夜もふけた王都、滞在中の館にて。
館でも一等の貴賓室。ナザリック大墳墓にある至高の41人のプライベートルームには到底及びもしないが、丁寧に清掃されており清潔感がある。
大きな寝台では、ランプに照らされて重なり合った一つの影。
「あー、やっと二人きりになれたねー?」
対面座位の形で男に跨り、クレマンティーヌは愛おしげに男の髪を撫でた。
「もーあの真面目ちゃん、しつこいったら」
「そう悪く言うな」
「だってさー」
口を尖らせた女は男の首に腕を回し、甘えるように肩口をガジガジと噛む。
そんな様子で、どこか不満気にしながらもリラックスしていたのだが。
ふと、彼女の目が一点に留まる。壁に黒布のフード、白と水浅葱の厚手の布地に金糸の刺繍の帯が縁取られたドレスがかけられていたのを彼女は発見した。
「んー?」
訝しげに、目を細める。
その衣装を最初に見た際には嫌そうな顔を、次いで見当のついた女はニヤニヤと、面白い遊び道具を見つけた猫のような目をした。
「修道服……? あ〜、今度はそういうのがいいのかなー?」
「……お前のゲヘナでの衣装を考えていただけだ」
女のからかいに男は溜め息をついた。
ゲヘナ──モモンガから伝えられた冒険者モモンの英雄としての地位を不動のものとし、ついでに資源を確保しつつ、王国の裏社会を掌握するとか何とかするための作戦だ。
衣装と得物は、その計画中であるゲヘナ作戦を間近で見物するに当たり、犯罪者である彼女を連想させ、身バレの危険に繋がる物は避けた方が無難と男は判断していた。
故に、修道服については、ゲヘナでの衣装や装備を考えていた中で挙がった選択肢の一つだったのだ。
男の思考はこうだ。まさか犯罪者が修道女の格好をして街中を歩いているなど、誰も思うまい、と。
「でも、何で修道服?」
「一番お前に縁遠い衣装だからだろ」
お前は何を言っているんだと、さも当然そうに言われた彼女はムスッとしており、何故か不満げだった。
「ふーん、そっか、そっか……その言葉、ちゃんと覚えてなよ?」
「はぁ?」
そう、意味深な言葉を溢した女はヒラリと身軽に男の上から降りると、男が呼び止める前にさっさと服を引っ掴み部屋から退散していったのだった。
□
クレマンティーヌが修道服を手に部屋を出て、しばらくのこと。
「主様。お待たせいたしました」
部屋の扉をノックする音と共に、何者かが部屋へと入室してくる。
「……」
はたして、男の目の前には見慣れぬ修道女の姿。
目元を隠すほどに目深に被った、黒と白の布が重ねられたフード。白と水浅葱の厚手の布地に金糸の刺繍の帯が縁取られたドレスを身に着けている。
それは男が用意していた物と同一。
そして、フードの奥から覗くのは真っ白な肌に、薄く笑みの浮かべられた口元、そして金色の髪。
修道服を身に纏っている女性はクレマンティーヌらしかった。
男は目を見張った。
普段の様子からは全く想像出来ないことであるが、彼女のその修道服姿は不思議なほどに似合っていたから。
「……」
「主様?」
男は呆けてその姿を見つめてしまう。
一方、修道服姿の女は男の様子が可笑しかったのか、手を口に添えてクスクスと笑った。
男は眉を寄せ、その口調や仕草から漠然と感じる違和感に怪訝そうな表情を浮かべる。
なぜなら、修道服を身に纏ったクレマンティーヌは普段の様子からは想像もつかない淑やかさを醸し出していたのだから。
その憑き物が落ちたような柔らかな雰囲気が、いつもとは明らかに違っていた。
「改めまして、主様。いかがでしょうか? 着こなしに、どこかおかしな所はございませんか?」
「あ? あ、あぁ……」
そんな男の困惑も知らず、彼女は裾を摘んでヒラリ、と回ってみせる。
「……クレマンティーヌ、だよな?」
「はい? そうですよ。あなた様の敬虔なる信徒であるクレマンティーヌです」
落ち着いた声音。静かに、しかし、通る柔らかな女の声。
そして、彼女はたおやかに礼をした。慎み深く、その礼だけで育ちの良さすら感じてしまうような所作。
男の知るクレマンティーヌとは、まさに別人。
しかし、信徒という言葉の違和感が脳裏に残る。
「……」
「主様?」
「……あ、あぁ?」
「あの……お願いがあるのですが、聞いていただけますか? 私は主様の信徒ですが、恥ずかしながらその信仰はまだまだ未熟。これより更に精進いたしますが、そもそも、主様の信徒となるお許しもまだ得ていない有り様でしたので……」
