「陛下、お耳に入れておきたい事があります」
ナザリック地下大墳墓への釈明会談から帰還して数日。筆頭宮廷魔術師フールーダの裏切りや、帝国の新体制移行の話し合いによるピリピリとした雰囲気も少し落ち着きをみせ始めてていた。
皇帝執務室にて、政務に取り組んでいた皇帝ジルクニフ。四騎士レイナースは先日感じた違和感について上奏しようとしていた。
「なんだ」
「騎士団の憲兵部隊内で不正が行われている可能性があります」
「……詳しく話せ」
その違和感は帝都内の治安の維持を担当している部門、憲兵隊の不正行為だった。帝国における憲兵隊は国防省に所属する軍──騎士団を構成している一つの部門であり、軍事的な性格を持ちながら国内の治安維持や警察活動を担っている組織になる。レイナースはその憲兵部隊から不正が生まれている可能性があると皇帝に報告した。
「は、では、こちらの資料をご覧ください。一連の出来事をまとめています」
「うむ」
皇帝はレイナースから差し出された資料を受け取ると確認することにした。
資料に曰く、今回の出来事は元貴族家の子女が二人行方不明になっており、その両親が誘拐されたとして届けを出したことに始まる。現在、その誘拐犯を憲兵隊が捜査しているが、犯人は見つかっていない。いや、少し前に容疑をかけられた被疑者が捕らえられていたが、そちらは既に解放されていた。
レイナースが問題視していたのは、その被疑者に対する取り調べに関する事で、憲兵は明らかに証拠が乏しいのに対して罪状を確定させようとしていたと言う。
つまりは、それが組織的なものであるかどうかは未だ不明だが、憲兵隊は冤罪であることを承知の上で、捜査を早期に終わらせようとしていたことになる。
レイナースが可能な範囲独力で調べた限り、行方不明となっている子女の両親には多額の借金があることが分かっていた。また、子女がまだ5歳前後という年齢で単独で外を出歩く事が無いという点、両親の外出から帰ってきたらいなかったという供述、そして、他に盗まれた物はないという証言から鑑みるに、誘拐は初めから子女の身柄が目的である可能性が高かった。
物取りで警備の薄い元貴族家に侵入したとすれば、盗まれた物が無いと言うのは不自然なのだ。そして一方で、現在犯人からの身代金の要求はない。
単純な身代金目的の誘拐では無い。そこで、初めから子女の身柄を奪うことを目的としていたと考えた場合、統計的に犯人の可能性が高いのは両親。自作自演の可能性を疑うのが必然と思われた。
しかし、憲兵隊は捜査範囲を外部の誘拐に絞っており、端から内部の犯行を除外していたのだ。それがレイナースの感じた違和感。
内部の犯行を視野に入れるのであれば、両親の関与を疑わなければならない。加えて、それでもしも両親が子女の失踪に関係しているのであれば、その動機として資金難や生活苦による身売りの線も浮上してくる。
帝国においては、帝国民個人の人権は保証されており、他者の意思による身柄の売買は禁止されている他、今回の子女があたる幼児どころか、未成年の少年の人身売買についても禁止されており、少年は帝国の法律の保護下にある。仮に両親が人身売買に関与しているとなれば、それは重罪であった。
その可能性を憲兵隊が認識していない訳が無い。明確な不正の証拠がまだある訳ではないが、憲兵隊は故意に重罪を見逃している可能性があった。
「フルトの娘が誘拐か。フルトのことはどうでもいいが、帝都の治安維持を預かる憲兵が買収されているとなれば不正の温床となりかねないな」
「はい」
「事態は深刻と言えるだろう。ハァ……だが、すまないが私は忙しいのでな。捜査権はお前に預ける。皇帝の勅命である。四騎士レイナース・ロックブルズ、治安維持組織である憲兵隊の内部不正を秘密裏に調査し、正してこい」
「ハッ」
