Z.E. 428年 2月14日 午後6時40分
場所は、倭国・アカツキ島、港湾施設跡地。
日が落ちても気温は下がらず、腐敗した金属と、鼻を衝く酸の匂いが混じり合う不快な熱気が辺りを支配していた。
「失礼する!」
声を張り上げる必要はなかったが、染みついた軍人の習性がそうさせた。
ミサト・カグラ曹長は、駐機中の巨大な陸上戦艦――レッドホーンAPの側面ハッチを潜り、その機内へと足を踏み入れた。
肩には、これからこの機体で寝泊まりするための私物が入ったボストンバッグを担いでいる。
彼女の眼前に広がっていたのは、無骨な鉄の壁と、整然と並べられた物資の山だった。人の気配はない。ただ、機体の奥底から響くジェネレーターの重低音だけが鼓膜を震わせる。
ミサトは足を止めず、しかし鋭い視線で格納庫内を観察した。
そこでは、先ほどの【水浴び】の後始末とも言える、重要な補給作業が自動化されて進行していた。
数機のワークスパイダーが、天井の配管から太いホースを引きずり下ろし、床一面に整然と固定された大量の飲料水タンクへと接続している。
レッドホーンAPに内蔵されたポンプが唸りを上げ、外の海から吸い上げられた酸性度の高い海水は、ろ過・蒸留器(プラント)と冷却ラジエーターを経由し、貴重な真水となってタンクへと吸い込まれていく。
一滴の水漏れも許さぬよう、接続部には丁寧に防水布が巻かれていた。その几帳面で病的なまでの管理体制は、この機体の主である男の性格を雄弁に物語っていた。
だが、肝心の男の姿が見当たらない。
ミサトは格納庫の奥、居住区へと続く上層を見上げ、腹の底から声を張り上げた。
「アサクラ特務少尉! ……いるのだろう!」
返事はない。ただ、ポンプの駆動音と、上層から響くエアコンの駆動音が重なるだけだ。
彼女はボストンバッグを担ぎ直すと、二階へと続く金属製のタラップを駆け上がった。
カン、カン、カン!
リズム良く響く軍靴の音。手摺りを掴み、身軽に段差をクリアしていくその動きには、鍛え上げられた軍人特有のしなやかな躍動感があった。引き締まった臀部と太腿の筋肉が、軍服越しにもそのバネの強さを主張している。
二階通路(キャットウォーク)に出ると、強力な空調による冷気が肌を刺した。
このフロアは夜間モードではなく、給水作業の管制を行うために昼間同様の明るい照明が灯されていた。白い光が、無機質な鉄の通路を隅々まで照らし出している。
前方には、機体の制御中枢が集まっている。
ミサトが通路を進むと、正面奥にはコックピットへと続く防音扉。その手前の通路を挟んで、右手に「備品庫(執務室)」、そして左手に「オペレーター室」が配置されている。
作業用照明に照らされた通路の隅で、待機中のワークスパイダーが赤い単眼を向け、左側の扉――オペレーター室を指し示した。
ミサトは左手にあるオペレーター室の前に立つと、壁面のセキュリティパネルに手をかざした。
IDタグを読み取らせ、入室申請を行う。
≪――認証中。……戦術指導官、カグラ曹長。入室を許可します≫
無機質な電子音声と共に、パネルの表示が「LOCKED(赤)」から「OPEN(緑)」へと切り替わる。
ただの部隊内通路とは思えない、過剰なまでのセキュリティチェックだった。
プシュー、という気密解除音と共に、重厚な防音扉がスライドする。
開かれた空間の先には、たった一人で複数のモニターと向き合い、キーボードを叩き続ける男の背中があった。
ドレン・アサクラ特務少尉。
彼はオペレーター室のメインコンソール前に陣取り、機体の稼働データと給水状況を監視していた。
室内は男の体臭と電子機器の焦げたようなオゾン臭が混じり合った、独特の【現場】の匂いが充満している。正規の軍用シートの脇にあるコンソールには、使い込まれた金属製の水筒が無造作に置かれていた。
「報告に来た。……それと、私の寝床の確認だ」
ミサトは部屋に入ると、ドレンの背後に立ち、その広い肩越しに画面を睨みつけた。
そして構わず、空いている予備のオペレーターシートを引き寄せ、ドカッと腰を下ろした。
衝撃を吸収する重厚な軍用椅子が、彼女の体重を静かに受け止める。
