バハルス帝国、帝都アーウィンタール一等地。
帝都においては所謂、貴族街とも呼ばれる一画。そこに立ち並ぶ立派な邸宅の一つ。目の前には堅牢な門扉があり、男は圧倒されたようにその前で呆然と立ち尽くしていた。
「えぇ……ここ……? でっか……」
男が此処に来ていた理由は、以前モンスター討伐の依頼で知り合った騎士と再開して話をした時にまで遡る。
男は呪いを緩和する指輪をその知り合った騎士に譲渡した事があった。その譲渡に対する礼として、家の空いている部屋を無償で使わせてやるから必ず来るようにと、その騎士であるレイナースから言われていたのだ。
ついでに、男自身、その話を無視出来ない理由もあった。というのも、男は帝国冒険者ギルドから何故か指名手配されているようで、伝手があると言うレイナースに仲介して手配を取り下げて貰うよう話をお願いしていたのだ。
そういった理由があり、男としてはレイナースに恩すら感じている。最悪、指輪の礼としてギルドに仲介して貰えればそれで良かったのだが、義理堅い彼女はそうは思わなかったらしい。余程、指輪の件を重く見ているのか、家に来なければ、仲介しないとまで言われていたのだ。
つまり、男に遠慮するという選択肢は無く、これまで取っていた宿を引き払い、此方の屋敷を訪ねて来たという経緯があった。そして彼女の心遣いをありがたく思った男は手土産を持参して彼女の家を訪れた――ところで冒頭に繋がる。
「帝国騎士の隊長格ともなれば、こんな豪華な家に住めるのか……? いやいや……流石にそれは無いと思う……もしや家が貴族出身とか大きな商家だったり……?いや、でも名前に貴族姓は入ってなかったような……」
門の前でぶつぶつ何事かを呟いている男。明らかな不審者である。そしてお分かりの通り、未だにレイナースの正体が四騎士であると気づいていなかった。
警戒するような視線を向けてくる門番に慌てて取り次ぎを願い、暫く待つと敷地に立ち入る許可が得られた。開かれた門の向こう側には広い庭。季節の花々が咲き乱れる見事な庭園がある。その側を抜けて歩いてゆくと、そこに見えてくるのは白亜の大きな屋敷。
そんな立派な屋敷のエントランスの前で男を待つ存在があった。
「いっらっしゃい。待っていましたわ」
彼女こそが、この屋敷の女主人であるレイナース・ロックブルズ。手入れのされた絹糸のように艶のある金髪に、エメラルドを思わせる澄んだ蒼の瞳。顔立ちは非常に整っており、街を歩けば異性は勿論、同性でもその美貌に見惚れてしまうだろう。現に、男は彼女の騎士ではない姿に言葉を失って見入った。
レイナースは昨日、北市場で男に声をかけた時には、髪を下げることで半顔にある呪いの痣を隠していた。だが、今は髪をハーフアップにし、顔の全てを惜しげも無く曝け出している。男が驚いたのはその彼女の顔だ。その肌には彼女の気にしている呪いの跡も無く、何ら違和感がないように見えた。
「驚いた。呪いが解けた……って訳じゃないんだよな?」
「ふふ……これは化粧ですわ」
男は驚くように尋ねるもレイナースは、化粧で半顔の痣を隠しているのだと笑みを浮かべた。
対して、普段は顔を出しているのだな、と男は微妙に勘違いし、彼女が何の為に顔を晒しているかの意図に気付くことはない。ただ、折角、彼女の悩みの元である呪いが薄れた顔を見せてくれたのだからと、彼女の美貌に対して素直に賛辞を送った。
「綺麗だな。やっぱり隊長さんは美人だ」
レイナースはその言葉に、少しだけ恥ずかしそうにして、人差し指で髪を弄ると少女のようにはにかんだ。化粧をした彼女の楚々とした空気には、ある種の大人の妖艶な雰囲気が混じっている。細見のシルエットの白いワンピースは彼女の為に誂えられたかのように似合い、蒼色の瞳は美しさと深い知性、色気を感じさせた。
「婆や、彼が今日から家で寝泊まりするお客人様よ。気にかけてあげて」
「はい、お嬢様」
レイナースは屋敷に入ると、エントランスの扉脇で控えていた老女に男を紹介する。婆やと呼ばれた彼女は年老いてはいるが、その背筋はピンと伸びており、皺が刻まれた顔からはその年齢を感じさせない活力が感じられた。
