王都がゲヘナの炎に包まれ、多大な行方不明者を出した大事件も一旦の終息を見せ、城下では早くも復興が始まっていた。
喧騒。街のいたる所では炊き出しが行われ、肉体労働者が散乱している瓦礫をせっせと集めては片付けてゆく。
そうした民衆の中には、身内や知り合いに行方不明者がいるのか、あちこちに声をかけて回り、行方を探しているものもいる。
人々は絶望の只中、見えない明日に向かって再び歩きだそうとしていた──
そんな中、ユリは拠点である屋敷の引き払いのため、最低限残されていた家財の片付け、クレマンティーヌはそんなテキパキと作業を進めるユリの様子を壁にもたれかかりながら観察していた。
本来であれば、ゲヘナとともに屋敷は引き払い、ナザリックへと即時撤収する予定であったが、ユリとクレマンティーヌだけは王都に残留している。
というのも、彼女らが従う男がまだ王都に残っており、彼の用事が済み次第、王都を出る予定になっていたからだ。
その彼女らの従っている男はというと、先日のゲヘナで活躍した聖職者として王城に招聘されているため、現在は不在となっていた。
「……」
「……」
両者にあるのは気まずい沈黙。昨日、あれ程感情を剥き出しにして殺し合ったというのに、同じ空間にいるというのも妙な気分だった。
ただ壁際からユリを観察するクレマンティーヌ。ボロボロになるまで嬲られたはずの彼女の損傷は、既に男の操る魔法によって傷跡一つなく回復している。
その視線から彼女の感情を伺うことは難しい。ただ、そこまで敵視し、警戒しているという訳でもなさそうだったため、ユリは放置していたのだが──
「ねぇ──ユリちゃんはさぁ、まだ処女だよね。何で抱かれないの?」
そんな沈黙を破って、クレマンティーヌがどうでも良さげに、軽く言い放つ。
「ぶっ、なっ、なにを……」
「好きなんでしょー? 種馬ちゃん」
「御方様を、た、種馬と呼ぶのをやめなさい! あなたはいい加減、その不敬な言動を改めるべきです!」
頬を引つらせて狼狽するユリ。そして、すぐに青筋を浮かべて、クレマンティーヌの言葉を訂正させようと注意した。
しかし、彼女はユリの注意もどこ吹く風。
「……いや〜、最初はさ、近づく女がいたら片っ端からブッ殺してやろうって思ってたんだけど」
「ユリちゃんがあまりにも初心で、じれったくて、可愛いそうだから」
「ぐ……」
クレマンティーヌは何でもない雑談のように続けた。その煽りに何も言えなかったユリは口籠った。この女は昨日の決闘のことなど、何とも思っていないのだろうかという思いが頭によぎる。
「つーか、私も子どもじゃないし? 独占できるような人じゃないってくらいわかってたし。私も大人になったね〜」
そう話す彼女は言い訳するように、金色の髪を束に捻り、指先で遊ぶ。
「だから、まぁ……ユリちゃんなら、いいかな〜って」
「まぁ、お情けってやつ?」
「……」
ユリからしたら目の前の女性は一体何を考えているのか、訳がわからなかった。
つい昨日までは男を独占し、ユリを排除するかのような言葉を弄してみたかと思えば、今日、ここにきて、何故抱かれていないのかと疑問を投げかける。
「あぁ。ヘタレてんなら、上手く行くように協力してあげてもいいよ? うわ、ワタシってば、やさしー」
「……ちょ、ちょっと勝手に、私は……それにヘタレてなんか……」
「んー? はっきりしないねぇ。もしかして、断るつもりだった?」
一人で盛り上がる女を尻目にユリは後退る。そんな判然としない態度のユリを見たクレマンティーヌが首を傾げて不思議がると、目を細めて迫り、更に言葉で揺さぶる。
「私は御方様のお側にいられたら満足です」
「お声を聞かせていただければ満足です」
「ご尊顔を眺めていられるだけで」
「その聖心を御守できるだけで──」
