ベルモットに呼び出され、こまごまとした情報収集とそこから派生する情報操作の仕事を押し付けられ――一応、組織にそう言う仕事をする立場の人間がいる筈なのだ――、安室透こと降谷零が寝床にしているセーフハウスに戻ったのは、除夜の鐘が鳴り始める刻限だった。
昼間のハニトラ相手の事を調べれば、自分が会った女性は存在しなかった。
どころか、女の親である筈の取引相手そのものが消えて、組織の人間の誰もが今日、
「半日は休暇として待って上げたのだから、ちゃんと来週の頭には片付けて頂戴」
いや、今日大晦日は月曜日で、ほぼ一週間あるが、この間日本はお年始休暇と言う形で殆どの官公庁が停止するし、大部分の企業も苦情対策とかごく一部の部署以外休暇なんだが判ってんのか。
疲れ果てた――『昼間』の一件はともかく、煙のように消えた存在の事がどっと来たのだが――ところに押込まれたベルモットの『依頼』に、見えない位置で拳を固めつつ『バーボン』として何とかいなし切って帰宅した。
彼女が、らしくない仏心を抱くのは『シルバーブレット』こと江戸川コナンと、『エンジェル』こと毛利蘭位なのはよく良く判っている。要求された情報操作の中に、余り『組織』に関わらないようなものが含まれているのを鑑みるに、要はあの二人に何かしらあって、それを何とかしたいと言うベルモットのお節介、或いは気遣いなのだろうが。
心身共に疲れ果て、鍵を掛けつつ溜息を吐いていると『安室透』用のスマホが鳴っているのに気付いた。
見ると、小松研二の名前で、慌てて出るとけらっとした声がした。
『よ、安室くん、こっち来ないか?
吉野の伝で、信州蕎麦の良いもの貰ったんだ、年越し蕎麦として食わない?』
「あ、良いですねえ、ちょうど戻ってるので、そちらに向かいます」
別に盗聴されている訳ではないが、
このセーフハウスの、使っていない押し入れの取っ手に左手薬指を数秒押し当てると、ピッと小さな音がする。
その後引き戸を開けば、その先は何処かの別の家――『代紋本丸』の『奥』の玄関に出る。
左手薬指の静脈紋を鍵とする簡易ゲートを潜ると、なるべく疲れた顔を見せないようにしながらダイニングキッチンを併設している二十畳のリビングに入った。
「おー、おか……」
「え?」
「降谷、か?」
アイランドキッチンで天婦羅を上げていた萩原研二が止まり、湯がき上がったらしいそばをせいろに乗せていた松田陣平が降谷を凝視し、熱燗の準備をしていた伊達航が警戒丸出しで声を掛けて来た。
三人の反応に降谷が面喰っていると、ソファーの方でもぞっと言う気配を感じた。どうやら、転寝していたらしい諸伏景光が起き上がったようだ。
「あ、ゼロ」
「ああ、ただいま、ヒロ。寝てたのか?」
「うん、兄さんが来てたんだけど、明日朝から仕事だからって、さっき帰っちゃって。で、年越し蕎麦出来るまで寝てろって、皆が言うから」
目が開き切っていない諸伏の頭を、降谷はゆっくりと撫でてやる。
その手に目を細める、同期で友人で事実上の上司兼主人の反応に、最初に声を掛けたのは伊達だった。
「あー、風呂に入って来い、降谷。
もう少し天婦羅に時間が掛かるから、その間に汗流して来い」
「あ、ああ、判った」
三人に押し出されるようにして、風呂場に向かう。
全員で入っても平気な様にと、改装されて広くなった風呂で、全身洗って久し振りに手足を伸ばして湯に浸かる。
食事前だしと、少し早めに湯から上がれば、ソファーの前に広げられたラグと長方形炬燵に蒸籠蕎麦と各種天婦羅、熱燗が並べられていた。
が、その横で正座した諸伏の前で萩原が所謂仁王立ちになっていた。
松田はダイニングテーブルの方で、ノートPCを覗き込み、伊達は部屋から出ているようだ。
