「……そおっすか。やっぱりその人光先輩だったんだ」
二月某日、九条貴利矢は休憩時間に掛かって来た電話に相好を崩していた。
『ああ、只、怪我した時のショックやそれまでの心的ストレスで、部分的な生活史健忘になっていたそうでな。ただこの間、子供の頃に遭遇した事件そのままなぞるような騒ぎがあってな、それでかなり記憶が戻ったんだ』
「え? 大丈夫だったんですか、それ」
思わず聞き返せば、電話の向こう側にいる降谷零は落ち着いた声でこう返す。
『たまたま、仕事の関係で協力を取り付けたのが、その事件の時に助けてくれた刑事さん達でね、彼らが居たから却って精神が落ち着いたらしくてな、それが良い方向に働いたんだ。
今度、又暇が出来たら教えてくれ、俺もヒロも勤務合わせるから、【ポアロ】で会おう』
「そっすか。じゃあ……と、すいません、キャッチ入ったんでこれで」
『ああ、又な』
一旦通話を切って、掛かって来た方に繋ぐと、それは貴利矢が『名人』と呼んでいる現在小児科医を目指して某大学病院で研修中の、宝生永夢からであった。
「もしもーし、どしたの名人、確か今日は若先生と健康診断担当だって言ってたじゃん?」
カレンダーに目をやりつつそう問えば、受話器の向こうから、オロオロした声が帰って来る。
基本、そそっかしいが前向きで努力家の彼が狼狽えるとなればそれは基本患者の為だが、だったら監察医の自分ではなく指導医の鏡飛彩や花家大我に相談する筈。
そう思っていると、永夢はこれから血液検査結果を送るので見てくれと言う。
「ちょっとちょっと、個人情報!?」
『判ってます! でも、若先生も花家さんも、貴利矢さんに見せた方が早いって』
二人の名前を出され、否な予感がする。
あの二人には、自分が公安警察――それも警察庁の方だ――の協力者をやっている事を知られてしまっているので、何事か面倒な事を見付けて押し付けに掛かったなと貴利矢は踏んだ。
案の定、送られてきた血液検査結果と言う奴には、どう考えても半年以上は結構な回数麻酔を使われていないとあり得ない、ついでに言うと通常考えられない数値――毎日致死量すれすれの麻酔を使って無ければ出て来ない様な――で、見た途端思わず仰け反ってしまいそうになった貴利矢がいる。しかも、検査表にあった名前は……。
「毛利、小五郎って、今先輩が!?」
『潜ってる先じゃん』と、言うのは流石に噛み殺し、詳しい話を聞くべく貴利矢はリダイヤルした。
医者二人にしてやられた感はあるが、監察医、否医者として、流石にこれは捨て置く訳にはいかなかった。
**
息子からの緊急連絡を受けて、工藤夫妻が日本へ帰国したのは二月ももうすぐ終わる時期だった。
成田から、黒いリムジンに乗せられ夫妻が連れてこられたのは、とある高級ホテルの一室であった。
そこには、スーツ姿の見覚えの無い男性が静かに待っていた。
「失礼、Mr.工藤とMrs.工藤で間違いありませんね?」
「貴方は?」
工藤優作の問い掛けに、男性はFBIの身分証を提示して見せた。
「FBI所属、滝和也と申します。
今回ご足労を願ったのは、身内の恥についてお話したいと思いまして」
「……は?」
息子と、『江戸川コナン』について云々される事については、それなりに夫妻も想定し論破するべく用意していた。
だが、目の前の男は今何と言った?
「あの、何を」
「……この間マカデミー賞を取った、【緋色の捜査官】、実に面白かったです。……フィクションとして」
「! それはどう言う意味ですかな?」
「ですから、フィクションとして、読み物として読むなら良いんですが、貴方あの話にモデルが居るって公言されたでしょう。
向こうの組織が、見付けたら殺せば良い程度の認識だから大事になってませんが、海外の諜報組織はあの主人公が死亡している筈の、赤井秀一だと把握しています。
執筆時期として、ギリギリ生存中に書いたと判断するには、主人公の人物形成が深過ぎるんですよ」
そう言うと、滝と名乗った男は深く嘆息しつつこう続けた。
「民間の有名人に匿われ、変装術を習う代金としてモデルを引き受けたんでしょうが、迂闊が過ぎます。
潜入捜査に失敗する筈ですよ、奴は捜査官としての心構えも覚悟も、一切身に着けてなかった」
「そんな事はないでしょう」
「普通の潜入捜査官は、自身の身許を世間に例えフィクションの世界であっても晒すような芸当はしません。そうやって身分を顕示する事で、潜入先に存在を主張する作戦でもなければ仲間の安全保障にも関わります。
そもそも、組織に身内を人質に取られているような人間に当たり屋紛いに近付き、保護もせずに見殺しにする事からしてあり得ません。
そう言う時は多少強引でも、協力者として保護するんです。
正直、奴には潜入捜査官としての研修プログラムを受けたかどうかもはっきりしません。
ブラック班自体が、捜査チームとして大問題だったのも否めないんですがね」
