原作:艦隊これくしょん
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/起「紅の千久のまふり山の端に、日の入るときの空にぞありける」
(幾たびも幾たびも染めた紅の色。あれは山の端に日が沈むときの色だったのだなあ。『金塊和歌集・雑』)
──白虹日を貫けり。
日曜深夜の霞ヶ関、辺りは静寂に包まれていた。
空を見上げると、霧のような雨が高層ビルの赤色灯に当たって夕時のようなオレンジ色の空を作り上げていた。
艦娘の少将、艦娘からは提督と呼ばれる男は、真白い軍服に身を包み、海軍省の西門で雨に濡れるのも構わず馬鹿みたいに突っ立っていた。
八月の暑さ過ぎ去る夜とはいえ、目の前の黒いセダンに乗ればよいものを、周りが勧めるのも構わず突っ立っていた。
「──アー、本部本部。日比谷通りで不審なSUVを発見。現在機捜に照会中──」
セダンから、不穏な警察無線が頻りと聞こえてくる。
それもこれも、自分が「テロ組織」に命を狙われているためである。
自分を狙う者達が言うには、「艦娘と深海棲艦という存在は、人々に本来語りかけることのない法神、真理の神の眷族.そして神そのものである。神はこの地があまりに穢れてしまったのでお怒りになり、かり(権)の姿で顕わになったのだ。にもかかわらずあろうことか、一人の人間が艦娘を意のままに操り、国家体制などという矮小な存在に奉仕させている! なんと怪しからんことであろうか! なんと畏れ多きことであろうか!! 我々がなすべきはこの穢れをを取り除くこと、ただ一つである!!」……ということだ。
おかげさまで、お袋は亀戸の家に顔を出せとカンカンで居り、警衛が昼夜を問わずくっついてくることであり、同僚や馴染みの高官方に世話になりっぱなしであることである。
まったく、有り難いことである。
あんたらのカミサン、素晴らしい御利益だよ。
……そんなことよりも問題は、熊野と喧嘩してもう一ヶ月以上会っていないことだった。それは俺がそう仕向けたことだから、当然のことなのだが。熊野のことだから、喧嘩中で表面上怒って見せても心配してひどく心を痛めているだろう。だがそうでもしなければ、熊野は自分の身代わりになろうとする。
だがもはや熊野とたまに会っていては誤魔化しきれない程、ここ最近の連中の行動はあからさまになっていた。
加えて言うならば、今回の件、熊野に限らず一部の艦娘以外には秘してあった。
人間が艦娘を自らの盾にすること、それはもっとも卑劣な行為である。それを一時的にでも艦娘の司令官であった自分に許せば、不可抗力であったとしても腹を切るだけではすまないだろう。
そういう意味で、訳の分からん連中が盛り上がる前に、艦娘鎮守府の司令官を離任できたのはよかった。
一緒に生きれば誤魔化しきれず、
艦娘達は意地でも俺を守ろうとしただろう。
でも艦娘達には、ただ前だけを見て欲しい。
そして成長期にはただ好いものだけを摂取して楽しみ学んでほしい。
穢れに向き合うときは誰しも自ずとやってくる。自分から飛び込ませてはいけない。
「──申し訳ありません、少将閣下。どうも掃除が終わるたびに何かしら出てきまして……」
ずっと無線に張り付いていた警部が、申し訳なさそうに戻ってきた。
彼が現場の責任者だ。
件の深海棲艦を神と崇めて終末思想を掲げる団体は、本来常に特高の監視下にある。しかし先日地下に潜ったジャリ共を見失うという、くそったれな大失態を犯したので本庁がピイコラ神経質になっているのである。
そしてそのジャリ共が、俺を狙うために潜ったのは確実だった。
「──二丁目交差点、以上ナシであります」
日曜深夜。この雨の中、誰も通らぬ霞ヶ関で、警邏の警官達を交差点ごとに直立不動で立たせている。これでもかと動員された本部のパトカーが、この人っ子一人居ない官庁街の通りを見回って目の前を通り過ぎていく。
……元艦娘の司令官、父親代わり、艦娘の親玉。
艦娘鎮守府をやめたのはもう十年以上前であるのに、未だにそう世間から言われる。
俺「さえ」死ねば、艦娘は深海棲艦のように暴れ回ると、そう世間にも思われている。
脅迫は年々執拗に、直接的になってきていた。
だから不穏な気配は、これはいつもと違うと肌でわかる。
艦娘の司令官になって後、自分に対する悪意に対してはいつも敏感だった。自分に対する悪意がそのまま艦娘に対する悪意でもありえたからだ。
だが、俺が艦娘鎮守府を離れて十年以上経った今、そんな悪意はもはや見当違いだということが、奴らにはわからない。
いや、内務省警保局も、海軍も、政府ですらわかっていない。
もはや艦娘は自主自律の精神を獲得しているのだ。俺がいなくなったとしても、艦娘は自身で立派にそれを証明してみせるだろう。
だから、何も心配いらない。
いや────。
「……なあ聞けよ警部。俺は、休日にひっついてくる護衛の角袖を息を使って追い返そうとした原首相や、唐沢さんが口をすっぱくして警備に支障が出るからと諫言しても、自由にほっつき歩いていた是清公の気持ちがわかるようになったぜ」
いい加減に無線への口調がドぎつくなってきた警部にそう言うと、彼は顔を上げて、ぬれた頭に手を当て、相好を崩した。
「はは。勘弁してくださいよ、縁起でもない! ここの所轄の署長が聞いたらまた部下の前で泣いて土下座しますよ」
「ああ! あれには悪いことをしたなあ。だから、あれほど誠意のある警察官はおらんと、俺はどこかに席が立つたびにそのエピソードを開陳して居るよ」
「はッ! ははっ、ひどいお人だ。それ、言いふらしてるじゃないですか」
そのときは俺の護衛について改めて話し合っていたのだが、俺の虫の居所がちょうど悪く、いいから護衛の車両を減らせ大名行列じゃねんだ! と目の前にいた所轄の署長に相手のメンツも何もなく言ってしまったのだ。悪いことをしたものだ。本庁の連中とはいつもその調子でやり合っていたから、同じような気分でやってしまった。本当に悪いと思っている。
「……なあ、本庁の目の前で、俺の首が取られたら、大臣の首も飛ぶかなあ。やっぱり総監までかなあ」
「まあ、俺の首は飛びますよね、確実に…………」
まだ霧雨は続いている。
警部と馬鹿話をしても、まだ車のドアを開く気にはならなかった。
「──あッ局長! まアアだ、足止め食らってたんですか!! もういっそ諦めて戻って仕事しましょうよ!! 局長も泊まり込むようにすれば警察の皆さんも楽でしょう!! ねえ局長、ここが我が家じゃないですか、我・が・家!!」
ああ、うるさい奴が来た。人が感傷に浸っているのに。
奴は海軍省対深海棲艦局の次長である。局長は俺。深海棲艦局は俺のために作られたポストで(大蔵は相当喧しかったらしい)、閑職らしく好きに過ごすつもりであったのだが、今度の対深海棲艦国際会議の首席随行員に選ばれてしまったので、今、局員以下夜も昼もなく働いている。
こいつはまあ、局での女房役で。俺はやはり外に出ることの方が多いし、艦娘・人間間の細々とした法制度に関しては局員や属の方が遙かに詳しいのだから仕方ない。そういう連中を実務的にまとめているのがこいつ。だから、俺がほっつき歩いてると相当うるさい。
……まあそれでも悪い奴ではないし、気も回るし、胆も肝もあるので、まあ認めないことはないが、それは仕事上のことであって「こういうのは」ちょっと癪に障るし、なにか理不尽な気がする。
あいつも、せめて他の奴がいいと言ってくれればいいのに。
…………え? 何の話をしてるのかって?
頼まれたんだよ、名誉のため名前は伏せるがこいつに「お手紙」を渡してくれって。わが娘にな。
「申し訳ない、中佐殿。こちらの不手際で」
「いやいや、警部を責めているわけではない。何かと仕事を抜け出そうとするこの人が悪いのだ。つまり日頃の行いが悪いのだな。自業自得、身から出たサビ、ハコテンのツケ」
「この、なんて薄情な部下だろう…………。もういいからあっちいけ、あっちいけ」
しかし、部下が書いた恋文への返信を娘に託される少将が今まで何人いたんだ?
俺が初めてじゃないか。
こんな理不尽ことはないぞ。
誰が渡してやるものか畜生。
「……なあ警部。所轄での鈴谷の噂はどうだって」
「は。例の同期が言うには老若男女誰とも懇意に親しくしておるそうで、特に少数の女性署員とがっちり組んで、かつ有資格者であるため法知識も豊富だからこれはもう無敵だと。ただし……」
警部は、僅かに口籠もった。
「艦娘の服を執拗に脱ぎたがらないのは、本人にとって決していいことではないだろうと、やはり言って居ります。失礼ながら、私も、同感であります」
「ああ、わかっているよ。見習が終わって任官したら我が儘は許さん。いや、転任あれば見習のままだろうと勝手は許さん。そう、俺が言っていたと君の同期にも伝えてくれ。気に掛けて遣ってくれて、助かるとも」
「は。ありがとうございます」
艦娘は、これから少しずつ、生まれながらの艦娘鎮守府を離れていく。この国は二十年前に、人間と生物学的に違う艦娘のために、艦娘籍という特殊な一国二制度を設けた。しかし、それも普通の人間籍に同化しつつある。
深海棲艦の出現より二十年弱。
対深海棲艦戦は、もはや海軍が担えるようになった。
だから艦娘達は人間社会に順応し国民として能力を適切に発揮していくため、内務省の教育機関に徐々に移っていく。今はまだ艦娘鎮守府の方がずっと数が多いが、いずれ逆転する時がくるだろう。そして俺は一月に一度は、山里にある学校に訪ねるのだ。しかし彼女たちに、人間になってからどうしろこうなれと指示をしたことはない。
だが、鈴谷には違った。一番に艦娘鎮守府を離れ、高等文官試験行政科を通れと「命じ」た。そして「内務省の有資格者(キャリア)に採用され、警察畑で出世しろ」とも。
この場合、手段は問わない。
手段を問わないということは、俺は鬼、畜生である。
だが鈴谷は、愚痴のひとつもこぼさなかった。
そして今、人間と艦娘の間を一番に走っている。
もうすぐに、俺の手の届かないところへ、鈴谷は行ってしまうのだろう。
「──閣下、検索終了です。参りましょう」
「ようし、大殿がお出でになるぞ………………あ。おい、薄情者、いや、幸せ者」
「はい?」
警察無線でやりとりする警部を尻目に、見送りもせず省内に戻ろうとする次長を呼び止めた。
「やるよ」
子供がするように便せんを次長の胸めがけて回転させ投げると、うまいこと次長は受け止めた。
「な、なんです?」
「お姫様からのお返事だ」
「えッッ」
一応言っておくが、鈴谷じゃないからな。
「なんで少将になってまで、部下と娘のキューピッドをやらにゃならんのだろうな?」
「う、うおおおおおおおおッッあっあっあっ娘さんは俺が必ず幸せにしますッッッお義父さんっっ」
「馬鹿。誰がそこまで許した」
狂喜して錯乱中の次長を横目に、自分で車のドアを開けた。
一度だけ、海軍省を振り返る。
(ここが、我が家……)
……出でて去なば主なき宿となりぬとも、軒端の梅よ春を忘するな、か。
別れ難きものよな。
「え、えっ? な、何か言いました?」
「いや。済まんが後を頼むぞ」
俺が乗り込むと、警部が最後の指示を出して全員が動き始める。
前後に一台ずつのセダン。
それが俺の今の護衛の全てだった。
もちろん散々に減らさせたのである。
……そう護衛を嫌がることはないだろうと思うかもしれないが、これが実に鬱陶しい。俺は一応、海軍省の局長兼海大教官で、内務省や自治体と艦娘政策について協議し、各OB連と日々賎交し根回しをしなければならない身としては、本庁の特高二課や警務課に毎日の行動について口出しされることほど逆ギレしたくなるものはない。
…………で、ある時、そんなに大名行列がイヤなら護衛に艦娘の一人でもつけたらよろしいと皮肉を言われたことがある。
艦娘の五感、瞬発力、耐久力、腕力。艤装などなくても最悪肉布団の防弾チョッキになって生還できてしまう強靱さ。
やたらプライドの高い本庁(警視庁)ですら今この状況では、俺から艦娘を使う言質を引き出そうとする。
しかし、繰り返すようだがむしろ今この状況は、ある意味で、俺が望んだものだった。
もっとも過激な連中でさえ艦娘をこの社会から排除しようとしないこと。もし艦娘に瑕疵があるというのなら、それは人間でありながら父親役を演じた俺が悪かったということ。そしていつか世間が艦娘を社会の構成要因として当然に認める日が来るために、艦娘は自分達の力で自治と法治の精神を見せなければならない。
……周囲は、今おまえにやめられたら困るという。
少将ながら海大の対深海棲艦戦の教官も兼任している。
艦娘の父親代わりに代わりがいるわけネエだろ、という。
だから、つまるところ、現在満四年、五年目の少将から数ヶ月後の冬には叙従四位。そして来春には任中将。そして国際会議の勲功で旭日重光章をいただき、何年かダラダラと勤め上げ、大将にはなれないが年功によっては特旨叙位一級進で従三位、そして勲一も待っていると、そういう話だ。
……。
ふう。
熊野。
思い出すよ。少将になって少しして勲二をもらったとき、おまえが、任海軍少尉候補生や補任の辞令なんかをまるごと一緒に箪笥の奥から勲章と美濃紙全部引っ張り出してきて、額縁に飾ろうと女中達と大騒ぎしたことを。
結局おまえが奥様方に話を聞き回って、勲記も位記も勲章も記章も、元通りに桐箱と筒とベルベッドと薄紙に戻っていった。
だが、金鵄勲章をつけてくれるときのおまえはいつも誇らしげだったな。
おまえ達がくれた功三級だ。
将になっても金鵄勲章がないのは大勢いるんだ。
艦娘にとらせた功三級、なんてのは褒め言葉。
しかしおまえはすっかり勲章位階通になってしまって、官報の叙勲欄を目をさらにして読む女になってしまった……。
今冬に従四位をもらわば、「しいさま、しいさま」とやるのが目に浮かぶ。
従五位のときは、「ごみさま、ごみさま」をみんなに広めやがったおまえだから、必ずやるだろうな。
ふふ。
……。
…………なあ。
お袋や後見には、財産の話はきちんとしてあるよ。お袋は怒るだろうが、いつかわかってくれる。どうか耐えてほしい。
猶子の話は、すまない。
他にも、いろいろ済まない。
……すまない。
────そして、車は動き出した。
いつもの霞ヶ関インターではなく、虎ノ門経由東京高速。
深夜の官庁街を走る自動車は驚くほど少ない。
タクシーより角の警邏やパトカー、人員輸送車の方が確実に多いだろう。
…………だが、虎ノ門で左折すると、殺気を感じた。
いつもは猥雑な道も、街灯が輝くばかりで車通りは少ない。
しかし、
「──至急、至急!! 西新橋交差点、搬送トラックが逆走しながらマルタイに接近中!!!!」
「至急、至急!! 一丁目交差点に不審車両! マルタイ直近!!」
「──────何見てやがったんだッッ、ボケッッッッ!!!!」
警部の怒声と同時に、思いっきりサイドブレーキが引かれ車が百八十度回転する。
「閣下!! 国一の輸送車で止めます!! 舌かまんといてください!!」
「おう」
こうなりゃおさまらん、いつか来るだろうと関係者は皆思っていた。それでも、これは、奴らの一世一代の計画力と実行力と……政治力の結晶なのだ。
……だから、遠からずこうなる。
わかっていた。だが────
「野郎ッッ!!!!」
また、警部の怒声。そして肝を冷やすような轟音。
対向車線、工事現場から突如出てきた大型トレーラーが中央分離帯をぶち壊し乗り上げていた。
息を呑むまもなく先頭車がぶっ飛ばされ。
同時に予想もしなかった方向から、車体に衝撃。
頭と首裏に感じた衝撃に一瞬気を失いかけるも、リアに突っ込んできた乗用車の運転手が気絶しているのが見えた。
焼けたエンジン特有の匂い。
裏返った怒声、そして銃撃音、跳弾。
ずいぶんがんばってくれたじゃないかおれひとりのために。
痛む上体をあげた瞬間。
動体視力がバックミラーいっぱいに広がるSUV。捉えた。カンガルーバー。
「──すまん。熊野」
最後まで言えたかどうか、わからなかった。
/承「み熊野の浦の浜木綿(はまゆう)言はずとも思ふ心の数をしらなむ」
(熊野の浦の浜木綿ではないが、口に出して言うこともできずに居る。だが絶え間なくあなたを思う心の丈を、どうか察して欲しい。『金塊和歌集・恋』)
「思ひ遣る心は常に通ふをも知らずや君が言伝もなき」
「人知れず思ふ心の通ふこそ言ふにまされるしるべなるらめ」
(北条泰時・明恵上人、贈答歌)
はい!!!! 熊野ですわ!!
