頭が病む。
右の後頭部に走る鋭い痛みが俺の心に何かを訴え掛けてくる。
ゆっくりと息を吸い込み吐き出す事で表面上の平静を取り繕ってはいるが、どうも先程から──正確に言えば、鬼の集落に足を踏み入れた時から心がざわめく。
藁葺き屋根の簡素な家々。
集落の西側に有る広場。
そして今お邪魔している鬼の大将の屋敷。
……その全てに見覚えが有った。
──面妖な。知らない事を識っているという感覚がこれ程おぞましいとは思わなかったな。
デジャヴだとか、そんな生ぬるい感覚では断じて無い。
確かにここに居た過去だけが自身からすっぽり抜け落ちたこの感覚を、なんと表現したら良いのか。
「……大丈夫かね、顔色が悪いけれど」
「あぁ、問題は無い。多少の戸惑いが有るだけだ」
「嘘吐くんじゃないさ。鬼が嫌うのは嘘や騙しさね」
「嘘では無いな。この感覚をどう表現したものか解らず、近いと思われる言葉を無理矢理当て嵌めただけだ。……それはそうと、彼女の様子は?」
「勇儀が付き添っている、心配は要らないさね。あたしはそれよりも、アンタの事が聞きたいねぇ」
片胡座をかき火の点いていない煙管を右手でくるくると弄びながら、鋭い眼光を向けてくる和服美女。
彼女がこの集落の代表、大将だ。
名前は判らない。
着崩した和服と覗く白い肌が大人の色気を放ち、悪戯に微笑む整った顔立ちが妖艶さと麗しさを立ち上らせる。
が、俺を射抜く眼光には一切の油断や驕りが無く、隙を見せれば喉笛を喰い破られそうな雰囲気を醸し出していた。
彼女が鬼なら俺は何だろうな?
この場に於いては、どちらも人外な事には変わりない。
俺の左隣に座る紫は重苦しい空気に気圧され、可哀想にすっかり萎縮していた。
「話をするのは良いが、余り威圧しないでやってくれ。紫が辛そうだ」
「それは聞けない相談さね。紫にもちょっとした話が有るんさ」
「ならば話で蹴りを着ければ良い。威圧し脅えさせ、自身が望む言葉のみを無理矢理引き出すのが鬼の言う正々堂々とした話し合いか?」
「言うじゃないさ。小童如きが鬼の矜持を説こうと言うのかい?」
「勘違いされては困る。問うたのは俺で説くのは貴女だ」
警鐘の様に痛み続ける後頭部に幾分かの意識を割かれながらも、大将へ向ける視線は逸らさない。
敵視されている感が有るが、どうやら彼女は彼女達の知っている俺が今目の前に居る俺と違う事に気付いている。
ならばさっさとこの茶番劇に幕を引いて貰いたい所だ。
「そもそもこうして痛くも無い腹を探る必要がどこに有る?」
「おや、腹は痛まずとも頭は痛むと見えるねぇ」
「……成程。鬼姫はどう有っても俺に自分自身で記憶を取り戻させたいらしい」
鬼姫という呼称に、彼女はその細く艶やかな眉を顰めた。
「止しとくれ、あたしは姫なんて柄じゃ無いさね」
「力を至上とする鬼一族に於いて最も強いというならば、それは一族の中で最も魅力の有る者だと同義だ。見た所貴女は独身の様だからな、それならば呼称は姫が妥当だろう」
「口説いてるつもりかい?」
「悪いが趣味じゃない」
冷めた瞳を向けキッパリ言い放つと、彼女は声を押し殺して笑い出す。
それと同時に張り詰めていた空気が弛緩していき、紫が荒い息を吐き出して額に流れる冷や汗を拭った。
「悪いな、紫。妙な事に巻き込んでしまって」
「う、ううん、大丈夫だよ」
「すまん。……さて、俺は少しばかり外を散歩してくる。彼女が起きてすぐに俺と会うのは余り好ましくは無いだろうからな」
返事を待たずに腰を上げ屋敷を後にした。
紫は何か言いたげでは有ったが、今回ばかりは見逃して貰おう。
外に出てやや雲の多い空を見上げて深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
──あの大将とやら、俺と過去の俺を比べていやがった。
まだ頭痛は治まらない。
それ所か次第に痛みが強くなり、響く間隔も短くなってきている。
脳裏に浮かび上がるのは断片的な言葉。
