16.ユリ編※3
「……」
ユリは主の休む部屋の扉の前で立ち竦んでいた。
彼女は見慣れない服装のクレマンティーヌが御方の部屋に入る所を見ていて、そして良くないこととは思いながらも中の様子を伺おうとして、愕然とした。
聞こえたのは、部屋から漏れ出る女の悩まし気な息遣い。
ギシリと音をたてているベッド。
部屋からはほんの微かな物音しかしなかったが、ユリの聴覚はそれを確かに聞き取った。
そして、扉から感じる他者の進入を阻む、異様な雰囲気。
男と女。それも眷属ともなれば、ユリ自身そういった関係も有り得るかもしれない、と想像はしていたものの、実際にその場面に遭遇してしまうとやはりショックは隠せなかった。
加えて、ユリは一度、行為を拒否されているのに、あの女性だけは許されているという嫉妬やモヤモヤ感も大きい。
(……御方様と彼女は、この中で……)
そう思うと、ユリは悲しくなり、すぐにでもその場を離れないと頭がおかしくなってしまいそうだった。
翌日。
ユリはクレマンティーヌが幸福の極みといった様子で男にじゃれついているのを目撃した。
その際、クレマンティーヌとふと目が合い、彼女はユリから発せられるだろう煩い小言に身構えていたが……
ユリはサッと、視線を外し小言を言うこともなく足早に立ち去ってゆくのだった。
□
「はぁ……」
溜息一つ。
ユリの周囲には、館を引き払うことになったことで、ナザリックへと移す荷物が山のように積み重なっている。
荷造りで手を動かしながらも、ユリの脳裏からは、御方と彼女のスキンシップを取る姿が離れなかった。
あそこに私は入っていけない、彼女は御方様が選んだ眷属なのだ、という言葉を何度も自身に言い聞かせた。
そう何度も何度も言い聞かせても、心に積み重なるのはモヤモヤとした沈鬱な感情。
御方さえ翻弄する彼女の奔放な性格への苛立ちと嫉妬。
そして、御方がそんな彼女を許していることへの寂しさだろうか。
ユリは気がついてはいなかったが、それは彼女自身が御方の隣に侍り、関心を独占したいという無意識の願望でもあった。
しかし、彼女には至高の御方に仕えるという立場もあるし、側に侍るというよりは傅くことを疎かにするつもりもない。
つまりは叶うべくもない望み。
「はぁ……」
今日何度目かの溜息。
心に、体に重くのしかかるのは憂鬱。
天を仰げば、空は青いはずなのに、気分が重いせいかどこか灰色にさえ見えた。
「ユリ、さん……これは、どこに運べば、いいですか……?」
「あっ、え、えぇ……そうね、それは──」
ユリに声をかけたのはツアレ。先日、ユリの上司であるセバスが連れてきた女性だった。
彼女が館へと連れてこられた時、体中に殴打の痕や裂傷が走り、顔も原形を留めていないほどにボロボロだったという。
それをセバスがアインズから与えられた魔法薬で治し、甲斐甲斐しく世話をした。
結果、彼女は快復し、現在は館にてメイド見習いとして働いていたのだった。
また、仮の場とはいえ、セバスが外部から彼女をナザリックの領域に無断で招き入れたことに対してひと悶着あったが……
それはアインズと御方の裁定において、今後、彼女はナザリックで働くことに決まっており、ユリ自身は彼女に思うところはない。
そして、ユリ自身、カルマが善に偏っているためか、セバスが人助けしたことについては何ら疑問を抱いてはいなかった。
ただ、報告を怠ったことや館に無断で人間を入れたことについては、セバスに一言物申したいという気持ちがなくはなかったのだが……
それはセバスへの職務上の反感であり、ツアレは関係なく、むしろ、彼女を新たなメイドの後輩として歓迎したい気持ちすらユリにはあった。
「ユリさんは……御方様が、本当に、大好き、なんですね」
ドキリとした。
「えっ?」
「どうし、たんですか……?」
ツアレは不思議そうに問い返した。
「……どうしてわかったのですか?」
ツアレは目を何度か瞬かせ、ぎこちない微笑みを湛えて答えた。
「わかり、ますよ。さっきから、溜息、ばかりで……それに、私も、セバス様が、大好きだから」
そう話すツアレは儚げで、感情をポツリ、ポツリと語った。
「好きな人って、いつも、知らない内に、目で追って、しまいます、よね……?」
セバスの姿勢のよい姿が好き。