うるさくてごめんあそばせ!!
でも一年に一度の一月丸々とれる休暇が始まったのですわ!! 仕方ありませんわよねえ!!
ときは二月、立春! 一ヶ月の間、わたくしは鎌倉の鎌倉山の別荘に滞在するのですわ!! 提督もその間はわざわざ鎌倉から霞ヶ関まで通ってくださいます!! ひょおおおおお!!!!
別荘は、贅沢にも富士山を借景とした昔ながらの和風家屋です! そしてお二階に上がると富士山と江ノ島と七里ヶ浜が見渡せますのですわ!! 絶景です!!!!
さらにまたッ、早起き致しますとッッ! 未明、まだ三浦半島の稜線に輝く太陽が天上の空だけを照らす頃です、なんと江ノ島の海が、空を映し出してコバルトブルーに輝くのですわ!! これを初めて見たとき、わたくし本当に感動してしまって、自然に涙が出てくるほどで、見せてくれた隣の提督とおごそかな冷気の漂う廊下でずっとずっと眺めていましたのですわよ……。本当に、素敵でした。
そして、今日、二回目の休暇の第一日目! 提督はまだ寝ていますが、わたくしはお布団の名残惜しさを振り切ってそっと起き出しました。
空は二月らしく澄んだ青紫色をしていて、七里ヶ浜の海はやはりいつも通りのコバルトブルー。思わずため息が出るほど美しいのですわ~~……。
はー、ぜいたく。
…………え?
なんですの? 人が浸ってるのに邪魔しないでくださる?
……なに? どうして二月なんかに一ヶ月も休暇を取るのか、ですって?
鎌倉は、観光地は、どこもオフシーズンだろうって……?
ノーノー!! とんでもないですわ!! それは大間違いですわ!!
二月の鎌倉をオフシーズンとは、わたくしは全く考えておりませんのですわよ!!
一ヶ月の休暇と言わずも、年中毎月週末にちょぼちょぼ提督と別荘にお休みにくるわたくしが言うんだから間違いないですの!!
というのも、冬(立春ですけれども)に咲く桜、寒桜、皆様じっくりご覧になったことございますか? 桜と言えばソメイヨシノとばかりに無視されてしまうのですが、冬の寒さにまばゆいピンクを咲かすのが寒桜さんですの! これが驚くほど力強く、なのに春を前に散ってしまう儚さ! 寒桜を皆さんにもっとご鑑賞していただきたいというのがわたくしの願いですの!!!!
寒桜さんのとびっきりが、葛原岡神社の大きな大きな緋寒桜!! 絶対に見てほしいですの! わたくしも、提督に連れられて源氏山に弁財天様を横切って登りました! すると、たわわにたわわな淡い桃色の桜が冬にも関わらず咲き誇っているではありませんか!! あのすべてを祝福するような、この世のものとは思えない美しい緋寒桜の下で提督と見上げた景色は、一生忘れませんわ! どうか一度、騙されたと思って寒桜を葛原岡神社に見に来て欲しいですの!
あ、葛原岡神社は縁結びの神社ですのでアベックの方は是非ッいらっしゃてくださいませっ、わたくし達も男石と女石にそれぞれ赤い糸を(以下略
それから梅ですわ!! 鎌倉は作家さん達の街としても有名ですが、その名の通り、ひっそりとした散歩道には紅白の梅さん達が毎年毎年その綺麗さをそこかしこで競い合っています!! 梅がない通りはないですの!! さらに軒先から顔を出す枝垂れ梅!! これをオフシーズンと言いきってしまうのは、あまりに勿体ないと思いますのよ!!
それから、お寺の中でひっそりと佇み、藁で雪をしのぐ愛らしい福寿草! さらにさらにお木瓜さんは咲き始めが別嬪です! 一輪二輪とだけ真っ赤な小さくもたくましい花をつけているのは、とっても愛らしいのですの!
挙げ始めれば切りがございませんわね!! 瑞泉寺の梅、黄梅! あじさい寺で有名ですけれども、ロウバイが鮮やかな上、タイワンリスさん(嫌われ者ですけどかわいいですわ)とジョウビタキさんが憩いをしている明月院! 覚園寺の寒桜、杏子! あちこちに咲くクリスマスローズや侘助、山茶花、マンサク、寒あやめ、蕾のみつまた、沈丁花、そして春を待つ鳥さん達!!!!
はぁッはぁッ、あとあとあとあとッッッ小鳥さん達の話だけはさせてほしいですのよ!!!! 鎌倉の小川沿いを歩いていて、ジョウビタキとアオゲラが交互に水浴びする姿を見つけてしまったら、あなた様もきっとずっと見ていたくなると思いますわ!! そして少し街を離れて緑に分け入れば、宝石のようなカワセミさんやキツツキさん達の休むことないドリル音、そして「ちょっとこい」のコジュケイさん達が迎えてくれます!!
あ、それにそれに! 浄妙寺のお近くに熊野神社というものがありますの! その熊野神社はとても静かで、コゲラが一生懸命スギを叩いているのに古木ばかりですので音は聞こえず、神社の静謐さを破り居場所を知らせるギィッというコゲラの鳴き声と、チョンチョン動き回るかわいらしさをず~~~~っと眺めながら、わざわざ時代劇みたく葉蘭に包んだおにぎりを提督と食べるのですのよ!!
本当に本当に心安まるときですわ!!
ずっとこうしていたいって思いますの!!!! 本当に素敵ですから!!
ほかにもほかにも────
あっ!
あっあっ!
あの人が、提督が呼んでいます!!
途中ですがごめんあそばせ!!
まだ来たことのない皆様には是非、冬の鎌倉にいらしていただきたいですわ!!
でも鎌倉特有の昼の北風、夜の南風にはご注意くださいませ! 油断していると寒いですわよ!!
外へ出ると、近所の別荘組のわんちゃんの、コーギーのコンちゃんがいました!
でも提督が懇意にしている飼い主の方が見当たりません……。
提督とコンちゃんはお手、おかわり遊びをしています。
「おはようございますですわ、コンちゃん」
いつものように手の甲を差し出しますの。この子はとっても頭のいい犬なのですわ。飼い主さんはたまに提督に会いに来てはお宅でお酒を飲みます。晩酌をするのに何故かコンちゃんまで連れてこられて玄関の大理石の間で転がされていますのよ。そして女中に「毛が毛が」と言われてあまりにかわいそうなのでムシロを引いてわたくしがよく遊んであげているのですわ!
「一体どうしたんですの、あなた」
「ちょっと今日一日預かって欲しいんだと言われてな。おまえに相談する前に引き受けてしまったよ。夜鳴きはしないだろうが……」
提督は困った顔をしています。
今日は休暇の初日。今日は提督もお休み。
だから本当は、去年のように鎌倉十三仏参りに行く予定でした。
十三仏参りは御集印帳に特別な御朱印をいただいて、追善供養や、転じて自らの願いを叶えるものと言われていますわ。
わたくしたちは二年目ですから、もう御朱印を集めることはありませんが、鎌倉の小道を肴に「順番通り」の巡礼する予定だったですの!
でも、
「あら! いいじゃありませんこと。わたくしもお散歩のお仲間が増えて嬉しいですわ!」
本当にそう思っています!
小道散歩のルールはひとつだけ! 同じ道は歩かない!!
十三仏参りも大事ですが、それはそれ!
「そう言ってくれるか。すまん」
提督は優しい表情でコンちゃんの背中を撫でています。コンちゃんも提督には慣れたもので、ぐりぐり身体を押しつけています。この子はとっても賢い子で、信頼した人から以外の餌づけは知らんぷりするとっても御利口な犬なのですわ! この前なんて鼻にジャーキーを押しつけられても見向きもしませんでしたのよ!
「…………熊野。犬っていうのは、こうして撫でてやると『撫でられて気持ちいい』ってだけでなくて、実際に身体の血行がよくなるんだそうだ。知り合いの獣医がちゃんと論文にもなっていると言っていたよ。だからこんな風に身体を擦り付けて撫でろというんだと。犬の心と身体もよくできたものだよな」
提督は、わんこだからと畜生だからとぞんざいに扱いません。
本気で目の前のコンちゃんを思いやって、人間には一見理解できない犬のルールに合わせていたわってあげることができる人です。
「お~~~~しよしよしよしよしよし!!」
服が毛だらけになるのも構わずコンちゃんを撫で回す提督。
わたくしは……。
この人がいるから、きっと生きているのです。
「ははっ。なんだよ、おまえまで。頭擦り付けてきて」
「どなたかのおそばにいる艦娘が、頭を撫でて欲しいと言っているようですわねえ。うーん、どこの艦娘かしら……」
「俺の手、毛だらけだぞ」
「おかしいですわねえ。なかなか伝わりませんわねえ。うーんうーん頭撫でろですわ~~…………」
ということで!
三人での初めてのお散歩ルートを検討しましたですの!
そして驚いたのは! 鎌倉山山頂近くには、極楽寺ハイキングコースという半分獣道みたいな、降りると極楽寺駅や由比ヶ浜に通ずる道があるのですけれども、コンちゃんはしょっちゅうそこを上り下りしているそうです!
まあ折角ですのでその藪ぼーぼーのハイキングコースを通ることにしました!
「こいつ、元気なわんこだなあ」
「元気ですわねえ。もう何歳だったかしら」
私たちは月影地蔵さんに手を合わせた後、由比ヶ浜を散策しました。冬の海辺に行くと、ハクセキレイさん達が寄せては引いていく波にくっついて群れでトトトと小走りしています。…………あの子達はいつも何をしているのかしら……。いつも気になっておりますの……。
それから、いつもは通らない小町通りにやってきました。小町通りは、意外と女の子二人組が多くて、きっとこれから江ノ島の弁財天様にお参りに行くのでしょう。コンちゃんも「かーわいー」「えーおじいちゃんなんですかーうっそー」と可愛がられてご満悦です。
「せっかく小町通りに来たんですもの。新しくできたっていう、くれーぷのお店に行きましょうですの!」
「うん。そうしよう。…………クレープと言えば、鈴谷が、鎮守府や学校に戻っては原宿の竹下通りでクレープ食ったって自慢しまくってるらしい。聞いたか? おかげで『連れてってよ~~~~』って行く度に言われるようになったぞ。奴がまた、男にナンパされまくったとかこれを自慢するもんだから……」
「ふふ。あの子らしいですわよね」
……過去に、提督を巡ってわたくしと鈴谷は『喧嘩』をしました。
いわゆる恋敵だったのですが、わたくしは親友を名乗りながら最後になるまで鈴谷の気持ちに気づけなかった。
今でもその無邪気さを悔いています。
でもそれももうずっと昔のことで、普通に話題になりますの。
けれど、本当の本当には仲直りしていませんのですわ……。そのしようも分かりません。
「──あーお姉さん。この……ブルーベリーチーズクレープというのを、二つ」
「はぁい、ありがとうございまぁす」
「って、ああああ勝手に頼んでぇ!! 選ぶのが楽しいんですわよ!!」
「クレープと来たらこれなんだろ」
「あははっ。素敵なお父様ですねぇー」
「──」
店員さんは、屈託なくにこやかにそう言いました。
……もう父娘にみられるのもすっかり慣れましたわ!
「でしょう? 仲がよすぎるって『ハハ』からも心配されておりますのよ!」
出会ったのは、提督がまだ三十を少し過ぎたころ。
まだ親子と言われることもなかったのですけれど。
今は提督も五十路を越えました。
その間に厄年に胆石をやって大手術をし、脅迫が始まり、海軍軍人でありながら海軍に海に出してもらえず皆が積んだ艦長のキャリアを積めず、一種独特の道を歩んでいるこの人を。
わたくしは、心底愛おしいのです。
……それから、閑静で小細く贅沢な扇川沿いをゆっくりと歩いて岩窟様でゴールでしたの! 岩窟様は横大路と今小路の近くに分かれ目にあります。京都を模したこの街は、通りを覚えると少し楽しくなりますわ! そして脇道の梅を眺めながらお家に帰りました。とっても楽しかったですわねえ、コンちゃん!
やっぱり鎌倉の街を巡り、花を眺め、鳥を慈しむのは心が洗われます。
でも脳天気なことばかりではありませんのよ。
例えば警視庁や警保局の偉い方々がどうしても護衛の警官をつけさせてくれとおっしゃるのですけれど、わたくしが頑としてお断りしましたわ!
だって警官の方って私服でもすぐに警官ってわかるんですもの!
逆に危ないですの!
そんな人に散歩にまでついてこられたらたまりませんわ!!
