平城京で不比等と別れ、ぬえを連れ立ち西へ歩き出してから三日が経った。
日頃郷に篭りっ切りの所為で土地勘は全く無いが、それも旅の醍醐味と言える。
とは言え余りすいすいとは進めない。
この時代は基本的に徒歩が主流だ。
京なんかでは牛車も有るが、山を越えて行くとなるとやはり徒歩、稀に自分の籠を持つ貴族が歩かずにいるくらいだ。
現代社会のアスファルトが懐かしい。
とは言っても健脚な俺は悪路も関係無しに山を行け、ぬえが疲れたら休むか抱えて進むので然程問題は無い。
「右右左、ここは真っ直ぐ、っと」
うねうねと曲がりくねった峠道を、軽快な足取りで越えていく。
踏み固められた道とは言え、所々に木の根が浮き上がっているので注意は必要だ。
中には膝の高さ程までの物も有る。
「よし、持ち上げるぞ」
「ひゃ、わぁあ!?」
そんな時は、こうして小さなお姫様を抱き上げてやる。
回り込むか飛び越えた方が早いのは明らかなのだが、非常に可愛らしい悲鳴が聞けるので態とやっている。
抱き上げて暫くは恥ずかしそうにわたわたとしているが、如何にか落ち着きを取り戻すと袖をくいくい引いて下ろす様に言う。
が、そのまま下ろすでは詰まらない。
時折、じっと深紅の瞳を覗き混んでやる。
「な、なに……?」
「綺麗な目に見惚れていた」
「はぅっ!?」
顔に差す朱がより鮮やかになった。
これで数分はあわあわしているので、そうして出来た時間はぬえの体温を存分に楽しんでいる。
最初はもう少し凝った口説き文句を掛けていたが、余り遠回し過ぎるのは伝わらない事が解った。
へにゃりと首を傾げる姿に癒されつつ、誤魔化す為に頭を撫で回したのは記憶に新しい。
──発生から数ヶ月程か。最低限度の知識は有しているが、それでも四、五歳程度の知能しか無いらしい。
如何に妖怪が早熟とは言え、流石に発生して間も無い個体の精神は幼い。
人格の形成も儘ならない段階で大概の妖怪は自然に消滅するが、人間の恐怖を受ける事で存在を保つ事が出来る。
が、その際殆どの妖怪は人間から憎悪や嫌悪といった負の感情を浴びせられる。
大体の妖怪が人間に敵対的なのはこの所為だな。
まぁ、代わりに幼い内から可愛がってやれば妖怪も人間に偏見は持たない。
種族的な差はどうしても有るけどな。
河童は人間とも近いから余り悪い印象を向けられないので友好的、鬼は正々堂々と在れば気にしない気性だ──特に萃香や勇儀は本人の性格も有るだろう。
フランやこいし、紫辺りはまだまだ幼いから余り人間に対して思う所は無いらしい。
俺や集落の皆には思い切り可愛がられているしな。
──特殊なのはルーミアだな。
解り易く『人喰い妖怪』と異名が付いているにも関わらず、俺と知り合ってからは人喰いをしていない様だ。
俺との『約束』を守り続けたいから、と言っていたが……無理して身体を壊さなければ良いんだがな。
ルーミアが苦しむくらいなら腕の一本や二本惜しくは無い。
……いやまぁ、多分切り落としても生えてくるんだろうな、俺の腕。
と、意識を飛ばしていると熱い視線を感じた。
「おっと、すまん。少し呆けていた」
「…………」
「ぬえ?」
「……ぁ」
「ん?」
覗き込む様に顔を寄せると、ぬえはハッとした様子で軽く首を振った。
「ううん……何でもないの。ただ……」
「ただ?」
「契さん、すごくやさしい顔、してたから」
「普段の俺は優しく無いか?」
「や。いじわる言わないで……」
「ははは、すまん。ぬえが慌てる姿が可愛いからな、つい意地悪をしたくなるんだ」
「もー……」
腕の中のお姫様が不機嫌になる前に地面へ下ろす。
とてとて歩いて俺の左側へ移動し、きゅっと左手の小指を握ってくる。
