あたたかい。
はて、この温もりは一体何だろう?
霞掛かった頭を巡らせていると、不意に下腹部──女性器の辺りに動きが生まれた。
何かが抜け落ちる。
その動きに引き摺られる様にして、どろっとした何かが零れ落ちた。
訳も無く悲しくなった。
その理由を考えて、やっと目が覚めた。
──そっか、零れたのは契の精子だ。
昨夜、寝静まった部屋の中に忍び込んで契に夜這いを掛けたんだ。
勿論瓢箪から酒を──呑ませようとしたけど、思い直して口移しで──大量に呑ませて、契から判断力を奪った。
途中で目が覚めても最後までシてくれる為の保険だ。
結果は……成功を通り越して失敗する所だった。
あんなに激しく求められるとは思ってもみなかったし、壊されるかと本気でビクビクしていたくらいだ。
おっと、早い所酒を補給しなきゃ。
もう一刻も経てば完全に酔いが抜け落ちてしまうからね。
素面だなんて只でさえ恥ずかしいったらありゃしないのに、契に見られるって想像しただけで顔から火が出そうだよ。
尺取虫みたいに這い摺りながら部屋の隅に放って置いた瓢箪を手に取り、勢い良くかっ喰らう。
強い刺激が喉を焼き、乾いた胃の中へ広がっていく。
五臓六腑に染み渡るたぁ正に的を得た言葉だねぇ。
酒が全身に広がっていくのを実感しつつ、少し顔色の悪い契に振り返った。
二日酔い、とも少し違う青さ。
……多分不貞を嘆き、自責の念に駆られているんだろう。
でも、私はここでは謝らない。
そんな事したって楽になるのは私だけ、契は救われる所か更に落ち込むだろう。
だから私は、能天気な馬鹿を演じる。
「あ、契おはよー」
「……おはよう」
「んん? 元気無いねぇ、眠いのかい?」
「……いや、まぁ……あ、萃香ちゃん。ちょっと聞きたい事が有るんだけど」
「ん、何?」
「昨日の「朝だよ、って何だ二人共起きてたのかい」……おはようございます、大将さん」
突然大将が部屋に乱入してきた。
その表情は契の姿を捉えて険に変わる。
手早く服を着ると、凛とした声が届いた。
「……萃香、ちょっと聞きたいんだがねぇ」
「何、大しょ……」
それ以上言葉を発する言葉出来なかった。
私の見る眼が、いや大将そのものが幽かなモノへと変質している。
大将は、キレていた。
全身が総毛立ち、冷や汗が止まらない。
この事も想定していた筈なのに、いざ目の前にすると身体が竦み上がる。
蛇に睨まれた蛙の様に身動き一つ出来ない私をの首根っこを掴み、大将は離れへと向かって行く。
ガラッと開いた襖の向こう、八畳程の部屋に放り投げられた私の前で大将が腰を下ろした。
差し向かいで詰問を始めるつもりらしい。
「で、萃香。事の子細を聞きたいもんさねぇ……アンタの口から、ハッキリと」
剣呑な瞳に射抜かれ息が詰まる。
自然と身体が硬直していたのを見て、大将は嘆息しつつ空気を和らげた。
「ほら、圧は和らげてやったんだからサッサと吐きな」
「……さっき見た通りさ、私が契に夜這いを掛けた」
「夜這い、ねぇ。あの様子から察するに無理矢理酒でも呑ませて前後不覚に陥った所を襲ったんだろうさね。まぁそんな事は捨て置いて、アンタがそうした理由ってのを聞きたいねぇ?」
「大将だって解ってるだろうに……私は、契が好きだ。だから契と身体を重ねた、ただそれだけの事だよ」
直後、メキメキと硬い物が潰れる音が聞こえた。
大将の左、申し訳程度の小さな床の間の柱が手の形に圧壊している。
その上に当てられた大将の手の甲にはうっすらと血管が浮き立ち、握り拳の合間からは圧力で熱を帯びた木片が湯気を上げていた。
響いたのは、怒号。
「──巫山戯るんじゃないよ!」
声に乗せられた妖力が空気を裂きながら空へ溶けていく。
視界の端、窓から覗く木に留まっていた椋鳥が、気絶して真っ逆様に落ちていくのが見えた。
ビリビリと身を切る振動に、慌てて自分の意識を萃める。
「……萃香、アンタよもや鬼の矜持を忘れた訳じゃ無いだろうね」
「嘘を吐かず正々堂々、驕る事も謀る事もせず、自分に正直に生きる」
幾分、声の調子を落としての会話。
大将は眉に力を入れたまま口を噤んだ。
──これは私に喋れって事かね。
なら喋ろうじゃないか、と私は小さく息を吸い込んだ。
「私は鬼の矜持を忘れた訳でも踏みにじった訳でも無いよ。私は、あくまで鬼の矜持に忠実だった」