男は再び無言。
そんな男の鈍い反応を知ってか知らずか、彼女はそう言うと男の下に寄り、跪いて指を組んで祈り、許しを乞う。
「どうか……どうか、この迷える魂に、主様へと信仰を捧げる事をお許しください」
窓から射し込む月光が彼女を照らし、真摯に祈るその姿は神聖さすら醸し出す。
ただの部屋が教会の礼拝堂にでもなったかのように錯覚してしまう雰囲気が彼女にはあった。
男の目には、その光景がまるで絵画の一場面のように映っているのに、実際に目の前で行われていると違和感が勝る。
「……おいおい。本当に、どうした? 演技ならもういいぞ?」
「演技ではないのですが……」
困ったような様子の女。居心地が悪くなったのか、男は普段の通りにしてくれと願うも、女は演技などしていないと話した。
実際、彼女が普段の調子のままであれば、修道服姿を見せ、似合うでしょ、と男をからかう様子も見せていたに違いない。
しかし、彼女はあくまでも修道女とはこうあるべきという観念に従ったのか、男が想像するだろう信者の姿に忠実であろうとしていた。
それは、何よりも『お前から縁遠い』と評された姿が実際には似合うのだと彼女は証明したかったから。
彼女は男の口から自身が信じている物/信仰を疑うような言葉を聞きたくはなかったのだ。
かつて、まだ法国にいた頃の純真だった彼女自身が、その神への不敬から信仰を疑われた時のように……
──結果、出来上がった『その姿』は誰がどこから見ても神へと信仰を捧げる敬虔な信徒の姿であったが、男側から見れば、まるで全くの別人。強い違和感を抱かせている。
「……」
女は演技などしていないと言うが、では何なのか。何を目的としているのか理解できない彼女の奇行に男は頭を悩ませている。男は彼女の独特なペースに呑まれ、何をどう反応したらよいのかわからなくなっていた。
困惑がループしている彼の思考では、変心、という言葉がピタリと当て嵌まっていた。
いつまで経っても反応のない男に対して痺れを切らしたかのように、再度問いかけた。
「お許しは頂けないのですか……?」
「……冗談、なんだよな?」
男は未だ困惑し、思考が停止した状態。許しって何の事だ、てか何で俺に言う。そもそも、コイツは本当にクレマンティーヌなんだよな、と自問自答を繰り返す。
「いえ……?」
「……」
主? 信仰? 誰が、誰を。なんで? 今までどこにそんな要素があった。またからかわれてるんだよな、俺はどうしたらいい、と男の思考は坩堝に囚われ、意識はどんどん自己の内界へと潜りかけ──
「主様」
優しげな、しかし、はっきりとした声が内側に向いた男の意識を覚醒させる。
「な、なんだ」
意識の隙間に挿し込まれた呼び掛け。男は驚いた。
「お許しは頂けないのですか?」
「あ? あ、あぁ、やる……」
三度目の問い掛け。それまでと変わらず柔らかな声音ではあったものの、有無を言わせぬ凄みが込められていた。
男は女の真意に未だ迷っていたが、結局訳のわからぬまま許しの言葉を伝えた。
男の位置からは、フードに隠されて彼女の全ての表情を確認することは出来ない。しかし、男の許しを得たことで、修道女の口元はふわりと微笑んでいた。
「感謝いたします。主様が私をここへと導いてくださいました。私の信仰を主様へと捧げます……」
「では……」
彼女は唐突に左手を差し出す。
「?」
その意図の見えない謎の行動を前に、男は困惑しっぱなしだ。
「……」
そして、何を求められているのかわからず、差し出された手を取った。
手は、武芸者とは思えないほどに白く滑らかで、女の体温が低いせいか、ひんやりしていた。
「……」
「……」
無言。
「あの……主様に手を取って頂けて大変嬉しいのですが、そうではありません」
「??」
対して、修道女は困ったかのように諭す。
祈りの姿勢から面を上げ、その表情が顕となる。
タレ目がちな、慈愛を想わせる優しげな目元。明るく澄んだ赤い瞳の視線が男を射抜く。
目が合い、男は電流が流れたかのように硬直した。
「……ご存知ありませんでしたか? 私の故国である法国では信仰の証として、修道女はシンボルであったり、指輪を授けられるのですよ」
「だ、だから指輪を?」
「はい」
ほわり、と微笑んでいる──しかし、その真っ直ぐな意思を放つ柔らかな瞳の圧に男はたじろぐ。