「お客人様。お初にお目にかかります。私、この屋敷の管理をさせていただいております、通称『婆や』でございます。何か御用がおありでしたら、なんなりとお申し付けくださいませ」
「あ、はい……宜しくお願いします。これ、手土産です……」
「お預かりいたします」
背筋を伸ばしたままに、右足を斜め後ろの内側に引き、左足の膝を軽く曲げた。少し目を伏せて、お辞儀をした婆やに、男は冒険者らしくない口調で答えた。
「まずは中へ入ってください。あなたの部屋に案内しますわ」
「あぁ、はい……しかし、大きな屋敷だな。ここの家主は隊長さんなんだよな?」
「そうなりますわ。此処に住むのは私と使用人達の幾人だけですが」
そうなのか、と男は素直に首肯した。多分、両親から引き継いだものなのだろう、親御さんは別の場所に住んでいるのかな、と思いながら。
レイナースは男を屋敷の中に案内する。一階にある一番奥の客間に通されると、そこには明らかに独り寝するには大き過ぎる天蓋つきのベッドがあり、机や椅子、チェストといった基本的な家具も一通り揃えてあった。というか、部屋の全てが高級感がある物で統一されてある。それを目にした男は少しだけ顔を強張らせた。
「あの……もっと、暗くて狭い、屋根裏的なのでいいんだが……? この部屋を借りる対価なんて払えないぞ……」
「お礼ですから。対価なんていりませんし、此処がこの屋敷で一番小さい部屋です。私としては奥まった場所に押し込めてしまっているようで申し訳無いくらいなのですが……それとも、私と一緒のベッドで寝ますか?」
「え? いや、ちょ……」
レイナースが微かに笑みを作り、男の腕を取って組んだ。その頬が明確に赤みを帯びる。
「べ、別に私は……そ、それでも……」
構いませんが……、と消え入るような声が続く。彼女の胸が男に押し付けられ、その柔らかさが腕を通して伝わると男が唾を呑んだ。彼女の心臓の鼓動がバクバクと大きく鳴り響いて、その振動が伝わる心地がした。
「そ、そんなつもりで来た訳じゃ……」
「じょ、冗談に決まっているじゃないですか……」
鼻腔を擽る女の香り。柔らかな身体の感触。
男の欲を感じたレイナースはより強くその体を男に押し付けて誘惑を後押しした。妖艶な、女の目をしたレイナースと視線が合う。
互いの息遣いが聞こえる。冗談だという言葉に反して、引力でも働いているかのように、互いの顔がジリジリと引き寄せられるように近づいてゆこうとして──
「ン、ンンッ」
背後に控えていた婆やが気まずげに咳払いした。それでハッとしたレイナースは男の腕をバッと解き、少しだけバツの悪そうな表情を浮かべながら視線を逸らし離れていったのだった。
「す、少し失礼しますわ。ここで待っていてください。部屋の中を確かめて貰っても構いませんから」
□
「……お嬢様。如何にあの男性が気になっておいででも、慎みはお持ちください。あのように、なんてはしたない……」
「わ、わかっているわよ、婆や……」
部屋の外から少し離れた場所に移動し、侍女の老婆が呆れきった様子でレイナースを嗜める。この屋敷で彼女のことを一番に理解しているのは幼い頃から成長を見守ってきた彼女であり、当然のことレイナースの心情はよく理解していた。
これまで親の決めた婚約者がいたことはあれど、顔の呪いの事もありレイナースに恋人らしい恋人などいなかった。だが、彼女を苦しめていた呪いに改善が見られるようになった。そんな中、ようやく現れた恋人候補。
いや、呪いの症状が改善して以降、これまでもレイナースに粉をかけようとする者はそれなりにいた。だが、当の彼女が全て袖にして来たのだ。曰く、見てくれが良くなった途端に近づいてくる男は信用できない、と。どうにも嫌悪感と不信感が勝るらしい。
「それに、老婆心ながら……あの方をお嬢様の恋人候補とするには些か心配な部分もあるのですが……」
「何か気になるのかしら?」
「本当に優秀な冒険者の方なら、お相手くらい幾らでもいらっしゃるのでは、と」
