”ぼくのかんがえた魔理沙ちゃんと咲夜さんの過去”なお話。ちょっと重めなシリアス。
初出2013/08/03。第十三回東方ねちょSSこんぺ参加作。お題「傷」
(他サイトと同時投稿です)
”ぼくのかんがえた魔理沙ちゃんと咲夜さんの過去”なお話。ちょっと重めなシリアス。
初出2013/08/03。第十三回東方ねちょSSこんぺ参加作。お題「傷」
(他サイトと同時投稿です)
「さあ、始めるわよ」
主の小さな掌より放出された紅の霧は、バルコニーより漂い出て、正面の湖と、館を取り巻く原生の森に満ちていく。色彩は異なるものの、咲夜はその情景を懐かしい気持ちで眺めていた。
霧は、現実と異境とを分ける境界。
かつて咲夜は、霧にいざなわれては幾度と無くその中に身を投じ、そして戻った。
はたして霧は、霧自体は、こちらのものであったのか、それともあちらのものであったのか――
『霧の夢はもう見ない』
この土地の夏の暑さには、十六夜咲夜は毎年辟易していた。
真夏の鋭い日差しは容赦なく気温を引き上げ、上がった気温で湿気が増す。陽の差さない館の奥はひんやりと涼しいが、咲夜の仕事は館の内だけに留まらない。館の外に一歩出れば、そこには一瞬眩暈を覚えるほどの高温多湿の空気が満ち満ちている。
どこかのように一日のうちに雨が何度も降ったり止んだりをすることがないから、洗濯物を干すのにあまり心配せずに済むのが多少の救いだった。湿気の分だけ、乾くのが少し遅い気はするが。
そんな夏も、今年は、少しだけ楽だった。
咲夜の主である吸血鬼の少女・レミリアが、日光が弱点の自分が外を出歩くのに便利だからという理由で、この土地・幻想郷を紅い霧で覆って日差しを遮ることを思いつき、食客で親友の魔女・パチュリーと共謀してそれを実行に移した。
気温は上がらず、従って湿気も増さず、実に過ごしやすかったのだが、二人の少女が館に乗り込んできて大暴れし、快適生活は二週間ほどの短命に終わったのだった。
残暑がようやく過ぎ去って、湖のほとりに建つ紅魔館にも乾いた風が吹くようになってきた頃。館の地下の大図書館で、咲夜は探しているものを見つけて足を止めた。
ああ、いた。しかし、よりにもよって――
壁を背に床に座って、脚を軽く曲げ伸ばして、体をもたれ掛けている本棚に金の頭を預けてる幼い少女。黒白二色の小さな体はその場をじっと動かず、けれども肩をかすかに上下させ、その呼吸リズムは穏やかに一定。
……よりにもよって、居眠りとは。
去る夏の日に、巫女と一緒に館で暴れたもう一方の少女、魔法使い・霧雨魔理沙だった。
館に乗り込んだ際に図書館を発見して以来、ときどきこうしてこっそり侵入し、書架の文献を漁っている。
門番はシエスタするか花壇の手入れに夢中になるかで、この小さな魔女を危機感なく素通りさせてしまうことがほとんどだった。たまに相対しても、弾幕戦があまり得意でない彼女はよく無慈悲なマスタースパークの餌食になっていた。
魔理沙はたいてい図書館の採光窓から侵入するので、咲夜を含め館内の使用人では察知しにくい。読書に没頭するパチュリーでは、なおのこと。
パチュリーから時と空間の相関についての啓示を与えられ、咲夜が空間をいじった広大なこの図書館に、パチュリーの使い魔である小悪魔たった一人の目では到底、警戒は行き届くはずもなかった。
勝手に入り込むのはもちろん、本を持ち出されるとあっては我慢がならないとの友人の憤慨ぶりを見かねて、レミリアは咲夜に図書館を巡回するよう言い付けていた。
カツ、と石床に着いたヒールが硬質な音を立てた。宙を飛ばずに歩いて近付く。寝てる。時は止めていない。寝てる。屈んで目の前に座り込む。寝てる。顔を覗き込む。寝てる。……完全熟睡。
なんたる無防備、無頓着、無警戒。どういう神経をしているのやら、と思わずまじまじと顔を眺めた。
魔理沙は実にはしっこい。幻想郷一と自ら嘯くだけあって、その飛行速度は随一を誇る。侵入を見つかって館から逃げ去るときの魔理沙には、咲夜も含めて館の者は誰ひとり追いつけない。時を止めれば可能だったが、追っ払いさえすればそれで良いので、追いかけ捕まえるようなことをしなかった。
だから、こんなに間近で魔理沙を見るのは、初めてのことだった。
小さいな、とは思っていたが、手足や体格、その寝顔も、全てがなんとも幼さの抜け切らないつくりをしていた。見るからに柔らかそうな頬は血色よくふくふくしていて、はちみつに午後の陽差しを溶かしこんだかのような金色は髪は、柔らかそうにふわふわとした自然な波が掛かって小さな肩を覆っている。
まるで遊び疲れてその場で寝入ってしまった毛の長い金毛種の子猫のようだった。
その髪が一房離れて、あどけない寝顔にかかった。顔を隠してしまうそれに、ごく自然に手が伸びる。指でそっと、耳の方へ押し退けた。
指の背が魔理沙の頬に触れて、そこに感じたものにはっとした。当たり前のことなのに、記憶が抜け落ちでもしていたかのように、そのことを忘れていた自分を自覚する。この館に住まう者ではない、その証。
「んむ……」
頬がこそばゆかったのか、魔理沙の眉がぴくりとして、瞼がゆっくりと上がっていく。
「魔理沙」
「ふあ?」
その眇めてる両目の前に、ようく見えるよう、咲夜は銀刃をかざして見せてあげた。
「チェックメイト」
魔理沙はトパーズの瞳をぱちぱちと瞬かせ、それからゆっくりと、自分の顔の横に両手を上げた。眉を寄せて、さもひどいと言わんばかりのわざとらしい顔で、咲夜を見る。
「開幕直後ノーヒントのナイフでゲームオーバーとは……紅魔館はいつからどこぞの探偵ゲームばりの理不尽仕様になったんだ」
文句を垂れる声自体は外見同様に女の子らしい甘めなそれなのに、口調は至って女の子っぽくない。男性的かといえばそうでもなく、粗野な感じは全くしない、不思議な喋り方をするのが魔理沙だった。
「意味がわかんないこと言わない。というかこんなとこで寝てるあんたが悪い」
「三徹明けの読書はさすがに睡眠導入の効果が高すぎたぜ」
そんな状態で。はぁ……呆れる。溜息が落とすのと同時に、ナイフの切っ先も床に向く。
「あんたは人間でしょう? ここはノーブルヴァンパイアの館なのよ? あく……妖怪のねぐらに潜入する心構えがまるでなってないわね。妖怪に対する危機感が足りな過ぎる」
言い間違えてしまった。悪魔のことを、この土地では"妖怪"と呼ぶのだった。
魔理沙はたぶん、普段からこんな調子で様々な妖怪の元を訪れているに違いない。確証は無いが当たらずとも遠からずというところだろう。
よくもまあ今まで無事でいられたものだ。もっとも、この土地の妖怪たちは食事に困っていないようだから、あちらと事情が違うせいかもしれないが。
「あー? なんで助言?」
両腕を下ろしながら訝しんで言う魔理沙に、う、と言葉に詰まる。侵入者に忠言してどうする。つい思わず、口に出てしまったのだった。
「それより、そういうお前だって人間なんだろメイド長。なんで妖怪の元で働いてるんだ?」
「あんたこそ、どうして森で暮らしてるの。人里におうちがあるんでしょ?」
質問に質問で切り返した。こちらへの質問を躱すのと、単純な興味とで。この土地の人里以外の地は、人間にとっては安住の地ではないと、咲夜は聞いていた。
「ないぜ、そんなもん」
「霧雨道具店。でしょ?」
「……勘当されたんだから無いも同じだぜ」
一瞬の間を空けた後、ぶっきらぼうな物言い。かまをかけたつもりだったが、ビンゴだったようだ。
シラを切るなり惚けるなりすれば躱せるのに。そういうところは不器用なのかも、と新たに知った魔理沙の特徴を咲夜は記憶に留めておくことにした。
件の店は人里有数の大手道具店だった。あの土地ほどではないが、こちらの土地では主に貧富によって階級が存在するようで、とすると魔理沙は富める者の家のお嬢さんの出ということになる。
魔理沙は、理由は聞いてくれるなという空気をあからさまにまとっていた。
会話のやり取りの上で、相手の気分次第で古傷を抉られてしまうような状況を、自分から作ってしまっていることに、たぶん気づいていない。幼さゆえなのか、それとも。
ともかくここは寛大に大目に見て、聞かないでおいてあげることにした。
「それなら、その森のおうちに帰りなさい。さもないと、うちのお嬢様のおゆはんにされちゃうわよ」
「仕方ない。今日のところは帰ってやるか」
「本は置いて行きなさい本は」
しぶしぶ従うように見せかけて、床から拾い上げたウィッチハットの中に本を忍ばせようとしたのを咲夜は見逃さなかった。時を止める。体の割に大きいつば広の魔女帽は、こうして物入れ代わりに使う目的もあるのか。魔女っ子あなどれない。
本を取り上げて時を戻すと、魔理沙の手がすかっと空を切った。魔理沙はきょとんとした後、咲夜を見て何が起きたかに気付く。
「あっ、なんてやつだ、この魔女め」
「私は魔女じゃなくて魔術師、というか奇術師。魔女はあんたでしょ」
「返せよー」
「それはこっちのセリフですわ」
取り返そうと伸びてくる魔理沙の手から、ひょいひょいと本を逃す。
咲夜が頭上高くに本を掲げると、それに向かって魔理沙は腕を伸ばしながらぴょんぴょんと飛び跳ねた。頭ひとつ分の身長差と、手足のリーチの差で背伸びしても届かないようだ。
なんだか子猫をじゃらしている気分になる。しかしこの子猫、可愛いだけでなく知恵が回って魔法も使えるとあっては油断できない。
少しだけ高くなった魔理沙の金髪に、ぽふりと手を置いた。
「うふぁ」
そして、それを押し下げる。魔理沙の体が、そこだけ重力が無くなったみたいに、ふわっと浮き上がったのだ。この小さな魔女は、箒がなくても宙に浮くことくらいは無詠唱でやってのける。
「ぐぬぬ……少しばかり背が高いからっていい気になりよって」
「魔理沙が小さいのよ」
帽子のあの大きさには二通りの意味があるのだと、とたった今理解した。もう一つの理由は、背が低いのを目立たなくするため。
「って、どさくさ紛れに頭を撫でるなっ」
髪、見た目通り柔らかいなと思っていたら、手が無意識に魔理沙の金の頭を撫でていた。実に愛玩動物ちっく。やはり毛並みの良い金の長毛の子猫にしか思えない。
魔理沙の手にはっしと掴まれて、頭から退けられてしまった。残念。
「ったくやれやれだぜ、油断もスキもありゃしな、……」
手の甲に触れる魔理沙の手から伝わる、柔らかな感触と、そしてぬくもり。
やはり、あたたかい。当然であることを今更に再認識する咲夜に、魔理沙の手のぬくもりは、胸に去来するものを齎していた。
咲夜のものより一回り小さい、幼さの抜け切らないあどけないつくりの手。その手の持ち主は、口した不満の最後を途切れさせて、降ろしてきた咲夜の手をじっと見つめていた。
その顔を、咲夜は眺める。手は、小さくて当たり前だった。実際見た目の通りに幼いのだから。
「あ……なんでもない」
咲夜の視線に気付いたらしく、魔理沙はぱっと手を離した。それが少々不可解に感じられて、咲夜が小首を傾げると、魔理沙は帽子を目深に被ってしまう。どうやら帽子の大きさには三通りの意味があったらしい。
箒を手にして顔を上げた魔理沙の顔には、大仰な不敵な笑みが浮かんでいた。
「今日のところはこれで勘弁してやる、だが私は四天王の中でも最弱……他の私四天王が次々とお前の前に現れるだろう! 楽しみにしておくんだな!」
「自分から最弱言うってどういう自虐なのよ。四人に増えるのは妹様だけで間に合ってるから帰ってどーぞ。さ、出口はあちらでございますわミス・イントルーダー」
最上の礼でもって図書館の出口を示して差し上げた。
†
邪魔したな、と捨て台詞を言い残して魔理沙は開け放った廊下の窓から飛び去っていった。
小さな黒い背中が夕闇の向こうへ消えていくのを見届けながら、咲夜は魔理沙の言葉を思い返す。
――お前だって人間なんだろメイド長。
長年の未練をついに断ち切る決意をして、忘れるべきと思い定めて数年余、ようやく忘れかけようとしていた一つの現実。
魔理沙に言われるより前に、彼女の頬に指の背が触れたとき、思い出してしまっていた。魔理沙のように肌にぬくもりを持つのが人間で、自分もまた、同じ存在であることを。
所用で人里へ赴いて人間と会うことはあっても、触れる機会など全くない。
主をはじめ館の住人は全員が妖怪と妖精だ。咲夜は館唯一の人間で、そのおかげでついぞ思い出すこと機会などなかったというのに。
築かざるを得なかった防波堤は、人の身でいながら魔の道を歩む小さな少女に、いともたやすく乗り越えられてしまった。
霧雨魔理沙。……その名に冠する文字は、霧。
またも、霧か。
はたして、この霧は、自分をどこかにいざなうものなのだろうか。
魔理沙に触れられた方の手を、無意識に握っていた。
久方ぶりに触れた人の体温は、止まない残響のように体の中を漂い、留まっていた。
†
よくわからない宣言の通り、魔理沙は度々、館に侵入した。
魔理沙を追い払う役は結局、咲夜になることがほとんどだった。巡回を避けられては元の子もないので、敢えて巡回の時刻を決めなかったことが功を奏してか、咲夜が図書館に行くと大抵は魔理沙を発見できた。捕まえたり逃げられたりする日々を繰り返すうち、秋は次第に深まりを見せていく。
秋冷が日増しに加わるころ、主とのお茶の席でパチュリーが、蔵書の減りが止んだ、とぽつりと言った。
この頃のパチュリーは、侵入者を見かけた時は追い出しにかかるが、侵入されること自体には既に半ば諦めているかのようだった。蔵書が減らなくなってからはさらに、索敵と排除は美鈴や咲夜、小悪魔にまかせて自身の静寂を優先しているふしがある。
魔理沙はと言えば、必要な本だけその場で"借りて"帰ってしまえば用は済むはずなのに、その場で読んだり、書き写したりするようになっていた。どういう風の吹きまわしによるものかわからなかったが、それによって図書館での滞在時間が伸び、結果咲夜が魔理沙を発見することになるという図式だった。
パチュリーからは、危険な書物が収められてる区域を教えられ、そこに魔理沙がいたら絶対に出て行かせるようにだけ頼まれた。
紅葉盛りを迎えた山が、鮮やかな赤や黄や橙で彩られている晩秋のある日、咲夜は朝の博麗神社にいた。お供を仰せつかって、主のレミリアとともに霊夢の元を訪れていた。
コタツなる暖房器具の存在を館の知識人から聞き及び、吸血鬼の少女の今日のお目当てはそれだった。当初、人里の道具店で調達可能ですよ、と咲夜は告げたのだが、伝統的家屋(ジャパネスク)に置かれたコタツに入りたいの! とのことだった。
朝から居住に押しかけられさらに我儘を持ちかけられた霊夢は、めんどくさいと一蹴するかと思いきや、「ちょっと早いけど最近朝夕寒いしそろそろ出してもいいわね」と応諾してレミリアを歓喜させた。
その代わり、と霊夢が提示してきた交換条件は、コタツの設置を手伝うことと、そして今日の昼餉だった。言われるまでもなく両方とも咲夜の仕事となった。
事の発端者であるレミリアは、お昼まであと小一時間といったところの今、仰向けでやすらかな寝息を立ててた。
ちゃぶ台を片づけて畳床の掃除、敷き布団を敷き、その上にコタツ台。コタツ布団を掛けて卓を置く。コタツが設置されるとレミリアはいの一番に座って足を入れ、物珍しそうに中を覗き、頭から潜ろうとして霊夢に諌められ、温まってきた行火にぬくぬくとして、仰向けに寝転んで格天井を眺めていると思ったら、いつの間にか寝入っていた。
レミリアは、寝起きの昼夜を逆転させることが上手くいかず、近ごろ寝不足気味なのだった。しかしせっかくこの時間まで起きておいて神社までこれたのに、眠ってしまうとはいささか忍びない、そう思いレミリアに声を掛けようとすると、うるさいから寝かしといて、と左座で湯呑みの茶を啜る霊夢に止められた。
右座のレミリアにコタツ布団を肩まで掛けてやるに留めて、咲夜も湯呑みを手に取った。どの道、昼餉は三人で頂くから、その際には起こさなければならなかった。今眠っておいたほうが少しは午後が楽だ。霊夢もそう考えたのかは、定かではなかったが。
ふう、と一呼吸置いて、霊夢が瞳に咲夜の姿を映した。その瞳の色は東洋人にありふれた黒だが、光の加減か赤茶色が透けて見える。
「最近、あんたのとこに行ってる? 魔理沙」
少々紛らわしい言い方だった。咲夜の元に、ではなく紅魔館にという意味で受け取る。
「来るわね。図書館から本を持ち出すことは無くなったけど。こっそり忍び込んでは読んでるわ」
「そう」
霊夢は、唐突に聞いてきたわりに、返した答えにはいかにも関心が薄いといった態度だった。首を傾げつつ、そういえば以前、レミリアの供で神社を訪れたとき、魔理沙も遊びに来ていたのを思い出した。
「あの子、神社にはよく来るの?」
「ん。しょっちゅうね。昔からの腐れ縁だし。でも近頃はそれほどでもないわ」
紅魔館に行くようになったせいだろうか。おそらくそうに違いない。ず、と霊夢はお茶を啜る。湯呑みを卓の上にことんと置き、卓上に誰もいない正面を向いたまま、口開いた。
「咲夜。魔理沙のことお願いね」
またしても唐突だった。しかも今度はお願いときていて、意図を測りかねて左座の霊夢を見やる。
「博麗は全てから浮いた存在、ってあいつは言ってるわ」
まるで障子の向こうの庭を眺めるかのように、伏目がちにどこか遠いところを見つめる霊夢のその瞳は、今は漆黒の色に見えた。
「私が空を飛べたり、結界を引いて内と外を分けたりできるのは、そのせいなんだって。それが"しすてむ"で、私の役割だとも、あいつが」
濡れ羽色の艷やかな髪が微風に揺れる。……襖も障子も、全て締め切られているというのに、風?
