ぱしん、と乾いた音が鳴り周囲の空気を震わせます。
一拍遅れて熱を帯び始めた右頬から鋭く痛みが走りますが、私の意識は眼前の彼女から外れる事は有りません。
怒り、悲しみ、憤り、悔しみ、悩み、そして諦めに似た感情を蒼黒の瞳に乗せて私を睨み付ける彼女。
胸中では様々な感情が渦巻いているにも関わらず、酷く平坦な声を私に届けます。
「アンタ、いつもそう。勝手に納得して、勝手に突き進んで。あたしみたいに待ってる事しか出来ない奴を、いつも置き去りにして」
振り抜いた左手をゆっくりと引き戻しながら、それでも視線を外そうとはしません。
心の奥底は地獄の釜戸よりも熱く煮え繰り返っているのが、手に取る様に解ります。
ですが、そんな彼女に掛ける言葉を私は持ち得ていません。
「あの方がアンタにとって何よりも大切なのは、解る、解ってるつもり。だけど」
そこまで言って、彼女の顔がくしゃりと悲痛に潰されました。
「何で、アンタが全部背負うのよ……!」
ぽろぽろと涙を流しながら、彼女が近付いて来ます。
伸ばされた両手は私の背中へ回され、苦しいくらいに強く、深く抱き締められました。
「ごめんね、お姉ちゃん」
「バカっ……!」
思わず漏れ出た言葉に、彼女はより強く身体を押し付けて来ました。
身長差の所為で私の胸へ顔を埋める形になっている彼女の姿は、私が知っている普段の彼女よりもずっと小さく、弱々しいものでした。
自然と右手が伸び、頭を撫でていました。
いつもは『子供扱いするな』とか『妹の癖に生意気だ』とか可愛らしく怒っていた彼女ですが、今はされるがままに身体を預けています。
手のひらに返るのはさらさらの髪質が織り成す、絹の様な感触。
どうせなら平時にこの感触を楽しみたかった、と思うのは過ぎた願いでしょうか。
「ごめん。ごめんね、お姉ちゃん」
もう一度、今度は自分の意思で謝罪します。
落とされた言葉に、彼女は私の服をぎゅっと握り締めました。
「私は大丈夫だから。こうなる事は全部『識って』いたし、これが最善なのも本当だよ? だから、私は大丈夫」
「……黙りなさい」
「皆の役にも立てるし、何より一番大切な人を守れるから」
「黙りなさいよっ!」
悲痛な叫び声が上がります。
荒く息を吐きながら、彼女は言葉を紡いで行きます。
「アンタは、いつもいつも、自分さえ我慢すれば良いって。自分が頑張れば、皆が幸せになるから、そんな事ばかり言って。……でも! アンタは、アンタの幸せは何処に有るのよ! 我慢ばかりして、アンタはいつ我儘を言うのよ!」
弾かれる様にして顔を跳ね上げた彼女が、その切れ長の瞳で私を睨み付けます。
「少しくらいは頼りなさいよ……! あたしは、アンタのお姉ちゃんなのよ……!」
「うん……ありがとう。でも、ごめんね。これは私が、ううん、私にしか出来ない事だから。お姉ちゃんには嫌な事を押し付けちゃうけど、こんな事お願い出来るの、お姉ちゃんくらいしか思い付かなくて」
「だから、アンタはバカだって言ってるのよ……。最後の最後、こんなどうしようも無くなってから、やっと人に頼って……」
服を握り締めていた両手から力が抜け、彼女はまた顔を伏せてしまいます。
本当なら、普段からこうして彼女を抱き寄せていたい所ですが、状況がそれを許しません。
そして、それは今もですね。
ぽんぽん、と優しく頭を撫でると彼女は両手を力無くぶら下げました。
私はその場から三歩下がり深くお辞儀をします。
深く、深く。
今まで彼女が私にくれた優しさに、心からのありがとうを込めて。
そうして、どれくらいの時間が過ぎたのでしょうか。
十秒、一分、それ以上?