それが何を意味しているのかは解らないが酷く不愉快な事だけは解る。
「……にとりでも愛でるか」
痛みを振り払う様に地面を蹴る。
全力疾走するのは久し振りだが鈍ってはいないらしく、望む通りに身体が動く。
とにかく頭を一度空にしたかった。
砂塵を巻き上げ集落を駆け抜けた後には小規模の水蒸気爆発が起きていたらしいが、俺との関連性は全く無い事を付け加えて置く。
何故なら人間が走っただけで水蒸気爆発は起こらないからだ。
「とまぁ、そんな訳で遊びに来た訳だ。悪いな、手土産の一つも持たずに」
「ううん、契君が来てくれただけで、その……う、嬉しいから」
「そうか。ありがとな、にとり」
微笑んでやると、にとりは頬をほんのり桜色に染めて俯いた。
ぴこぴこと揺れる水色のツインテールが垂れ耳の様にも見え、非常に愛らしい。
──突然押し掛けたというのにお茶を出してくれた上、可愛らしい姿で俺の心を癒やしてくれるとは……にとりマジ天使。
俺は山道を全力で走破し僅か四分でにとりの家へと辿り着いた。
突然の来訪にも関わらずにとりは暖かく迎えてくれ、今はお手製の胡瓜の漬け物と緑茶でもてなしてくれている。
ついこの間まで小屋だった居住区画もいつ改装したのか、今は小綺麗な一戸建て住宅へと変貌していた。
室内も広々としており、驚いた事に電灯が取り付けられていた。
日頃生活リズムが不規則になりがちな為か、水回りやトイレや竈までオール電化になっている。
ひょっとしたら現代日本でも億の値が付くかもしれない。
先程までの五寸釘を直接頭蓋に打ち込まれた様な激しい痛みもにとりとの会話でかなり薄れ、精神的な余裕も出て来た。
ルーミアや奈苗達には無い、この独特の空気がにとりの持ち味だ。
「そう言えばこないだ製作していた写影機はどうなった?」
「あ、うん、試作型は完成したから後は実際に使用時のデータや持ち運んだ時の使い勝手なんかを報告してくれる……えっと」
「モニター、か?」
「それそれ、モニター。そのモニターを探してたんだけど、ちょうど写影機に興味を持ってくれる友人が居てさ。その娘にあげたんだよ。そうだ、この前契君がくれた開発案件帳に載ってた他の機械も、色々作ってみたんだよ! 全自動卵割り機とか発光ダイオードとか! お陰で毎日新しい発明を閃いちゃって、今は手回しで発電出来る胡瓜用冷蔵庫を開発中なんだよ!」
そして機械や発明の事になると物凄く饒舌になる。
目もキラキラ輝き出し胸の前で握られた手にも力が入る。
が、身を乗り出していた事に気付くと急に勢いを無くして黙り込んでしまった。
「ご、ごめんね契君。いきなり喋っちゃって」
「──いや、寧ろ嬉しい」
「え……?」
恐らくにとりが他の河童達から『マッド』の烙印を押された理由は、このオタクっぽい情熱に有るのだろう。
楽天家で社交的ならばまだしも、にとりはどちらかと言えば控え目で消極的な性格をしている。
そんな大人しいにとりが突然熱く語り出す姿を、他の河童は気味悪がったとしても無理は無いのかもしれない。
現代日本ならそういった人達に一定の理解が有るが、この文化レベルではまだ『オタク』というものが認知されていない。
だからこそ、にとりは同族から変わり者という扱いを受けたのだろう。
だが、俺はそうは思わない。
「にとりは照れ屋だから、余り自分から話を振らないだろ? そのにとりがこんなに熱く語ってくれるんだ。話の内容だって興味が有るし、何より、にとりの綺麗な声を聞けるからな」
「え、あ、あぅ……」
「だから気にしなくて良い。俺はにとりがどんな事を思っているのか、どんな事を考えているのかを知りたい」
照れ屋でそそっかしくて、けれど一生懸命なこの娘をどうして遠ざけられようか。
身を乗り出して右手をぽんと水色の髪に乗せ、優しく梳いてやる。
「周りがどう評価しようと関係無い。俺はにとりを『河城にとり』として見る。一生懸命で可愛い、一人の女の子としてな」
「契、君……」
「多少そそっかしい所は有るけどな」
