終始、仏間の回想になります。
仏間が芙蓉の母・水蓮と許嫁になり、そして別れるまでの悲恋を描いています。
二人の別れの理由。
それは橘一族の女だけが使える『ある秘術』でした。
今後、その秘術が、主人公である橘芙蓉の運命をも大きく変えていきます。
ぜひ読んで戴きたいお話です。
芙蓉が初めて自分との約束を破って伯母に会いに行き、自分に対してひどく反抗したあの日以来、仏間は芙蓉の言葉を頭の中で反芻していた。
『 これからどう生きるかを考えること 』
目を閉じると、また遠い日の思い出が蘇ってきた。
「忍は、私たちのことを商品としてしか見ていないからよ。」
仏間が水蓮に忍を嫌う理由をたずねて、返ってきた答えだった。
「人身売買、政略結婚、スパイ、子供を産む道具、そして売春ね。他にもあるけど。」
十二歳の無垢で可愛らしい顔をした少女には似つかわしくない言葉が並んだ。
「私たち、橘一族のこと、知ってる?」
「い、いや…ごめん。知らない。」
「だよね。知ってたら、仲良くなんてしてくれなかったと思うし。」
水蓮はニコニコと笑顔で話す。
「ねぇ、私って、可愛い?」
「は?なんだよ、いきなり…わ、わかんねーよ。」
「私の一族はね、ほとんどが美男美女なの。そういうふうに、進化してきたからよ。」
「進化?」
「そう。私たちはね、人間が美ものに惹かれるという一番弱い本能を誘惑し、利用しするために進化してきた、『人形』なのよ。」
「何それ…」
「そして、その人形を商品として買い、売りさばくのが…忍。」
水蓮は飛んで行ってしまった木刀を拾いに行った。拾い上げると、笑顔で振り返る。
「私もいつか、誰かに買われるか、どこかへ売られちゃうのよ。」
仏間は何も言えなかった。やっと仏間にも水蓮の言っている意味が、解った。
そして、はっと気が付いてこう言った。
「確かに、悪い忍も居るかもしれねー。でも、ほとんどの忍が家族と仲間と、一般市民を守るために戦ってるんだ。俺だってそうだ。」
「そう、守るため。守るためなら多少の犠牲は当然だって思ってる…」
「その犠牲が、お前たちだっていうのかよ。」
「もうやめようよ。私は忍が嫌い。でも仏間の事は好き。ね、仲良くしよ?」
そう言って再び木刀を構えて、来―いと叫んだ。仏間も構え直し、水蓮に向かって行った。
それからの二人は、仏間が任務や同胞との訓練以外の時は、頻繁に会うようになっていった。
剣術をしたり、かけっこをしたり、時には渋々ままごとにもつき合わされたりしながら、二人はどんどん仲良くなった。会えない日が続くこともあった。一週間、二週間…一カ月、長い時には二ヵ月…しかし二人は再会した時には会えなかった日々を埋めるかのように、二人だけの時間に夢中になった。
仏間は水蓮と一緒に居ると心が休まり、楽しい気持になり、美しいその姿に胸がときめく。
自分のことを人形だと言った水蓮を、仏間は自分が必ず守ると心に誓っていた。
仏間が十四歳になった日の事だった。
父親に許嫁を決めると言われた。すぐに結婚するわけではないが許嫁が決まればもう、将来、水蓮と一緒に居る未来は無くなる。
「嫌だよ。許嫁なんか…俺は普通に結婚するし。」
「我儘を言うな。許嫁が決まっても、結婚する十八までは自由がある。」
「じゃ、じゃあさ、自分が好きな相手と許嫁になるのは、いいのか?」
「何だお前…もうそんな相手が居るのか。まぁお前は優秀だし大人にも負けぬ実力があるから文句は言わん…。で、どういう家の娘だ?」
「橘一族の子…俺と同じ十四歳。まぁまだ、只の友達だけど…」
「橘だと⁉‥‥そうか。金がかかりそうだが、まあ良いだろう。申し込んでみてやる。」
仏間は父に水蓮の名前を教え、父は水蓮の両親を訪ねた。
「まあ、うちの子と鏡間様のご子息が顔見知りだったなんて!失礼はなかったでしょうか。」
「いやいや、息子は水蓮さんのことをとても気に入っているようで、水蓮さんでなければ婚約しないと言っておるのですよ。」
「千手一族の長のご子息と娘が婚約となればこちらも光栄です。見合いが決まっても娘には見合い当日まで知らせない決まりですので、きっと娘も見合い相手が仏間様だと分かったら大喜びしますよ!」
「ハハハ。それなら良いのだが。それで、十四歳の女子だと金額はどのくらい…」
こうして仏間と水蓮は見合いすることになった。仏間はよっしゃ!と喜んだ。だが、残念なことに、水蓮に見合い相手はお前だ、と伝える事は禁じられた。