「……まぁ、その懸念はもっともね。私も色々と考えはしましたが……腹は立ちますが、一夜の相手くらいはいたと思っていいでしょう。でも、深い付き合いをしている女がいる可能性は低いと思うわ」
「はぁ……」
「私の目に狂いは無いわ。彼は
「……」
本当に大丈夫なのか、とでも言いたげな目をする老侍女。欲望、好み、願望、愛情などは時として自身に都合の良い想像がさもそれが真実であると思考を偏らせるが、レイナースの判断は果たして正しいと言えるのか……老侍女には不安だった。
そのレイナースの言う大切な秘密とは、男も呪いをその身に受けており、普段は亡者のような容姿を隠しているという事。思い返しても、男の呪われた姿は醜かった。亡者のように嗄れた肌。爛々としている眼。悪夢にでも出そうな化け物じみた容姿だった。
ただ、不思議な事にその時のレイナースには、その化け物じみた姿を見ても嫌悪感も忌避感も感じなかったのだ。当時は酒に酔っており、感覚が麻痺していた可能性は勿論あるのだろう。ただ、その経験こそが、この男こそ醜い私に相応しいという同病相哀れむ、傷の舐め合いのような屈折した感情を抱かせる切っ掛けとなり、その思いは今も変わっていなかった。
あの化け物じみた本来の姿があるせいで、他の女では彼を心から受け入れる事など出来る筈がないとレイナースは確信し、仮に受け入れた気になっていたとしてもそれは対等な関係では無いのだと考えている。
一方で、だからこそ彼は自身を受け入れない相手に対して態々秘密を明かしているとも思えなかった。秘密を共有しない者同士に信頼はなく、深い視点での相互理解もない。あったとしても浅い付き合いに留まるという思考。
つまりは、レイナースの経験を元に思考すると、彼の醜い容姿を受け入れる事の出来る女など、対等な立場にある自分の他にいる筈が無いという傲慢ともとれる確信があった。
「そうでしたか。お嬢様がそう仰るのでしたら私からは何も言うことはありません」
一方で、他に仲の深い女がいる訳が無い、と断言したレイナースを前にして、老侍女はその理由こそ聞いてはいないないが大した自信だな、と思っていた。
あの男性がレイナースの顔の呪いの症状を緩和させた事は老侍女も知っていた。昔からの重い悩み事が解消に向かっているのだ。そこに希望を感じ、内心ではとても大きな恩を感じていることは間違い無い。常々、レイナースは呪いを解くためなら何でもすると公言していたのだ。みすみす解呪に繋がる可能性、男との縁を逃すつもりも無いのだろう、とも。
そして老侍女はレイナースが呪いのせいで周囲から嫌遠され、現在まで孤独な人生を送ってきたことを知っている。その孤独から逃れるために無意識の内に自身に相応しい伴侶として彼を見定めたことも、何ら不自然な事では無いと理解していた。
「ようやくお嬢様のお眼鏡に叶った方ですからね。私はお味方いたしますよ」
「ありがとう……」
そもそも、レイナースの男選びの基準は非常に厳しいと言わざるをえない。それは、1にまず信用できるか、2に性格的に問題はないか、3に武力──ナヨナヨしていないか。
1と2はそもそも結局はレイナース本人が気に入ったか、気に入らないかでしかなく、当の男は既に信用という最難関のハードルを超えてしまっている。3の武力についてはこれから確かめるつもりではある……が恐らく問題はないだろうというのがレイナースの見解だった。なぜならば……
「……それに彼、隠してるみたいだけど私と同じくらい強い筈なのよ」
「お嬢様より? それは流石に信じ難いのですが……」
レイナースは覚えていた。一夜を共にした時に、四騎士の中で最も力の強い筈の自身が、彼に力で押さえ付けられ、抵抗すら出来なかったことを。
故にレイナースは既に男の実力を見越して動いている。というより、本能的に
あの日から、頭の中で男の顔が浮かんで消えないのだ。あの一夜の出来事が身体に刻み込まれて忘れられず──もう一度会いたい。また抱かれたいと毎夜身体が疼き、妄想しながら自身を慰めることも珍しくはなかったのだから。
