七年前くらいに書いて途中で力尽きたものを発掘したので供養。
「おはようだお。体の調子はどう?」
白い壁、白い床、病院のような室内に椅子が一つ。椅子の足と肘掛けに手足を固定された少女が一人。背丈は小さく、身も薄い。大きくもない椅子だが、子供がちょこんと腰かけているように見える。
目を覚ましたばかりの少女は、自分がどこにいるのか。どころか、自分が誰なのかすら、ぼんやりとしている。夢と現の狭間にあって、その顔は天使の面持ちである。
「あなた、誰? ここは、どこかしら? 病院? カナ、怪我でもしちゃった? もしかして、あなた、お医者さんかしら?」
少女の前には、ずんぐりとした男が一人。成人前の高校生にも見えるし、中年に足を踏み入れた三十過ぎにも見える。年齢不詳と言えば聞こえはいいが、得体が知れない。
少女と対比すれば、野獣と呼んで差支えない。スーツを着た姿はアリスのフィッシュフットマンを彷彿とさせる。太く、小さく、中世の正装をした魚顔の男である。
「やる夫はやる夫っていうお。変な名前だけど、本当の名前。仲間内のあだ名なんだけど、やる夫には本名ってものがない。だから、やる夫のことはやる夫って呼んで欲しいお」
「それと、ここは病院じゃないし、やる夫も医者じゃない。君には傷一つない。ここはコインロッカーみたいなもんだお。お金を払うと空間を借りることができて、中に何を入れてもいい。外には怖いおっちゃんがいて、お金を払った本人以外は入ることも出ることもできないんだお」
にっこりと笑うと、男の顔に愛嬌が宿る。表情が豊かであるというより、表現できる感情の幅が広いといった風である。無表情には無表情の、笑い顔には笑い顔の幅がある。怒り顔はさぞ怖いと思わせる。
「他に質問はない?」
「えっと、えっと、聞きたいことはいっぱいある。でも、上手く言葉にできないの。ちょっとだけ、待って欲しいかしら」
首を傾げながら、少女は必死に考えをまとめようとする。アイディアをまとめる時のお気に入りポーズ、手をあごに当てようとして、はっとする。腕が動かないのである。
顔を下げ、ようやく自分の腕が肘掛けに縛り付けられているに気が付く。腕に力をこめ、ほとんどぴくりとも動かない。慌てて立ち上がろうとすると、足も動かない。
「カ、カ、カ、カナ、縛られちゃってるかしら!」
「申し訳ないけど、君の手足は椅子に縛らせてもらったお。やる夫は男で、君は小さくて可愛い女の子だけど、死にもの狂いになったら体格なんか関係ない。勝手に連れてきちゃったからには、逃げられたくない。ゲームでいう初期装備みたいなもんだと思って欲しいお。ドラクエの主人公は布の服とひのきの棒でスタートする。君も一緒で、まずは普段着で、両手足を椅子に縛られてる装備でスタートする」
少女は目を開き、口を広げ、形容しがたい顔をする。怒るべきか、呆れるべきか、悲しむべきか。少女はのんびりとして、抜けたところはあるが、馬鹿ではない。ようするに、目の前の男は自分を誘拐した。
拉致した人間を住まわせることを許容する反社会的なサービスにつながりを持つ。この男自身も真っ当な人間はないということだ。しかも、男は自分の両手足を縛り、当然に逃がす気はない。
しばし、沈黙が広がった。少女には聞きたいことがいくらもある。一体何が起きて、今に至るのか。誘拐したのは何故自分なのか。いつか返してくれるのか。
しかし、少女は賢い。賢いだけに、絶望した。監禁施設をコインロッカーと気軽に呼べる男だ。おそらく、続けようと思えばいくらでも状況を続けることができるだろう。
自分が誘拐された瞬間は思い出せないが、そこで男がミスをしてくれているだろうか。しかし、どうにも男は穏やかで、落ち着いている。ミスは期待できそうになく、仲間がいるようでもある。ほんの些細な程度のものであれば、仲間がもみ消してしまうのではないか。
残るは、男が状況に飽きることしかない。少女を監禁するのに飽きれば、状況は変化する。ただし、その変化は決して好ましいものでない。男はこれだけ堂々と顔をさらしているのだ。
解放の段になって、口止めなどはしないだろう。そんな不確実なものに頼るわけはない。おそらく、男が少女に飽きた時は、少女の命が尽きる時でもあるはずだ。
つまり、どうにもならない。あらゆることを知りたくはあったが、同時にあらゆることは無意味でもあった。やりたいことの全てはできないことに変わり、残るは寿命の長短のみである。何を聞けばいいというのか。
「じゃあ、君が考えをまとめてる間に、プレゼンテーションを始めさせてもらうお。まず、一つ目。やる夫は決して君を解放しないし、殺す気もない。君がストレスで相撲取りのように太ってしまっても、逆にミイラの干物みたいにガリガリになっても、百歳のしわしわになっても、やる夫は絶対に君を手放さない」
「二つ目は、ルール。この生活の間、つまり、これからの百年くらいの間、君とやる夫は質問を交換していく。君が一つ質問をしたら、やる夫は何にでも絶対に答える。代わりに、やる夫も君に質問するし、それを絶対に実行するお」
男は、再び笑う。先ほどの笑顔が愛嬌だったとすれば、今度は欲望である。男が女を見る目、下心にあふれ、それを隠そうとしない。ある意味で、ずっと、らしい笑顔であった。