帝国騎士団に所属する人間である以上、帝国の為に働くのは正しいことだ。元々の自身の命を優先するという条件付きの契約であるとは言え、仕事自体は嫌いでは無い。皇帝から勅令を受けた以上、忠実に仕事をこなすつもりであった。
「──それと、レイナース。私に言っていないことはないか?」
レイナースはそれで執務室を出てゆくつもりだったが皇帝ジルクニフが彼女を呼び止めた。
皇帝が筆を置き、執務机に肘をつくと指を組み、その上に自分の顎を置いてレイナースを見る。権力を持つ者の振る舞いであると同時に威圧感を感じる姿勢でもある。
「は? いえ、心当たりはありませんが……」
「それはおかしいな。バジウッドやロウネから聞いたのだがパートナーが出来たそうではないか」
「……個人的な事まで報告しろと?」
何の話だとレイナースが訝しげにした。同居人との外出を見られて以降、噂が出ていた事から、バジウッドからの誂いは覚悟していた。だが、まさか皇帝からそのような話があるとは思ってもみなかった。
皇帝とは感情を挟まない合理的な関係だ。仕事上での関係はあれど、プライベートな所まで関与する事も、される事もこれまでは無かったのだ。
「バジウッドはお前が男と腕を組んで歩いていたと話し、ロウネからは冤罪で捕まったパートナーを牢から出す為にレイナースに力を貸したと報告を受けていた。先ほどの憲兵隊の不正の話はそれが元だな」
「あの、ヒゲにハゲめ……! しかし、それについては別に故意に黙っていた訳ではありません。パートナー、というか……同居人が誤認逮捕であることは間違いありませんし、私が不正に気づく切っ掛けではありましたが、彼はその後事件に関与もしていませんので」
皇帝は観察するようにレイナースを見る。一方で、レイナースは痛い所を突かれたと、苦虫を噛み潰したように表情を歪ませる。皇帝の推測は当たっていたのだ。
しかし、だ。一部、プライベートが仕事に絡む事情を含んでおり、説明し辛い部分があって話を省いたのは認めるが、レイナースは皇帝に嘘をつくつもりも、ついたつもりも無かった。当然、庇いだてして話を大きくしようとしている訳でもない。
「ほう、随分な自信ではないか」
「? 当然です。彼にフルト家の子女を拐かす利がありません。金には多少困っているかもしれませんが、そのような人物ではありません。それに必要な日銭くらいは渡しています」
「ふむ……これは随分と愉快な事になっているようだな」
皇帝はレイナースの答えを聞いて、少し思案するように目を閉じた。皇帝とレイナースとの関係はビジネスライクではあるが浅くはない。何せ、皇帝自ら登用の為に動いた直属の騎士だ。彼女の嗜好、性格、そして能力や弱点などは全て把握した上で、四騎士にスカウトしたのだから。
だからこそ、そんなレイナースにパートナーとも呼べる存在が出来た事には驚きだった。何故ならば、皇帝の分析では、彼女はパートナーに対して厳しい基準を求め、最低限それに迫ることを要求すると考えていたから。
故に、皇帝はレイナースがパートナーなど作る事無く、生涯未婚を貫くと予想していたのだ。それはひとえに、彼女のパートナーたりえる人材が帝国にはいないことを自認していたからでもある。
「陛下も私を誂っているのですか?」
「まぁ、そう怒るな。バジウッドもロウネも、私もだが、同僚として配下としてお前の事を心配しているのだ。悪い男に騙されているのではないかとな」
「騙されてなどいません」
レイナースがその形の良い眉を歪めて、皇帝を非難するように見た。
彼女は自身が騙される事などないと言った。だが、それこそが今の皇帝の懸念の一つであった。
「距離が近くなるほど、全体像は見えなくなるものだ。お前ではそれを判断することは出来ん。言え。どこで出会った。残念だが、その男は密偵の可能性がある」
「まさか、あり得ません! ……出会ったのは半年以上前に地方でギガントバジリスクを討伐した時にです。恥ずかしながら、冤罪で捕まるような抜けた人物です。何処に所属する密偵でもそんなヘマはする訳がありません」