私にかけてくれる優しい声が好き。
厳しい顔で朗らかに笑う時なんて、胸に穴が空いて風が吹き込んでるみたいに苦しくなって……
そう語る彼女の表情は乙女であった。
「あの方のために、何かしてあげたい、あの方のためなら、自分の命なんて、惜しくない……」
その言葉には確かな覚悟が感じられて。
「そう、思えます」
彼女は唇に指を当て、思い出す。
「それに、幸せなキスは初めてだったんです……」
自然な、柔らかい微笑みを浮かべた。
それを見たユリは何故だか負けた気持ちになった。
そう思った理由は判然としなかったが、彼女はユリが持っていない何かを持っている気がして……
「ユリさんも、そう、なんですよね?」
彼女の疑いのない視線がユリには、突き刺さるように感じられた。
「わたし、セバス様と離れたく、ないです」
「セバス様と離れる、くらいなら、死にます」
「もしも、魔法でセバス様を、忘れてしまうなら、やっぱり、死を選びます」
「あの時、助けて、貰った時から、私の命は、セバス様のもの、なんです」
そう締め括った彼女は、自身の命の使いどころを一点に定めていた。
ユリは……私も彼女と同じ覚悟を持っているだろうか、と自問する。
いざとなれば御方の盾となるのは確定だ。自身でも、その判断を間違う余地はないと確信している。
しかし……それは、果たしてそのように創造されたからなのか、それとも自身の気持ちで行動を起こすのか。何度自身に問いかけても、答えは出なかった。
「ごめん、なさい……こんなこと、突然……困ります、よね」
彼女は饒舌に話したことを恥じるかのように、顔を俯かせた。
「ふふ……いいえ。ありがとう。少しだけ勇気を貰えたわ」
不思議そうな顔をしたツアレ。
ユリは勇気を持って言葉を紡ぎ出す。
「私も……御方様が大好きよ」
「さ、荷造りの作業を終わらせましょうか」
彼女の臆面もなくセバスが好きだと言える素直さが羨ましかった。
彼女も私の先を歩んでいる、と何となく感じる寂しさと共に、ユリは自身の気持ちを再度確かめ、活を入れた。
私もそうなれたら、と。
□
あいも変わらず、クレマンティーヌは男を困らせた。
屋敷に着いてからというもの、クレマンティーヌは以前にも増して自由気ままの度合いが高まっていた。時間があれば、周囲の目も気にせずイチャイチャ。人前で腕を組み、接吻をせがみ、自由な猫のように甘える。
既に、彼女がやりすぎて拳骨を落とされる、という流れをユリは何度も見ているが、それでも彼女は怒られるか怒られないかのラインを確かめ、逆にラインを押し上げるかのように懲りずに繰り返していた。
流石にこれにはセバスやソリュシャンも怒りを顕にすると思われたが、不思議なことに二人は何も言うことはなかった。
実際にユリは彼女が男に蛇のように絡みつき、邪な笑みをこちらに向けるのを何度も見ているのに。
不思議に思い、ユリはプレアデスの妹であるソリュシャンに尋ね確かめてみれば、彼女はそんな場面は見ていないという──どうやらクレマンティーヌは少なくとも二人の前で御方にベタベタするような行為はしていなかったらしい。
つまりユリはクレマンティーヌに舐められている上に、御方との距離感が近いことを見せつけられる形でおちょくられていたのだと気づく。
──男に最も心許されているのは私だ、と。
その事に気づいたユリは苛立ちや不愉快さに頬を引き攣らせるのだった。
ただ……一方のクレマンティーヌの思考ではただ色ボケしたという訳ではなく、ユリをナザリックから送られた監視役兼有事の際の護衛として見ており、男と過剰に接触を持つことで間に入り込まれる隙を無くしたいという狙いも当初はあったのだが……
クレマンティーヌにとって警戒すべき存在であるユリに、男との親密さを見せつけることに彼女は優越感を覚えてしまっていた。結局はユリの気づきは正しかったということである。
「御方様、体調がすぐれませんか……?」
「大丈夫だ、問題ない……」
その日、明らかに男の声には覇気がなかった。
流石の男も最近のクレマンティーヌの浮かれた様子には辟易しているようで、精神的な疲れが見え隠れしていた。
おはようからおやすみまで一緒におりニャンニャン、夜も奉仕の名目で絞り取られているのであれば、さもありなん。