水蓮も俺のことは好き…だと思うし、たぶん大丈夫だろう。
「水蓮。お前の見合いが決まった。一週間後だ。しっかり支度しておきなさい。」
「えっ‥‥」
「心配要らないわよ。お相手はこの領地内の忍で家も近いし、遠くに行く必要はないの。何より、あなたと同じ年で将来有望な方よ!良かったわね。」
「・・・・・。」
嬉しそうな両親を見ても、水蓮は嬉しいはずが無い。
見合い。
それはイコール、高い金で買われていくということだ。
橘一族は代々、子供を高い金と引換に嫁がせ、政略結婚でコネクションを作りだし商売をしてきた。忍との結婚では強い加護を約束してもらい、大名や国の役人との結婚では政(まつりごと)にも関与し、商売を有利に取り計らって貰っていた。そうして一族を存続してきた歴史があった。
橘一族は女児の出生率が圧倒的に多く、そしてほぼ例外なく、美男美女が産まれてくる。生まれ持った美貌と、英才教育で培う高い知性と教養。それを武器にしてきた。他の一族と結婚してもほぼその遺伝は受け継がれるため、忍をはじめ、橘一族の事を知る一部の他国の大名などからも橘一族の娘を買いたい、利用したい、妻にしたいという需要は多かった。
そして、千手一族の領地内では橘一族を利用して国や他国、他の一族と取引を行う慣習までが出来上がっていた。
水蓮にとって見合いの話は、即ち、命令である。子供に拒否する権利は無いのだ。
待ち合せはいつもの修行場だった。
今日は水蓮を抱っこして木登りをしてやる約束だ。
仏間は、今日は自分が水蓮に何か面白い冗談を言って笑わせてやろうと思いを巡らせていると、後ろからいつもの足音が聞こえてきた。
「遅せーよ!」
遅刻してきた水蓮に文句を言うが、仏間の声はついつい弾んでしまう。
「木刀をね、木から切りだしていたら遅くなっちゃって。ごめんね。」
「定食屋で魚釣りに行ってたら注文が遅くなりました。的なノリで言うんじゃねーよ。もうホント、お前って面白いよなぁ…。ってオイ。今日は木登りするんじゃかったのか?」
「うるさい。今日は最初に剣術の練習をするぞ!よいな!」
「あーハイハイ。仕方ねーな。」
仏間は木の隙間に隠しておいた木刀を取り出し、渋々構えた。
水蓮はいつになく真剣な表情だったが、仏間はその変化には気づけなかった。
カン、カン、カン!
水蓮が仏間の隙が出来るを待ちながら、リズミカルに木刀をぶつけてくる。
仏間は正直、真剣に勝負をする気は無かった。真剣に向かってくる芙蓉の様子を楽しむように見ていた。どうせ今の水蓮では、俺には勝てない。
・・・それにもうすぐ、水蓮は、俺のものになるんだ・・・
ヤァァーッ!!!!
水蓮は仏間に隙が出来た瞬間を見逃さなかった。
目を見開き、渾身の力で仏間の左脇腹を打ちに行く。
「痛―――っ‥‥」
仏間は脇腹を抑え地に膝をついた。
痛みに堪えながら、歪んだ顔で水蓮を見た。すると、仏間から初めて一本取ったにも拘らず、その顔はとても悲しそうな表情だった。
今にも涙がこぼれそうだった。
「仏間!なんで本気で来ないのよ!こんなんで勝っても全然嬉しくないんだからね!」
「…い、いや本気だったし…お前が…強くなったんだろ?…」
「仏間の馬鹿っ!」
「・・・・?」
水蓮は仏間に背を向けて、鼻をすすった。泣いているようだった。
「おい…どうした?何かあったのか?…」
「可愛い、可愛い、お人形を…買ってくれるのは誰かなぁ~って!!」
仏間は水蓮が、未だに自分が誰かに買われていくことを不安でいるのだと思った。
水蓮の後ろに歩み寄り、おもむろに抱きあげた。
「誰にもお前を、買わせたりしねーよ!」
仏間は水蓮を抱きかかえ、猛スピードで垂直木登りをした。水蓮は目をつぶり、仏間の首に回した腕をぎゅっと強める。甘い香りが微かに仏間の鼻をくすぐる。
「ほら!今日は夕焼け綺麗に見えてるぞ。」
「…私が遅刻してきてあげたお陰でしょ…」
「相変わらず可愛げがねーなー。もう…」
水蓮は夕陽に手をかざし、その隙間から仏間の顔を見た。
「私…そんなに可愛く無い?」
水蓮はかざしていた手を除け、眩しそうにも悲しそうにも見える表情で、仏間をじっと見つめた。
水蓮の顔は夕陽に照らされて肌も瞳も長いまつ毛も輝いている。後頭部で高く結ばれた黒く長い髪は、風に吹かれて僅かに靡いている。
「…そんなことない…可愛い。」
その言葉を聞くと、水蓮は仏間の頭を抱き寄せ、仏間の唇に口づけをした。
