『黒の組織』を壊滅させる為の、最初の会議から数日後。
組織と公安の仕事の間を縫って、何とか時間をひねり出した降谷零は新條強警部に問い合わせ、滝和也FBI捜査官への面会をお膳立てて貰った。
一応組織絡みとは言え、個人的な依頼をするにあたって所属組織越しに話を持っていくことに、降谷としては抵抗を感じたからだ。
示された住所は、所謂下町のまだ一軒家が多く残っている地区だった。
その中の、妙に周囲に空間がある一軒家が、滝和也が滞在している家だった。
生垣に囲まれた、『滝』と毛筆字を彫ってそこに墨を流した木製の表札を掲げたその家のチャイムを鳴らすと、ほどなく奥から出てくる気配がして、TシャツGパンに某バイク会社のエンブレムの入ったエプロンを付けた滝が顔を出した。
「おう、来たか、上がれ上がれ」
「あの、お食事中なら」
「ああ、違う、差し入れ用の焼き菓子作ってたんだ。気にしなくていいから上がれ、お前さんも時間やりくりしてきたんだろう?」
「さ、差し入れ?」
「おう、大使館の連中にな、人材とオフィス借りてる状態だから、せめての詫びにな」
そう言って、滝は戸惑う降谷を招き入れた。
玄関には、滝のものらしいライダーブーツとつっかけの外に、丁寧に手入れされた革靴が丁寧に揃えて置かれていた。滝以外に家人がいるのかと思いつつ、会いに来た相手に続いて降谷は家の中に入っていく。
古びているが丁寧に掃除された廊下を進むと、滝は最近すっかり珍しくなった木枠のガラス戸を開いて入っていく。そこは何処となく古めかしい――キッチンというより、昭和の台所っぽい、小さなタイルが目立つ流し台に、不釣り合いな最新のオーブンレンジとITコンロが置かれており、その前で見知らぬ老年の人物がメモを覗きつつ、何事か考え込んでいる様子だった。
「叔父さん、こいつが話してた奴です。日本公安の出来の良い奴! 強も言ってるから、間違いありませんよ」
「え⁉」
「ああ、いらっしゃい」
年齢は、六十後半、いや、滝が「おじ」と呼ぶなら七〇代だろうか。白髪交じりの髪を撫でつけたその人物は、メモを見る為に掛けていただろう眼鏡を外すと、にこやかに右手を差し出した。
握った手は年相応だが、長くキーボードを打っていたらしく固い指をしており、薄くなってはいるがトリガー
若い頃は現場に備えて、訓練を重ねていたらしい事が知れた。
「初めまして、松本蓮と申します」
「降谷と申します」
「松本さんは、ICPOで長く事務官として勤めているんだ」
滝の言葉に、えっと顔を上げた降谷は、その言葉の意味を悟る。
「じゃあ、」
「おう、俺に情報を譲ってくれたのはこの人さ」
「これこれ。君がこちらに問い合わせと申請を出したから、渡した
甥の言葉に苦笑しつつ、松本と名乗った男性は四人掛けのダイニングテーブルに降谷を招き、用意していた紅茶を入れて差し出した。
一瞬躊躇したものの、向かいの席に座った当人が砂糖を入れてそのまま飲むのを見て、降谷も礼儀正しく紅茶を啜る。
こだわりの品らしい紅茶は、薫り高く渋みも少ない、飲み易いものだった。
その間に、滝が焼き上がった菓子をオーブンから取り出し、ケーキクーラー替わりらしい金網に並べ、先に焼いて冷ましていたものを皿に盛ってテーブルに出した。
「しかし、強経由で俺に会いに来たって事は、何か情報を得たいって事だろう? 二日後に会議があるが、それまでに必要なのか?」
「いえ、組織絡みなのは確かなんですが、実は個人的に気になる事があって」
そう切り出した降谷に、叔父甥二人は一瞬目を見交わし、座り直して先を促した。
流石に時間遡行軍とか、歴史修正主義者を話題に出す事が出来ないので、『以前探り屋バーボンを殺して影武者を立てようとする輩に襲われた』事を話した。
「あの時は、知人を巻き込む形になったので、状況の対応に目が行って深く考えなかったんですが」