指を組んで言葉を囁き、祈る仕草をした──ユリが自身にかけた呪縛の言葉をクレマンティーヌが繰り返す。
ユリはその言葉に怯む。
「……はっ、くだらねー。そんなの、クソ喰らえだっつーの」
そして、指を解いて心底、嫌そうな顔を浮かべる。ただ側に侍るだけで満足だと思い込めてしまうユリの心情が彼女には理解出来なかった。
「至高の御方だかへの忠誠とか知んないけどさ〜」
「それって、今そんなに重要ー?」
「手を伸ばせば届くかもしんないのにさぁ、馬っ鹿みたい」
呆れたように、手を掲げた。
「大好きな忠誠も、自分の感情も、どっちも取るのが賢い女だと私は思うけどねー」
女は強く、ズルくなくちゃ生きていけないとクレマンティーヌは思うから。欲しいものは何をしても手に入れる、邪魔でムカつく奴はテキトーに排除する、そして愛する人には誰だって汚い部分は見せたくないもの。
大切なのは良いところだけを切り取って、外面はちょっとだけ悪く、自由気儘に、でも愛嬌を見せ、甘え上手でいること。
それが時として男には魅力的に映ることを彼女はよく分かっていたから。
「よく考えなよ〜ユリちゃん?」
「……」
でも、彼女が最も大切にしているのは直感を無視しないこと。
クレマンティーヌはユリとなら上手くやっていけそうな気がした。裏切り、裏切られ、奪い、奪われ──幾度も辛酸を味わってきた彼女が、ユリは男を裏切らない人物だと認めたから。
だから、男の側にいる内は、彼女は良きパートナーにもなれるとも思った。
「……あなたにはわからないのでしょうね。至高の御方方への忠誠の重さも、創造主様の意思を裏切るかもしれない葛藤も、御方様に拒絶されるかもしれないという恐怖も……」
「はぁ? わかんないねー。てかそれって、結局はユリちゃんがビビっちゃってるだけじゃん?」
「……ぐっ」
直球で、心を抉る正論。彼女からしてみればユリの不安も所詮は他人事でしかない。
「ユリちゃんも心配性だねー」
「何が裏切りとかは知らねーけど」
「少なくともあの人は、そんな狭量でもねぇし、忠誠がーとか本心では望んでないのに」
忠誠を望んでいないという言葉にユリの表情が曇る。逃げ道を塞いで誘導するように、より甘美な道を残すように誘導したものの──
「つか、真面目すぎでしょ……そういう面倒なのは全部、押し付けちゃえばいいじゃん。全部、あなたのせいですーって」
クレマンティーヌは気弱になったユリが段々と面倒になってきた。だが、それはユリが期待し、葛藤していることを意味している。
「だ、だけど……私にだって、こ、心の準備というものが……」
「抱かれたいっしょ?」
「っ!」
「組みしだかれて、肌に触れられたくはない? 自分だけを見てもらいたいと思ったことは?」
視線が泳ぐ。表情が固まり、アンデッドであるはずなのに、ユリは顔が熱くなり、赤くなっているように感じた。
その挙動を動揺と見たクレマンティーヌがニヤつく。
「ユリちゃんは、どういうのが好みなのー?」
「無理やり求められて、縛られちゃったりとか?」
「それともメイドっぽく、朝夜と呼び出されて奉仕するみたいな?」
クレマンティーヌは考えつくシチュエーションをテキトーに挙げた。
「そ、それは……さ、最初は……その、優しくしていただければボクは……って! ち、ちがっ! あ、あ、あなたには関係のないことでしょう!?」
「うぷぷ……愛されたくないの?」
「あっ、あい、され……」
「初めてが上手くいくように、せっかく、このクレマンティーヌ様がアドバイスあげようと思ったんだけどなー?」
「ぐうぅ……!」
ユリは頭を抱えた。
現実の話。ナザリックにはこういった内容を相談できる相手がいないのは事実。というか、ユリとしては、ほとんど家族みたいな友人や仲間達に奉仕の作法やら雰囲気作りやら、そんな生々しいこと聞くなんて顔から火が出そうだ。