「だから、報連相はちゃんとってこの間お前が言い出したんじゃん、降谷の事は特にって!」
「ごめん」
「何処かの低級神か術者が、降谷に化けて入り込んだのかと思ったじゃんか!」
「……それはないよ、俺と契約があって尚且つ静脈紋が一致しないと起動しないよう、ゲートは設定してるし」
「あー、確かに。お兄君と降谷の方、
「それにしたってさあ」
「……何の騒ぎだ?」
取り敢えず声を掛ければ、萩原は決まり悪げに頭を掻き、ノートPCを畳みつつ松田が嘆息混じりに一言。
「今日の昼頃の事、俺達聞いてなかったんだよ」
「え? ヒロ、あの女の事、報告しなかったのか?」
歴史修正主義者か、ソイツらに雇われたテロリストだったらしい女を思い浮かべてゲンナリする降谷に向かって、爆処コンビは「
「お前が狙われた事は聞いたけど、そのどさくさでお前が超人覚醒したってのを聞いてなかったんだっての」
「お陰で何処ぞの神格か、葛の葉以外の術者がお前に化けて、諸伏を襲いに来たのかと思っちまった」
「……それはどう言う話だ、ヒロ」
「えーっと」
聞き捨てならないと降谷が視線を向けると、諸伏はそっと目を反らす。
なので同期二人に目を向けると、二人は揃って肩を竦めた。
「俺達は、現在この本丸で審神者業をしつつ、同時に二二〇〇年代の警察庁に所属する警官でもある。
で、その職務に万屋街と呼ばれる商業区と、演練場の巡回があるんだ」
「その巡回中に、うちの刀剣男士になり代わろうとしたり、俺達に化けて諸伏を襲おうとした奴が結構居たんだよ」
「誤解しないでくれゼロ、全部未遂だから」
慌てて、二人の言葉に諸伏は付け足す。
「……まあ、実際の話確かに本丸まで入り込めた奴は居ないけど、だからこそ驚いたんだよ、そしたら諸伏の奴ふっつうにお前と話すしさあ」
「常人は多分判らないだろうけど、お前滅茶苦茶気配がごつくなってんだよ。多分『ペルソナ使い』って奴だと思うけど、通常より色々無茶な状態だと思う。普通は一体のみか、それこそ仮面を付け替える乗りで固定化してないかのどっちかだけど、お前三つもくっついてるんだよ」
「覚醒したてで此処までハイレベルな神格クラスのペルソナ背負ってるってだけで大事だってえのに、降谷お前、それが三つって」
二人の論点が見えず、降谷がぽかんとしているうちに部屋から姿を消していた伊達が帰って来た。
「何だ、まだ終わってなかったのか?」
「何処に行っていたんだ、伊達」
「おお、『衣笠』の本丸に、お裾分けにな。
あそこは未だ開設したてで、刀剣男士も一部隊と『衣笠』の護衛しかいないから、年越し蕎麦とおせちと雑煮用に餅を渡して来た」
「『衣笠』って言うと、ヒロの弟子になるんだっけ? 俺は会った事が無いんだが」
降谷の言葉に、伊達は盛大に苦笑いを浮かべた。
「悪いが、最低でもお前の方の『任務』が蹴りが着くまでは、会わせる訳にはいかんな。
あいつ、二〇〇〇年代の人間だから、街でばったり会ったりした場合、双方大問題だろうからな。お前も、潜入中で偽名使ってるのに、本名呼ばれるのは場合によっては不味いだろう?」
少々不満ではあったが、降谷は「それもそうか」と引き下がる。
「ほら、折角の熱燗と蕎麦と天婦羅が冷めちまう、食おう」
「そうだな」
「良し、ほら、諸伏炬燵入れ」
「降谷、諸伏の横な」
「ああ」
「うわ、あったかい」
ごそごそと五人で炬燵を囲み、お猪口を持つ。
「じゃあ、降谷、音頭取れば?」
「え? 普通こう言うのはここの主人がやるもんだろう? だからヒロが」
「えーっと、ゼロがしてくれればいいんだけど」
「良いんじゃね、婿殿」
「まあ、警察学校じゃあ、降谷が俺達のリーダーみたいなものだったしな」