体はコタツで温もっているはずなのに、背中が急に寒く感じられた。晩秋以外の冷気に晒されてる気さえする。霊夢があいつ、と呟く度に増していく気配。それとは逆に、霊夢の気配がうつろになっていく。
霧が出る、と思った。いや、むしろ、今この場に濃密な霧が渦巻いていないのが不思議なくらいだった。
「物質からも精神からも、重力からも。人の情からも、浮いている。私には、伸ばされた手が何を求めてるかわからないし、取ることができないの」
その話はこれ以上、してはいけない気がする。さもないと、よくない事が起きる――何故か、そう思えてならない。霊夢がまだ語り続けるようならば、口を塞いででも止めなければと、咲夜の中で不可思議な強迫がじわじわと沸き起こっていく。
「だから――」
注視している中、霊夢は静かに目を閉じた。そして、瞼を開く。
「魔理沙のこと頼むわね。咲夜なら、わかるんじゃない?」
咲夜を見ながら霊夢がそう言うと、一瞬で、それまでが嘘だったかのように、妙な気配は消え失せた。霊夢の瞳には光が戻り、気配も元に戻っている。そこは、普段と変わらない神社の一室だった。
は、と息をつく。知らない間に息を詰めていた。狐につままれるとは、このことを言うのかもしれない。
一体何だったのだろう。わからないことは考えても仕方がない。が、疑問はある。
「……何故、そう思うの?」
「勘ね」
「勘、ね」
霊夢の勘とは、そこいらの人間や妖怪で言う直感的なひらめきとは、意味合いをかなり異にする。弾幕ごっこでも宴会の席での賽子博打でも、本来曲がらないはずのものが曲がって当たらず、勝負にならないくらい賽の目を当てるのが、霊夢とその勘だった。
博麗霊夢には、他の人妖には見えないものが見えている。
けれどそのことを霊夢に問い質せばきっと、何のことかわからないといった顔できょとんとするだろう。
本人はまるで"見えている"意識はなく、自身の勘を無意識、無我の境地からやってくる"なんとなく"な予感でしかないように捉えている、そんな印象を抱かせる言動はこれまでもあり、そして今回も何かを見ているようだが、それが何かは咲夜にはわからない。おそらく誰にもわからないだろう、人妖を問わず。
「そこのお嬢様にも早々に、私が浮いていることを判ってくれると助かるんだけど。……あ、もうこんな時間」
「それじゃ、お台所借りるわ」
コタツから出て立ち上がった。
主は何故か和食がお気に入りで、それによってこれまでほとんど作る機会のなかった和食は、平素の食事からもてなし料理までひと通りこなせるようになっていた。たぶん和食で育ってきた霊夢にも満足してもらえるものは作れると思う。
台所に入り、食材の下ごしらえに取り掛かる。手を動かしながら、頭の中では先ほどの霊夢の言葉が思い返されていた。
――咲夜なら、わかるんじゃない?
魔理沙の手。小さくて柔らかくて、そして、あたたかい。
霊夢は、咲夜にならその手を取れると、言いたかったのだろうか。
「わかってると思うけど、私の分に血は入れないでよ?」
「あ」
「ちょ、おま」
自分以外のための人間用料理を作る機会など、この土地に移ってきてから一切なかったのだから事故が起きるのは仕方がない。既の所で手を止めて、入れることはなかったので、霊符で夢想封印されずに済んだ。
†
雨脚は強くなる一方だった。
入用の品の注文で人里に赴き、所用が済んで里を発つその前から降り始めていた雨は、今や篠突くほどの勢いを見せ、空を行く咲夜は大ぶりで密な雨粒を斜めに浴びていた。
間もなく冬に差し掛かるというこの時期に珍しい大雨だった。打ち付ける雨粒に落葉が一息に進んで、紅葉はすぐに終わりを迎えることになるだろう。
今日の用事は注文だけに留まっていたので、荷物がないのが救いだった。
時は止めても意味が無い。雨が止むか、勢いが衰えるまで雨宿りするのが得策だった。顔に当たる雨粒に目を眇めながら、雨に霞む遠景を見渡す。眼下には下草の広がる平地が広がるのみだったが、しばらくいくと前方に雨を避けられそうな枝ぶりの楠の一本木が、まばらな低木に混ざって平地に立っているのを見つけた。
他に選択肢はない。楠に向かって全速力で飛び、そしてそこに見えたものに、咲夜は時を止めた。
「もう少しそっちに詰めてもらえない?」
「ふえっ!?」
幹に寄りかかっている小さな背中へ背後からそう言ってやると、小柄な黒い姿がびくっ! と飛び上がって、その様はいかにも小動物じみていて可笑しくも可愛らしかった。
振り向いて咲夜の姿を認めた魔理沙は、顰め面を浮かべて溜息をつく。
「咲夜……、寿命が縮むぜ」
「こっち、案外雨粒が抜けてくる。濡れてしまうのだけど?」
掌を上に向ければ、雫がそこに落ちてくる。反対に、魔理沙が立っているところは、密な葉の天蓋に遮られて雨粒はほとんど落ちていない。
着衣は既に湿り気がブラウスにまで浸透してくるほどかなり濡れてしまっていたが、桶水を被った程ではない。これ以上濡れないことに越したことはなかった。
「そりゃ、ここは定員お一人様ってことなんだが」
「あんたちっちゃいから二人でも大丈夫でしょ」
「咲夜は大きいのにか?」
「……うーんなんだか、その口を塞いでやりたくなるわね」
「口止め料は魔導書でいいぜ。一冊以上から受け付けるが」
「あいにく持ち合わせがございませんので銀のナイフはいかがかしら」
「仕方ない、特別にシェアしてやる」
半歩向こう側に身をずらして木に寄りかかり直しながら、それにしても、と前おいて魔理沙は大仰に意地悪な顔を浮かべた。
「雨に降られるなんて、瀟洒がなってないんじゃないか?」
大仰にニヤニヤ笑いを浮かべるもしかし、自分が濡れ鼠では説得力に乏しく減らず口でしかなかった。
「人のこと言えるのかしら魔法使いさん。お天気予測はどうしたの」
「どこぞの七曜みたいに五行思想を応用しつつ精霊の声を聞くなんてできないからな。私は狭く深くの一点タイプなんだ」
要するに天候関連は専門外と言いたいらしかった。
魔理沙は髪こそ濡れてないが、手に抱えてる魔女帽はびしょ濡れ。帽子と背中のエプロンリボンはぐっしょりと重く垂れ下がって、ふわふわさせてたブラウスの袖は膨らみを失ってる。黒い生地だからわかりにくいが、この分だと帽子のつばから外れた部分全て、水気を含んで湿っているのだろう。
よくよく見ると、魔理沙は腕組みをしているのではなく、腕を抱えるようにしているのに気が付いた。わずかに体を縮こまらせて、小さな肩はかすかに震えてる。
冬の雨は、雪よりも寒い。ほんの少しでも着衣が濡れれば、体温はその部分から奪われていく。溶けて水気となる前に払ってしまえる雪の方が、そういう意味ではましなのだ。
いつか間近に見、指の背にぬくもりを感じた血色の良いはずの頬も、今は色を失ってしまっていた。
その細い肩に、水滴が落ちる。
濡れた袖の張り付いた細腕を、こちら側に引き寄せた。
「うわっ!?」
浮いた小さな背中と幹の間に体を滑りこませ、前に回して組んだ手で、魔理沙を腕の内側に閉じ込めた。
「なっ、なにすっ」
「こうしないと二人とも濡れるわ。狭いんだから仕方ないでしょ」
「いや、でもっ」
「だーめ。あんた肩に雨が当たってたじゃない」
小さな手が袖を掴んで、退かそうとしてくるが、それを許さない。駄々こねるみたいにもがいていたが、それも長くは続かなかった。
「ほら、動くと雨に当たるわよ」
「うー……」
ほんの短い間の時間であっても、ただでさえ凍えている魔理沙が、自分のために大きく場所を譲るあまり肩を濡らしていたこと、そのことに気が付かなかった自分が咲夜は腹が立った。
だから、少しでも、魔理沙の寒さが治まればいいと思った。
やがて、魔理沙は諦めたように、ぽふ、と背中を預けてきた。
組んでいる手を外そうとしていた魔理沙の手はそのままで、咲夜の大人びた手の上に、幼さの抜け切らない小さい手が乗せられている。
お腹から、胸から、その手から――接している部分から、魔理沙の体温が浸透してくる。感じるぬくもりがやけにひどく染みる気がして、その切なさに目を閉じた。
雨の葉を打つ音。雨が周囲の枯れ草の地面に吸い込まれる音。それらだけが聞こえる、雨に閉じ込められた楠の下の空間は、時間の流れさえも止まっている気さえした。
「……お前……外から来たんだろ」
その時間を、再び動かしたのは魔理沙だった。
「どうしてそう思うの?」
「その髪」
「……あんただって」
片や銀、片や金。この土地の人間の髪の色は大抵は黒か、暗い茶だ。
「だからだよ。そんな色の髪の人間なんて、妖怪でなかったら人里中に知れ渡ってるだろうからな。後生まれの私が知らないはずがない」
つまり魔理沙は人里中に知れている存在というわけだ。
あちらでは金髪の者がほとんどだったが、世界各地からの人々が行き交い、栗毛に赤毛、黒髪、北方の国の銀髪、南方の国からの肌が褐色や黒い者だっていたぐらいだった。だが、どうやら単一の民族しか住んでいないこの国では、黒髪黒瞳以外の人間は相当に珍しいのだろう。
「後生まれとは限らないんじゃないかしら」
「年の割に発育が良いってか?」
「年の割に発育が良くないケースもあるんじゃない」
顔の下で、金の頭がふいっと横を向く。
「……悪かったな」
「何も言ってませんわ」
触れてはいけない部分だったらしい。今度から気をつけるとしよう。
「……どうだった、外の世界は」
落ちた少々の沈黙を、魔理沙が打ち破った。
魔理沙は外の世界の暮らしぶりや文化について尋ねているのではない。それがわかるというのに、どうして、それに答えようという気になったのか。
魔理沙の問いかけに、記憶が、次々に脳裏に蘇ってきてとまらない。
眠る魔理沙を図書館で見つけた日、魔理沙のぬくもりを指先に感じて以来、今まで忘れようとして忘れられていた過去は、いとも簡単に蘇るようになっていた。
「私みたいな人間の子供は他に誰ひとりいなくてね、」
狭い室内。濁った空気。たくさんの子供。粗末なベッド。足りない粥。馬車。郊外の屋敷。聖職者。銀のナイフ。訓練。カヴァネス。勉学。メイド。雑役。森。夜。月。悪魔。そして、霧。
「……ただ寒かった。冷え冷えしてて、なにもなかった」
頭のてっぺんから足の爪先まで、全身を貫いた途方も無い空虚。とっくに忘れ去ったと思っていたのに、あの時の感覚が心の奥底にまだ潜んでいた。それが鎌首をもたげ始めるのがわかって、頭を振って思考を断ち切った。
「少なくとも戻りたいとは思わないわね。もっとも、もう戻れないみたいだけど」
幻想となった故に、物質世界にはもう戻れない。それに、場所も、時も、今この場所――極東の地の幻想郷とは、大きく隔たりがあった。
「……そっか」
魔理沙の応えは、問いかけ同様に簡素だった。
「魔理沙はどう"だった"? この世界は」
そう尋ねると、腕の中で、小さな肩がかすかに揺れた気がした。
「……楽しい、ところだぜ?」
「へえ?」
現在ではなく過去を尋ねる問いに、一瞬みせた躊躇を目聡く反応してみせる。
「あー……そうだよ、お前の考えているとおり」
「……ん」
魔理沙が人里に住んでいない、その理由。
「実家じゃ魔法は許されてなかったからな。使ったら、勘当された」
人里に妖力を持つ人間はいない。いるとすればそれは妖怪で、咲夜も大抵の住人には妖怪だと思われている。訂正の必要を感じないので、そのままにしてあるが。
この土地の人間は、存在に慣れて久しいとはいえ、妖怪を恐れている。得体の知れないもの、己が種族を超越するもの、捕食者に抱く恐怖といった純粋的な本能の現れであるが、その本能が鈍らないよう、仕向けられている。
魔理沙が人里に住んでいないのはそうした背景のせいだと、容易に想像がつくことだった。
パチュリーによると、魔理沙はウイッチクラフトに頼っているところが多いが、それも含めて人間のままでありながらよく練られている、だそうだ。
生まれ持った資質が高かった。幼い頃から、物心ついてすぐ魔法が使えていたのではないかしら、とも。
資質だけあっても磨かれなければ原石のまま。魔理沙の場合はその磨きによる練度も高い。良い師匠に恵まれたのね、それと、支払った努力も相当……とも。
主とのお茶のついでとはいえ、何故そんなことを自分に聞かせたのか、咲夜にはよくわからなかったが。
「まあでも、そのおかげで今は好きなだけ魔法を使ったり研究できるからな。毎日が面白いし、楽しい。……それでいい」
最後のほうはまるで自分に言い聞かせるかのようだった。これでよかったのだと言わんばかりの声色で。そこには、幼い少女に似つかわしくない達観や諦観のようなものが滲んでいる気がした。
腕の中の魔理沙の身体が殊更に意識された。まだ、こんなにも小さいのに。家を出たのは、それこそ本当に、幼い頃なのではないだろうか。年端のいかない幼い少女が魑魅魍魎の跋扈するこの世界で、どうやって生きてきたのだろう。過酷だったことは、想像に難くない。
「……はー、止む気配がないな!」
魔理沙はいかにも不満げに呟いた。まるでこの空気を変えるのが目的なように、声色をがらりと変えて。その声に、魔理沙の過去に思いを馳せ想像の中に埋没しかけていた意識が、雨音に満ちている現実に引き戻された。
陽が落ちてきてきた。山は遠くに暗い連なりとなっていて、暗澹たる雨雲の空はその暗さを咲夜が楠の下に入る前より更に増している。雨脚はというと、ほとんど弱まっていなかった。
「仕方ない。濡れて帰るとするか」
ため息混じりに魔理沙が言う。重ねてられていた魔理沙の手がぽんぽんと軽く叩いてきたので、手指を崩して組んでいた手を解いた。
「ずぶ濡れになるわよ」
「星明かりも月明かりもないような雨の夜の森は、厄介だからな」
魔理沙は箒を手にし、形が少し濡れ潰れて重そうに見える魔女帽を、金の頭にかぶりながらそう言った。
この冷たい雨の中を濡れて帰るというのか。そして帰ったら、風呂が沸くまでの間もずっと凍えて、寒い思いをし続けるのだろう。楠の下で一人、腕を抱いて震えていたみたいに。そうやって思い出した魔理沙の姿に、昔の自分の姿が見えた気がした。
そのとき、ふと脳裏を過ぎったとある考え。悪くないかも、と思うや否や、唇は魔理沙を呼び止める言葉を形つくっていた。
「ねえ魔理沙、」
「さく――、あ」
金色の瞳と、目があった。魔理沙も同時に何かを言おうとしたらしい。
「あら。なに?」
「……咲夜から言って」
先を譲ろうと思って首を傾げて訊いてみるも、魔理沙は自分の間の悪さにめげでもしたのか、視線を外しながら譲ってきた。