「覚えている? 君がやる夫にいくつ質問したか。三つ、三つだお。やる夫の名前、この場所について、手足を縛られてること。三つ、やる夫は答えた。だから、やる夫はこれから君に三つ質問する。そして、三つのことをさせてもらう」
「じゃあ、早速。一つ。やる夫はさっきから、君のことを君としか呼んでない。君の名前を知らないし、なんて呼んだらいいのか、分からなかったからだお。やる夫は君のこと、なんて呼んだらいい?」
少女は迷う。迷った末、考えない。何をどう答えようと、どうにもならないからだ。たった一つしかない自販機の前で、何を買おうか迷ったところで、詮無い話なのだ。
「カナは桜田金糸雀、きんにいと、すずめって書いて、金糸雀かしら。お姉ちゃんにはカナリアって呼ばれてたし、妹たちからは呼び捨てでカナリアとかカナ、カナ姉って呼ばれてた。あなたも好きに呼んだらいいかしら」
少女は、自分が過去形で話していることに気づかない。平静を装っているし、少女も男も気づいていないが、既に少女の心は壊れかけている。少女の心は壊れ、別の何かに成り変わり始めている。
「そうじゃない。そうじゃないんだお。カナ、カナリア、カナリア様、カナちゃん。やる夫は君に選んで、決めて欲しい。君がやる夫に呼んで欲しい名前を知りたいんだお。それがカナリア様ならカナリア様って呼ぶし、それが全然関係ないヒトミやキミコという名だったとしたら、そう呼ぶ。君の望んだ名前で、やる夫が呼ぶ。それが重要なんだお」
少女の中で、男の評価が変わる。見ず知らずの男から誘拐犯、そして何か。テンプレートの評価から未だ見ぬ何かである。男の言葉は愛の告白じみていながら、違う。
愛というよりは執念。初対面なのである。顔も知らず、名前も知らず、互いのことを何一つ知らなかった。およそ関係という関係のない男のどこに、これだけの執念を引き出す要素があったのか。
「じゃあ、カナ。カナのことはカナって呼ぶかしら。カナちゃんでも、カナ様でも、後ろは好きにすればいいけど。でも、カナ。うん、カナがいいかしら」
「分かったお、カナ。カナのことはカナって呼ぶお。気分と状況によってカナちゃんとかカナ様も使わせてもらう」
「じゃあ、次の質問。カナには好きな男、付き合ってる男はいるのかお?」
またも、意外な質問なのだった。少女は誘拐されている。誘拐の目的はいくつもあるだろう。身代金をせしめる、移植用の臓器を抜き取る、娼婦として海外に売り払う。そして、身体。
少女は客観的な自身というものを知っていた。顔は可愛らしい方だと思う。両親共に優れた容姿を持っているからか、姉も妹たちも人よりは優れた容姿を持っている。
同年代に比べスタイルは貧弱であるものの、全体のシルエットは上々だとも思う。少なからぬ男はロリータ趣味を持っているという。これほどの執念によって自分を手に入れたのだから、問答無用と自分の体に手を出してくると思っていたのである。
「いない、かしら。カナには付き合ってる人はいないし、別に好きな人もいない。カナには男の人を好きとか嫌いって気持ちがよく分からないかしら。あ、でも、別に女の子が好きってわけでもないの。妹たちを見てると、きっと人を好きになるって良いことなんだろうなって、思う。でも、どうしても、カナにはよく分からないのかしら」
少女の妹たちに言わせれば、少女は身体と同じくらい心もお子様なのだ。両親や姉妹を愛する気持ち、友達と一緒にいて楽しい気持ちはある。しかし、男女として異性を想う気持ちが、少女には分からないのだった。
「そう。それは嬉しい話だお」
「だ、だからといって、あなたのことを好きになるってことはないのかしら。カナは絶対ストックホルム・シンドロームにはかからない。これからどれだけのことをしてくれて、何が起きたって、カナのこと、誘拐したって事実はなくならない。最初が間違ってたら、絶対に正しい道には戻らない。カナの身体を好き放題にすることができたって、カナの心が変わることなんてないのかしら」
男は笑う。
「分かってるお。やる夫が何をしたって、やる夫にはカナの心を変えることはできない。人の心は他人には決して変えられない。カナの心はカナにしか変えられない。やる夫はそんなものに期待はしてない。やる夫が聞いたのは、なんとなく申し訳ない気がしたからだお」
また、少女の理解を越えた言葉がやってきた。
「申し訳ない? 申し訳ないって何かしら? 何に対して、申し訳ないのかしら?」
「カナだお。カナの心に申し訳ない。だって、カナに好きな人がいて、その人と色々しようと思っていたら、その気持ちを裏切ってしまうことになる。それは申し訳ないお」
少女は男の輪郭を一定させることができない。分かるようで、分からない。かすんだ目で針の穴を見通すような、焦点のはっきりしない話に思えた。
「あなたはカナを誘拐したかしら。無理矢理カナの意識を奪って、監禁して、もう返す気もないみたい。その口ぶりだと、あなたのやりたいことも色々とやるつもり。なのに、申し訳ない。意味が分からないかしら」
「分からないか。そうかもしれない。いや、当然なんだお。これはやる夫の気持ちの問題で、それがカナに分かるわけない。分からないものは説明するだけ無駄なんだお」