一つだけ解るのは、その時間以上の思い出を、想いを込めていた事だけ。
すっと身体を起こした私は『お姉ちゃんの妹』から『守矢の巫女』へと仮面を被り直します。
「それでは『霊霞』様、私亡き後の子細、宜しくお願いします」
その言葉に肩を震わせ、悲しげに瞳を閉ざす彼女。
ぽろぽろと涙を零しながら、私と同じ様に深くお辞儀を返しました。
その零れ落ちる涙の意味が解らない訳では有りませんが、私に出来る事は巫女としての責務を果たす事だけです。
またねもさよならも言わず、私は踵を返しました。
「……さて、次はいよいよ大詰めですね」
不意に思考が漏れ、言葉となって空へ溶けて行きます。
こないだはうっすらと雪が積もっていました。
冬本番は目前ですね。
今日の出掛け、チルノちゃんやフランちゃんは元気に霜を踏んで楽しんでいましたけど、妹紅ちゃんは諏訪子様と一緒にコタツムリ状態でした。
確かに朝が辛い季節では有りますね。
何よりおとーさんがいないので皆さん何処か上の空と言いますか、少し張り合いが無さげです。
特にルーミア様は影響が顕著ですね。
自然とおとーさんの影を探していたり、おとーさんの布団に潜り込んでみたり。
童女みたいで可愛いです。
──そんなルーミア様に重荷を負わせてしまうのは、躊躇われますけどね。
多分彼女と同じ様に、強い憤りを感じるのでしょうね。
何でもっと早く言わないんだ、って。
そこまで考えた所で思わず、ふふっ、と笑いが零れました。
優しい皆さんの事ですから、動いてみて何も無かったらそれで良い、と言って信じてくれそうです。
ですが、残念な事に私がその結末を『識った』のはつい最近でした。
定まったのはおとーさんが命蓮寺へ赴く事を決めた時、ですからね。
回避した所で根本的な解決はおろか、更なる被害がこちらまでやって来ますし。
──あぁ、いけません。また思考が逸り始めました。
心は決めたつもりでしたが、まだまだ未練は断ち切れなさそうです。
他に手立ては無いのかと思考を巡らせ、何度も何度も同じ結論に至り、その度に仕方が無いと割り切ってはまた考え。
そんな思考の堂々巡りがここ最近続いています。
妹紅ちゃんのお父様から聞いた事情、お茶屋さんに探って頂いた噂と真実。
それらを私の能力で組み上げた結論は、やはりいつも同じ答えでした。
──まぁ、ここまで用意して置いて何を今更とは自分でも思いますが。
さくりさくり、と枯葉や霜柱を踏みながら道無き道を行くと漸く見覚えの有る道へと出ます。
ほぅ、と一息吐いた私は周囲に人の気配が無い事を確認して郷への案内板の裏に仕掛けられた、小さなつまみを捻ります。
これで普通の人はこの道を見付けられなくなりました。
紫ちゃんの能力は便利です。
私のと違って実用性が有りますね。
とは言え、この能力のお陰で色々と助かっている訳ですし。
隣の畑は実る、って事ですかね?
「あ、奈苗さん」
「あら、ごきげんよう」
「こーんにーちわー♪」
背後から届く楽しげな声。
振り向くと美鈴さん、レミリアちゃん、フランちゃんがいました。
お散歩がてら遊びに来たのか、美鈴さんがレミリアちゃんに日傘を差してあげています。
その佇まいが堂に入っていてとても格好良いです。
フランちゃんは私を見付けて元気良く駆け寄って来ます。
ここは受け止めてあげるのが正解でしょう。
そんな訳で背を屈め、両手を広げて飛び込んで来るフランちゃんを受け止めます。
そのまま勢いを殺す為にくるくると回れば、楽しそうな笑い声が鳴り響きました。
「きゃーきゃー、くるくるまわるー!」
「おとーさん直伝の回転むぎゅむぎゅですよ♪」
「もう、フランったら」
「改めまして、こんにちは♪ 皆さんはお散歩ですか?」
フランちゃんを下ろしてぷにぷにほっぺを弄りつつ、お二人に笑い掛けます。
「まぁ、そんな所ね。今日はクッキーが上手く焼けたから皆にお裾分けでもしようかと思って」
「お姉様のクッキー、美味しいんだよ!」
「わ、そうなんですか? 今から楽しみですね♪」
「ねー♪」
流石はフランちゃん、ノリノリで答えてくれました。