だから、ならシンボルでもいいじゃないか、とは言い出せなかった。
「わ、わかった……」
疑問はある。しかし、何故か拒否できない。
今の彼女の声には魅力の魔法でも掛かっているのか、また、その視線には強制力でもあるのか、調子の狂った男は逆らうことが出来なかった。
幾ばくか迷い、ぎこちなく、男はインベントリから指輪を取り出した。
「ど、どうだ……?」
取り出された赤い宝石が填められた指輪。女は手には取らずに、じっくりと指輪を検分した。
女は無言。
そして、心から喜ばしい、と満面の笑み。
「着けて下さいますか?」
「……」
男は女の言われるがままに、指輪を嵌めようとしてまた悩み、人差し指を選択した。
「……そこではありませんよ」
しかし、それを止める声がかかる。そうなのか、と男は次に中指に嵌めようとした。
「主様」
暗に込められた否定の言葉。
怪訝そうにしていた男の頬がだんだんと引き攣る。
これは、まさか……?
だが、大丈夫なのか?
別に逃げ道塞がれてる訳じゃないよな?
この世界にそんな風習があるとも限らないし。
それに、信仰の証とか言ってただけだし……
それの方が実はヤバイ?
と、悩み、幾ばくか逡巡しながら恐る恐る薬指に指輪を嵌めた。
「お許しを頂き、幸甚に存じます」
──そうして彼女は幸せそうに、指輪の嵌められた手を胸に抱いたのだった。
「……で?」
「はい?」
「何でこんなことを?」
男は溜め息。状況を見つめ直し終わり、ある程度混乱から立ち直った男は女に問う。
「何で、と申されますが……ただ、私は許しが必要と考えたのです」
「うん?」
静かに祈るように手を組み、男の問い掛けへと答える。
男から見れば、やはり違和感満載で、いちいち調子が狂ってしまうような言動。彼女を知らない人が見れば、どこからどう見ても人廉の修道女の姿だ。
「これからも主様のお側でお力になるため、片時も離れないことを誓ったのです」
誓い、そして懺悔した。
「……私はこれまで信仰を疑っていました。もちろん、信仰を捧げるべき神の存在も、その意義さえ……これまで、そんな存在はどこにもいませんでしたし、既に信仰を探求することも止め、そのことすら思考の外にあったのです」
「ですが……私は幸運にも出会うことが出来ました。居場所のなかった私の寄る辺に──そして、そこで主様の愛を賜りたいと願っているのです」
「???」
飛躍した回答。疑問符は尽きない。何故そこで神が出てくるのか、彼女の話す主様が何故自身を指すのか。まして愛とは……? クレマンティーヌとは本当にこんな事を言う奴だっただろうか、と。
彼女は男が理解してない様を感じ取ったのか、やや勢いを落として言い換えた。
男がわかりやすいように、本音から建前へと。
「……要は、主様の信者となり、ナザリック大墳墓の方々から引き離されないようにしたのです。主様や彼の存在はナザリック大墳墓では神と等しく、命令は絶対と聞きます。わたしは主様より許しを得たという意味合いもあるのですよ」
「あ、あー……そういう……」
そうして漸く男は自身を神と見立てることも、主様と呼んだこともナザリックへの配慮であり、建前であると理解した。
確かに、自身の保護下にあると明確化できれば、ナザリックの面々は迂闊に彼女を害することは出来なくなるだろう、と男は感心する。
無論、彼女としてはナザリックへの配慮も建前もどうでもよく、ただ渇愛──彼への執着が大きかったのだが。
「……」
どこか安堵したような男の様子を、彼女は思案げに見る。
そして、楔を打つように告げた。
「この指輪はその許しの証……それに故国ではまた別の意味合いもありますが、それは主様には関係のないこと。それは神ではなく、人の決めたただの慣習なのですから……お気になさることなどありませんよ」
ふわりと微笑み、クレマンティーヌは唇に人差し指を当てるポーズを取った。
それは言外にあなたには関係のないことだが、それ以外の人や指輪の慣習を持つ者にとっては当てはまらないとも仄めかしている。
「……」
男の頬が再び引き攣る。
やはり、と男はその別の意味合いとやらに察しこそついていたが、藪蛇になりそうだったので知らない振りをして何も言わなかった。
ただ、クレマンティーヌの左手薬指に嵌められた指輪の宝石が窓から射し込む月光に照らされて輝く。
男は思った。
女とはなんと怖い生き物か。