萩原に話を振られ、断れば幼馴染みに上目遣いで伺いを立てられ、松田と伊達に笑われた。
已む無く、半ば自棄で降谷はお猪口を突き出した。
「ああ、もう。
本年中はご苦労だった、来年もよろしく頼む。――乾杯!」
「「「「乾杯!」」」」
降谷のお猪口に、四方からお猪口が付き出され、軽くだがそれぞれカチンと打ち合わされた。
数年振りの、五人揃っての大晦日だった。
翌朝は当然ながら正月で、降谷零が目を覚ました時には、既に腕の中に居た筈の諸伏景光の姿は無かった。
顔を洗い、置いてあったスウェットを着込んで離れ屋――諸伏自身の寝室は『奥』の二階にあるが、降谷が泊まる時は二人で中庭に面した離れで寝起きしている――を出て居間に行くと、同期三人がそれぞれの恰好で何やら作業をしている。
白い着物の上に割烹着を着た姿で、何やら料理している萩原研二と、ダイニングテーブルで相棒と同じ白い着物に橙色の単衣を重ね、紫の袴姿で何やら携帯をいじっている松田陣平。
伊達航は紫袴に白衣の上に同じく橙色の単衣を重ねた状態で、ダイニングテーブルの端でタブレットPCを弄っている。二人とも、袴には白色の丸い文様――確か八藤丸と言う、神職が使う紋様だったと思う――が入っている。
ソファーの方を見ると、ソファーとテーブル、夕べの炬燵の上に幾つか和服の包みと木箱が置かれている。
「あけましておめでとう。何か、凄いな」
「おー、おはよう、んでもってあけましておめでとうな、降谷」
そう言いつつ、萩原は漆塗りの皿に盛られたお節と、雑煮の入った椀、小さなガラスの猪口に入れたお屠蘇を同じく蒔絵を施した漆塗りのお盆に盛り付けて、テーブルに着いた降谷の前に置いた。
「俺達は、これからうちに所属している連中と、年始に来る来客の相手しなきゃならないからゆっくり出来ねえけど、お前さんはこれ喰ってゆっくりしてくれよな。あ、この黒豆と栗金団と蓮根の天婦羅作ったの、諸伏だから味わって食べてね?」
「お、おお、ありがとう」
「おー、あけおめさん、降谷」
「ああ、あけましておめでとう、松田。何してるんだ?」
お澄まし仕立ての汁に、人参と三つ葉、鶏らしい肉と焼いた角餅の入った雑煮に箸を付けつつ降谷が問うと、松田は軽く肩を竦めた。
「ああ、勤務の確認。俺、一応今日出勤なんだ。だから、陸奥達の年賀が終わったら時間に間に合うよう移動しなきゃならんから、色々確認してた」
「大変だな。……あれ、これ鶏肉じゃない?」
話しつつ、口に含んだ肉の風味と歯触りに驚く降谷に、笑いつつ答えたのは洗い物を済ませた萩原だ。電子煙草を咥えたまま、松田は遠い目になる。
「ああ、それ雉肉だよ。信濃の方の雑煮は、正式には雉肉で作るんだと。諸伏への貢物として、年末に送られるんだよねー」
「美味いんだが、初めての時は丸っと羽毛毟って血抜きだけされたものが四つ送り付けられて、四人で途方に暮れてな。刀剣男士の料理好きな面子に声掛けて、何とか捌いたんだよな」
「雉肉? 丸ごとって、えー……焼いてみたい」
「あー、手付かずが一匹、冷凍してストッカーに入れてあるから、傷まないうちに好きにしていいぞ。
松田、萩原、そろそろ着込め、諸伏の方が終わるそうだ」
「へえへえ」
「うへ、俺未だ
タブレットを弄り終わったらしい伊達が、
「あー、ごめんにゃーちゃん、俺の身支度手伝える?」
虚空に向かって萩原が声を掛けると、ポンっと音を立てて猫耳尻尾――但し、二股に分かれているが――の付いた十歳くらいの女の子が現れた。
……一応、ここで寝起きするようになってすぐに、萩原の『仲魔』――使役している魔物を、召喚師はそう呼ぶのだそうだ――として紹介されたのだが、何度見ても通報案件に見えて困る降谷がいる。