少女の手に届きそうだったものが、さっと離れていく。どうでもいい。どうでもいいはずだったのものが、離れていくと気にもなる。
「ちょ、ちょっと待つかしら。カナには確かに分からない。分からなかった。でも、そこで諦めちゃったらお話なんてできない。もうちょっと、頑張って。ほら、伝える努力を惜しんじゃダメかしら」
男がしかめ面をする。いかにも面倒といった風だ。様々な表情を見せる割に、言葉で何かを説明する気が薄い。顔は自然と変わるが、言葉は理解を求める気持ちの発露だ。実際男は、自分のことを誰にも理解させようとは思っていなかった。
「だから、カナに好きな人がいるとする。漠然とでも期待があって、告白が上手くいったらキスをする、初めてのセックスは記念日とか思ってたとする。そうすると、やる夫がやることやったら計画は台無しなんだお。それに、カナに恋人がいたら。やる夫が何かするたびに、カナはごめんなさいって思う。そんなの嫌なんだお」
「嫌って、何が? 何で、嫌なのかしら?」
「何でって、そんなの聞かれても分かんない。嫌なものは嫌なんだお」
少女の心に苛立ちが生まれる。目覚めて初めての、強い気持ちだった。怒り、悲しみ、絶望はあったが、それは底冷えのする感情だった。気づくと迫っており、心を侵していく。
この苛立ちは違う。少女は知らないことを知るということが好きなのだった。散歩と読書を趣味としており、妹たちには老人と馬鹿にされる。少女に秘められた好奇心と探究心は、終わりの見えない監禁という状況ですら、発揮されていた。
「そうやって、投げ出すのは良くない癖かしら。さっきも、ちょっと伝わらないと思ったら、すぐに諦めた。もっとちゃんと考えて、カナにも分かる言葉にするべきかしら」
「なんていうか、カナに好きな人とか恋人がいて、やる夫がやることやった時に生まれる罪悪感ってのは、やる夫に向けられた感情じゃない。それは別の男に対するもんだお。それじゃダメなんだ。そうじゃなくて、やる夫がやったことに対して、恨みでも怒りでも、全部やる夫に向ってきて欲しいんだお」
「なんとなく、分かったかしら」
それは、やはり執念なのである。ようするに、男は少女を独り占めしたいのだ。どんな感情であろうと全て男に向けられて、愛情だろうと恨みだろうと別の男に対しては一片足りと渡したくない。男の空恐ろしい執念を、少女は再確認した。
「つまり、あなたはカナのことが好きなのかしら」
男は意外そうな顔をする。
「そう、なのか。さっき、カナが言ったお。男を異性として好きになる気持ちが分からないって。やる夫も一緒。やる夫にも性欲はある。でも、好きって気持ち。純粋な想いってのがない。やる夫がカナをさらったのだって、性欲なんだって思ってたお」
少女も意外そうな顔をする。誘拐し、好き放題にしようという相手である。当然に、好きなのだと思ったからである。誰かに好かれる程度の容姿はある、という自信もあった。
「そうなのかしら。間違いないの。カナも分からないけど、姉妹の話を聞いてても、好きって純粋な気持ちだけじゃない。相手をメチャクチャにしたいとか、自分のものにしてしまいたいって気持ちも、好きの内なのかしら。だから、やる夫はカナを好きに決まってるかしら!」
ムキになる意味がない、と思った。しかし、意味の有無で言葉を変える意味もないのだった。何をどうしても、手足を縛られ、好き放題にされるに違いはない。だったら。だったら、思った通りに言えばいい。
性欲のまま、誰でも良かったのだと思いながら、身体をいじられるのか。それとも、自分が好きなのだ、と。自分でなければダメで、執念の果てに誘拐までしてしまったのだ、と思えるのか。
少女は思う。自分は既にストックホルム・シンドロームにかかっているのではないか。どうにもならない状況によって、自分の心をゆがめてしまっているのではないか。
「きっと、やる夫はカナの愛らしい顔とスレンダーなボディに魅了されちゃった。小鳥がさえずるような声を愛しちゃったの。女の子をこんなにしてまで、照れて隠すのは良くないの。自分に素直になるべきかしら!」
みじめすぎる。防衛本能とプライドと恐怖がない交ぜになって、少女の心が決定的にゆがめられる。愛されているのだ、と。そして、愛されるほど魅力的な自分にも罪はあるのだ、と。
「きっと、そうなのかもしれないお。だって、やる夫はカナを一目見た瞬間に、気になって、気に入ってしまった。今まで生きてきて、こんなこと一度もなかった。他の誰でもない。カナだけだお。何をどうすれないいのか分からなくて、ここに連れてきた。これまでも、これからも、カナを手放す気になんかなれない。そうか、これが好きって気持ちだったんだ。やる夫はカナが好きなんだお!」
崩壊する。少女が崩壊し、男が崩壊する。少女はそれまでの少女ではありえず、男はそれまでの男でない。二人は恋人でなく、そうなることもない。互いに影響を与え合って、今決定的にどうにもならない関係へ至った。
この後、男は少女に思いつく限りの手段を用い、少女は思うままに懇願とも命令ともつかぬものを発する。それにより、どれだけが変わったとしても、今この転換に勝ることはないのであった。
「じゃあ、最後の質問だお」