ただ理解もしていた。この一連の芝居は、男が女に対して言った、修道服は『一番お前に縁遠い衣装』だという言葉が事の発端であり、男への意趣返しでもあったのだろうと。
「……あぁ……なんか一気に疲れたぞ……そういや、さっき居場所がなかったって言ってたが」
「はい。私には居場所がありませんでした。──ですが、今の私にはありますから」
彼女は変わらず穏やかに答える。
男は未だ彼女の普段とは異なる振る舞いを演技やら芝居と捉えていたが、もう気にするだけ無駄だと諦めていた。
「それが本心で言ってるのかはわからんが……本当に物好きな奴だよ」
「全て本心ですよ」
「そうか…………前に話してた贈り物を、考えてた」
「はい」
「思えば、俺とお前は奇妙な関係だ。これまで色々あったが、何でか旅したり、抱き合ったりもしてる」
「ふふ……そうですね。そうかもしれません」
思えば不思議な縁だった。初めに刃物を向けられ、命を狙われて以来の関係。刃を交えて戯れ、抱き合った。
「あの時、何で、俺はお前をそのまま見捨てなかったんだろうなって考えた。お前はむしろ厄介者で、そのまま切り捨てるなんて簡単に決断出来たはずなのに」
「……後悔しているのですか?」
「そうじゃねぇ」
女が絞り出した言葉を男は否定した。
思い出すのは女の昏く澱んだ瞳と笑み。
人を憎み、人を恨み、人を殺すことに恋して、愛していた狂人は、自らの経験した地獄を周囲にも振り撒いていた。
「……多分だけどよ。あの時、俺は心底狂いかけてる奴を見て、ほっとけなかったんだろう」
男が思ったのは、何の理由もなく、何の過去や経験もなく悪人と呼ばれるようになった人などいないのではないか、ということ。
要は、悪人とは人間界における社会規範から逸脱したタブーを犯した者。
人間は成長とともに社会規範を学習し、他人と協力関係を結んで、社会を形成してゆく。次第にその規範に従うようになるが、何らかの理由で人を信じられない者は社会からあぶれ、規範に従うという意識も薄くなる。
もしも、この世に産まれいでた瞬間から悪と呼ばれるタブーを躊躇いなく成せる者がいるとしたら、それは心が人のモノではないか、どこか壊れているからではないかと男は思う。
そして、男はクレマンティーヌと話す内に、彼女がコントロール出来ない狂気を仮面として区別し、冷静な自分を保っていることに気付いた。利口な女だと思う。
だから、周囲に地獄を振り撒き精神のバランスを取りながらも、男にはまだ彼女が人の心を持っているように見えていた。
「苦しくて、苦しくて、涙も枯れて。全てが憎くなって自暴自棄にぶち壊してやりたくなって。でも、心はまだどっかで何かを期待して、求め続けてて悲鳴をあげてる」
「……」
「そういう奴を見て、手元に置いておきたくなったのかもな。それ以上そっちに行くな、こっちに来いって……いや、そりゃ美化しすぎか」
悪人が罪悪感を感じなかった訳ではない。
何故なら規範を知り、タブーを犯している自覚自体はあったから。
しかし、どうしようもないのだ。
自制のできない心の動きは止められない。だから、タブーを繰り返してどこまでも堕ちてゆく。
そして、その内気付くのだ。
罪悪感が、自らが悪であり、クズであることを強迫してくる。気がつけば、いつのまにか罪悪感など消え失せており、もう元には戻れないという現実を突き付けていることを。
だから、悪人は知っている。
しばしば善人は悪人すら救おうとするが、善人には悪人を救うことは出来ないことを。善人の思考では、地獄を知らない者では本当の意味で悪人を理解することなど出来ないだろうから。
──だから、悪人は善人を羨み、憎み、嘲笑する。世の不条理に侵されず、社会に適応出来た幸運を。自らが歩めなかった正道を歩めることの幸運を呪う。
「……あー、脱線してきた。で、だな、そういう奴らが何よりも求めてんのって理解者なんじゃねぇのかなって思うんだ」
「……っ」
彼女が何よりも求めているモノ。
悪人にとって、善人は理解者足り得ない。なぜなら、心を壊す原因となった地獄を知らないから。経験ではなく、想像で理解を補うことに何の意味があるというのか。
だから求めているのは、同じ苦しみを知り、同じ思想を抱く同胞。
しかし、現世の地獄の住人たる悪人の世界とは、自らと同じようなタブーを犯したクズ共の掃き溜めには違いない。
そんなクズ共を理解者にして、何の利がある?