「もう、マスターだから先に着とこうって言ったにゃん! シーちゃんと
「ごめんって、でも単衣着て割烹着は動き難いんだよー」
「マスター、その動き難いからって楽な格好しててイッペン死んだって、自分で言ってたにゃん」
猫又の『にゃーちゃん』の言葉に、反射的に松田のゲンコツが萩原の頭を捕らえた。
「いってええよ、陣平ちゃん!」
「おめえが正月早々、嫌な事思い出させるからだろうが!」
「こらそこ、早く準備しろって言っているだろうが!」
ぎゃいぎゃい言いつつ、三人は黒い『袍』――良く見ると、艶入りと艶無しの黒の絹糸で九頭龍が織り込まれためちゃくちゃ渋いものだ――を着込み、木箱から取り出した冠を被り、顎の下で紐を結わえた。
その姿が、余りに堂に入っていたので、降谷は思わず溜息を吐いていた。
「何か凄いなあ」
「あはは、これで三回目だよ、ここまでごつく着込むのはさ」
袴や袍の裾を猫又に直して貰いつつ、萩原が苦笑いを浮かべる。
松田の方は、冠の紐を直しつつ、降谷とは意味合いの違う溜息を洩らした。
「あー、一部からは不評なんだよな、この格好」
「そうなのか?」
「おう、頭の固い爺様達から、不遜だって」
「え?」
聞き返すと、苦笑交じりに説明するのは伊達だ。
「いや、本来俺達の着てる黒袍と紋付紫袴は、神職でも結構上位の、デカい神社にも一人いるかいないかくらいの身分の人間のものらしくてなあ」
「そうなのか?」
そう言えば、余り見た事が無いかもと思っている降谷に、これは猫又娘が馬鹿馬鹿しいと口を開く。
「そっちこそ不遜だとニャーは思うけどにゃあ。だって、マスターは
「はいはい、頭の良い人間と悪い人間がいるからね、仕方が無いね? おっと、降りて来た」
萩原の声に、食べ終え食器を流しに置こうとした降谷も居間の端にある螺旋階段を見て――動きを止めた。
額に角の生えたゴツゴツした体躯の大男――文字通り『鬼』で、沌と言う名だ――に手を取られ、白袴に黒地に金糸銀糸で九頭龍の刺繍が施された袍を纏い、冠を被った幼馴染みが降りて来た。その背後を、お付きの女官宜しく付いてくる緑色の髪の美女が、シーちゃんこと
元々、神職の正装である正服、衣冠は平安時代の文官の服装だったと聞くが、細身の幼馴染みが着込むと、体育会系丸出しの同期三人より、平安貴族の御曹司っぽく見える。
涼しげな吊り上がり気味の目元に流された、朱色のアイラインが色っぽく、だが同時に人から離れた存在だと主張しているようにも思わされた。
「あ」
「あけましておめでとう、ゼロ」
「お、おめでとう、ヒロ」
思わずしどろもどろになった降谷を、身支度の終わった同期三人はにやにやと見る。
「これから八時間ほど、客寄せパンダやってくる。ゼロはゆっくりしてて良いから。出掛けるなら、竜胆、否、雫!」
『あいっ』
ぽふんっと、音を立てて子猫くらいの大きさの、これ迄見てきた中で一際小さな管狐が現れた。
「この子に、移動先と時間帯を言えば、そこにゲートを繋いでくれるから。頼んだよ、雫」
「あい、お任せしぇくだしゃい、染井吉野様」
よじよじと降谷の肩によじ登った子狐は、ここぞとばかりに胸を張って見せた。
その顎の下を軽く撫でると、何処かぼんやりしている幼馴染みに微笑みかけ、諸伏景光、いや代紋本丸の総責任者であり、『
その後ろに、仲魔を封魔筒に戻した萩原こと『小松乙女』、松田こと『江戸彼岸』、そして伊達こと『大島』を従え、『奥』を出た『染井吉野』は、背筋を伸ばしたまま歩いて行く。
渡り廊下の先に、長直垂姿の九人が額付いて待っているのが見えた。
彼らを従え、母屋に入っていく幼馴染みと同期達を見送った後、降谷零は複雑な心境で息を吐いた。