何かあればわたくしがみんな引き受けますから、と言ったときの彼らの表情は微妙で、「こんな小娘に」「責任回避」のような、なんとも言えないものでした。
……そして、別荘に帰りつき、すっかりお暇気分の女中さん達にお食事の準備をさせ始めた頃、門が開く音と石畳をタイヤが踏む音をがしました。
来客の予定はありませんし、勝手に門が開くと言うことは……。
女中さんがばたばたと正面口から出て行くのに、急いでわたくしも追いかけます。
最後に提督がのっそりと正面玄関から、その来客を迎えました。
「お袋!」
「突然悪いねぇ。菩提寺の住職さんと思いの外話しが長引いてしまって、帰るのが億劫になってしまったよ」
お義母様のお宅は亀戸にあります。
「二人の邪魔をする気はないからね。離れとお佐江を使わせておくれ。もう一人じゃ何もままならない。情けない」
「まあそう言うなよ。俺達も今日は外じゃ食べなんだ。久しぶりに一緒に卓を囲もうぜ」
「そうかい。それならご相伴あずかるかね」
わたくしは、少しだけ緊張して、でもなるべく自然になるよう心がけて頭を下げました。
「お久しぶりでございます、御義母様」
わたくしには、この方のお気持ちが読めません。
嫌われているのかどうかすらわからないのです。
でも常識的に考えれば、提督の御父様は大将にまでなられたのに、その息子は艦娘のせいで中将がせいぜいと考えて何もおかしくありませんし、脅迫騒ぎだって心象を悪くしていることでしょう。
だからといって謝ることでもありませんし、できれば親しくしたいのですが、わたくしには提督のように間を詰めることができないのですわ……。
ですから──
「……熊野さん、ちょっとこちらにいらっしゃいな」
ぎくっっ、としました。
「なんだよ? どうした、お袋?」
「おまえには関係ないよ。ふんっ、しっしっ」
「なんだよ……」
訝しげに、それでも提督は素直に従います。ああ、後生ですからおいていかないで…………。もうちょっと喰いすがって……。
「熊野さん」
「はいッッ」
「これを、お持ちなさい」
と言って渡されたのは、葉っぱとアーモンドをちっちゃくしたようなものでした。
「あの、こ、これは……?」
「それは、なぎの木の葉と、その種の皮を剥いたものだよ。種の方はね、娘が嫁入りするときに衣服や家財道具に知られぬようそっと忍ばせるものさ。それで忍ばせた種が男と娘の縁をとりもつと言われている。まあ、そうは言っても仕方ないしね。わたしのなぎの種で我慢しな。葉っぱは、引っ張っても切れない強い葉だから、縁も切れないという有りがたい葉っぱなのさ。あ、試すんじゃないよ! あんたじゃ簡単に切れるんだからね! わざわざいいものをご住職にいただいてきたんだ」
……その時の気持ちは、なんとも言い表せませんわ。
何かが降ってわいて報われたような、胸がいっぱいになる気持ちでした。
だって、認めて、いただいたのです。
「あ、あり、ありがとうございますわ。大事に、大事に致します……」
「倅は、昔は気が弱く優しい子だった。けれどどうしてかガキ大将なんぞやり始めて、隣町の子らと喧嘩をするような子供だったよ。今はああして一人前の顔をしているが、男なんてみんな子供の頃から何にも変わってないんだ。だからあんたがよく気をつけて、どうか倅を支えてやっておくれ」
「はいっ、はいっ……」
涙が溢れました。
わたくしはずっとずっと提督が心配で、御母様もそれ以上に提督のことを心配なさっていたのです。これ以上、何の間を埋める必要がありましょうか。
「倅に気付かれんよう戻りなさい」
「はいっ」
……それから三人で食卓を囲んで、いつも通りの夜が来ました。
最近の提督は、何処かからカンカンに乾いた端材をもらってきて、ブリキ缶で火を炊くことが多いです。縁側に座って、この時間帯は冷たい南風が辛いでしょうに、そんなこと気にした様子がありません。
でも、前から気になっていたのです。
提督はたまに、こちらに来ると独りで鎌倉十三仏曼荼羅や集印帳に手を合わせていることがあります。
曼荼羅と集めた御朱印は、追善供養のため。転じて自分の願いのため。
沈んだ艦娘のこと。戦死した仲間のこと。そして……。
……わたくしは提督のそういう姿に前から思うところがありましたので、今回は少しだけ準備をしてきたのですの!
さあ、やりますわよッ!!
「…………ねえ、あなた。わたくし、あと一年ちょっとで卒業ですわね」
「ん? ああ」
「籍、入れられますわね」
「ははっ! そうだな。ちょっと気が早いが、入れられるな」
もちろん、入籍のことです。艦娘の戸籍では婚姻はできません。
学校を卒業すれば、わたくしたちもヒトの戸籍をいただけるのですわ。
「そうそう気が早いと言えば、この前話した猶子の話が──」
「あ、いいえ。それもとても大事な話ですけれども、今日は、あなたのことでお話したいのですの」
「俺?」
「最近、あなたがとてもお疲れのように見えるのですわ」
「そうか? そうかな? 今日だって結構な距離歩いたじゃないか。疲れてたか?」
「……学校に、鍼灸など東洋医学を修めた先生がいらっしゃるのですわ。この前お会いしたでしょう」
「ああ。あの人か。あれいきなり触ってくるからそっちのケかと思ったぞ」
「わたくしは、前からあなたの腎が悪いと思っておりましたの。それで先生に相談して、色々と教えていただきましたから、マッサージをさせて欲しいのです」
「……なに? 腎? 腎臓?」
「いいえ。五臓の腎ですわ。腎が悪い、腎虚というのは重傷ですの」
「…………腎虚と言われてもなぁ。腎虚ってセックス過剰の意だろ──抓むなって!」
「わたくしは本気で心配して言っているんですの! 腎虚はそんなことばかりじゃありませんのよ!!」
「わかった。わかりました」
早速提督は火をガシガシやって燠火にし、火消し蓋を置き、にこりと笑いました。
「『木に花咲き、君わが妻とならむ日の、四月なかなか遠くもあるかな』。…………寒桜は綺麗だし、まだまだ春は遠い。なんたって一年以上あるんだ。仰せのままに、熊野お嬢様」
女中にもう寝ることを告げると、二人でわたくしの寝所になっている洋間に来ました。
「まさか下着一丁にされるとは思わなかった」
そう言う提督は、わたくしのベッドで枕をうつぶせに胸に置き、腕を組んで頭を載せ、毛布を掛けられています。
「ではさっそく……。まず、足から失礼しますわね」
足指、足首、ふくらはぎ……。状態を確かめながら揉みほぐして、同時に自分の息を整えます。
「提督。首元、とくに首裏のコリがすごいですわ。もちろん、肩のコリもすごいのですけれど、首裏と肩は心疾患の始まりでしてよ!」
よくこんなにバキバキにして平気でいられますの。
それに提督に何を言っても、むーとは、もーとか、もごーとしか返ってきません!!
いいでしょう、今はせいぜいリラックスしていてくださいな!!
全身の表皮を柔らかくするように丹念に揉み尽くします!!
「気持ちいいぞ…………って、あ? もう終わりか?」
「いえいえ。これからが本番ですわ」
デイパックから消毒液や脱脂綿、それに鍼入れを取り出します。
「まッ、待てよ。なんだそれは?」
「虚すれば母を補うと言うそうですわよ。鍼って奥が深くって、先生は厳しかったですけれど授業より習うのが楽しかったですの」
「お、俺の話を聞け!! それは国家資格だろうが!! 鍼灸師の仕事だろうが!!」
「大丈夫ですわ!! もう散々訓練致しましたのよ!! 押手や刺手、切皮、経絡と経穴も提督の特に大事なところに沿って指導していただきましたし、先生にも提督を診ていただきましたし!!」
それに自分の身体や先生やすご~~く嫌がる仲間の身体で鍼を散々試しましたわ!
……でもまあ、確かに、腕の良い鍼灸師さんをご紹介して頂ければそれで済む話なのかもしれません。
けれど、わたくしがずっと見ていたこの人。
愛してる人。
「あなた、腎虚は『恐れ』が強くなるのです。わたくしには、この別荘に来てゆっくりしているときのあなたが、とても安らいでいるのと同時に、何かを恐れているように見えますの」
「……俺が、そんな風に見えたか」
「はい……」
「おまえ。前から、そんな風に考えていたのか」
「はい」
「……ふう。わかった、わかった。その代わり、俺が死んだら海軍に立派な墓を国費で建てさせてくれな」
「まぁたそんなこと言って! せいぜい内出血するぐらいですわよ!!」
「内出血もやめろ!! あ、首も首裏も怖いからやめてくれ!!」
「あなた!! 頭に血が巡らないということは、『 ハ ゲ 』ですわよ!! 白髪も増えますし、『 ハ ゲ 』なんですわよ!! 紫外線の頭頂部は仕方なくても、何故か側頭部から一気に『 ハ ゲ 』たりするんですのよ!!」
「わ、わかった……。治してくれよ……」
「もう! 黙っててくださいまし!」
わたくしは少しでもあなたのそれを、それだけでも軽くしてあげたいと思うだけなんですから……。
そんな軽口を言いながらも、鍼を始めると提督の身体は正直でした。
少しお腹の触診をして、足首の経穴から始めるとうーうー唸っています。
「ふふ。気持ちようございましょう?」
「う、うん」
「背中に少しだけ置き針したら、腕から肩もやりますからね。それから首ですわよ」
「本当にやるのか?! いッ、いでで」
「あ、だめですわよ動いたら。そんなに深くいれてませんけれども、動いたらダメですわ」
首裏が本当に凝っています。
腎を虚して頭に行くことがあると聞きましたが、ガチガチですの。
…………不謹慎な話ですが、それが少しだけ愛おしくて。
わたくしは一心不乱に集中して鍼を打ちました。
あっという間に時間が経ち、すべて打ち終えると、
「……あなた、少し立ってみてくださいな」
無言で身体をずらし、提督はベッド脇に立ち上がりました。
「…………ああ。ふらふらする。それに体中を血が巡っている」
「よかった。違和感があったりはしませんか? 左右で違う感じがあったり、痛むところは?」
「いや、ないよ」
わたくしが肩を支えて座らせると、提督は無言でベッドに座り。瞑想をするように目を閉じていました。
そしてその肩に毛布を掛けて、ただじっとお側に居ました。
……これがわたくしの提督にできる全てですの。
祈祷寺と言われる明王院で提督の安全を祈祷していただいたり、その祈祷された倶利伽羅守や腕輪守を提督の鞄に忍ばせたり、提督が仕事の間に独りで十三仏巡りをしてわたくしだけの集印帳も持ってもいます。
でも……。
ですけれど……。
わたくしはただ、この人にここに居るときぐらい、本当に安らかにいてほしい。
無言で居続ける提督の背中に、顔を当てました。
……いつまでこうして幸せな時間を過ごしていられるのか。
人間と艦娘は生きる時間が違う。
だから、本当に恐がっているのは、わたくしの方かもしれません。
でも今このときは、この人のことだけを考えていたつもりです。
「…………熊野の言いたいことは、わかったよ。……確かに、恐い。艦娘の行く末が、俺の身の振り方が、おまえとのことが。仏様に手を合わせるのも、いつの間にか習慣のようになっていた。それだけ、芯と胆のそこから、無自覚に恐れていたのだろう」
「あなた……」
「ありがとう、熊野。おまえの鍼に助けられた。おまえの手から、鍼から、おまえから見た俺が伝わってきた。おかげで何かが吹っ切れたよ」
────いや、吹っ切れたのは俺の私心か、という艦娘の少将の心の声が熊野に届くはずもなく。
わたくしは向き直った提督に抱き寄せられました。
「おまえ、学校を出たら鍼灸師にでもなるのか? とても巧かった」
「いいえ! あなたが吹っ切れたと言ってくだされば、わたくしも学んだ甲斐があったというものですの!! あなただけの鍼灸師ですわね!」
「はは、言うなぁ! それじゃあまた頼むよ」
ぎゅっと抱きしめられましたが、実はまだ別の「本番」がございまして……。
「あの、あなた……」
「なんだ? 流石に疲れたか、もう寝ようか」
「い、いえ、鍼は終わりですけれど……こ、これを使って、ご、ゴ、ゴ、ごごごごっご奉仕したく存じますのわ!!」
「…………は? ん? なに? オイル? ……オイル? 奉仕? あ。もしかして、オイルマッサージか?!」
ああ……爆笑されましたわ…………。
…………ねえ、ちょっと長く笑いすぎじゃありませんこと? わたくしだってむくれますわよ!
「本当にすんのか?」
「…………あ、ある奥様に、すっ薦められましたから」
「おいおい……何を学んできてるんだ、一体」
下着一丁の提督を仰向けに寝かせ、上半身にはタオルを掛けます。
なんだかドキドキしてきました!!
やりますわよー!!
オイルを手になじませて温めつつ、掌の底と親指で滑らせるようにしてふともものツボを押します。
……このオイルだって高かったんですわよ!! 変な香料も変な成分も入ってません!!
それからお腹と胸にまんべんなくオイルを広げ、お腹はリンパに沿って、胸は乳首を円を描くようにくすぐります。
「おまえ、どこでこんなこと教わってきたんだ」
「ヒ・ミ・ツですわ! どうか、今はわたくしの好きなようにさせてくださって!」
「ああ……」
そして内ももをずるりと際どいところまで親指で押し上げていって、戻ることを何度も繰り返します。大腿筋の上のところ。股間の近くまで指をすべらせて鼠径部で曲がると、提督がため息を吐くのです。それから手を下着の中に潜り込ませ、だんだん股間の近くをすべらせながら押して……一瞬だけ、尾てい骨の辺りを押すと提督が唸りました。
うふふ!!
「これ、外しちゃいますわね」
タオルの下の下着も脱がせてしまいます!
提督のおちんちんはタオルにテントを張るほど大きくなっていました!
そして今まで指をすべらせることもしなかった、陰嚢の下のリンパを緩急をつけて親指で押します。そして鼠径部も……。提督のツボに入ったときは、指の感触でわかります。だから少しだけ強く押してあげると、
「おおっ」
「うふふふ、気持ちよかったですか?」
……提督は答えません。
無言になっちゃって、カワイイですの。
そしてそっとタオルをあげて、おちんちんを見ると……思ったよりパンパンに張っていました。
すごいです。ぷっくりですの。
これ、このままだと出てしまうんじゃないでしょうか。
……ルール違反ですけれど、少しだけ咥えてしまいます。はしたなくてごめんあそばせ!
「んっ」
やっぱり、これは、勃起というより今にも出してしまいそうな……。
じゅるる、と音を立てて引き抜くと提督がぴくんとしました。
「あなた、相当我慢されてますか?」
「……(訊くなよ)」
「ちゃんと、答えてくださらないと……」
両手で一番感度のよかったツボを優しく押しながら、
「ん゛んんっ」
提督が一番好きな、一番奥までくわえ込み技でおちんちんをしゃぶりました。
あっ、陰嚢が……ぷるぷる震えて、竿と亀頭が更にぷくうとなって……。
「わかった、わかった!!」
うふふ。
そう言われても……そうすぐにはわかりませんから……。
ちろちろと亀頭を舐めながら、出すことのできなかった陰嚢をさわさわと労ってあげながら、そっとタオルの下におちんちんを戻しました。
「さて、何がおわかりになりました?」
「指でそこを押されると下っ腹の経穴がピクピクする。経絡を初めて実感したよ。あと、おまえにそんなに頑張られたら俺は堪え切れん」
「そんなことありませんわよ」
いつもセックスする分には、提督が主導権を握ってくださるのですからね。
けれどリンパを押すと関元やら大赫が動くのってすごいですわね…………。今度、先生に遠回しに来てみましょう。
「でも、あなたがそんなにリンパがお好きなのだと知っていたら、もっと早く習ってきてさしあげたのに」
「俺はどこで習ってくるのかが心配でたまらん。あ、これって腎虚の症状じゃないか?」
馬鹿なことを言っている提督は放っておいて。
わたくしも服を脱いで、簡単に畳んでいきます。
すべてを脱ぎ終えた頃には、提督のおちんちんも程よく小さくなっていて、わたくしは自分の胸オイルをたっぷり塗ると、わたくしの乳房と乳首で提督の上半身を擦っていきます。
そして提督の乳首を舐めて、咥えて、甘噛みし、舌でれろれろとするとまた勃起し始めます。それとわたくしの乳首でお腹をなぞり、提督の勃起乳首を胸と指でこねくり回しながら、本当のキスもしました。何度も舌を絡み合わせて、わたくしは提督のお顔を見ながらその乳首を抓んで、何度もキスを求めました。
「こういうのもいいな」
「でしょう? きっとあうだろうなって、わたくし思って」
「ああ、オイルが際どかった。だが、そろそろ」
「はい……」
わたくしもすっかり欲情してしまって。。
だから、いつも提督に主導権をとられるのですわ……。
提督はいつも、わたくしの上付きの陰部を思いっきり突き上げるときは、わたくしの片足を頭まで持ち上げて、深く挿入いたしますのっ。
こ、これがっ。
なんどされても、なんど、されてもっ!
