私の人生は──妖怪が人生という言葉を用いるのが適切から解らないが──数百年前のあの日から始まったのだと思う。
いつもの様に花達の世話をしていると、皆が一斉に何かを気にし出した。
(倒レテル)
「え?」
(助ケテアゲテ)
「助ける? 誰を?」
(男ノ子、川ノ側デ倒レテル)
返って来た答えは今一つ要領を得なかったけれど、私は花達の声に従い普段は余り訪れない川辺へと向かった。
余り山道を歩くのに適した靴では無いけれど、危なげ無く坂道や獣道を踏破する。
……運動は少し苦手。
その所為か普通の人なら十分で行ける道程を、私はたっぷり十七分掛けてどうにか辿り着いた。
息は乱れてないけれど、額にはうっすら汗が滲んでいた。
日差しを遮っても空気が熱を持っているから、日傘を差しても体感温度はそれ程変わらない。
「……あら?」
川辺に黒い何かが倒れている。
烏かと思ったけれど隙間から覗く肌の色が、それを人間だと現していた。
黒い上着に黒いズボン、髪の毛も黒い。
そのまま喪に服せそうな格好だと思った私は、少し不謹慎だろうか。
(助ケテアゲテ)
「……この子を?」
(スゴク良イ人)
花達はこの子を知っている様だ。
何故倒れているのか、何故こんな所に居るのか、疑問は尽きない。
けれど花達が良い子と言うのなら、きっとこの子は花を愛する事が出来る優しい子なのだろう。
抱き起こすと彼は口から水を吐いた。
肺を水が満たしている。
普通なら死んでいる筈だけど、彼の心臓は確かに脈打っていた。
──何故? 何故、彼は生きているの?
恐らく、一昨日の鉄砲水に流されたのだと思う。
でも一日以上こんな状態で倒れていた人間が、果たして生き続けていられるものなのだろうか?
新たな疑問に思わず顔を覗き込むと、彼の瞳がうっすらと開いた。
「────ぁ」
一瞬、世界が止まったかと錯覚した。
彼の瞳に、私は引き込まれていた。
仄暗い黒を湛えた水底よりも深い淵が、言い知れぬ何かを携え私を覗き込んでいる。
感じたのは狂おしい程の歓喜。
これは拙いと私の理性が警鐘を鳴らす。
けれど感情は彼を求めていた。
彼が欲しい、この気持ちは不自然だ、彼に私を捧げたい、彼から離れなければ。
相反する言葉が脳裏に渦巻く。
混乱に意識が悲鳴を上げる直前、耳に音が届いた。
「ル……ミ、ア……」
途切れ途切れの声が何を意味しているのかは解らないけれど、彼の声が私を現実へと引き戻した。
もう、あの不思議な感じは無い。
それを知覚した瞬間、どっと汗が吹き出してきた。
「……何なの、この子……」
まるで深い海の底、いや更に深い暗闇の淵を垣間見た様な感覚に囚われた。
本能的な恐怖と脊髄を駆け上る高揚感。
……今思えば、名状し難い何かを有するこの子に惹かれていたのかもしれない。
ともかく私は近くに落ちていた割れた眼鏡も一緒に回収して、彼を家まで連れて行く事にした。
「……そう言えば、この子どういう子なのかしら?」
(キチクメガネ)
「え」
こうして彼と知り合い、新しい生活が始まった。
彼は記憶喪失だった。
自分の名前、家族、思い出の全てを失っていた彼だけれど、その事を気にした様子は無かった。
……明るく誠実な彼と恋仲になるのに、そう時間は掛からなかった。
どんどん彼に溺れて行くのが解る。
彼と共に目覚め、彼と同じものを食べ、彼の側で花や野菜を育て、彼と同じ杯を交わし、彼に抱かれて眠る。
生活の、と言うより私の一部となった彼の存在。
まるで夢の様な楽しい時間が過ぎて行く。
何の憂いも無い、私と彼、二人だけの幸せな時間が。
──だからこそ、夢は覚めてしまったのかもしれない。
終わりは一瞬だった。
彼は河童の集落へ向かう途中で、山に住む鬼に攫われた。
彼の帰りが遅い事を心配して家を出た時には、もう遅かった。
一目で解る。