「そっ、そんな事無いよっ!」
「そうだったか?」
「もう、契君ったら意地悪なんだから」
「悪い悪い」
「……えへへ、ありがとう契君」
「はっはっは、元気が出た様で何より。やっぱりにとりは笑顔でいるのが一番可愛いからな」
「ひゅぃ!? そ、そんな事無いよぅ!?」
「照れるな照れるな」
ぐりぐりと少し乱暴に帽子の上から頭を撫でてやると、うぁ、うぅ〜、と小さく唸って真っ赤になる。
持って帰りたい、それくらい可愛い。
そうやってにとりと戯れていると、不意に地下のラボに繋がるドアが開いた。
横開きの自動ドアの先、にとりに良く似た女性が立っていた。
にとりよりも濃い青色の髪の毛をポニーテールにして、にとりと同じデザインのつなぎを着込み、背中にはこれまたお揃いのリュックサックを背負っている。
口の端にはボルトを数本加えており、職人臭がぷんぷんしている。
背は俺より頭一つ低いくらいか。
くりくりっとした大きな垂れ目で、右の目尻に泣き黒子が一つ。
「──ッァ!?」
「え、け、契君っ?」
彼女を見た途端、治まっていた頭痛が急にぶり返した。
今までより更に激しさを増した痛みが脳を喰い破っていく。
反射的に両手でこめかみの辺りを抑えるが頭痛は治まる気配を見せない。
痛みが走る度に、亡くしていた筈の記憶が鮮明に甦ってくる。
「ぐっ……そうか、河、城……河城だ……っ! 同じ名字を持つ、河童……河城、あとりぃ……っ!」
頭の中で、カチリとピースが嵌る。
途端、頭痛は消え去り澄み渡った思考がこれまでの違和や疑問を解消していく。
脳裏を過ぎ行くのは俺が『僕』だった時に体験していた事。
頭を抱えながら自分の名を呼ぶ俺を見て、その瞳に動揺を移した少女が口を開いた。
「契……? もしかして、契かい?」
「あぁ……久し振りだな、河城あとり」
透き通った視界の先、あの頃より成長した姿のあとりが居る。
漸く、俺は失っていた時間を探し当てた。
「……成程、あの時の契は休眠状態に入っていた契の主人格が形成した自己防衛の為の仮人格、って事かぁ」
「その後は休眠状態から目覚めたんだが意識の統合に齟齬を来す恐れが有った為に仮人格とその記憶を抹消したって訳だ。幽香や萃香、あとりと出会った事で奥底に沈めていた記憶も戻ったがな」
平静を取り戻した俺は一先ずにとりを落ち着かせ、あとりも加え状況を説明した。
にとりは俺があとりと知り合いだった事と記憶喪失に陥っていた事に、あとりは俺が生きていた事と俺の変わり様に驚いていた。
「と言うか何で自分の家の倉庫に自爆装置付けるんだよ。あとりの方が余程マッドじゃねぇか」
「いやぁ、若さ故の過ちってヤツ? だってほら、爆発って風流じゃん」
「あとり姉ぇ、本職は花火師だから」
にしし、と悪びれもせずに笑うあとりに思わず溜息が漏れる。
あとりはにとりの従姉らしい。
花火師として爆発を巻き起こす傍ら技師としてもなかなかの才能を発揮している河童界の実力者との事。
ともあれ二人に対しての説明は終わったので、取り敢えず紫の所へ戻る事にする。
「そんな訳だから一旦帰るな。また遊びに来ても良いか?」
「うん、契君なら、その……大歓迎だよ」
「今度はお土産に胡瓜お願いね」
「持ってきてもあとりにはやらねぇ」
「けちー、契の少女趣味ー、人でなしー」
「にとり、後で火薬庫の場所教えてくれ。中の火薬全部湿らせる」
「ごめんなさいでした」
瞬時に綺麗な土下座を見せるあとり。
この動きはやり慣れているからに違い無いだろう。
見た目の淑やかさとは正反対のあとりと小さく手を振る可愛らしいにとりに見送られて、山中を再び走破する。
今度は少し速度を落としたから水蒸気爆発は起こらない。
と言うか水蒸気爆発って鬼畜だよな。
ばっちいパンツ装備のクッパが何回一撃死した事か……最終的にミンナカタクナールで耐えたな。
そんな事を考えている間に鬼の集落へと戻ってきた。
家屋は無事の様だが、地面がクレーター状に抉れているのは何故だろうな?
