第9話 契約の履行、熱帯夜の青い光
Z.E. 428年 2月14日 午前1時10分
港の【旧第三貯蔵区画の廃墟】に張られた支給されたばかりの厚手の天幕の中は、蒸し風呂のような熱気が充満していた。
外の空気も湿気を帯びて重く、夜になっても気温は下がらない。
ドレンとアカネは、周囲の奴隷たちが寝静まった頃合いを見計らって戻ってきたが、隣の天幕との距離は数メートルもない。
ドレンが入り口のフラップを閉じるが、それは遮音のためであり、中の暑さはさらに増すことになる。
アカネは汗ばんだ手で、貸与された記録用カメラを取り出した。
彼女は備蓄物資が入った合成樹脂のコンテナの上にカメラを固定し、録画ボタンを押し込んだ。
赤いインジケーターが、薄暗がりの中で瞬き始める。
「……本当に、ここでやるのか?」
ドレンが暑さに耐えかねたように上着を脱ぎ捨てながら、低い声で問う。
露わになったその肉体は、灰白色(アッシュグレイ)の肌をしていた。
地下の暗闇と岩盤に紛れるための保護色であり、陶器のように無機質な質感を持っている。
地底族(ドヴェルグ)は本来、地下の冷涼な環境に適応しているため、この地上の湿気と熱は彼らにとって不快極まりないものだ。
「やるしかないだろ……。あんたが、そう決めたんじゃないか」
アカネの声は硬かったが、そこには奇妙な覚悟が滲んでいた。
彼女は、食事会の行くときに支給された略式の軍服のボタンを外していく。
昼にみんなで食べたリゾットを思い出しながら、湿気で肌に張り付いたシャツを剥がすように脱ぎ捨てると、最後に残った下着も足元に落とし、生まれたままの姿でドレンの前に膝をついた。
そこに現れたのは、ドレンとは対照的な質感だった。
汗と混じった天然のオイルで、全身が濡れたようにテラつく薄青い肌。
それは色素としての青ではなく、酸の海から身を守るための分泌液が、わずかな照明を屈折させて生み出す構造色だ。
だが、その頭髪だけが、種族特有の濡れた黒髪ではなく、凍てつくようなアイスブルーだった。
「前々から見てはいたが、お前ら海族(マリナー)の髪は、本来【黒】のはずだろ?」
ドレンがその氷色の髪を指先で掬い上げる。
根元の方にわずかに本来の黒が残っているのが見えた。
「……染めたんだよ。黒髪なんて、この腐った世界に馴染みすぎる。
だから、一番冷たい色にしてやったんだ」
アカネが吐き捨てるように言うと、ドレンは面白そうに喉を鳴らした。
「いい反骨心だ。そういう女は嫌いじゃない」
「フジエダ少佐の指示だ。【所有者のマーキング(署名)をしろ】ってな。
だが、ペンで書くだけじゃ芸がない」
ドレンは油性のマーカーを手に取ると、アカネの平らな腹部に、無慈悲な線を引き、日付と自身の認識番号を書き込んだ。
ペン先が走るたび、アカネの肌がビクリと跳ね、表面のオイルと汗が混ざり合って妖しく光を反射する。
「……っ」
「動くな。まだ書き足りない」
ドレンはペンを放り投げると、今度はアカネの首筋に顔を埋めた。
硬質化し始めた唇で、薄い皮膚を吸い上げ、強く噛む。
「あぐっ……!?」
アカネが苦悶の声を漏らすが、ドレンは容赦しなかった。
首筋、鎖骨、そして豊かな胸の膨らみへ。
海族の過敏で薄い皮膚は、少し吸い上げられただけで毛細血管が切れ、青白い肌の上に毒々しい赤紫色の鬱血痕(キスマーク)を刻んでいく。
最後にアカネの唇、その奥をドレンは蹂躙する。
水音が支配する中貪り、舌を強烈に吸い上げる。
「これでお前は俺のものだ。誰が見ても分かるようにな」
ドレンは全身に赤い斑点を刻まれたアカネを見て、満足げに笑った。
暑さと羞恥、そして痛みで、アカネの呼吸は荒くなっている。
「あんたの手……冷たいんだよ……」
アカネが熱に浮かされたように喘ぎ、ドレンの腕にしがみつく。
地底族(ドヴェルグ)特有の断熱性の高い皮膚は、周囲の熱を遮断するため、触れるとひんやりとしている。この蒸し風呂のような天幕の中で、ドレンの肌だけが唯一の冷たい場所だった。
「悪いな。ここからは熱くなるぞ」
ドレンの灰色の筋肉が、軋むような音を立てて収縮を始める。
興奮が高まるにつれ、その肌は黒ずみ、岩石のような硬度へと変化していく。
血管が浮き出る人間とは違い、筋肉そのものを硬化させて出力を上げる戦闘形態だ。
体内から発せられる熱が、断熱された皮膚の内側で暴れまわっている。