暖かな空気が流れていた。奇妙な暖かさだった。
「何かしら?」
和やかに男が、穏やかに少女が答える。
「キスをさせてくれるか、足の指を貸してくれるか。どっちか一つを選んでくれないかお?」
「何を言ってるのか、分からないかしら」
聞き間違えを疑う。疑ったところで、何をどう間違えるというのか。
「キスか、足の指。どっちがいい? 選んだ方を、させてもらうお」
少女には分かりあえた気がしたのだ。一時間前には知りもしなかった男、一秒前には分かった気がした。少女は男の心を捕まえたと思っては取り逃がし、理解も錯覚であった。
いや、正確には錯覚でもないのだった。分かった部分もあり、分からない部分もある。それは少女でも男でも、道行く誰でもそうなのである。全てを知っている相手など、いないのである。
ただし、男の場合、ごく単純なところに不一致があり、短期間の内に理解と不明が入れ替わる。つかみどころのない、と思わせる由縁である。少女にとって、それは恐怖と一致する。
「キス、は分かるの。でも、足の指って。足の指に一体何、するつもり、かしら?」
男が頬を書く。
「さっき言った。カナが一つ質問するたびに、やる夫も質問する。それがルールだお。質問に質問で返すな、とは言わない。やる夫は嬉しい。そのたびに、できることが増えるんだから。でも、カナにとっては困るんじゃないかお」
男にとって、それは公平を目的としたルールなのであった。相手が質問をしてくれた回数だけ、自分も相手に質問をする。行為を行う。それは男なりの優しさであり、こだわりである。
男は自覚しない。虐げられるものだけが常に、状況を正しく理解する。少女は悟る。ジレンマに陥っているのだ。単純に考えれば、これは相手をどれだけ理解しているかを競うゲームである。
少女が男を理解していれば、男が少女にしようとしていることは分かる。分からなければ、聞くしかない。相手の分からないことを質問することができれば、その分だけアドバンテージを得ることができる。
しかし、問題なのは、今少女と男の立場には違いがあるということだ。少女は自身では食事も取れず、トイレにも行けず、着替えることもできない。
男はどれだけのことをしてくれるのか。男は質問と行為は等しいと言った。では。では、男は質問なしにどれだけのことを自分にしてくれる気があるのか。
仮に、食事やトイレを要求するために、質問が必要なのだとしたら。日に三食、三度のトイレがあれば、最低でも日に六度はもてあそばれる。全て自身の要求と引き換えなのである。
どうなるか。少女は優秀である。人格は崩れ落ちることを止めないが、優秀であること、考えることを止められない。食べることを止めれば、身体をいじられることもない。その余地が危険なのである。
逆に言えば、身体をいじることを許容すれば、食事ができる。着替えることもできるし、風呂に入ることもできるのかもしれない。身体は貨幣になる。そんな状況で、いつまで貞操を守っていられるのか。
いや、貞操を守ることなど、望むべくもない。遠からず、奪われる。心は。心を保つことを最上だとすれば、それはいつまでか。いや。むしろ、今。既に知ってしまった今、どれだけ心は保たれているのか。
五分後、一時間後、一週間後、一年後、もし姉妹に会うことができたら。その時、少女は少女でいられるのか。姉妹たちは自分を見て、少女だと思ってくれるのか。
おそろしいことに、少女は聞くことを止められないのである。さっき、男は足の指と言った。足の指をどうするつもりなのか。触れる、くらいならば許容できる。舐める、でもいい。
だが、切る、焼く、叩く。可能性はいくらもある。無限にある。思いつく限り、何をされても不思議ではない。確実なキスを選ぶのか、分からないまま足の指を差し出すのか、質問をしてしまうのか。
「教えて、欲しい。やる夫はカナの足の指に、何、するつもり、なのかしら?」
少女は決める。やるべきことは、男について知ることだ。何が好きで、何が嫌いなのか。何がしたくて、何はしたくないのか。女の身体に何を求めているのか。欲望の形を知るべきなのだ。
また、男の態度は、どうにも交渉次第といった風である。「質問しなければご飯も食べられないのか?」などと聞けば、「考えていなかったが、そうしよう」と思われる可能性もある。
会話の端々から察しなければならない。男が少女に、何をしてくれるつもりなのか。質問という形を取らず、男が少女に施すつもりのものを知らなければならない。
「分かった。これで質問一つ分。カナの質問に、答える。やる夫はカナの足の指を触って、舐めて、楽しむつもりでいるお」
「じゃあ、足の指。足の指にする。好きだけ、カナの足で楽しむといいかしら」
残念がるかと思ったが、男は嬉々として少女の足元にしゃがみ込む。少女は少し複雑な気持ちになる。男にとっては自分のキス、それもファーストキスが足の指と同じ価値なのだ。
「失礼するお」
椅子の足に手をかけ、右足だけ、少女を解放する。優しい手つきで靴を脱がせ、靴下を引き下げる。ふともも、足首、甲に指先。数秒のことが、妙に長く感じられる。
少女の顔が赤く染まっていく。頬があたたかくなり、耳たぶがかっと熱を持つ。下着ではない。素足をさらすことなどいくらもあり、海にでも行けば平気で歩いていたのだ。