「…やっと可愛いって言ってくれた…何年待たせるのよ。馬鹿…」
「お、男がそんなに軽く、女に可愛いとか言うほうがおかしいだろ!」
仏間は高鳴る鼓動で心臓が口から飛び出しそうになりながら、正面を向いた。
もうすぐ、山の稜線に太陽が沈む。
そしてまた、美しかった一日が過ぎてゆく。
冷める雨の音が、水蓮の心をとてつもなく冷たく、悲しくさせる。
美しく着飾り薄い化粧をした水蓮は、前後を父と母に挟まれて廊下を歩いていた。
雨に濡れた庭の芍薬がこうべを垂れている。まるで今の自分の姿を見ているようだった。
部屋に入り、見合い相手が来るのを待つ。両親は終始、嬉しそうな顔で会話している。
見合い相手はどんな忍の男子なのか…そんなことは水蓮にはどうでも良かった。
「お待たせしたな。」
父と同じ年くらいの大柄の男性が、頭をぶつけないよう少し屈んで部屋に入ってきた。
その後に、少し遅れて見合い相手の少年が入って来る。
水蓮はどうでも良いと頭で思っていながらも、つい恐る恐る、その少年の方を見た。
「ぶ、仏間⁉な、なんで⁉…」
「ハハハ。驚いたか。仏間様とお前、友達なんだろう?仏間様のほうから、許嫁にするなら絶対お前が良いと言って下さったんだぞ。良かったなぁ!」
父が明るく母に、なぁと笑顔で同意を誘い、母も笑顔で何度も頷く。
「水蓮ごめん…驚かせて。」
「友達とはいえ、見合い相手が仏間だったとは、さぞ驚いただろう。すまなかったね。私は父の千手鏡間だ。…それにしても、まったく仏間には勿体ない美人だな。」
水蓮の心臓はバクバクと鳴る。だが、自分以外の全員が笑顔だ。
「ということで、私たち大人が居る必要はないだろう。さ、二人でゆっくり話なさい。」
「水蓮、千手一族の長・鏡間様のご子息に見初められていたなんて、やるじゃない!仏間様、よろしくお願いします。ウフフフ。」
大人たちは楽しそうに談笑しながら、部屋を出ていった。
「・・・・。」
「いや、だから悪かったって!俺だってお前に見合いのことは言うなって言われてたんだから、仕方ないだろ?機嫌直せよ。ほら、ここの和菓子うまいんだぜ。食えよ。」
「あんた、私と見合いをするっていうことがどういうことか…解っていて私と見合いをしているの?」
「当たり前だろ。お前と、将来、け、結婚しようって話だ…。」
仏間は足を組んで座っていたが、急に正座に座り直し、まっすぐ水蓮を見据える。
「ちゃんと言う。水蓮。俺の許嫁…いや、俺と結婚してくれ!」
そう言って仏間は深く頭を下げた。
「ごめん。出来ない。」
「・・・⁉」
仏間は急いで顔を上げ芙蓉の顔を見た。想定外の水蓮の返答に動揺している。
「あんたは人形の私を、親に買って貰うのね。」
「は?違う!俺が、自分で許嫁は水蓮が良いって言ったんだ。確かに見合いは父の指示ですることにはなっていたけど、俺は、水蓮以外と結婚する気はないんだ!」
「…答えになってないよ。こんなに長く一緒に居て、私の事、私の一族の事、理解してくれていなかったんだね。」
「いや、待てよ。俺は…」
仏間はハッと気が付いた。自分は確かに、親の指示で許嫁を決めることになり、たまたま水蓮と見合いができただけだ。
しかし、水蓮は一族を高い金で売る、橘一族の娘だ。
・・・水蓮と見合いで結婚するということは、結局、俺は、水蓮を・・・
「すまない。俺が軽率だった…。でも!たとえこんな形だとしても、結果が良ければそれでいいじゃないか。俺たちが結婚すること、その結果が一番大切だろ?」
「自惚れ無いで!!!」
「…お前も俺の事、好きでいてくれてると思ってたけど、違うのか…」
「・・・・。」
ザ―――…二人の沈黙に、春の終わりの冷たい雨の音だけが答える。
「…すまない。俺の勝手な思い込みだったみたいだな。やめよう、こんな見合い。」
・・・どうして私に直接求婚してくれなかったの?・・・
水蓮はそう喉まで出かけたが、必死に抑える。
仏間の事情はよく解る。忍の男子は十四歳になると許嫁を見つける慣習があり、まして千手一族の長の息子の仏間なら、それを拒むのは無理だっただろう。
金で買われて結婚することをずっと嫌悪してきたが、仏間の言う通り、仏間と結婚できるという結果だけを受け入れるべきなのかもしれない。むしろ相手が仏間だったことを幸運な奇跡だと歓迎すべきだろう。それにどちらにせよ、自分に断る権利は無い。
「そんなことない…私も、仏間の事、大好きだよ。…見合いなんて絶対にしたくないって思ってたからついムキになちゃった…。仏間の言う通りだよね!私たちが結婚できるなら、それでいいよね!」