一人になりたいと断ってもいいのだが、その場合、機嫌が悪くなる。面倒くさいったらない。
そんな死人のようにグッタリとソファに沈む男をユリは心配気に伺い、首からチラリと見えたのは複数のキスマーク。
一方、特に男の様子を気にかけるでもなく、今もしなだれがかかる女──その自分本位な行動に、フツフツと沸き立って来るのは怒り。ユリの額に青筋が浮かび、顳顬が痙攣する。目尻が吊り上がり、クレマンティーヌに向ける視線が一気に鋭くなった。
「……っ」
ぶちっ、とユリの脳裏で何かが切れた音が鳴り、彼女は我慢の限界に達したことを悟った。
ユリは自身に纏わることならば何であろうと耐えられる忍耐力を持っていた。クレマンティーヌが御方の寵愛を受けていることも不満や寂しさ、諸々の感情はあれど、それは御方の意思であり、自分がどうこう言える訳ではない。耐えられた。
しかし、御方の意志の介在しないことであるならば別。あまりにも彼女の御方への接し方は気安すぎる。
彼女への不満──態度、気づかい、心構え。
全てが『従僕』として相応しくなかった。
従僕は、時に主の間違いを指摘、讒言し、再考を求めなくてはならない。
下される悪しき主命も果たさなければならないが、盲目的に従うのは忠義心ではない。
主に害を与え、堕落させる従僕など、従僕として最悪である。
主に仕える眷属とは、従僕とは身の回りの世話をするだけが仕事なのではない。そんな存在でなくてはならないのだという矜持がユリにはある。
だから、ユリは彼女の言動を戒め、正さなければならなかった。
ユリは御方が不在としている隙にクレマンティーヌを呼び出して叱責した。
「いい加減にしなさいっ! あなたの行動は目に余ります! まして御方様を慮ることもしなければ、御身体に傷をつけることを良しとするなどっ……眷属として、従僕としても許されないことです!」
「……ふ〜ん、なるほどね……」
しかし──
「あんた、やっぱり、あの人のこと好きなんだ?」
「は、はぁ!? ぐ……おっ……お慕いして何が悪いのですか! というか、話をすり替えないでちょうだい!」
熱くなるユリに冷めた様子のクレマンティーヌ。彼女は初め、ユリが何を怒っているのか理解出来なかった。
彼女としては男の眷属である自覚も、男の従僕になったつもりも無い。ただあるのは、男が独りにならないよう側にいたいということと、どこまでも旅について行くという意思。
もしも、男が従僕としての役割を望んでいれば彼女も表面上はそれに従ったかもしれない。しかし、彼女は男が自身に従僕としての役割を望んでいないことを察していたから。
だから、彼女はユリが自分に嫉妬しており、従僕としての役割を自身にも押し付け、管理下に置こうとする邪魔者に見えていた。
互いの異なる立場、男に求め、求められる役割の違い、それぞれの思想。彼女達のそれは互いに噛み合うことがなく、デミウルゴスやセバスのように相性が悪かった。
「……認めるんだー、駄目なんだよー? 人の男に手出ししたらさぁ」
そんなユリを、クレマンティーヌは警戒する。クレマンティーヌ自身も前々から察してはいたが、今回、ユリは男のことを慕っていると自ら認めたのだ。
だから、彼女はまず見極めようとする──果たして、彼女が自身から男を奪う存在であるかどうかを。
「だ、誰が手を出すなどっ! それに御方様はあなたの男などではありませんっ!」
その言葉に嘲るように笑みを深くする。
クレマンティーヌにとって、ユリのような真面目で言葉遊びにも慣れていない相手を挑発するのは造作もないことだった。
「あれぇ、出さないの? 良かった〜。ずっと媚びるような雌の顔してたから、てっきりさぁ……私もいい加減目障りだったんだよねぇ……!」
「……っ」
甘く緩い口調は、敵愾心を含ませたものに豹変する。
発している空気は刺々しく、いつ敵対行動に移っても可笑しくはないとユリは感じた。
「ようやく本性を顕にしたという訳ですか……! 御方様を煩わせてばかりのあなたを私だけは赦すわけにはいかないの……!」
その空気感に一瞬、気圧されたものの、ユリは自らを鼓舞する。
おいたわしや、御方様──ユリの脳裏にあるのは疲弊し、ぐったりとソファに沈む幾分か美化された男の姿。
許せない……!