心に深い傷を負った彼の力無い微笑みは、いつもよりくすんで見えた。
私の失敗は二つ。
一つは、彼と行動を共にしなかった事。
心配性だと彼に茶化されても、一緒に付いて行けば良かった。
もう一つは、鬼に文句を言ってやろうと彼を残し鬼の集落へ向かった事だ。
結果的に私は無傷で済んだけれど、代わりに彼を失った。
河童の友人、あとりの研究室兼倉庫が赤い風に飲まれていったのを、私は集落の端からぼんやりと眺める事しか出来なかった。
……後で聞いた話では、私は半狂乱で彼の名を呼びながら瓦礫を掘り起こしていたらしい。
我に返った時、両手の指が血に染まっていたのはその所為だ。
こうして最愛の彼を失った私は、花と野菜の世話をする時以外は家に篭もる様になっていた。
最初の数年は彼がいつ帰って来ても良い様に、二人分の食事を用意していた。
手を着けられないまま冷めていく料理に、私は何度も涙を零した。
彼の死を受け入れようとする度、部屋に残る彼の香りが幸せだった日々を鮮明に呼び起こす。
──叶う事なら、もう一度彼に逢いたい。
そう願わない日は無かった。
窓から見える向日葵の畑を眺めながら紅茶を啜り、ぼんやりと毎日を過ごしていた。
そんなある日。
いつもの様に花と野菜の世話を終えて一息吐いていると、急に花達がざわめいた。
(キタ)
(キタヨ)
「どうしたの?」
(カエッテキタヨ!)
カエッテキタ──帰って、来た?
何が、と思うより早く身体が動き出していた。
普段運動しない所為か走る速度が上がらないのをもどかしく感じながら、花達が導く方へと駆けた。
──居た。
しゃがみ込んで足元に咲く小さな花を愛でている男の人。
その姿は間違い無く、彼だった。
けれど、纏っている空気が違う。
恐らく今の状態が彼本来の姿なのだろう。
以前、彼に聞いた事が有る。
記憶喪失になった人が本来の記憶を取り戻した時、自我の齟齬を無くす為に記憶喪失だった際の記憶が失われる事が有る、と。
もしかしたら、彼は私を忘れているかもしれない。
そう思った瞬間、怯えが膝を揺らした。
けれど、私は歩みを止めない。
彼が私を忘れたなら、もう一度思い出させてあげれば良い。
今まで放って置かれた分の寂しさを込めた、全力の平手打ちでも添えて。
覚えていても、覚えていなくても、私は貴方を覚えている。
だからもう、貴方を離したりしない。
そんな想いを込めて、私は彼の背中に声を掛けた。
「──誰か、探しているの?」
結論から言えば、彼は私の事を綺麗さっぱり忘れていた。
予想はしていたけれど、少し落ち込む。
半ば八つ当たりで彼に仕掛けたけれど、あっさり迎撃された。
私の技は届かず彼に遊ばれるばかり。
一撃で倒された私はいつの間にか部屋のベッドに寝かされていた。
……もしかしたらお姫様抱っこで運んでくれたのかもしれない、そう思って悔しくなったのは内緒。
その後彼と少し話をした。
改めて聞いてみたけれど、やはり彼は私の事を覚えていなかった。
でも焦りはしない。
また彼と接点を持つ事が出来たのだから。
(未練タラタラ?)
「私は負けず嫌いなの」
(或ル意味オ似合イ)
「やぁね、私とケイは相性抜群なのよ? 心も身体も」
(オ水チョウダイ、渋イヤツ)
そんな会話を楽しみながら花の世話をする事数週間。
突然彼が遊びにやって来た。
近くまで来た序でに暇潰しをしようと訪れたみたい。
本当は両手を挙げて歓迎したい所だけど、ちゃんと彼が私の事を思い出してくれるまでは少し冷たい態度を取って置く。
ふふっ、良い女はこういった駆け引きもお手の物なのよ。
(デモ一番良イ紅茶用意シテルネ)
(ドウ見テモ、デレデレ)
「それは仕方無いわ。だって私がケイに抱く恋心は隠し切れる様なものじゃ無いんだから」
(糖分過多デ枯レソウ)
(アマーイ!)