今日も元気いっぱいですね。
綺麗な虹色の羽も、シャラララといつもより少しだけ多く鳴っています。
と、にこやかに戯れていると僅かな疑念を含んだ視線が向けられているのに気付きました。
視線の出所は美鈴さんです。
まだ美鈴さん自身、微かな違和感としか捉えられてはいないみたいですが。
──はてさて。明言されてはいませんが恐らく美鈴さんの能力は『気』に関わるものでしょうか。
体内を廻る気と同様に、機微と言った気も能力の範疇なのかも知れませんね。
となれば、まだ違和感の内に忘れさせるのが一番です。
少々邪道ですが、ここはレミリアちゃんに手を貸して貰いましょう。
「それにしても、貴女が外に居るなんて珍しいわね?」
「ふふ、何を隠そうこの近くに守矢の巫女代々の修練場が有るんですよ」
「奈苗ちゃん、しゅーれんじょーって何?」
「もっともっとおとーさんの役に立つために頑張る為の場所ですよ♪」
「わ、何かカッコイイ!」
「一応秘伝に当たるので詳しい事は内緒ですけどね。しーです、しー」
「しーしー♪」
人差し指を口元に当てて立てると、フランちゃんも同じ様に真似します。
そんな私達を見てレミリアちゃんは苦笑を漏らし、美鈴さんは納得した様子で小さく頷きました。
これで良し、と。
おとーさんも言う通り妙なフラグは叩き折るに限りますね。
ここで新しい動きを生んでしまうと、折角仕立て上げた舞台装置が無意味になってしまいますし。
──本当なら誰一人欠ける事無く過ぎれば一番良いんですが、どうやってもその未来は認識出来ませんからねぇ。
世知辛いものです。
「さて、ここでフランちゃんのぷにぷにほっぺを弄るのも楽しいですけど、レミリアちゃんのクッキーが待ち切れないので神社へ行きましょう!」
「賛成ー♪」
「では参りましょうか、お嬢様」
「うぅ、余り期待されるのも恥ずかしいわね」
「大丈夫ですよ、レミリアちゃん」
「うんうん、大丈夫だよ。だってお姉様は何でも出来ちゃうもん!」
にぱー、と眩しいくらいの笑顔を向けるフランちゃんに、レミリアちゃんはたじたじですね。
吸血鬼なのに太陽みたいとはこれ如何に、なんちゃって。
さてさて、元気なフランちゃんから勇気も貰った事ですし、午後からは気合いを入れて臨みましょうか。
かちゃり、と皿が音を立てて食器棚へ収まります。
お昼ご飯の片付けを終えて、漸く自由な時間が取れます。
神奈子様と諏訪子様は郷を回って皆さんと親睦を深めに、妹紅ちゃんと映姫ちゃんはフランちゃん達と日向ぼっこ中です。
ルーミア様は洗濯物を干し終えた辺りでしょうか。
おとーさんの洗濯物が無いので、最近は少し物足りなさ気に佇んでいる事も多いです。
ぼーっとしている姿というのも、それはそれで可愛らしいですけどね。
ふふっ、と少し楽しげな笑いを零しながらルーミア様を迎えに庭へ向かいます。
廊下をひたひた進んでいると、不意に視界が狭まり平衡感覚がおかしくなりました。
「──っ、と」
誰も見ていないので『いつもの様に』派手に額を打ち付けたりはせず、壁に手を付いて目眩が治まるのを待ちます。
自らの事とは言え、難儀なものですね。
とは言え彼女では妖力酔い程度で収まりませんから、甘んじて受けるしか有りません。
この間の封印が解けて以来、頻度も増えています。
そろそろ潮時かも知れませんね。
──そう考えると、此度の事は丁度良かったとも言えます。この身体の事も隠し通したまま逝けますし。
おとーさんの回復術が無いので無理は禁物ですが、そこそこ自由は利きますからね。
と、漸く目眩が引いてきました。
壁に付いた手を離し何事も無かったかの様に背筋を伸ばして歩くのと同時、左手奥の勝手口がからからと開きます。
覗くのは風に靡く艶やかな金の色。
相変わらず、同性ながらドキドキさせられるくらい綺麗です。
「あら、奈苗。そんな所でどうしたの?」
「でへへ、ルーミア様が来そうな気がしたので待ってました。大正解ですね♪」
私の言葉に苦笑を浮かべているルーミア様。
良かった、私はまだちゃんと笑えているみたいです。