それを彼女が引き起こした。ユリの中では既に、クレマンティーヌは敵に近い存在になりかけていた。
「んー? だから、何だって言うのかなー?」
「私にはナザリックの従僕として御方様の生活を公私に渡り支えるという役目があるのです! いくら御方様が何も仰らないとはいえ、ナザリックの秩序を乱しかねないあなたを諌めるくらいの力と権限はありますっ! あなたは御方様に気安く接しすぎている!」
ユリは今まで何度となく、彼女が毒蛇のように御方に絡みつく様を、まるでそこらにいる売女のように馴れ馴れしく接する様を見せられていたから。いい加減我慢の限界に来ていた。
やはり、至高なる御方に彼女の存在は相応しくない。しかし、その念もまた自分本位な感情だとわかっているからこそ、ユリは悩んでいた。
彼女の自分本位な行動を一体どうするべきなのか。
「あー? 何が言いたいか、全く、わかんないねー。要は私が邪魔なんでしょ? あんたの大好きな御方様とイチャイチャしてるから。はっ……人外のバケモノが一丁前に嫉妬とかウケるー」
女はそう嗤った。
「あなたは……!」
「──でも、残念だよねぇ。あんたに、いいもの見せたげよっか」
「……っ」
「そっ、指輪。あの人が私にって──この意味、わかるよねー?」
彼女が取り出したのは指輪。
ユグドラシルの世界であれば、様々な効果を発揮する装備品でしかなかったが、至高の御方方の話すリアルという世界では男性が女性に贈る特別な物だと聞いていた。
現に、彼女の上司の一人であるアルベドなどはアインズから指輪を賜り、狂喜乱舞したとも。
そして、この世界ではリアルでの慣習に似ており、男性から特に親密な女性に贈られる品であることをユリは知っている。
基本的に男性優位なこの世界において、女性が指輪を贈られ、女性がそれの着用を受け入れた場合、『忠誠』や『従順』、『貞節』を誓ったという意味になることも。
それは、つまり──御方は彼女を伴侶として求め、彼女はそれを受け入れたということではないのかとユリは勘違う。
「……」
「私さ、愛されちゃってるんだよねー。だからさー……邪魔しないでくれるー?」
そう話す女の口元は三日月のように歪んでいる。
クレマンティーヌが指輪を見せた意図とは──ユリが持つ好意を確かめ、可能ならばその心を圧し折ることにある。
ユリの内側で、グルグルと様々な感情が巻き起こり、足場が崩れるような錯覚さえ起こった。
「あ、心配とかいらないよ。私は旅につき物の長距離移動も野営も慣れてるからさ、どこにでもついていけるし。あんたの大好きな御方様は私が責任持って支えっから。安心して、どっか行っていいよ」
「……」
ユリは応えられなかった。
よくわからなくなってしまったからだ。まるで、誰も問題視していないのに自分だけが癇癪をおこして騒いでいたような妙な気分だ。
御方様は彼女の傍迷惑な行動を最初から受け入れていた……?
御方様は本当に彼女を選んだのか……?