「照明(ライト)を絞れ」
「え? でも、それじゃ撮影が……」
「薄暗いぐらいでいい。明るすぎると、外の連中に見せ物小屋を開くことになる」
アカネが携帯用照明器具の出力を限界まで下げると、天幕の中は深い陰影に包まれた。
だが、暗闇だからこそ際立つものがあった。
アカネの全身を覆うオイル膜が、わずかな光源を拾い、深海の水面のような鈍い青色の光沢を放っている。
その濡れた輝きが、黒く硬化し、岩の怪物のように変貌したドレンの輪郭を滑らかに映し出していた。
「見せてみろ、アカネ。その反骨心で、俺の硬さをどこまで受け止められるか」
「……ッ、全部、記録してやるよ……!」
アカネは、爬虫類のような瞬膜が下りてクリアになった青い瞳でドレンを睨みつけると、自らその冷たく硬い胸板へと体を押し付けた。
ぬめるような青い光沢と、乾いた黒灰色の岩。
汗と体液が混ざり合う湿った音と、重苦しい熱気が天幕を満たしていく。
Z.E. 428年 2月14日 午前1時30分
すぐ隣の奴隷用天幕。
ニルス、ハンス、フリッツの三人は、暑さと羽虫の羽音、そして隣の気配で眠れずにいた。
「……おい、匂うぞ」
ハンスが鼻を鳴らし、汗を拭いながら呟く。
「海族(マリナー)特有の保護液(オイル)の匂いだ。この湿気で匂いが篭ってやがる……随分と濃いな」
「濃いって……そんなにすごいのか?」
まだ経験の浅いニルスが上気した顔で聞くと、フリッツが鼻を鳴らした。
「ああ。あの分泌液は興奮状態になると粘度が増す。ここまで匂いが漏れてくるってことは、よっぽど発情してやがる証拠だ」
風で揺れた隙間から、中のシルエットが見える。
薄暗い明かりの中、黒い岩のような角ばった影が、濡れて光るしなやかな影を抑え込んでいる。
「肌が真っ黒になってやがる。
……ドヴェルグ(地底族)の中でも、相当血が濃いタイプだぞ」
「岩と水かよ。普通なら相性が悪くて摩擦で傷だらけになるはずだが……」
「上手く扱ってやがるんだな。……あるいは、壊れるギリギリを楽しんでやがるのか」
ハンスは生唾を飲み込んだ。
ただでさえ寝苦しい熱帯夜に、隣で行われる濃厚な営みは、彼らの神経を逆撫でするように刺激していた。
Z.E. 428年 2月14日 午前2時00分
行為が終わった天幕の中は、生臭い匂いとサウナのような蒸気で満たされていた。
アカネは全身の力が抜けたようにドレンの胸に倒れ込み、その肌の光沢は弱々しいものになっていた。
「……ほら、立てるか? まだ終わりじゃない。最後の【仕上げ】だ」
ドレンはまだ硬度の残る腕でアカネを起こすと、カメラの方へ顔を向けさせた。
そして、白濁した体液を、アカネの腹部に書かれた署名の上、そして顔や胸へと広範囲に撒き散らした。
「あっ……うぅ……」
青白い肌の上を、白い飛沫が垂れ落ちていく。
黒いインクの署名、赤紫のキスマーク、そして白濁した体液。
三色の【マーキング】によって、彼女が誰の所有物であるかは誰の目にも明らかだった。
「報告だ。カエデ少佐の指示通りにな」
アカネは荒い息を整え、羞恥で顔を赤く染めながら、レンズに向かって口を開いた。
「報告します……。アカネ・ナシザキ二等兵は、ドレン・アサクラ曹長による……身体検査および、生体反応テストを完了しました。
……注入された遺伝子情報は、全て、体内で……処理、されました……」
最後の方は消え入るような声だったが、ドレンは満足げに頷くと、録画停止ボタンを押した。
これで記録は完了した。
「よし。……立てるか、アカネ」
「え? もう寝るんじゃ……」
「忘れたか? あの魔女は言ったはずだ。
【下着だけをつけて戻ってこい】とな。お前が他人事のような顔をしていた罰だ」
ドレンは冷徹に言い放つと、アカネの手からカメラを取り上げ、突き返した。
「行ってこい。お前自身の足でな」
その言葉に、アカネはハッとして自身の首に触れた。
冷たい金属の感触がまだそこにある。
彼女はふらつく足で立ち上がると、脱ぎ捨てていた制服ではなく、支給品の中から飾り気のない軍用の下着を取り出し、汚された肌の上に身に着けた。
上着を羽織ろうと手が伸びたが、ドレンの視線を感じて止まる。
「……行ってきます」
アカネは震える手でカメラを抱きしめると、逃げるように天幕を出た。