一度言葉を切り、そして一見三十代半ばと見えた男は辛辣にこう言い切った。
「死んだ事にして潜伏するのに、有名作家の自宅に潜む事自体噴飯ものだってのに、潜伏先の警察機構どころか
上司のブラック捜査官自身が、自分の権限でどうにか出来ると軽く考えてた節がありましてね。冗談じゃない、現状あいつらのやらかした事でアメリカ市民が旅行先で拘束される案件が続発しているお陰で、外務省からFBIは盛大に突き上げられています。この状況で、あいつが日本警察に逮捕された場合、上層部はあいつを犯罪者として逮捕させて、知らぬ存ぜぬで通す事になったでしょう」
「と言うと?」
「同盟国内、しかも銃規制されている国で銃器類の密輸に無許可発砲一〇数回、相手国の警察と法律をまるっと無視した無認可捜査、観光ビザで入国しておいて高校に不法就労、そして死亡偽装の為の死体損壊。
それ等が外交上合衆国と、大なり小なり問題を抱えている国家に抜けましてね。
同盟国でここまでやるなら我が国でもと、考えるお国で全くの一般人である合衆国の旅行者が、スパイ容疑をかけられ拘束される事案が多発しています。勿論、CIAの事実スパイだった人間はともかく、大企業の社員や、その国の大学や研究機関に出張していた研究者が拘束されて、現在水面下で交渉が繰り返されていますよ。
結果、騒動の片棒を担いだ、否事実上事態の大本になった、『死んだ筈』の赤井秀一をFBIは捕まえて吊し上げるならともかく、助ける謂れは現状ありませんから」
考えても見なかった騒ぎに、工藤夫婦の額に汗が滲む。
そんな夫妻に、滝はもう一つ爆弾を投げ込んだ。
「そうだ、ブラックの奴なんですが、彼奴個人的なコネとしてこの辺と繋がりがあるんですが」
そう言いつつ彼が差し出した書類に載っているのは、合衆国でも名の知れた大企業や財団だ。
……所謂ワンマン経営者が起こした後、後継者で揉めたり老害と化した年寄りに振り回されたりで、近年振るわない企業体の数々だった。
訝しげに眉を顰める優作に、滝が告げたのは一言。
「この名簿、そのまま烏丸グループの取引名簿に重なるんです、表向きじゃなくて闇献金ですけど」
「何ですと!?」
「奴さんは、都合良く資金提供してくれるパトロン程度の認識ですがねえ、最近そのパトロン達から指示されてたらしいんですよね。
江戸川コナンを保護して、合衆国に連れて来い、とね」
「それ、どう言う事ですか?」
思わず声を上げた工藤夫人に、滝は淡々と言葉を続ける。
「表向きは、ギフテッド教育に不備が多い日本では出来ない教育を施す為。
本音は組織を出し抜いて、人類の夢を掴む為、ですよ」
「「は?」」
「ですから、十七歳から七歳に幼児化した工藤新一を叩き台に、老醜を晒す金持ち権力持ちの夢の薬を造ろうって魂胆なんですよ。
非常に申し訳ないが江戸川君の言動を見れば、メディアに残っている工藤新一君のミニチュアにしか見えませんからね、あの組織が作り出した薬物絡みだと思い至った一部の連中が動いてます。
そして、現状江戸川君の保護は日本でも難しいかと」
「それは、何故ですの!?」
「彼が無戸籍児だからですよ。
日本警察にも協力して貰いましたが、彼の戸籍は存在しない。居ない人間をこっそり連れ拐われたとしたら、実に地道な聞き込み捜査と街中の監視カメラチェックを必要とされます。ほぼ間に合いません。
問題はそれだけじゃありません、戸籍が無いって事は国籍が無い、つまり日本国民でも合衆国国民でも無いって言う事で、江戸川コナンと言う
生憎、WASPの年寄りには、未だに有色人種を格下に見る悪癖を持ってる人間がそれなりに隠れてましてね。東洋人で合衆国市民でもない子供を、自分達の若返りと言う夢の為に切り刻む事に、躊躇は無いでしょうね」
ここまで言い切り、滝は夫妻に目をやった。
母親は真っ青になって涙ぐみ、父親はおそらく自身の想定外の情報に必死に優秀と言われた頭脳を回しているのだろう。
かくして、男は反論を試みる。
「FBIは、あの子を保護してはくれないのですか?」
「……保護は致します。但し、その際は彼を放置した肉親縁者とは完全に隔離し、合衆国司法が用意した家庭に養子縁組を行います。
無国籍児と言う事は、真っ先に疑われるのは自称肉親が犯罪者であるか否か、ですから」
「え!?」
顔を跳ね上げたかつての大女優に、滝は淡々と言葉を続ける。
恐らく考えたことも無いだろう、万年新婚夫婦に滝は日本と米国の違いを突き付ける。
「合衆国の司法はまあ通り一辺の判断を下しますから、保護した家庭より酷い家庭と縁組して大問題を起こす事も良くあります。
子供の人格形成として、早くから個室を与えられる事から親子の接触が少ない傾向があり、子供の頃親子で川の字で寝たと言う日本人の話を羨む人間も多い。
でも、合衆国の常識として、未成年の子供を一人で家に放置する事は逮捕されるべき犯罪と見なされます。銃社会である合衆国で、自衛手段のない子供に子守も付けずに放置する人間は、自身も犯罪者くらいの認識を持たれます。