そういうことに多少詳しいだろう妹に聞いた時だって、ギリギリだったし、更に詳しいだろう上司にあたる人物達に聞こうにも、ユリが逆に襲われてしまったり、暴走してナザリック中が大騒ぎになりそうで怖い。
「あんさぁ……さっさと覚悟決めてくれない? 本当はやる気になってる癖に、うじうじしてさー……やっぱり、やめよっかな?」
クレマンティーヌがユリに考える暇を与えないようにして言葉を紡ぐ。
期待させるだけさせて、その梯子を外そうとする所業。
ユリは内心で焦った。この機会を逃せば、チャンスが再び訪れるかはわからない、と──結局、その言葉が覚悟を後押ししたようだ。
「ぐ……あなたこそ本当に悪魔みたいね……」
ユリは歯噛みしたが、目を閉じ、心を落ち着けると、口を開いた。
「……いいわ。私も覚悟を決めましょう…………そ、それで? あなたは何が望みなのかしら。どうせ協力には対価が必要なのでしょう?」
「ふふん? ……ちょっと安心したよ、人外でも欲はあるんだって。大したことじゃないよ? ちょーっと手伝って欲しいことがあるんだよね」
悪魔のような女性への協力。何を要求されるのかと、警戒の視線をクレマンティーヌに向けた。
──そして、クレマンティーヌは跪き、祈るようにして言葉を紡ぐ。
その祈りの姿は敬虔な修道女。
いや、変貌した彼女の纏う清廉な雰囲気を思えば、人を救ったという実績さえあるのであれば、聖女とも呼ばれていてもおかしくはないだろう姿。
昨日の戦闘の折にも見た、普段とは全くの別人の姿。慣れない、あまりのギャップにユリの背筋がゾワゾワとした。
「共に彼の御方を、闇の王へと──かつて、得られなかった玉座へと導くのです」
「!」
しかし、その後に彼女が口にしたのは、血を吐くような意思が込められた言葉──それは彼女の理想であり願望。
普段の恣意的な言動のせいで、本心のわかりにくい彼女が明確な意思を示しており、ユリは驚いた。
「彼の御方こそ、表と裏、遍く人の世を統べる闇の王の器」
「闇の王……? 話が見えないのですが……御方様は薪の王と呼ばれていたはずです。その間違いでは?」
ユリには彼女の言う闇の王が何であるのか、わからなかった。彼女の知る御方が薪の王と呼ばれたことは知っていても、闇の王と御方が結びつくことがなかったから。
しかし──
「薪の王など……! それは本来、忌むべき呼び名です……!」
「え?」
ユリはその言葉に驚く。そんな言葉を吐いた彼女の表情にあるのは──聖女の持つ空気にあるまじき悪感情。
嫌悪。
怨念。
無念。
──そして彼女はこの世界では知る者のいないはずの英雄譚を物語る。
ここではない、あの方が生まれた世界の古い時代の話──
その世界はまだ分かたれず、霧に覆われ、灰色の岩と大樹と、朽ちぬ古竜ばかりがあったといいます。
ですが、世界にいつしかはじめての火がおこり、火と共に差異がもたらされたのです。例えば、熱と冷たさと、生と死と、そして光と闇と……
そして、闇より生まれた幾匹かが火に惹かれ集まり、火より王のソウルを見出して分かちあいました。
最初の死者、ニト。イザリスの魔女と、混沌の娘たち。巨人族の王グウィンと、それの騎士たち。誰も知らぬ小人。
それらは火より見出した王のソウルの力をもって古竜と戦い、ついには打ち勝った。
そうして彼らの繁栄と共に火の時代がはじまったのです。
勝ち得た繁栄と栄光。世界には光が溢れ、火の時代は命あるものにとって過ごしやすい時代となりました。ですが……火はやがて消え、暗闇だけが残る定め。
火はまさに消えかけ、世に光は届かず、夜が続きました。
巨人族の王グウィンは恐れていました。火の時代が終わり、闇の時代が訪れることを。