思考がループしてしまう。何故、どうして、彼女のような存在が受け入れられている、御方様は何故彼女に指輪を贈られたのか。私が間違っているのだろうか。
ただし、一つだけはっきりしていることがある。
それは、ここ最近の彼女が浮かれきっていることが明白で、御方と呼ばれる男へと気安く接することで、ナザリックの秩序を乱しかねない存在であるということ。
ユリは絶望の中、歯を食いしばる。
御方様はナザリックの秩序が乱されるような、そのようなことを本当に望んでいるだろうか。
そんなこと、絶対にあり得ない。
だから──従者として、下僕として、主への忠義のために彼女を野放しにしておくことだけはできないのだ……
ふと、守護者統括の言葉が蘇る。
『あなたたち、元とはいえ何処の馬の骨ともしれない人間に御方様を寝取られて悔しくはないの?』
『こともあろうに、あの女は御方様のこ、恋人を自称しているらしいわ』
『このままでは、御方様はいずれあの女と再び旅立たれてしまうことでしょう……』
守護者統括は全てを予測していた。
あの言葉は予言だったのだ。
ユリは恐怖した。守護者統括の言葉の意味が分かり、いよいよ絶望の未来が現実味を帯びてきてしまったから。
ここが分水嶺──だからこそ、ユリは踏ん張らなければならない。
ここで引けば御方様は彼女に奪われっぱなしになるかもしれない、果てに御方様は再び旅に出てナザリックに戻らないかもしれない。
そんなことになってしまえば自身だけでなく、偉大なる主であるアインズやナザリックの仲間達も深い悲しみに囚われることになるだろう。
そのことを思えば、最早、自身の恋心だとか些末なことを言っている場合ではなかった。
「……知ってるー? あの人って実は可愛いとこもあってね。こないだ愛し合った時なんか──」
「っ!」
とどめとばかり、クレマンティーヌはユリの恋心にトドメの負荷を与えようとして──
その続きが聞こえる前にユリは殴りかかっていた。
これ以上、この女狐に口を開かせてはいけない。コイツが口にする言葉は悪意であり、毒だと思ったから。
クレマンティーヌはユリの唐突な先制をなんとか回避した。
──しかし、頬には一本の傷跡。
「……あー?」
頬に痛みを感じ、手で触れる。触れた指には血が着いていた。
「……テメー、何してんのかわかってんだろうなぁ……!?」
「……それ以上、その下劣な言葉で御方様を貶めるのをやめなさい。あなたの言葉は全て自分に都合のよいものばかり」
「はっ、御方様、御方様……笑わせんな……テメーらこそバケモノはバケモノらしくしてろや。真面目ぶって、人のマネしてんじゃねー。バケモノが従者だの、下僕だの、ごっこ遊びかよ。だからあの人は孤独なんだ」
「オマエ……!! 御方様が孤独だと言うかっ……!!」
断じて聞き捨てならぬ。額に筋を浮かせ、眼光鋭く、互いに憎い相手を射殺さんとした。ギリギリと歯を噛み締める。
二人の間にピン、と張り詰めた空気が流れる。
互いに相手の出方を伺い、ほぼ同時に拳を出し、互いの顔に直撃するかという刹那──
2本の突き出された腕は掴みあげられた。
それを成したのは何時の間にか、二人の間に入った御方と呼ばれる男だった。
「おい! 二人とも何してる! いい加減にしろ!」
「……なにー、庇うの? 浮気ー?」
争う声に気付いた男が二人の間に立ち、諍いを止めようとすると、クレマンティーヌは不機嫌そうに抗議した。
「何言ってんだ、お前」
「ユリ、いつもすまんな……二人の間に何があったのかは知らんが大方──」
「御方様、申し訳ありません。これは私と彼女の問題。私は彼女に決闘を申し込むつもりです」
「いいじゃん。やってやるよ」
ユリは暗に争いに口を出すなと伝えた。売り言葉に買い言葉。クレマンティーヌも一歩も引かず、その挑戦に受けて立つ。
「お、おい?」
ユリの視線は真っ直ぐにクレマンティーヌを射抜いている。視界に男が入っていることなど頭になかった。そして、至高の御方の言葉を遮るなど、普段のユリではあり得ないこと。
今はただ、カッカ、と。ユリはその事実に気づかないほどに視野狭窄に陥り、体が震えるほどに激怒していたのだ。
ナザリックを創り出したアインズ・ウール・ゴウンのメンバーは意見の相違があった時は、立合うことで意思を統一したという。
ユリはそのことを当然知っていたし、至高の御方方が決闘を行っている場面を何度も見たことがあった。
(ナザリックの作法に乗っ取り、この下品な女を叩きのめす……!)