──そして、そんなレイナースの内心すら見通しているのか、幼い頃から彼女を見てきた老侍女の視線は生温かかった。
「……あ、あぁ見えて結構優秀なのよ? この呪いの事も色々と考えてくれたし、モンスターの知識だって豊富ですもの」
「左様でございますか」
生暖かい視線を向けられていることに気付き焦ったのか、レイナースは男のことを老侍女に語り、その優秀さをアピールした。とはいえ、聞いている側としてはそうですか、という言葉以外に感想はない。呪いもモンスターのことも、戦場に出たことのない侍女の身としてはどこがどう凄いのか想像がしづらかった為だ。
ただ分かることもある。老侍女視点、その語り口や表情、仕草は言い訳にしては情感が籠もり過ぎており、恋に浮かれる乙女にも見えた。老侍女はそんなレイナースを微笑ましく思うと同時に、心配もしていた。
「お嬢様、あの方はお嬢様の過去をご存知なのですか?」
それはつまり、レイナースが元貴族の令嬢であり、呪いが原因で家から見捨てられ勘当されたという事。今は既にその家は無くなっており、その亡くなった理由が騎士として力をつけた彼女が、自身を見捨てた者達に復讐したからだという事を。
レイナースが老侍女の言葉で固まる。
「……いいえ。知らないと思うわ。でも……それは、どうしても言わなければならないのかしら」
「お嬢様の過去を知る人は知っています。いつか知る事になった時に、本人からか、それ以外から知るかで、印象は大きく変わると思います」
もしも、真実を本人の口以外から知る事となれば……その時は騙していたのかと、信用していなかったのかと謗られても何らおかしな事ではないのだから。
「そう……もしかしたら彼は、私が皇帝直属の四騎士って事すら知らないかもしれない」
「は、はぁ……それはあまりにも」
老侍女が顔を引き攣らせた。というか、顔を知らない者は多いだろうが、重爆、四騎士レイナースの名は帝国では有名だ。それすら知らないと言うのは冒険者としても大丈夫なのかと。
「部下には口止めしていたし、任地で一々四騎士を名乗る事は無いのよ……皇帝直属と知られると面倒なことも多いもの」
「お嬢様の自分自身の事を話したがらない性分は重々ご存知ですが……」
「……本心を見せるなんて随分としていなかったから、どう話したらいいか分からないわ」
「そうですか……一先ず、お嬢様のお気持ちはわかりました。それよりも、今は戻りましょう。冒険者殿が待ちくたびれている筈ですから」
「わ、分かっていますわ」
「はぁ……これは一波乱ありそうですね」
レイナースの背後で老侍女が静かに溜息を吐いた。
老侍女に促されたレイナースが客間に戻ると、男が所在なさげに部屋の中を観察して回っていた。レイナースは声をかけると男に近づき、その腕を強引に取ると次の部屋に案内しようとした。
「お待たせしましたわ。次の場所を案内します」
「あ、はい……」
廊下を歩いている間、レイナースは男の手をギュッと握っていた。その手は緊張の為か汗ばんでいる。男も男でされるがままになっていたのだが、表情こそは平然としてはいるものの未だに頭の中は混乱状態だった。
それから屋敷内を順に案内された。
屋敷は二階建てだが、敷地が広く、部屋数も多い。一階には玄関からホール、書庫、倉庫、食堂に厨房等の用途が分かれた部屋があり、男の寝泊まりする客間は一階の奥まった場所にある。客間にはトイレ、浴室が備えられており、生活するのに不自由はない。
「ちなみに食事は朝の鍛錬後、昼、夕にあります。あなたも用事がなければ同席するようにして下さい」
「……食事まで申し訳無い」
二階には屋敷の主であるレイナースの自室に、書斎、侍従たちの各部屋、使ってはいないがプレイルームなどもあるらしい。そして、庭を見渡せるバルコニー。そのどれもが一級品の調度品で飾られており、男からすれば幾ら金がかかっているのか想像も出来ず目が眩んでしまう。
「ここは見ての通り庭ですわね。家にいる時は此処で鍛錬しています」