そう言う水蓮は、歪んだ笑顔で俯いた。
「いや、俺が悪い。許嫁を決める時、俺が、自分で水蓮に直接申し込むべきだった。嫌な想いさせて本当にごめん。でも俺、絶対に水蓮のこと幸せにするから!」
仏間は心を込めて水蓮に謝った。
本来なら見合いはやめて、改めて求婚すべきなのだが、見合いは家と家の決めごとである。金銭も絡んでいる。今さら取り消せばこの先二人の結婚に障害が出る。
仏間は不本意だったが、このまま見合いで水蓮と結婚するのが最良だと判断した。
トントントン。襖を叩く音がし、まもなく大人たちが入ってきた。
「どうした?二人とも顔色が悪いが。」
「大丈夫です父上。無事に、良い返事を頂きました。」
「おおそうか。良かったな。水蓮、これからは許嫁として仏間を支えてやってくれ。」
「は、はい…こちらこそ、不束者ですがよろしくお願いいたします。」
水蓮は鏡間に向かって深く頭を下げた。それを見て両親は心底安心し、顔を見合わせた。
「これで新しい事業の雲の国との交易を実現できるな。」
「あちらの商人達にはうちは一族を雇っている者も多いみたいだし、こちらは千手一族に守って貰えるなら安心ね。」
「たとえ仏間が次の長にならなくとも、彼は一族のかなりの実力者として認められているし、鏡間、仏間どちらが戦死したとしても、結婚するメリットは大きい。」
「ねぇ、そろそろ水蓮にあのことを教えたほうがいいかしら?」
「そうだな…まぁまだ十四だから早い気もするが、若造のほうが効果はある。仏間は芙蓉に惚れているようだから手が早いかもしれんし、早く教えておいた方が良いな。」
水蓮が寝る前に妹たちと自室で遊んでいると、母から別室に来るように言われた。
小さな灯りが揺れる部屋に入ると母は芙蓉と膝を突き合せて座り、手を握って話し始めた。
「男女の営みのことはもう教えているから知っているわね。」
「う、うん…」
「これから最も大切なことを教えるから、よく聞きなさい。我が家の、橘一族のこれからに関わる大切な事よ。」
芙蓉はごくりと唾を飲み込む。男女の営みに、他になにどんな重要な意味があるというのか。恥ずかしい気持でドキドキした。
「男女が初めて交わる時。その時だけ、使える力があるのよ。」
「・・・?」
「私たちは忍じゃないけど、それを『傾国の術』って呼んでいるわ。傾国の美女は知っているわよね。そう、私たち女が、男を操れる術よ…」
そう言って母はほくそ笑む。
「どうやって使う術なの?」
「ふふふ。初めて交わった瞬間、これから実行したいことをイメージして、それを伝えるつもりで男の目をみつめるの。その時相手は決してあなたから目を離せないわ。それで口づけをしてやりなさい。そこで性行為を止めてはダメよ。男が果てるまで最後までするの。」
「・・・・。」
生々しい表現に、水蓮は赤面して俯いた。
「一種の幻術みたいなものね。性交中のあなたの瞳孔からは相手の頭の中の脳内物質を刺激して中毒性を発生させる信号が出る。洗脳するのよ。あなた自身が強く相手をどうしたいかを脳内で考えることで、洗脳の効力も強くなるの。」
「それが、何だっていうの…?」
「仏間と初めて性交する時に、『私の言うことは絶対。私に一生従いなさい』、そう仏間の瞳を見て伝えながら抱かれなさい。」
「…な、なに言ってるの!やめてよ。私たち結婚するまでそんなことしないし、それに仏間を洗脳だなんて…なんで?」
「そうね。だけど仏間に抱かれそうになったら、拒まず抱かれなさい。一刻でも早く、男を自分の虜、思い通りに洗脳するのよ。貞操なんてどうでもいいわ。洗脳することが一番重要な事なのよ。大丈夫、妊娠は自分で望まない限り絶対にしないから。」
「…父上も…母上に洗脳されてるの…?」
「私はこの家の当主として父上を婿養子に貰ったから、父上にその話は伝えたうえで結婚しているわ。でも、本人が相手を洗脳するつもりで性交しなくても、男は皆、橘一族の女を抱いてしまえば本能的に、絶対に逆らえなくなるものなのよ…フフフ。」
見たこともない不敵な笑みに、母が悪女のように見えてきた。
橘一族の女に、そんな能力があったなんて・・・水蓮は驚愕した。
「その洗脳、絶対にしなければならないの?それに、なぜ仏間にする必要があるの?」
「千手一族を陰から操るために決まっているでしょ。」
「・・・・!」