「……ふむ」
女という生き物は感情に支配されやすい。一度懐に入り込んでしまえば、女の思考を支配し、自由自在に操る事など熟練した密偵にとっては容易い事だ。故に、皇帝は正常な判断能力を失っているお前では客観的に物事を判断する事が出来ないと言ったのだ。
皇帝の口から密偵という言葉が出てすぐに、レイナースは目を剥いて否定し、皇帝の考えを正すべくパートナーを、同居人を擁護した。
皇帝はその間もジッとレイナースの様子を観察していた。
皇帝の視点では、レイナースは既にその同居人とやらを疑うこともせず、手中に落ちているようにも見えた。まだ彼女の中に皇帝に対する叛意は見られなかったが、それも今後どうなるかは分からない。
彼女は顔の呪いの件もあって他人に対する警戒心が非常に高いのだ。故に、皇帝に対しても忠誠を心から誓っている訳では無く、これまでずっと一線を敷いた態度を貫いていた。そのレイナースが警戒心を働かせない存在がいるというのは、非常に危険な状態だと皇帝は考える。
「もしも、その男が私に対する叛意を煽るような考えをお前に吹き込んだら、お前はどうする?」
「そのような事は……その時は私がその考えを正してみせます」
あり得ない、という言葉がレイナースの口から出る事は無かった。
その状況を想像したのだろう。もしもそんな事があれば、何を馬鹿な事を言っているのだと呆れるかもしれないが、それだけで自分が同居人である男を見捨てるような事はしない筈だと。
それに、どうだろうか。もしも吹き込まれる言葉が叛意を直接煽るようなものではなく、政策に対する評価であったり、市井の評判、帝国民の感情であったなら。レイナースは言葉の影響を受けずにはいられないだろう。長い時間をかけて思考を操作してゆけば、皇帝への叛意に繋がることもあるかもしれない。
「ようやく自分が危うい線の上に立っていることを理解したか。その男が平凡であれば、何も危惧しなかったのだが……お前は平凡な男など端から選ばんだろう。しかし、そうか……ギガントバジリスク討伐の時か。……振り返れば、その顔になったのもその頃だったな」
「……」
帝城がちょっとした騒ぎになった日の事を覚えている。それは四騎士であるレイナースが隊を率いて魔獣の討伐任務に向かい、地方にてギガントバジリスクを討伐して帝都に帰還した日のことだ。
いつものであれば髪で半顔を隠している彼女だが、その日ばかりは髪を上げ顔の全てを晒していた。その顔には以前のような酷く膿み、グズグズに爛れた肌はなく、やや赤く跡の残る肌のみがあった。
ギガントバジリスク討伐の報と合わせて、とうとうレイナースが呪いを解呪したのだと噂が広まる程度には騒ぎになったのだ。それを純粋に祝福する者や、解呪出来た幸運を妬む者、秘密を探ろうとする者など彼女の周囲は俄に騒がしくなった。
そんな折だった。
「爺──フールーダにその指輪の調査を依頼していたな。帝国の誰も解くことが出来なかったお前の顔の呪いを……半分でも解いたその希少な指輪は、いったい誰から贈られたものだ?」
その時からレイナースの指に嵌められている見慣れぬ意匠の指輪。それこそが彼女の呪いを弱めているのだと、今はもう話をすることもなくなったフールーダより聞いていた。
古今、呪いとは完全な解呪を目指すものであったが、呪いの症状の緩和を目的とするマジックアイテムなど皇帝ですら聞いたことも無かった。
その希少性から考えれば、そのマジックアイテムは並大抵の地位では手に入れる事も出来ない代物の筈だった。そんな希少なマジックアイテムを個人で保有していた人物はいったいどのような背景があり、どこの国を出身とするのか。また何故そのような貴重な品を簡単にレイナースへと譲渡したのか。
皇帝の視線が鋭くなる。
「……そこまで、疑っているのですか?」