「それじゃ……その箒で紅魔館までひとっ飛びしてくれない? あんたの箒、速いし」
こちらを見やった金の瞳が少しだけ見開かれて、そして数度瞬かれて元に戻った。
「……通り道だからかまわんが、お前も濡れるぞ」
「どの道濡れて帰ることになるわ。このままここで雨宿りしているわけにいかないもの」
「……ん。後ろ、乗って」
魔理沙は浅く頷いて、またがった箒の自分の後ろを咲夜に示してきた。
妙に素直に聞き入れるというか、まるでこちらの答えが先にわかってたかのような納得の仕方に見えたが、事が順調に運べばそれで良いとして、咲夜は浮遊しつつ魔理沙の後ろに横に座った。
「ところで魔理沙は、何を言おうとしてたの?」
「……忘れたから、いい」
もしかして、私を送ろうと考えていたとか――咲夜は首を小さく振って、根拠がまるでないその想像を払って散らした。
小さな身体の腰にそっと腕を回すと、少しだけぴくり体を震わせたが、魔理沙は帽子を深くかぶり直しただけで、何も言わなかった。
†
紅魔館の上空に差し掛かって、門に向かって手を振った。雨具姿で門前に立っている美鈴がぽかんとした顔で見上げているのが面白い。鼠とメイドが篠突く雨の中をずぶ濡れになって空を飛んできたのだから、当然といえば当然な反応だった。
門を飛び越えて庭園の上空に入ると、箒に制動が掛かった。咲夜がこれまで体験したことのない高速飛行だったのが、玄関につくころにはゆるやかになり、バルコニー下のポーチの上に二人してふわりと着地した。
頭のてっぺんから足のつま先まで、バケツに汲んだ水を浴びせかけられたみたいに全身がびしょ濡れだった。そして、寒い。
寒さで言えば、風と雨の両方を正面から受けてていた魔理沙は、自分の比ではなかったろう。水を吸って重そうなスカートを絞ってる魔理沙を見ると案の定、唇が青ざめていた。それを横目で見ながら、両開きの扉を開ける。
「それじゃ、私は行くから」
ぱっぱとスカートの形を軽くならして、再び箒に跨ろうとしていた魔理沙の小さな肩に手を掛けた。
「まって魔理沙。あのね――」
「咲夜、おかえり」
声に振り向くと、主であるレミリアの姿がロビーに現れていた。
「お嬢様、」
そこで、時を止めた。
水滴を落とさないよう浴室に行き、シャワーを済ませる。髪を乾かし、着替え、身支度を整えてロビーに戻り、主の傍らに侍って時を元に戻した。
魔理沙がぽかんとした顔で、こちらを見ているのが面白い。"瀟洒がなってない"姿を主に晒すわけには参りませんから。胸中で魔理沙に舌を出す。
「ただいま戻りましたわ」
「ん、ご苦労。ところでそれはなあに? 今日のおゆはん? 血色悪いし痩せてるしお子様だし……あまりおいしそうに見えないわね」
「ほっとけ。というかお子様はどっちだ」
「急に雨に降られて困っていたところを、身を呈してここまで送ってくださったんです」
「それはそれは……」
魔理沙の口が、んな!? という形を作るのを見た。嘘は言っていない。言葉の綾というものだ。
レミリアは、ふむ、と顎に手をやって濡れ鼠の魔理沙を眺め、それから咲夜を身長差ゆえの低い位置からじっと見据えてきた。
血のように紅いルビーの瞳が燭台の火に妖しくきらめいた。本来見えないものを見るその能力で今、一体何を見ているのやら。考えていたことなどおそらく見透かされているだろうことに、少々居心地の悪いものを感じる。
やがて、幼い姿の吸血鬼は不敵な笑みを浮かべた。
「……うちのメイドが世話になった。礼を言う。たったいま我が親友との予定を思いついたので、同伴できず申し訳ないがせめてもの礼に、そこのメイド自身からもてなしをさせてくれ」
レミリアは、次は咲夜に向かって言う。
「咲夜、いいわね。客人がお帰りになるまでお前がもてなしなさい。お前の客としてね」
「……かしこまりました」
咲夜が深々と頭を下げると、レミリアは踵を返してロビーの奥に消えていった。
「思いついた、って言ったぞ、さっき」
「さ、お客さま、まずはご入浴を。そのままでは風邪をお召しになってしまうわ」
「お前、最初からそのつもりで」
「お風呂と、雨が止むまでこっそりとでも置いておけたら、程度に思っていたのだけどね。お嬢様にはお嬢様の考えがおありなのだわ。ま、そういうことになったから――お客さま、お背中をお流しいたしますわ。それともお髪を洗って差し上げましょうか」
「咲夜……お前絶対楽しんでるだろ……」
「何なら全身」
「い、いいっ……、一人で入る」
魔理沙の顔に浮かんでいたのは、悟りきって諦めきった表情だった。
†
濡れた服の上からバスサイズのタオルに包まれた魔理沙を、咲夜は私室へと案内した。咲夜が開けたドアの中に入るなり、魔理沙はへえ、と声を漏らす。
「なかなか上等な部屋に住んでるんだな、メイド長」
もともと客室の一室だったこの部屋は、メイド長に就いたときに割り当てられたものだった。あまりに奢侈なもの、豪奢なものは他の客室へ移したが、他の残した調度品や内装などによって部屋は客を迎えるのに耐えられる程度の品格に留まっていた。
私物の持ち合わせはほとんどないが、先ほどドアを開く前に時を止めて粗方の片付けと掃除を済ませておいた。
「もっと質素な部屋で十分でしたのに、お嬢様が」
――咲夜、お前は今少しリスペクタビリティというものを知りなさい。
「妖精メイド相手にそんなもの、あっても仕方ないのですけれどねえ」
「あいつらしいな」
魔理沙は肩を竦めた。
着替えを用意しておく旨を伝えて魔理沙を浴室に送り出した後、ここに来るまでに水気を拭き取るのに使ったバスタオルと、脱いだ魔理沙の服を洗濯する。使い方を教えてもらった八卦炉で乾燥させ、時を止めてのアイロン掛けまで終えてから、部屋のクローゼットへ向かった。
事前に言われたとおり、八卦炉は洗濯した魔理沙の下着と一緒に脱衣所に置いておいた。
「咲夜ー、服は?」
「こちらでございますお客さま」
目隠しの向こうから顔だけ出している魔理沙の手を取り、キャミソールとドロワーズだけの下着姿で、所在なげにしている魔理沙を部屋の中へと促した。
さあこちらへ、とクローゼットのそばに置かれた衝立の前まで案内する。魔理沙の入浴中に選び出し、衝立に掛けておいた数着のフリルあしらいのワンピースドレスのうちの一着を、とびきりの笑顔とともに掲げて見せた。
「どのドレスになさいますか?」
「いつもの黒白で」
即きっぱりと返答。……こういうの、好きそうに見えたのに。
「第一、咲夜の服なんて私には大きいだろ」
「調整すれば十分お召しになれますわ。それに、これらは私がお客さまくらいの歳のときにお嬢様から頂いたものですし。胸の方は……詰め物を入れれば良いですわ」
「っっ!……とにかく、着ないから。私の服をくれ」
不貞腐れたように言う魔理沙に、仕方ない、と魔理沙の黒のワンピースとエプロンドレスを差し出すと、魔理沙はひったくるようにそれを受け取って衝立の向こうに消え、いつもの黒白服姿となって出てきた。不機嫌そうな顔をしているが、その表情をわざと作っているのがなんとなくわかった。
ドレッサーの前に招いてスツールに座らせる。魔理沙の後ろに回り、肩に掛かっていた髪を手で背中に流し、後ろ髪を手に取った。
「お髪はどうなさいましょうか?」
尋ねながら手櫛でまとめるよう軽く梳く。
洗いたての金髪は、洋燈の明かりに照らされて瑞々しい輝きを放ち、ふわふわと柔らかなそれから自分のと同じ香りがするのは、少々慣れないものがあった。
ブラシを手にとって、そっと梳かし始める。
「そ、そのままでいい」
「……さようですか」
何故か、つかえながら断ってくる魔理沙。その様子から、魔理沙は人に傅かれることに慣れていないように思えてならなかった。実家で暮らしていた頃、身の回りの世話をする使用人はいなかったのだろうか。
「お慣れではないのですか? こういうのには」
「それもあるけど……、いや、まあ、そんなとこだ」
何を言い淀んだのかわからなかったが、ともかく三つ編みを作るだけはさせてもらうことにした。前に回って、膝立ちで髪を編む。魔理沙は何も言わずじっと無言で、おとなしく髪を触らせていた。
リボンを留め終え、身支度がすっかり済むと、時を止めてる間にセッティングしたテーブルへと案内した。
魔理沙はラウンドテーブルの席に着くなり、咲夜、と声を掛けてきた。金の瞳はアイボリーのテーブルクロスの上に置かれた白磁の皿と、その横に並べられている銀製のカラトリーを見ている。
「お前の分は?」
「メイドがお客様とご相伴をするわけにはまいりませんわ」
キッチンから運んできた前菜のサラダを給仕しながらそう答えると、魔理沙は眉間をぴくりとさせて眉を真ん中に寄せ、うむむ、と唸った。
「……そのお客様が所望だぜ。いいからお前の分も持ってこい。んで、席について一緒に食え」
お仕えする側がそんなことをするわけにいかない。しかし。
「……ご所望とあらば仕方ないですわね。では失礼いたしますわ」
「その口調も、もういらないぜ」
料理は魔理沙が入浴している間に時を止めて完成させておいた。時を止め、それらをキッチンから全て運び出しテーブルに並べて、エプロンを外して魔理沙の対面の席についた。
それを見届けた魔理沙がようやく前菜に手を付ける。咲夜もそれに倣った。
カラトリーを外側から順に使う。サラダは無理にナイフを使わず、フォークでいただく。取ったパンは皿の上に載せて、ちぎったものにバターをつける――気張らないところは気張らず、抑えるところは抑えて上品に料理を口に運ぶ魔理沙の姿に、半分驚き、半分はなんとなく予想してた通りだった。
これで先ほど示したドレスでも着てれば、いいとこのお嬢様のご夕食に見えることは間違いなかった。
図書館に忍び込むようなことはせず、魔理沙はおとなしく部屋でお客様をしていた。他愛のない会話をしながらの、食後の紅茶を飲む時の仕草にも、ごく自然な品を感じさせた。けれど、だんだんに手元が少々覚束ないことが増えてきた。瞬きの際に瞼を閉じている時間が徐々に長くなっていく。魔理沙は船を漕ぎかけていた。
温まって、お腹いっぱいになったら眠くなる。やはり見た目通り、幼い。雨に当たって体が冷え、疲れが溜まったのかもしれない。
「魔理沙、着替えようか。ベッドの支度するわね」
「あ……悪い、そうする」
魔理沙を衝立に案内してネグリジェを出してやり、この機に自分も休んでしまおう、そう思ってテーブルを片付け、エクストラベッドを用意した。
着替えた魔理沙がベッドの元にやってくる。貸した咲夜のネグリジェは、魔理沙が着ると裾が床にギリギリ付かないくらいだった。
咲夜も衝立の向こうで着替えを済ませ、魔理沙に言う。
「エクストラには私が寝るから、そっちのベッド使って」
この元客室に既に置かれていた天蓋付きのベッドは、あちらで与えられた狭くて硬いベッドよりも、こちらで最初に充てがわれた部屋の質素なベッドよりも、広く大きく不相応に柔らかくて、主よりメイド長に任命され移ってきた当初は落ち着かなかったものだ。
「咲夜のベッドだろ? 咲夜がこっちに寝ろよ」
軽く首を振りながら魔理沙が言った。
「あんたはお客様でしょ」
「お客様の所望だ」
「今度は一緒に寝ろとでも言う?」
「そうは言って……! ……ないけど……」
魔理沙は途中からはっとした顔をして、目を逸らした。顔を俯き加減にして、言う。
「咲夜がいいなら……所望する」
こういうことに慣れていないのだろう。だから、自然な言い出しができない。……それは自分も同じか、と内心で自嘲した。
「……いいわよ」
自然に、答えられただろうか。わからなかった。
部屋中の洋燈の明かりを落とし終えると、残る光源はサイドテーブルのランプだけになった。
ベッドには、小さい魔理沙となら二人で眠るのに十分な広さがある。
咲夜がベッドに入ると、魔理沙は反対側の掛け布団をめくって、ぎこちない所作でおずおずとベッドに体を入れてきた。
ばふ、と魔理沙がこちらに背中を向けてベッドに潜り込んだのを見届けてから、サイドテーブルに手を伸ばしてランプの明かりを消すと、部屋は暗闇に閉ざされた。
布団に潜りなおして、枕に頭の後ろを埋めて瞼を閉じた。
サアア……と雨の音が、カーテンを閉めた窓の向こうから、うっすらと聞こえている。
どちらも何も言わず、身動きせず、ただじっと、体を横たえていた。互いの呼吸の音も、聞こえない。
かすかに聞こえてくる雨音に、今日の雨宿りのことが思い返された。
腕の中の魔理沙からじんわりと浸透してくる体温。子供の体温って高いんだっけ、とぼんやり考える。とてもあたたかく感じたのは、魔理沙がまだ幼いせいなのかもしれない。体の左から感じる体温がひどく心地良かった。
……誰かと一緒に眠るのは、幼い頃の母との思い出以来、これが初めてなのではないだろうか。
もそ、と隣で動く気配。目を薄く開け、暗闇に慣れた視界に魔理沙が仰向けになっているらしい姿がぼんやり見えた。
「……咲夜って、……あったかいよな」
暗闇の中に、魔理沙の呟きがぽつりと零された。
「……咲夜の手に、触った時に思い出したんだ。人間なんだから、当然なのにな……なんか、ずっと忘れてた……人間が、あったかいの……」
なんだ、同じ事、思って――途切れ途切れの魔理沙の声を聞きながら、咲夜の意識もまたまどろみの中に蕩けていった。
†
夢を、見ていた。
幼い頃、母に抱かれながら眠りにつく思い出の夢。
それが、いつのまにか視点が入れ替わって、咲夜は幼い頃の自分を自分の腕の中に抱いていた。
だが、どこからともなく霧が立ち込めてきて、気がつくとどことも知れない森の中に、ただ一人で立っていた。
†
魔理沙は、あたたかだった。伝わってくる体温には、身も心も緩められて、ほどけていくかのような心地があった。
けれど、そのぬくもりを思い出す度に、あたたかだった故に、かつて自分が晒されていた凍てつきをもが、胸中の奥から蘇らされる。
それは警鐘に違いなかった。
求めて、けれど得られないと思い知らされた時の、全身を覆い尽くし、押し潰されるかのような虚無感。それを二度と味わうまいとして、今の現状がある。
自分にとって、それはなまじに求めて良いものではないと、痛感したはずだった。得られなければ、苦痛を伴うと。だから捨てるより他になく、捨て去ったのではなかったか。
あのぬくもりには、その決断を揺らがせるだけの脅威がある。あたたかすぎる、警鐘はそう警告していた。胸中に感じていた別の不安も、それに一層拍車をかけていた。