……一緒にいたい、そう彼に告げた思いは今も変わらない。
短い間でもと言ったのも、あの時は間違いなく本心だった。それなのに……。
肩に乗った小さな管狐が、すりっと降谷の首筋にすり寄った。
「御用事は有りませんか?」
「……そうだな、時間を見て、動く事にしよう。
今日は、多分こちらには来れないしな」
口に出して言うと、やるせなくなった。
ちょっとだけ肩を落とすと、着替える為に降谷は『離れ屋』へと足を向けた。
一月一日の夜、夢を見た。
以前見た、何処かの岩屋。
立った二つの蝋燭で照らされた、その小さな空間はあの時と違い寝台であるかのように周囲を布で区切られ、足元も波打つように柔らかな布で満たされている。
そして、その布の海の中心に諸伏景光が眠っていた。
ごく薄い着物一枚を身に纏い、その胸元に青い鶏卵くらいの大きさのものを大切そうに抱き抱え、彼は眠り続けている。
『生まれて来れるだろうか』
小さな声がする。
『生まれてくれるといいな。確率が低いのは判っている。
どっちつかずの俺に、命を育む力は余りにも薄い。でも、それでも』
これはヒロの声だ。
『この子が生まれてくれるなら、俺は残る【生】を全て日本の国土の維持と、結界の維持に費やしたので構わない』
その言葉で気付く。
薄衣の下、彼の身体には翡翠色の細い鎖と緋色の細い紐と、黒く汚れた注連縄とが戒めるように縛り上げ、特に黒い注連縄は彼の身動きを認めないとばかりに手足を縛っている事を。
緋い紐は、網目状に絡み合い身体中に食い込んでいて、そこから薄っすらと血が滲んですらいた。
『ゼロ、大好きだよ? 一緒に生きる事を諦めた代わりに、お前の子供を――男の身でも望む程度には。
直接会うまでは、お前の人生とお前の功績を護れるだけで良いと思った。
でも、駄目、だった。
せめて他人の空似、よく似た他人として振舞いたかったのに、ゼロに呼ばれたら誤魔化し切れなかった』
胎児のように丸くなり、小さな卵を彼は愛おし気に撫でる。
『そして、三人が全てばらしてしまって、ゼロから短い間で良いからまた一緒にって言われて、俺は望んでしまった。
ゼロの血を引く子供が欲しいって。
この世の終わりまで生きる俺の傍に、ゼロがいた証が欲しいって。
……神格覚醒こそ起こしたけど、【神】としては出来損ないに等しい俺は、望んですぐに子供を得られる訳じゃない。
この卵は、力のない俺の足掻いた
俺の分身じゃなく、俺とゼロの子供が欲しくて、ゼロの精を胎の中に溜めてやっと産み出した。
……生まれて欲しい、なあ』
そうだ、『奥』で寝起きするようになって、度々同衾するようになって、一度も
ヒロの体調を考えると使いたいのに、泣いて嫌がるので使えず仕舞いだ。
まさか、この為だったなんて。
目が覚める。
今日は、公安側の任務の都合でセーフハウスに帰れなかったので、警察庁の仮眠室で眠っていたのだと思い出す。
起き上がり、無意識にスマホを取り出す。
ナンバーをタップしようとして、このスマホが公安任務用で、時空の果てにある本丸と繋がるように細工された『安室透』用ではない事を思い出す。
だから、思い直して別の事を始める。
検索を掛けるのは、『九頭龍』について。
それを言って寄越されたのは、ベルモットに年末の『仕事』について報告し終わった直後だ。
「ねえバーボン、貴方クトゥルーを知っていて?」
「……は?」
ベルモットからの問い掛けに、『バーボン』こと降谷零は一瞬反応に困った。
クトゥルーと言うと、アーカムハウスのペーパーバック作品、ラブクラフトなる作家と不可解な仲間達が産み出した、神話無きアメリカに君臨する創作暗黒神話群に出て来る、蛸の親分みたいな神様の事だろうか?