「結果として夜這いを仕掛けるに至った、と言いたそうさね。そいつぁ不義理な話ってもんさ」
「大将」
私の呼び掛けに片眉を吊り上げる。
一つ、息を吐く。
新鮮な空気が体内を駆け巡るのを感じながら、私は言葉を作った。
「──自分に嘘を吐いてまで、矜持ってのは守らなきゃいけないのかい?」
「萃香、それは……!」
「私は自分の心を偽れなかったよ、大将。将来を誓った相手が居るって聞かされても、一切退く気にはなれなかった。不思議なもんだね、たった一日だ。たった一日で、私の心はこんなにも飢えて渇いてる。どんな形であれ契と愛し合った事実を持たないと、精神が保たないくらいには不安定になった。解るかい、大将? 契が欲しくて堪らなくて、それ以上に怖かったんだよ。契は私を子供としか見ていなかった。このまま別れてしまえば、私の事は記憶の片隅に追いやられ、いつかは忘れ去られてしまう。それが、堪らなく怖いんだよ」
大将は口を噤んだまま、苦い顔付きで私を見ている。
私はと言えば、自分で言った言葉に自分で怯えている始末だ。
契が私を忘れる。
たった七文字の言葉が、私の心を締め付け握り潰してくる。
自然と口が開いていた。
「耐えられる訳無いじゃないか。契の声を聴いただけで胸が弾み、契の身体に触れただけで頭が焼き切れそうな程に熱を持つ。こんなにも焦がれた相手が、私を忘れて消えてしまう。そんなの、耐えられる訳無いじゃないか」
「……だから、契に夜這いを掛け自分の存在を心に刻み付けようとした。そういう事かい?」
こくりと小さく頷く私に溜息が飛ぶ。
知らずと下がっていた視線を戻せば、呆れた様に眉尻を下げた大将の顔がある。
そして放たれた言葉に、私は凍り付いた。
「契に一生憎まれてもかい」
「え……?」
「やっぱり気付いて無かったのかい。それとも意図して思考から切り離していたか。まぁ、どっちでもいいさ」
──憎まれる? 私が、契に?
「自分の意志とは関係無く嫁を裏切り、しかも不貞の原因足る相手がのほほんと酒を煽っているとくれば想像するのは容易い。十中八九、憎み恨み嫌うだろうさね」
──契に、嫌われる?
想像さえしなかったその言葉が胸に落ちた瞬間、全身に形容しがたい悪寒が走った。
胸が軋み、頭が悲鳴を上げる。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!
契に嫌われるなんて、耐えられない。
違う、私はそんな事望んじゃいない。
ただ契の心を繋ぎ止めて置きたくてやっただけなのに。
私を見て欲しいって、女として求めて欲しいって考えてただけなのに。
「──ッ!? ……ぁ」
乾いた音が響き、視界が揺らいだ。
じんわりと熱を帯びる頬が、痺れの様な痛みを訴えてくる。
「……少しは落ち着いたかい?」
大将が呆れた顔で私を見ている。
振り抜かれた手に、頬を張られたんだと気付いた。
「全く……色恋沙汰で取り乱すたぁアンタもまだまだひよっこさね。だがちょいとばかり病が過ぎる、アンタはアンタの勝手で契も自分も殺すつもりかい?」
「わ、私、私は……」
「そこから先は契に言うんさね。私も公的な立場として詫びも入れにゃならんし、善は急げだ早い所契に詫びに行くよ。……その前に萃香、顔洗ってきな」
大将が裏の井戸の方を指差す。
私は恐怖や後悔、罪悪感なんかに押し潰されてしまいそうだった。
ふらふらと覚束無い足取りで井戸の側に立ち、水を汲み上げる。
知らぬ間に溢れていた涙を桶に張った水で洗い流すと、桶に自分の顔が映った。
ひどい顔だ。
目の下は涙で赤く腫れ、いつもの覇気も無ければ酔いに因る上気も無い。
映っているのは鬼の伊吹萃香じゃなく、恋に恐れを抱いた弱い女の子だった。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
私はこんなに弱ってたのか。
自分一人で勝手に焦り、無理を押し通して契を傷付け、今度は自分の罪さえ満足に背負えない。
「ちったぁマシになったみたいさね」
「大将」
「ほら、顔を拭いたら行くよ」
戸口に寄り掛かっていた大将が手拭いを放って寄越す。
受け取り顔を拭くと、幾分さっぱりした。
まだ恐怖は消えないけれど、契に謝ろうとする勇気はちょっぴり湧いてきた。
──怖いけど、逃げない。契の怒りも悲しみも、全部私の所為だから。
先導する大将の後に続いて、契の待つ部屋へと歩き出した。