Mr.工藤、貴方方が表立って批難されないのは、ご子息を残したのが世界でも指折りの治安を誇る日本だったからだ。
最も、江戸川コナン君がFBIに保護されるなら、これまでのご子息の事も込みで突き上げられると覚悟して下さい。
ギフテッド疑惑付きの無戸籍児を保護せず、まだ投票権も無かった実子を放置し消息不明、探しもしなかったとなれば我が国では貴方方がご子息を殺し、それを見たあの子を誘拐して身内の子と称しているとみなす輩も出てくるでしょう」
「随分な言いようですな。何を持って、そんな結論に至りますかな?」
頬を引き攣らせて問う作家に、二〇数年FBIで現場仕事中心に従事している捜査官は、何と言う事は無いとばかりに言葉を続ける。
「簡単ですよ、それが都合が良い人間が一定数居るからです。
例えば、合法的に江戸川コナンを手元に置きたい先程の連中。
彼らは端から、彼が幼児化した工藤新一である事を知っているのだから、今後の実験の為にも早急に貴方方から子供を引き離したいでしょう。
後、『工藤優作』を助けた、若しくはやり込めた弁護士と言う『箔』を欲しがる連中もまた、一定数居ます。
彼らにとっては、貴方方が事実息子を見殺しにしていようとしていまいと、あの少年が単なる無戸籍児なのか犯罪被害者なのか、その辺は正直どうでもいい。大金が動くだろう、マカデミー賞受賞作家のスキャンダルに食い込んで、自分をどれだけ売り出せるか、それだけです。
日本の弁護士と違って、一種のダニが一定数居るのが合衆国の弁護士事情です。選択にはご注意ください」
「あの、私達が探しもしなかったと、そうおっしゃいましたけど」
反論しようとした母親に、滝は自身が見て来たもので張り倒す。
彼は、それこそ全財産を投げ打って、我が子を探す母親をダース単位で見て来たのだから。
「Mrs.工藤、合衆国の子供を連れ浚われた親ってのはね、余程の事が無い限り心神耗弱に至る寸前まで自力で子供を探すんです。持てる財力をつぎ込み、僅かな目撃情報の為に何日も掛けて広い合衆国を走り回り、それでも自分の手では無理だとなって初めて企業の探し人広告や、警察に届けて情報を待つようになるんです。
申し訳ないが、貴方方御夫婦がそう言う活動をしていた節は見られなかったし、子供が事件を追うと称して消息不明になっていたと言うのに、随分優雅な生活をしておられたようですが」
じろっと睨まれ、思わず工藤有希子は怖気付いてしまう。
そして滝は、天下に名高いミステリー作家へとこう言い放つ。
「貴方にとって、烏丸グループと事を構える事になったのはたまたまで有ったものの、息子さんの身の安全より闇の深い烏丸蓮也を追い掛ける事に走ったのは、人の親としてどうかと思いますよ。
恐らく、自国民を護るため全力を尽くすだろう自国の警察ではなく、貴方方が利用できるから協力していたに過ぎない外国の捜査組織に肩入れした時点で、貴方方は間違っているとしか言えない。
どの国の捜査機関だって、一番に守らねばならないのは自国民だ。FBIにとって日本人の貴方方を優遇する理由は、現状無いと言って良い。
貴方が出している程度の情報も推察も、もう日本公安と交換済みだからです」
「な!?」
「それとね、Mr.工藤。
貴方と貴方のご子息は、色々心得違いをしてらっしゃると思う。
何処の国だって、自国内の犯罪結社組織の解体に他国の手を借りたいとは思いません。合衆国なら、FBIとCIAがぎくしゃくしつつも海兵隊を動員して、焼き払ってどうにかしてしまうでしょう。
日本で、それをやらない理由が判りますか?
日本警察は、犯罪組織の根絶を狙っているのであって、うちみたいに取り敢えず大きい部分を叩いて、長々と落穂拾いする予定はないんですよ。自衛隊も、『救難救助』が主題の組織で、犯罪者と言えど人間に発砲するような組織じゃない。
それと、ね」
一息置いて、言い放つ。
これは話を聞いた滝と、現場を見て来た新條強、二人の刑事の本音である。
「犯罪現場はね、Mr.工藤。作家のネタ帳でも無ければ、子供の承認欲求の発散場でもないんですよ。
一番悪いのは、頭の良い人間に丸投げしようって言うサボリ癖のある刑事ですがね、一般人が犯行現場うろついて、何やってんですか?
そうやって被害者のプライベートも加害者の犯罪に走った心理も全部晒して、貴方はそれで満足でしょう。貴方に頼った馬鹿も、犯人が捕まり万々歳。
でも、遺族は? 加害者の家族は?
貴方の作品の中では、好きなだけ晒し者にすればいい。
だが、一捜査官として言わせて貰えば、あんたに何の権利があってそんな事をした?」
「っ」
「そんなあんたの背中を見てきた結果、あんたの息子はあんたより派手にマスコミに自分の行動を曝して、周囲の視線を集めてほめそやされる事に意義を見出すようになった。
あんたの息子が、日本警察を信用しない理由、判ってるか?