「まあ、ラブクラフトを読んだ事は無くもありませんが」
「違わないけど違うわ」
そう言ったベルモットも、良く判っていない様子ではあった。
何でも最近、アメリカの東海岸の方から来た研究者を称する男がいて、そいつから『日本のクトゥルー』の捜索と捕獲を何度も繰り返し依頼されているとか。
「……何ですか、それ」
「知らないわ。只、かなりの額を振り込んできているから探すだけ探してみるか、と言う感じらしいわよ?
そのうち貴方にも、話が来るかもね?」
「そんな、あからさまに絵空事に付き合うくらいなら、もっと実入りの良い仕事を回して下さいよ」
そんな事を言いつつ、ベルモットと別れた後だ。
移動の為RX-7に乗ったところで、ルームミラー越しに声がした。
『少し、良いかな』
マスクを被ってはいないが、ミラーに映っているのが『バーボン』を演じている自分では無く、『
「何だ?」
『さっきのMrs.ヴィンヤードの言葉なんだけど』
「ラブクラフトか?」
『いや、そっちじゃない。僕が引っ掛かったのは、【日本のクトゥルー】って奴』
「え?」
ミラーの中の『安室透』は、
『何だか、音の響きが嫌なんですよ。ねえ、僕達は最近、良くこれに近い音の言葉を口にしていませんか?』
「え?」
『日本語の発音って、外国人には出来ない事あるでしょう? 音が巻き舌になったりとか、音をきちんと区切れなかったりとか』
クトゥルー
クトルフ
クトルー?
クツルウ?
まさか。
「九頭、龍?」
『そう、それ』
「……何だ、それ。いや、音は似て、いやそりゃあ確かに九頭竜は水の神だけど、あの蛸のお化けと一緒にされるなんて!」
『それは僕に言われても。でも、警戒は必要でしょう。わざわざ【日本のクトゥルー】と称して来ている以上、その研究者とやらには探りを入れるべきじゃないですか、ゼロ、【
「うん……『そうですね。附合として嫌過ぎる』、まず、研究者って奴の面を拝んでやらないと」
ふっと、脳裏に浮かんだのは正月の朝、年始の為に黒絹に金糸銀糸で九頭龍を刺繍された袍《ほう》を纏っていた、衣冠姿になった幼馴染みだ。
あの美しい姿と、巨大な坊主頭に口許に髭のように触手がうねる化け物の画図を並べて、ふざけんなと思う。
「もしも本当にあれとヒロを混同してるなら、『『『ぶっ潰してやる』』』」
己の中にいる《ペルソナ》達の物騒な呟きに同調しつつ、降谷零は警察庁へと愛車を走らせた。
米国連邦捜査局《FBI》異常事件課、略称はUIU。
FBI内部に作られた、超常現象専門調査部署である。
かつては『XFileごっこ』と他部署から笑いものにされ、いわゆるキャリアの袋小路扱いをされていた部署であった。
しかし、とある男がこの部署の唯一の捜査官として登録されて以来、ここは某『財団』との綿密な連携の元『本当に不味い存在を【調査】【確保】【保護】する部署』として、機能するようになった。
表向き担当者は、『単独行動が多い故の島流しされた捜査官の落ちこぼれ』とされ、エリート呼ばわりされている若造や頭の固過ぎるWASP系高官からは見下されている、東洋系、いや日系の捜査官だ。
しかし、実際はFBI内部でのいざこざに巻き込まれた挙句、汚職高官に冤罪を掛けられ死刑宣告を受けた結果、『財団』に
彼の非凡さを知った『財団』は、彼の生い立ちその他諸々を考慮し、使い物にならないUIUを立て直す人材として