あるわけがないのだ。
故の孤独。
「辛い、苦しい、誰でもいい自分を見つけて欲しい。救いを求める心に気づいて欲しいって心は叫んでんのに、現実にはもう諦めてて、自身のとる言動は他人を否定している──自分を認めてくれる人が誰もいないってのは悲しいもんだ」
つまりは、自らが経験した以上の地獄を知りながらも正道から外れていない男の生き方は彼女には眩しく映り、しかし、今後、二人と出会えないはずの稀有な存在と言えた。
彼女が求める理解者像に最も当てはまり、最も自身から離れた道を歩むことを選んだ人。
「だからよ、あー……知っておけ。お前は一人じゃないんだ。もし、お前がまた道を踏み外しそうになったら俺が殴って止めてやる」
そんな人物が自身に手を差し伸べている──
それこそが、地獄に垂れ下がる一本の蜘蛛の糸。
「…………」
無表情。
しかし、流れ出した涙だけが彼女の感情を表していた。
「おいおい……泣くこたないだろ」
「…………あー、くせぇこと言ったな。そんで、まぁ贈り物なんだが……もう指輪やったし、いらねーか」
「いる……」
「へぇ、へぇ……手、出してみろ」
男が差し出した手の平には、燃やす媒体もないのに、火が灯っている。
彼女がいつか見た火。
「呪術の火ってんだ。俺の火を分けてやる。この火が意味するのは繋がりだと言われている──これならそうそう壊れたりしねーだろ」
手は不思議なことに燃えておらず、火傷を負うこともない。
女は少し強張った様子で両の手で掬う形を作り、火を持った男と、女の手の平が上下に合わさった。
(あたたかい──)
「いいか? これだけは絶対に守れ。火を畏れろ。軽く扱うな」
「火を畏れないやつは身を滅ぼすことになる」
「俺にこの火を託した師の故郷は火を軽く扱ったために滅んだ」
「お前はそうなってくれるなよ」
クレマンティーヌは知っていた。
男の師の母が火の扱いを軽視したがために、自らが作り出した混沌に呑まれ、バケモノを生む苗床となったという戒めを。
そして、男の故郷では呪術を扱う者にとって火は特別なものであり、大抵は一生を共にし、大事に育て続ける。
決して、軽い扱いをしてよいものではないのだ。
だから、火はまさに術者の半身とも言え、分かち合ったもの同士は時に血よりも濃い、火の血縁となると言われているのだから。
そう──縁であり、繋がり。
「……」
今、彼女の手の中にある火には男の過去が詰まっている。
師から託されてから、長い時を共に過ごしてきた。
辛い時も、勿論、友人達と笑いあった日々も。
だから、クレマンティーヌは感謝すると共に恐ろしくなった。
掌には今もユラユラと揺らめく火。
いざ手にしてみれば、私が本当に手にして良いものなのかという不安。
男が師から火を託されたように、今は彼女自身が男から火を託されている。
火は重さなど全く感じさせないが、重い。彼らと共に火は成長してきたのだから。
一方で、そんな想いの詰まった火を託すことを彼から許されていることが心から嬉しかった。男だけは女を認めてくれていることがわかったから。
故に彼女はもう間違うことはないだろう。
彼女に男との確かな縁を結びつける火は、正に犯し難い聖なるものと言えたから。
聖なるものを粗末に扱うことはない。
再び女は手の平に生まれた火を見つめた。
火からは不思議なことに身を焼くような熱が感じられなかった。しかし、心の内にジワリと沁みるような温かさを確かに感じている。
今の彼女は持たざる者ではない。
ずっと欲していた。今の彼女には精神の支えとなる、一本の柱がある。それこそが何ものにも替え難い、彼女の至宝。
「こんな……私はあなたにどうやって報いたらいいの……?」
「そんな大層なもんじゃないし、俺に何かを返す必要はない。だが、そうだな──これからお前が歩むのは第二の人生だとして、そこで世話になる人たちに返してやってくれればいいさ」
「うん──」
□
「あぁっ、主様……主様……」