「罪悪感なんて持つ必要は無いわ。忍のほうだって、私たち一族を利用しているじゃない。これが忍の居るこの世界で、橘一族が生きていくための方法なのよ。」
水蓮は結局寝付くことが出来ず、気づけは窓の外は青く明るくなっていた。
隣で寝ている妹たちを起こさないようにそっと部屋をでて、広い庭にある東屋まで歩いて行った。徐々に群青色は薄れ、木々や物の形が鮮明になってゆく。
水蓮は混乱していた。
橘一族の女は、ただ金で売られ、買われてゆく人形ではなかった。
売られていくように見せかけて、自分で相手を洗脳して利用する悪魔だった。
だがその事実は、これまで人形である自分の運命を嘆いてきたことから救ってくれる気持にもなった。
それでも仏間との結婚は、仏間と千手一族を、橘一族が利用するための手段なのは間違い。
自分のことを純粋に好いてくれる仏間を、自分は、橘一族の為に利用しなければならない。
でも、そこに愛があれば、それでもいいのかもしれない。
そう、結果さえ良ければ。
「ううん。そんな結果、良い結果なんかじゃない。私、仏間を洗脳したくない。仏間をだましながら一生一緒に生きていく自信なんて無い!」
芙蓉は声に出して言った。両手で抑えた顔から、涙がこぼれ落ちてゆく。
「本気で言っているのか!」
「婚約破棄なんてしたら、家や一族がどうなるか解ってるの⁈仏間様以上にあなたにとって好い相手なんて、居ないのよ⁉」
「仏間のこと…私じつは嫌いなの。それならまだ、ほかの人と結婚したい。」
パシン!母が水蓮の顔を叩いた。
「いいから、仏間と結婚しなさい。あなたに選ぶ権利なんてないのよ!」
左頬を抑えながら、水蓮は母を睨みつけた。
「そんなに仏間のことが好きなの?純愛…そんなものでこの結婚をやめたら、後で後悔するのはあなた自身よ!好きな男と結婚できるなんて奇跡なの!目をつぶりなさい。」
母には水蓮の考えていることが全て解っていた。
その言葉を聞いて、また芙蓉の心に迷いが生じる。
母の言う通り、好きな男と結婚できる、それ以外の事は見ないフリをすればいいだけなのか。
「橘の女は皆、自分で結婚相手を選ぶことなどできない。だが仏間様が水蓮を選んでくれた。お前も仏間様を愛している。これは奇跡だ。もうそれでいいじゃないか…」
水蓮の気持ちを後押しするように、父が優しく言った。
それから水蓮と仏間は、寒い冬には体を寄せ合って歩き、春には満開の桜の下で口づけを交わし、夏には川で水を掛け合って笑い合い、秋には二人で夜空を見上げて星を眺めた。
そうして、二人の愛溢れる美しい時間は過ぎて行った。
二人が十七歳になった夏、浴衣を着て二人で夏祭りへ出かけた。
子供がはしゃいで走り回り、人々は遊びや食べ物に夢中になって楽しそうに笑っている。
水蓮よりも二十センチ以上背が伸びた仏間が、隣を歩く水蓮のほうを見る。浴衣の抜き襟から白いうなじが見え、大きく膨らんだ胸を隠すように浴衣の襟元がきつく締められていた。
「なぁ…今日家に父上も母上も居ないし、何か食うもの作ってくれよ。」
「なにそれ。今ここで何か買って食べればいいじゃない。」
「そうだけど、夕飯!今食べたって夜は腹が減る。」
「リンゴ飴でも食べてれば~。」
「おう。じゃあリンゴ飴五十個買うから、家で一緒に食べようぜ!」
「あ、下手だけど冗談言えるようになったんだね。分った分かった。作ってやる!その代わり、お代は高いわよ?」
「おう。こないだの任務の給料入ったばっかだから大丈夫だぞ。」
「いや、そこ冗談だから。」
仏間の両親は留守で、兄弟は数年前に全員、戦で亡くなっていた。
食材を手に下げ、二人で誰もいない家に入ってゆく。
「わぁ綺麗ね。仏間のお家はいつ来ても色んなお花が咲いているから大好き!」
水蓮は庭が見える部屋に入って、競うように咲く花たちに見惚れている。
すると、仏間はそっと後ろから水蓮を抱きしめた。水蓮の心臓がドキリとする。
「あ、私の着替え、どこに置いて貰っているか知ってる?浴衣じゃ料理しにくいし…」
誤魔化すように言って仏間の腕を除けようとしたが、仏間は更に強く水蓮を抱きしめた。
「・・・抱きたい。」
水蓮の心臓が止まりそうになり、そしてまた更に鼓動が速くなってゆく。
仏間の右手が浴衣の襟の隙間をすり抜け、芙蓉の左胸をとらえる。先ほどから仏間の熱い息がかかっている耳たぶを仏間が唇で噛む。そのまま唇で真っ白な首筋をゆっくりなぞる。
「や、やめて…」
やっとそう言葉を洩らすと、その言葉を無視して仏間が帯を解き始める。