あの姿になった直後に、警備員に『工藤新一』である事を否定され、そのまま何度も顔を合わせていた筈の目暮とやらを始めとした警察の誰にも、『工藤新一』と思われなかったかららしいよ。
……ホームズの弟子を自称するには、謙虚さが足りないようだね、あんたの息子は」
ぐっと言葉に詰まる工藤優作に、立ち上がりつつ滝はこう告げる。
「三月に入ってすぐ、日本警察は現状あの組織にNocを送り込んでいる組織と提携するべく合同会議を行うそうです。
「不本意?」
「当然でしょう。推理力の高さは認めますが、犯罪捜査のプロの中で推理作家が何をすると? ブレインストーミングのスパイスならともかく、一般人の生兵法で捜査員の身を危険に晒す事はごめんです」
「……そんなに私は、信用出来ませんかな?」
そう問い掛けた推理作家に、勤続二〇年越えの硬骨漢は嗤った。
「信用云々じゃなくて、あんたのスタンスが問題なんですよ。
事件を、そこに関わる人間を、チェスのコマのように扱う人間に真っ当な奴なんて片手に足りる程度しか居やしない。
推理ゲームは作品の中でどうぞ。捜査官を手数にしか思わない人間の知恵なんぞ、出さなくていい死亡者を増やす事にしかならないでしょうよ。
犯罪者のだからと言う理由で、死者の遺体をすり替え身元も判らないくらい焼く事を指示するような人間に、俺は何も期待しませんから。
もうすぐ、日本の公安警察が貴方方の身辺警護と行動監視の為にやってきます。それまで、どうかこちらでお待ちください。
ブラック班はともかく、俺と俺の捜査チームは、日本警察との提携を崩すつもりはありませんから」
そう言い残して立ち去った男の背を、工藤夫妻は黙って見送る事しか出来なかった。
**
その頃、江戸川コナンこと工藤新一は、表向きは小学校に通い普通に暮らしているものの、学校が終わった後は専ら工藤邸に籠りがちになっている。
沖矢昴こと、この屋敷に潜伏していた赤井秀一の荷物を片付けたFBI側の新しい対『黒の組織』専任捜査官になった男、滝和也は非常に面倒臭そうにこう言って寄越した。
「高々学生のお前に、ジェーミーの奴がどれだけ肩入れしていたかは知らないが、俺は正直、お前を捜査に参加させなければならない理由も理屈も判らない」
「な、」
「そんな事言われる覚えはない? それとも何でお前にそんな事を言われなきゃならないってか?
たりめえだ、俺は捜査官で、お前は自称探偵の学生だからだよ」
噛んで含むような口調に、江戸川コナンならぬ工藤新一が激高した。
「自称じゃない、俺は」
「あほんだら、政府、或いは司法、警察機構、そのどれかから許可証を貰ってない以上は自称のなんちゃってだよ。
お前が良いように利用しているらしいMr.毛利は、きちんと公安委員会に営業許可を取ってるだろうが。一昔はともかく、今は日本の探偵だって、警察に許可取って活動してんだぞ。
ついでに言うと、未成年と五年以内に何かしらやらかした人間には、営業許可は下りないからお前がもしも工藤新一だったとしても、『なんちゃって高校生探偵』である事には変わりないがな」
ぴっと鼻先に指を突き付け、滝は厳しい口調で言い放つ。
「お前さん、フィクションに毒され過ぎだ。まあ、親父さん、てか親族にミステリー作家が居てはしょうがないのかもしれないがな。
事件に頭突っ込んで推理して、現場を引っ掻き回すのは物語上の『推理役』だ。正確には探偵でも何でもない。探偵を称してる事もあるが、俺は違うだろうと思うがな。
ドラマに毒されて、探偵を自称する人間が事件現場を闊歩している事に、日本人は余り問題を感じていないようだが、アメリカだったらその場で容疑者として取っ捕まっても文句言わせねえよ? 関係者でもないのがうろちょろしてたら、事件捜査官としては現場から遺留品や何かをくすねに来た犯人かその協力者くらいに思うわな。
第一、顧問探偵って事は『依頼人』が居なきゃ話にならないんだよ。ホームズが、依頼人抜きで動いた話ってどれくらいだ? まあ、お前さんが職業探偵になったところで、依頼人なんて来そうにないがね」
「……なんでだよ」
「決まってらあ、探偵に頼みに来る人間てのは、大抵『事件を公にしたくない』か、『警察に知られたくない』か、『警察に相談して受け付けられなかった』人間なんだ。
お前さんみたいに、関係者の人間関係も犯人の動機も、須らく自分の手柄と一緒にマスコミに公表する人間なんて、最後の最後に縋る先にした人間以外頼まねえよ。
お前さあ、『個人情報』と『守秘義務』って知ってるか? 誰彼構わず盗聴器仕掛けてる以上は、知らないだろう、お前。電波法違反でもあるだろよ、ああ?」
「な、なんで」
「強、否、警察官にくっ付けてただろうが。アホか、下手打ったら対テロ法のあれやこれやに引っ掛かってあいつが捕まるところだったじゃねえか。何も考えてないくせに、さも考えてますって顔するの止めろ。自分の都合で、
「俺は、あいつらの情報が欲しくて!」