「すき……愛しています……」
甘い、甘い声音。
男の耳朶に囁きかけ、脳髄を溶かす。
「シスターは性行しないんじゃないんですかねぇ……」
「これは大切な、神との交わりの時間ですので……ぁ、っ」
深く頭部を覆う黒と白のフードの奥からは、チラチラと金糸の髪と、宝石のように赤い瞳が覗く。
白魚のような手が男の温もりを求め、掻き抱いた。
全くの別人のようになったクレマンティーヌ。彼女はスカートをたくし上げて男に跨り、心の赴くまま、恥じらいながらも淫らに繋がり合った腰を揺らしている。
そんな……奇妙な興奮と共に、生み出される快楽を享受していた男は、ふと、自身が無知な信徒を騙し、貪っているカルト宗教の悪徳教祖になった様を想像して、やはり少し微妙な気分になった。
──しばらく会話した後、男と交わることを彼女は望んだ。
それを彼女は自身の生に一区切りをつけるための儀式と捉えていたからだ。
法国には着衣式、というものがある。
神に仕える神官や、修道女となるためには、修練院で数年の修行を積まなければならず、その修練院で勉学や祈り、修行を積んだ後、修道服やウェディングドレスを着て、貞潔、清貧、従順を誓い、ようやく神に仕えることを許されるのだ。
そういった経緯から、法国では着衣式が神との結婚式とも呼ばれており、下賜される聖別された指輪が神への誓いの証にもなっていた。
また、一方で法国の文化が民衆にも一般化しており、指輪の有無が結婚した男女双方の誓いの証となり、既婚者と未婚を区別するための印になっていたりもするが……
彼女の望んだ儀式も独自色が強いものの、神に仕えるための契りであり、身も心も彼女の信じる神に捧げるという意思表示であったことを男は知らない。
そうした慣習がある法国を祖国としている彼女にとって、与えられた修道服とは信仰の象徴でもあり、逃れられぬ身を縛る鎖とも言えただろう。
だから以前までの彼女であれば、信仰の象徴であるそれを忌み嫌い、自由を阻害されることを酷く嫌悪していたのだ。
しかし、今では身が引き締まる思いを感じ、体全体で確かな信仰/愛に身を包まれ、自身が神の下僕であるという実感すら沸き、興奮を覚えている。
今の彼女にとって、男から贈られた修道服や指輪は誓約に等しく、数多の殺人を犯してきた自身を戒める枷。
そして、信仰を身に纏うというそれは、万の悪意から身を、精神を守るという服の枠に収まらない鎧でもある。
そんな彼女の意識下にあるもの……
今の彼女は元法国の特殊部隊員や、冒険者証をハンティングトロフィーにする犯罪者でもない……主へと従順な信仰/愛を捧げる一人の女であり、信者。
女にとって、実は修道女という仮面は相性が良すぎたのかもしれない。
彼女自身も男/神に対して、本来であればこのように振る舞うのが自然なことだと自覚していたから。
なぜなら、『修道服を着て、神に不実なことはしてはならない』という教えを幼少期から洗脳のように刷り込まれ続けてきたのだから。法国を抜けた今もその観念は無意識に染み付いて拭うことはできない。
しかし……法国で信仰される神に対してならば忌避感が勝り、修道服を着ることすら苦痛なだけなのだろうが、彼女自身が認めた神ならば別。
その教えは修道女としての振る舞いに一切の違和感を感じさせなかった。
──だからこそ、女は普段の自由を好む享楽的な自分と、自身が認めた神に対して敬虔な信徒であろうとする自分が混じり合う不思議な感覚を覚える。
「ふ、ふふっ」
全てのパズルのピースが埋まり、一枚の絵が完成するかのように。
そうして生まれ出でた新しい自分。
そして、雛鳥が卵の殻を破り、世界を初めて目に映すように。
または、自らの前に聳え立つ決して越えられぬと諦めていた壁──いざ手を引かれて回り込み覗いてみれば、そこには自分の知らなかった世界が、心震わせる景色があったように。
一歩踏み出せば、世界は未知の輝きで満ちていた。
そんな感覚が新鮮で楽しい。