「Nocだと解ってる人間を、始末すると言うならあの組織の有り様としてはよくある話だが」
しかめっ面と共に、出来立てのエッグタルトを摘む滝は微妙な表情だ。折角美味しく焼けた金色のエッグタルトを、楽しめないのが主な理由だ。
ティーカップをテーブルに戻しつつ、眉間に皺を寄せた老人はこう推論を口にする。
「単純に考えるなら、君の振りをさせて警察機構へのスパイ、若しくは破壊工作を疑うべきだが、あの組織がそういう手を取るのは考えられないし、警察側にも君の偽物を看破する人間はそれなりに居るだろう? そもそも君をNocと看做せば、幹部達……特に
なら、君の振りをさせるのは、君が掌中に在る事を何者かに主張する為、そして君の影武者を欲しているのはさらに上部の幹部……もしくは第三者かもしれないね」
「俺?」
「第三者ですか、松本さん」
聞き返す若者と甥に、
「降谷君、君の生殺与奪、ようは君が逆らえない事を何者かに示したい存在がいると言う事だ。ただ私には、それが何者かまでは判らない。だが、大変嫌な感じはするね」
「……松本さんが言うなら、相当だな。そう言えば松本さん、あの組織って、活動が活発になったのって二〇年位前から、ですね」
「そうだね。それまではまあ普通の暴力団と後ろ暗い事やってる会社の中間くらいの印象だったのが、急速に犯罪結社として過激になっていったのは二〇年ほど前からだ」
「二〇年、ですか」
その言葉に大きく引っ掛かりは感じたものの、それについて考える事を降谷は後回しにした。
組織の目を逸らしつつ、進行する壊滅作戦の準備に追われていた為だが、同時に自分の生殺与奪が何処に掛かっているのか、失念した結果であった。
……そう、彼は今、どんな立ち位置にいるのか。
**
『黒の組織』壊滅に向けての合同会議によって、壊滅戦開始は三月二三日となった。
そこに至るまで、何処が主導を取るかで揉めた時、
「その作戦が行われる場所にある、警察機構が主導を執るのが当然、そうでなければ市民の安全配慮や警官隊の配備などの指揮が取れない。確認するが、主導を取った日本以外の国の捜査機関は、日本に警官隊を派遣出来るのか? まさか、主導を取っておいて、日本におんぶにだっこで手柄だけ誇るつもりなのか? その国の市民の安全は二の次だと言うのであれば、ICPOとしては看過出来ない。
万に一つ派遣出来たとしてそれを隠しきれるか、向こうに気取られ派遣した警官隊ごと、日本の空港や港を破壊させる事にはならないか? そう言う手段を呼吸するように取る危険な組織であると、我々は認識している筈だ。
そんな馬鹿げた事を防ぐ意味でも、主導は日本警察が執るべきである」
と、発言した事で一部から不満は聞かれたものの、日本主導で作戦が行われる事が決まった。
因みに、CIAは不満を出した筆頭だったが、FBIの滝捜査官の、
『やかましい、お前らに主導させたら最悪在日米軍を出すならまだしも、核兵器ありきの話にしようとするだろうが。そうじゃなくてもすぐ火力で物言わせようとするのを止めろ、合衆国みたいに人も住んでないような平原が延々と広がってんのは、この国じゃせいぜい北海道くらい、大抵の平地には人間が住んでんだ、太平洋戦争の沖縄戦を市街地でやらかすつもりか、市民の虐殺は認めねえぞ、このウォーモンガーどもが! ここは同盟国、ブラックがやらかした
と言う罵倒で、以降の不服は黙殺される事になった。……勿論、その為に胃を押さえるCIAの人間がいたが。
三回目の会議では、日本の一部都道府県警察から捜査課の刑事が集められ、作戦時の警官隊の配備と役割について論議された。
その際、司会と議長は警視庁公安の風見裕也が務め、警察庁からの提案その他もほぼ彼が読み上げる事になった。