彼女は脚を組み、シートの背もたれに体重を預けると、不機嫌そうに髪の毛先を指でくるくると弄りながら、天井を見上げた。
「この【レッドホーンAP】を居住施設代わりに使うなど、正気とは思えん。外には素性の知れぬ傭兵が徘徊しているのだぞ」
ドレンは鼻を鳴らし、クルリと回転椅子を回してミサトに向き合った。水筒を手に取り、ぬるくなった水を一口煽る。
「要求されているのは、傭兵どもに【特殊砲弾】と【運用する主砲】のデータを取らせないことだ。実戦データはある程度くれてやるが、この機体の肝(ブラックボックス)は触らせん」
「ほう?」
「整備順序を変えて、副砲と並行で電子機材と配線、その後に主砲にしたので、向こうは砲にも触っていない」
ドレンはモニターの一角を指差す。
「それよりも、過度に情報を守ろうとして部隊の指揮を下げるよりも、『家』として使えば外敵にも備えやすいだろう? 普段はアカネにもそれとなく警備して貰うし、ラミレス姉妹にもオペレーター室とコックピットの戸締りは厳重にさせる」
「……」
「ワークスパイダーも警戒モードで動いている。今は不審にさせない程度に、警戒と身内を抱き込んで、部隊を纏めないと……それこそスパイが心理をついて内情を探しに来るぞ」
ドレンはそこまで一気にまくし立てると、ミサトの目を真っ直ぐに見据えた。
「……俺のやり方に文句があるなら、今の話をフジエダ中佐に伝えて、問題があるか聞いてきてくれ」
ミサトは僅かに目を細めた。その理路整然とした反論に、ある種の評価を下した顔だ。
「いいだろう。貴様の管理能力は認めてやる。
……ならば、その能力を見込んで一つ命令だ」
ミサトは椅子の肘掛けを指先で叩きながら、冷徹な声で告げた。
「例の【積み荷】についてだ。惚けるなよ?
『戦時覚醒剤・タイプZ』のことだ。いつまで金庫に死蔵しておくつもりだ?」
ドレンの表情が凍りついた。
「……整備や演習で使えだと? 冗談じゃない。
副作用でラリった連中に精密な配線作業ができるわけがない」
「理屈はわかる。だが、もう猶予はない。近いうちに上陸作戦がある」
ミサトの眼光が鋭さを増す。
「……そこで貴官が命じて服用させろ。もし命令に従わぬ者がいれば、私が直接教育する」
ドレンは暫し沈黙し、油で汚れた手で乱暴に頭を掻いた。
「……わかった。だが、今は使わん」
「なに?」
「上陸前に飲むように指示して、上陸拠点まで持つことを確認できれば十分だろう。戦闘が始まれば、時間なんてすぐに過ぎる」
ギリギリの妥協案。ミサトは鼻を鳴らし、言い訳がましい男を侮蔑と期待の入り混じった目で見下ろした。
「……ふん。上陸まで持てばいい、か。貴様の判断に任せる」
その時、再び扉が開いた。
現れたのは、レイラ・ラミレス二等兵だった。
プシュー、という気密解除の音と共に、冷房の効いた室内に、僅かな湿気と石鹸の香りが流れ込んでくる。
彼女の格好は、見るも無残だった。発足式で支給された、安っぽい光沢のある合成繊維のタンクトップと、サイズ違いのトランクス。物資不足の中、個人所有の奴隷に対して軍が出した精一杯の【温情】であるその下着は、彼女の成熟した体を隠すには足りず、ぴっちりとした生地が体のラインを露わにしている。肌にはまだ水滴が残っており、トランクスも張り付いてしまっていた。
レイラは部屋に入ると、きちんとした軍服を着ているミサトに一瞬だけ視線をやり、自身のみすぼらしい格好を恥じるように僅かに身体を固くしたが、すぐに直立不動でドレンの背中に向かって声をかけた。
ミサトは、そのあられもない姿を冷ややかに見つめる。そこに羞恥への同情はない。あるのは「資産(兵士)のメンテナンス状況」を確認する、管理者の目だけだった。
「報告します。ご指示通り、ニルスの洗浄が完了いたしました」
ドレンはキーボードを叩く手を止めず、背中を向けたまま問い返した。
「ああ。……あいつはどうした?」
「通路の【簡易医務スペース】へ戻しました。本人は動けると言い張っていましたが、衛生伍長(トルーデ)の許可が出ていませんので、現在はベッドに寝かせて、妹とワークスパイダーに監視させています」
ドレンが頷くと、レイラは逃げるように退室していった。