そして、そんな感覚をもたらした恩人は、クレマンティーヌの目前にいる。
耐え難い、心の震え。
歓喜。
愛しさをこらえきれず、抱き締めた。
男は筋骨隆々の偉丈夫ではあるのだが、彼女からしたら快楽に眉を顰める姿も可愛らしく、普段から仏頂面な男がぎこちない笑みを浮かべれば胸が締め付けられるように苦しくなる。男の手が彼女の臀部に触れれば、さらに愛しさが生まれる。
そうして、男と混じり合う度に、快楽の波が体に走り、多幸感に満たされ──体が、心が、歓びで跳ね遊ぶ。
麻薬のように、体が、心が徐々に侵されるように、自分が塗替えられてゆくのを確かに感じていた。
快楽の波が走るたびに徐々に自身の色が変わってゆくのを想像するのは、それまでの自身が消えてゆく危機感を掻き立て背筋をゾクゾクさせた。
だが、彼女にあるのは恐怖などではなく、それを嬉しく思うことのできる余裕。
ずっと嫌悪していた。誰からも求められることのない、愛されない自分など、どうしようもなく狂った自分など今に露と消えてしまえ。
今、ここで私は生まれ変わる、と。
「んっ……」
腰を持ち上げては男のイチモツをキツく愛撫し、腰を落としては身体が痺れ、脳髄が溶けてしまうような快楽の波紋を打つ。
ハラには隙間なく埋める、硬く熱い芯が一本。
僅かに膨らむハラを撫で、キュウ、と愛しげに剛直を精一杯抱き締めた。
ただ触れ合う肌から感じる熱で、ドロドロに煮詰まってゆく愛情の、なんと心地良いことか。
快楽に沈溺していると見えてくるもの──精神の奥底に積み重なってゆく想いとは。
執着──彼がいなかったら、私は今の世界に価値を見出だせるだろうか?
──いや、ない。
愛執──彼がいなかったら、今の私に生きている意味はあるのだろうか?
──あるわけがない。
妄執──彼は神の如き力の持ち主で、メシアとして世を救済する存在なのではないか?
──そうに違いない。
阿頼耶識、心とは蔵である。蔵に何を納めて来たのかにより、心の働きは、行動は左右されるものだ。
果たして、彼女は渇望した。
知ってしまった愛という名の欲望/男への執着。
欲しい、もっと欲しい、と。
胸に灯った火へとくべる薪/愛が欲しい。
もっと、あなたの愛が欲しい。
そしたら、私は誰よりも強く在れる気がする。
私はどんな敵にも立ち向かうことが出来て、どんな万難に対しても盾として、矛として立ち塞がることが出来ると思う。
あなたさえいれば……と。
──その渇望は身を滅ぼしかねない毒であり、強大な力を与える魔法の薬でもある。
「あ、ぅっ」
グッ、と身を小さく屈め震わせる。余韻に残るのは彼女の喘ぐ息遣い。
信者の鎧を纏い、自身の奥深くから今も滾々と湧き上がる愛情に、欲望に従順であるために。彼女には自身の全てを男に賭ける覚悟ができていた。
──神に仕える正装で、神に奉仕する。
言葉や姿こそ敬虔な信徒そのものを示すが、本来神聖なはずの修道服を互いの欲で塗らし、彼女自身の性をもって報いている。
実態としては神聖さとは真逆。
その有り様は自身の願望のために悪魔と契る魔女の姿に似ていたかもしれない。
部屋に籠もる熱量は静かに上昇してゆく。
焦れるように揺れる腰つきと、ジリジリと性感を炙るような快感を生む股ぐら。
服同士が掠れる音と互いの息遣いがやけに耳に残っていた。
「ぁ……」
女が瞳を閉じ、何度目なのか肩を小さく震わせる。
静謐であり、窓から射し込む月光がどこか神聖さを感じさせる。
荒々しさなど欠片もない。
発汗し肌に張り付く服に、房となった金糸のような髪。甘い吐息。隠せぬ背徳的な雰囲気。
女にとっては、この世は全てがこの場で完結している。
ここには身も心も溶けてしまいそうな幸福しかない。
敵などいない。
精神を乱す悪魔など存在しない。
今、世界の中心はここなのだと女は確信していた。
「ん……」
啄むような口づけ。
行為で疲労した女は男の胸に顔を埋め、腕を伸ばし背で柔らかく交差させた。