そして、『財団』の目論見は当たり、お荷物と言われたUIUはアメリカ国内の怪事件に関して、CIAの某部署を上回る処理能力を発揮するようになっていた。――しかし、それでもなお未だにこの部署を切り回しているのは、たった一人の捜査官である彼、だ。
「はい、異常事件課です」
『おひさしぶりです、Herrタキ』
「ミュラーか? まさかと思うが、また
慣用句で問えば、相手の方も流ちょうな日本語で返して来た。
『今のところ、サイトは無事です。唯、日本支部から貴方に依頼が来まして』
「変な話だな? 俺に直接じゃなくて、わざわざ本部経由ってそりゃ」
『慎重にならざるを得ないんでしょう、どうも今、日本にケテル級の存在が観測されたらしくて』
「ケテル!? そりゃまたいきなり世界の危機ってか? ……おいこら、まさかそんなデカいのを、俺に調べろってんじゃア」
『いやだって、貴方なら『葛の葉』を出し抜けるじゃないですか、あの危険組織!』
電話の向こう側の存在の泣き声らしからぬ泣き声に、舌打ちが出るのは仕方が無い。
財団からすると、危険存在の【確保】【収容】【保護】を邪魔する謎の危険集団らしいが、向こうは向こうで日本古来の存在――神様とか、妖怪とかと共存したり排除したりしている古来からの集団だ。
以前、日本の東北の山奥に住む山神――ああ、うん、某「生きろ」な映画に出てきた巨大猪みたいなものと思って欲しい――を収容と称してアメリカの施設に連れて行こうとした財団研究者と、神社関係者の依頼で動いた『葛の葉』との騒動は、もう少しで財団と人外魔境な集団との戦争になるところだった。
八対二の比率で研究者に非があった事と、こいつが研究費の横領をやらかしていた事、神社の施設維持に日本支部が協力していく事で何とか落ち着いたのだが、その交渉役に偶々日本に里帰りしていた彼が担ぎ出されたのだ。
「タキなら、重度の情報災害に際しても被曝の確率が低いから」
そう言ってGoサインを出したジャック・ブライト博士を、帰国後逆さ吊りにして松葉蒸にした彼がいる。
「あそこ、一般に認識されちゃいないが、れっきとした国家公認機関だから。
あー、『葛の葉』が出て来ると見られてるって事は、何処かで神様として奉られてそうだな。そう言うのまで手を出すの、止めた方が良いと思うんだが」
『そうは言っても、我々も仕事なんですよ』
「へえへえ、まあ、日本に行く用事はあるからそのついでで良いなら何とかするわ」
『お願いします―!!』
携帯電話を切ると、どうしたものかと額を押さえる。
正直、『財団』にも『神様』やそれに等しいもの、そこに近い存在はゴロゴロしている。
……彼は、その手の存在に親愛を寄せられる性質であり、狂信者を呼び込む SCP-2662とも一〇年近い時間接触を持ち――流石に連続ではないが――ながら、今のところ一切精神変調も精神汚染の様子もなく、奉職し続けていると言う特異体質だ。
だからと言って、他所の国の神様って名札が付いてる存在に手を出してどうするとも彼は思うのだが。
「だあ、もう。全く、ジェーミーの奴に渡す情報の事もあるし、祖父ちゃん祖母ちゃんの七回忌もあるし、どっちにしろ日本には行くけどさあ」
そうぼやきつつ立ち上がる。
デスク上に放置されていた身分証には、『