Z.E. 428年 2月14日 午前2時15分
夜風に涼しさはない。
生ぬるい風が、汗と体液で濡れた肌にまとわりつく。
アカネは下着一枚という姿で、暗闇の中を指揮天幕へと歩いていた。
どこからか聞こえる虫の鳴き声と、遠くで響く波の音。
全身に刻まれたキスマーク、腹部の署名、そして顔や胸にこびりついた白濁液。
羞恥心で足がすくみそうになるが、首輪の重みが彼女を前へと進ませた。
それらを撮影しながら指揮天幕の奥、処置室。冷房が効いたその部屋に入ると、汗ばんだ肌が一気に冷やされる。
そこには、まだ起きて待っていたカエデ・フジエダ少佐の姿があった。
一人で入ってきたアカネの姿――特にその全身の惨状と、下着一枚で震える様子を見て、カエデは氷のように冷ややかな、しかし満足げな笑みを浮かべた。
「……あら。ちゃんと一人で来たのね。合格よ」
カエデはアカネからカメラを受け取ると、慣れた手つきでデータを再生し、数秒ほど早送りで内容を確認する。
モニターに映る青白い光沢と黒い影。
「ふふ、随分と可愛がってもらったみたいじゃない。いいデータだわ」
カエデは工具箱から専用の解除キーを取り出すと、アカネを手招きした。
「こっちにいらっしゃい、ナシザキ二等兵」
その呼び名に、アカネの肩が震えた。
カエデの前に跪くと、首元で機械的な音が鳴り、重たい拘束具が外された。
カチャリ、という金属音が、彼女の奴隷としての時間の終わりを告げた。
「約束通り、身体データ(中身)の書き換えは完了しているわ。
明日からはその首輪の代わりに、アサクラ曹長という首輪があなたを縛ることになる。
……精々、飼い主に噛みつかないようにね」
「……はっ、感謝いたします」
アカネは深く頭を下げた。その首筋には、首輪の擦れ跡の上に、ドレンが付けた赤紫色のキスマークが鮮やかに残っていた。
Z.E. 428年 2月14日 午前2時40分
アカネが自分たちの天幕へ戻ると、ドレンは寝台の上で横になったまま、目だけを開けて彼女を迎えた。
「戻りました……曹長」
アカネが報告する。その首からは、枷が消えていた。
「よくやったな。……こっちに来い、軍曹」
ドレンが手招きすると、アカネは泣き出しそうな顔で飛び込み、その硬い腕の中に潜り込んだ。
地底族のひんやりとした肌が、火照ったアカネの身体を心地よく冷やす。
「……あんたの女に、なったんだね。わたし」
「ああ。もう逃げられないぞ」
彼女を縛る物理的な鎖は消えた。
だが、それよりも強く、重い共犯の鎖が、二人を繋ぎ止めていた。
二人が泥のような眠りに落ちようとした、その時だった。
天幕の外から、無遠慮な声が響いた。
「アサクラ曹長。起きていますか」
ドレンが舌打ちをして身を起こす。声の主は、フジエダ姉妹の配下の兵士だ。
「……なんだ」
「至急、指揮天幕へご足労願います。紹介したい人物が到着されました」
ドレンは大きく溜息をつくと、不安げに見上げるアカネの頭を粗雑に撫でた。
彼は汗ばんだ軍服の上着を再び羽織ると、湿気の篭る夜の闇へと出て行った。
Z.E. 428年 2月14日 午前3時00分
再び訪れた指揮天幕の中には、先ほどまでとは違う、張り詰めた空気が流れていた。
処置室の奥、執務スペースにアヤメとカエデ、そしてもう一人、見慣れない女性下士官が直立不動で待機していた。
その女は、異質な雰囲気を纏っていた。
茶色の肌に、グレーの髪。そして冷徹な青緑の瞳。
【虫族(インセクト)】特有の特徴を持つ彼女は、この亜熱帯特有の蒸し暑さの中にあって、軍服のボタンを喉元まで完璧に留め、汗ひとつかいていない。
その姿は、周囲の環境から切り離された機械のようだった。
鼻筋には銀縁の眼鏡がかけられ、その手には分厚い教範(マニュアル)が握りしめられていた。
「紹介するわ。彼女はミサト・カグラ曹長」
アヤメが彼女を示す。
「倭国軍情報部・戦術教育課から派遣された、【協力者】よ。これからの兵員教育と、部隊の規律維持は彼女に一任しているわ」
「……ドレン・アサクラ曹長だ」
「話は聞いているわ、アサクラ曹長。規定外の運用で戦果を挙げたそうね」
ミサトは冷ややかな視線をドレンに向け、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
その声は正確無比な機械のようだった。