一通り見て回り庭へと出てくる。庭は広く、様々な植物が植えられ、花壇には色とりどりの花が咲いている。その花壇とは反対側、広い空間には等間隔に並べられた案山子が立っているのが印象的だった。
「アレは槍の鍛錬に使いますの。案山子は打ち込みの的ですわね」
「へぇ……」
やはり騎士ともなれば日々の鍛錬は重要なのだろう。置いてあった槍を手に取り、試しに案山子に向かって構えを取った。レイナースの格好は、鍛錬に向かない身綺麗な服装であったが流石騎士と言うべきか非常に様になっている。
「はっ!」
レイナースの鋭い刺突。その一突きは案山子の中心を容易く穿つ。突き刺さった衝撃も少なく案山子が揺れる事も無い。
「ふっ!」
引き抜き、続いて放たれたのは身体の回転に追従させた横薙ぎの一閃。槍の穂先が案山子の首の部分を捉え、頭と胴体を切り離した。その断面は磨かれたかの様に滑らか。
「いや、凄いな」
ワンピースの裾を翻させたレイナースに、男が賛辞を送る。と同時に、パキリ、と練習用の槍に大きな亀裂が入った。これではもういつ完全に壊れるか分からないので、使用することは出来ないだろう。
一見するとその槍は粗雑な造りでは無く、しっかりとした武具のように見えた。故に、男はそれがレイナースの持つ職業カースドナイトによる効果だと直ぐに分かった。
「……私はどうにも手加減が下手みたいで、それなりに丈夫な武器でも、すぐにこうして壊れてしまいます」
「前に言ったような気がするけど、それがカースドナイトの特性なんだと思うが」
「……そう言えば、前にそんな事も言っていましたね。厄介なことです。このせいで、中々、組手などは出来ないのですから」
と、苦虫を噛んだように言う。彼女の場合、それなりの武具を使わないとすぐに壊れてしまう為、鍛錬も討伐もままならない。出来ない訳ではないだろうが、毎度使い捨てにしていては金がかかる一方だろう。
「ちょっと貸してくれ」
「? はい、どうぞ」
《修復/リペア》
男が槍を受け取ると、亀裂が出来た箇所に手をかざし撫でていく。すると、槍を柔らかく包み込むように淡い光纏った。光がより強くなり、パッと消える。
男の手の中にある槍は元の綺麗な姿を取り戻していた。レイナースはそれに驚き、目を見張る。彼女が男から槍を受け取り、じっくりと観察すると……それはまるで新品と見間違えるほど、擦り傷一つない状態に戻っていた。
「寡聞にして私は聞いた事がありませんが……武器を修復する魔法ですか。……あなた、魔法も使えるのですね」
「まぁ、多少はな。部屋を借りる対価では無いが……壊れる事があったら言ってくれ。直せる奴なら俺が直そう」
「それは……ありがたい申し出です。是非、よろしくお願いします」
レイナースの目の奥に妙な光が宿った気がした。戦士が魔法を使えるというのは帝国では少ないが存在する。ただ、戦士としても、魔法詠唱者としても中途半端な存在であることには違いない。
しかし、男の武器を修復する魔法は明らかに戦士の為にあるもの。それが前線での継戦を前提とした魔法である事はレイナースには分かった。男が広い知識、卓越した弓の腕を持っていることは知っていた。しかし、剣や槍の腕はまだ知らない。試してみたいという気持ちがムクムクと湧き上がってくる。
挑戦的な視線を浴びせ、予備の槍を男へと渡した。
「あなたは槍を使えるのですか?」
「……まぁ、それなりだが」
男は槍を受け取ると、軽く振り回し、突く動作をする。その一挙手一投足は洗練されており、槍の扱いにも慣れている事が見てとれた。レイナースは男が槍も扱えると知って、目を細める。
「あなたの槍の技量を見て見たくなりましたわ。ぜひ、手合わせを」
「……その格好で激しいのは無理だろ」
男が困ったように笑い、ハッとレイナースは自身の格好を見て顔を赤くさせた。客人を迎える為に何時もよりも身綺麗な格好をしていたことをすっかり忘れていた。そんな格好でいた事すら忘れて槍を振るったのも、普段はこのような格好をしていないという事の証左であった。
早速、自身の本性が見抜かれた気がして恥ずかしくなった。
「……では、鍛錬の時にでも。鍛錬は毎朝行っていますわ」