魔理沙は、紅魔館をあまり訪れなくなった。図書館に来てもその滞在時間は短い。本を借りていくことはなく、以前のように居座って読んだり、書き写すようなことをしなくなった。咲夜が見かけるときは大抵、森の方の上空で黒い点となりかけている後ろ姿だった。
なまじ顔を合わせるよりは、却って良いかもしれない。そう思っているのに、巡回以外の所用で図書館に赴けば、無意識にあの小さな黒白姿を探してしまっている自分がいた。
咲夜が図書館の書架で久々に魔理沙を見つけたときには、雨宿りをした日から一ヶ月が過ぎていた。
一日の仕事を終え、見回ってから部屋に戻って休もうと、図書館に赴いた午後のことだった。
それは、いつの日にか見た光景だった。壁を背に床に座り、本棚に金の頭を凭れさせ、咲夜がぬくもりに触れてしまったあの日のように、魔理沙は静かにそこで眠っていた。
胸の奥がわずかに緩む。それを、唇を噛んで諌めた。
いささか深く立ち入らせ過ぎた、と思う。立ち位置を戻す必要がある。引き戻すためには、最初に立ち返らなければ。侵入者には銀刃でもって出迎えよ――太腿のシースからナイフを抜いた。
コツ、とヒールが石床を打つ。歩いて近付く。寝てる。目の前に屈む。寝てる。顔を覗きむも、やはり寝ている。熟睡……ではなかった。はっとして、魔理沙をじっと見つめる。
「……っ、ぅ、……」
わななく小さな唇からかすかに漏れ聞こえてくるのは、苦しそうな音色だった。ただ眠っているにしては様子がおかしかった。小刻みに震えている小さな肩に、思わず手を伸ばした。
「魔理沙?」
「っ、や……はな、し、……離して!!」
直後、乾いた音が立った。
その後に右後方から、カツ、と硬質な音。
弾かれたナイフは咲夜の右側を後方へ飛んでいき、背後の本棚の木枠に刺さって止まった。
「あ……咲夜……?」
自分の所作で目を覚ました魔理沙は、咲夜の姿をみとめて目を見開き、瞼を瞬かせた。
とっさに魔理沙に声を掛けようとして、様子のおかしさに気を取られるあまり、うかつにもナイフを逆手に持ち替えた方の手を差し向けてしまっていた。右肩が、燃えるように熱い。
「我ながら手入れは完璧ね。いい切れ味だわ」
「っ、咲夜っ!」
再び、今度は大きく見開かれる金の瞳。
右肩をかすめたナイフは、咲夜の濃紺のワンピースの袖と、その下の肌をも切り裂いていた。
時を操る程度の能力。神に近しい能力だが、それを宿している咲夜自身は生身の人間だった。故に状況を認識し、能力のスイッチを入れる判断を下し実際に時が止まるまでのタイムラグは、ヒトである咲夜の認知反応能力に依存する。
また、咲夜の能力は世界あるいは任意の対象の時間の流れを、止めるまたは遅らせることであり、"巻き戻し"は埒外だった。
人間をはるかに凌駕する能力を持つ妖に対して、ヒトの認知能力で前触れを認識し、必要を判断してからスイッチを入れるのでは到底間に合わない。もちろん、やり直すこともできない。だから、事が起きる前に時を止めるのが咲夜の定石で、予測こそが死活における最重要事項だった。
予測のミスや、抜けはどうしても起こりうる。人間故に。だが、今のは、かつての自分では考えられない予測のミスだった。そこまで魔理沙の様子に気を取られてしまった自分に、愕然とし、呆れる。
創傷した箇所は――ああ、よりにもよって、ここか。燃えるような痛みを放つそこは、心当たりがありすぎた。
左手で傷の上から強く圧迫する。血が腕を伝い落ちていくのがわかった。ブラウスとワンピースの袖で吸収しきれることを祈る。
「これ、私……? すまん、大丈夫か!?」
「……大丈夫、そんなに深くない」
傷を押さえる手指がぬめる。指と指の間に血が滲み出ているようだ。それを見て、魔理沙は浮かべている痛ましそうな表情をさらに強めた。
「ばか、そんなの診ずにわかるわけないだろ」
「わかるわよ。絶望的な痛みがしないから。救急箱で十分」
「絶望……ってなんだよそれ。ともかく、自分じゃ上手くできないだろ。手伝うから」
傷を負ったのが利き腕とはいえ、左手が届く場所なので、処置は一人で十分可能だ。たぶん、魔理沙は負い目を感じているのだろう。
頭の奥で鳴っている警鐘が、徐々にその響きを強めていく。
「部屋、行こう?」
放っておいてほしい。そう思ったはずなのに。
「そうね……お願い」
唇は、真逆の答えを形作っていた。
†
図書館を出て館の廊下に出ると、窓の外にはいつの間にか、雨が降りしきる薄暗い光景が広がっていた。この土地の冬は雨が降ることは稀だった気がしたのだが、楠の下で魔理沙と雨宿りして以降、二度目の冬の雨だった。どうやらこの時期ではまだ、雪にならないらしい。
「……悪い。寝ぼけたみたいだ」
魔女帽の下から意気消沈した声が聞こえた。肩に触れた手を払い除けたことを言っているのだろう。
「うなされてたみたいだけど。ちゃんと寝てるの?」
「……寝付きが悪いだけだぜ」
それはちゃんと寝られていないということなのに。それ以降、部屋に着くまで、二人ともしばらく無言だった。
私室の前に到着し、魔理沙にドアを開けてもらって部屋に入った。後ろ手でドアを閉めた魔理沙が、帽子を脱いで、咲夜の右肩に目をやりながら言う。
「服、脱がないと」
「ん、脱がして? お手伝いさん?」
「うん」
魔理沙は真剣この上ない様子で頷いた。……なんてからかい甲斐のない。
エプロンを外してもらって、ワンピースとブラウスを他の衣服に血がつかないよう、手伝ってもらいながら脱いで、シュミーズ姿にまでなった。
魔理沙は顔を咲夜から背けて、壁に視線を彷徨わせていた。
「エプロン以外は破棄するわ。血のにおいをさせてお嬢様方の前に出るわけにいかないから」
「わかった」
二人掛けのソファに座った咲夜の右側に、魔理沙が横向きに腰を掛ける。傷を目の前にして、魔理沙は痛ましそうに眉を顰めて目を眇めた。
ボウルスタンドを引き寄せて、琺瑯の洗面器に張った水にタオルを浸す。ゆるく絞ったそれで、魔理沙が傷の周辺の乾きかけてる血を拭ってくれた。
やはり出血の割に傷はそれほど深くはない。右腕を動かすと少々痛い程度だった。
魔理沙はテーブルの上の救急箱から消毒液を取り出し、ピンセットで摘んだ脱脂綿に含ませると、それを咲夜の傷に差し向けた。
傷に宛てがおうとして、魔理沙の手はそこで止まる。
「……傷痕?」
気付かれないはずがなかった。出血に隠れていた、できたばかりの傷と軽く角度をつけて交差するいびつな直線――古い傷跡。胸中に感じていた不安、それそのもの。
このまま温まって、緩んでいけば、いつか書物で読んだ極寒地の永久凍土のように、冷たく硬い氷土の下深くに凍結させていた痛んだ地表を、魔理沙に晒すことになるのではないか、と。
だというのに、その不安が危惧するところを自ら行おうとしている自分がいる。
見ないで――私の傷を。
「この傷、どうしたんだ?」
言葉が、勝手に吐き出されはじめる。
「……子供の頃、刺されたの。母に」
息を詰める音。
「……ごめん」
謝らないで――私に。……謝られたら、赦すしかなくなる。
「……終わった。傷、濡らすなよ」
包帯を巻き終えて、魔理沙が言う。
欲求が、とまらない。ぬくもりへの。
「ねえ魔理沙」
「……ん」
「怪我のことも、うかつな問いも、全部赦すから。その代わり……昔話、聞いてくれる?」
止めようもない衝動に、為す術もなく突き動かされた。
†
一番古い記憶は、黒い天井。まるで夜空の星明かりのように光を漏らす虫食いの穴を、ねずみの寝床のようなキルトの端材の寄せ集めに包まって仰向けに眺めていた。
■■■。睦言めいた囁きが額に降ってくる。呟かれるその短い言葉は自分の名であり、声色に込められたぬくもりに安らぎと安堵を覚えながら、まどろみの中へ意識を手放す。
自分は、あの腕に抱かれて眠っていた。それを、たしかに憶えている。
けれども、いつしか、やせ細った腕の中で愛おしげに自分の名を呟かれる役は、裂け破れて詰綿のはみ出た、汚れたフランネルのクッションに譲られていた。
次に古い記憶は、救貧院のものだ。
見かねた近隣の住人が母ともども救貧院へ連れて行ったのだと、後に聞いて知った。
■■■、■■■、■■■、
胸元に大事に抱きかかえたクッションへと、名を睦む母。近寄れば威嚇する獣のように唸り、クッションに触れれば暴れ出して手が付けられなくなる。
割り当てられた部屋に、ベッドは一つのみだった。
襤褸を纏った子供たちが大勢詰められた窮屈な大部屋で、その日の奉仕労働を終えると、まるで足りない量のオート麦の粥を母と分けあって食べ、母の占拠するベッドから一枚だけ抜くことに成功した薄掛けに包まって、部屋の隅で手足を縮めて眠った。
時々、自分以外の周囲の物事全てが止まって見えることがあったが、それを不思議なことだとは思わなかった。何かを教えてくれる人間が、周囲には誰一人いなかった。
止まりたい、そう思った時、ごく短い時間だったが自分の意志で止められるようになった。止めていられる時間は、日を追うごとに少しづつ伸びていった。
仕事をこなすのにそれを使っていると、大人たちはひどく怪訝な顔をした。ある日、飾り気の無い漆黒の詰襟服の男に引き合わされ、その次の日には馬車に乗せられて、他の子供達と別の場所に連れて行かれた。母も一緒に。
そこは、街から外れた都心近郊の、壁に窓がいくつもある邸宅だった。
館内の連れて行かれた場所は、最奥の部屋のいくつかのみ行き来できる、使用人たちはごく一部を除いて一切近寄ることができない、廊下ごと隔離されている区画だった。
狭いながら庭があったが、垣根で他の庭と分離されている。そこは館の裏の母屋のようなものだった。
陰鬱な顔をした黒い詰襟の大人たちはみな国教会の聖職者だった。けれども神の教えを説くことはせず、奉仕労働を強要することもなく、淡々と与えられたのは、十分な食事と、教育、そしてナイフの扱い方だった。
異端の審問と執行。教義から外れた事物、とりわけ奇跡や神秘といったものは徹底して容赦なく排除、断絶した。天の父の思し召し以外でのそれらを、断じて認めぬが故に。
だが人の手に余る人智を超えた事象は、暗闇の版図が色濃く広く残るこの時代には、幾度となく表沙汰にされることなく、未だ密かに生じていた。
そこで、彼らが案じた一計は――怪異には、怪異を。
失われたところで痛くもない、もしそうなったところで却って処分の手間が省けて都合が良い。そうした存在として、館の奥で秘密裏に飼い育てられ、諾々とそれに従った。
最初は、北部地方の森だった。
大小無数の湖が点在するこの地域では、付近の農場で家畜が消失し、朝に森の入り口で遺骸が発見されるといったことが連日発生していた。
この島では狼や熊といった猛獣は絶えて久しい。残された遺骸の荒らされようは、人の所業ではなかった。
いくばくかの食料と、銀製のナイフを数本持たされて件の森に送り出された。
昼なお暗い奥地へまで足を踏み入れると、そこには乳色の霧が辺り一面に立ち込めていた。
森に隣接してる湖から流れ込んできたにしては、濃厚過ぎる。
霧に混じって、森の清浄な空気を冒涜するかのような悪臭がどこからともなく漂ってきた。
腐敗臭とも、硫黄ともとれるその匂いが一層強くなると、目の前の霧の中に、身の丈を超える小山のような影が浮かび上がった。
そこで、時を止めた。怪異とはこれのことだと直感で悟って、躊躇うこと無く影に銀刃を突き立てる。
刃を刺し入れ、裂く。
刃を差し入れ、割く。
挿す。裂く。射す。割く。
訓練された通り裂傷に裂傷をできうる限りに重ね刻むうち、留めていられる限界がやってきて、時が戻る。
葉を散らしながら地面にどうと音を立てて倒れたのは、牛ほどもある大きさの真っ黒い、犬のような獣らしきものの残骸だった。
その出来事を嚆矢に、怪異――屋敷の者が"悪魔"と呼び習わす存在の元へと、何度となく送り出された。
そういった場所にはいつも、濃密な霧が立ち込めていて、霧はまるで悪魔の存在する異境と、現実の世界との境界であるかのようだった。
霧の中へ分け入っては怪異に身を投じ、そして戻る。その去来の様は、天より気まぐれで与えられた異能を身に宿す、人であるのか、悪魔であるのかわからない自分にお似合いに思えてならなかった。
その頃から、館の雑役に駆り出されるようになった。侍女としての仕事、立ち居振舞い、給仕の仕方。使用人としての仕込みが始まった。
当時の齢は十に達して少しだったが、背丈の伸びが早熟だったせいか、就業可能年齢の少女と見做すことができるようだった。教養とナイフの訓練は引き続き行われ、上流階級の間で行われる遊戯や手品の練習がそこに加わった。
その理由を、北部都市の郊外の森に隣接する館に送り込まれたことで知る。
人に成り済ましている人喰い。それが、今回の対象だった。送り込まれた先の館の主が、それなのだという。欠員が出た使用人として雇われ、館に潜入した。
館の主は大陸のさる貴族の一門で、口さがないあちらの社交界と距離をおくため、この土地の没落した貴族から買い取った館に移り住んだということだった。
独り身で家族はおらず、会食や晩餐会には滅多に出かけない。客も招かず、執事も雇わず、館に置いているのはメイドが八人ばかり。従って仕事は必然的に少なく、他所の屋敷よりよほど楽なのに、やりがいを感じないせいなのか、ある日忽然と抜けていくメイドが後を絶たず、管理を任されているメイド長は、主が咎めてこないものの頭を悩ませていた。
人喰いであると教えられたが、主は至って普通の生身の人間に見え、確信が持てなかった。過って人を殺めてしまうことは、悪魔と対峙することよりはるかに恐ろしかった。異能を有し、人を殺める存在とは、悪魔と何ら変わらない。母親の居る一人の人間でいるために、殺人の禁忌だけは絶対に侵したくなかった。
確信が持てるまで襲撃せず、メイドとして館で働いた。悪魔である確証が得られないか主の様子を探るも、全く何も掴めなかった。
打ち解けないので他のメイドから異質な存在として見られたが、仕事は完璧なので文句は言われなかった。そのうちに教養の高さと立ち居振る舞いの品の良さがメイド長に知れて、主付きに近い立場に重用された。
屋敷に来て数ヶ月が経った、滅多にない滞在客を迎えていたある日の晩。主から直接、仕事が終わったら一人で、誰にも知られることなく部屋に来るようにと命じられた。折り入って頼みたいことがあるのだという。
言われたとおり、夜になって主の部屋を訪ねた。部屋に入ると、豪奢な調度品がミルクのような霧の底に沈んでいた。