恥ずかしい。自分を好きだと言った男、自分に性欲を抱いたと公言した男が、自分の足を見ている。足を舐めさせろと要求している。この段になって、遅ればせながら自分の身体が男の性欲にさらされているのだ、と実感したのである。
客観的評価として、男に好かれうると思ってきた。それは事実でもあるし、理解していた。だが、妹たちから童顔やら幼児体型とからかわれてきた少女にとって、自身が性的対象として見られる実感はなかったのである。
男が少女の素足に触れる。ふくらはぎからアキレス腱にかけて、男の指先が伝っていく。おそるおそる、滑らせていく。かかとまでたどり着いて、指が離れる。
もう終わったのか、と思うと、再び指先がふくらはぎに触れる。二度三度、ふくらはぎとアキレス腱を指先が往復する。そのうち、手のひらがふくらはぎに接地する。
つかみ、ゆるみ、つかみ、ゆるむ。特別なことは何もしていない。ただ、ふくらはぎを揉まれているだけなのだ。心地よいとすら感じない。事実を感知するのみ。少女の瞳は潤んでいた。
男の手つきが次第に遠慮をなくしていく。アキレス腱の左右のくぼみをつまみ、熱心に指をすり合わせる。何度も、何度も、かかとを撫でまわし、息を荒くする。
「かわいい。すごくかわいい。白くて、すべすべで、男の手触りとは全然違う。本当に、天使みたいだお」
男が少女を足をつかみ、持ち上げる。右足だけが椅子と平行に、投げ出した形となる。その姿勢がやはり、少女にとっては妙に気恥ずかしい。今更に、男の目前に、自分の股のあることに気が付いてしまう。
不思議なもので、両の足が接地していれば、多少股が開かれていたとて、恥ずかしさもない。服は着ているのだ。それが何故だか、足を投げ出した格好では、恥ずかしいのである。
「約束は足の、指。ふとももまで触るなんて、ルール違反かしら」
「申し訳ない。あまりにカナの足がかわいくて。頭で考えてたのと、全然違う。ホント、カナに出会えて良かった。強引にでも、ここに連れてきて良かった。最高。カナの足は最高だお」
少女のキスが足の指と同じであるという不満は、気恥ずかしさの中に消えている。嬉しいのとも、違う。誇らしいのでも、ない。身体の奥がふるえるような、興奮がある。
「足、足って失礼かしら。カナの魅力は足にしかないみたい」
「ごめん。でも、やっぱり、この足はすごい。じゃあ、足の指を触らせてもらうお」
男の指が足指に触れる。足の甲側から付け根を順になぞっていく。親指の付け根をこすり、股に触れる。人差し指、中指、薬指、小指、山と谷をめぐっていく。
その動作から、少女は目をそらせない。何がいいのか、分からない。きっと、男にも分かっていない。分からないものに、興奮しているのだ。男も、少女も。
表が終わると、裏になる。足の裏側から男の指が動き、やはり親指から順に滑らせる。甲に比べて、足の裏側には水気がある。ひっかかり、ぎこちなく、指が動いていく。
その微妙な凹凸、不自然なリズムが心地よい。表と裏が終わり、男の探索は指の股に移る。親指と人差し指の間に、男の指が差し挟まれる。股まで行き着くと、指がスライドする。
何かを確かめるように、男の親指が少女の指の股をこする。少女の目から涙がこぼれ出す。流れ出たという風でなく、溢れだしたのである。それまでの潤みが少女の頬を伝っていく。男は気づかない。
ひとしきり、全ての股を探って、ようやく、男は一息ついた。
「男の足ってのは、臭いもんだお。人間、生きてたら、歩いても座っても、汗をかく。一日一リットルは汗が出るし、足の裏なんかムレるもんだ。そう思ってた。そうなんだと思う。でも、カナの足の裏は全然臭くない。なんなんだ。なんなんだ。たぶん、おかしいんだ。臭いはある。当然ある。でも、なんだか、なんか、臭くない。臭くないんだお」
口を開き、口に含む。生暖かい何かに包み込まれる。自分の身体が、食べられる感覚。少女の尻の骨から形容しがたい何かが生まれ、背筋を這い上がっていく。
気持ち悪い。得体の知れない。快感では決してない。美味しいものを食べた時、暖かい布団にくるまった時、芝生の上を駆ける時。気分の良い全てのものと違っていて、しかし、手放せない。縛り付けられる。
男が指の関節を前歯でこする。こすりあげる。右に左に、指の付け根に歯を当て、しごきあげる。指と爪の間に舌を差し込み、奥歯で指を噛みつける。吸い上げて、指の股を舐め上げる。
全ての指が終わった後、男は右足を床に戻す。それでようやく、少女は自分の足が、首や腕や、体全体がきしんでいることに気が付く。指先が唾液ですうすうしている。
「終わった。ありがとう。すごく、すっごく良かった。美味しかったお」
喜色満面の面持ちで、男が告げる。
「じゃあ、次の質問をさせてもらうお」
「ちょ、ちょっと。まだ、左が残ってるかしら」
自分でも、思わぬ言葉が口をつく。男は、その言葉の不自然さに気づかぬ。言葉を受け取って、真面目に話を検討する。
「やる夫は右の足で満足してしまったお。人間の足が右と左と大きく違うなんて、ありえない。左の足を触っても、舐めても、今の感動は超えない。全く同じだって、きっとやる夫はカナに失望してしまう。だったら、左の足には触れずに、次の質問に行った方がいいはずだお」