「了解した。よろしく頼む」
鍛錬の約束を取りつけると、二人は再び並んで屋敷の中に入ってゆくのだった。
□
そんな二人の後ろを控えて歩く老侍女は、内心で溜息をつきつつ、この先に思いをはせる。
──あのお嬢様の事だ。きっと形振り構わず、強引に関係を持とうとするだろう、と。
レイナースは貴族の子女として育ち、女だてら先陣を切ってモンスター討伐の戦場に立ち、民の生活を守ってきた。気高く、誇り高い。そして優しく、領民にも愛されていた。あの時までは……
老侍女は今でも昔の事をよく思い出す。もう十年以上も前の事だった。彼女がいつものように領地に現れた魔獣の討伐に出掛け……魔獣の呪いを受けて帰って来たのは。
レイナースの顔にかけられた呪いは彼女自身にも、そして、彼女の周囲にも大きな悪い影響を与えて来たことを。あの呪いが彼女を周る全てを変えてしまったことを、老侍女は知っている。
──呪いのかけられた半顔が壊死しかけ、耐え難い苦痛に苛まれのたうち回り……精神的にも余裕など無く、ヒステリックに怒鳴り散らす日々。徐々に両親とも不仲になっていったのを。
──いつしか部屋に籠もるようになり、彼女本来の明るさと優しさが失われ、性格も卑屈なものに変貌していった。関係の良好だった婚約者との仲は険悪になり、支えるという選択肢が一度も挙がる事無く、あっさりと関係は解消された。最後に会った時には、酷い言葉を吐かれたのを。
──とうとう両親との仲が決裂した日のこと。呪いを受けたという事情はあったものの、何をするでも無く、何時までも部屋に籠もり、顔を合わせれば不機嫌に怒鳴り散らす娘に我慢がならなくなったのだろう……レイナースの父が彼女を勘当し、彼女の槍と鎧を持たせて生家から追い出したのを。
老侍女は追憶する。あの時のレイナースを生家から追い出す、という当主の判断が果たして合っていたのかどうかは、一介の使用人でしかない老侍女には分からなかった。あのまま生家にいても状況が好転することはなかったと思う。かといって、家から追い出されたレイナースは肉親である父母を恨み、最後には断罪してしまったのだから。
ただ、両者の間にあった誤解だけは何とか出来なかったのかと、両親の本心を知る彼女は後悔していた。レイナースの父母とて、娘であるレイナースの事を案じていなかった訳では決して無かったのだと老侍女は知っている。何故なら老侍女に対して娘の元に行くよう頭を下げたのは他ならぬ貴族家の当主でもあったレイナースの父だったのだから。
……両者の間に誤解があった事を老侍女はいつまでも伝えられないでいた。彼女はレイナースが復讐を生きる力にしていたのを知っていたし、呪いが解けない内は何を言っても聞く耳は持たなかっただろうと、それを言ってしまえば老侍女自身も裏切り者だと断定されてしまう恐れがあったから。
人に対して怒りを抱く、恨みを抱くというのは思った以上に気力や体力を使うものだ。だから、いつか恨みが薄れた時に老侍女は真相を明かそうと考えていた。
だが――老侍女が気がついた時には既に関係の修復は手遅れになってしまっていた。レイナースは両親の本当の願いを勘違いしたまま、自身を見捨てたという悲しみと怒り、恨みに狂い……積もりに積もった憎悪を果たすが如く、断罪してしまったのだから。
もう手遅れとなった今となっては、伝える事はないだろう。もしも伝えたとしても、これからを生きるレイナースに新たな苦しみを背負わせるだけであろうからと……老侍女は真実をひた隠し、死と共に悲しみを墓場まで持っていくと決めていた。
ふと、背後を振り返ったレイナースが老侍女にこっそりと言った。
「……婆や、ありがとう。私、頑張るわね」
「……はい、お嬢様。お嬢様はこれ迄、随分と苦しんで来られましたから……もう、苦しむのは十分でございましょう」
老侍女は願う。あの男が主の娘であるレイナースを、何時までも笑顔にしてくれることを。もしも、レイナースを悲しませるような事があれば……あの男こそを、私が死の間際に呪ってやろうと、老侍女はそう胸に秘めた。