一方で、闇の時代を待つ者もいたのです。はじまりの火からソウルを見出した者の一人、誰も知らない小人。人の祖であり、火から闇のソウルを見出した者です。
人は小人を祖とする闇に近しい存在であり、闇の時代を支配する者たち。つまり、闇の時代とは、人の時代の到来でもあったのです。
そこで、闇の時代の到来を恐れるグウィンは火継ぎの仕組みを世に広めました。
闇の時代を支配し、新たな時代を拓く、闇の王が人の中から生まれることを阻止するために。王となり得る力を持った不死に、火を継ぐことで火の時代を存続させることが使命であると偽ったのです。
あの方は──それをグウィンの策略と知りながらも、結局は火を継ぐことを選びました。
闇の時代は世界の摂理。火を継いだとしても、一時の延命で、いずれ闇の時代が訪れることは間違いありません。
……ですが、あの方は長い旅の最中に経験してきたのです。裏切りや友情、出会いと別れ。人の醜い所など幾らでも見ましたが、反面、時折のぞく人らしい輝きに心惹かれたのでしょうか。
闇の時代ではそれらは失われるだろうからと……ただ人が人らしく生きられる世がいいと、火継ぎを受け入れられたのです。
「あの方の想いはとても尊いもの。ですが……わかりますか? 薪の王は『王』ではないのです」
世界を照らす火を継いだ者がなぜ王と呼ばれるのか。
初代の薪の王であるグウィンだけは確かに『王』であった。しかし、その次代である男は実質的には『薪の王』という称号を火とともに継いだだけの存在とも言える。
王が治めたる国もなく、民もない。
民が拠り所とする王の玉座/支配者の象徴もない。
薪の王たちに玉座なしとは誰が言ったのか──次代以降の薪の王は、『王』ではなく、火の時代を延命させるための『薪』だったから。
「そして、今もあの方は、薪の王という忌名に縛られたまま──」
世界を救ったはずの男の最後を目にしたクレマンティーヌは哀しみと屈辱、憎悪を胸に抱く。
愛した男が、自らが仰ぐ神の意思が『薪』と侮られるなど到底許せない。
火を継ぐこと──それが男の意思だったとしても、策略にて彼を貶めたグウィン達への恨みが晴れることなど有り得ない。
そして、男という犠牲のもとに成り立っていた時代で、感謝もなくのうのうと生きた人間に、火に焼かれる苦痛と孤独を知らしめ、自らが当然の如く享受していた日々が彼の慈悲の上に成り立つ幸福であったと懺悔させてやりたい。
黒い炎が身を、心を焼き尽くそうとする。
時代のために、孤独に身を焼かれた男を想うと狂気に呑まれてしまいそうになり──聖女は一息つく。
「……ですが、幸いなことに『この世界』には、薪の王──火継ぎなどという仕組みもなければ、伝承もありません」
「ならば今度こそ……あの方は世を統べるために闇の王となり、その名を残すべきなのです」
彼女は、男が薪の王であると同時に、闇の王となれる偉大な魂を持っていることを知っていたから。
王が望んだ、その日のために──王が王であるために、相応しい玉座を用意しなくてはならない。
そして、その羊飼いたる王には愚昧な羊達である民の存在も必要だろう。
「闇の王とは一つの時代を終わらせ、新たな時代を切り拓く者のこと」
「あの方こそがヒトの世を拓く神、新たな信仰となるのです」
かつて彼が彼女の心を救ったように、その偉大な昏い魂が、狂った心を導く光であって欲しい。
道を見失った異端達を慰める、力強き肯定者であって欲しい。
彼のもたらす闇が、染まらぬ、揺るがぬ、迷わぬ、不変と愛の象徴であって欲しい。
だが──
「ですが……悔しいことに、そんなことすらも私一人で成すのは困難……」
「まずは同じ神を頂く仲間を作ろうと思ったのです」
聖女の雰囲気が揺らぐほどに、感情を露わにして話した大きな野望に、ユリは息を呑む。