「当然の事だ。四騎士は皇帝の直属。帝国の中枢に直結するという四騎士の特性を鑑みれば、近づいてくる存在には注意を払わなければならない。加えて、帝国は今、緊張状態にある。どこにあの存在や他国の手や耳があるかも分からず、疑心暗鬼になりかけている。私は見極めねばならないからな」
眉根を寄せたレイナースの心の内に急速に広がってゆくモヤモヤとした不安。
何故、希少なマジックアイテムを簡単に譲渡できるのかという事は、彼女自身、聞いてみた事がある。ただ、そこに具体的な事由はなく、レイナースが必要としていたからだとか、一つや二つ譲渡してもどうとも思わないと言われたのみ。
それに指輪の出処も遥か遠くにあるという、カリムという聞いたことも無い国の名前が分かっただけ。本人は遺跡で手に入れたと言っていたが、それを保証するものも何も無い。レイナースは男が優秀な冒険者であると知っていたために、独力で手に入れたものだと、これまで信じきっていた。
──だが、皇帝の危惧は筋が通っている。希少なマジックアイテムを個人で保持しているのに対して、その素性の一切が謎に包まれたままなのは、疑惑を呼んで当然だ。
もし、密偵だと仮定するのであれば、マジックアイテムは何処かの国が所有している代物だった可能性すらある。つまりは、レイナースに、帝国の中枢に近づく為の鍵として利用されたという見方も出来る。
「警戒心が強く、誰も信じる事が無いと思っていたお前が、その男の事をまだ信じたいと期待しているのは理解しよう。男女とはそういうものだ」
「……」
「だが、まだ隠していることがあるな?」
男女間の情とも言えるそれは厄介なものだ。時に正常な判断力を奪い、暴走することもある。
「……私はお前がただ贈り物をされただけで靡くとは思っていない。お前の芯にあるのはその武だ。家に見限られ、全てを失ったお前に残った、唯一の武器である揺るぎ無い芯。自身を支える最後の頼り」
レイナースが呪いを受け家を追い出された際に唯一残った物は、彼女の武具とそれを支える武のみだった。
彼女はその武で四騎士という地位にまで成り上がったのだ。家の力も借りず、単独で。だからこそ、レイナースの武に対する想いは真摯であり、妥協が無い。
「……」
「お前の武に見合わない存在は、そもそもが相手になどなり得ない。隣に立つことを認める事は無い。……認めているのだな? お前の武が」
「そ、それは……」
そんなレイナースの武が隣に立つ存在を認めた。それは本来は驚嘆すべき事であり、彼女にとってはようやく現れたパートナーという喜ばしい事かもしれないが、国にとっては注視すべき事でもある。
その武の持ち主が帝国の力になるのであれば何も問題はない。むしろ、帝国の繁栄の礎にすら成り得る。だが、もしもその力が他国への忠誠の元に振るわれているのだとしたら……レイナースは帝国に害をなす可能性のある外患を抱えていることになる。
「ギガントバジリスクだったか。お前達がその魔獣を討伐して帝都に凱旋した時は小さくない騒ぎになったな。重爆はアダマンタイト級の強さに近づいた、と」
「陛下……もう十分です」
皇帝の言いたい事など、とうにレイナースに伝わっていた。
「そうか、なるほど。お前達がアダマンタイト級の実力に近づいたのではない。その男が助力したか。四騎士にも勝るとも劣らない実力を持つ謎の存在が。……ならばお前は認めるほかなかったのだろうな、自身の隣に立ちうる武の持ち主であると」
「やめてください……陛下」
心が悲鳴をあげる。辛い現実を嫌でも突きつけられているようで、レイナースは耳を塞ぎたくなった。
そうだ。そうだった。あの時のギガントバジリスク討伐の時から彼は目立ち過ぎないように、本当の実力を悟られないように行動していた。そもそもがミスリルのように硬い表皮を持つギガントバジリスクに、鉄矢でもない
圧倒的な実力の上で戦闘全体が管理され、あたかも協力してギガントバジリスクを討伐したかのように調整されていた。
なぜ? 何の為に?