ユリはクレマンティーヌの不敬な発言を止めるには一度、実力を行使し、上下関係を叩き込むしかないと確信していた。そして、それがひいては御方の目を覚まさせ、ナザリックのためにもなると。
ユリがクレマンティーヌに決闘を叩き付けたという話は、シャドウデーモンからデミウルゴス、アルベドを始めに、すぐにナザリックに伝わった。
ナザリックでは決闘の話題がやむことなく、メイドからモンスター、階層守護者までもが噂した。
当然のこと、ナザリックでも一、ニを争う知恵者が動くことにもなり……彼らの主を煩わせることのないよう、かつ相応しい場での決闘が用意される運びになるのだ。
□
ユリはゲヘナの打ち合わせのため、ナザリックへと一時帰還していた。
打ち合わせの後、彼女は第六階層へと赴き、友人たちと会った。久方ぶりのお茶会のためである。
かつて彼女達の創造主であるぶくぶく茶釜や、やまいこが行っていた茶会という名の駄弁り場の名残り。
「ユリ、何か悩んでるの?」
アウラがユリに気にかけるように問いかけた。
「え?」
「うん。ユリさん、なんだか元気ないですよね……何かお悩みがあるならボク達が聞きますよ」
マーレがオドオドした様子で、ユリにチラチラと視線を向ける。
どうやら、このダークエルフの友人たちには、ユリの様子がおかしいことは一目瞭然だったようだ。
ユリは逡巡する。
果たして、この気持ちを誰かに伝えることは許されるのだろうか、もし伝えたとしても不敬だと諌められるのではないか、と。
悩み、しかしユリの脳裏ではツアレの言が蘇る。
『私、セバス様が大好きです』
恐れることなく、まだ、たいして親しくも無い自身に好意を打ち明けた。
その素直さは彼女にとって、羨ましく思える一つだった。
そして……ユリは、躊躇いながらも勇気を振り絞って、友人たちへと自身の気持ちを打ち明けた。
批判も、忠告も正しく受け止めようと決めて。
「ぼ、僕は……御方様を……お慕いしているんだ」
だが、出てきたのはユリが思ったよりも小さな声だった。
「えぇっ!?」
「わぁ! そうなんですか!」
驚く双子を尻目に、ユリはこれから発せられるだろう言葉に身構えた。
「って……それは驚いたけどさ……それってそんなに悩むことなの? アルベドとかシャルティアだって、いっつもアインズ様にアピールしてるじゃん。あれはやりすぎだけど」
「お姉ちゃん……ユリさんは乙女なんだよ」
「あんた……何気に酷いわね」
二人から出てきたのは、気が抜けるような発言で、一気にユリの体からは力が抜けた。
一世一代のカミングアウトに、緊張もある程度解れ、多少は口調も軽くなってくる。
もう、ここまできたら洗いざらい話してしまえ、という気分で。
「あのね……」
再び不安になる。
でも、これって本当に話してもいいのだろうか、と。
「大丈夫?」
目の前には心配そうにしながらも、好奇心を隠せない二人。
もう、後には引けなかった。
「うん……あのね、絶対に秘密にして欲しいのだけど……やまいこ様も御方様のことをお慕いしていたみたいなんだ……」
『…………』
沈黙。
まるで時が止まってしまったかのように。
『ええぇぇ〜〜〜!!??』
と、唐突に時が動き出し、空気が爆発した。
アウラの側に控えていた大きな狼のような魔獣がビクリと体を震わせた。
「やまいこ様とぶくぶく茶釜様がそんな話をしてるのを聞いたことがあるから……」
ユリは二人の反応が怖くなったのか顔を俯かせた。
「ねぇ、僕……どうしたら、いい?」
「……」
二人がどんな顔をしているのかユリには確認出来なかった。
怒っているのか、はたまた呆れているのか。
反応がない焦りからか、言い訳のような言葉がどんどん溢れ出てきた。
「あのね、御方様のお側にいられるだけで、凄く幸せで、仕事もとても気合が入るのだけど……」
「……御方様の新しい眷属が本当に嫌な女でさ……何かと御方様にベタベタくっついてイライラするし、僕に喧嘩売ってるのか何かと矢鱈勝ち誇ったような顔するし……もうなんなのさ」
「御方様のご寵愛を受けてるからって……恋人を自称するとか不敬すぎだよ……」
「挙げ句の果てには僕もキレちゃって、御方様の発言を遮って彼女に決闘叩き付けちゃうし……今度こそ絶対、御方様に失望されてる……」