「だ、だめだよ…こんなこと…」
「結婚するまでなんて、我慢できない。」
「だめ!我慢して!」
水蓮は三年前に知ってしまった事実を、これまで心の底に深く沈めてきた。
今こうなってしまっては、もう本当にどこにも逃げられなくなるという恐怖が湧いてきた。仏間に抱かれたら、仏間はどうなってしまうのだろうか。恐ろしかった。
だが、仏間の体格と力に敵うはずもなく、考えているうちにどんどん浴衣が脱がされてゆく。気が付けば畳の上に横たえられ、仏間の手が最後の砦である肌襦袢の紐に手をかけていた。
スルスルスル…ついに腰紐が解かれ、水蓮の白くて大きな胸が露になった。仏間が無言でその胸に吸い付く。
・・・どうしよう。どうしよう。どうしよう・・・
仏間の手が水蓮の股間に届きそうになった時、水蓮は叫んだ。
「今日!月の物(生理)なの!だから、無理!」
仏間が顔を上げて残念そうに水蓮の顔を見る。
「そ、そうなのか…悪い。」
あまりに高鳴る胸の鼓動で、目の前まで揺れてしまいそうになりながら、水蓮は急いで肌襦袢を体に巻き付け、起き上がった。脱がされた浴衣を羽織り、急いで帯を巻く。
その様子を見ながら、仏間が水蓮に向かって静かに言う。
「お前が嫁いで来たらさ…お前の好きな花も、沢山植えたらいい。」
「うん…ありがとう。そうだね…私、急に用事を思い出したから、帰るね。」
水蓮はまともに着付けられなかった浴衣のまま、急いで外へ飛び出していった。仏間が焦って後を追いかける。
「そ、そんなに嫌だったのか?…ごめん。もうしないからさ。送って行くよ。」
陽は傾き、ヒグラシの声が聞こえている。
「ううん。仏間は悪くないよ。まだ明るいし、一人で帰る。じゃあまた。」
そう言って走って行った。これ以上、仏間と一緒に居たくなかった。
「ただいま…」
「あら。帰ってきたの?せっかく二人きりにしてあげたのに。…って、あら。あなた、ついにしてきたの?」
自分の姿をまじまじと見る母の視線に、水蓮も自分の姿を見た。急いで着つけたので浴衣はガタガタ。しかも纏めていた髪の毛もずいぶんと乱れていた。
「し、してるわけないじゃない!結婚するまでしない!」
そう言って母の横を走って家の中へ入って行った。
「あの子も頑なね…もう一度、最初から抱かれ方を教えた方が良いかしら。」
水蓮は今日の出来事を思い出していた。
実際に仏間に抱かれそうになってみて、これまでの不安が一気に実感に変わり、再び仏間との結婚に迷いが生じ、心に葛藤という嵐が訪れた。
この三年間、仏間は心から自分を愛してくれた。水蓮もまた、仏間を愛していた。
だから、抱かれることで仏間に威力は弱くても「傾国の術」をかけてしまうのは仕方がない事だと自分に言い聞かせてきた。むしろ、「ただ一人、私だけを一生愛して」そんな風に術をかけるのもいいかもしれないとさえ思っていた。
しかし、男が女の体を求める時の姿を知ってしまい、恐怖にも似た不安が沸いた。
仏間が自分の虜…一生言いなりになる。それを自分と、自分の一族が利用する…
愛のなかで露になる人間の欲望と本能、そしてそれを生きるために利用する欲望と本能。
嫌悪感で吐き気がした。
自分が仏間を変えてしまう恐怖。仏間が変わってゆくのを見る恐怖。
そして、自分がいつか仏間を愛せなくなってしまうかもしれないという恐怖。
耐えられなかった。
「おい…嘘だろ?」
「もう無理なの。解って…頂いたお金は、必ず返すから。」
「無理矢理抱こうとしたことは反省してる。もう二度としない!」
「違うの…私の気持ちの問題なの。もう仏間を愛していく自信が、無いの…」
「一時的にそんな気持になっているだけだ。待つから…お前が自信が持てるまで。別れるなんて、やめてくれ。俺は、心からお前を愛してる。」
「私が橘一族で、あなたが忍でなければ良かったのかな…」
「・・・?」
仏間は水蓮が何を言っているのか、さっぱり解らなかった。意味不明なのは昔からだが、これは笑えない。ハッキリ理由を教えてほしい。だがそれが怖い。
「お前は橘一族だが、もう人形なんかじゃない。俺とお前が結婚して、忍が橘一族を利用するようなシステムを二人で変えよう!」
売られ、買われる・・・人形。
ううん。私は人形のフリをした、悪魔だわ。
なぜ…なぜ、私はなぜ橘一族なの?
なぜ、私たちは忍を利用し、忍は私たちを利用するの?
なぜ、そんな生き方でしか、生きられない世界なの・・・?