「あ、おにいさんやっと帰ってきた」
「悪い、遅くなった」
「もう、すぐ居なくなっちゃうんだから」
大将の家の前で腰に手を当てぷんすか怒る紫。
ご立腹の様だが、姿が愛らし過ぎるので全く怖く無い。
抱き締めてさらさらの金髪をゆっくり梳いてやると、途端にだらしない笑みを浮かべて抱き付いてくる。
こんなにチョロくて良いのだろうか。
まぁ、そんな所も紫の魅力には違い無い。
等と考えた矢先、からからと乾いた音を立てて玄関の戸が開き、相変わらず着物を着崩した大将が顔を覗かせた。
大将は俺を見るなりニヤリと口を嬉に歪ませる。
「ほぅ、良い顔になったじゃないさ?」
「過程はどう有れ結果として記憶は取り戻したぜ、大将さん」
大将さんの部分に甘えを滲ませて呼んでやると、大将はぽかんと呆けた様に口を開けた。
その隙間からくわえていた煙管が滑り落ちていくが、左手を伸ばして捕まえる。
背中から掌の温かさが無くなった事に若干紫は不服の様だったが、そこは我慢して貰おう。
「おやおや、鬼姫とも在ろう者が随分と可愛らしい顔をするものだな?」
落とした煙管を差し出しながらニヤリと笑い返してやれば、大将は渋い顔をしてそれを乱暴に受け取った。
「ちっ、記憶は取り戻しても元の性格はそっちかい。可愛げの無い事さね」
「その分鬼姫が可愛くなったから釣り合いは取れてるんじゃないのか?」
「からかわれるのは嫌いさね。それも年端の行かぬ小童相手じゃ尚更さ」
「小童程度に振り回される鬼の大将か、これはまた面白い題目だと思わないか?」
大将はもう一度舌打ちをすると家へと引っ込んでしまった。
流石にからかい過ぎたかと形だけの反省をして紫と二人追い掛ける。
居間にはどうしたものかと困惑顔の勇儀と先程よりは落ち着いた様子の萃香が待っていた。
とは言えまだ赤褐色の瞳には怖れが色濃く残っているが。
萃香の対面に敷かれた座布団に腰を下ろすと、萃香はびくっと身体を震わせる。
──はて、幾ら正体を見失った恐怖に取り憑かれたとして、あの萃香がここまで弱々しくなるものだろうか?
不安や後悔が長い時間の中で言い知れぬ恐怖を生み出したのは理解出来る。
だが、俺の知る萃香と目の前に居る萃香は何かが違う。
何だろうな、と思考を傾け萃香を注視する。
心労で痛んだ蜜柑色の髪、捻れた二本の立派な角、ストレスで荒れた白い肌……白い肌?
弾かれた様に視線を上げ頬を見る。
上気していない。
思い返せば初対面の時も漂ってきた酒の臭いが、今の萃香からは全く感じられない。
──酒断ちか?
何の為に、とは問わない。
そこまで思い詰めさせてしまったのは他の誰でも無い、俺だ。
下らない自意識と言い訳を振り翳していた過去の俺を殴り倒したくなってくる。
好いてくれた女の子を自分の勝手で傷付けて、何が紳士か。
一つ息を吐いて高まり掛けた感情を鎮め、改めて萃香の目を見る。
空気が変わった事を感じ取ったのか、萃香と勇儀は居住まいを正す。
それに苦笑を返し、俺はゆっくりと口を開いた。
「久し振りだな、萃香。そして、勇儀」
掛けられた言葉に一瞬驚きを滲ませる。
昔の俺はこんな乱暴な口調では無かったからな、二人には違和が有るか。
「二人共驚いている様だが、元々これが俺本来の喋り方だ。それは気にしないでくれると有り難い。さて、先ずは俺の話から聞いて貰おうか」
二人が戸惑っている間に会話の主導権を握る。
必要な情報は小出しにせず、前もって与えて置くのがこの場では最善だ。
交渉では無い以上駆け引きは要らない。
先ずは事情を把握して貰い、その後互いに抱えたものをぶつけ合った方が建設的だ。
そうして俺が語ったのは記憶を失った経緯と事故が起きた際の状況。
それとここに来るまでに起きた出来事だ。
話した内容はにとりとあとりに聞かせたものと大差無い。
初めて耳にする事情に勇儀は目を見開いたり顔をしかめたりと、なかなか大きな反応を示した。
萃香も驚いていたがやはり俺に対する怖れの方が強いらしく、動きは小さい。
一通り喋り終えると、暫し沈黙が続く。
大将と紫は話を聞いたが口を挟むつもりは無いらしく静観、萃香は精神が平静で無い事も有り話を受け止めるのが精一杯。
俺は反応待ちなので動くつもりは無い。
となれば必然的に視線は勇儀へと向かう。
と、勇儀は不意に立ち上がると萃香に耳打ちをして襖を開ける。
首だけで振り返ると疲れた声を上げた。
「大将、紫。あたしらが聞きたい事はもう充分に聞いただろう? なら後は当事者が語るだけだ、邪魔なあたしらは退散するよ」
「そうだね」
「向こうの部屋に居るから、終わったら呼びに来な」
大将と紫は勇儀の後に続いて部屋を後にして、ぱたぱたと廊下を歩いて行く。
襖が閉じられ、残るのは俺と萃香だけ。
数瞬の後、先に口を開いたのは萃香。
「……その、ごめん、なさい」
弱々しい言葉が紡がれ、畳に落ちる。
俯いた萃香の表情は髪の毛に隠れてしまっているが、どんな顔をしているのかを想像するのは難しい事では無い。
やれやれ、と呆れを含んだ息が漏れた。
どこまでも真っ直ぐなこの少女は、どうも思い込みが激し過ぎる。
事の後、大将と二人で頭を下げに来た萃香の謝罪を俺は受け入れている。
罰こそ保留にしていたが今も昔も萃香を恨んだ事等、唯の一度も有りはしない。
──まさか、その保留を恐れているのか?