何やら花達が煩いけれど、この私の完璧な演技に死角は無いわ。
前に聞いた『ツンデレ』とやらで、もう一度ケイの心を捕まえてあげるんだから。
……だけど、本当はちょっと寂しい。
やっぱり彼に私の事を思い出して欲しい。
そんな思いが顔に出ていたのか、彼は時々困った様な笑みを浮かべていた。
楽しい時間が過ぎ、彼は帰ってしまった。
本音を言えばもう少し一緒に居たかったけれど、それを望むのは我が儘だろうか。
そんな事を考えてぼんやりしていると、再び玄関がノックされた。
扉を開けると、先程帰った筈の彼が立っていた。
「どうしたの?」
「少し頼みが有ってな」
「こーんにーちわっ!」
「こ、こんにちは」
彼の背後からひょっこり顔を覗かせるのは、近くの湖に棲む二人の妖精。
聞けば、クッキーに合う紅茶をご馳走したくて私の家に戻って来たとの事。
その行動力と突き抜けた優しさに少し呆れの様な感想を抱くけれど、同時に根っこの部分は何も変わっていないのだと解り、ちょっぴり嬉しかった。
やっぱり、彼は彼だ。
その後氷精のチルノが放った言葉に一瞬詰まる場面も有ったけれど、結果的には彼との距離が少し縮まった。
お礼に私の分のクッキーを分けてあげたら、凄く喜んでくれた。
私とケイの子供が産まれたらこんな感じなのかしら、と思ったら何だか心がふわふわしてきた。
それからは三日に一度、チルノと大妖精の二人が遊びに来る様になった。
最初は緊張や遠慮をしていた大妖精も、少しずつ私に懐いてくれる様になった。
今では三人で仲良くお茶会を楽しんでいる。
今日も午後から二人が遊びに来る予定。
どんな茶葉を用意しようか考えつつ棚の戸を開けようと手を伸ばした所で、コンコンと玄関の扉が音を立てる。
二人が来るのにはまだ早い。
誰だろうかと不思議に思いながら扉を開けると、そこには彼が立っていた。
「あら、いらっしゃい。今日はどうしたのかしら?」
多少驚いたけれど、私は微笑みを浮かべて彼を招き入れる。
でも彼は微動だにせず、真剣な眼差しを向けてきた。
一体どうしたのかと不思議に思う一方、彼に見詰められて少し胸が高鳴った。
毎回思うけれど、あの眼はズルい。
どこまでも深くて引き込まれそうになる、仄暗い黒の瞳。
見ているだけで幸せになれるのは、それだけ彼に溺れているからなのかしら。
惚けた様にきょとんとする私に、彼は言葉を紡いだ。
「幽香……いや、幽香さんと呼んだ方が解りやすいか?」
「え……?」
「全部思い出した。幽香の困った顔も、泣き顔も、怒った顔も、花が咲いた様な美しい笑顔も、全部」
今のは、彼が使っていた私の呼び名。
突然の事に付いて行けずただぽかんと呆気に取られている私を、彼は力強く、けれど優しく抱き寄せた。
耳元で囁かれたのは、私がずっと待っていた言葉。
「ごめん。それと、ただいま」
ただいま。
それは、彼が私の元へ帰って来てくれたという証。
たった四文字の短い言葉だけど、その中に詰まった彼の想いが私の心に強く響いた。
彼が、帰って来てくれた。
私の夫、望月契が。
「……ぁ、ぁぁ……っ、ぅぁあ……っ!」
涙が滲み、視界がぼやける。
口から零れるのは言葉にならない嗚咽。
玄関に立ち竦んだ私はまるで童女の様に泣き続けていた。
「遅い、ひぐっ、よぉっ、ケイぃっ」
「ごめん、幽香」
「わ、私、ケイの事、っく、ずっと待って、ひ、とりでぇっ、寂しかったぁ……っ!」
「ごめん、ごめんな」
「もう、どこにも、ぅくっ、行かない、でぇ……っ、私を、一人に、ぐすっ、しないでよぉ……!」
「もう幽香を置いて、居なくなったりしないさ」
「ぅぅっ、うぁ、ぁあぁぁ……っ!」
子供の様に泣き続ける私を、ケイは優しく抱き締めてくれた。
落ち着くまで何度も背中をぽんぽんと叩いて、逞しい身体で私を包んでくれる。
漸く私が泣き止んだ時には、ケイの上着が涙と鼻水で大変な事になっていた。
……後で洗濯して置こう。
「それにしても、幽香は泣いた顔も可愛かったな」