その際、FBI側に座る工藤勇作と江戸川コナンに、以前事件で毛利探偵と関わった刑事達が訝しげな顔をしたが、滝の『前任者が先に交渉していた』の一言で大半の人間は黙った。
ただ、長野県警の諸伏高明、大和敢助の両警部は、FBI捜査官に向ける工藤勇作と江戸川コナンの視線に違和感を感じたが。
「なあ、コーメイ。あの坊主と作家先生、偉くFBIの御仁を睨んでたな?」
「そうですね。まあ、あまり発言されなかったところを鑑みるに、滝捜査官と工藤氏との間には、余り意思の疎通がない、否お互いに信頼関係が出来ていない、と言う事でしょうか」
会議の合間の休憩時間、配られたコーヒーを啜りつつ話していた長野組に、割り込んでくる声がある。群馬県警の山村ミサオが、したり顔でこう言い放ったのだ。
「きっと、権力に笠着て担当になって、有名人の協力を取り付けたんで嫌われてんですよ、こんな時期に急に担当が代わるなんておかしいじゃないですか!」
そう言って、自画自賛とばかりにうんうんと頷く山村ミサオを、その場の八割ほどの刑事はそうかもしれないと思い、残り二割は馬鹿を見る目を向けた。
長野の二人はもちろん後者で、特に以前の事件でこの男と一緒になって迷惑をかけられまくった大和敢助は、あからさまにチベットスナギツネの如き視線を向けた。
そして、山村の発言にこう切り返しが入った。
「日本警察って平和なのな? 後、この時期だから急場凌ぎで日本にいた俺に、このヤマぶん投げられたんだよ。身内の恥だから多くは話さんが、更迭された前任の代理だよ、俺は」
「へあ!?」
山村共々振り向けば、半眼になった滝和也が立っていた。
一応と、刑事の一人が質問を投げる。
「じゃあ、工藤氏の協力を取り付けたのは」
「あ? 前任に工藤氏の方が売り込んでたっぽいぞ? 俺は、前任が組み込んでたからそのまま参加させてるだけだ。正直、ブレインストーミング以外で推理作家や学生に聞かにゃならん事とか、俺は思いつかないがね」
滝の言葉に、一部の人間を残して唖然とした目を向ける。
工藤勇作は幾つも賞を取った大先生であり、その子息は「平成のホームズ」、「日本警察の救世主」と言われた高校生探偵、そしてその親戚だと言う江戸川コナンはそれこそ工藤新一バリの推理力を発揮している所謂『ギフテッド』と言う代物だろう。
そんな人間をオブザーバーに迎えておいて、「聞く事を思いつかない」という男に厳しい目を向ける者が大半の中、長野組の二人はFBI捜査官の言葉の含みに気付いて、思わず顔を見合わせた。
「どう思うよ、コーメイ」
「工藤氏が、日本警察ではなく海外の捜査機関に接触していた。……日本警察にもそれなりの人脈を持っていた筈の工藤氏が、何故わざわざ海外の捜査機関に接触しこの会議に参加しているか。ふむ、工藤氏にとって、日本警察は
『唇歯輔車』とは、片方がダメになればもう片方もダメになるという、密接な関係と互いに助け合う関係を指す四字熟語だ。
幼馴染兼ライバルの言葉に、敢助の眉は大きく顰められる。
「つまり、先生様には日本警察は信頼出来なかったってか?」
「現在、事件を追っていると言うご子息絡みと言う事でしょうね。いや、そもそも工藤新一君がこんな大事件よりも優先しなければならない事件とは、一体どんなもの何でしょうね」
そう言いつつ、ふてくされた表情でオレンジジュースを啜っている江戸川コナン――先ほどの会議中、工藤勇作と彼に発言する余地はなかった――にちらっと視線を流し、諸伏高明は小さく呟いた。
「尤も、本当は全部見ていて、大局に関われない事を悔しがっているのかもしれませんが」
「なんか言ったか?」
「いえ、席に戻りましょう。そろそろ再開時刻ですよ」
杖を突く同僚を促し、諸伏高明は席に戻った。
ほどなく再開した会議において、各国にあるアジトにその国の警察あるいは司法組織が制圧部隊を動員し、日本にある最終目的地については近隣の都道府県警から警官隊を動員する事が決定し、最終指揮は警察庁公安の『黒の組織』対策チームが取る事になった。