そう叫んだコナンを、本気で変な生き物を見る目で滝は見た。
「ふうん? 『あいつらの情報』、ねえ。お前さんの言う『あいつら』が、もしも国際問題になっている犯罪組織だって言うなら、そんなのの情報が街角の色恋沙汰のねじれや職場のいじめを苦にしたりとかの殺人事件で拾えるって、本気で思ってんのか? そんな事そそのかすような暇な組織だったら、誰も苦労しねえんだがな」
「ひ、拾えたよ!」
「それ、一〇回起きた事件のうちの何回だよ」
バッサリと切り捨て、出て行った滝と入れ替わりに、あの時コナンを捕まえ担いで歩いた若い捜査官が本を数冊抱えて現れた。
「よう、Boy、タキ捜査官に扱き下ろされたみたいだな」
きっと睨むコナンの視線をものともせず、ハーディ・陳と名乗った男はどかどかっと結構な厚みの上製本を積み上げた。その数、三冊。
「お前さん、暇なら何遣らかすか判らないからな、これでも読みな。言っとくが、これはお前さんが愛読してるフィクションじゃねえ、FBIで実際にあった事件を下敷きに書かれた半ドキュメンタリーって奴さ。これで、お前さんの視野の狭さを自覚すると良いんじゃね?」
「な、」
「お、読まねえの? 態々日本語訳した奴持って来たのに。ああ、小学生には難しいか、悪かったな」
「読まないなんて言ってない!」
噛み付くようにそう言って、以来コナンは学校の後工藤邸に足を運び、渡された本を読んでいたのだが。
こんな事があって良いのかと、思わず言葉を詰まらせていた。
一冊目に書かれていたのは、とある州軍における性差別絡みの殺人事件。
優秀と言われた女性士官が、ただ『女性である』と言う一点で州軍上層部を占めていた白人老士官達にパワハラ、セクハラの挙句に殺され、それらはすべて訓練中若しくは勤務中の事故で済まされていた事。
その事に疑念を抱き、捜査を始めた地元警察の女性捜査官二人にも、当然のように手を伸ばした士官達によって年若い方の捜査官が亡くなり、事態を掴んだFBI捜査官が駆け付けたので何とかもう一人は助かったと言うものだった。
二冊目は、火災事件。素人工事の漏電が原因で起きた、低収入者用アパートの火事。犯人にされた男性は、離婚調停中で子供二人を抱えて求職中。保険目当てに子供二人を火事で焼き殺したとされて、裁判を起こされた。
実際は、少しでも暖かい所にと子供達を寝かした部屋が、火元のすぐ横で、外出から戻って来て、煙に気付いた父親が窓をこじ開けたら、その瞬間にバックドラフトが起きてしまった。
問題は、勤続三〇年を謳うその町の消防士が、誰一人とした『バックドラフト』を知らなかった事実と、真面目に現場検証をしていた火災捜査官を『変人』として捜査から弾き出そうとしたその町の警察機構だった。その警察機構の、新人捜査官が出したSOSを、昔馴染みのFBI捜査官が受け取って、救援に入った事で父親と口封じ宜しく殺され掛けた火災捜査官は救われる。
そして三冊目。これは、先の二冊と執筆者が違う事もあってか、ガラッと趣の違う話だった。
とある貧民街に、ふらりと現れた一見裕福そうな白人男性。
その翌日から、その貧民街は地獄へと急速に姿を変えた。女衒やアル中、ヤク中の男達が姿を消し、娼婦として生活費を稼いでいた女達は、まるで光に集まる虫のように白人男が定宿とした雑居ビルへと通い、子供達を顧みなくなった。
子供達の訴えで、様子を見ていた巡回警官が姿を消し、やがてその貧民街を縄張りにしていた筈のマフィアが手を引き姿を消した頃に、巡回警官の知人だったFBI捜査官が彼を探しにやって来た。
家族を思う子供達と、事態のきな臭さを感じた捜査官が見たもの。それは、得体の知れない薬物によって発狂し、男達の遺体を貪り喰い、自分の子供すら喰らい尽そうとした狂った女達と、その女性達ごと貧民街を焼き尽くそうとしたカルト教団の自称信徒の、とち狂った祭礼と言う奴だった。
結果として、貧民街全てを燃やそうと言う男の野望は阻止出来たが、男が根城にしていたビルは燃え落ち、その街は住民のほぼ五分の一しか残らなかった。成人男性はほぼ全滅。成人女性も全体の四分の三が死亡し、生き残りも悉く精神病院に収容された。
子供も、全員無事では無かった。乳児の半数が食い殺され、その更に半数は育児放棄の為亡くなった。何とか自活出来る程度に育っていた子供でも、三分の一が母親に縋りに行って、カルトの【儀式】に捧げられてしまっていた。
読み終わって、茫然としているコナンに、おやつとして市販品のポテトチップスとコーラを持って来たハーディが声を掛けた。
「お、読んでんのか。
……ああ、この話かあ」
コナンが持っている本を見て、ハーディはへらっと笑った。
「持って来たの、あんたじゃねーか」
「まあな。まあ、だいぶ表現が優しくなってるし、被害者数は間違ってないけど、実際は只のカリバニズムじゃなかったけどな」
「え?」
顔を上げて、ハーディの真顔を目にする。