洋燈に揺らめく主の後ろ姿が、不自然に膨れ上がったのを見た。その瞬間、時を止めた。太腿に装着したシースから銀のナイフを引き抜いて、主の背中に突き立てた。
止めていられる時間の限り、刺して切り裂く。破れたガウンの下から覗くのは、濡れたような艶を放つ黒々とした毛皮だった。時が戻り、襤褸と化した布を纏った獣が床に倒れ落ちる。噴き出る鮮血の返り血を浴びないよう離れた位置に移動しておくのにも、もう慣れていた。
執行を完遂した。朝になれば誰かが主の失踪と部屋の異常に気付いて触れに回ってくるだろう。館にはもう用はないが、同時に姿を眩ませると後々が面倒なことになる。部屋に戻って朝を待とうと、踵を返したそのとき。妙な予感を感じて、再び時を止めた。
振り向くと、血みどろの獣が背後からまさに飛びかからんとしている姿で静止していた。
喉から悲鳴は出なかった。無我夢中で漆黒の毛皮に銀刃を突き立てる。時が戻ると、襤褸切れのようになった獣の体が毛足の長い絨毯の上に粘液質な音を立てながらずるりと崩れ落ち、それきり動かなくなった。
肩で息をしながらそれを見届けた。今度こそ終わった。そう思った。だが。
どこからともなく、鈴を転がすような、きゃらきゃらとした笑い声が聞こえた。
声の出処を探して、部屋の奥の濃密な闇に目を凝らす。そこから浮かび上がるように輪郭をなして姿を現したのは、客として館に滞在していた、幼女と言って良いほどに幼い、透けるような蒼味掛かった銀髪の少女だった。
執行を見られた。こんな失態は初めてだった。だがそれより少女が纏っている気配に捕らわれて、対処に思考を割くどころではなかった。
己が本来は狩る側ではなく狩られる側、捕食される側の立場ということを今居合わせている部屋の空気が触れている素肌から、本能に、魂に否が応無く気付かせ覚えさせられる、圧倒的な死の予感に頭のてっぺんから足のつま先まで全身を貫かれていた。ナイフを取り落とさないでいられる自分が不思議に思える。
今すぐにこの場から逃げ出したい。逃げるべきだと本能が告げていた。だが、能力を使って時を止めるより先に、首を掻き切られるだろうという確信めいた直感があった。
少女は鮮血のような紅い、爛々とした瞳を向け、こちらをじっと見据えていた。不意に、それが細められる。その途端、小さな体がぼやけて霞んだと思うと、次の瞬間、数十の小さなものへと爆ぜた。
黒い小さいものは、胴よりはるかに大きく薄いつくりの羽を忙しなくはばたかせて飛んで、開いていた出窓に殺到し、窓の外の塗りつぶしたような闇色の虚空へと吸い込まれるように消えていった。
その様を呆然と立ち尽くして見送った。天鵞絨のカーテンの揺れが収まるまでを見届けると、今更のように足が震え出した。崩れそうな膝を押して、窓に向かう。窓の外には何もいなかった。
月明かりに照らされる広大な森が眼下に見えた。森に煙っていた霧も、部屋の中の濃密な霧も、いつの間にか忽然と消え失せている。漆黒の夜空には、周囲の星が見えないほど煌々と満月が輝いていた。
大陸に潜んでいた"紅い悪魔"が、島に渡ってテムズを越えた。その噂を耳にするのは後日のこととなった。
生きた心地がしなかった。生まれて初めて味わった感覚だった。
居住の館に着くと、すぐに自室へと向かった。
館の者のこちらを見る目は、悪魔を見る目そのものだ。彼らにとって自分とは人間の言うことを聞くのがかろうじて良点なだけの怪異でしかない。これまでも、これからも、それはずっと変わらない。異能者である限り。
母は相も変わらずベッドの上で横座りしていた。数ヶ月前、悪魔の屋敷へ向かう前と全く同じく座るその姿に、部屋に入るなりしがみついた。
その瞳に自分の姿を映すことがなくとも、譫言しか呟かなくとも、自分にとって母は母だった。寝着越しに伝わってくる体温にすがった。未だ鮮明に脳裏に残っている恐怖を、癒して欲しかった。今だけは、クッションに近付く敵だと見ないで欲しかった。
背中に感じた感触が、信じられなかった。母が、その腕で撫でるように体に触れてきていた。身体の底からこみ上げてくるものに、目頭がひどく熱くなる。かたく目を瞑って、母に抱きつく腕にますます力を込めた。
だが突然、身体が浮く感じがして、天と地がわからなくなった。直後、背中に感じる衝撃。目を開くと、母とその背後に天井が見えた。
身動きできなかった。ベッドに引き倒されて、その上から母にのしかかられているのだとわかったのは一瞬遅れてのことだった。脚に着けていたシースから抜いたナイフを、母が逆手に持っていることも。
少しばかり背が高いだけの十と少しの少女に、痩せ細っている女とはいえ大人の、正気を失くして久しい人間の膂力には、敵うものではなかった。
精一杯、体を捩った。母の頭上から振り下ろされた銀刃が、身体のすぐ横を通って硬いマットに突き刺さる。それから少し遅れて、右肩がまるで火が点いたかのように熱くなった。
どうして、何故――疑問詞で頭がいっぱいになり、能力を使って逃れることなど、思いもよらなかった。
生命の危機と悟った本能によるものか、何かに突き動かされるようにして腕がサイドチェストの上を薙ぎ払った。壁に当たった燭台のガラスの火舎が割れ、空の洗面器が派手な音を立てて床に落ちる。
その音を聞きつけて、使用人の男が一人、部屋に踊り込んできた。ベッドの上で母娘が揉み合いになっているのを見、ナイフを取り上げようとするが、銀刃を振り回す母に近づけない。
じりじりと距離を取るうち、応援を呼ぶことでも思いついたのか、男は入ってきたドアへ視線を送った。
その直後だった。母が、自分のすぐ頭上で、ナイフを自らの喉元に突き刺したのは。
どこにそんな力があったのか、銀刃の全てが痩せ細った喉に飲み込まれて、ヒルトで止まっていた。
呆然と見上げている目の前で、母は、柄を掴み直して喉に生えたナイフを引き抜いた。その所作はまるで死を確実にするためにどうすれば良いか知っているかのように淀みなかった。
喉に新しくできた口から、鮮血が噴水のように吹き上がる。男が慌てたように駈け出していって、館の者を引き連れて戻ってくるころには、その勢いはいくぶん収まっていた。テーブルも椅子も、ベッドも壁もチェストも、自分も、何もかも、部屋のあらゆる物が紅く繁吹かれた後だった。
その中に、その頃もやは襤褸布と化していた母のクッションの残骸が含まれていなかったことと、自分が帰宅する数日前に、使用人が不潔な襤褸切れを見かねて取り上げ、処分していたことは、後で知った。
充満する濃厚な人血の匂い。母の命だったものの匂いに包まれて、意識が落ちた。
†
前に見かけたことがある顔だった。
以前に執行した悪魔の住まう館で、自分と同じくらいに顔を真っ青にしていたので、見覚えがあった。もっとも、あちらは主の部屋の凄惨な光景を見たせいで、こちらは被捕食という圧倒的な死の予感のせいと、原因は全く別種のものだったが。
赤毛の若い男だった。ヤードの嘱託外科医の一人だという。こちらのことなど覚えていないだろう。あのときはこちらも恐怖に心臓を鷲掴みにされていて、普通のメイドと同様に怯えており、気遣いと同情を持って現場から遠ざけられていたから。
恐怖とは本能に根ざしている感情で、到底拭い去れるものではなかったが、あれから紅い悪魔とは一度も遭遇しておらず、そのことが恐怖心から自分を遠ざけていた。
母の死から季節は二周ほどが過ぎ、ある館で執行を終えた翌日のことだった。
館のメイド長からヤードの現場調査の立ち会いを命じられていた。主の館での怪異が発覚した後、メイド長を含め館の全使用人の中で、最も気丈でいられたからだ。自分が執行したのだからそれは当然で、そのことを知る者は館に誰一人いなかった。
赤毛の男と同伴してやってきた金髪の男は、赤毛の男と同じくらいの年頃で、同じように医者であるらしかった。酸鼻極まる光景に金髪の男が露骨に顔を顰める一方で、赤毛の男は、執行された対象の、血溜まりの中心に仰向けで転がっている遺骸をじっくりと凝視していた。
その目は、おそらく再び悪魔の遺骸と見えることとなったその目は、宝飾品に魅入られる女のように、熱が篭っているように見えた。
ああ、見ろ、なんて紅い。まるで大輪の花のようじゃないか。お前やおれ、あいつや、あいつら、みな身体にこんなものが詰まっているのか――立ち会いのメイドと二人の検死医の、三人のみがいる主の部屋に、赤毛の男の熱っぽい呟きが落とされる。
言ってないでさっさと終わらせよう、花街にでも繰り出してこの光景は忘れるにさっさと限る。吐き気を堪えるように、金髪の男が言った。
金髪の男は、赤毛の男がドクターバッグを開いて仕事に着手するのを見届けると、こちらに歩み寄ってきた。
君、今のことは内密に。そう耳打ちして、手にソヴリン金貨を握らせてきた。そんなことをされずとも、誰かに話すつもりはなかった。どうでもいいことだった。
産業技術の進歩はますます加速し、闇は人の手によって急速に切り開かれ、打ち払われていった。
その一方で、教会の隠密裏な組織が極秘に取り扱う、表沙汰にできかねる怪異はその数を確実に減らしていった。特に、人に成り済ました人喰いが主の館であったケースのような、主が忽然と失踪し、主の部屋で得体のしれない巨大な獣の死骸が発見され、屋敷の整理の際に地下のワインセラーの壁の隠し扉の奥から数体分の人骨が出てきたなどという、寓話めいた例は通算で片手で足りる数に留まっていた。
帝都の花街と貧民街で起きた猟奇的な連続殺人は、住人を恐怖と狂騒の渦に陥れたが、それは明確に人の成した所業だった。
仕事をして母親を養わなければならぬ。それが、館に来て最初に大人たちに言われたことだった。
その次に言われたことは、母親の薬代を稼げ。そして最後には、医代の支払いが残っている。
見え透いた嘘だった。そも最初から、母は人質のつもりだったのだろう。
ここから逃げ出すことは今の自分には容易だった。
今の時勢、メイドの人手はまだ足りないと見え、これまでに身につけた技能と作法があれば、異能を隠してどこぞでもやっていけるだろう。
今や世界の中心となったあの帝都の人波に紛れてしまえば、きっと探すあてもない。
館の調査に立ち会った、最後に怪異と対峙してから、更に季節が二周した頃。組織はあれから噂を聞かなくなった"紅い悪魔"について忘れたわけではなく、今更思い出したかのように唐突に、索敵排除せよとの命令が下された。
実害や現象が出ておらず、存在の確証を得ていない悪魔を組織が対象としたのは、初めてのことだった。執行は完遂するまで居住には戻れないことになっている。実質的に放逐、厄介払いに違いなかった。自らの手で処分しないところをみると余程こちらが、異能を持つ自分が、恐ろしいのだろう。
いつか来たことのある森だと思った。そこは、怪異と初めて対峙させられた森だった。あの時と同じように森の奥へ分け入る。煙っていた霧は、進むに連れ、濃くなっていく。
母はもういない。あれから数年も経つのに、何故か居住の館に留まっていた自分。自分一人で生きていく道を知らないわけではなかった。心の何処かで、まだ期待していたのだ。ありのままの自分が、人間として扱われ、求められることを。
霧の底を、ひたすらに歩いた。何の怪異も見つからなかった。時折休んではまた歩いて。ただただ歩き続けた。
紅い悪魔との邂逅。あれは、本当に、現実だったのだろうか。歩き続けるうち、疑わしく思えてきた。死の予感に凍りついたのは、絶命しているはずの人喰いに再び襲われたせいで、その後のことは、煌々と照る月と濃密な霧とが見せた、幻だったのではないか。
霧の中には、何もない。自分はどこに向かっているというのだろう。いもしない悪魔を探して永劫、霧の森を彷徨う。それもいい、と思った。霧に招かれるまま、霧の中に溶けてしまってもいい。
手探りした樹の肌が、見慣れない種のものであることに気付いた。次に行き当たった樹も、同様だった。いつの間にか、見慣れない種類の木々が自生する地域にやってきていたようだった。空気すらも違って感じる。水気の匂いを感じて、この地方にいくつもある湖の一つが、近くにあるのだろうと思った。
不意に、ベールがめくれるように霧が途切れて、森の木と霧の向こうに、館があるのが見えた。その後ろには、霧の煙る湖。そこへ向かってみると、それは、赤茶けた煉瓦造り大きな館だった。正面の鉄柵門は来訪者を招き入れるように開いていた。
両開きの大きな扉を押し開けて中に入ると、誰もいないロビーに窓は一つなく、光源はいくつかの燭台のみ。蝋燭の心もとない光が届かない場所は、闇に沈んでいた。
正面には毛足の長い赤い絨毯の敷かれた大階段。ロビーの中央まで進むと、その最上段の闇から、浮かび上がるように少女が歩み出てきた。
「待っていたわ」
それを見た瞬間、かすんでぼやけていた記憶が、焦点を合わせたように鮮明に蘇った。
数年が経ったというのに、少女は少しも成長していない。違いがあるとすれば、背中から左右に広がっている、小さな体に不釣合いなほど大きい、蝙蝠のような翼だった。
出来過ぎている幻想の情景だった。不思議と、恐怖心は湧いて来なかった。
「ようこそ、御伽話の国へ。世界から見放された気分はどう?」
「っ……ははっ……」
笑えてしまった。途中から薄々、ここが現実世界とは異なる場所だと感じていた。
父は不明、母からは認識されず、人間から疎んじられ遠ざけられて、最後には世界にまで見放された。最初から自分も、払われる側、物質社会と文明の灯に追われる側だったのだ。
可笑しかった。異能者の自分が、人として求められることなど、期待しても無駄だったのだ、最初から。延々と猟犬として使役され続けた自分が滑稽で仕方がなかった。
胸中で可笑しみが渦巻いて笑えて仕方がないというのに、けれども口からは小さな笑いしか出なかった。
「世界に捨てられたんだ。お前ももう、戻れないよ」
「……ええ」
霧はいつも、怪異と現実を分ける境界で、そして異境への入り口だった。
どの御伽話でも、異境へ迷い込んだ人間は元の世界を恋しがり、帰りたがり、ついには戻る。そして再び異境へ赴こうとして、だが決して辿り着けず、異境での経験や財産を元に現実を前向きに生きていくことを決意する。
ここが本当に御伽話の国、異境であるならば、元の世界に帰りたいとは微塵も思わない。帰る場所など、もはやどこにもなかった。
「我々はご同類というわけだ、教会の犬。いや今は野良犬か」
大階段中程の踊り場で、少女がクックッと笑う。