会議が終わり、人々が会議場を立ち去る中、工藤優作は嘆息と共に立ち上がったが、江戸川コナンは唇を噛み締めまだそこに座っていた。
その不穏な後姿を、諸伏高明は眉を顰めつつ視界に収めた。
間違いなく、頭の良い子供である。推理においては、きっと彼が理想として掲げるホームズの弟子に相応しいだろう。
だが、推理に、『真実』を詳らかにする事に固執する嫌いがあり、結果として他者への気遣いや心情を慮ると言う事は二の次以下にされている節がある。
また、これは『弟』の部下達から聞いた話だが、『組織』の情報を集めたいが故に元潜入捜査官であろうと言う未確定情報で、『弟』を付け回し盗聴器を仕掛けていたとか。
以前は頼もしかった少年だったが、これまでの情報と今回の会議での様子から、高明は寧ろこの子供がわざわざ自分から危険地帯に飛び込もうとするのでは、と言う懸念を感じた。
尤も、ぶんむくれた彼の少年を、猫の子宜しく襟首を掴んで持ち上げ運んで行くFBI側の若手捜査官の姿に、大丈夫だろうと思ったのだが。
**
春休みが近付いた三月某日。
学校帰りに喫茶店『ポアロ』に顔を出した江戸川コナンこと工藤新一は、そこのボックス席でへばっている滝和也を見出し戸惑いを隠せなかった。
先日の会議において、
「いらっしゃい、コナン君」
「丁度パンケーキ焼いたけど、食べるかい?」
カウンターに立っている安室透と吉野景光の二人に声を掛けられつつ、コナンは何時ものカウンター席に座った。
吉野がコナンにお冷を出す横で、安室が滝にカフェ・オ・レと、生クリームと蜂蜜がたっぷりのったパンケーキを運んでいく。
「滝さん、どうぞ」
「あー、悪い」
「何か、問題でもあったんですか?」
安室が問うと、ひらひらと手を振ってこう答えた。
「うんにゃ、プライベート。ダチが手伝うって、ふざけた事言ってきてなあ。いや、人脈お化けとIQ六〇〇と二〇三とが手伝うって言うんだが、あいつら全員民間人なんだよ」
「「「え?」」」
思わず三人がハモれば、どっこいしょと体を起こした滝が、カフェ・オ・レに砂糖を入れつつこう続ける。
疲れているのか、四つも砂糖を入れてぐりぐりと混ぜて、あっまいコーヒー牛乳の如き状態にしてしまっている。
「いやなあ、俺の学生時代にレースを通じてダチになった奴二人とその後輩共なんだがな、確か大学教授にジャーナリストに、考古学者にNGOの医者、元船舶医師にアマゾン川流域のガイド兼任レンジャーとメカニックと、ハングライダーインストラクターとNASAの技術者兼宇宙飛行士に介護福祉士って言う面子でな」
「何ですか、その取り留めのない取り合わせは」
思わず呆れた安室の突っ込みに、一口カフェ・オ・レを飲んでからパンケーキを切った滝が苦笑う。
「一応、共通の知り合いが居てな、後共通経験から先輩後輩って呼び合ってる」
「共通経験?」
「ああ。……こいつら全員、犯罪被害者なんだ。今でこそ健康だが大怪我したし、身内も殺されてる。親兄弟、親友、恋人、仕事仲間、皆殺されて、自分だけ生き延びたって奴らだ」
その言葉に、コナンすらも口を閉ざす。
滝の方は、もう一度カフェ・オ・レを啜りパンケーキにフォークを刺す。
「そう言う経験した所為か、俺が犯罪捜査官だってのを忘れて過保護にしようとしやがるんだ。『危ない事すんな』ってさ。
俺はこれで金稼いでんだってのによ」
「稼いでるって、滝さん」
吉野に、かつて彼を助けたバイクの青年だった男はにっと笑う。
「本当の事さ。確かに、正義感はあるさ。でも、同時に俺は『犯罪捜査官』って言う職分に就いていて、それで稼いで暮らしてる。
犯罪者を捕まえて、金貰ってる。賞金稼ぎとの違いは、俺達は犯罪者を償わせ、類似犯を潰す為に調べ上げる事、極論すれば最終的には殺せば終わりの賞金稼ぎと比べると、まあとことん薄給だわな。