決まり切っている。レイナースの気を引き、近づくための布石にする為だ。
「恐ろしい武の持ち主がいたものだな。だが、私は逆に興味が沸いたぞ。今の帝国は国難の状況にある。実力のある存在は少しでも多く近くに置いておきたい。寝返らせられるかどうか、確認くらいはしておかなくてはな」
皇帝の雄心な言葉に反し、レイナースの胸には空虚感が押し寄せる。
あの時から全てが計算尽くだったとでもいうのか。ギガントバジリスクの討伐に始まり、自らも呪われた存在であると告白したのも、同じ苦しみを知っていると共感を誘った事や、その呪いを緩和する指輪の譲渡し繋がりを作った事も。再会してから幾度も共に過ごした夜の事も。
全てが計画の内。手のひらの上で転がされていただけで、抱いていた感情は一方的なものだったというのか。
「秘密の多い存在は概して不思議な魅力に満ちているものだ。私も会ってみたいな。どのような行動原理と思想を持ち、どんな存在に忠誠を誓っているのか。お前はその男の真実を、どこまで知っている?」
「う……」
その言葉で心が……軋んだ。
何も知らない。何も知らないのだ。その出自も境遇も。男が呪いを受け亡者のような見た目を隠しているという秘密は知っていても、どのような経緯で呪われたのかという事は知らない。
いつかいつかとは思っていたが、男は何も話してはくれない。それは心の奥底では信頼されていないのかもしれない、ただ良いように利用されていただけなのかもしれないと、疑念を抱かせるには十分なものだった。
「真、実……」
崩れてゆく。崩れてゆく。崩れてゆく。
砂上に立つ楼閣が傾き徐々に崩れ落ちてゆくように。綺羅びやかで、美しかった幸福な現実と思い出が。価値のないものに変わってゆく。
目の前がだんだんと暗くなって、自分がどうやって立っているのかも分からなくなった。
「強力な魔獣を狩る武。貴重な筈の魔道具を信用を得る為の餌にする胆力。警戒される事無く帝国の中枢に近づく手腕。ククク……これでは冤罪として捕まったのが無能を演出する為のポーズにしか思えんな」
「……」
「……レイナース。その男を私の前に連れて来い。私が直接その男の本性を見極めてやろう」
□
──ロックブルズ邸。
鈍色の雲が帝都の空を覆う、今にも雨がふりだしそうな空模様。私の生きる世界は、こんなにも暗かっただろうかとレイナースは沈んだ気分で思った。
本の数日までは、世界に光が満ちていたような気がするのに。今ではそんなものまやかしでしかなかったと、本来の世界が急に姿を現したように感じられた。
空気の重みが上から圧し掛かっているように身体が重い。重たい足を引きずるようにして、扉の前に立つ。家に入る前に深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。それから、レイナースは屋敷正面入り口の扉を開けた。
屋敷の中は薄暗かった。時分は昼過ぎほどであるというのに、太陽が完全に隠れているせいで屋敷の中は夜のようであった。
暗さに目が慣れると、屋敷の中の様子が目に入ってきた。広々とした玄関ホール。二階に続く幅広の階段が左右に二つ。一階には書庫、倉庫、食堂に続く扉。階段を上った二階にはレイナースの部屋に使用人たちの部屋、遊戯室がある。
食堂の扉の横の廊下を通り、屋敷の最奥にある客間へと足を向ける。明かり窓のない暗い廊下。客間に近づいてゆくほどに足が重くなるように感じた。ゆっくり、ゆっくりと立ち止まりながら進む。進みたくない。一歩踏み出す。立ち竦む。会いたくない。会うのが怖い。心臓が嫌な鼓動をしているのは、この先には終わりが待っていると予期しているからであろうか。
視線の先、客間の扉は開け放たれており、部屋の中から伸びる強い光が廊下の一部を照らしていた。その光にどうしようもく憧憬や未練に近い念を覚える。
「ん、おかえり。どうしたんだ、そんなところで突っ立って」
「……ただいま、かえりました」
レイナースが扉の外で部屋の中の様子を伺っていると、気配を感じ取ったのか椅子に座っていた男がレイナースに向けて振り返った。男は笑みを浮かべてレイナースのことを見ていた。
「どうした?」
だが、男はおかしな様子を見せているレイナースに気づくと、心配そうに声をかけた。
レイナースは感情を完全に封じ込めた能面のように生気のない顔をし、明らかに陰鬱な雰囲気を漂わせていた。だから、男は彼女が何か深い悩みを抱えているのだと思ったのだ。
レイナースはそんな心配する言葉に対して返事を返すことなく、押し黙った。それから男がこれまで聞いたことのないような、抑揚のない声で言った。
「……明日、少し時間を貰えますか。帝城に来て欲しいのです」
「俺が帝城に? それは……いや、分かった」
「ありがとうございます」