「……そんな事無いわよ」
「そのむくれた顔も可愛いぞ?」
そして今、私はケイに弄られている。
布団代わりにもなる長椅子に寝転ぶケイに抱っこされ、後ろから頬をむにむにとつつかれていた。
ケイの上着を干している間、手持ち無沙汰になったケイが私を強引に抱き寄せ、こうして私をオモチャにしている。
……オモチャ扱いされて嬉しいなんて事は無い。
無いったら無い。
「んみゅ」
「相変わらず幽香の肌は柔らかくて気持ち良いな。ずっと触っていたくなる」
「ま、またそんな事言って……」
彼の指が頬を滑り首筋を撫でる。
その感覚に、ぴくんと肩が跳ねた。
同時に身体の芯が熱を帯び、私の女の部分が俄かに反応し始めた。
──っ、私の身体、ケイに触れられて悦んでる……。
一日中身体を重ね合った事も有る。
お互いの身体が半身を求めても、何ら不思議は無いのだろう。
けれど、それを大っぴらにするのは恥ずかしい。
変な所で意気地の無い私は、ケイが乱暴に私を奪ってくれる事を、密かに期待していた。
でもケイが触れるのは頬か首元だけ。
偶に耳たぶへ熱い吐息を吹き掛けてくれるけど、性的な快楽を得られる場所には手を伸ばさない。
心は少しずつ高まって行くのに、欲望は満たされないまま焦らされていた。
──いやっ、もっと、もっとケイに触って欲しい……!
そんな淫らな欲望が脳裏を掠める。
けれどそんな事を言える筈も無く、私は顔を赤く染めてケイの悪戯に耐えるしか出来なかった。
「幽香、どうかしたか?」
「な、何でも無いわよ」
掛けられた声に思わず喉が震える。
もしかしたらケイには私のドキドキや淫らな欲望が筒抜けなのかもしれない。
そう思っただけで顔に血が集まり、耳の先まで真っ赤に染まる。
気恥ずかしくなって俯くと、急に伸びてきた手が私の身体を引き寄せた。
されるがままに身体を預ければ彼に抱き竦められる。
背中から彼の体温が伝わり、彼の不思議な香りにふわりと包まれた。
前に回された手に自然と掌が重っていた。
ケイと触れ合っている。
改めて認識した途端どうしようも無い愛おしさが込み上げて来て、堪らず私は彼の指に私の指を絡めた。
頭上で苦笑が漏れる。
「随分と甘えん坊だな?」
「……良いじゃない、久し振りに愛する人と触れ合えたんだもの」
「なら、もっと触れ合うか」
「え、あ、きゃっ!」
言うが早いか彼の手は私の胸元へと伸び、片手で器用にブラウスのボタンを外していく。
肌が露わになり、少し汗ばんだ胸にひやりとした風が当たる。
そのまま彼は両手で私の胸を揉んだ。
彼の掌はじんわりと暖かく、指先が乳首を擦る度にぴりぴりとした快感が伝わってくる。
「や、ぁん……ケイの指、当たって……」
「もう声が艶っぽくなってるな。はて、俺の幽香はこんなに淫乱だったかな?」
「やっ、やぁっ! ち、違うの、これは!」
「乳首を尖らせて言っても説得力無いぞ」
淫乱と言われて恥ずかしいのと『俺の幽香』と言ってくれたのが嬉し過ぎて、私の頭は一気に茹で上がった。
ぴん、と彼が指で乳首を弾く。
その衝撃に思わず腰が跳ね、奥から溢れ出る愛液がじんわりと下着を湿らせていく。
──あぁ……このままじゃ、私きっと、ケイに犯されちゃう……。
私の抵抗なんて意に介さず乱暴に衣服を剥ぎ取り、久し振りだからベッドでしたいって私が懇願しても、それを無視して凶悪な肉棒でいっぱい種付けするんだ。
そう考えただけで股からはいやらしい汁がとろとろ溢れ、脳髄が甘く痺れていく。
すっかり調教されてしまった身体は今でも彼専用らしい。
「こんなに濡らして……全く、幽香はいやらしいな」
「いやぁ、言わないで……」
「乱暴にされるのが好きなんだろ? この淫乱め」
彼に言葉で詰られるだけで、心が満たされていくのが解る。
どうやら私は本当に淫乱らしい。
抵抗らしい抵抗も出来ないままするりと衣服を脱がされ、一糸纏わぬ姿にされる。
くるりと体勢を入れ替えられた私は、呆気無く彼に組み伏せられた。