まるで未来でも見たように、少女の思っていた通りの言葉が返ってくる。
「分からないかしら。そんなこと、誰にも分からない。カナの右足と左足が一緒だなんて、誰が決めたの。右と左じゃあ、使い方も動かし方も全然違う。その微妙な違いを見極めないで、次に行っちゃうなんておかしいかしら。甘々なの」
叩きつけるように、畳みかける。
「ほら、早く左足も触れて、触って、舐めてみるかしら」
それは期待なのだった。少女には、同じだけで十分なのだ。右足の指と同じだけの感覚が受け取れるだけで、左足が右足と変わらなくたって、問題ではない。少女の左足には力がこもり、期待が胸を覆う。少女の心は、たやすく崩れていく。
「やっぱり、カナの足はすごい。右足と左足じゃ全然違った。一緒なんだ、変わるとこなんて何もない。右と左で、形は違う。でも、足は足。それは確かなんだ。でも、違う。全然違う。右足には右足の、左足には左足の良さがあった。さすが、カナ。自分の足だけあって、よく分かってる。カナはホントに、最高だお」
男の称賛の声は、少女の頭に届いていない。耳には入る。空気は振動し、その音を伝えている。しかし、その意味するところが少女の心に届かない。空白なのである。
いうなれば、優越感。男の言葉でなく、その行為から、少女は自分がどれだけ愛されているかを察知する。いや、愛されていると思えるのか、受け入れられる。
汚いもの、地面に接し、汚れた足に触れ、舌で舐め取られたから、そこに愛情を見いだせるのか。汚いほどに抵抗があるはずであり、その抵抗を越えるほどの感情があると仮定できるのか。
違う。そうではない、と少女は思う。それが足の指でなくとも、清潔な場所でも、抵抗の薄い場所であっても、やはり、自分は愛を感じたのではないか。そう思える。
手指、態度、目つき。目に見えないもの、目には見えるけれど言葉にならないもの。男が自分に抱く執着が表れた何か。男の手が、指が、舌が、その執着を語っているのだ。
求められる快感。姉や妹や友人、女らしい彼女たちが浴びていた視線。誰よりも自分がいいのだ、と欲される。今この瞬間、この場所において、圧倒的に優位を感じる。その状況が快感なのである。
「カナの足で、満足できたのかしら?」
ちらっとした不安が、口をつく。
「それは、質問、だお。答えさせてもらう。やる夫はカナの足に満足した。これ以上の満足なんて、ない。ホントに、かわいくて、柔らかくて、甘い。最高だお」
遅れた言葉が、少女の頭に到着する。意味が到来する。口が、不安が、言葉が止まらなくなる。頭のどこかで、止めろ、と。それ以上喋るな、という声が聞こえる。
「カナの姉さんや妹たちは、カナよりもっともっと可愛い。カナより可愛い娘なんか、ちょっと歩けば、いくらでもいる。やる夫は他の娘なんか、きっと知らないかしら?」
「それも、質問だお。確かに、やる夫はカナしか女の子を知らない。他の誰の肌に触れたこともないし、足を舐めたことなんかあるわけもない。でも、分かる。確信してる。カナの姉妹は、きっとカナに似て美人さんかもしれない。でも、やる夫はカナがいいんだお。街のどこに、テレビやグラビアの中にいくら可愛い子がいたって、やる夫が好きなのはカナなんだ。そうじゃなかったら、やる夫は今頃テレビ局にだって忍び込んで、その娘をここに連れてきたはずなんだお」
できるだけ、質問をしない。アドバンテージを渡さない。もっと、賢く。もっと、正しく。理性がどこかに流れていき、質問が口から滑り降りていった。
「覚えてる? やる夫は覚えてる。しっかり記憶して、忘れない。カナは三つ質問した。だから、やる夫は三つ、質問ができる。三度だけ、カナに触れられる」
のどが鳴る。男の、少女の。冷静に、危機感を覚える。男の執着は身に染み、ネジの外れた考えをすることも知った。どこかに、しかし、期待する心もある。
「初めて見た時から、ずっと気になってた。気に入ってた。カナのほっぺたはつるつるで、すべすべで、とっても美味しそうだお。やる夫に、カナのほっぺた、食べさせてもらえないかお?」
少女の中の、何かがずれる。
「いや、かしら」
呆気に取られた顔をする。そんなことを言われると、端から思っていなかった、と。男の顔を見て、少女に余裕が生まれる。驚く程度なら良い。少女の予想は、怒りだった。期待でもあった。
「なんで嫌なんだお。食べるって言っても、ホントには食べない。可愛いカナの、可愛いほっぺたをかじって、なくなったら。せっかくのカナが台無し。さっきみたいに、触って、舐めて、歯で触れるだけなんだお」
「カナの足舐めたベロで、ほっぺた舐めまわされたくなんか、ないかしら」
「ちゃんと洗ってくる。手も口も洗って、うがいもするお」
必死になって、男が抗弁する。その必死さが愛おしい。愛おしく感じる心が、空々しい。可愛らしい少女のように、無垢な少女のように、照れて顔を背ける。
これは計算なのだ。質問へ拒絶する。拒絶された質問は無効になるのか。できるのか。真っ向から否定をしてはいけないのだ。可愛らしく、愛らしく、すねたふりをして、男の様子を探るのだ。
これは演技なのだ。相手を欺くためにやっている、演技なのだ。自分はすねてなどいない、照れてなどいない。本当の自分は、男を愛らしくなど思っていない。