いっこうに、なれなくてっ!
「ダメです。ダメですの……もう少し、ゆっくり…………」
「大丈夫だ。すぐにはイかせてやらないから」
そういうことじゃ、ありませんのにっ。
「あ、ちょっと待て」
「は、はいっ」
「房事過多は」
「うっっ」
本末転倒ですの!!!!
腎虚の!! 腎虚が!!
「ま、今日ぐらいはいいだろう。おまえに鍼してもらったことだし」
それから提督は、自分もわたくしもあまり動かないで快感を得られる腰の動きをして。
わたくしの汗まみれになった顔を何度も優しくタオルで拭いてくれ。
愛おしげに、わたくしの小ぶりな胸を撫で、抓み、咥え、れろれろとされれば乳首は痛いほど勃起してしまい。
最後は、上半身だけ寝台に乗せられ、大開脚させられたところを突かれ続け……。
わたくしが、声にもならない声をあげて絶頂したのを見ると、提督もまた、わたくしの奥深くで射精いたしました。
わたくしは、この瞬間が一番好きです。陰陽混じって、艦娘の気が提督の気に混じって少しでも長生きできるような、そんな気が致しますの。
え? 逆に吸い取ってるんじゃないかって? ……えへへ。
さて、以前申しましたようにわたくしたちは鎌倉に来てまず、十三仏巡りを致します! それから鎌倉七口、また鎌倉周辺に六つぐらいある熊野神社巡りをしますの!! やはり一番の問題は、七口と熊野神社巡りを兼ねながら一番遠くて歩くのが大変な朝夷名切通ですわ! これがつらいですのね!(主に提督が) でもその甲斐あって、観光客の方などいつ行ってもひとっこひとりいませんし、森に霧が舞っていると本当に鎌倉時代に来たと錯覚するようなすっごいところですのよ!
そうそう!! お寺や名所だけでなく、円覚寺近く・国鉄北鎌倉駅の海軍通りに行くこともありますわ! その名の通り、海軍軍人さんがたくさん居を構えておりますので、鎌倉にも水交社があるぐらいですの! でも現役で提督より年長の方はなかなかいませんから、提督は冷やかしに行っては麻雀やカードに碁に将棋、それから酒盛りと、奥様方はきっと大変迷惑されていると思いますわ……。ご迷惑おかけしますの……。
さらに、お食事と言えば、鎌倉はイタリア料理が盛んですの! ですから女中さん達も鎌倉に来ておりますけれど、大概お散歩の途中のイタリア料理店で済ませてしまいます! 提督の宅に残してきた下宿の書生さん達に提督が毎度お小遣いをあげていることに女中さん達は口をとがらせていますが、骨休めはお互い様ですのよ!!
……さて、鎌倉に休暇に来ているといっても、提督はお仕事ですからいつもいるわけではございませんわね。ですからわたくしは、提督にふさわしくあるため、クラス会の奥様方の集まりや鎌倉山の自治会などに積極的に顔を出しますの! 提督の同期生の集まりとなれば自然、その奥様方からすればわたくしは娘のようなものですから、本当によく可愛がっていただいておりますわ! 家計のことから房事のことまで、本当に親切に教えてくださりますの!
その代わり、わたくしは鎌倉にツーリングや車で見物に来たいという方々に駐車場の有無や有料無料の情報を教えて差し上げますのよ! 鎌倉のお寺は、先に駐車場があるとわかっていても引き返したくなるようなところばかりですから、わたくしが細々とご説明加えて差し上げると本当に重宝していただきまして、鎌倉にいるのに鎌倉土産がどんどん増えていくのです! うふふ。
「──さあ皆さん! ご覧になって、これが川端先生が『千羽鶴』でモデルにした志野焼でしてよ!」
「まあ、本当?!」
「なんとエロチックなことでしょう……」
「うふふふ!!」
とまあ! これがわたくしの鎌倉生活です。
とっても充実していますの! これからこういう生活がずっと続けばいいなあって、そう思いますわ! 艦娘のみんなからは、ジジクサイババクサイと言われますが、あの子達に一度きて暮らしてごらんなさいと言いたいですわ!! 鎌倉特有の、谷(ヤツ)の中の静寂なお寺とお花と鳥さん達!
心が洗われますわ~~…………。
…………だから提督も、きっと同じように思っていた筈ですの。
これが全て、わたくしの独りよがりだったなんて、ありえませんもの。
ね?
……でも。
でも、もしかしたら、提督はとても優しい人だから、もしかしたら少し合わせてくれているところが、あったのやも、しれません。
「──今日の季節野菜のミネストローネ、とっても美味しかったですわね」
「うん。素朴な味わいなのに奥深さがあった。シェフの人柄が滲み出ているようだったな」
「ええ。あの優しいトマトの味はなかなか真似できませんもの」
「ローストビーフとトマトのスパゲッティもおいしかった。それにあそこもバジルソースがいいな」
────そうですわよ!! おいしかったんですの!!
あんなにおいしいのは嘘じゃありませんでしてよ!!
お寺やお花や鳥さん達が素敵なのも、コバルトブルーに輝く海も、みんな嘘じゃありませんでしてよ!!!!
わたくし独りの思い込み? そんなこと、ありえませんわ!!!!
「……て、提督、卯月にボーイフレンドができたんですのよ!」
「そうか」
「それで八幡宮にデートに行って、寒牡丹園を見たんですって。それで卯月が『うーちゃんピンクの八千代椿がいいぴょんねえ!』って言うたびに、彼の方は『白の連鶴の方が綺麗だよ』って気もそぞろに言うものだから卯月カンカンになって、寒牡丹園がどれだけ土が手入れされて団粒でフカフカなのか熱く語る彼を、源平池に蹴っ飛ばして帰ってきちゃったんですって! それで顔真っ青にして電話して来るんですから、あの子らしいですわよねぇ!!」
「そうか」
でも。
でも…………。
ならどうして提督は何も言わずに。
わたくしに、何も言ってくださらずに、提督は………………。
────あ、あれ?
ちょ、ちょっとお待ちになって提督。
わ、わたくし、足が動かなくって。
あ、あれ? コンちゃん? どこにいたんですの?
待って、二人とも。
おいていかないで!!
そちらは、鬼門でしてよ。
わたくしも、
わたくしも行きます。
今そちらに────。
「────だいたい、提督が悪いのですわ! あんな和歌をそらんじておきながら、数ヶ月後には『婚姻届は俺が離現役してからにしよう』なんて、突然言い出すんですから!! まだわたくしの卒業まで半年以上あるのに、いきなりそんなこと言い出して!! それも理由が、俺が婚姻届を人事局に出すとあちこちに借りを作らなきゃならなくなるって、そんな馬鹿な話があるものですか!! そんなことずっと昔から重々承知の上だった筈じゃありませんの!! わたくしがこれまでどれだけ楽しみにしていたか知らないはずの────」
ああ、そうですわ……。
そんな喧嘩をしている内に、深海棲艦出現の二十周年が巡ってきて、深海棲艦をカミサマみたいに崇める人達がどんどん危ないことをし始めて、今の世の中は打ち壊されなきゃならないって、艦娘は解放されなきゃならないって……。
なのにわたくしは、提督との婚姻と猶子の話ばかりに拘って……。
わたくしが、
もっともそばにいるべきわたくしが、
わたくしであれば人間など八つ裂きのそばにいられたはずのわたくしが!!
なすべきことをなさずッッ!!
おそばを離れて!!
テロに遭ったあの人は、今ッ、病院で寝たまま起きませんの!!
わたくしが悪いのです!
みんな…………みんな、
わ、わたくしが、悪いのです。
そうですわ…………。
……あれ。
ですのに、
わたくし、
なぜ
まだ
生きているの?
熊野が目を覚ますと、窓の外は紅の夕焼けに染まっていた。
太陽の東西は分からず、時計は闇が隠している。
体を起こし、窓を覗き込むとどこまでも平地と山が続いていて。
夕陽は西の山々に沈んでいた。
コバルトブルーなど……どこにもなかった。
──ノックの音。
「あ、熊野。起きていたのね」
入ってきたのは鳳翔だった。
「提督は……」
「……まだ、眠ってらっしゃるわ」
鳳翔が、薬と水をおいていく。艦娘に普通の薬は効かない。特別な眠剤だった。
「鳳翔。お薬は入りませんわ」
「……熊野」
「いつまでも寝ていられませんもの。これから施設長先生に頼んで、明日は、何ヶ月もご挨拶してこなかった皆様に、失礼をわびて来ようと思いますの」
「……そう。…………なら、これ、先日クラス会の奥様方から、旅行に行ってきたから是非熊野さんにって。それにお見舞いのお言葉も」
「ありがとう…………鳳翔」
夕陽は山の端を、紅く紅く血のように染め上げていた。
/転「山が裂け、海があせなむ世なりとも、君にわが二心あらめやも」
(山がさけて海が干上がる世の中だとしても、わたくしのあなたへの忠誠は変わりはしません『金塊和歌集・雑』)
前略。
緑が日増しにその色と香りを増す今日この頃、陽子さまはいかがお過ごしでしょうか。
お返事が遅くなったこと。お詫びいたしますわ。
そしてコンちゃんのこと、改めてお悔やみ申し上げます。本当に賢くて優しいわんこで、わたくしとあの人がどれだけ楽しませていただいかわかりません。
とても悲しいはずのあなたから、変わりのない元気なお手紙をたくさんいただいて、本当に励みになりましたのよ。
さて、わたくしのことばかり書いても仕方ありません。
最後の話題は、アメリカからやってきた留学生のボーイフレンドのことでございましたよね!
鎌倉もいろいろなオススメの仕方がございますけれども、やはり一番わかりやすい「景色」でご紹介いたしますわ!
やはり有名なのは、極楽寺切通にある成就院のアジサイ咲き並ぶ坂から見える由比ヶ浜と、光明寺の展望台から見渡す本堂と海と富士山でしょうか。無難に行くなら長谷寺にも展望台がありますし、八幡宮の本殿や建長寺半蔵坊からも遠景の海を楽しめましてよ!
でもわたくしのオススメは……衣張山の山頂から眺める景色と、安国論寺の鐘楼を抜けた先の崖から眺めた景色ですわ! 安国論寺は決して高いところから眺めるわけではなくて、逆にすぐ下を横須賀線が通るのですが、それがまたいいのです! 鎌倉の街と一体になった気分になれるような景色なのですの! 衣張山は、安国論寺の眺めをさらに高くした感じで、逗子アリーナから稲村ヶ崎、富士山、八幡宮とすべて見ることができますわ!!
でも、もし陽子さんがボーイフレンドさんと鎌倉にいらっしゃっるのであれば、是非お声かけくださいね。陽子さんがかわいらしいとまで言う金髪の外人さんに、是非お会いしたいですもの! 一日中ご案内して差し上げますわ! 人力車の方々よりずっと詳しく解説してさしあげましてよ!! 縁起を知ると知らないではお寺巡りの楽しさも段違いですもの!!