そんな風に安心したのも束の間、一歩踏み出した途端、先程とは段違いの強さの目眩が襲ってきました。
直ぐ様右足の爪先で千早の裾を引っ掛け、ごく自然に体勢を崩した振りをします。
「ひゃわぁっ!?」
そのまま前へ倒れ込もうとした私の身体が、優しく受け止められました。
目の前にはふくよかなおっぱいがいっぱいです。
「もう、相変わらずねぇ。気を付けなさいよ?」
優しく微笑むルーミア様の顔が、直ぐ近くに有ります。
長い睫、深い紅の瞳。
包容力や母性と言った暖かさがぎっしり詰まった微笑みを向けられ、私の心が暖かい何かでいっぱいに満たされました。
思わず、両手を回して抱き付いてしまいます。
「でへへ、ルーミア様やわっこいです♪」
「甘えん坊なんだから。ケロ子や神奈子相手には抱き付かないのに」
「建前を言うと畏れ多いからです!」
「本音は?」
「諏訪子様は小さくて潰れちゃいますし、神奈子様は照れて反応しなくなっちゃうので詰まらないんです!」
「ぶちまけたわねぇ……」
「内緒ですよ? しーです、しー」
「全く、もう」
残念ながらフランちゃんみたいにノってはくれませんでしたが、代わりに頭へ柔らかい感触がぽむ、と乗せられました。
おとーさんみたいに惚けはしないですけど、何だかもう、心も身体もぽかぽかしてきます。
「でへへへ~♪」
「そんなだらしない笑い方しないの。折角の可愛い顔が……これはこれで可愛いわね」
「んみゅっ」
「あら、柔らかい」
「ふみゅぅ」
ルーミア様の細長い指が私の頬をぷにぷにと弄びます。
何だかんだで家族でも指折りのぷにり魔ですからね。
今ではおとーさんよりも回数が多いです。
「それはそうと、何か私に用が有ったんじゃないの?」
「んにゅ?」
おおぅ、何故か見破られました。
特段違和感を持たれる様な動きはしてなかったと思いますが。
何でなんだろうと向けた視線の先、悪戯っ子みたいな笑顔があります。
「強いて言うなら、勘よ」
成程、納得です。
時折私の能力を超えて感覚を研ぎ澄ませる事の有るルーミア様ですからね。
とは言え、勘なら詳しい事までは流石に把握出来てはいないでしょう。
魅惑のおっぱいは名残惜しいですけど、一先ず身体を離します。
温もりが無くなって少しだけ寂しいです。
「ではルーミア様、ご足労頂いても宜しいですか?」
「あら、ここでは言えない様な事?」
「ええ、内緒のお話なのです。しー、ですよ♪」
人差し指をぴんと立てる私に可愛らしい笑いを零して、ルーミア様が後に続きます。
普段の生活では余り使われない廊下を進み、本堂の更に奥へ。
見慣れない部屋を渡った所為か背後から訝しむ気配が届きます。
幾つかの襖を潜り、幾つかの角を曲がり、漸く目的の部屋へと辿り着きました。
たった六畳の質素な部屋。
部屋の隅に座布団が四枚と小さな茶器しかない、何も無い部屋です。
暫く使っていない割には空気は淀んでいません。
浄化の札はちゃんと効力を発揮しているみたいですね。
「それで、こんな所で奈苗は私に何を伝えるつもりなのかしら?」
僅かに険を滲ませた声が上がります。
あぁ、いけませんよルーミア様。
そんなにおでこに皺を寄せたらおとーさんみたいに跡が残っちゃいますよ?
──とは言え流石はルーミア様です。この部屋の仕掛けに気付きましたね。
この部屋に仕掛けられている札は、何も浄化だけでは有りません。
認識阻害、防音、そして妖力の中和。
ルーミア様の様に強大な妖力を持っているなら多少の違和感で収まりますから、それ程不快では無いと思います。
私にしてみれば、久方振りの清浄な気ですから凄く身体が楽なんですけどね。
座布団を敷き玄米茶を湯飲みに注いで、こくりと一口。
うん、美味しく淹れられました。
ルーミア様も一口飲んで一息吐いた所で、私は口を開きます。
多分、この言葉を聞かせたルーミア様には酷く辛い思いをさせてしまうでしょう。
先に心の中で謝って置きましょうか。
「さて、ルーミア様への用事、と言うよりはお願いですが」
ごめんなさい、ルーミア様。
ですが、他に方法が無かったもので。
「近い内に私が殺されるので、是非その仇を討ってください♪」