「ここは人と悪魔が住まう土地、そういう郷だ。……私がお前の新しい飼い主になってあげる。どうかしら?」
悪魔の飼い犬。悪魔ではなく、もはや人でもない自分には、この上なくお似合いに思えてならなかった。階上の少女に、辞儀をする。
「――はい、お嬢様」
少女は満足気に頷いて、言う。
「名前を付けてやらなくてはね。実はもう決まっているんだ。お前の名は――」
こうして、紅魔の館の主に飼われることとなり、季節が四度ほど巡った。
†
抗いがたい衝動だった。止まらなかった。止めることが、できなかった。
魔理沙は何も言わず、ソファの隣に座ったままじっと、咲夜が語るのを聞いていた。顔を上げて、見つめてくる。問いたげな顔だった。どうして、私に話したのか、と。
「……かすかに触れた魔理沙の頬が、触れてくる魔理沙の手が、あたたかかったから……話したくなった」
他でもない魔理沙に判ってもらいたかった。だから。
魔理沙だから、話した。
本当は、見せたかったのかもしれない。魔理沙に、この傷を。
本当の自分を、見て欲しくなってしまった。だが魔理沙からしたら、そんなものを見せられて、寄せられて、どう思うだろう。それは一方的な甘えだ。
魔理沙の視線から逃れたくなって、顔を逸らした。
「あのまま、母さんに委ねてしまっていれば……その後の辛いことはなんにも無かったのに、ね」
こんなふうに、無様に傷を晒すようなこともなかったろうに。
ふいに、滲む視界の端に入ってくるものがあった。それはさらに伸ばされて、そっと顔に触れてくる。
魔理沙の、咲夜より一回り小さな手だった。指の背中で頬を拭われて、そこで初めて、自分の目から溢れているものがあるのに気が付いた。
「死にたく無かったんだろ、」
見つめてくる魔理沙の金の瞳と、目が合った。
「一人きりのままで、なんてさ」
魔理沙は微笑んできた。浮かべてる傷ましい顔のままで。
そう、だ。
誰からも顧みられること無く、
誰からも必要とされること無く、
誰からも与えられる事無く、
誰にも与える事無く、
死んでいくのは忍びなかった。
指先で涙を払う。
「いい加減、忘れるべきなのにね」
まるで呪縛なようなそれは、どうしたら捨て去ることができるだろうか。
「……怪我をしたのがあの傷痕の上だったのは、却ってよかったかもしれない。魔理沙の付けた傷だと思えるようになれるかもしれないから」
傷の上に傷を重ねる――古い傷がわからなくなるまで。今思いついたにしては、なかなか性に合っている気がした。
「……そうなったら、きっと忘れられる」
濃密に立ち込める霧の中に、道がうっすら見えた気がした。だが。
「それは、無理だ」
ひどくきっぱりとした口調の、否定だった。
「忘れ去ることなんてできない」
「……魔理沙?」
静かに、断言する。声色の変化に驚きを感じて、右に座る魔理沙に目をやると、魔理沙は俯き加減でいてその表情を見ることはできなかった。
「身体の傷は治る。深ければ深いほど傷痕もはっきり残る、でも必ず治る。だけど心の傷は……治ることがない」
独白するかのように話す、甘さを感じさせる少女の声は、幼さに似つかわしくない低い響きを帯びていた。
「忘れた、克服したと思っていてもそれは一時のことで、きっかけさえあればすぐにでも痛み出すんだ。そして無くなることなんて絶対にない。……過去を変えでもしない限り」
脚に載せた幼さの残る小さな手は、黒いスカートの上の白いエプロンを掴んでる。
「私、前に、実家から勘当されたって言ったろ。本当は違う……逃げたんだ。家から。人里から。人の目から。……なれるものなら、すぐにでも妖怪になってしまいたかった」
エプロンの皺が、その深さを増した。
「どうして私は、妖怪に生まれて来なかったろう」
†
知っての通り、私は人里の商家・霧雨家に生まれた――魔理沙は静かに語り出した。
もともと体が丈夫でない母親の初産だった。
臨月に入ってから加減はますます良くならず、分娩の際で昏睡に陥り、そのまま帰らぬ人となった。
産婆が止めるのを聞かずに、父親は出産に立ち会っていた。
妻の命と引き換えに生まれたきた我が子は、この土地の人間では通常有り得ない色の髪と瞳を有していた。
鬼子を生かしておいてはためにならぬ、必ずや後の禍根となる、という産婆の言に、父親は従わなかった。
禍根。その一片が見え始めたのは、魔理沙の物心が付くよりも前だった。
母屋の掛布や布団、畳といった部屋の物が、火で炙ったように軽く焦げているのが散見されるようになった。
不審火にしては何故母屋の内なのかと首をひねる使用人に、父親は母屋番を設けて互いに互いを見張るよう言い渡した。
この土地の家屋は木造部分が大半を占めていて、一度火が付くとあっという間に燃え上がる。ささいな出火が近隣に燃え広がって大火となり、都を見渡す限りの焼け野原にしたことは一度や二度の話ではない。激甚な被害となるだけに、使用人たちは我が身のことのように不審火に留意した。
そのうちに、焦げの出る部分が、敷いてある布団や調度品の足など床に近い低い位置にしかないこと、ある部屋に集中していることが判かり、使用人がその部屋に詰めるようにしたところ、ついに、原因が判明した。
幼な児の魔理沙の触れるものが、焦げていた。
「ただ単に、わけもわからず魔力をぶつけていただけなんだろうが」魔理沙は言う。「発現が熱と光だったのは、持って生まれた私の性質によるものだったんだな」
博麗大結界敷設から百年余、人間は妖怪が実在することに慣れて久しい。だが、人の能力を超越している様々な能力や怪異そのものに感じる恐怖は、払拭し得ないものだった。
使用人たちは魔理沙をひどく恐れた。ただでさえ普通でない外見なのに、その上こんな妖怪じみた力があるとは、と同時に嫌悪もした。人と人の間からこういった怪異を宿す者が出るというのは、前代未聞だった。
霧雨の子の特異な外見とその異能は、隠匿も口止めもされなかった。だが、噂を掻きたてて鬼子の存在を排斥することは誰にもできなかった。
霧雨家は将軍家の治世の時代よりこの土地で商売しており、博麗大結界より以後、統治者のいない人里でめざましく台頭した商家の一つだった。大商家の口利きがなければ、人里での商売は成り立たたない、それ故に。
魔理沙の物心がついてくるなり、父親は能力を使うなと厳命した。
周囲の大人がみな恐々と接してくるなか、父親だけは魔理沙を恐れも怯えもしなかった。それだけで魔理沙にとって父親は、実の父であることや霧雨家の家長ということを除いても、特別な存在だった。
右も左もわからない中を必死で手探って、能力の発現を抑制・制御する術(すべ)を体得した。触れたり、念じたりした対象を発火させることができるようになったが、父親の言い付けを守って人前で使うことは決してなかった。
母屋から離れへと移り住み、そこから出ることは原則禁じられていた。父親は月に一、二度あるかないかの頻度でしか、魔理沙の前に姿を見せなかった。
優しい言葉を掛けられることも笑いかけられたことも、頭を撫でられたこともなかったが、冷淡に見えるその顔は、毅然とした威厳と貫禄によるものなのだと幼い魔理沙は思った。近寄りがたい雰囲気を纏わせている父親に、離れから父慕を寄せた。
歳が五つを数える頃、行儀作法や躾の他に、読書算用の勉学に就くよう言いつかった。他の商家や町人の子のように、学者の家塾や寺子屋へ通わされることはなく、国学、洋学の学者を時々家に招いて修学させられた。会いに来ないのは店業の多忙のせいで、これらの学業は会えなくとも自分のことを考えてくれている傍証だと思い、父親に応えるために勉学に励んだ。
どれも卒なく学んだが、その中で魔理沙のお気に入りは洋学だった。魔理沙にとって外界、とりわけ西洋は、ここではないどこか、御伽の国だった。
魔法使い、魔女といった魔法を操る人間が登場する物語の邦訳本を読んでは心惹かれた。異能を持つ人間である魔女が、自分のことのように思えた。西洋魔法に惹かれるのと同時に、彼らに対する人間の態度がどんなものであるのかを知り、これもまた、まるで自分のようだと思った。
「この頃から他の商家の主に引き合わせられもしたよ。皆揃いも揃って、"亡き奥方に似て来ましたな、将来さぞやお美しくなられましょう"って」魔理沙は自嘲するように笑った。
「髪がこうだし、変な力は持ってるしだから、他に言えることが無かったんだろう」
果たしてそうだろうか。魔理沙の母を知らないから、疑問を解消する術はない。
父親が後妻を娶った。長年、周囲に強く勧められていたのがやっとだ、と離れの近くで使用人たちが話しているのを魔理沙は聞いた。
引き合わされた年若い義母は、魔理沙を見るなり眉を顰めた。異能のことも当然聞き及んでいるのだろう、視線には恐れの色と、そして嫌悪の色が混じっていた。
月日を経るにつれその色は濃さを増していった。魔理沙はただでさえ鬼子であり、その上、前妻の子だった故に。
「子供になかなか恵まれなかった焦りもあったんだろう。私が生まれたとき、親父は既に結構な年だったしな」
疎まれても仕方がない、と魔理沙は言う。
いつからか、義母のこちらを見る目に暗いものを感じるようになった。
それをはっきりと見たのは、新しい使用人なのか見慣れない男と、母屋の影からこちらを見ているのに気付いた時だった。
それから間もなく。歳は九を過ぎて数月ほど経った日の晩だった。
魔理沙は物音で目が覚めた。音のする方の暗闇に目を凝らすと、自分しか居ないはずの離れに、動く物陰がある。誰かが、いる。
暗順応した目には、箪笥や棚の引き出しが開かれ、床に物が散らばっている光景が飛び込んできた。
物盗りだ。戦慄が体を駆け抜ける。どうやって入ってきた? どうする? 混乱と恐怖で布団に横たわったまま凍り付いていると、男が近づいてきた。
おい、騒ぐと、これだぞ。低く太い囁き声とともに、離れに差し込む僅かな月明かりを反射して、短い白刃が煌くのが目の前に見えた。起きているのを、知られていた。
起きるよう促され、布団の上に立ち上がると、後ろに回った男は魔理沙の口を手で塞いできた。
大きな肉厚の無骨な手が、恐ろしい力で、口を抑える。体験したことのない、大人の男の力だった。
後頭部を男の胸に押し付けるようにされ、盗品を入れた包みともども、脚を掬われて軽々と体を持ち上げられた。抱えられたまま、離れから出る。男は裏門へ向かおうとしていた。
自分は攫われようとしている。そのことに気付いて、腕から逃れようと暴れるが、男の腕はびくともしなかった。喉の限り声を上げる。だが、塞がれている口からは、くぐもった音が虚しく漏れるだけだった。
攫われる――そう認識したとき、体の奥底のほうが途方も無く熱くなった。それは全身を駆け巡り、目の前が真っ赤になった。
裏門を出た所で、男はうめき声を上げて包みを取り落とした。がしゃん、と中の物が割れる音が夜の裏通りに鈍く立つ。包みの内側で篭った音は、寝静まってる屋敷街の衆目を集めるには至らない。
住人を裏通りに集めさせたのは、男の悲鳴だった。
着物が、突然燃え出したのだ。肌を焼く火を手で叩き消そうとするが、払っても払っても次々と別の箇所が燃え始める。たまらず腕に抱えた"荷物"を手放した。
腕を抜けた娘は、逃げ出すどころか男の体にしがみついてきた。腰に巻き付いた子供の華奢な腕は、焼けた鉄棒を押し付けられたごとく熱かった。動転し、脚が縺れて尻餅をついた。
地面に倒れてもがく男と、それにしがみつく女児、それを住人たちが遠巻きに取り囲んだ。
妖怪か? と恐れ訝しむ声に、誰かが違うと否定する。あれは霧雨の子だ、と誰かが言った。
霧雨邸から父親と義母と、使用人たちが裏門から出てきた。
離れの惨状に気付いたらしい後から来た使用人が、父親に向かって、物盗りですと叫んだ。
傍らに落ちている包みから、割れた舶来の陶器や上等な生地の織物などが、焦げた布の下に覗いていた。
品に見覚えある霧雨家の使用人たちが男に殺到し、周りにいた何人かの住人も走り寄った。捕亡吏を呼べ、と声が飛ぶ。魔理沙は男を解放した。月明かりの下に見えた男の顔は、いつか、母屋の影から義母とともに魔理沙を遠くに眺めていた、見慣れない使用人の男のものだった。
化け物! 取り押さえられた男が魔理沙に叫ぶ。着物は焼け焦げ、剥き出しになった肌のところどころを赤くしている異様な男の姿に、その叫びを否定する者は誰ひとりいなかった。
逃れようと無我夢中で暴れ、男の腕から解放された後、魔理沙は物盗りを逃がしてなるものかという一心で男の体にしがみついた。
男は捕縛され連行されていく。衆目のざわめきの止まない中、包みの中身を改める捕亡吏と使用人を横に、魔理沙は使用人の一人に促されて屋敷に戻る。その途中、父親の前で立ち止まった。
無意識に力を使ってしまったが、物盗りは、逃さなかった。家の役に立てた、そういう気持ちがあった。淡い期待を胸にして、父の顔を見上げる。生まれて初めて、父親に手柄だと褒めてもらえるかもしれない、そう思った。
父親の感情が浮かんだ顔を見たのは、それが初めてだった。魔理沙の目に映ったのは、お手柄の我が子を誇らしく見つめ返す眼差しでも、攫われかけた娘の無事を確認して安堵する顔でもなく、いつもの冷淡な無表情でもなく――目の前の金髪の女児を恐れ疎む表情だった。
下がりなさい。はっとしたように魔理沙から面を背けて父親が言う。使用人が一礼して、魔理沙の袖を引いた。三度目で肩が振れるほど引っ張られて、ようやく足が動いた。
最初から、思われてなど、いなかった。
ざわめきは遠のき、頭がくらりとふらついた。地に足が着いている感覚がない。まるで、足元の地面が崩れ去って、ぽっかりあいた虚空の穴の上を歩いているかのようだった。
ここには、もう、いられない。そう思った。
あぜ道を、下生えの上を、雑木の中を、歩いた。棒のような足が縺れて転んでも、のろのろと起き上がり、再び歩いた。
現場改めが済んで、人々が引き上げた深夜。荒らされた離れを抜けだし、歩き始めてから一昼夜が経っていた。
時間の感覚など、家を出たときから、とっくに無かった。
ここではないどこかへ。その一心で、人里から離れるよう、ひたすら、ただただ歩き続けた。
魔法の森の瘴気は、一昼夜、飲まず食わずで歩き通した幼い子供の体をいともたやすく簡単に蝕んだ。何もないところ躓いて、葉を小さく巻き上げて地面に倒れる。起き上がる。またよたよたと歩き出す。
あのまま倒れていれば、楽になれたのに。
あのまま、眠ってしまえば。
ここには、何もないのに、何処へいこうと……?
