
優しくて親切で長閑な妖怪なんて聴いた事が無い。
まぁ僕自身も人間とは思えないスペックを披露してたけどさ。
朝から晩まで鍬を持ってるのに、筋肉痛にならない所か疲れて腕が重くなる事すら無い。
精神的には疲れても肉体的にはまだまだ元気いっぱいだ。
ちょっとした妖怪並みの体力だって風見さんが言ってくれたから、少し嬉しかった。
風見さんと同じ妖怪、って響きだけで顔がニヤケてくる。
「っと、いけない。早く片付けないと」
肥料を入れた袋の口を縛り、台車にポイポイ投げ入れ積み上げていく。
物置に戻したらお昼ご飯の時間だ。
風見さんの料理は素朴ながら味付けが濃いめで、働いた身体には堪らない美味しさ。
僕の好みにぴったり合っていて、密かに風見さんの手料理を独り占めしている事に優越感を感じている。
今は居候だけど、その内友人にランクアップしたい。
恋人にもなりたいけど、風見さんに釣り合うだけの男になるまでそれは我慢だ。
肥料を仕舞い込むと風見さんが窓から身体を乗り出して僕を探していた。
目が合うとにっこり笑う。
「ご飯が出来たわよ」
「……あ、はい」
「どうしたの?」
「風見さんが綺麗だったので見惚れてました」
「っ、も、もうっ、早く手を洗って戻って来なさい」
顔を赤らめて中に引っ込んでしまう。
そんな反応も可愛いと思う辺り、だいぶハマってるなぁとは感じる。
作業手袋を懐に仕舞いながら、僕は素敵な妖怪の住む家へと戻っていった。