Z.E. 428年 2月14日 午後10時00分
倭国、アカツキ島。港湾施設の一角にある【旧第三貯蔵区画の廃墟】は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
天候は晴れ。しかし亜熱帯特有の高湿度は夜になっても衰えず、肌にまとわりつくような重い空気が漂っている。どこからか潮の香りが漂い、虫の音が瓦礫の隙間から響いていた。
夜の帳が下りた廃墟の一角、ゾイドの整備場兼駐機場として確保されたスペースでは、男女で区画を分ける形で天幕が張られていた。
その外周では、キャリア・モルガとワーク・モルガの駆動音が低く響いている。
ハンス・クラフト伍長とフリッツ・ヴェーバー伍長の二人が、それぞれの機体を使い、この野営地の歩哨として周囲を警戒していた。
廃墟のあちこちに男女で別れて天幕が張られている中、兵士(奴隷)たちはレッドホーンAPの足元に自分たちの寝床を確保していた。
場所は、レッドホーンAPの太く逞しい後脚の間だ。
巨大な装甲に覆われた脚部が壁となり、頭上の重厚な機体腹部がそのまま屋根となる。瓦礫だらけの廃墟において、そこは雨露をしのげる貴重な空間であり、彼女たちはその狭い隙間にシートを敷き詰め、身を寄せ合うようにして雑魚寝をしていた。
その寝床を取り囲むように駐機している各ゾイドの装甲板には、夕方の水浴びで濡れた衣類――オーバーサイズシャツや支給された下着など――が、所狭しと貼り付けられていた。
ゾイドの排熱と装甲の余熱を利用して乾かそうという、戦場の知恵である。生乾きの衣類からはわずかに蒸気が立ち上り、周囲の湿気と混じり合っていた。
本来なら蒸し風呂のような暑さになるはずの場所だが、今夜は少しだけ過ごしやすかった。
レッドホーンAPの前方にある巨大な搬入用ハッチが開け放たれており、そこから機内の空調で冷やされた空気が絶えず流れ出ているからだ。
冷たい風は機体の腹の下を伝って後方へと流れ込み、後脚の間に陣取った彼女たちの寝床へ涼を運んでいた。
薄暗い天幕(機体の下)で、ハンナ・リリエンタール二等兵は横になりながら、しみじみと天井代わりの装甲を見上げていた。
「……信じられないわね。昨日の今頃は、まだどうなるか震えていたのに」
脳裏に浮かぶのは、昨日の記憶だ。奴隷市場の檻の中、値踏みするような視線に晒されていた恐怖。もしあの時、ドレンに買われていなければ、今頃はどこかの前線基地で、兵士たちの使い捨ての【慰み者】にされていただろう。
それがたった一日で、状況は激変した。
14日の今日、彼女は兵士としての認識番号を与えられ、シェル・モルガの操縦まで任された。夕方には給水任務の傍らでシャワーを浴び、肌の汚れと共に惨めさも洗い流すことができた。
久しぶりに胃袋を満たした温かい食事の余韻を感じながら、ハンナは深く息を吐いた。
「私たち、生きているのね……」
その隣で、長女のエルザ・リリエンタール二等兵も小さく頷き、自分の掌を見つめた。
「ええ……。キャリア・モルガの操縦桿は重くて、手も痛くなりましたけれど」
慣れない整備と操縦訓練で、貴族の娘だった頃には考えられないほど体は酷使された。だが、その疲労感さえも今は心地よい。
「体を動かした後のシャワーが、これほど最高だとは知りませんでしたわ」
彼女もまた、最悪の運命を回避し、清潔な体で横になれることの幸福を噛み締めていた。
次女のミナ・リリエンタール二等兵は、姉の腕に身を寄せながら、うっとりとした声を漏らした。
「私はお食事が……。久しぶりにあんなに美味しいものをいただきました」
配給の合成パスタにかけられた、酸味の効いた緑色のソース。あの味は、絶望の味しか知らなかった舌には衝撃的だった。
「ドレン様のおかげですわ。あの方が私達を拾ってくださらなければ、こんな夜は来ませんでしたもの」
姉と共に整備や訓練に追われた疲れも吹き飛び、ミナの心は既に新たな主人への思慕(あるいは生存本能による執着)で満たされていた。
少し離れた場所で横になっていたマルガレーテ・アドラー伍長が、眼鏡の位置を直しながら静かに口を開いた。
「私は……あのマルダーTPとかいう機体、悪くなかった」
昼間、カグラ曹長に呼び出され、適性検査として乗せられた電子戦席。
狭く、配線に囲まれた薄暗い空間。普通なら閉塞感を感じる場所だが、彼女にとっては世界から切り離された安全なシェルターのように感じられた。
「モニターの光だけが頼りで……でも、居心地は良かった。それに、食事も悪くなかった」
衛生兵のトルーデ・クライン伍長は、苦笑交じりに天井を仰いだ。
「私はヒヤヒヤしっぱなしだったけどね」
彼女の脳裏には、訓練中に墜落したシンカーの映像が焼き付いていた。
「ニルスがあんな風に落ちてくるんだもの。また誰かが死ぬのかと思って、血の気が引いたわ」
それでも、結果として誰も死なず、給水任務で汗を流し、腹を満たすことができた。
「……でも、こうして皆で寝られるなら、悪くない一日だったかもね」
その時、外から低い駆動音が近づき、停止した。
歩哨任務を終えたハンスとフリッツが戻ってきたのだ。
「交代だ」
ハンスの声に、エルザとマルガレーテが身を起こす。次の歩哨当番は彼女たちだ。二人は軽く身支度を整えると、暗闇へと出て行った。
残されたミナは、心細そうにハンナの布団へと潜り込み、身を寄せ合って再び目を閉じた。
装備を解いたハンス・クラフト伍長が、ドカッとシートの上に腰を下ろした。
「ふぅ、やっと休めるぜ……」
彼もまた、昨日までは捨て石か慰み者になる運命だった。それが今日はキャリア・モルガを与えられ、整備と訓練に明け暮れた。自分の価値が「肉体」から「労働力」へと変わった瞬間だった。
ハンスはシャツで汗を拭いながら、バツが悪そうに鼻を鳴らす。
「ま、夕方の【覗き】がバレて、罰則の労働奉仕させられたのは余計だったがな」
「まったくだ。お前のせいで巻き添えだ」
「うるせえ。……でもよ、その後の飯は美味かっただろ? あれでチャラにしてやるさ」
ハンスは苦い顔をしつつも、満腹感に救われたようにニヤリと笑った。
相棒のフリッツ・ヴェーバー伍長も、隣で大きく伸びをした。
「チャラになるかよ。……だがまあ、俺にはワーク・モルガの作業くらいが合ってる気がする」
手先の器用さを買われ、機体が他にないという理由で割り当てられたが、単純な歩兵として突撃させられるよりはずっとマシだ。
「シャワーも浴びれたし、飯も食えた。……昨日の絶望が嘘みたいだな」
二人は顔を見合わせ、生きてこの夜を迎えられたことに、泥のような安堵を滲ませた。