でも良いんだよ。その為に徹底的に法律を学び、犯罪者の抜け道の潰し方を学び、犯罪者を捕まえる為のあれこれを学んでこの仕事に就いたんだ。
腕っぷしだけ、舌先だけの一般人に、現場荒らされても困るんだっての」
最後の言葉に、自分への当てこすりを感じて、コナンはジト目で滝を睨む。
安室と吉野の方は、感ずるところがあるのかじっと滝の方を見詰めている。
「なんてな。つまんねえ事言ったわ、忘れてくれ」
そう言って、パンケーキを片付けに掛った男を、コナンはむすっとすねた顔で、安室と吉野は気づかわしげな顔で見詰めた。
滝が帰り、コナンも上階へ上がって行った後、洗い終わった皿を拭きつつ吉野――諸伏景光はポツリと呟いた。
「零」
「どうした、ひろ」
「滝さんの関わった事件の、被害者だったのかな?」
コーヒー豆のストックの確認をしていた安室――降谷零が振り返ると、景光はじっと皿を見詰めつつこう話し出す。
「警察庁に出入りし始めた頃に、新條さんから聞いたんだ。
……当時FBIに入って二年も経ってなかった滝さんが対カルト組織の潜入捜査に参加したのは、滝さん自身が志願したんだって」
「え?」
「その直前に捜査してた、臓器の違法売買で滝さんの知人の物が見付かって、その違法売買組織がカルトに関わってたんだって。
俺の事件の時って、一年振りに顔合わせた時で、新條さん一瞬従兄弟だって判らなかったんだって」
「え、まさか」
「昔の滝さんって、頭は良いけど本当にお育ちの良いお坊っちゃんって感じだったんだって。FBIに入ってからも、スーツに着られてるみたいな雰囲気だったのに、あの時会った時は全身傷だらけで、凄く殺気立ってて筋者だって思ったって。
後々になって、丁度その頃に追い掛けてる事件に親友二人が巻き込まれて、レーサーとしての、カメラマンとしての夢を断念しなくちゃならない身体になったらしいって、新條さんも知ったって」
景光の言葉に、零はふっとあの日を思い出す。
変態の白いワゴン車を追ってアスファルトの上で転んだ自分を抱え上げてくれたのは……指無しグローブを着けた、疵だらけの、掌。
自分とヒロを抱き上げた身体からしたミント臭は、よくよく考えると湿布剤だったのか。
「……滝さん達は、日米安保条約の事もあって本当に隠密での捜査を行ってて、銃器の所持があまり認められなくて沢山犠牲者と殉職者を出したって。……規制されて事故として報道されてたから、当時も今ですらも殆ど知られてないんだって。
だから、カルトを壊滅させた時、生還した捜査官は半数どころか三割切ってて、滝さんと同じ時期から参加してた人員は両手に足りる人数しか帰らなかったって」
「……そうか」
「木場さんが言ってたんだ、滝さんは捜査官としてのプライドが高くて、素人が現場を荒らす事と捜査官が己の職分を履き違える事、そして『何某の為の尊い犠牲』と言う言葉には容赦しないって。
……きっと、目の前で亡くなる仲間を、被害者を沢山見て来たから、なんだろうね」
「……そうだな」
在庫を記録したノートを置いて、同じく皿を棚に戻した連れ合いを抱き締める。
……組織で地位を築く為に、犯罪に手を染め、殺人も犯し。そんな状況で景光を失った時、心が壊れるかと思った。
状況は違えど、自分が潰そうとした組織によって親友達が瀕死の状態になった時、あの優しい人はきっと後悔したのだろう。
捜査官として、覚悟していた自分達でああだったのだ、守るべき民間人である友人を巻き込み人生を狂わせた事を、滝は悔やみ、己の不甲斐無さを大いに嘆いたのだろう。
だから。
人生の、捜査官としての大先輩と言うべき人物が、自分に親切にしてくれる理由の一端を知った気がした。