水蓮は無言で仏間に背を向けて歩き出した。
「待てよ!」
仏間が水蓮の腕を掴む。
「…私は……こんな忍の世界なんて、絶対認めない…」
その言葉に仏間は何も言い返せず、ただ去ってゆく水蓮を見送るしかなった。
その後、仏間側から破談を申し出た。そして水蓮の両親もそれを受け入れた。
雲の国との貿易ルートはこの三年間で完成しており、正式に雲の国から承認まで受け、もう千手一族の加護を得る必要性は少なくなっていたからだった。
だが、破談が申し込まれる前に、水蓮が仏間と別れたいと申し出したせいでかなり揉めた。仏間も何度も水蓮を説得しようとしたが、水蓮は頑として受け入れなかった。そのことにより、少なからず千手側としこりが残ってしまった。橘一族の間でもその事は大きく問題視され、一族会議で水蓮に責任を取らせることが決まった。
「破談をあちらから申し出て下さったのは、仏間様の最後のあなたへの優しさね…。でもこんなことになっては、あなたにはきちんと責任を取って貰うわよ。」
「解っています。」
「同じ橘一族で、忍相手に遊郭を営んでいる家がある。お前にはそこで働いてもらうことになった。」
「・・・・。」
その遊郭で働く遊女に橘一族の女は当然、一人もいない。
そこで橘一族の娘が遊女として働くことは最大の屈辱である。まして客は忍である。
「解りました。」
抗うことなく、水蓮は小さく返事をした。
水蓮は両親に連れられ遊郭を営むその家にやってきた。
かなり大きな屋敷で、遊郭のほかにも商業・貿易・宿屋の経営など手広くやっており、羽振りがいいようだ。
「いらっしゃい。」
背が高くひょろっとした青年が出てきた。
「ああ、こちらが水蓮さんですね…どうぞ、どうぞ中へ。あ、僕は密です。よろしく。」
男は優しく微笑んで三人を招き入れた。
「…で、いつ水蓮をこちらへ差し上げましょうか。」
父が重苦しい口調で男の表情をうかがう。それに付け加えるように母が言う。
「…実はこの子、まだ未経験で…罰とはいえ、その、お手柔らかにお願いいたします…」
水蓮は赤面することもなく、無反応で自分の膝を見つめている。
男が首を傾けて微笑む。
「あの、僕が娘さんと結婚させて頂くことはできないでしょうか。」
男の、その作り笑いにも見える笑顔から、思ってもよらぬ言葉が飛び出し両親は驚く。
「ど、どういうことでしょうか?」
「ですから、僕と娘さんを結婚させて下さい。あ、いや、娘さんを僕に下さい。うーん違うか。えっと、娘さんは僕が一生守ります、いや、娘さんは僕が必ず幸せに…」
「この子は罪として遊郭で働くということでこちらに差し上げるのです。あなたと結婚するとは、どういうことになるのでしょうか。」
母が天然ボケしていそうな男に冷静に訊いた。
「ああ、すみません。説明が抜けていましたね。一族の会議の時、水蓮さんを見て、僕、一目惚れしちゃったんですよ。でもあの時、みーんな水蓮さんに罰を与えろ!ってうるさかったでしょ?だからうちの遊郭で働かせたらどうかって言えば、水蓮さんが僕の所に必然的に来る羽目、いや失礼、来てくれるかなぁと思いまして。あはは。」
男は悪びれた様子もなくヘラヘラと笑っている。
「では、水蓮は遊郭で働かなくても良いということでしょうか。」
「ええ、勿論ですよ。でも一族の手前、働いていることにしておきましょう。家は綺麗どころが沢山揃ってますからね。誰かに水蓮さん役を頼みましょう。あ、遊郭では源氏名を使ってますから誰でもいいんですけどね。はは。」
「水蓮、こう仰っておられるが、お前はどうなんだ?」
父が少し動揺しながら芙蓉に訊く。水蓮はゆっくり密の顔を見る。
二重の目を細めて口角を上げニッコリと自分に向けて微笑む男の顔は中性的で、まるで女のように綺麗だ。肩にかかるくせ毛の髪は栗色で、瞳は深い琥珀色、肌はかなりの色白、骨ぼったい細くて長い指、背は高そうだが痩せている。
黒くて直毛の長髪に、大きく切れ長な瞳、太い眉、厚い胸板、太い指…仏間とは正反対だ。
「私の…どこがいいんですか?」
「お美しいところです。あと…信念を曲げないところですね。」
水蓮は仏間を失って以来、感情が希薄になっていた。マヒしていると言ったほうが正しいかもしれない。遊郭に行くことになっても、そこまで辛くも無かった。この男が突然求婚してきたことも、そんなに驚きもしなかった。
だが、“信念を曲げないところ”と言われ、急に胸が熱くなった。
自分を理解してくれる人がいたのだと、心が震えた。
「…結婚、お受けします。」
「それがいいわね…想定外でとても驚きましたけど、本当に助かりました。ありがとうございます。どうか、この子をよろしくお願いいたします。」