再び二人きりになった室内で、ミサトは短く息を吐く。
「……で、私の寝床はどこだ?」
ミサトの言葉に、ドレンは少し悩むそぶりを見せる。
「……この部屋を出てすぐ、同じ通路沿い(左舷側)にあるハンモックなんかどうだ? 今日は、拠点に戻っても食事以外は部隊内の配置やなんかの会議で遅くなる。お前もし(監視)……いや、戦術指導官として立ち合うなら、近い方がいいだろう」
「そうか……。わかった、荷物を置いたら先程の件を、上に報告してくる」
ミサトはそう言うと、シートから立ち上がり、ボストンバッグを担ぎ上げて部屋を後にした。
オペレーター室を出たミサトは、同じ左舷側の通路をわずかに戻った位置にある居住区画(吹き抜け周辺)へと移動した。
そこは壁面に収納式のフックと、荷物を固定するためのラックが埋め込まれている。
「……ここか」
彼女はボストンバッグを下ろすと、慣れた手つきでハンモックを取り出し、フックに引っかけた。
揺れを確かめ、ラックに荷物をねじ込み、ワイヤーネットで固定する。
無駄のない、流れるような所作だった。
身軽になった彼女は、再びタラップを駆け下り、レッドホーンAPの格納庫を横切った。
浄水作業は順調に進み、それぞれのタンクの水位計が着実に上昇している。
その整然とした様子を一瞥し、彼女は満足げに頷くと、外の闇へと踏み出した。
向かう先は、目と鼻の先に鎮座するもう一機の動く要塞――クロエ・ソウエンジ少佐の【レッドホーンC】だ。
機体側面のタラップを昇り、レッドホーンAPと同じ構造の通路を通る。だが、そこは埃っぽさなど微塵もなく、清掃が行き届いていた。
指揮通信室(レッドホーンAPにおける備品庫の位置)の前で壁にあるパネルをタッチする。
プシュー、という音と共に、重厚な防音扉が開いた。
「ミサトです。入ります」
返事を待たずに足を踏み入れると、そこはドレンの武骨な機体とは対照的に、最新鋭の通信機材と、軍用とは思えない洗練された香りが漂う空間だった。
革張りのシートに、アヤメ・フジエダ中佐が優雅に脚を組んで座っていた。
傍らには、妹のカエデ・フジエダ少佐がタブレットを抱えて控えている。
アヤメはミサトの姿を認めると、まるで出来の悪い子供を迎えるような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「あら、ミサト。どうしたの? そんなに怖い顔をして」
その声音は、どこまでも柔らかく、上品だった。
カエデもまた、手元の端末から顔を上げ、面白がるような視線を寄越す。
ミサトは直立不動のまま、ドレン・アサクラ特務少尉の件について報告を行う。
レッドホーンAPを居住区として使用する件、そして「タイプZ(戦時覚醒剤)」運用に対するドレンの反応について。
アヤメはそれを、うっとりするような顔で聞いていた。時折、「ええ」「そうなの」と相槌を打ちながら。
「……というわけで、彼は薬の使用に反対のようです」
「ええ、よくわかったわ。彼の言う通りね」
アヤメは深く頷いた。そして、手元のティーカップ――中身はただの冷水だが、彼女が持つと最高級の紅茶に見える――を口元に運び、ふわりと微笑んだ。
「でもね、ミサト。このデータがないと、もっと多くの兵士が死ぬのよ?」
「……は」
「あの子たち(実験部隊)は、選ばれたの。未来の兵士たちを救うための、貴い礎に。
……かわいそうに。辛い役目だわ」
アヤメは本心から心を痛めているようだった。その瞳は潤んですらいる。
まるで、我が子を戦場へ送る母親のように。
だが、その口から紡がれる結論は、悪魔の論理だった。
「だから、飲ませてあげて。それが彼らのためよ」
カエデが、姉の背後からミサトを見据える。
その目は「失敗しないでよ、後始末するのは私なんだから」と冷徹に告げていた。
アヤメへの報告が終わり、ミサトは敬礼をして退室する。
背後で、アヤメの「頼りにしているわ」という優しい声が、呪いのように響いた。
扉が閉まり、一人になったアヤメは、静かに独り言を漏らす。
「……本当に、食えない男だこと」
その言葉と共に、彼女は手元の端末に映るドレンのデータを、愛おしそうに指でなぞった。