「だめ、かしら。ばっちいやる夫はお断りかしら」
「じゃあ、しょうがない。仕方がないことだお。カナが言ったから。今やる夫は決めた。やる夫は、もう絶対に、手なんか洗わない。カナの足も、絶対に洗ったりしない。手だけじゃない、足だけじゃない。互いが互いに触れたとこは、もう洗ったりなんかしない。カナの言うばっちいもの、汚いってものをなくしてやるお」
「な、な、何言ってるの。そんな、そんなの、汚いかしら」
耳を疑う。小悪魔気分が一掃される。どこか、嬉しい気持ちもある。手玉に取られる感覚、翻弄される。心が左右に揺さぶられ、理解不能を漂う。それを心地よく思う少女がいる。頬がゆがむ。
「そう、汚い。その汚いって感覚を、なくしてやる。一日風呂に入らなかったら、清潔なカナちゃんは汚いって思うかもしれない。二日、三日、一週間。一ヶ月も経てば、カナは自分を汚いなんて思わなくなる。その時なら、その時なら、カナは汚いなんて理由でやる夫を拒むことはなくなるんだお」
喜んでいる、少女がいる。汚されること、ではない。否応なく汚れていく自分が嬉しいわけでは、決してない。その発想、執着、一ヶ月という時間。男の中で、その一ヶ月は具体的な時間なのだ。
少女には、一ヶ月先が見えない。一秒先だって、見えやしない。男が一体何をするのか、帰れるのか、救われるのか。いや、もっと卑近に、食事や排泄ですら、見通せない。
だが、男の中には一ヶ月が明確にある。一年でも、十年でも。望めば望むだけ、時間は延長される。具体的な尺度として、時間が刻まれている。狂人特有の揺るがなさ、それに包まれる安心感。
「やる夫は決めたお。カナにはもっともっと、汚くなってもらう。カナがぐちゃぐちゃになるまで、もっともっともっと。その足も、そう。さっきまで、きれいに洗って、戻すつもりだった。でも、もう、そんなことはしない。風呂にも入れない。カナがやる夫の臭いでいっぱいになって、やる夫なしじゃ生きていられないくらいにしてやるお!」
ひとしきり叫ぶと、ふと我に返る。男は元来感情の薄い人間である。人一倍落ち着き、人一倍静かに事を運ぶ。何がしかのこだわり、何がしかの思いに順ずる時のみ、その冷静が裏返るのである。
「質問は、二つある。権利は二つある。やりたいことが、たくさんある。でも、その前に。聞いときたいことがあった。どうでもいいこと、一応聞いときたいことなんだけど、カナはやる夫が好きかお?」
何を言っているのか。聞き間違えを疑うのは、何度目か。
「ど、うでもいいことって、失礼なの。乙女の気持ちを聞いといて、どうでもいいって何かしら」
「だって、ホントにどうでもいいんだお。カナがやる夫のことを好きでも、嫌いでも、やる夫がやることは変わらない。好きだからって遠慮したりしたいことを止めたりすることはないし、嫌いだからって扱いを変えるつもりもない。だって、やる夫はカナが好きなんだから。やる夫はカナに何だってできるんだから。これから一生、ここにいてもらうんだから」
少女は考える。好きか、嫌いか。どちらを選べば、正解なのか。よりベターな選択は、どちらなのか。
「だったら、そんなの聞く意味ないかしら。そんなの答えるだけ、無駄なの」
分かっている。答えのない答え。選択のない選択。少女にできることは何もない。何を答えたところで、何も変わらない。
「そうかもしれない。たぶん、無駄だお。でも、想像はできる。カナに何かをした時、カナがどう思うか。それを想像できる。喜んでるのか、悲しんでるのか。怒ってるのか、苦しんでるのか。ウソだっていい。さっきも言った、どんな感情をやる夫が想像したからって、やることも変わらない。ただ、想像はできる。それが楽しいんだお」
どちらを答えても、いい。少女には分かる。真実、男はどちらでもいい。辱めを受けた少女が羞恥に震えるのでも、喜びに目覚めるのでも、どちらでもいいのだ。どうでもいい告白。心中を吐露しない理由のない問い。
「好き、かしら」
その答えは、男に何ら変化を与えない。影響は何もない。
「ホントかお? さらった男を好きになるって。聞いておいてなんだけど、そんなことあるのかお?」
「やる夫、それは質問。最後の質問なの。答えるわ。見たことも聞いたこともない相手だった。突然にさらわれて、一生監禁されるとも言われた。ホントに、普通だったら嫌いになる。憎んだり、殺したくなったりする。たぶん、そうすべきなの。でも、なんだか、不思議なんだけど、好きなの。好きになっちゃったかしら」
その答えは、男には何の影響も与えない。少女には。少女が考えないようにしていたこと、気づかないように、避けていたこと。絶対にしてはいけなかったこと。
言葉にすることで、明確に口に出してしまって、落ちていく。好きなのだ、と。状況に流されたのだ、と。恐怖のあまり、相手の心に寄り添って、頭を垂れてしまったのだ、と。
真実とは何か。愛なんてものがあるとして、それは何か。少女は思う。家に帰る、姉妹に出会い、男を紹介する。姉妹はなじるだろう。それは錯覚なのだ、平穏に戻れば、すぐに消え去る感情だ。