**
三学期終業式の日、灰原哀は親戚の元に身を寄せる為転校する事をクラスメイト達に告げ、特に少年探偵団の面々を大泣きさせた。
「そんなに泣かないで、暫くは博士のところに顔を出すし、転校と言っても隣町なんだから」
「だって哀ちゃん~~~っ」
一番大泣きしている吉田歩美を宥め、何とか別れたところで、ふてくされた共犯者――彼女にとっては「かつての」と枕がつくが――の待ち伏せを受けた。
「どう言う事だよ、オメー」
「あら、小林先生が言ったでしょ? 父方の親類の元に身を寄せる事になったって。心配しなくていいわ、APTX4869の研究は継続するし、解除薬も間違いなく作るわ。その為の研究施設を借りる目途が立ったのよ」
「それって、どう言う事だよ!」
そう言いつつ歩く灰原哀《みやのしほ》は、じろっと追い縋ってくる江戸川コナン《くどうしんいち》を横目で睨んだ。
「何? 元の高校生に戻りたくないの?」
「っ、そりゃあ」
「その為には博士のところじゃ機材が足りないの。博士にもちゃんとその辺りの話をして、新たに保護者になってくれる人にも会って貰ったわ」
「おい、俺聞いてねえ!」
「あら、話す必要あった?」
「その親戚とやらが、組織の関係者だったら!」
「それはないわよ。だって、その人組織とは無関係ですもの」
「何で言い切れるんだよ!」
「説明して貰ったし。それに、貴方に危機管理任せてたら、貴方の都合ばかりで私これっぽっちも良い事無いわ」
「どういう意味だよ」
食い下がろうとするコナンに、嫌悪と怒りを隠さず哀はこう切り返した。
「お隣――貴方のご実家にいたエセ大学院生、ライだったんですってね。わざわざ人の姉を不幸にした男に見張らせる程度には、私を信用して無いって事でしょう?」
「な、何言ってんだ、赤井さんはお前を心配して」
「人の姉を、犯罪組織に潜入する踏み台にして、失敗した後そのまま一人で逃げ出しておいて? しかも他人の死体を使って死んだ事にして、捜査権限のない国でストーカー宜しく他人の家に盗聴器まで仕掛けておいて? あの男も、貴方もおかしいわ。あの男、姉さんの事一言も謝りもしないでおいて、勝手に守ってる気になってただけじゃない、何様のつもり?」
「っ、それは」
怯んだコナンに、哀は背を向け歩き出す。
自分の知らないところで進められた話に、とにかく納得のいく説明を得ようと少女の肩を掴もうと伸ばした手を、別の誰かが掴んだ。
「え?」
「キッドキラー殿は、推理は素晴らしいが無粋な
顔を上げると、些かむっとした表情で十四、五歳と思しい、セーターの上に薄手のコートを羽織った少年がコナンの腕を掴んでいた。
切れ長の藤色の瞳が、盛大にコナンを非難している。
声に振り返った灰原哀が、これまで見た事が無いくらい、ぱあっと華やかに笑って見せた。
「ゆき君、迎えに来てくれたの?」
「ああ、お嬢。奥様が『早く会いたい』ってそわそわしてらっしゃるから、長船と一緒に迎えに来たんだ」
そう言って、少年が指さした先には、スーツにダッフルコートを羽織った青年が軽自動車に凭れるようにして手を振っている。
長めの銀髪に切れ長の瞳という男に、コナンは一瞬ギクッとなったが、『黒の組織』の関係者に対して激しく反応する筈の少女は笑顔で手を振り返す。
「
「よ、終業式だったんだろう? 荷物があるかと思ったんだが」
「事前に持って帰っておいたから平気。乗せてくれるの?」
「勿論。新しい相棒の慣らしも兼ねてるから、あんまりスピードは出せないけどね?」
見れば、確かにボックスタイプの軽自動車は新車らしく、全体がピカピカと光っていた。
そしてあれよあれよと、灰原哀は男にエスコートされて軽自動車の助手席に乗るのを見て、慌てて駆け出そうとしたコナンは、ぐんっと後ろに引かれて自分の手を掴む相手を思い出す。
「な、」