男は何かを言いたそうな顔をしたが、一瞬の逡巡の後に了承した。その返事を聞き、レイナースは小さく息を吐くとすぐに踵を返そうとしたが、それよりも早く男から問いかけがあった。
「そんなことより……大丈夫か?」
「何がですか」
「何がって……様子がおかしいだろ。ちゃんと休めてるのか? また目の下にクマが出来てるぞ」
「……大丈夫です」
痩せ我慢だった。レイナースの心は今にも千切れてしまいそうなほどに悲鳴をあげている。しかし、それが限界に達しようとしてなお、彼女は最後の一線で精神を崩壊させる事無くこの場に立っていた。
それはひとえに、まだ目の前の人物を信じたいという気持ちがあったから。自身を騙しているとは思いたくなかったからだ。
だが、疑念を抱いているのも本当だった。彼女を心配するように頬に触れようとしたその優し気な手は、彼女を愛情で支配し操る為の技術なのか。それとも本当に彼女を心配してのものなのか。レイナースには判断がつかない。その疑念は日々、レイナースの心に黒いシミを作り、広がってゆく。
だから、その得体のしれない異形にしか見えなくなった手をやんわりと拒絶した。
「……。最近、帰ってくるのも遅いみたいだし、こうして顔を合わせる時間も減った気がする……やっぱり今も忙しいのか?」
「……えぇ、少し。前にあなたが冤罪をかけられそうになった件で、大捕り物がありましたから。国防省は今、大忙しです」
拒絶されたことを悟っているであろう目の前の男は、しかし、それに気づかなかった振りをして話を続けた。
その態度にまた疑念が深まる。どうしておかしな態度をしている事に踏み込んできてくれないのか。どうして拒絶したことに怒りを覚えないのか。その腫物を触るような態度にはどのような意図があるのかと。
それきり沈黙が続いた。以前はどのように彼と会話していただろうか。普通に話ができていたのが遠い過去のように感じられる。会話の仕方を忘れてしまったかのように、それ以上言葉が出てこなかった。
「……何か、俺に出来る事は?」
「……何もありません」
「そう、か……」
目線を合わせる事が出来ない。
場を支配する気まずい空気に、男もどうしたよいのかわからなかったのだろう。出てきたのはそんな曖昧な言葉でしかなかった。
「一つだけ……一つだけでいいので教えて下さい。あなたは私に何を隠しているのですか」
「……」
「……やっぱり、すぐに答えてはくれないのですね」
「少しだけ……少しだけ時間をくれ」
「私はあなたを信じていいのですか」
「……」
これが最後と、懇願するようにレイナースは男に尋ねる。これまで男が話そうとしなかった素性を。いつか聞かせてくれるはずと待っていた過去のことを。隠していることを。
しかし、レイナースが覚悟をもって絞り出した言葉に男が答えることはなかった。レイナースは全てを受け入れる覚悟であった。例え、最初から騙そうとしていたのだとしても、自ら告白してくれればその真実を受け止める覚悟をしていた。
どこかの国の密偵であろうと、男の愛が真実であるならば、レイナースは帝国を裏切る覚悟をもっていたのだ。しかし、男は少し時間をくれと言ったまま口を閉ざした。それがレイナースに落胆を齎した。
「……私が馬鹿でした。過去に戻って浮かれていた自分を殺したいです。真実を話す勇気すらないなんて、あなたはとんだ臆病者ですね。もう……終わりです」
「待ってくれ。言えないのには事情が……!」
「あなたはどうかわかりませんが……私はあなたの事が好きでした。短い期間でしたが、本当に夢のような時間だった……良い思い出は、良い形のままにしておきたい。だから……この喪失感が憎しみに変わる前に、この家から……私の前から、どうか、消えてください」
そっと呪い噛みの指輪を外し、机の上に置いた。贈られて以降、一度も外したことのない指輪を。その指輪がなければ再び呪いによって苦しむことになるとわかっていながら。
「待ってくれ、信じてくれっ」
「……明日、忘れずに帝城に来てください。そして、これで最後です。──さようなら」
□
見慣れたロックブルズ邸の庭。
さわさわと風に撫でられた緑が葉擦れの音を奏でる。
青い鳥が羽ばたき、囀り声をあげた。
明るく、光に満ちた世界。
その場に登場するのはたった二人の人物だけ。
庭の中心にダイニングチェアーを置いて座る男と、その背後に立つレイナース。
レイナースの右手には髪切り鋏があり、男の髪に入れた鋏からシャクリという子気味いい音が鳴る。
二人は笑い合い、幸福の只中にいるようであった。
その光景を外から、まるで動く絵画を眺めているような感覚。
ただ見ているだけで胸が痛くなる。
そんな未来が有り得たかもしれないと、手を伸ばして求めた。
そこで、ふと夢から目覚め、気怠い半身を起こした。
顎を伝い流れ出した、やけに水分の多い黄色い膿を白いハンカチで拭う。
窓の外では、雨が降っていた。