何だかんだで打ち解けてくれた様だ。
少し引っ込み思案なお姫様と峠道を行きながら、内心自嘲の笑みを漏らす。
出発してからまだ三日と経っていないのに俺の心は早くもルーミア禁断症状に陥ってしまったらしい。
声を聞きたい、笑顔が見たい、触れていたい。
視界の何処かで光が反射する度、陽光で輝く金の髪を探してしまう。
──よし、帰ったら一日中ルーミアに抱き締めて貰おう。
一度で良いからやって欲しいんだよなぁ、アレ。
胸に顔埋めた状態で頭なでなでする奴。
多分やられたら、その日は使い物にならなくなる自信も有る。
と言うかルーミアにされた時だけ馬鹿になるんだよなぁ、俺。
他の皆に頭撫でられても心が暖まるだけなんだが、ルーミアに頭を撫でられると途端に心が溶けていく。
あの圧倒的な幸福感、例えるなら麻薬だな。
何処までも堕ちて行く感覚が癖になる。
「……ん?」
ふと気付けば、回りの景色が動いていない。
思考を飛ばしている内に自然と足が止まっていた様だ。
左手にはじっと俺を見上げる幼女の姿。
「またやさしい顔してる」
「はは、見付かったか」
「ちょっぴり気になる……かも」
深紅の瞳の奥に輝くのは興味。
多少は気に入られたか? と希望を多分に含んだ分析を抱きつつ、俺は手頃な丸太を蹴り出して即席のベンチを作る。
向かい合わせにぬえと座ると、ぬえは不思議そうに首を傾げた。
「のじゅくには早いよ?」
「ぬえが聞きたいんじゃないかと思ってな。俺がさっきから誰を思い浮かべているのか、知りたくないか?」
そう問い掛けると、ぬえは興味津々といった様子で首を縦に振った。
可愛らしい反応に気を良くした俺は口を開く。
思い浮かべるだけで口の端が締まりを無くす最愛の妻をどんな風に紹介しようか。
彼是と考え悩む頭とは裏腹に、口は自然と言葉を紡ぎだしていた。
ふぅ、と身体に篭る熱を吐息と共に外へ押し出した。
パチパチと弾ける焚き火の音色が回りの木々へと吸い込まれて行くのを聞きながら、右手の先に意識を向ける。
「……くぅ……すぅ」
膝の上で可愛らしい寝息を立てるぬえの髪を優しく梳いてやると、くすぐったそうに頬を緩ませる。
ルーミアとの馴れ初めやちょっとした想い出なんかを、つい先程まで語っていた。
始めは興味深げに聞いていたが、夕食の後からは満腹で眠くなったのか途中うつらうつらとしながら聞き、力尽きたのが十分くらい前だ。
時間にして大体四時間近く語っていた。
そりゃあぬえも眠くなるわな。
「と言うかどれだけルーミアに溺れているんだ俺は……」
客観的に見返すと完璧溺れているのが解る。
笑顔を思い浮かべるだけで頬が熱を帯びるとか中学生か。
自身に対する呆れと共に吐き出された言葉が、焚き火の弾ける音に混ざって溶けていく。
たった三日。
それだけで恋い焦がれる様になった。
これから長い旅路を行くと言うのに今からこの調子で大丈夫なのか、自分の事ながら甚だ疑問では有る。
「……いざとなったら、ぬえに慰めて貰おう」
酷く情けない気もするが背に腹は変えられない。
ぬえに頭が上がらなくなる日も、存外近いかもしれん。
今回の旅路も、出発して直ぐに郷へ戻るのは格好が付かないからと言う理由でぬえに着いてきて貰っている。
本当なら郷へ連れていき諏訪子達に面倒を見て貰うのが一番良いのだろう。
それを、俺の意地で振り回したに過ぎない。
文句一つ言わずに居てくれるぬえは、将来きっと良い女になるだろう。
「……ん?」
そんな事を考えていると、遠くからかさかさと枝葉を掻き分ける音が響いて来た。
余り音の鳴る範囲が大きくは無さそうな為、多分熊では無いと思う。
徐々に近付いて来たそれは目の前の藪で一度動きを止めた。