霧があればいいな、と思った。いつか読んだ西洋の物語にあった。霧は、別の世界への入り口だと。御伽の国には、魔法使いがいる。魔女がいる。自分と同じような。
そんなことを考えていると、周囲の木々が、白く煙って見えてきた。
霞がかった風景の向こうに、ぼんやりとした明かりが、あるはずのない人家の明かりが見えていた。
その明かりを見て、体がとても寒いのに気が付いた。明かりは、とても暖かそうに見えたから。
ふらふらと、そちらに向かう。そこにたどり着きさえすれば、全て救われる気が無性にして。もう少しで着くというところで、膝が崩れて、青草の地面に正面から倒れ伏した。
そこから先の記憶は、魔理沙にはない。
†
その家で後に師匠になる悪霊(ひと)に拾われて、そこで魔法の使い方を教わったんだ、と魔理沙は語った。
消えた魔理沙を、霧雨家は捜索しなかった。
厳禁と命じておいたはずの異能の力を使い、言い付けを破った。故に勘当した。義母が周囲に説明するには、そういうことになっていた。
子が授からないのは鬼子が家にいるせいだと義母が嘯いていたこと、それまで噂の域を出ないでいた異能力が衆目の前で実証され、魔理沙の存在を政略に使い難くなった、などのことから体の良い厄介払いというのが周囲の概ねの共通見解だった。
魔理沙自身、実家のことを問われれば自ら、勘当されたと答えていた。
生まれる場所を間違えたのが全ての始まりだったと、魔理沙は自嘲するように小さく笑った。
実の父親へ寄せていた愛情への淡い期待を、父親自らに打ち砕かれた経験が幼い心に残したものは、推し量れないものがある。
「判っているんだ。親父にも立場や体面ってもんがあるし、あのときは仕方なかったと判ってる。今は何とも思っちゃいない」
魔理沙は小さく息を吸い込み、そして、ふ、と吐き出す。
「……なのに、どうしても」
ぎゅ、とエプロンを掴む手に力が篭る。
「あの目だけは、どうしても、忘れられなくて」
時折交じる溜息じみた吐息の音が、魔理沙の胸の内を伝えているかのようだった。
「理屈じゃないんだ、こういうのは。きっと、魂に刻まれでもしてしまっているんだ。……陶器に入ったヒビみたいに、決して無くすことはできない」
枷に付けられた諦観という鉄球が、魔理沙に暗い影を投げかけているかのようだった。
は、と漏らした、鼻で笑ったかのような、溜息のような音には、自嘲が漂っていた。
「……どうして私はまだ、人間のままなんだろうな。紅魔館の蔵書があれば、その気になればすぐにでも魔法使いの妖怪になって、人間でなくなることができるのに」
心の傷は消えることがない。
過去を変えることなんてできない。
ならば、心の傷は、生きている限り永久に残る。
「痛かっただろ、傷。……暴いて、見てしまって、……悪かった」
傷を受けた過去を思い返すことは、そのとき得た痛みをも蘇らせることになる。
だけど。
「だからって、あんたまで」
小さな肩に向かって、そっと語りかける。
「あんたまで、わざわざ痛い思いをする必要はないのよ」
「……だって、」
ひくっ、と肩が振れた。
視線を落とせば、魔理沙の手には白くなるほど力が篭っていた。その様子があまりに痛ましくて、両手で両の手首を掴んで、エプロンからそれを引き剥がした。
咲夜を振り仰いだ魔理沙の瞳は、目の内に溢れているものが、金色の潤んだ光を湛えていた。目がきゅっと瞑られて、細やかだった光の粒子は合わさって雫となって、眦から溢れてこぼれた。
「だって……!」
魔理沙はまだ何かを喚こうとして、手を振りほどこうとする。
口を塞いで黙らせようにも、両手はふさがっている。
だから、掴んだ手首を引き寄せて――唇を唇に押し当てて、その口を塞いだ。
「っ、んっ」
言いかけた何かの言葉は、唇の合わせ目で潰えた。
「さく、っ、ん……っ」
逃げようとするのを追いかけて、また塞ぐ。
喉の奥でわだかまる、くぐもった声ごと、塞いだ。
駄々っ子のようにもがいていた腕の動きはすぐに鈍って、唇を触れ合わせるたびに力を失っていった。最後には力を失って、強ばっていた体からも力が抜けかけたところを、薄い小さな背中に両腕を回して抱き寄せた。
「痛み出してしまったのね……あんたの傷が」
さらに強く抱き寄せる。もう一方の手で、柔らかな髪の後ろ頭を撫でた。
「……判って欲しかったのね」
肩の上の魔理沙の頭が、少し動く気配がした。そのあと、きゅ、とシュミーズの背中を掴まれる感触。
「私と、同じね」
「…………うん……」
耳元でなされた微かな返事の声は、濡れて掠れていた。咲夜の腕の中で、魔理沙は小さな背中をときどき、ひくっと引き攣るように跳ねさせる。あやすようにそれを優しく撫でてやると、シュミーズの引かれる力が少し増した気がした。
晩秋のあの日、神社で霊夢から言われたことの意味が、今なら本当によくわかる。私たちは、あまりに似過ぎている。魔理沙が館をあまり訪れなくなったのはきっと、私が魔理沙を避けたかったのと同じ理由なのだろう、と咲夜は思う。
ぬくもりへの切望を捨てたつもりでいて捨て切れておらず、触れてしまった互いの体温は、渇望を蘇らせて過去を夢に見せ、傷の痛みをも蘇らせていた。魔理沙が図書館でうなされていたのは、幼少時の、実家にいた頃の夢を見ていたせいに違いないと確信できる。
魔理沙の言うように、胸の奥深くに負った心的な傷は、消えることがないのかもしれない。
微かな嗚咽を聞きながら、魔理沙の小さな体を腕に抱きしめていると、その傷の痛みが和らいでいく気がした。こんなことで安らぎを感じてしまうのは、傷を克服できてない証拠に違いなかったが、今だけ、少しの間だけ――弱い自分のままで居たかった。
小さな肩の不規則な震えは徐々に収まって、やがて無くなった頃、魔理沙がわずかに身動ぎした。
咲夜が腕の力を緩めると、小さな体は咲夜の懐からゆっくりと離れていく。
「なあ、咲夜。……私も、咲夜と同じにして……」
言っていることの意味を測りかねて、俯き加減でいる魔理沙の金の髪に目をやった。
シュミーズの端をまだ掴んだままの魔理沙が、顔を上げる。
「私にも、傷、付けて。……咲夜の付けた傷が、私にも欲しい」
涙に濡れた睫毛は光を履いて、その奥で揺れる金の瞳は、思いつめた色で咲夜を映していた。
――魔理沙の付けた傷だと思えるようになれるかもしれないから。そうなったら、きっと忘れられる。
過去に受けた心の傷は、忘れることはできない。でも、別の傷があれば、痛みを忘れることはできなくても、その痛みを和らげることができるのかもしれない。
与えて、与えられた証拠の、痕。
けれども。
「あんたの肌に刃を入れるなんて、そんなこと……」
幼い肢体を故意に傷つけるなど、決してしたくないことだった。たとえ事故であったとしても。
魔理沙の小さな手が、困惑する咲夜の手を取った。
「……ナイフじゃなくても」
魔理沙はそれを、咲夜の方を向いている自分の体の胸元に引き寄せた。心臓の上から、みぞおち、腹……と服の上から滑り降ろしていく。
「ここなら……」
咲夜の手は、下腹のさらに下へといざなわれていた。
そこは――刃を立てることなく、生涯消えることのない傷を付けることができるところ。
「魔理沙……っ」
本気なの――その問いかけは発せられること無く、噤んだ唇の中に消えた。魔理沙の小さな体が、懐に飛び込んで来て、しがみつくみたいに抱きついてきていたから。それは魔理沙の意思と覚悟を伝えてきていた。
痛いほど、判ってしまった。魔理沙の付けた傷を拠り所にしようとしてる自分には、魔理沙の気持ちが、理解できて仕方がない。
そうすることで、魔理沙の痛みが少しでも緩むのなら、魔理沙が少しでも救われるなら……消えない傷が、あってもいいのかもしれない。
腕を小さな背中に回して、懐の中の幼い体を受け止めた。
†
ソファから降りた魔理沙は、咲夜に背を向けて体を屈めた。
裾の上げられた黒いスカートの下に、たわめられた白いドロワーズが覗く。それはあどけないふくらはぎを滑り降りて、床のラグの上にするりと落ちた。次いでスカートが、儚い衣擦れの音とともに床に落ちて、ドロワーズの上に折り重なる。
腰下に顕になった白いブラウスの裾は、魔理沙には少し大きいのか太腿に掛かるまで丈があって、足の付根はかろうじてそれに隠されていた。
靴下までそこに落として、魔理沙はソファに膝を衝いて、首に腕を回してしがみついてきた。
背中に触れてる腕と、密着する小さな胸から、かすかな震えが伝わってくる。傷を自ら求めたのに震えているのは、緊張と未知の行為への恐怖。ボトムスだけ取り払って事に臨もうとする性急さは、その裏返しだとわかる。そうまでして傷を求める魔理沙の心情を思うと、やるせないものが胸の内に込み上げてくる。
立ち膝でいる魔理沙の細い肩を撫でて、脚の上に座るよう促した。魔理沙が体を少し離して、咲夜の脚を跨ぎ、そろそろと腰を降ろすと、腿に柔らかな感触が落ちてきた。肌は滑らかで、そして小さい外見の通りに、軽かった。
顔の位置は、それでもまだ魔理沙の方が幾分低い。
咲夜の肩に手を置き、体はどうやら安定したものの、魔理沙は落ち着かなさげな様子で、真正面から向かい合う形になった顔を、ふいと逸らした。
伏せがちの睫毛の下で金の瞳が潤んで揺れている。緊張と不安と、そして羞恥。それらが綯い交ぜになって切ない表情を魔理沙に浮かべさせている。いたわってあげたい気持ちに突き動かされて、そのあどけない頬に両手を添え、顔を引き寄せて小さな唇に唇を重ねた。
「んっ……」
肩に載せられている小さな手指に、戸惑ったように力が篭るのを感じた。
けれど、唇で唇をついばむように食むのを繰り返すうち、その力は徐々に抜けて、手は肩に載せているだけに戻る。
顔の角度を軽く変えながら何度も口付けた。そうしながら、魔理沙の胸元に手を降ろし、ベストのボタンを外して、下に覗いたブラウスも同じようにボタンを外して、前を開いた。
そこまでされてようやく自分に起きた異変に気付いたらしく、魔理沙はくちづけから逃げて額を額にこつんとぶつけてきた。
「……なんで、こっちまで脱がすんだ……っ」
困惑したように上げる声にかまわず、袖から腕を抜かせてベストとブラウスを脱がせた。
キャミソールの裾から手首を滑り込ませて、ごく僅かに膨らみかけている、淡いなだらかな曲面の薄い胸を手のひらで触れた。
小さくささやかな面積のそこを撫でる手に、素肌とは異なる感触を持つそこが触れると、魔理沙は、ぁっ、と小さく短い吐息を漏らした。
「そんな、とこっ……」
「何事にも準備というものがあるわ」
「準備、なんて、いらな……ふあっ」
もう一方の手も、キャミソールにくぐらせて魔理沙の胸に触れた。
「ふ、ぅんっ……ぅ、く……っ」
下腕がキャミソールの布地の上から小さな手に掴まれる。だが、魔理沙は退けようとはしなかった。背を反らし、瞳を時折眇めながら唇をきゅっと結んで声を堪え、齎されている感覚を健気に堪えている。元より血色の良いあどけないつくりの頬は、その血色を更に増して、薄く赤色を帯び始めていた。
胸に這わせた手の、指に当たるものの抵抗が増してきているのは、部屋の肌寒い温度のせいではない。魔理沙の詰められる吐息がそれを物語っていた。
手を滑り降ろして、キャミソールを裾からたくしあげる。金の頭を抜いて、それを脱がしてしまうと、身に何ひとつ纏っていない姿の魔理沙が現れた。
その体の線はか細く、腕や脚、体幹、手や足まで、体のつくり全部にあどけない幼さが残されている。魔理沙は見た目通り、真実まだ幼い人間の子供だった。
けれどこの小さな肢体と、時として達観した大人びた見解を述べたり、齢不相応に冷めてる部分を垣間見せる面との差異に、歩んできた道の険しさを推し量ることができる気がして、いたたまれない気持ちがこみ上げてならなかった。
所在なげに視線を彷徨わせてるその背中に、腕を回して抱き寄せる。
遮るものがなくなって、より直接的に触れた魔理沙の肌は瑞々しく滑らかで、肉付きは薄いのにどこか丸みを帯びた柔らかさがあり、そしてあたたかだった。