与えられる罰が無い事を恐れるというのも不思議な話だが、萃香の性格を鑑みると有り得ないと断ずる事も出来ない。
嘘を嫌い真っ直ぐ生きる鬼としての性分も幾らか関係していそうだ。
とすれば、罰で縛ってやるのが一番か。
「萃香」
名前を呼んだだけでびくりと身体を震わせ恐る恐る顔を上げる。
加虐心を煽られるが悪戯は後だ。
不安げに揺れる瞳に後ろ髪を引かれつつ、俺は努めて優しい笑みを浮かべた。
「あの日、謝罪に来た萃香を俺は『許す』と言った。その言葉に嘘偽りは無いし萃香を恨んだり憎んだりした事は一度も無い」
「……うん」
「そんなに罰を与えられなかった事が引っ掛かるのか?」
「────っ」
顔は上げたまま視線だけを畳に落とした。
やはり、図星か。
自分に罪の意識が有りながらも裁かれない状況というのが、萃香には耐え難いと見える。
ならば枷を与えてやるか。
「萃香、今ここでお前に保留していた罰を与える事にした」
その言葉に再度俯き、下唇を噛み締める。
今萃香の胸中には恐怖が渦巻いているのだろう。
このまま放って置くのも楽しそうだが、余り焦らして壊すのも勿体無い。
俺は立ち上がり萃香の目の前まで行き、膝を付いて小さな身体を抱き締めた。
「……え、あ……?」
胸に抱き寄せた萃香が困惑の声を上げる。
それはそうだろう、罰を与えると言った相手が自分を慈しむ様に身体を抱いてきたのだから。
突然の事に脳の処理が追い付かず狼狽えている萃香の髪の毛に右手を伸ばし、優しく梳く。
痛んだ毛先が絡まりそうになる度、指で丁寧に解してやる。
背中に回した左手は泣きじゃくる子供を宥める様にゆっくりとさする。
一分もしない内に萃香の身体から緊が抜け落ち、俺の為すが儘に身体を預けてきた。
若干焦点の合わない瞳が俺を見上げ、惚けた様に口を半開きにしている。
今なら俺の言葉を『正しく』聞き入れてくれるだろう。
「萃香、罰の内容を言うぞ」
「……うん」
「一つ目、お前の全てを俺のものにする。心も身体も、全部だ。だから他の男に肌を見せたりはするな、他の男に気を寄せたりもするな」
「え……?」
「二つ目、何が有っても俺の事を信じろ。俺はいつだってお前を信じる。だからお前が自分を信じられなくなった時は、お前を信じる俺を信じろ」
「け、契……?」
「三つ目、嫉妬するのは良いが他の嫁さん達とは喧嘩しない事。文句や不満が有ったら俺に直接言ってくれ、出来る限り改善していくから」
胸元から俺を見上げる赤褐色の瞳に、僅かだが光が戻り始めていた。
腰を下ろして目を同じ高さに持って行き、正面から揺れる瞳を見据える。
紡ぎ出すのは魂に刻み込む呪詛。
「萃香、俺の嫁に『なれ』。それがお前に科す罰だ」
「私が、契の嫁に……?」
「そうだ。赤の他人ならいざ知らず、愛する嫁さんを憎む夫は居ないだろう?」
「うん……」
「萃香が俺の嫁になれば、俺は萃香を愛してやる」
「契に、愛して貰える……」
「勿論罰を受けない、という選択肢も有るぞ? だが罰を受けないなら鬼からは嘘吐きとして疎まれるだろうな。俺も萃香を嫌いになるかもしれない」
嫌い、という言葉を聞いて萃香はひぐっ、と小さな呻きを漏らした。
目にはじんわりと涙が滲み出す。
「あぁ、嫌いになるな。どうでもいい存在として捨て置き、最後は萃香の事なんか忘れてしまうだろう」
「ひっ……!? いや、いやぁ……っ……!?」