……と。
そこまで書いて、わたくしは便せんをくしゃりと丸めました。
「──おっ、どうしたんだい。せっかくたくさん書いたのにゴミにしちゃって」
「あら! ビックリしましたわ! 先生、いつからいらしゃったの?」
「ずっと後ろから見ていたさ」
「まあ悪趣味な!」
わたくし達の学校の歴史の先生が、後ろにいました。
でも、本当にずっと見ていた訳でないのは承知の上。
「熊野はね~~~~、ちょっと元気になったと思ったら、も~~なんどもなんども手紙書き直すんだよーー。いつも通り素直に書くんだよ!」
「それが、難しくってよ。文月……」
わたくしは、文月と並んで外のベンチでペンパルに手紙を書いていました。文月はもう何通も書き上げています。なんでもメルボルンやロッテルダム、エディンバラと国際色豊かなペンパルを施設長に紹介してもらってずっと続けているそうです。
「あ。そういえばね、熊野が寝ている間、卯月が男の子と遊びに来たんだけどねえ! 卯月、男の子にいいところ見せようとしてニリンソウと間違えてトリカブト食べちゃったの!! それから、「うーんうーん」ってうなされて運ばれてっちゃった……。
あーあって。それを手紙に書いたらね、みんな、『お友達に心から哀悼の意を捧げます』とか『R.I.P』とか『メイ・ザ・フォース・ビー・ウィズ・ユー、ウヅキ』って返ってきたの。面白いよねえ!」
外国の方と手紙をやりとりするのは文月らしからぬ……といったら失礼なのでしょうが、みんな、少しずつ変わっていきます。長門や鳳翔も、人間の戸籍を得てからも学校に残っています。
文月が見せてくれたペンパルの家族の方々の写真は、みんな笑っていて。文月も、みんなが笑っている艦娘の写真を……提督も入っている写真を、送ったそうです。
写真の中では、わたくしも提督も、笑っていました。
「……施設長さんがお呼びなのですね、先生」
「ああ。一緒に来いって」
……シジュウカラさんが、森の中で鳴いています。
そういえば、提督が子供の頃、とりもちを巻いた木でメジロを取っては業者に売るとき、たまにシジュウカラがとれたと言っていましたっけ。なんて野蛮な子供時代でしょうと思ったものですが、当時は普通のことだったそうですの。
……わたくしの手紙は、また今度に致しましょう。
冬にはわたくし達の眼を楽しませてくれた鳥さんたちも、一部を除いて参るべきところへ参りました。。
わたくしも、荷造りをしなければなりませんの。
夢に見てしまった提督との日々は、テロの半年前の冬のこと。
あの頃は提督が本当にテロに遭うなんて考えたことはありませんでしたわ。提督は内務省と懇意の珍しい海軍軍人でしたから、特高の方々にわたくしの心を悩ますような情報は漏れないようにしてもらっていたのでしょう。
そして半年後の夏の盆暮れに、提督はテロに遭い。
今はもう初夏ですから……九ヶ月近く意識不明のままということになりますの。
その間、わたくしは錯乱と現実に戻ることを繰り返しては提督の元に行きお世話をして、それでも学校の卒業だけはさせてもらいました。無理に卒業することはないと誰もが言ってくれましたが、それだけはしなければならなかったのです。
いつ、あの人が起きられてもいいように。
テロなどなかったように婚姻届を出せるように。
そして夢を見てから、昨日のうちに施設長さんへ、今までご心配を掛けた皆様にご挨拶に参りたいとお願いしました。
あの人が倒れてから、一度もご挨拶に伺っていなかったのです。
「──お世話になったクラス会の皆様、奥様方や、元帥閣下、それに御義母様に……わたくしは我を忘れてたとはいえ、あまりに失礼でありましたから…………。わたくしのようなのを外に出すのは施設長先生もご心配でしょうが、どうかお許しいただきたいのです」
わたくしはもちろん独りで回るつもりでした。
ついて行こうかと言ってくれた仲間も、誰も、連れて行くつもりはありませんでしたわ。
けれど施設長さんに、歴史の先生に運転手をやらせ自動車で行くように命じられ……その眼差しを真っ向から見据えることができず……。
結局、お願いすることになりました。
もちろん先生とは在学中から親しくしていましたが、運転手をしていただいてもらって、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。。
「……じゃあ、大磯から始めて鎌倉、鎮守府、横浜ってことでいいかな」
「ええ。申し訳ありません、先生……」
「いいよ。はは、っていうかそんなことよりさ、俺が気になるのは、運転手がいなかったらキミはどうやってこんなの回るつもりだったのかってこと」
「それは、ええと、ハイヤーを頼んで……」
「はあ、熊野ちゃんはこれだからなあ! …………うーん、須賀は車で行くにゃ便が悪いけど、鎌倉行ってから六浦道経由するなら関係ないな。そこから朝夷名インター。……インターのすぐ南が、朝夷名切通か。朝夷名義秀の話は熊野ちゃんも知ってるだろ?」
運転席で地図を広げながら、先生が後ろを向きました。
「じゃ、さっさと行こうか! 忘れ物ない? なんかお土産たくさんあるね!」
「ええ。奥様方に、たくさんご心配いただいてしまいましたから」
「そ! ならせっかくだし急いでなるたけ回らなきゃな! よし行こう行こう!」
ということで、大磯から始めるはずだった挨拶回りの旅は、小田原に別荘を持っている方のお宅まで行ってしまうことになりました。もちろんお電話で事前にお伝えはしましたが、なにぶん急なことなので、予定が会う方ばかりではなく、名刺とお土産と言づてだけお願いすることも少なくありません。
会っていただければ応接室に通していただくのですが、お茶菓子をいただきつつものんびりもできず、頭を下げ早々に辞去いたしまして、とにかく湘南の湾岸線を出たり入ったりを繰り返しつつ鎌倉に向かいました。
「これハイヤーとってたら大変だぜ、熊野ちゃん」
「え、ええ。思ったより大変ですわね、先生……」
小田原からいったい何件のお宅を回ったでしょう。
豪邸から小洒落た小さなお宅まで、先生は物珍しげにぴょこぴょこついてきました。
そうして、とうとう…………江ノ島を越え、腰越で左折しました。
もう…………あっという間に鎌倉山の桜並木に、鎌倉山です。
「俺、鎌倉の狭い道で擦ったら減俸だって施設長にむちゃくちゃ言われてビビってたんだけど、余裕だな鎌倉!! 茅ヶ崎以下だな!!」
「ふふ。それは先生、本当の鎌倉をご存じないからですのよ。あ、先生、原首相の腰越別荘はご存じですの?」
「えっ、あれってここにあったの?」
「うふふ。さっき通った道の東側に、腰越別荘があったんですの。良い政治家は良い別荘を持ってるって常々言ってましたわ……」
あのひとが。
──わたくしが、鎌倉山に近づくにつれて緊張していくのを見て、先生は努めて明るい声でたくさん声を掛けてくださいました。
幾度と見た、鎌倉山の桜並木。
何度この道を一緒に提督と歩いたでしょう。
震えそうになる身体を、丹田に力を入れて、震えが過ぎ去るのを待ちました。
鎌倉山の柱を曲がって。
もう、数分で、わたくしは。
御母様に…………。
「せッ、せ、先生」
「ああ?」
「次のお宅の時は、わたくしの言うところで車を止めておいてほしいですの。鎌倉山は狭いですから、そこがいいのです」
「ふうん。車寄せも、入れるような庭もないのかい。今までそんな立派なお宅ばかりだったじゃないか」
「ええ。申し訳ないですの」
本当は、正門から続く石畳が、景石が置かれた円形のロータリーまで続いています。
でも、御母様にお目にかかれたとしたら、きっと、先生は不快な思いをされるでしょう。それが嫌でした。だから恐くてもみんなを連れてきたくなかった。
先生が車を止めると、包みを持ってわたくしは車を降りました。
「じゃ、待ってるからさ」
声を出すと、変なことを言ってしまいそうで、ただ頷き、行き慣れた道を行きました。
そして、いつもの門扉。
自然石の門柱に、不似合いなインターホン。
いてほしい気持ちと、居て欲しくない気持ちが半々で………………。
何かに祈るような気持ちで…………。
──門扉が、開きました。
「御母様。熊野で、ございます」
「……」
「長い間、ご挨拶もせず、大変申し訳ありませんでした。本日は、」
「──あんたらは息子から海軍を奪ったくせに命まで奪おうってのかいッッ!!」
差し出そうとした包みが、勢いよく地面にたたきつけられました。
「あんたは、代々の血筋を絶やしておいて、自分はおめおめ生き続けるっていうのかいッッ!!」
御母様の顔の皺が、生き物のように動いていて。
「そりゃあッ、よかこった!! よかこったわ!! 息子の人生があんたらに吸われてほんまによかこったわ!!!!」
「ご期待に、添えず……」
石畳に膝をつきました。
「わたしゃ最初から反対だったんだよ! あんたらみたいなわけのわからん人外に息子が関わるのは!! だけど、あん子は無駄に優しいもんでいつも最後に割を喰う!! よくも、のうのうと…………生きていられるもんだ」
艦娘に皺はない。ただ、それだけを思い、御母様の、わたくしへの、艦娘への続く罵倒の言葉に頭を下げ続けました。
何の反論が、謝罪がありましょうか。
永遠に思われるような時間のあと、
「…………二度と顔を見せんでねえ。去ねっ」
門は、閉じられました。
わたくしは御母様が去ってもそこを動けず…………。
頭を垂れたまま…………。
いつしか、ようやくよろよろと立ち上がりかけると、
「先生…………」
「………………水臭いな、熊野ちゃん。それとも隣にいたら、激昂して殴りかかるとでも思ったかい」
「ごめんなさい、ですの…………」
今は、何も考えられません。
「行こう。これからまだ鎮守府と近くのお宅にも顔を出すんだろう。元帥にも会うんだろ。寝たきりの提督にも会うんだろ! それとも丹沢に戻ってまた薬を飲んで夢うつつ過ごすのか?!」
「うるさいですわ…………そんなこと先生に言われなくたって、わかってますわよ……ただ、ちょっと」
「なら行くぞ! マジで時間ないからな! 次は海軍通りだ!! ほら、いそげいそげ!」
「かっ、顔に似合わず、結構スパルタですわよね。先生……」
今度にしよう、とか甘くて優しい言葉は出てきそうにはないですの……。
実際、それからは必死でした。海軍通りの馴染みの邸宅に挨拶をし、須賀まで開通したばかりの横横道路に乗っては須賀の家々を訪問し、艦娘鎮守府にも顔を出しました。久しぶりに元気なみんなの顔を見られて、ようやく一息つけましたの。
「くまのくまの!! あのねえ! うーちゃんねえ! 毎週毎週三崎口のド田舎(←失礼)まで行って彼の家の農作業手伝わされてるぴょん!! だからもうずっとお休みなし!! 彼がいる時は駅まで自転車で迎えに来てくれるんだけど、やっぱりすごいド田舎(←失礼)ぴょん!! 池に落っことしたぐらいで酷い仕打ちだぴょんよねえ!! あ、そういえば、鎌倉にもお野菜出荷してるんだって!! 熊野も食べてるぴょんかもねえ!! うーちゃん、フキノトウが栽培されてるなんて初めて知ったぴょん! あれ取り立て唐揚げにするとめっちゃうまかったぴょんよ、知ってる?! あっそれと今度みんなでウィンドサーフィンするぴょん!! 逗子でも盛んだけど、あっちでも流行ってるぴょん!! 熊野も──」
そう卯月が元気に楽しそうに話す姿はまったく罰になっていなさそうでしたが、おかげでわたくしもとても元気になりましたわ。
そして、提督がいなくなったあと、艦娘鎮守府の中のみならず渉外も完全に仕切り始めた大和もちょうどいましたわ。顔つきが少し変わって、人間の大人らしくなっているような気がしました。けれど、もはや話す時間もなく「またゆっくり」と約束して分かれましたの。
そして大急ぎでまた横横道路に戻り、横浜にある海軍元帥邸に向かいます。
元帥は、元々提督が「オヤジ」と呼んでいた人で、提督のお父様の親友でもありました。提督がたびたび横車を押さなければならないときに力になってくれ、そもそも艦娘鎮守府に着任するのに尽力してくれた方であり、今も静かに艦娘の後ろ盾となってくれています。
わたくしたちにとっては、いてくださるだけで重しになる仏様みたいな方ですわ。
……そしてその元帥邸につくと、先生がにわかに緊張し始めました。
「先生? 顔が青くなっていますわ」
「いや、思えば、これから会う方ってあれだろ。今海軍で唯一の元帥だろ。俺、手ぶらだし……っていうか、なに? 俺どうすりゃいいの? 外で待ってればいいよな? さっきみたいに」
「何言ってますの! 先生も来るんですのよ! ちゃんとわたくしからご紹介差し上げるんですから!」
「ええぇ……ぇぇ」
「まったく、情けないですの!! ……でも……ふふふ、緊張するところが…………ふふっ。先生じゃ……ふふふふふ、先生なんか……顔も名前も覚えてくださりませんわよ、お爺様は」
「…………今、俺の男のプライドが、八つ裂きにされた気がする」
「だって…………。ふふ、本当に緊張してるんですもの。でも、大丈夫ですわ。将官の方々ですらドコドコ局長とかナニナニ司令官としか大概呼んでいただけませんし、佐官の方々に至ってはみんな『サンボー』ですわよ! お気になさらず。わたくしも居りますからどーんと構えていてくださいまし!」
「……ちぇっ、鎮守府に行った途端元気になるんだからなあ。やんなっちゃうよ」
と、先生のお尻を叩きながらお伺い致しました。
「──お久しぶりです、お爺様。日々格別のお世話になりながら長い間顔も見せず、申し訳ありませんでした」
「ようよう熊野ちゃん。よかったなあ、少しでも元気になって。儂は熊野ちゃんが寝食も忘れてあいつの世話をし続けてとうとうぶっ倒れたと聞いた時は寿命が縮まる思いだった。どうか儂のために、もう無理なことはよしておくれよ」
「はい。本当に、ご心配をお掛けしました……」
「うむ。して、そちらの若い衆は? 初めて見るな」
「ふふ。若衆ではありませんわ。わたくし達の学校の歴史の先生でございますのよ」
「お、お初にお目に掛かります、元帥閣下。艦娘の皆さんには日々逆に勉強させてもらっています」
「…………ふうむ。歴史か…………」
適当なお世辞を言う先生に、お爺様は少しだけ眼を向けました。
「それより熊野ちゃん、今日はもうあいつのところに行ったのかい」
「……いえ、最後にしようとおもいまして」
「うん…………」
お爺様は、深いため息をつかれました。
「知っての通り、あいつの親父は俺の親友だった。俺よりずっと力に溢れていたのに、最後は肺を病んで死んじまった。…………何の話かと思うだろう。だがこれから話すようなことは本当は誰にも口外するようなことでもない。だから、独り言として聞いておくれ」
「はい、お爺様」
元帥は脇息にもたれ、上を見上げました。
「……国で艦娘を海軍で組織して対深海棲艦戦に投入するという話が出た時、艦娘を纏め上げられる軍人が必要だった。そしてあいつが一番に志願した。取り纏めていた閣員ともヤツは面識があったから、これ以上の適任はなくすぐに決まった。艦娘に対して国が長期的にどういう態度をとっていくのか誰にもわからず、誰もやりたがらなかったのによ。儂も止めた。親友の息子を、将来は立派な海軍軍人にしようと誓った我が子同然の男を、玉のようだった赤ん坊から知っている男を、艦娘などに関わらせて道を外させてなるものかと」