はてさて、鬼が出るか蛇が出るか。
少しの期待を胸に眺めていると、一際大きくかさりと枝葉が揺れた。
「わぅん」
現れたのは痩せた子犬だった。
本来なら稲穂の海の様に鮮やかで在ったであろう茶色の毛並みは、雨風に晒されたのか鈍く汚れ所々に土を付けている。
力無く垂れた耳が何とも愛らしい。
子犬は怯えるでも無く、焚き火の側に腰を下ろした。
じっと此方を見上げる瞳と、視線が交差する。
「……そうだな、少し待ってろ」
通じるかは解らないが口に指を当て静かにしていろと指示して、眠り姫を起こさぬ様に注意しながらリュックサックへ手を伸ばす。
丸めた毛布を取り出してぬえの頭に敷いて枕代わりにして、笹の葉の包みを取り出す。
中身は幽香農園で採れたキャベツだ。
口を開けた飯盒(諏訪子の能力で作った特製品)に水を入れ沸騰させたら、キャベツを軽く湯通ししてから振って充分に冷ます。
犬は熱い物を食べても自分で熱を冷ませないから口内を火傷する恐れが有る。
だからこうして冷ましてから与えるのが良い。
手に乗せたキャベツを、じっと待っていた子犬の口元に持って行く。
「ほら、食べて良いぞ」
「わんっ」
小さく吠えてはぐはぐと咀嚼する。
改めて見ると、幼犬だった。
痩せて小さく見えていたのだと思っていたが、どうやらまだ生まれて間も無いらしい。
姿が見えない所から察するに、親犬とはぐれたか既に親犬は居ないかだろう。
三切れ程与えると、子犬は満足した様子でぱたぱたと尻尾を振りながら俺を見上げてきた。
頭をぐりぐりと撫でてやると嬉しそうに身体を擦り付けてくる。
随分と人に慣れているな。
飼い犬だったかまだ人を知らないか、恐らく後者だろう。
「お前も一緒に寝るか?」
「わふっ」
元気良く返事をして焚き火の側で横になる子犬。
まるで言葉を理解しているかの様な反応だ。
最後に軽く一撫でして毛布を掛ける。
積もる程に雪が降っていないとは言え、もう十二月も目前だ。
「焚き火が消えない様に神様にでも祈っておくか」
「わぅ?」
「って、俺も神様だったな。なら大丈夫だろ」
楽観的な思考と共に焚き火へ視線を向ける。
眼前、天に昇るとまでは行かないがそこそこの勢いで火柱が立っていた。
キャンプファイヤーでやる様な四方形にしっかりと組まれた土台にうむうむと頷いて、自分用の毛布を肩に掛ける。
しっかり空気の抜け道さえ確保していれば、そうそう火は衰えないものだからな。
そして翌朝。
ぱちり、と一際大きく響いた音に目を覚ます。
一番太い薪が赤熱した断面を空気に晒しながら燃えているのが見える。
多少勢いは弱くなっていたが、朝まで消える事無く燃えさかっていた様だ。
代わりに、子犬の姿は消えていた。
毛布がまだ暖かかったから、起き出してそう時間は経っていない。
どこへ行ったのやら。
「まぁ、元気なら良いか」
「んぅ……おはよー」
「おはよう、ぬえ」
眠たげに目を擦るぬえに微笑みを返し、毛布を畳んでリュックサックへ詰め込んでいく。
近くの川で水を汲み、数個の飯盒に入れて煮沸する。
郷の近くの川と違って下流から中流域に有る為、煮沸して良く消毒しておくのが重要だ。
大体の寄生虫や病原菌は熱に弱い。
現代社会ならいざ知らず浄水処理なんて概念すら浸透しているか怪しいこの時代、しっかりと衛生管理に注意を払っていないとすぐに身体を壊してしまう。
「朝飯が出来るまでもう少し待ってろよ?」
「うん、ありがと……ふわぁ」
可愛らしく欠伸をするぬえに癒されながら、手早く食器を並べていく。
今日の献立は干し肉とキャベツのコンソメスープ風味だ。
適当に考え付いたレシピだから名前が適当なのはご愛敬。