最後にユリはテーブルに突っ伏した。
「あー、そんな噂もあったっけ……大変だった、ね?」
「……もう、頭おかしくなりそうだよ」
マーレがふと気になったのか、呟いた。
「あれ? でも、御方様とやまいこ様って全然そんな空気なかったような……」
「あんたねぇ……そんなの隠されてたに決まってるじゃない」
「…………」
「あー、本当に大丈夫?」
項垂れたままのユリにアウラは気の毒そうに声をかけた。
「でも、それって羨ましいなぁ」
「……羨ましい?」
マーレの言葉にユリが不可解そうに問い返した。
「まぁ、創造主様と同じ方を好きになるって、繋がりを感じるもんね」
アウラは言葉足らずなマーレの言いたいことがわかったらしい。流石に双子なだけある。
「うん。ボクはその繋がりって許しでもあるんじゃないかなって」
「許し……」
ユリには本当に嬉しそうに微笑むマーレの背後に何となく後光が射しているかのように錯覚した。
「だって、ユリさんがもし誰かを普通に好きになってたとしても気持ちを隠す気がするもん。それじゃ、ずっと独り身だし」
唐突なディスりに、あっさり後光は霧散した。
「えぇ……」
「アハハハ! 確かに! ユリは真面目だし、私たちもだけど、ナザリックのことが一番だもんね!」
アウラがおかしそうに腹を抱えて笑う。
「それにボクたちナザリックの下僕がもし誰かと結ばれるのを許されるなら、至高の御方々以外を望むなんて絶対にあり得ないよ」
「そ、それは、そう言われてみれば……」
至極ごもっともな意見だった。
もし、至高の御方々以外で誰かそんな存在がいるなら……
いるとしたなら……
いる? そんな存在。
ユリはあっさり納得した。きっとユリは詐欺師に騙されやすいだろう。
「創造主様がお隠れになったのは悲しいけど……だからこそ、やまいこ様はユリさんのことを想って、気持ちから逃れられないように……」
「創造主様と同じ方を好きになるように、始めからそう創ったんじゃないかな」
マーレはまるで賢者のようにユリを諭し、その言葉は沁み渡るように、ユリのささくれだった心を撫でてゆく。
「御方様の好みもユリみたいな容姿らしいし、やまいこ様は最初からお見通しだったってワケね!」
アウラの言葉に、ユリは羞恥で顔を俯かせた。
(全くこの姉弟は……)
ユリの気持ちは、ここに来た時に比べれば非常に晴れやかになっていた。
(でも、ここに来て良かった……)
彼女が得られたのは安心。誰にも言えないはずの秘密を共有することで得られる連帯感。
「あ、そうだ。今噂になってる新しい眷属との決闘のこと、詳しく聞かせてよ」
「御方様を取り合ってってことなんだよね!」
「えぇっ!? そんな噂になってるのかい!?」
「違うの? 皆そう言ってるよ」
「そ、そうなんだ……」
お茶会は時間が許す限り続く。
ユリは彼女達にせがまれ、決闘に至るまでの事情を洗いざらい話した。
アルベドの、御方がナザリックを出奔しかねないという予測と、その予測を覆すために彼女からプレイアデスに内々に課せられた指令。
指令を完遂させるため御方の側付きに任命され、その補佐の最中、御方がこの世界で色んなものを見てみたいと話していたこと。
そして、不安と焦りからユリが犯してしまった失態。アルベドから課せられた指令が未だ達成されてはいないこと。
ナザリック外での活動が増え、そこで初顔合わせした御方の新しい眷属クレマンティーヌ。ユリが感じた、彼女がどのような人物であるかと、彼女が受けているという寵愛の証し。
つまり、纏めてしまえば御方の関心はナザリックにではなく、外の世界に向いているというのが現実であり、今後外の世界を見て回るのに、このままでは新しい眷属が旅のパートナーとして選ばれる可能性が高いこと。
だからこそ、アルベドの予測が現実味を帯びてきている現状があり、ユリは新しい眷属を牽制し、彼女の不敬を諌めるために決闘を叩きつけた、と。
「……それってヤバイじゃん」
「……ヤバイのよ」
「ど、ど、ど、ど、どうしようお姉ちゃんっ!」
涙目のマーレの感情を反映してか、エルフ特有の耳は垂れていた。