「ですから──私と共に全て……全て、身も心もあの方に捧げましょう?」
そして、クレマンティーヌは無垢な笑みを浮かべた。まるでユリが彼女の手を取らないことなど考えてもいないように。
それはユリが初めて見るクレマンティーヌの作りものではない微笑みではあったが、彼女はそれに狂気を確かに幻視したのだ。
□
夜更け。
散々だった一日を終え、御方と呼ばれる男はナザリックへと一時帰還していた。というのも、先日のゲヘナでの成果の確認や、今日あった王城での話など、情報の共有や相談事をモモンガとする必要があったためだ。
その共有も一先ずは終わり、第九階層にあるロイヤルスイートにある自室にて、ようやく一休みといった頃。
男がやけに豪華で広い自室に慣れず、所狭く過ごしていると、コツコツと扉をノックする音が聞こえた。それに遅れて女性の声が聞こえてくる。
「御方様……ユリです……起きておられますか……?」
しかし、ノックと声が聞こえ、男が入室を許可するものの部屋に入ってくることもない。
何事かと扉を開けると、そこにいたのは普段、夜会巻きにしている髪を下ろし、レースをあしらったエレガントなロングガウンを羽織るユリ。
眼鏡の奥では目を伏せてみたり、上目遣い気味に男の様子を伺ったりと忙しない。
黒のレース生地で作られたガウンはユリの肌を透かし、大人の色気を際立たせる。薄く覗く、黒のセクシーな下着に、何よりそれらを身に着け恥ずかしげに立つ彼女の姿に男は唾を飲んだ。
「……ど、どうした。プライベートな空間とはいえ、女がそんな格好で出歩くものじゃない」
「こっ、これは、その……申し訳ありません……あの、ご相談が……」
「……相談? こんな時間に? ……ひとまず、羽織る物を渡すから中に入れ」
あまり見ないようにし、取り敢えず、部屋に入れようと部屋の内側に招き──
ドアをくぐると同時にユリは男の胸に飛び込み、男の腰に手を回して抱き締めた。柔らかな感触が男の胸板で潰れる。
「っ」
「好きです」
突然の事に言葉を無くす。
真面目なユリの様子が可笑しいことには当然気づいていたが、まさかとは思った。前に一度、ナザリックで同じ事が有った時は、応えられないと断ったはずだから。
「……」
「好きなのです」
胸に顔を埋めたユリの表情を伺うことは出来ない。接触したユリの黒髪からは薄く香水でもつけてきたのか、仄かないい香りがした。
「ユ、ユリ……?」
「好きっ……大好きです……止められません……御方様、ずっと……ずっとお慕い申し上げておりました……」
「どうかお情けを……」
ユリが埋めた顔を浮かせ、不安げに上目遣いで伺う。その瞳は熱を孕み、潤んでいるようにも見えた。
普段、知的でクールな女性が情熱的になると破壊力が強過ぎることを身を持って思い知った。
「も、もしかして、酔ってるのか? お、お前は友人たちの子も同然の──」
「そ、そんな言い訳っ! く、くそ喰らえです!」
ユリの顔が急接近し、男に口づけた。
唇に感じるやらわらかな感触。目前にある美女の顔。仄かな香水の甘い香り。密着したユリの肢体の感触。
その全てが男の心を擽り、男の中の獣が目を覚まそうとしていたが、必死にそれを抑えつける。ユリを抱き締めたい衝動をグッと耐えた。
口づけていた唇をそっと離し、ユリが囁く。
「……御方様は胸に宿る火が資格であるとおっしゃいました」
「ボクは胸の火を消して生きていくことは、できそうにありません……」
「どうか、ボクを見てください……」
ユリの体は震えていた。ただの恐怖にではない。普段であれば絶対にしないようなことを、不安を押し殺して、勇気を持っていくつも成したからだろうか。
それに気づいた男は──
『友人の残したナザリックの配下達は子も同然』