お爺様は、わたくしを見つめました。
「だが、あいつは言ったよ。『オヤジは艦娘が戦う姿をその眼で見たことがあるか。オヤジは反社会勢力が跋扈する今の社会を日々毎日嘆いているが、少女の姿をし、少女の心を持つ艦娘を戦いのため海軍で組織しようというのに、彼女らと誰も共に戦おうとせず、人外には人外の制度を押しつけ都合よいところだけ使い国の盾となってもらおうと言う、この不作為こそが立派な反社会的行為じゃないか!』と怒っていた」
そう叫ぶ提督の姿が浮かぶようでありました。
「儂は、とめきれなかった。熊野ちゃんには悪いが、儂は、それでもなんとしても止めるべきだったのではないかと、今でも思っている。儂には…………この結果が、偶然のように思えなんだよ」
力なく言ったお爺様は、
「『ただ艦娘から対深海棲艦戦を奪ったとしても、艦娘は必ず別の敵を見つける。オヤジも、生身で海に浮かんで火薬と砲片に身を晒す奴らの眼を見てくれればわかる! このままではこの先の艦娘の未来が、あいつらの未来が、オヤジの言うままの”反社会的存在”そのものになると、そう言ってんだ!! それは、人間にとって艦娘にとって死ぬほど見過ごしてはならないことだって、わかってくれるだろう、オヤジなら!!』と。
鼻白みもした。呆れもした。だが、あいつは若い眼で儂よりずっと遠くを見つめて居った。だがどうだ。結果は、あいつは、艦長としての答礼すら一度も受けず、離現役のみならず…………」
お爺様は目頭を押さえました。
「あいつの親父に約束したんだよ。息子は、必ず大将にしてやると。それも叶わず、儂は、儂はよ………………。……あいつの家の男は、みんな短命だ」
提督の最後は、正五位勲二等功三級の海軍少将。テロさえなければ、来春までには叙従四位、そして任海軍中将のはずでした。
「お爺様……」
「すまんよ。熊野ちゃん達を責める気は毛頭ない。あいつが自分で決め、自分でやったことだ。他の誰が責めようとも、あいつはきっとやり通したし、そういう女々しい逆恨みが一番嫌いなヤツだった。しかし、しかし…………人の一生は、短すぎると思わんかね。だってよう、…………順番がっ、…………違うだろうにっっ」
そういったお爺様は、もう、わたくしを見ていませんでした。
「──お話中、失礼致します」
……何事か紙片を持ってきた女中さんに、話を中断されました。
正直なところ、有り難いとわたくしは感じました。お爺様は思ったより参っていて、わたくしはそんなことにも今まで気付かなかったのですから。
女中さんが出て行くと、お爺様は目を拭い気を取り直すように姿勢を変えました。
「……ああ、話は変わるが、そちらは歴史の先生だったかな」
「は、はい」
「ずいぶん線が細いな、君は。聞きたいんだが、君は本当に艦娘の教育が国家百年の計であると、理解しているのかね。理解して、その職務に当たっているのかな。最近の若者は国家というもの、天下というもの、そういうものが当然にあるものと考えていてどうも話にならない。もちろんわが海軍の少尉や中尉にそのような軟弱はおらんはずだがね」
元帥の眼が、一歩後ろにいた先生に向きました。
あ。こ、これは、あまり、よろしくない兆候ですの……。
や、やばいですの。
これはお爺様の若者相手の倶利伽羅ですのよ……。
ただの八つ当たりとも言います……。
「は、確かに、閣下の仰るように、艦娘教育が国家百年の計かどうかは、僕は存じ上げませんが」
せ、先生ぇ…………。
ギロリとお爺様の眼が先生を見据えていますわよ……。
正座をしたままの先生は一歩前に出て、わたくしの横に並びました。
「僭越ながら、僕が日々感じていることは、人間と艦娘の間には人間の男と女より深い溝が存在しているいうことです。そういう溝がある中で、ただ彼女たちに人間のルールに合わせろと押しつけたところで、あるいは逆に艦娘のルールに上から人間が近づいたところで、フォーマルでは歩み寄りという実績が作れたとしても、インフォーマルではむしろ人間と艦娘の心は離れていくでしょう。
僕は、艦娘達が強い結束、絆、つながり、それが当然に共有されている。日々の有り様の中で同じ何かを感じている。他人に共感して助け合うことができる。そういう生き方ができる艦娘を、僕は非常にうらやましく思っており、逆に毎日教えてもらっている立場です。……でありますから、僕のできることは、教育者として心無い者達に対抗する術を学科を通して僅かなりとも伝えられたらよいと、考えて居るものです。歴史は共感で大勢の人を巻き込み成功したもの、共感などゴミと考え独り成功したもの、どちらの例も、教えてくれますから」
先生は頭を下げて、
「………………長々と。失礼致しました。元帥」
引き下がりました。
正直わたくしはぽかんとして、元帥もぽかんとしていました。
先生はすぐに後ろに行ってしまったので様子はわかりません。
振り上げた拳の行き場を失ったお爺様の顔は、まさしく鼻白んだ表情で。わたくし達は雑談を少々したのちに引き下がりました。
「──先生があんな風に艦娘を考えてくださっていたなんて、思いもしませんでしたわ」
邸を出てすぐ、思わず言いましたの。
「ま、俺も大人だからね。っていいたところだけど……………………威張れるもんでもなくて、あの元帥が、艦娘のことを考えているのが艦娘の少将だけだと言わんばかりだったから。そりゃすごいよ、少将は。すごいから、俺みたいなのがキミたちの教師をやれてる。でも、それだけじゃなくて、学校に来てからはお互い……みんなでやってきたじゃないか。少なくとも、俺が知ってる限りそうだ。少将はすごい。でも、今も、それだけみたいに言われるのは……」
そういう先生は、大人の人の顔でした。
……わたくし達のこと、そんな風に考えていてくださっていてありがとうございますの。
「──ねえ先生。お爺様は、気に入らない人間をこれまで何人も左遷して失脚させてきたのをご存じでして?」
「えっ?!」
「わたくし、びっくりしましたわ。よくあのお爺様にあんな啖呵切りましたわねえって」
「……なあ熊野ちゃん。そう言うけど。あんな僻地の田舎の学校で教師やってて、これ以上の左遷なんてある?」
「あ、言いますわね! わっかりましたわ! そう先生が言っていたとお爺様にお電話でお伝えしますわね!!」
「冗談だって! つーか一教師に掛かる海軍からの圧力ってなんなんだよ! 俺はそっちの方が気になるよ!」
素直にお礼を言えず、ごめんなさい。
(でも)
でも、ですわ……。
長い一日も、終わりを迎えつつありました。
外はもう陽が落ちています。
車は最後に、海軍第二病院へと向かっていました。
「……俺は、車で待っていようか」
「いいえ。もしわたくしが正気を失ったら、引っぱたいてでも正気に戻してしてほしいものですから、一緒に来てくださいですの」
「それは重大な役目だね。やっぱり車で待ってていい? 熊野ちゃんが正気を失ったら俺に止められるわけないじゃん!」
軽口を叩けるのも道路を走っている間だけで。
一歩病院の敷地に降りれば、わたくしの体に得体のしれないものが纏わり付き始めました。
「……大丈夫?」
今までわたくしが、考えないようにしていたこと。
とてもリアルだった昔の憧憬にすがって、目を背けてきたこと。
それでも脚は、わたくしの意思とは関係なく、入口の受付に向いていました。
驚いた顔の、馴染みの看護婦さんに挨拶と記帳をして……。
わたくしは…………。
あの人の…………。
個室に。
前と、変わらない。
いえ、
「あ、あなた…………」
更に小さくなってしまったように感じる顔。
いつまでも延々と続く、悪夢のような現実。
目覚めるかもしれないと、そして以前のように過ごすことができるかもしれないと、してはいけない期待の心。
提督との幸せだった日々を夢に見て、わたくしは「待つ」ことに決めました。
提督がどちらにいかれようと、わたくしはそれにじゅんじようと決めました。
けれど、提督の顔を見た瞬間、期待の重りは急に希望と絶望に振れ……。
振れて……。
────生きてらっしゃるだけで、よかったわ。
………………生きてるだけで、よかった?
ええ、ええ………………。本当に、
よかったですのよ!!!!
どうも、ありがとうございますわ!!!!
泣くまいと決めていたのに、涙が溢れ。ベッドの何もかも汚すことはできず、ただ寂しいパイプ椅子に座り涙が止まるまで拭い続けました。
そして気付いたときには、一時間以上。
「……ほら、やっぱりハイヤーじゃなくてよかっただろ」
後ろを向くと、何事もなかったように先生が座っていました。
「今から帰れば門限どころか余裕で消灯時間もぶっちだ。俺は怒られ慣れてるし……それに、そんな顔見せられないもんな」
「……先生」
「行こうか。みんな心配してるだろうから」
それから、不在で会えなかった奥様方から連絡があってお宅に招かれたり、会えた奥様方からも快気祝いというわけではありませんが、仲のよい方々でお茶を飲んでお話をたくさん致しましたの。
その度に先生は運転手を買って出ててくださり、何度も何度もお世話になりました。。
それがあまりに申し訳なくて、施設長さんに言ったのですわ。もう、独りでも大丈夫だからどうか先生の役目を解いてください、って。
しかし施設長さんは、もとより一度きりの運転手だったと仰るのですの。
「……ねえ先生」
「ん?」
「どうして、わたくしのお付き合いに付き合ってくださるの?」
鎌倉と逗子・葉山の奥様方のお宅を回った帰り。
相変わらず渋滞している百三十四号線の帰り道、わたくしは伺いましたの。
夕暮れも深まり車のランプばかりが目につきます。
「そうだなあ。今住んでるところはあんなんだろ? 実家には海がなかったし。鎌倉や葉山を巡るのも新鮮だよ」
「……後生ですから、本当のことを教えてくださいまし」
「はは、後生って! 本当のこと? そんなことが知りたいの?」
「はい」
「そ。じゃあ、食事と稲村ヶ崎見学に、今から付き合ってよ。実は俺、あそこから夜の江ノ島を見てみたかったんだけど、ずっと機会がなかったんだよね。どうする?」
「もちろん構いませんわ」
先生は、七里ヶ浜駅近くのイタリア料理店で車を止めました。
予約もなしに飛び込んだのに、窓際の海が見える席がとれました。
「先生、それワインですのよ」
「食前酒だけだよ」
「もう……」
ロッジ席から海が見え、眼下の百三十四号線をバイクやオープンカーが走っていきます。
赤黒い夕雲を背景に、江ノ島の灯台の明かりが見えます。
「まあ、施設長にはもう言ったんだよ。聞いてない?」
インサラータと薄切りサーモンを取り分け、トマト煮ナヴァラン風をまず食べ合うと、先生が言いました。
「ええ、なにも……」
「起き出してきた熊野ちゃんを、何処かに独りでやると何かにの拍子にふらりと消えてしまいそうだと思った。だから自分に問題があるなら自分でなくてもいいし誰でもいいから、外にやるなら様子を見るために人をつけてやってほしいって、そう頼んだんだ。俺の言い分が通ったのは、施設長もそう思っていたからじゃないかな」
「それだけ、ですの」
「それだけさ。……うん、いや、元帥に言ったように、ちょっとキミ達の仲間に少し加わって見たかったのかもある。先生と生徒じゃ、どんなに頑張っても立場の違いがあるもんな。でも熊野ちゃんもずいぶん砕けて話してくれるようになったし、艦娘鎮守府ってのも何度か行って艦娘も『変なおっさん』から『変な歴史の先生』って言ってくれるようになったし。お世辞じゃなくて、楽しかったよ」
ワインを傾けた先生は、笑っていました。
その言葉に嘘はなさそうで。
本当に変な先生ですわ。
「どうでしょうか。納得していただけました、お嬢様? お嬢様を野放しにしたらあちこちで大騒ぎを起こしそうだったので、わたしがお世話を焼いているわけでございます」
「…………ええ。とっても納得させていただきましてよ! ……つまり、これからもどんどん扱き使ってよろしいということですわね! アッシーですわね!! わたくし専用アッシー!!」
「頼むから大きな声でそういうこと言うのやめてください」
「ふふっ」
メインディッシュを終えると、駐車場まで少し歩きました。
すぐ隣に柵もなく江ノ電の線路が通っています。すごい環境ですわ。
「ん? 熊野ちゃん、この花すごく良い匂い」
「……先生、それはバラですわよ」
「えっ、そうなの?! すごい模様……だね。バラ?」
「ダブルデライトですわ。とっても良いバラで、良い匂いですのよ」
香水は艦娘には刺激が強すぎます。だから花の香りはみんなの癒やしですの!
「ほんとだ、確かに上品な匂い……」
その隣には、アザレアのエクスバリーがありました。
ああ、これも甘いのに品のいい匂いなのですわぁ。
はあこのお宅の方とお知り合いになりたいですわぁ……。
「それも、バラ?」
「ふふ。どうぞ嗅いでみてくださいの。これは、ニオイツツジの──」
立ち上がりつつ顔を上げた瞬間、花に顔を近づけようとしていた先生の頬に、わたくしの顔が、鼻が、唇が、当たってしまいました。
そして横を江ノ電が通って、まばゆい光でいっぱいになり。
通り過ぎた頃、ようやく、
「ご、ごめんなさい」
「あ、いや………………もう行こうか」
そして先生の希望通り、稲村ヶ崎に。
百三十四号のオレンジ色の明かりが江ノ島のたもとまで点々と続いていて、そこから橋の明かりが灯台の下まで続いています。
「えーと、『富士見百景』か。はは。夜は、ちょっと寂しいね」
「く、クリスマスの時期は、ライトアップされた灯台が綺麗なんですのよ……」
「ま、いいや。ちょっと下降りよっか。一度来たかったんだ」
下には砂浜と鎌倉気質の岩場が広がっています。
波は穏やかなのですが、岩礁にぶつかる白波が轟音を轟かせていました。
「うおーっ!! すげー!! ちょー海じゃねえか!! 新田義貞がここ通ったって絶対無理だろ!! こえーっ!! やべーっ!!」
「干上がった海を通ったって言うのは伝説なんですの?」
「いや、今とは相当地形が違うらしいから!! 通ったは通ったらしい!! だけど仏法寺攻めの方が大事だったともゆー!!」
先生は稲村ヶ崎の断崖絶壁を見て何故か大興奮しています。落ちたらわたくしが引っ張り上げましょう……。
「ねえ先生」
「あー?! なに?!」
「一度だけちゃんと言っておこうと思って」
そう言うとこちらに向き直りました。
「先ほどは、アッシーなんて言ってごめんなさいですの」
「そんなこと? 全然気にしてないよ」
「いいえ。先生がいてくれたから、わたくしは昔のわたくしのように振る舞えましたわ。ありがとうございます」
とても救われましたのよ。空元気でも元気なんだって。
これまでだって酷いこと、悲しいこと、辛いこと。たくさんありましたけれど、ただ「待つ」ことほど辛いことはありませんでした、
「きっと先生が思っているよりずっとわたくし感謝しているのですのよ!」
あ、あれ?
言い終わったあとにだんだん恥ずかしくなってきましたわ。
というかこういうのは別れ際に言うべきでしたわね!! 馬鹿ですの!!
ああああああ恥ずかしいですわ!!!!