煮沸した飯盒に干し肉とキャベツを入れ、自家製のコンソメの元を取り出し溶かしながら混ぜる。
適度に灰汁を取れば終わりだ。
塩分は干し肉から出る分で足りるし自家製コンソメと幽香のキャベツが野菜の旨味を十二分に引き出しているので余計なものが要らない簡単レシピだ。
胡椒が入っていないが、無くても美味しくなる様に調整して有るから問題無い。
それに胡椒の辛みが苦手な嫁さんが多いからな。
レミリアとか諏訪子とか。
見た目通り子供舌だ。
「よし、後は冷めるまで待つだけだな。ぬえ、先に冷まして置いたこっちの水で顔を洗うと良い」
「ん、ありがとー」
ぱしゃぱしゃと顔に水を浴びせ、んみゅんみゅと手拭いで顔を拭く。
仕草が実に微笑ましい。
数分冷まして丁度良い温度になった所で、箸と皿を手渡す。
コンソメの香りが鼻から抜け眠っていた胃を呼び起こし、一気に涎が溢れ出てくる。
「それじゃあ両手を合わせて、いただきます」
「いただきます!」
「いただきます……え?」
「ん?」
何やら声が一つ多い。
気付けば俺の隣でにこにこと俺を見上げる幼女が座っていた。
「何故に全裸なんだ?」
いつから居たとか何処から来たとかそもそも君は誰なんだとか聞きたい事は色々有るが、先ずは服を着ていない事に焦点を当てたい。
が、にこやかに答える幼女の返答が更に混乱を強めた。
「服? 無いよー」
幼女はさも当然と言わんばかりだ。
混乱が頂点に達する前に、一先ず現状を整理する事にした。
取り敢えず、この幼女に見覚えは無い。
少し日に焼けた健康的な肌、少し痩せた細い手足、八重歯の覗く可愛らしい笑顔、ぺたりと垂れた犬の様な耳、もふもふとした尻尾。
髪は軽く波打つ青緑色のショートボブ、円らでくりくりっとした眼はエメラルドの様に透明感の有る緑色。
容姿から察するに、恐らくこの幼女は何かの妖怪ではなかろうか。
……どちらにしても覚えは無いのだが。
「取り敢えず毛布にくるまってろ、寒いだろ」
「えへへ、ありがとー♪」
眩しい笑顔を見せる幼女にリュックサックから取り出した毛布を掛け、ぐるぐると巻いてやった。
俺の分のスープを渡してやり、追加で飯盒をセットして置く。
「ほれ、先に食べてろ」
「わ、良いの?」
「飯は温かい内に食べるのが流儀だ。ぬえも遠慮せず食ってて良いぞ」
「契さんは?」
「俺は追加が出来るまでこの娘の服になりそうなものを探してみる」
とは言え俺の服では大き過ぎる。
何か無いかとリュックサックを漁っていると、不意に出掛けに奈苗が言っていた事を思い出した。
『おとーさんの精子でお腹いっぱいですよぉ……♪ 孕んじゃいますぅ♪』
違った。
もう少し後のだ。
『ちょっと困ったなーって思ったら、左のチャックを開けて中の包みを広げてみてください♪』
ふむ。
奈苗が果たして何を仕込んでいたのかは解らないが、取り敢えず開けてみても良いだろう。
リュックサックの左側に付いていたチャックを下げると、確かに何か包みが出て来た。
紺色の風呂敷の結び目を解いてみると、中から出て来たのは小豆色の長袖ワンピース。
確か呉服屋に出した新しいデザインの服がこんな感じのものだった気がする。
丈も幼女には丁度良いくらいだ。
ご丁寧に下着も揃っている。
「何と言うナナえもん……!」
余りの事態に戦慄した。
何で予測出来たのか小一時間程問い詰めたい。
未来の世界の青狸より高性能かもしれん。
脳裏に親指を立てた奈苗の姿が浮かんだ。
相変わらず凄まじい先読みスキルだな……もしかしたら俺が知らないだけで、何らかの能力を秘めているのかもな。
「取り敢えずこれに着替えると良い」
「わ、かわいい服」
「ぬえ、この娘が着替えるのを手伝ってやってくれ」