黙って、己を見上げる少年に、ハーディはこんっと本を小突いてこう告げた。
「この話に、FBI捜査官に食って掛かる子供がいただろう、プエルトリカン系の五歳と、広東系の七歳。その七歳の、親に目を抉り出されそうになって助けられた子供、俺だよ。ハーディ・
そいつには書かれてないけど、俺達相当あの人に酷い事したんだぜ? 財布は何度も掏ったし、歩いてるあの人に色んなもの投げ付けて帰れって言った、化け物みたいになったババア達にあの人押し付けて逃げもした。
だけど、あの人は助けてくれた。最後に、あの糞野郎が火を点けたビルの中に閉じ込められたチビ達を、全力で助け出してくれた。……そのあの人に、『どうして母ちゃんを助けてくれなかった』って、言っちゃいけなかったって今なら判るんだ。
犯罪捜査官になった、今ならな」
ふうっと、溜息を吐きつつハーディは言葉を続ける。
「人間、出来る事には限りがあって、あの人はそれをぎりぎりの限界まで振り絞って俺達を助けてくれてた。FBIやN.Y市警からの応援が到着した後、あの人崩れるように倒れたんだ。全身、火傷と打ち身、切創銃創だらけで、俺達の知らないところで、あの化け物化したお袋達やあの男の部下相手にずっと戦ってたんだ。
それだけじゃない。あいつがやらかした事は、そのまま世間に知られたらN.Yの一角に核を落とされかねない、そんな大事件だった。
それを隠す為に、タキ捜査官は自身の権限を全力で使って、貧民窟を使ったカルトの薬物実験って話にしたんだ」
「なんで……」
「あの男に従い、奴の信徒って奴になった女達はな、皆全身に噛み傷を作ってた。その傷は時間経過と共に裂けたまま固まって、そこに牙が生えて、小さな口が全身に生えた二目と見れねえ姿になってた。
俺のお袋もな。中華系のパッとしない顔立ちの、料理が美味いのが取り柄の女だった。俺の首にベルト巻いて、体中から自分と亭主と、貧民暮らしへの鬱憤を喚き散らしつつ俺の目を抉ろうとして、最後の最後に俺を助けようとして、五階の窓から身投げして死んだ。……俺と、親父への愛を叫んでな。
あの白人男は、貧民窟一つを使って、自分の王国を、自分に忠実な化物の女達の巣窟を作る実験をして、その痕跡を隠す為に全てを焼き尽くすつもりだったんだ」
ふうっと溜息を吐くと、ハーディは本を指差しこう続ける。
「この本も、前の二冊も、出てきたFBI捜査官ってのはタキ捜査官だよ」
「え!?」
「あの人、FBIに勤めて二〇年超えだからな。合衆国内あちこち走り回り、色んな事件に噛み込んで、それこそ捜査官として東奔西走してたんだよ。
……お前さ、タキ捜査官がなんでアカイやブラック班の事を怒ってたか、判るか」
男の言葉の意図が判らず、顔を上げる子供にこう告げた。
「あの人な、三年近く潜入捜査をやった際に、
だから、ブラック班の自分達の都合が良ければ、日本人に被害が出ても仕方がないって対応が相当鼻に付いたらしいんだよ。自分達が身動きしにくくなるからって言う理屈で、大使館駐在チームや日本警察と提携するのを嫌がったのも、な。
『その国の警察と手を組んで、微に入り細に入り奴らの罪状を集めれば最終刑にまで持ち込めるだろうに、面倒くさがって向こうに逃げる空きを作るとは何のつもりだ』って、相当怒ってたからな」
ポカンとなった子供へ、ハーディは己の行動規範を作った男の本質の一部をこう語る。
「当たり前だろう?
俺達犯罪捜査官の仕事ってのは、類似犯や模倣犯が出ないように事件を徹底的に潰す事、犯罪を犯した奴を突っ捕まえて、検事に突き出して、そんな事件が二度と起きないように調べ上げると同時に、被害者に事件が終わった事を報告出来るよう、きっちり加害者の余罪も何もかもを叩き出す事だ。
勿論、それが公表されたら二次被害が起きるかもしれない場合は、全力で隠したり差し障りのない規模の話にすり替えはするがな、犯罪者を野放しにするなんて、絶対あっちゃならないし、それを言い訳に捜査官が犯罪を犯すなんてのも絶対あっちゃいけねえ。
だって、犯罪者を言い訳に俺達が法を犯すなら、俺達に法を、市民を守る資格は端から無い事になる。
他国だから、なんてのも言い訳にしちゃならない、他国であっても『市民』を守る気概がない奴は、結局本国でも自分の都合で市民を見捨てるからだ。
だから、あの人は可能ならFBIの捜査官である事を隠さず、捜査が出来る状況を保つようにしてる。市民の安全と平和を守るのが、あの人の仕事で、誇りだからだよ。
判るか? お前が匿ったアカイやブラック班の連中は、あの人からすれば穴だらけの捜査を言い訳にして犯罪を繰り返す、
唖然としているコナンの頭を軽く撫でると、ハーディ・陳はひらっと手を振ってこう告げた。
「ほら、そろそろお迎えの嬢ちゃんが来るだろう、帰る準備しな?
お前がどんな探偵になるのか、いや大人になるのかは俺の知ったことじゃないが、ホームズに傾倒する前に、ホームズの時代がどんな社会だったのか、まずそこを識る事を勧めるぜ?