「自分は秘密主義丸出しで他人を謀っている癖に、他人の秘密は死肉に集る鴉宜しく徹底的にほじくり返すってのは、悪趣味が過ぎないか、名探偵殿。
この世には、守秘義務ってものがあるし、他人の秘密を暴くなら自分も暴かれる覚悟がいると思うんだがな。それとも、自分だけは何をしても許されるとでも?」
ゆきと呼ばれた少年は、そう言ってじっとコナンを見つめる。
思わず、感情的に叫びそうになったコナンにその間を与えなかったのは、若光と呼ばれた優男の方だった。
「不動、神矢さんからラインの爆撃が来てるから、早く戻ろう。
ああ、それと江戸川君とやら、彼女のご身内の職分は国家公務員、ついでに言うと一介の警視庁の刑事や作家先生如きがちょっかい出せば、簡単に立件送検されちゃうからお勧めしないよ?」
「……は?」
「君はホームズほどの精神力の持ち合わせはないようだしね、身の丈ってものを弁えられないうちは、危ない事しちゃ駄目だよ? ほら、『死んで花実が咲くものか』って言うだろう?」
そう言うと、男は少年が後部座席に乗ったのを契機と話を切り上げ、車を走らせた。
だから、怒りと嫉妬で焼き切れそうな少年の元に顔見知りの二人組が近付いていた事も。
何事かを話し掛けて、何事かを約束していた事も彼らは知らず、それ故に事態を大きく動かす事になるのに気付けなかったのだ。
**
黒の組織壊滅戦は、先ず世界中にある組織のアジトで起きた異変から始まった。
一週間程前から、アジトのそこここに、猫が見られるようになった。
それも、体長最低で一五〇センチ、体重一五キロオーバーが普通のクソでっかい猫が、例えば長く開けて無かった筈の戸棚の中に居たり。
或いは、今迄チャックを閉じていた筈の鞄の中に居たり。
コートに入れっぱなしの携帯を取り出そうと、閉じたばかりのロッカーを開けたらそこに居た、とか。
組織にいる犯罪者と言えど人間、中にはそれなりに拗らせた猫基地もいれば、アレルギー体質も居る。自分の前に現れない事を嘆く者も居れば、ストーカー宜しく猫に付き纏われ軽くノイローゼに陥る者もいた。
前者の代表はコルンで、自分の荷物やロッカーなどに猫が来ない事にあからさまに落ち込み、他の人間の開けた袋の中で丸くなる猫の姿をいそいそとデジカメに収めている。
ベルモットは後者の代表で、ベッドのシーツの下やメイク道具を入れたバッグから猫が居るのを見付け、軽いパニック状態に陥っていた。
……その騒ぎが、別の意味でパニックに発展したのは一週間後。
ウォークインクローゼットの小ぶりなタンス――自称ファンから贈られた小物整理用のものだ――で猫を見付け、「もう嫌!」と言いつつ離れようとしたベルモットにそこから飛び出した猫が飛びつき、そのままタンスの中に引き込んだのだ。
護衛として控えていたノーネームが、慌ててタンスの開きを覗き込んだがそこは彼女の靴とバッグで溢れ返っており、人が潜り込むような空間は殆ど無かったにも拘らずベルモットの姿は消えていた。
異常事態に慌てふためいたノーネームが人を集め、それこそタンスを叩き壊して調べたものの、ごく普通の桐材製の小さなタンス、いやコンクリート製の密室だった筈のウォークインクローゼットから、ベルモットの姿は消えたのだ。
ほぼ時刻を同じくして、あちこちのアジトで、これまで猫に付き纏われていたノーネームや幹部が、一斉に猫に隙間や袋の中に引きずり込まれ、姿を消す『事件』が起こった。
そして、まるでそれを待っていたように、世界中のアジトに警官隊が押し寄せたのだ。
その裏側で、毛利探偵事務所から江戸川コナンが姿を消した事、本国で謹慎中の筈のジョディ・スターリングとアンドレ・キャメルが密入国を果たしていた事を、関係者は未だ知らずにいた。
そう、ちょうどこの時、シカゴ市警の巡回中の警官二人によって、自宅で昏倒状態の五〇代の男性が発見され、身元照会の為にFBI本部に連絡が入っていた事も。