ふと、目線が交差する。愛する男の瞳を覗き込めば、惹きつけられて目が離せなくなった。
黒い炎の円環の宿る瞳。
その炎は一時として、同じ形をしていない。
ずっと見ていると──だんだんと視界に映る顔の輪郭がボヤけ──何処までも深く、深く続く闇の深淵に吸い込まれそうになる。
ついには思考までもが鈍くなってゆき、夜の瞳だけが視野に広がってゆく。
「…………」
彼女自身の息遣いだけがやけに大きく聞こえた。
瞳の奥には世界がある。
もっと、もっと。
男を知りたい。
瞳の深く、深くまで覗きたいという願望の代価に──深淵の奥で滲むように燃える黒い炎の円環に精神が呑まれ、堕ちてゆく。
意識に靄がかり、息が苦しくなった。
それでも時を忘れて魅入ってしまえば……霞む意識の中……まるで、闇の空に黒い太陽が浮かぶのを幻視してしまう。
──そうして、そのまま彼女の意識は幻覚の世界へと呑まれてゆくのだ。
──その光景は夢か現か
何処までも広がる荒野
そこは赤黒い、闇の世界
ソラには
黒い太陽が
荒野にはソレを見上げる人の影
黒い太陽を仰ぐ
その姿は祈りの姿にも似ている
彼らを苛むのは、原罪の苦痛
それは人には理解しきれない神秘
潜在下に誰しもが持つ罪の集合意識
痩せ細った人影は黒い太陽を仰ぐ
体を鎖で縛られ、岩を背負わされた苦しみを抱え
黒い太陽は死と再生の象徴
完成された円環
憧れ、羨み、救いを求めて、手を伸ばし
涙を零す
苦しい……苦しい……と
原罪の枷が
生命の矛盾の負荷が
壊してまた作る、破壊と再生の限界が
生きる、ということの苦痛が
気がつけば黒い太陽を見上げる人影は増えていた
皆、涙している
ひとり、またひとり増え……
空に座する黒い太陽を仰ぐ
……
「……」
「おい?」
まるで人形のように表情を失くし、動かなくなってしまった彼女に焦り、男はたまらず声をかけ何度も肩を揺すった。
「………………ぁ?」
「お前、大丈夫か?」
「…………大丈夫……大丈夫、ですよ。ちょっと気をやってしまっただけです」
しばらくして女が表情を戻し、正気に戻った。
頭を振り、ボヤけた思考を無理矢理に元に戻した。
未だ脳裏にある、あの光景。
もしかしたら戻ってこれなかったかもしれないことを思い、女の心臓が嫌に激しく脈打つ。
「ホントかよ……明らかにヤバかったぞ……」
男は微妙に萎えかけていた。男が意図しないにもかかわらず、魂が抜けたような状態に陥ったからだ。
「……」
早鐘を打つような心臓を宥めるように息をついた彼女が回想するのは、先程の妙に生々しい幻覚。
瞳に意識が吸い込まれたかのように、現実感のある夢を視たなど言ったら、男は理解しただろうか。
もし、男に話していればそれを白昼夢のような出来事だと驚き、表現したかもしれない。
ただ女は白昼夢を知らず、神秘を内包した『未来』の暗示だと思った。
男こそが黒い太陽。太陽を見上げるのは信徒であり民。思い通りにならない現世に蔓延る苦しみが、身を縛る鎖や重しとなっている岩なのだと直感的に悟った。
だが、もしも──
夢や幻覚が欲望や心理の顕れにすぎないのだとしたら。その白昼夢の根本にあるものは、彼女自身が望んでいる世界だということ。
神を神たらしめる信徒の存在があり。
世界を照らす黒い太陽がある。
苦しみを抱えた民が救いを求めて黒い太陽を崇め、奉る世界。
それは──なんと心躍る理想の現実だろうか。
そうして自身の願望であり、暗示に気付きを得た彼女は心震わせた。
色濃く疲弊した女は男へと体を預け、背中へと腕を回す。
「はぁ……」
嘆息。
帰るべき場所に帰ってきたかのような安心感。それは黒い太陽を見上げていた時とは、また異なる心の働き。肌から伝わる熱はそれよりも大きな安堵をもたらしていた。
そうして彼女は思考を巡らせる。
どうしたらあの世界を再現することができるか。
そのためには『何が』必要なのかを──
彼女の儀式は続く。
まだまだ、夜は始まったばかりだった。