あの頃合法だった事が現代でも合法なのか、それを知ってからホームズになるのかどうか決めた方が良い。ロンドンと日本の法律ってのも、相当違う筈だしな」
そのまま出て行った男の背中を、江戸川コナンは何とも言えない顔で見送った。
**
三月一日、警視庁、警察庁で、非公開で大規模な人事刷新が行われた。
一部の警察官僚が、任意退官という形で職から去ったのだ。最も、その人物達はその六時間後に、背任及び横領、情報漏洩などの罪で全員逮捕されたのだが。
表向き、警察庁公安の仕事とされたが、実際は実行の三日前にふらっと現れた官房室長が、警備局公安部部長に三センチばかりの厚みを持つ書類束を差し出し、
「で、これだけの証拠も証言もあるのに一瞥もせず、態々身内の恥に餌やってる役立たずって君かな?」
と、笑顔で凄んだのだ。
飛び上がって行動を起こし、三日で処理出来たのを官房室長は「遅いねえ。もう三年早く行動出来なかったかなあ?」と宣い、気の毒な部長の胃壁に三つほど穴を開けて行ったらしい。……因みに、彼が公安部部長を拝命したのは昨年春である。
そのまま、三月二日には捜査一課の一部人員に減俸と始末書の提出が命じられた。理由は、『現場保存の原則を守らず、未成年に現場を踏み荒らさせ、注意するどころか推奨するような行動をとった』事で、目暮十三とその部下達が対象だった。
無論、反発した刑事達の前に、ふらりと官房室長が現れ、そしてこう宣った。
「あのねえ、君達確かに検挙率高いんだけど、同時に君達が手掛けた案件、裁判が長期化してるんだけど、判ってる?」
「「「「「え?」」」」」
「だって君達、鑑識が仕事終わる前に民間人闊歩させてたでしょ? おかげで鑑識さんが事件に関わるのかどうか解らない、子供が持ち込んだだろう泥やら何やら、あと子供の指紋がついた品に頭抱える事態になってるの。その上、物的証拠をきちんと確保してない状況で『名探偵の推理』と称して推理ショーやらかして犯人に自白させてるでしょ? 結果的に、一部弁護士から自白強要に当たるのではって言われて、裁判で揉めてるんだよ。
君達、ちゃんと自分達が担当した事件の裁判の進行状況把握してる? まあ、してないよねえ、初めて聞いたって顔してるものねえ。あのね、近年の裁判は、自白以上に物的証拠が求められるって言うのに、何で鑑識が入る前に民間人現場に入れるの? 非常線って何の為に張ると思ってるの? だいたい、小学生を殺人事件の現場に入れるって、まさかと思うけど君等全員、
警視監という立場の人間から、しみじみと言われて白鳥警部補は顔を引き攣らせている。
雲上人とも言える立場の人を前に、固まっている千葉と高木はともかく、佐藤刑事の方は反論出来ずに唇を噛んでいる。
そして、官房室長は心の底から面倒だと言いたげな顔で、目暮の方を見た。
「あのね、目暮くんだっけ。私、君の犯人への対応は悪くないと思ってたんだよ。犯罪を起こさざるを得なかった気の毒な人に寄り添う君の姿勢は、刑事としてあるべき姿だよ。
でもね、捜査の初期段階で他人、それも警察協力者として登録されてる訳でもない民間の推理作家に丸投げって、君それはどうなの? しかも、君、彼に個人で礼金払う訳でもなく、事件の概要をネタとして提供した訳? ねえ、守秘義務って言葉は何処いったの? 挙げ句にその作家さんの息子さんにまで頼って。未成年に推理させて、それを手柄にして何か可笑しいと思わなかった?
その年で、巡査部長からやり直す?」
「っ」
そのまま項垂れる刑事達を会議室に残し、官房室長は溜息と共に出て行った。
警察庁へと歩きつつ、官房室長は大きく肩を竦める。
「ああ、全く、新條君がいないもんだから須らく後手に回っちゃって。おかげで僕に話が回るまで、何人有望な若者が死んじゃったんだか」
「新條と言うと、あの『覇王』ですか?」
秘書官を務める男に、ひっそりと笑って室長は続ける。
息子の年上の同僚という立場だったところを気に入られ、そのまま友人になったのは何時の事だったろう。
気が付けば、親子三代に渡って付き合いが出来てしまった官房室長が居る。
「あの人もだけど、新八さんとお孫さんの長男もだねえ。
次男坊は『街のおまわりさん』希望で、司法試験受かってるのに全部しまい込んでノンキャリアに潜り込んじゃうし。
まあ、まさかあの親子が二人揃って病気に負けるなんて思っても見なかったし、新八さん以上に短気な長男坊は早々に警察庁に見切りつけて、弁護士に転身しちゃうしねえ。
だから、歴史修正主義者だっけ、そんなテロリストだか思想犯だかはっきりしない連中に懐柔されて、自分の権勢の為に国と警察を食い物にしようとした連中が出て、それが尽く松本さんの後継者を自称していた辺り、まあ笑うしかないよねえ。
ほんと、あの五人以外真っ当な部下に恵まれなかったって意味では、気の毒な人だったけどねえ、松本警視監は。でも、幾ら閏閥が嫌いだからって、息子さん虐待して良い訳じゃなかったんだけどねえ」
そう言いつつ歩いていた官房室長は、ふと警視庁の一般人も多く歩く一階フロアの一角に視線を止めた。
そこには、一見五〇代の仕立ての良いスーツを着た男性がベンチに腰を下ろし、雑誌に目を落としている。白髪交じりのオールバックに眼鏡を掛けたその姿に、横にいた秘書官が息を呑んだ。
と、その紳士然とした男に、フライトジャケットと三つ揃いをきっちり着込んだ、よく似た面差しの男が駆け寄った。二、三言葉を交わすと三人連れだって歩いて行ってしまった。
その背中から目を反し、室長は歩き出す。
「今回の、あの連中を叩き出した資料ね、新條さんとこの次男坊が集めてた情報を、蓮くんが一晩で纏めたものなんだよ」