そんな言葉がよぎる。
だが、彼女は男を求め、じっとその答えを待っている。その目にあるのは覚悟と期待、緊張、そして恐怖。
その目を見ただけで彼女が意思を固めている事が、何となく感じられた。
だからこそ、思った。これ以上、ユリを拒むのは傷つけるだけだと。どうでもよいことに、男の脳裏には据え膳食わぬは男の恥という言い訳が浮かんでは消えている。
そろそろ男は覚悟を決めるべきだった。
ナザリックや、この地にいる配下達との関わり方を。それはつまり、この世界での生き方にも関わることだ。
モモンガは言った。『友人の残したナザリックの配下達は子も同然』であると。モモンガは選択したのだ。彼らを自身の中でどのような存在として扱うのかを。だから、彼らを見捨てることなく、ナザリックを守り続けている。
しかし、男は『友人の残したナザリックの配下達は子も同然』という言葉に共感はできても、彼らを守るという意思まで無条件には持てないでいる。
なぜなら男はモモンガほど、ナザリックという地に深過ぎる思い入れがある訳でもなく、また、モモンガほどユグドラシルを重視して、ゲーム内の交友関係に依存していた訳でもない。
モモンガにとってはナザリックは仲間たちとの唯一の思い出であり、それを守ることこそが当然のことだったのだろう。だからこそ、その一部である配下達を受け入れることも至極自然なことだった。
しかし男は──せっかくこの自然に溢れる、未知の世界をこの目で見られるのに。ユグドラシルというゲームの延長線上にある、ナザリックに関わる物を少し煩わしく感じてしまった。
無論、男にとってモモンガが友人であることには違いはないし、モモンガという友人がこの世界に来ていたことも嬉しく、頼もしかったのは事実。
だが、ナザリックがこの世界に存在し、NPCが生きているなどと聞いた時には困惑の方が大きかった。
配下達が生きていることや、その忠誠を疑っている訳ではない。
彼も同じギルドの友人達が創り出したNPCを大事にしたいとの思いは当然ある。
しかし、生まれ変わりやら、違う世界への転移やら、突然、創り出したNPC達が命をもって動き出したことも、はいそうですか、とすぐに受け入れられるほど男は柔らかい頭の持ち主でもなかった。
それらは言ってしまえば、自分ではどうしようもない事柄であるのは確かであったが、ズルズルと流されてしまう前に、心の整理だけはしておかなくてはならないと思った。
──だから男は決断した。ナザリックとの関係をイチから新しく作り直すことを。
ナザリックの配下達は生を得て、今を生きている。
彼らはナザリックの外を知らず、創造されてから現在までの時しか生きてはいない。当然、年数から言えば、まだ子どもとも言えなくもない。
ならば、男が出来ることとは、彼ら一人一人の生命として成長を見守ること。これまで人形のような不思議な存在として見てきた意識を、再構築させよう、と。
ユリのこともだ。
やはり、始めは友人の一人が創り出したNPC/人形という意識が抜けなかった。
しかし、知った。ユリの考えや、どんな行動を好むのか。クレマンティーヌと仲が悪く、喧嘩した際には先に手を出して、やはり友人に似て脳筋だったことに呆れ、何となく懐かしく思った。
そして、理解した。ユリもこの世界で、アンデッドという摩訶不思議な存在ではあるが、一つの生命として存在していることを。もう、人形ではないのだということが。感情を、好意を突き付けられてようやく分かったのだ。
男がユリを力強く抱き締め返すと、ユリの体からはフッと力が抜け、彼女は脱力してしまった。
ベッドへと脱力したまま力の戻らないユリを寝かせ、男は彼女から離れる。
「──ユリ、すまないな」
「え……あ、あ、お、お願いしますっ。どうか、どうかお情けをっ」