「せ、先生! 今度は下のトンネルから駐車場に戻ってみましょうですの────あっ」
さっきの、バラの匂いが。
バラの……。
「──あっ」
引っ張られ景色が回り、
空が、見えました。初夏の星空……。
草むらの夜露で頬が濡れて、
「先生?」
顔が、間近にありました。
真剣で悲しい顔。
それが、だんだん近づいてきて……
唇が、触れました。
何度も何度も下唇を舐めるような優しいキス。
「せ、先生……」
夜露から守るように、先生の両手が背中に回って、身体が浮きました。
そして手がわたくしの首裏をくすぐり、口を開かせ、慈しむように首筋をくすぐり。
顎が上がったところを何度もついばまれました。
潮の匂いに混じってもバラの匂いは消えず。
先生の身体から漂うその匂いはいっそう強くなり。
繰り返されるキスに頭がぼうっとしてきて……。
……ブローチが、外されて、シャツが胸元まではだけさせられ、
先生は、露わになった胸を舌でこねくり回していて、その頭だけが見えて……。
「見て、熊野ちゃん。ぐっしょり……」
下着は、はしたないほどに濡れていて……。
「せ、先生──んむっ」
「ごめん、虐めるつもりじゃなかった」
そう言われたときには、もう下着もスカートも脱がされていて、
「熊野ちゃんって、すごい上付きだね。すごい、な。そのまま、力抜いていて、ね」
わたくしのあそこは本当に濡れてしまっていて、乳首だってあまり見たことがないぐらいに勃起してる。
わたくしは……。
わたくしは、
「うッ、うぅっ……」
にゅるんと、あそこに先生のものが入ってきます。
先生は、さっきのように両手を後ろに回して、わたくしを地面から離して、何度何度もキスを浴びせて、わたくしの股を少し開かせたところに覆い被せっています。
わたくしは動けず、なのに先生は気持ちいいところを探るように角度と深さを変えて、ゆっくりしたり、はやくしたり……。
「あっ、そ、そこはっ」
「ここ? いいよね、ここ」
じわっとお腹が熱くなる感覚。
じらされたあとに、ぐりぐりされて、ゆっくりはやく出し入れされると、お尻の筋肉がきゅっとしまって……。
勝手に、腰が、はしたなく動いてしまって……。
「熊野ちゃんも、こんなにエッチな顔するんだね」
「ず、ずるいです。こんなの、ずるいですわ、あッッ、あッあッあッ」
「そうだね……」
一番気持ちいいところを、長く深くストロークして、もう焦らして止めてもくれず、だんだん、はやくなって、きもち、よくて、
「────あッ、はッ──ふ、ふ……ふぅぅ…………」
イッてしまったわたくしを、先生はただ舌を絡めて優しく抱きしめてくれています。
「はやいんだ、熊野ちゃん」
耳元でそう囁かれ、
「そ、そんなっ」
「嘘だよ、嘘」
先生はまたちょっとずつ腰を動かし始めました。
今度は、一番深いところまで、先生のものが根元の根元まで入ってくるのが、わかります。
「くるしくない?」
そう言ってから、先生はゆっくりと抜いていきました。
先っぽが、抜けてしまいそうになるぐらい……。
「見て。抜けそうなのに吸い付いてる、熊野ちゃんのが、離したくないって」
「それも、嘘ですわ……」
先生は、それを何度も繰り返して、だんだん、だんだん抜き差しが早くなってきて、わたくしの一番奥に全てをうずめたとき、腰をぶるっと震わせるようになりました。
わたくしも、何度も一番奥を突かれていると、最初は気持ちよくなかったのに、先生が腰を震わせながら一番奥に到達すると、それが、快感のようになって……。
「……やっぱ夜は誰もいな────」
「きゃっ」
人が来て、わたくし達を見て大急ぎで踵を返す気配がしたのに。
先生のおちんちんは、竿から亀頭までおそろしいほどぷっくりと膨れています。
「せんせい……」
「ごめんっ、熊野ちゃんっ」
他のことなんてどうでもいいぐらい、
一番奥が、いいんですのよね……。
わたくしも、なんだか、奥が気持ちよくなってきて。
奥まで入れられてぐりぐりされると、クリトリスに当たってそれもよくて……。
「うっうっ」
先生の腰が猛烈に前後し始め、
それでも我慢している様子が見て取れました。
「いいですのよ、せんせい……」
一番奥でも、艦娘は妊娠いたしませんから……。
そっと耳に囁くと、堰が溢れたように、先生は一番奥で射精を始めました。それは音が聞こえてきそうなぐらいな勢いで。
わたくしは、強く抱きしめられるまま、先生のながいながい射精が終わるまで、若い精液の熱さを感じていました。
シャワーを浴び終えると、部屋の窓を開けました。
山の匂い。森の匂い。土の匂い。
けれど、鎌倉山にはあった潮の匂いがありません。
稲村ヶ崎からやってくるような、潮の匂いが…………。
……。
どうして、先生を拒めなかったのか。
レストランで口説かれたとしても軽く流せたでしょう。
夜道で手を握られそうになったとしても、思いっきり手の甲をつねって笑い話になっていたでしょう。
あの時は、
先生にも、わたくしにも、そんな雰囲気なかったはずだったのに。
なぜか。
……草むらに押し倒されて、
拒めなかった。
(──先生、なにも、なかったことにいたしましょう)
どうして、先生を受け入れたのか。
受け入れてしまったのか。
そして、それだけじゃなくて、
(──熊野ちゃん。『待つ』のって辛いよ。『待たれる』方も辛いなんて言うけれど、『待つ』方がずっと辛いに決まってる。俺だってそうさ。俺だって───)
振り子が、振れないのです。
あれほど希望と絶望に濡れて眠れなかった夜が、眠れてしまいそうなのです。
だからわたくしは、ただ山の新緑の匂いを嗅いで、初夏の山の音を聞き、その日はいつまでもいつまでも起きていました。
それから数日の間、わたくし達は何もなかったように振る舞いました。
それでも必要なときは車を出してくれ、そして真っ直ぐに学校へ帰りました。
ただ、あの日から振り子が止まったようになって。
それが何故か不安で仕方なく、わたくしは独りで提督の元へ行く回数が増えました。
何度も何度も、通いました。
──そして、ある日の早朝、部屋の扉が猛烈な勢いで叩かれました。
「は、はい?」
「あ・た・し!! 開けて!!」
文月の声でのっそりと起き上がると、なにやら早朝なのに廊下が騒がしいようです。
「……どうしましたの? 先生に怒られ、」
「提督起きたんだよ!! 熊野!!」
「………………え?」
「提督!! 起きたの!! 話せるの!!」
「え?」
「おい熊野、聞いたか」
文月がまだ何かを叫び、長門が横合いからわたくしにしきりに何かを言っています。
でも何も聞こえず。
わたくしは──
わたくしは……………………。
/結「山桜今はの頃の花の枝に夕べの雨の露ぞこぼるる」
(山桜の今しも散ろうとしている花の枝に、別れを告げる涙のように夕暮れの雨のしずくがこぼれ落ちている。『金塊和歌集・春』)
来るたび来るたび開けた扉。
いつまでも一緒にいるつもりだった。いつまでも待つつもりだった。
でもそれが、急に怖くなる日がある。
中から勘づかれないように、横のコンクリ壁で立ち止まって。
何度か脚を進めてドアノブを触ろうとして、また元に戻って。
「………………………失礼します」
声が、出た。
それから、それから…………ノックをして、
また、止まって、開けようと決心している内に、扉が勝手に開いた。
「熊野」
大和だった。
「わ、わたくし…………」
「大丈夫よ。みんな、わかっているから」
大和は、そっとわたくしの背中押して、招き入れると、
あの人が、いました。
いつもの、寝ている姿、死んでしまっているのではないかと何度思ったか。
でも今日はそうではなく、背もたれに身体を起こしていて、
「よう熊野」
「…………………………あ」
いつもよりしゃがれた声。いつもよりそげた頬。いつもより荒れた肌。
でも、眼の光はいつもと同じで。漂う雰囲気は────
「あっ、あなたっっ、あなたっっ!!」
すがりつきました。
ただ。
「そんなにおいおい泣くな」
無理に決まっています!!!!
どれだけ、どれだけ、心を削ったでしょう!!!! 共に死ねればと、共に生きられればとッッ!!
「熊野。悪いが時間がないんだ。話をしたい」
「………………え?」
「それとも、俺のような男に愛想が尽きたか」
「いえっ、いいえッ」
顔をあげると、N崎県知事の伊澤さんと大和がいました。
伊澤さんは昨年まで内務省地方局行政課長として、艦娘行政に色々と携わり、提督ともとても親しい方です。
「よう、熊野ちゃん、悪いな。二人っきりにしてやれなくて」
「い、いえ」
でも。どうして居るのか、それがわかりませんでした。
そして周りを気にする余裕ができると、隣の個室から、仲間の艦娘達の声がしているのに、ようやく気づき。
「……これが『隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり』だな」
「──え?」
きゅう、と何かが脳で閉まっていく音。
伊澤さんを見ても、大和を見ても、眼を合わせてくれず。
「ど、どういう……」
「熊野。すまなかった、待たせて」
「い、いいえ! わたくしは、あなたを待つこともできず、ただ右往左往して、あなたにすがりついてるだけでしたの! 待とう待とうと思って、お顔を見れば起きているあなたを思い浮かべるのですわ!」
「いいんだ、それが待ってくれるということさ。期待もせず希望もなく、ただ禅定して『待つ』のは坊さんだけでいい。……ありがとう、すまなかったな、熊野」
「やめて、やめてください、そんな…………。そんなこと、当たり前のことですわ…………。そうでしょう? お礼なんて……お礼なんて、そんなの……」
提督の身体に抱きつくと、とても細くて。
このまま抱きついていたら、折れてしまいそうな儚さで。
「なあ、夢の中でコンにあったよ」
「コンちゃんに?」
「ああ。『おまえはもっと長生きしろよ、馬鹿』だとさ。おまえだってまだ十六だろうって言い返したら、『犬の十六は大往生だ。毎日ボケボケ生きてるおまえと一緒にするな。馬鹿は死んでも直らん、馬鹿だな、馬鹿は』てよ。犬に説教される少将ってのも──ゲホッゲホッ」
「お、お水はっ」
「構わないそうです」
「……はあ。悪い。……それからヤツが『熊野によろしく』って、『うちの娘とこれからも仲良くしてくれ。あといつまで生きられるか数えずにいてくれたのは、うちの娘と熊野だけだ。寂しいとき、おまえが一緒に居てくれて嬉しかった』とも。…………あの犬が、そんな喋り方するんだ。おかしいよな。でも、死んじまった。生きる時間が違うんだ。仕方ないよな。どれだけ解り合えてるつもりでも、そういうつもりでも、生きる時間が違うんだから…………」
そういう提督は遠くを見ていて、
「あ、あなた。もう、これからは、一緒ですよね?」
「…………もうちゃんと伝える機会はないかもしれん。艦娘ひとりひとりと話したい。コンはそれを教えてくれた気がする」
笑う顔は逝きし日の仲間と同じ顔で。
何もかも真っ白になって、
叫び出しそうになった瞬間、
「提督、準備が整いました。……もし取り乱す艦娘がいますれば、お側にて」
大和の、視線。声は出ず。
「頼む。……すまんが熊野、これ以上おまえと話せるのは最後になる。別室で控えていてもいいし、ここにいてもいい。おまえの好きなように、してくれ」
そう辛そうに言ってあの人は、起こしていた身体を、また、寝かせました。
わたくしは、それ以上、なにも、口から、出てきません、でした。
最初に入ってきたのは、金剛でした。
「イエース! テートク、元気してそうネー!」
「だろ? しかし、おまえにゃ負けるよ」
「それは仕方ないデスよー!! だって、テートクは、五・十・路!!」
「やなヤツだな、おまえー」
笑い合いながら、金剛はパイプ椅子に座りました。
「テートク」
「……金剛、おまえは太陽のようなヤツだから、人をたくさん引きつける。そしておまえには十分な才能がある。だから、覚えておいてくれ」
「ハイ」
「才能は、人の眼を眩ませる。優秀で仕事ができる力は、それだけで男を色めき立たせる。おまえの周りには多くの人間が集まって、そのうち世を厭う気持ちにもなることもあるだろう。だからといって、艦娘同士の殻に籠もることは、もうできない。おまえが、一番に破っていくんだ、その殻を。そのとき、どうかおまえの側には、おまえの見た目や才能以外のもっと大切なところを見てくれる人間に、どうか側にいてほしい。それが願いだ」
「……提督。艦娘の、人を見る目をあなどっていますよ」
横から、大和が口を出しました。
「そうデース!! だいたい、そんな風に、テートクは偉そうにいって…………。最初に、ワタシ達の眼を眩ませたのは……テートクデース!! よく言うデース!! ネッ! 大和!! 大和チョー大変デスヨー!!」
「本当です!」
「はは。こりゃ一本取られた。……おいっ、いてえ、叩くな!」
金剛は、笑っていました。
「……さーて、テートクの代わりに、みんなのお参りに行かなきゃデース!! ネ?」
「ああ、頼むよ。…………じゃあな、金剛」
この人は、艦娘ひとりひとりとわたくしも伺いしれない絆を持っていて、きっとそういう人だから、今も慕われているのですわ。
それだけなのです。
この人と艦娘の間には。
だから。
だから……テロや脅迫を受ける理由なんて、どこにも、なかったんですのよ………………。
その次は卯月が入ってきて、提督も知っている男の子と付き合っていることを報告してから、疾風怒濤のようにノロケ話をしゃべりまくりました。提督はただ頷いて、それを聞き、
「卯月。おまえはよく俺に似たな」
「ぴょ……」
「だが彼氏を池に蹴り落とすのは、一度だけにしておけ。大事な男の子だ、おまえを心から大事にしてくれる」
「はいぴょん」
「ついでに高身長イケメン合法ロリコンサッカー部だ。これも滅多にない」
「ちっ、違うぴょん! ロリコンはあとづけ! あとからついてきたぴょん!! 最初は高身長イケメンサッカー部!! そんな趣味なかったぴょん!! 今は……ちょっとだけあるけど!!」
と、卯月のように騒々しく楽しく話したり、二人の間でしかわからないようなことを少しだけ話す子もいたり、みんなそれぞれの仕方で、部屋を去って行きます。
艦娘らしい、別れの仕方。
いつまでも、あとを残さず……。
でも、
「鈴谷か」
「……ちっす。って、げっ! 上司がいるんですけど!! 上司がああ!! ウワアアア!!」
鈴谷も提督がテロにあってから、伊澤さんに連れてかれてN崎県の内務属の見習となりました。だから、知事の伊澤さんは上司と言えば上司です。
「……伊澤さん」
大和が、仕方ないわね、という顔をして言いました。
出て行く伊澤さんは、
「鈴谷ぁ。帰ったら覚えておけよ」
「そいばずるかー」
「いいから、座れ」
居心地悪げに、鈴谷はあの人の前に座りました。
あの人は、真っ直ぐに鈴谷を見つめています。
「俺を、恨んでいるか」
「……」
「恨んでいるのなら、別の道を見つけろ。おまえが、おまえの道だと思える道を」
そう言うと、鈴谷は頭をかき。
あっちを見たりこっちを見たり。
そして少しうつむいてから、
「…………そんなこと言わないでよ。提督、『命令』だって言ったじゃん。あたし、一応ちゃんと守ってるつもりなんだけどな」
言った鈴谷の眼は、こちらからは髪に隠れて見えず。
提督は、わずかに頷きました。
「わかった。もう行け、鈴谷」
「はい。お世話になりました」
二人には二人だけの言葉がある。
ですけれど──
「……熊野、ちょっといい」
鈴谷は、わたくしに顔を向けていました。
察されたようでどきりとして、大和に頭を向けると、頷きが返ってきました。
「ちょっと失礼いたします」
「あ、大和! 佐世保だと何故か大和めっちゃ人気あんね! 大和が直々に来てくれるなら、艦娘居住地もあっという間に広がるかもしれんて! こんね?」
「鈴谷……」
「あはは、ぞーたんぞーたん!」
そして外に出ると長門がいて、次の艦娘が部屋に入っていきます。
ひっそりとした廊下。
曲がった先のわずかな物陰で、
「──あのときはごめんっ、熊野!」
鈴谷が、唐突に思いきり頭を下げました。
「あのとき」の事件は公にならず、内部でもほとんどの艦娘は、何か問題があったらしいとしか知りません。
でもいずれにしろ十年以上前のことです。
艦娘鎮守府の最盛期。
遠い遠い昔のこと。そして今も手のひらにのる今日のこと。
「一度謝ったよね。でも、二人だけで、もう昔みたいにやれることはないんだろうなって。でも、提督がこんなことになって、今更思ってるの。二人が恋人でも、やっぱり熊野にはちゃんと相談しなくちゃいけなかったって! 提督のことが、わたしも好きだって言わなきゃいけなかった!」
忘れたとはいいませんの。
でも、今は鈴谷の気持ちが少しだけ分かりますわ。
待つのって、本当に辛いですわよね。
当たり前のことを、当たり前に考えられなくなってしまうぐらいに。
「好きな人が同じってこと、わたしはすぐにわかった。知ってる? 他にも何人もそういう艦娘がいたんだよ。でも、熊野と提督はわかりあってたから。熊野がわたし達の片想いなんかに気づけなくても当然で、わたし達は、口にできない秘密の関係で変な連帯感があったりして……。
でも、それでも、わたしだけは、熊野に、ちゃんと言うべきだったんだ……。それに──」
「……鈴谷。わたくしの、そのときの気持ちはまさしく、『結ひ初めて馴れしたぶさの濃むらさき思はず今も浅かりきとは』でしたわ」
「え?」
「あら。法律のことばっかり頭に入れて、和歌は忘れてしまいましたの」
「う、ううん。意味は、わかるけど……」
ちょっとだけ上目遣い。世の中のオジサンはこれで一発ですわ!