「え?」
「笑っちゃうだろ? 松本警視監が喉から手が出るほど欲しがった才覚を、彼が不要と切り捨てた一人息子が持ってたんだよ。
面白い因縁だよねえ、あの人が切り捨てた息子を、あの人が横紙破りの果に無理やり部下にした男が命と引換えに救い出して、その事に八つ当たりして育児放棄した結果、歯牙にも掛けてなかった滝警視が彼を引き取って養育して、巡り巡ってその死んだ部下と同じ才覚を息子が示したんだから。
きっと、あの世で大笑いしてんだろうねえ、新條さん。
彼の相棒として引っこ抜いた彼らに似た若手が側にいる辺りも、きっと笑いの種にして松本警視監の事揶揄ってるだろうしねえ」
そう言いつつ、官房室長は首をゴキッと鳴らす。
「さて、まあ退官前に間に合って良かった。
内調からの要望に応える目処も立ったし、これで安心して退官出来るってものだよ。後の事は、若い人達に任せるよ」
そう言いつつ歩く、長きに渡って官房室長を務めた男に、その秘書官は静かに頭を下げた。
**
周囲の人間は、毎日精力的に動き回る降谷零の姿に軽く戦慄していた。
何しろ日付が変わった頃にセーフハウスへ帰り、始業一時間前に登庁してバリバリ書類を捌き、『黒の組織』の探り屋として諜報活動をしつつ、喫茶店『ポアロ』で接客と調理に勤しんでいるのだから。
勿論、それが彼が裏技を使いまくった結果であると、知っている人間はほんの一握りで、腹心である筈の風見裕也も知らない事なのであるが。
「ただいま」
「おかえり、
零がからりと居間に続く扉を引き開けると、ソファーで何やら透き通った蛤くらいの大きさのものを布で磨いていた諸伏景光が笑顔で立ち上がった。
普段ならそれぞれでだべっている筈の仲間達がいないのを見て、零は軽く首を捻る。
それに対して、指折りつつ景光が説明する。
「松田は今晩夜勤だって。ハギは朝早くに講習会があるのと、向こうの家の備蓄食がだいぶ減ってるから、向こうに泊まって補充するって。
伊達は捜査二課の飲み会に参加して、深酒したからもう寝てるよ」
「へえ? あいつにしては珍しいな」
「ウィスキー縛りで飲みまくったかららしいよ。他の連中は海外産を飲んだけど、あいつは国産のモルトメインにしてたらしいけどさ」
「ああ、そう言えば伊達の奴、日本酒は枠だけどウィスキーとかブランデーとかは量飲めなかったものな」
「本人曰く、『竜神の眷属になったから、前より飲めるようになった』って言ってたけどね」
そんな事を話しつつ、零はソファーに戻った景光が漆塗りの文箱に納めていく、蛤の貝殻ほどもある透き通ったものを手に取り、それが鱗であるのに気付いた。
明かりを虹色に弾く、薄っすらと緑色を帯びたそれは、見覚えのある色合いだった。
「ヒロ、これまさか」
「俺のじゃあ、ないよ。寝所にしている岩屋の奥に初めて入った時、出入り口とかあちこちに落ちてた、多分先代の鱗だよ。綺麗だったから集めておいたんだけど、今度の御祈祷に合わせて、『葛の葉』にお守りにして貰おうと思って」
「へえ?」
「最初は松田が使うって言ってたんだけど、あいつも忙しくなったし、眷属として主の先代の鱗ってのも、ちょっと扱い難い素材だったらしくて」
「と言うか、これは物凄いお守りになりそうだなあ、古い鱗とは言え、
零の言葉に、景光は顔を上げた。
「零も、要る?」
「いや、俺は要らないよ」
「え、だって」
「何言ってるんだ、九頭龍大神のお守りなら、ここにあるし」
そう言って、零は自身の背中を指差す。
そこには、神域の空気に反応して、九頭龍と三つ巴紋の刺青が浮かんでいる筈で。
自分が無意識に伴侶に施したものの事を思い出し、景光は耳まで赤くなる。
「これだけしっかりしたものが、向こうでは見えなくなってるとはいえ背中にあるんだから、俺は特にお守りとかいらないよ。寧ろ、風見とか他の部下達にきちんと持たせておかないと」
「そ、そうだね!」
思わず声が上擦った景光に、背中側に回った零がソファーの背凭れ越しに抱き着いた。
「何だ、俺も欲しがると思ったのか?」
「だ、だって、零だってすごいお守りになりそうって」
「実際に俺が受け取ったら、お前嫉妬したんじゃないのか」
「そんなこと、」
「と言うか、俺が嫉妬して欲しいって言ったら、どうする?」
「! 零、【
慌てて声を上げた景光が、必死に首を捩って背後の相手の顔を見ようとするが、零の方は
「ごめんごめん、『ほら、普段あまり使わないような言い回しするから、バレちゃってるじゃないですか』、【バーボン】も悪かったって。でも本当だよ、俺にはヒロの加護があるから、お守りはいらない。お守りを複数持つと、神様同士で喧嘩するって俺に教えたのはヒロだっただろ? 前の九頭龍とお前が喧嘩する筈無いけど、俺の気分的に、な」
もう一度蟀谷にキスを落とすと、零は立ち上がる。
「ヒロ、どうせ磨く事に熱中して、晩御飯適当に済ませてるだろう。この間仕込んでおいた鶏の香草焼きを焼こうと思うけど、お前も食べないか?」
「あ、じゃあミネストローネを作っておいたんだ、一緒に食べよう」
二人で並んでキッチンに立って、二人で食卓を囲んで穏やかな時間を過ごし、たっぷり睡眠をとってから出勤する。
これが、時間の流れが違う本丸を使い、九頭龍の霊力で細かな時間指定が可能なゲートを駆使した、盛大な『裏技』である。
お陰で、以前より体力的にも思考的にも余裕を持てるようになった事もあり、仕事の効率が上がってほくほくしている零がいる。
勿論。
「んっ」
「ひろ」
「ん、うん、零、俺も明日は」
「判ってる、だから軽く、な?」
そう囁き、零は景光を寝床に押し倒した。