「あー良かった!嬉しいなぁ。こんな美人と結婚できるなんて。まぁこの状況じゃ断れないでしょうけどね。あ、すみません。アハハ。」
「最近、あそこの遊郭に、橘一族の美人が入ったらしいぞ!」
「マジかよ!でも買うにも高そうだな。」
「ああ。でもあの橘一族の女だからな。俺たちみたいな下っ端の忍には縁がねぇ存在だし、大金出してでもやりたい奴で順番待ちらしいぜ。」
千手一族の会合の後、近くでそんなやり取りが仏間の耳に入ってきて、思わず反応した。
・・・まさか…水蓮じゃないよな・・・
急に心配になり、居ても立ってもいられず、遊郭へ走った。少しでも水蓮の責任が軽くなるように自分から身を引いたが、水蓮がなんらかの罰を受けるであろうことは想像できた。まさかそれが…
遊郭の前に着くと、開店前にも関わらず多くの忍がたむろっていた。
ここまで来てみたものの、頭が混乱してこれからどうしてよいか分からず立ち尽くす。
そのうち開店の時間になり、ひょろりとした色白の男が扉の鍵を開け、一礼する。
「皆さま、お待たせいたしました。今日は三人も新しい子が入りましたよ。ぜひ見てやってくださいね。」
・・・そのうちの一人が水蓮だったら!・・・
仏間は胸が苦しくなる。だが確証は無いし、ここでむやみに本人の本名を出して所在を訊くのは、個人情報を周囲に知られてしまう危険がある。
・・・どうやって確かめればいいんだ・・・
「千手仏間様じゃないですか?婚約者に振られて寂しさを埋めにいらっしゃったとか?」
気づけば開店をした店主らしき男が仏間の前に立ってニコニコ笑っている。たむろっていた忍たちは全員店の中に入っており、店の前には仏間とその男二人だけだった。
初対面にも関わらず、なんて失礼な奴だ。しかもなぜその事を知っているんだ。
「なんていうのは冗談ですよ。あはは。気になる事があって来られたんでしょ?私もお話があります。ここじゃ人目がありますから、中で話しましょう。」
仏間は頷き、男の後ろに着いて店の入り口とは違う入り口から中へ入った。
「水蓮は、ここで働いているのか?」
「働く、予定でした。でも変わりました。ん?いや、それも違うな。予定通りになったというほうが正しいなぁ…」
「どっちなんだ!早く答えろ!」
思わず声を荒げるが、男はうろたえる様子もなく、笑顔のままで答えた。
「あ、はい、はい。私と結婚したんです。」
「・・・・⁉」
「水蓮さんは貴方と婚約解消したせいで、一族から重い罰を受けることになりました。その罰を決める会議で、僕がうちの遊郭で働かせたらどうかって提案したんですよ。」
「お前が水蓮と結婚…しかも遊郭で…」
「いやいやいや、ちょっと話は最後まで聞いてくださいよ。」
こちらを睨みつけ今にも襲い掛かってきそうな仏間に、掌を向けて男がまた笑う。
「と、提案したのは、実は僕が水蓮さんと結婚したかったからなんです。遊郭で働くよう偽装して僕と結婚してもらったというわけです。勿論遊女になんてなってませんよ。」
・・・この男は水蓮の刑罰を利用して、水蓮を自分の物にしたのか!・・・
仏間の怒りは頂点に達した。こぶしを握り立ち上がる。
「あの、お気持ち良―く解ります。でも、僕が水蓮を助けなかったら、もっと酷い目に遭っていたかもしれませんよ?貴方は水蓮を捨てたんですよね?あ、水蓮が捨てたのかな。まぁどっちでもいいですけど、水蓮はもう僕の妻です。ということで、もうここには来ないでください。それをお願いしたかったんです。はい、では、お帰り下さい。」
男に全く悪びれた様子は全くない。口数が多く、仏間の気持ちを逆撫でばかりする。
ニコッと笑って立ち上がり、笑顔のまま部屋の扉を開け、どうぞと仏間の帰りを促す。
「まだ話は終わってない。芙蓉とお前は以前から知り合いだったのか?」
「いいえ。一族の会議で初めてお会いしました。一目惚れってやつですね。もういいですか。私も仕事がありますので。」
「仏間…もうやめて。」
水蓮が仏間の前に現れ、悲しそうな顔をして立っていた。
「水蓮。出てきちゃだめって言ったじゃないか。二人で喧嘩とか始めないでね…」
「夫は私を助けてくれたの。だから結婚した。もうあなたと私は他人よ。二度とここには来ないで。」
「フッ。お前…こんな奴と結婚したかったのか?」
仏間は水蓮のことを引きつった笑顔で、軽蔑した目で見る。
「ええ。私にとって最大の理解者よ。同じ橘一族だしね。」
真顔のまま、表情を全く崩さない水蓮…あの頃、仏間が惹かれた笑顔はそこには無かった。
仏間は何も言わずに水蓮の横を通って出て行った。
「…あれじゃもうとうぶん立ち直れそうにないね。可哀想に。あはは。」
密は相変わらずヘラヘラと笑っていた。
何も言わずに抱き締めて欲しかった。でももう、それも叶わない。
季節が廻る度、時は二人を永久へと遠ざけていった。