「うん、わかった」
「いってらっしゃぁい♪」
取り敢えず幼女に服を渡して、代わりに食器を回収して洗いがてら川まで行く事にした。
背後からきゃいきゃいと賑やかな声が聞こえる。
うむうむ、諸般の事情は置いといて幼女達が楽しげなら問題無しだな。
ぱきぱきと落ちた小枝を鳴らしながら川まで辿り着き、さっさと洗い物を済ませて手早く戻る。
恐らくあの幼女、昨日の痩せた犬が妖怪化したものでは無いかと俺は考えている。
垂れた犬耳と尻尾以外にそれと確信出来る様な情報は無いが。
まぁ、真相は直接問い質してみるのが一番か。
そんな風に思考を飛ばしながら、邪魔くさい枝葉をばさりと掻き分ける。
「や、ちょっ、やめ」
「ぬえちゃーん♪ えへへ」
「ひゃう、やっ、あ、契さん助けて!」
幼女が幼女に抱き付かれていた。
この短い時間でアレだけ懐かれるとは、ぬえも中々やるじゃないか。
真っ赤になってあわあわしている姿は何とも微笑ましい。
戯れる幼女二人に癒されつつ、のんびりと食器を戻す。
直ぐに助けるのも良いが、ぬえ自身照れているだけで嫌がってはいないからな。
そんな訳で、思い切り抱き付いて好意をぶつける幼女と、どうして良いか解らず取り敢えず抱き締め返して固まっているぬえを眺めてニヤニヤする事にした。
「ぬえちゃん、やわっこいー」
「ひゃあ!? や、やめて……!」
「ほっぺたもすべすべー」
「な、舐めないで、あ、口は、唇は契さんにあげるからダメー!?」
「成程、山彦か」
「うんうん、山彦ー。よろしくね、契さん!」
にぱー、と甘ったるい程に満面の笑みを浮かべる犬耳幼女こと幽谷響子。
その腕の中には、やや疲れた様子のぬえが居る。
抵抗するのは諦めた様だ。
むぎゅむぎゅぺたぺた、とされるがままにくっ付かれている。
まだ完全に吹っ切れてはいないらしく、頬はまだ赤く上気しているな。
眼福、眼福。
幼女同士の仲睦まじい様子は見ていて和やかな気持ちになる。
郷で言えばフランとこいし、チルノと大ちゃん辺りか。
紫と萃香、レミリアとさとりは余りそう言った子供っぽい動きをしない。
奈苗と妹紅のペアは……置いておこう。
会話だけ聞いてるとどっちが年上か解らん。
「霧に包まれててよくわかんないし、誰もいないから『かそだに』なんだって」
「ぷふっ」
「人がいないの? かそだにー。なんちゃって」
「ぷくっ、や、やめて、くふっ」
そして突如投げ込まれる小粋なジョーク。
ぬえの沸点は意外と低い。
両手で口元を押さえながら堪えているが、微妙に堪えられずに笑いが漏れている。
そんな二人を微笑ましく見守りながら、俺はこの先の行程を描き直す。
と言うのも、響子の名字の元となった件の『幽谷』が村の手前に広がっているからだ。
厳密に言えば幽谷を突っ切って行く訳では無く、端に掛かっている部分を掠めるだけだ。
が、しかし。
旅の人──仮にモブ夫としよう──に聞いた話では、途中幽谷から降りてきた霧に隠れて数歩先を窺うのもやっとだそうだ。
それを見越した商人達は霧の掛かる付近手前で露店を開いているとか。
商魂逞しいな。
空を見やれば遥か高い所で雲が流されている。
雨の心配は今の所無さそうな上、もう少し経てば風も吹いて来そうだ。
風で霧が流されれば言う事無し、だな。
「そろそろ出発するぞ、ぬえ。響子は如何する?」
「契さんと行くー♪ 美味しいごはん食べられるから!」
「そっか。それじゃあ行くか」
「えっ、そんな理由で良いの……!?」
「気にするな。よし、出発!」
「えいえいおー!」
「ひゃわぁぁ!?」
背中にリュックサック、右手に響子、左手にぬえを抱えて道を行く。
何とも賑やかな旅になりそうだ。