おとがいが左肩に載せられてる。背中に回ってくる縋るような魔理沙の細い腕を他所に、波がかった金の髪の中を鼻先で探って、赤く染まりかけの小さな左耳を見つけ出し、耳殻を唇に食んだ。
「ふあっ!? や、ああっ」
魔理沙の体が、ぞくんと跳ねた。
強弱を付けて食むのを繰り返すと、魔理沙はいやいやをするようにして逃げを打つ。
突っ張ろうとする腕の上から右の腕で背中を抱き込み、柔らかな金髪に手を差し入れ、後頭を引き寄せて逃がさない。
耳朶を唇で食みながら、左手を再び薄い胸に這わせる。耳をされているせいなのか、ぴんと立ち上がりきった胸の先端が、その存在を触れている指先に伝えてきていた。それを、そっと、揃えた二本の指先の間に捉えると、小さな背が、くんっと撓った。
「あっ、くふっ、ぅあんっ……!」
健気な勃ち上がりの先端を、くにくにと指先で押し上げる。指の頭で軽く弾くようにしたり、挟んでは離しの繰り返す度に、魔理沙は小さな体を震わせた。
左の耳朶を食むのも休まない。耳裏にも舌を這わせて、耳殻の付け根を舌先でそっとなぞると、魔理沙は濡れた溜息を漏らした。
「ふ、あっ、はあっ……、んぅ、や、んあ、ああっ……っ」
唇から漏れる吐息に、甘い音が混じり始めていた。
ただでさえ幼さゆえの甘めの声なのに、そこへ堪えるような艶っぽさが乗ると、背徳的なやるせない響きを醸して、身体のどこかにある衝動を掻き立ててくるかのようだった。
背中に回されたシュミーズを掴む手と、胸に這わせてる左手に添えるよう掴んできている手、それぞれの小さな手にはすでにまるで力が入っていない。
腕の中の幼い体は、ふるふるとした細やかな震えを、触れている肌に伝えてきていた。少々肌寒い部屋の中にあって、その肢体は着実に自ら熱を発し始めている。
髪の中に埋めていた右手を、襟首から背中へそろりと滑らせた。背筋を下がり、腰骨をなぜて、太腿から、そっと、内腿へと差し向ける。ぁ、と小さく息を飲む音が聞こえて、ほっそりした脚が少し強張った。
「っ、はぁっ……、痛く、して、っ……、いいから……っ」
「魔理沙……」
「だって、咲夜だって……痛かったから……っ」
そういうことじゃないでしょ、と、言おうとしてやめた。
魔理沙の理由や望みはどうあれ、今から訪れるという意味では外れていなかったから。
怖がらせないよう、驚かせないようにそっと、細い太腿の間に右手を滑りこませる。指の腹を這わせたそこは、殻を剥いたゆで卵のようにつるつるしていて、そしてひどく熱かった。
幼ない丘にうっすらと口開いてる、縦割れの溝に指が達すると、指の腹に、潤いの端が触れた。
「っ……」
幼い腰が、ひくっと揺れて、両肩に置かれた魔理沙の指が立った。自分から頭を寄せて、その右肩に額を擦りつけてくる。
ふちに沿って揃えた指の腹でなぞると、指が前後するたび、腰がひくん、ひくんと小さく跳ねた。
「っ……く、んぅっ……」
右の肩口から魔理沙の詰まった吐息を漏らすのが聞こえてくる。
時折いやいやをするように頭が左右に振られ、ふわふわした金の髪が頬をくすぐった。
魔理沙の腰は今や腿の上から完全に浮いていて、ひくんと跳ねる度に後方に遠ざかろうとする。人に触れられるのは初めてだろうその感覚に、戸惑い逃げようとしているかのようで、一人遊びはもちろん、触った経験すらないとしても少しも不思議ではない反応に思えた。
弓なりになって伸びている背中に左手を這わせ、やんわりと穏やかに撫でて、それを宥めようとする。探る右手を逃げる腰の動きに合わせて離されないようにしながら、僅かな量の蜜を狭く小さな谷間に塗り広げていった。這わせてる指の頭でそっと圧したり、かすかなひだを掠るようにくすぐったり、ゆっくりと入り口を解きほぐしていく指の動きは、さらなる蜜を呼んだ。
「……はっ、あ……んっ、あぁ……は、ふっ……」
「魔理沙……」
甘やかな声混じりの吐息から感じる、ぞくりとするものを抑えこんで、魔理沙の耳元に向かってささやくように名を呼んだ。
潤みを帯びたそこは、谷の内側を探る手指と、丘の周りまでも十分に潤していた。
「……いい?」
魔理沙は腰を引き、両肩を掴んで縋るような体勢で、額を肩に押し付けたまま、こくこくと頷いた。
中指に少しだけ力を入れて、指の頭をまだ硬さの残る小さな蜜口に、つ、と押し当てた。ぴくんと背中が震える。
あまり長い時間、緊張を強いるのは酷だから。
ゆっくり、けれど一息に、魔理沙を貫いた。
「ッふ、ぁああっ……っ」
「ッッ……!」
魔理沙の背がびくんと強張って、両の肩の手に力が篭って指立てられるのを感じた。
体を強張らせたのは、咲夜も同時だった。魔理沙の左手が、咲夜の肩を包帯の上から掴んでいた。
「ッ、ぅ……」
魔理沙はおそらく気付いていない。初めての感覚を堪えようとするあまり、必死だったのは明らかだった。
焼けるような鋭い痛みが右肩から伝わってきていた。それと同時に、感じているのは、紛れも無く充足感だった。互いの傷を知って、その相手と傷を痛め合って、痛みで繋がれたことに満たされる――なんて、救い難い。自分のことながら、そのどうしようもなさにやるせなくなる。
「はっ、ぁっ……あぁっ……はぁっ……っ」
魔理沙の中は、狭く、そしてひどく熱かった。
じっと動かさないでいると、魔理沙の詰められているかのようだった呼吸は、徐々に穏やかになされるようになってきた。肩に爪立てられていた手指の力も弛緩してきていて、たぶん痛みが落ち着いてきたのだろう。
こちらの肩の痛みも徐々に治まってきていた。
「魔理沙……大丈夫……?」
「っ、……んぅ……」
労るように背中を撫でると、魔理沙は小さな体を、ふるっと震えさせた。肩に埋めた額を、緩慢に擦りつけてくる。シュミーズの胸の開きにかかる吐息は、熱い。
治らない、消えない傷を付ける。そのことは、達せられた。
けれども。
魔理沙の体は、まだ、熱いままだった。
薄れてきた痛覚を頭の隅に追いやる。魔理沙の中にいる指を、ゆっくりと、そっと、手首だけの動きで少しの上下に動かし始めた。
「は、ぁ……んっ……」
魔理沙の吐息に混じる音色に留意しながら、注意深く、そうっと指を動かす。――このままでは、酷だから。
「ぁ……ぅ、は、んっ、ぅ……」
緩慢に指の出没を繰り返すうち、痛みを堪える絞ったような声混じりだった吐息は、別の何かを堪えるような音が多くを占めるようになっていった。
そのさなか、あっ、とやや高い小さな声。たったいま指で触れていたそこを、再び探る。同じように声が漏れ、何度もそこに指の先で触れると、その声はあっ、あっ、と断続的になった。
「あっ、ゃ、ぁ……あぅ、あっ……んぅっ……」
耳元で聞こえる、吐息に混じる高くか細い声は、ひどく甘い。
「さ、さくやぁっ……」
たまりかねたように、魔理沙が呼ぶ。
「わ、わたしっ……、へんだっ……、傷を、付けられてる、はずなのに……っ」
「痛い?」
「へ、へいき……だけど、だめ、……なんか、おかしい……っ」
「……それなら、だめじゃないわね」
「あっ……!」
手を尻にまわして、再び逃げを打ち始めた腰をぐいと手前に引き寄せた。
立膝になったことで魔理沙の内腿の間に空間ができると、手指が届きやすくなってより自由になり、探りやすくなる。
見つけた魔理沙の弱いところを、指の頭で何度も、くすぐるように撫で上げた。
「あっ、あっ、やあぁっ……! そこ、だめっ……おかしく、なっちゃ、ぅあぁっ……!」
腰を浮かせてソファに浅く掛けなおした。座高の下がった位置の身体に、腕を突っ張って逃げようとする背中に左腕を回す。
腕で引き寄せて、目の前にきた桜色の突起を、唇で食み捉えた。
「や、ぅあぁっ……っ!」
魔理沙の腕が縋りつくように頭に回され、小さな手指が髪の中に埋まってきた。ヘッドドレスが外れて、ソファに跳ねて床に転がり落ちたが、気にしない。
右手の中指で内奥を撫でながら、唇で挟んだ突起に舌を這わせた。勃ち上がりながらも柔らかなそれの先端を、舌先で上下に撫でてやりながら、微震にを伝える体を背中の腕で逃がさない。
「ふあぁっ、ああっ、はあっ……っ、さくやぁっ……っ」
髪が、弱々しい力で掴まれる。頭の上に落ちてくる声が、切迫したものを感じさせるようになってきた。そろそろ限界、と察する。
魔理沙の中の指先を一際強く押し込み擦り上げながら、唇で食んでいた突起を、ちゅうっ、と吸い上げる。
その途端、腕の中の小さな体が、びくっと跳ねた。
「っぁ! っあ……ふああぁぁあぁあっ!」
魔理沙は全身を強張らせて、頭を強く抱き締めてきた。
内側の指からは、びくびくとひきつるような震えが伝わってくる。
「ああぁっ、はぁっ、あぁっ、あぁ……っ」
断続的に甘い声と吐息を漏らしながら、魔理沙は全身で硬直と弛緩を繰り返した。
やがて、こわばりが徐々に緩んでいく。細かい微震は未だ、小さな体から伝わってきている。
手をゆっくり真下へ引いて指を引き抜くと、魔理沙は声混じりの溜息をつきながら、咲夜の太腿の付け根に尻を落として座り込んだ。
ソファに体を起こして上体を支えてやると、顎を肩に載せてぐったりと体を預けてきた。耳のすぐ横から乱れた呼吸が聞こえる。呼吸に上下する小さな背中を、労うよう撫でてやった。
魔理沙の体はひどく熱かった。シュミーズを通して伝わってくる熱い体温は、肌から染み入ってきて、胸の奥の凍土のいくばくかを、溶かしていく気がした。
落ち着いてきた呼吸は、いつの頃からか寝息へと変わっていて、それで魔理沙が最近寝不足気味だと言っていたのを思い出した。
壁の時計を見ると、いつも休息時間と定めている時刻に近かった。このまま一緒に、昼寝することに決めた。
魔理沙をベッドに運ぼうと、抱き起こそうとしたとき、視界に入った右の手指。
乾きかけた蜜の跡には、治らない傷を魔理沙に付けたその証拠が、赤く残されていた。
†
洗面台からの戻りに、立ち寄った部屋の窓辺。
カーテンを少し開けると、午後のぬるい黄金色の日差しが部屋に斜めに差し込んで、ベッドの盛り上がりにその光を投げかけられた。
上掛けから覗いてる金の髪が、その光を反射して輝きを放つ。
眩しさに目を細め、明順応してから覗いた窓の外では、雨雲は跡形もなくとっくにいずこかに去っており、冬の澄んだ青い晴れ空が広がっていた。
湖には、雨後の霧がたゆたい煙っている。
カーテンを閉じると、部屋は日差しを遮った薄ぼんやりとした明かりの空間へと再び戻った。
「咲夜……」
ベッドに入ると、その拍子に目を覚ましたらしい魔理沙が、こちらにぼんやりした顔を向けてきた。
一糸纏わぬ幼い体に腕を回して、そっと抱き寄せる。小さな肢体に満ちてるぬくもりが、触れ合った肌からじんわりと伝わってくる。
心の傷は、消えること無く永久に残る。その痛みとは、生涯携えて生きていくしか無いものなのかもしれない。
けれども。
痛みに抗って自分を変質させる必要は、どこにもないと、今なら判る。
こうして、肌を寄せあってぬくもりを分かち合えば、痛みを和らげることができると知ったから。
「魔理沙。……ときどきでいいから、またこうして、一緒に眠らせて?」
魔理沙の手が、包帯の上を軽く触れてきて、それから背中に回される。
「……うん……わたしも、そう、おもって……」
これからは、痛みに泣いていればすぐに行って、涙を拭ってあげられる。お互いに。
まどろみの中に消えていく魔理沙の声を、その唇に、唇で追いかけた。
傍らに眠る幼い霧は、はたして、咲夜を此の側にいざなうものだった。
彼の側へといざなう霧の夢は、たぶん、きっと、もう見ない。
――そう、咲夜も不老不死になってみない? そうすればずっと一緒に居られるよ。
――私は一生死ぬ人間ですよ。大丈夫、生きている間は一緒に居ますから。
――咲夜がそういうのなら仕方が無い、残念ね。
そんなわけで。
ぼくがかんがえた魔理沙ちゃんと咲夜さんの過去、なお話でした。
こんぺのお題調理としてはちょっとストレート過ぎた感があり、また設定語りになってしまい退屈な部分が出てしまったようでそれらに反省しきり。
構成下手と遅筆は相変わらずで、そちらにももっと勉強が必要と痛感したこんぺでありました。