「マーレ、うるさい。アインズ様には報告してるんだよね?」
「もちろん。だけど、アインズ様は笑ってそんな事態にはならないって……」
「そっか。なら、大丈夫だと思うけど……というか、御方様を取り合ってっていうのも全然間違いじゃないじゃん」
「そ、そうかな……」
主であり、御方の友人であるアインズが言うのであれば間違いはないだろう、とアウラとマーレは不安を拭うようにユリをからかい──
「遅くなりました……ワン」
「お待たせして申し訳ない、マドモアゼル達。少々、掃除に夢中になりすぎてしまいましてね……私を降ろせ!」
「イーッ!」
三人が割と真剣に話し合っていると、仕事を終えてお茶会に合流した者が二人。
額から首にかけて縫合の痕を残した犬頭の女性──ペストーニャ。
ずんぐりしたイワトビペンギンで、カールした飾り羽に、黒い蝶ネクタイ──エクレア。
と、エクレアを抱えてきたショッカーのような彼の部下達。
「なんだか微妙な空気ですね……どうかしたのですか? ……ワン」
「えっとね──」
ペストーニャが場の空気が奇妙なものになっていることを察知して尋ね、ユリは疲れてしまったのか口数が少なくなっており、マーレがこれまでの話を説明した。
「そうだったのですか。これはもう、ユリに頑張って貰うしかないわね……ワン」
「うぅ……」
場がグダグダになりかけ、気疲れたユリはただ愚痴た。新しい眷属の彼女がいかに性格が悪いか。御方にどれだけ迷惑をかけ、自身がこれまでどれだけ苦労しているか。そして、ユリの双肩にのしかかる重圧を。
本来であれば、アルベドの指令はプレイアデスに課されたもの。しかし、御方と呼ばれる男はナザリックにいる時間が未だ少なく、指令を遂行できる人材は側使えであるユリに限られていたから。
「ふむ……なかなか難儀しているようですな。ですが、話を聞く限り彼女が不安に思っているのはまた別の事なのでは? マドモワゼルを不安にさせるなど、御方様も罪作りな方だ」
「……どういうこと?」
「アインズ様は心配ないと仰っていたのでしょう? で、あるならば御方様が出奔なさることを不安に思うのは不要なこと。彼女が本当に不安に思っているのは、ただ御方様を取られたくないということに帰結するのでは?」
「エ、エ、エ、エクレアァ!?」
「というか、私は御方様を取られたくないがために決闘を叩きつけたと噂で聞いていたのですが……ワン」
アンデットにあるまじく、図星を点かれたユリは顔色を変え、周囲の友人達はそれを生暖かい目で見守った。
「お姉ちゃん、ユリさん可愛いね。でも、いいなぁ……」
「はいはい、そうね……」
マーレが乙女しているユリを心から羨んだ。ボクもいつかアインズ様の寵愛が欲しいなぁ、と欲望を漏らした弟に対してアウラはどこか呆れた様子で──
「それに、指輪のことも取り敢えず気にすることはないのではないかしら? 寵愛の証というには、御方様からもそういった話はありませんし、御方様自身も同じ物を着けている訳でもないのでしょう?」
「あっ……」
ペストーニャが疑問を呈し、ユリが違和感に気づき我に返る。
「ふふふ……マーレだってアインズ様から指輪を賜ってますし、御方様も任務への感謝やただ効率を考えた可能性だってあります。それに新しい眷属さんは宗教国家出身とも聞いてますし、何かしらの教義という線も……信仰系魔法を納めた神官が誓約の証として指輪をするのも珍しいことではありませんよ」
「なら、指輪はブラフ?」
「さぁ、そこまでは……そもそも至高の御方々は私達にとって神にも等しい存在。別に御内室が二人や三人いようが、誰も咎めたりしませんよ……ワン」
「うむ。極論かつ正論ですな」
「き、きみたちね……」
──お茶会は続く。その後、何度もユリは友人達にからかわれたが、お茶会が終わる頃には、ユリの心に積もっていた鬱屈とした感情はすっかり取り払われていたという。
『ユリ、頑張って!』
『ユリさんなら大丈夫です!』
『魅力的な異性を惹き付けるには、時には力技も必要ですぞ!』
『ユリ、あなたの良い所は何事にも真っ直ぐな所ですから。そのままでね……ワン』
そして、ユリは友人達の言葉に勇気を貰い、彼女はようやく迷いを捨てることが出来たのだ。