それは何に対する謝罪か。男が離れていったことで、試みが失敗したことを予感したのか、ユリは悲痛な声をあげ──
「逃さないようにしただけだ」
「……!」
ユリの予感を裏切って、ガチャリ、と男は部屋の鍵を締めた。
男はユリに迫ると覆い被さり、ひんやりした手を取ると頭の横で押さえつける。
「お、御方様……? ひゃっ、まっ、お待ちくださっ」
逃さないためにベッドへと体を押さえ付け、言葉を塞ぐように口づけした。
「覚悟はしてきたんだろう?」
いきなりの出来事にパクパクと言葉が出ない。そんなユリを尻目に、男はユリの首元に顔を埋め、胸を空気で膨らませる。
ユリのつけた香水の香り、隠されたその奥には人ではない何かの匂いがする。動死体特有の腐敗臭などはなく、生命活動の停止した、人ではなくなった死や停滞の香り。
人がその香りを嗅げば、不安や忌避感を呼び起こすであろうが、男もまた不死人という生けるアンデッドの一種。同族に近い香りは安心感とリラックスをもたらす。
対して、ユリも覚悟を決めて来ていたとはいえ、いざこうして行為に及ぼうとすると、緊張で体が震えた。
何度も夢想し、心に秘めてきた想い。
それが現実になりかけて初めて、自身の願いがどれだけ過分な物であったかを思い知る。少なくとも、よく妄想していた主に完璧な奉仕をする彼女自身の像は、ここには全く顕れていなかった。
「んっ、あっ、だ、だめ、ですぅ」
口づけし、口内で暴れる舌。ただそれだけでユリの意識は混乱し、羞恥、興奮、緊張でグルグルと廻り、非現実感と幸福感の忙しなさから思考がフワフワしだす。
「駄目なのか?」
「だ、駄目では、ありませんが……」
はぁはぁ、と息をつく。顔色こそ変わらないものの、脳が蕩けたように、フワフワと上手く思考が働かない。
ふと、ユリの目に入ったのは男の首筋。思い出すのは、先日見つけてしまったマーキングされた男の首筋。
「しっ、失礼します……」
解いた手を背へと回してすがりつき、ユリは震える唇で男の首をチウチウと吸い、僅かに赤い痕をつける。
「殿方はこうすると喜ぶと聞きましたので……」
その行為は男に若干のくすぐったさを伝え、マーキングという彼女の独占欲に対して、栄誉に思った。
一方、ユリは恥ずかしそうに男から目からそらし、その出来上がった赤い痕を呆然と見つめる。至高の御方に傷をつけるという背徳感。同時に心に湧き上がる不思議な満足感を得た。
改めて、男はユリを観察する。
黒いレースのガウンから覗く肌は、白磁のように白く、その肌に触れてみると体温を感じず、冷たい。しかし、しっとりと柔らかで、手に吸い付くような肌をしていた。
覗く黒の下着には、この世界では再現出来ないだろう精緻な刺繍が施され、それにより醸し出される性的な魅力が大人っぽさを感じさせる。
そして、一際存在感を放っているのが大きな胸で、男は知らなかったが、彼女の妹であるルプスレギナなどはスイカに例えたこともあった。
その彼女のどこか不安げな表情を、喜びに変えたいと思った。
「は、恥ずかしいです……どうか、あまり見ないでください……」
男の舐めるような視線。
男の熱い視線から生じる羞恥か、彼女は乱れた薄いレースの羽織を伸ばし、大きな胸を隠そうとするも、今度は真っ白な太腿が現れ、ショーツが見えそうな、なかなか際どい姿になってしまう。
その姿に男はいじらしく感じ、愛おしく思った。
湧き上がる感情のままに、男はキスの雨を降らせ、ユリの肢体の曲線を手でなぞると、彼女は驚きと緊張で一瞬身を固まらせたものの、ほどなくして緊張しながらも男に合わせるようにして口づけに応え始めるのだった。
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