「アヤメ中佐から、あなたの機体の主砲を【換装】する申請があったわ。
本来、信頼性の低い試作兵器を実戦配備するなど教範(マニュアル)への冒涜でしかないけれど…… 【高度な防諜措置(スパイ対策)】であると判断し、戦術教育課として特例運用を認可したわ」
「……随分と柔軟な判断だな。てっきり石頭の教官殿かと思ったが」
ドレンの皮肉にも、ミサトは眉一つ動かさない。
「効率の問題よ。使えるものは使う。それが教範の第1章だわ」
ミサトは手元の端末を操作し、ドレンにデータを見せる。
「あなたが使っていた【七七式十五糎加農】と【新型徹甲弾】……この運用データこそが、今回外国のハイエナたちが狙っている本命よ。
だから、外見が酷似している【試作八〇式電磁投射砲(レールガン)】にすり替えて、奴らの目を欺く。
……合理的でいい作戦だわ」
「だが、それを扱う連中は騙せないぞ? 整備や装填ですぐにバレる」
「だからこそ、よ」
ミサトは冷徹に言い放った。
「機密の塊である砲塔周りは、外部の人間――つまりこれから来る傭兵たちには一切触れさせない。
代わりに、あなたが連れてきた【消耗品(奴隷)】たちを使う。
彼らがあなたの【手足】として機能し、余計な口を利かずに任務を遂行できるよう、私が責任を持って教育する。……それだけよ」
簡単な挨拶が済むと、カエデが事務的な口調で本題を切り出した。
「ミサト曹長には、あなたの部隊の【お目付け役】として常駐してもらうわ。
……で、早速だけど【実験中隊】としての最初の仕事よ」
カエデがテーブルの上に置いたのは、ガラス瓶に入った無数の錠剤だった。
毒々しいほどに真っ黒な色をした、小指の先ほどのカプセル。
「これは?」
「戦時覚醒剤・タイプZ。通称【黒い錠剤】よ」
カエデはまるで新しいお菓子でも勧めるように淡々と説明を続ける。
「脳の中枢神経を強制的に叩き起こす、超強力な合成カフェインと精神昂揚剤の混合物。 これを飲めば、恐怖も痛みも忘れて、三日は不眠不休で戦い続けられるわ」
「……随分と聞こえのいい薬だな。副作用は?」
ドレンの問いに、ミサトが手元の教範を開きながら補足する。
「極度の興奮状態、動悸。
それと……性衝動の異常な増大」
ミサトは無表情のまま、淡々と続ける。
「理性よりも本能が優位になる副作用よ。
まだ臨床データが不足しているから、正規の兵士には投与できない。
だから、あなたのところの【消耗品】でデータを取ってほしいのよ」
「……用量と用法は?」
ドレンは表情を変えずに瓶を掴んだ。拒否権など端から持っていない。
「戦闘の三十分前に一錠。近いうちにつかってみて。
もうすぐ作戦もあるし使う機会はいくらでも用意できるでしょう?」
ドレンが黒い錠剤の入った瓶をポケットにねじ込む。
(……使う機会はいくらでもある、か。なら、その【機会】が来ないように立ち回るのが現場指揮官の仕事だ)
彼は表情には出さず、腹の中でそう吐き捨てると、アヤメが口を開いた。
「さて、最後に一つ。
ミサト曹長があなたの部隊に入るにあたって、指揮系統の問題を解決しておく必要があるわね」
アヤメは卓上の端末を操作し、新しいIDデータをドレンに転送した。
「本日0800(マルハチマルマル)の人事発令をもって、貴方は【アサクラ特務少尉】よ。
部下が十人も増えて、副官に軍曹(アカネ)、お目付け役に曹長(ミサト)を置くのよ?
朝の朝礼からは、そのつもりで振る舞いなさい」
「……特務少尉、ですか」
ドレンは苦い顔をした。それは正規の士官学校を出ていない者が就ける、事実上の現場指揮官の限界点。そして、一度なれば二度と堅気には戻れない「軍の犬」の証でもある。
「ミサト曹長の補佐を受けながら、中隊長として成果を出しなさい。
給料は弾むわよ? ……その分、死ぬ気で働いてもらうけどね」
「……イエス・マム。光栄であります」
ドレンは皮肉げに敬礼した。
隣では、新しい部下となったミサト曹長が、表情一つ変えずに完璧な敬礼を捧げていた。
天幕を出ると、東の空が白み始めていた。
もわっとした湿気が、夜明け前の一番重苦しい時間に立ち込めている。
ドレンは額の汗を拭う。
共犯者となったアカネ、マニュアル通りの死を強要するミサト、そしてこれから薬漬けにされる奴隷たち。
第五〇一実験中隊の夜明けは、あまりにも澱んで、息苦しいものだった。