頭を抱えてぼろぼろと涙を零し、縋る様な視線を向けてくる。
今にも崩れ落ちてしまいそうな程に不安定な萃香の頬に掌を当て、コツンと額を合わせてやる。
視界いっぱいに広がる赤褐色。
その奥底に自身の深淵を映し出してやりながら、俺は呪詛を紡ぎ続ける。
「だが萃香が俺の嫁になれば、そんな心配はしなくて良い。一日中でも可愛がってやるさ」
「本当……?」
「あぁ、本当だ。俺は萃香が大好きだからな。だから萃香、俺を失望させないでくれないか」
「契の嫁になったら……契に愛して貰える……」
そっと指で流れる涙を拭ってやる。
さて、そろそろ飴を与えてやらないといけないか?
ぶつぶつと呟く小さな口をこじ開け、強引に唇を重ねた。
舐る様に舌を愛撫してやれば、萃香はぴくんぴくんと小さく跳ねる。
とろんとした瞳がもっともっと、と求めてくるが今はこれでお預けにする。
離した口から銀糸が伸び、俺と萃香を繋いでいる。
それを舌先で絡め取り、俺は口を開いた。
「俺の嫁になり良い子にしていれば、もっとしてやるぞ?」
「ふぁ……」
「もっと気持ち良い事もしてやるし、俺の子供を孕ませてやる事も出来る」
「契の、子供……」
「さぁ、萃香。自分で選ぶんだ。俺の嫁となり幸せを手にするのか、それとも罰を逃れ忘れ去られて行くのかを」
答えは決まっている。
「……わ、私は……契の嫁に、なる……」
「良い子だ、萃香」
「あっ……♪」
今度は優しく唇を重ねてやる。
親鳥に餌をねだる雛の様に何度も何度も唇に吸い付いてくる萃香。
──堕ちたな。それにしても凄い効き目だな、流石は八意印の催眠導入香。
宴会の折にこっそり渡された永琳特製の危ない薬。
「きっと必要になる筈よ」と半ば無理矢理渡されたのだが、こんなに早く使う時が来るとは思わなかった。
戻った記憶と会った時の反応から説得は不可能と感じ、催眠状態にして心の奥に「俺は萃香を許している」と教えてやるつもりだったんだが……はて、どこで間違えたのやら?
最近紳士モードだったからな。
きっと俺の右腕に封印された鬼畜眼鏡が自意識に何らかの影響を与えたのだろう。
と、いう事にして置こう。
因みに香は胸板に塗って置いた。
抱き締めて頭と背中を撫でている時にさり気なく吸わせたのだ。
予定では与える罰の内容は「自分を責める事の禁止」だったんだが……いや、本当にどこで間違えた?
「んっ、好き、契、好きぃ」
まぁ、良いか。
何はともあれ可愛らしい鬼っ娘を一人ゲット出来た。
誰も傷付かずハッピーエンドを迎えたのだから文句や不満が出る筈も無い。
「さて、大将達の所へ報告に行くか」
っと、その前に萃香の催眠状態を解いて置かないとな。
一先ず萃香を引き離し……こら、寂しそうな顔をするんじゃない。
目の前に右手を持って行き指を弾く。
ぺにょ。
──さて、大将達の所へ報告に行くか。
自分で編集点を入れやり直す。
今度は目の前で猫騙しの様に手をぱんと鳴らした。
赤褐色の瞳には生気が戻り、惚けていた顔もそれなりに引き締まる。
「……あ、あれ?」
「どうした、萃香?」
「あ、ううん、何でもないよ」
どこかすっきりした顔で答える萃香。
その瞳に浮かぶのは恐怖では無く、歓喜と恋慕の情。
陰りは身を潜め萃香本来の明るさが戻っていた。
荒療治は成功、調教も上々の仕上がり。
「契、行こっ」
心からの笑みを浮かべた鬼っ娘に手を引かれ、俺は廊下を歩いて行った。