「どれだけ大切に思っていても、何もかも、わたくし達の前を川のように流れていきます。だからせめて姉妹同士、待つことも待たせることもないように、これからは致しませんか、鈴谷」
「うん……必ず」
なら。
もう言葉は要りません。
だって艦娘同士、抱き合えば何もかも伝わるのですから。
そうして次々と艦娘が提督と別れを済ませ、最後は長門と大和だけになりました。
済ませた艦娘は電車で帰るなり、車のトランクにぎゅうぎゅう詰め込まれたりして帰って行きました。余った一部だけ、まだ隣の個室に残っています。
「長門、ご苦労だった」
「いえ。必要なことですから」
「長門」
「はい」
「おまえは、大和に劣等感を抱いているか?」
長門は流石に、動揺致しませんでした。
「はい」
「今は、鎮守府と学校と別れ、閥が二つあるように感じるかもしれないが、いずれその境目もなくなる。住むところは自由になり、艦娘籍であろうと戦いに出る必要もない。となると、連中は好き放題自分の好きなことをやり始め、おまえ達が一緒に頭を抱える。だから、おまえが今抱いてる劣等感は大事にしろ。艦娘の器は大きな水瓶だ。ヒトより大きな水瓶だ。だから世間の目を気にして、なかなか水が貯まらないからと焦って注いだり、器を小さくして急ごしらえに水が貯まったように見せかける必要はない。わかったな、長門」
「はい、提督」
「だから大和、長門がおまえに辛く当たっても、優しく受け止めてやれよ」
「……ええ、それはいいですけれど。何故か、さっきからわたしが一番貧乏くじを引いている気がしますね」
みんなに笑い声。
「それとだ、長門」
「ま、まだありますか」
「うん。おまえが一番心配だからな」
そう言われて、流石に長門はショックを隠せていませんでした。
「なあ、長門」
「は、はい」
「嫁をもらえ」
「…………はっ?」
「嫁でも旦那でもいい。はやくつがいになれ。大和を見ろ。漁師の旦那のくせに、家事を仕切って、たまに大和が手伝おうとするとその服にその洗剤使うなと怒られるらしい。『大和、洗濯ネットって知ってる? あ、知ってるんだぁ、よかったぁ!!』『わかりました!! わたしはもうお魚切りませんからね!! これからずーっとですよ!! いいんですか!! いいんですね?! ……い、いいんですか?』とか喧嘩しているらしい。どっちが女房かわからんよな」
「提督ぅぅぅぅぅう……」
「才能は男を狂わせる。有能無能で人は狂う。しかしおまえ達のそばには、そんなことを一顧だにしないような存在に、そばに居て欲しい。そこの四十路にもなって独り身の内務官僚、あれは悪い例だ。真似をしないように」
「こっちにも火の粉飛ばしますか! 大和の方だけにしといてくださいよ!」
「ふっ、いいな。伝えたぞ」
「ハッ」
「…………まったくこれだからなあ。もう俺の独り身のことは言わないて、何度約束させたか」
「うふふ」
「はははっ」
みんなが笑っていました。
みんなが。
まるで、
ハレの日の花火みたいに…………。
「…………ふう」
「お疲れ様です、提督」
長門が出て行くと、大和がそう言いました。
「……うん」
休むように眼をつぶると、まるでそのまま死んでしまうかのような青白い顔でした。
「…………熊野、悪かったな、待たせて」
「いいえ……」
「大和、例のものを」
そう言って目の前に差し出されたのは。
…………恋い焦がれた、
婚姻届でした。
「もう面倒なことはなにもない。俺の予備役入りが決まったからな。本庁の特高部長を呼び出してパシらせたんだ。貸しが多すぎるから、こんなことでもさせんと割に合わん。……だから、あとはおまえに書いてもらうだけだ」
何もないって……。
「だけ」って……、
こんなの…………!
こんな、いまさら、こんなのって……!!
「泣くな」
「だって、こんな、悲しいことってありませんのよ、あなた…………!」
あとは、わたくしが記入して判子を押すだけ。
だけ。
だけ、ですって…………?!
「ひどすぎます! こんなの、ひどすぎましてよ……!」
今までのことが走馬燈のようによぎりました。
某軍事施設を占拠して、初めて提督と出会った日。秘書艦を初めて務めた夜、褒められて胸がどきどきして眠れなかったこと。二人で初めて出かけた日。銀のリングをもらった日。
わたくしは、
わたくしには……、
「書けません…………。わたくしには、書けません…………だって、紙切れ一枚じゃありませんの…………。あなたと一緒に、二十年も過ごしたのに………………たったこの紙切れ一枚で…………。わっわたくしは!! 何も、要りません!! 何も要りませんから!!」
静寂が部屋の中を満たしました。
わたくしは涙が溢れるばかりで……止めようがありませんでした。
だって、そうでしょう?
一緒に生きたってことを、こんな風にしてなんになりましょう!
そうでしょう……。
……。
「──はー、見ていられれん」
「おい」
「そろそろいじめはおやめになりませんと。……大和、この人は年々たちが悪くなってきてると思わないか」
「ええ。それに後が怖いですよ、提督。まあもう一生ものですけれどね」
二人とも、呆れたような声を出しています、
「な、なんのこと、ですの?」
「気にするな。伊澤は魚の食い過ぎでちょっとイカれてるし、大和もエロ爺さんの接待ばかりでカリカリしてる」
「まあまあまあ言ってくれますね!! ほんとにカリカリしてきましたっ!!」
「当海軍中将の発言は、水産県の知事として看過しがたいものである」
「い、言ってくださいまし! いったい、どういうことなんですの!!」
「どうもなにもないさ。なんか今にも死にそうな顔をしてわざわざ艦娘全員集めて説教したこの人は、実はピンピンしていて、もうリハビリを開始してるところだ。だいたいだ、『死ぬ前に結婚式を』とか『婚姻届を』なんてこの阿呆な人が似合わないことを考えるわけないだろう。恥ずかしかったんだよ、紙切れ一枚熊野ちゃんに渡すのが。逆に、見てるこっちが恥ずかしいわ!」
「へ」
「とゆーことで! もういいですよね! さあお仕事、お仕事! エロ爺さんの接待とやらに行きませんとねー!」
「酷い茶番だよまったく。こっちは現役だぞ、そこを考えて欲しいね。とりあえず築地に行かなきゃならん。……お、そうだ。おい大和! 夜は久しぶりに四人で飲もうぜ! 鈴谷のヤツ、久しぶりの帰京だからって歌舞伎座の座敷にへばりついてるだろうからな!」
と、和気藹々と二人は出て行きます。
なんのことか、わたくしには、さっぱり……。
ぜんぜん、わからなっ──
「て、提督?」
「うむ。とりあえず、この書類にサインを……」
「ふっ二人が言っていたのはどういう意味ですの!! いっいつから起きていられたんですの?! 命に別状はありませんの?!」
「いや、それはっ」
「ありませんのね!!!! あ・り・ま・せ・んのね?!」
「はい……」
「どういうこと?! なんで?! 信じられませんわ!! あなた実は切ってみたら青い血が流れてるんじゃありませんこと?!」
「しょ、しょうがないだろ……。貸しばかりの特高とか、伊澤とかクラスとか他にも色々秘密厳守で、頼まなきゃいけなかったこと沢山あったんだよ……」
「そんなこと、知りません!!!! …………ん゛ん゛~~~~もお゛~~~~!! そっそれならっ、なんで大和は居りましたの!! わたくしより大和の方を信頼していますのね!!」
「それもしょうがないだろ! コネ譲ってやってたんだから、あいつ以外に艦娘関係の繋ぎがいないじゃないか……。それに大和だけだぞ、知ってるのは…………たぶん」
「たぶんてなんですの!! …………んん? なんか、鈴谷も知ってそうですわねえ!!」
「し、しらん。俺はしらんぞ」
「いつもいつもいつもいつもあなたは肝心なときに勝手に話を進めて!! わたくしに相談のひとつあってもよろしんじゃありませんか!! ねえ!! どう思っていますの!!」
「これからは、そうします……」
「信じられません!! 右の頬出しなさいませ!! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」
「へぶしっ!! へぶしっへぶしっ!! お、おまえ、ほ、ほんきで──」
「左の頬を差し出しなさいませ!! ちなみにこれはみんなの分です!!」
「へぶっ! へぶっへぶっっ!! や、やまとーーーーいざわーーーーこいつをとめろ!! へぶっ!! 誰かあ!!」
提督の顔は真っ赤になっていましたが、
それが妙に嬉しくて、涙がまた止まらなくなって……。
「…………本当に、ひどい人ですわ。わたくしが、どんな気持ちでいたか」
「すまん。でも無駄な時間を過ごしていたわけじゃないんだ」
そういうと隣の引き出しから薄紙で保護された三つ折りの辞令を二枚、広げました。
「任海軍中将。昨年八月付だ。それに叙従四位。さすがに、特旨は無理だったな」
「あ、あなた……」
「あと旭二を国際会議後にもらう確約をもらった。それから侍従武官が来て、当今から賜り物をいただいたよ。色々あるんだが…………、まあ、とりあえずおまえが一番嬉しいのは、特高に横車させたこれだろう」
そう言って渡されたのは、菊花が彩られた……パスポート。
「こ、これって、」
「さっさとリハ終えて海外行って音信不通になろうや。もうややこしいのは真っ平ごめんだ」
わたくしは、わたくしは…………。
「だから、泣くなって。賜り金もたんまりいただいた。年金も相当になるし。どっから漏れるのか就職の話もたくさん来てるが、そんなもの無視しておまえの好きなところへ行こう」
「はいっ……はいっ」
嬉しくて、嬉しくて…………それでも、わたくしの中に残っているなにか。
わたくしたちは、生きる時間が違うということ。
でも………………だからこそ、
違う時間を、生きるからこそ……。
「わたくしっ、隣のみんなに知らせてきますわっっ!!」
「え! や、やめっ」
「──みなさーーーーん!! 提督、生きてますわ! さっきまでの死に際の説教はみーんな提督、『しいさま』の演技ですわよっ!! 『しいさま』は隣の部屋でピンピンしてますわ!!」
「は? …………はあ? しいさま? だれ?」
「な、な、なに? なにいってんの?」
「ですから! 見てくださいの!! これ叙従四位の位記ですわ!! で、これが任海軍中将の辞令ですわ!! こんなものをこっそり戴くために、わたくし達に内緒で何日も死んだふりしていたんですわ!!」
「え? ご、ごめん、意味がちょっと」
「て、ていとくは…………え、死なないの?」
「な、なんで? 死ぬんでしょ?」
「きっとね、みんなの悲しむ顔を見たかったんですわね、意地悪な人ですから。あとズラかる前にみんなにお説教しておきたかったんでしょうね、そういうの好きだから。ですから……………………」
そこまでスラスラ言えたのに、何故か言葉に詰まって。
「死にませんわ!! もう何十年か、きっと生きるのでしてよ!!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、熊野。ひとつ聞かせて。……ここって…………つまりここって、めっちゃくちゃ怒って、いいところだよね? みんな呼び戻してめちゃくちゃに怒っても、別にいいところだよね? わたしは、一発ぶん殴りたいんだけど」
わたくしは、にっこり笑って、
「はいっ!!」
みんな、駆けだしていきます。
「──やい提督!! どういうことだっ!!」
「わたし、みんなに電話してくる!! あっ、でもまだ帰ってないか!! ちょっとダッシュで呼び戻してくる!!」
「このやろっ!! このや…………って、すげえ顔!! どうした?! 大丈夫か?! 病気か?! やっぱりだめだったか?!」
「ああ……だめだった…………」
「くまのーー!! やっぱりダメだって!! おおーーい!! ダメダメだーー!!」
いつから、わたくしは……。
こんなに、泣き虫になってしまったのでしょう……。
涙が止まらないのは、いつだって、提督のせいですわよ…………。
でもね、コンちゃん……。これからも、わたくしは、提督といられる時間があとどれだけかなんて、決して数えたりしませんから。
きっと、見ていてくださいね。
/番外「月影のそれかあらぬかかげろふの、ほのかに見えて雲隠れにき」
(月の姿と見えたのは、あるいは美しいあの人だったのか。陽炎のようにかすかに姿を見せただけで身を隠してしまった、あの人だったのか。『金塊和歌集・恋』)
ある日の七里ヶ浜付近の百三十四号線。
いつも通り、この道は渋滞していて全く動かない。
俺は何故か、ガキ二人を乗せてこの糞暑い中、渋滞の悪化に貢献している。
「ねえ先生、せっかく買ったバラの香水渡さなくていーの」
「……渡せるもんかよ」
「と~~~~ってもいいもの選んだのにねー……。目の玉飛び出ちゃうぐらい!」
「うーちゃんも一緒に選んであげたのに!!」
後部座席から全く子供にしか見えない子供が二人、乗り出してくる。
相手するのも億劫だが、相手をしないとさらに億劫である。
「うるさいぞ! 傷心の大人になあ! 子供が口を出すもんじゃない! 静かにしなさい!」
「うわー男のひすてりー」
「うーちゃんねえ、最近男の子もヒスるって最近わかってきたぴょん!! やっぱり仕事ができるとか才能があるとかモテるとかモテないとかって男の子の拠り所なんだぴょんねえ!」
「うるせえうるせえ!! 黙れ黙れ黙れ!!」
「ねーえ」
「なんだよ!!」
「わたし達が先生からって絶対に分からないように渡してあげよっか」
「……いや」
「そういうものは、ちゃんと大切に供養してあげないといけないんだよ。いつまでも持ってたりしたら妖精さんになるんだから。ちゃんとね、あげるか棄てるかして供養しないといけないんだよ! 先生のためにも、その子のためにも! ザ・フォース・オルウェイズ・ウィズ・ユー!」
「うーちゃんはジェダイだ、かつて父がそうだったように」
「アイ・アム・ユア・ファーザー」
「ノオオオオオオオオオオオオオオオぴょん!!」
「……おまえらって、微妙に流行遅いよな…………。わかった。頼んだよ」
「うーちゃんも同じところで香水買ったから、文月とコンビ打ちでうまく渡してあげるぴょんねえ!!」
「ねー!」
「はあ~~~~ありがとよ~~~~うれしいな~~~~」
なんだか悲しくなってきた。
どうにでもしてくれ。
「あ、そうだ。わたしが先生のお嫁さんになってあげてもいいよ! もう二年で卒業だから!」
「ああ、そうだなぁ。それじゃあ、あと十年ぐらいして文月のおっぱいが大きくな──カハァッ!!」
「男の人はッみんなみんなおっぱいおっぱいって!! そーいうの最近セクハラっていうんだって、大和が言ってた!! あ、わかった! 男の子はみんなおっぱい星人で、女の子と艦娘だけが本当の地球人なんだよ!! ああ、素敵だねえ!! 男の子はみんなおっぱい星に送り返さなきゃ!! あっ、あたしNASAに入ろうっと!!」
「でもねえ、三崎くんはおっぱいの大きさなんて関係ないって言うぴょんよ。うーちゃんがうーちゃんならボインでもペタンでも関係ないって。うーちゃんも三崎くんのがちっちゃくても大きくても関係ないぴょんしねえ」
「……ちっちっちっちっ! あたしの前でいっつもいっつもノロけやがってこのうさぎやろ~~~~!! 稲村ヶ崎から突き落として干潮祈願にして鎌倉に攻め込んでやろうかあ~~~~!!」
「なんだぴょん!! いつから文月はそんな悪いこと言うようになったぴょん!!」
後部座席があまりにうるさいので窓を開けた。
夏の匂いがむわっと顔に降りかかる。
「……はああ~~~~、俺、なにやってんだろう…………」
海は夏の始まりの太陽がキラキラと輝いて全てを祝福しているように見える。
そして右手に江ノ島が見え左にはかすむ三浦半島と、稲村ヶ崎。
────バラは、開ききる直前が一番香りが強いそうだ。
それに見合う香水などそうそうあるはずもなく。
そしてバラの匂いが一生自分に付きまとうであろうことだけは、確かだった。