その通りだ。これは錯覚だ。弱い心が折れてしまっただけ、暖かい生活に戻れば、全てはなくなってしまう。でも。でも、本当にそうなのか。このやり取りを、この感情を忘れ去ってしまえるのか。
この男を改めて憎んで、なじることができるのか。媚態を作り、小悪魔のように振る舞ってしまわないでいられるのか。これほどに肯定されることがありうるのか。自分は男を手放して、いられるのか。
「それは、良かったお」
男の手のひらが、少女の頭を覆う。ゆっくりと暖かさが伝わってくる。嬉しい気持ちを、否定できない。銃弾と言葉は似ている、と誰かが言った。放った言葉は戻せない。危険を告げていた声が遠ざかる。遠すぎて、もう、聞こえない。喜びが止められない。
「カナも、やる夫が、好きかしら」
「ねえ」
しばらくの沈黙の後、少女が口を開く。時間は経ったが、頬はまだ紅色に染まったままだ。
「カナのこと、うちに帰して欲しいかしら」
「さっき、カナはやる夫のお願いを拒否したお? 別に仕返しってつもりはないけど、却下だ。やる夫にも聞けるお願いと、聞けないお願いってのがある。これはどうにも聞けないお願いだ」
少女はさほど気落ちしなかった。期待外れではあったが、予想通りでもあったからだ。残念な気持ちは確かにあったが、安心してもいた。自分の分析の正しさが分かったからだ。
それに。それに、男は少女を好きだと言った。自分をさらってまで、自分のものにしたかったのだ、と。それが少女の告白を聞いただけで、解放に踏み切るなど考えられない。それでは、まるで。
まるで、少女の価値が低いようではないか。椅子に縛り付けられていることが、部屋に閉じ込められていることが、自分の生存のためには何でもすると豪語する男が、少女の価値だった。
男は誘拐してまで自分を手に入れたのだ。自分の足にひれ伏し、舐めまわし、それで満足などするわけがない。自分にはまだまだ手を尽くす価値があるはずだ。自覚していないが、少女は既に状況へ愛着を抱き始めていた。
「なんで、かしら。さっきやる夫はカナのこと、好きって言ったの。カナもやる夫のこと、好き。だったら、もう、こんなことしなくていい。カナたち、そ、相思相愛ってヤツなの。焦らなくたって逃げたりしない。明日から、段階を踏んでお付き合いするかしら」
だが、聞いておかなければならない。男は少女を信用しているのか。信頼しているのか。男は少女を好きだと言った、少女も男が好きだと返した。一世一代の気力を振り絞った言葉が軽んじられているのか。それだけは確認したい。
「相思相愛。良い言葉だお。ずいぶん前に読んだ、古いマンガでしか聞いたことのなかった言葉だ。まさか、やる夫がこんな言葉を使えることがあるなんて。すごい時代だお」
嬉しそう、というよりは、困惑している風である。ポストが赤くはなかった、地球は平たい世界である、水を熱したら氷になった。男にとって、ありえないことが目前に起こったのである。
男は少女の言葉を疑わなかった。この場を逃れるための方便であるとか、恐怖のあまりに心が壊れてしまったのだとか、そういった印象を持たなかった。不思議な確信があった。目の前の女の子は、自分を本当に愛している。愛してしまっている。
何が起きたのか、分からないのだ。強引に連れてきた少女が、自分に愛を持っている。少女の言葉は真実である以上、愛するはずがないという自分の常識がおかしかったことになる。世界が回転して、地球の裏側に来てしまった気分だった。
実際のとこ、男の確信は事実でもあり、そうでもなかった。少女の心は変質してしまっていたし、以前の少女とは決定的に違う。男の行為は少女の心をねじ曲げていた。
しかし、それは以前に持っていた美徳が減じるということでもない。また、監禁状況から抜け出せば少女の心が戻るということもない。曲げた金属が元には決して戻らないよう、少女の心が直ることもない。
「やる夫ったら、カナのこと信じてないの。きっと、おかしな女だって思ってる。さらわれた女が誘拐犯を好きになるはずなんて、ないって。きっと好きになったふりをして、隙をうかがって、逃げ出すって。そう思ってるかしら」
少女は思ったことを口にし、その言葉に自身でショックを受ける。本当に、そう思われていたらどうしよう。いや、思わないはずがないのだ。自分だって、信じられない。
そして、実のところ、信じられる必要はないのだった。少女が必死になって、自身の誠実を証明する価値がない。数分前に出会って、何を約したわけでもない。恋人ですらない相手に、少女が誠実を貫く意味はない。
「ひ、ひどいかしら。あんなこと言ったの、カナ初めてだったのに。カナのこと、勝手にさらって、勝手に閉じ込めて、勝手に縛り付けて。その上、カナの言うこと、信じてもくれないなんて。ひどすぎる」
しゃべるほどに、不安が広がる。目を伏せ、ひざを見つめる。少女は男の顔を見ることができなくなっていた。もはや、言葉を尽くせば尽くすほど、信用が失われていくような気すらする。
「女の子が、女の子に好きって言わせておいて。疑うなんて。馬鹿にしてる。きっと、カナが最初から何を言っても、信じる気なんかなかったの。恥ずかしかったのに。やっぱり、やる夫のことなんか嫌い。大っ嫌いかしら」
目が潤んでくる。自分の言葉が信用されない。それだけのことが泣けるほどに悲しい。情緒不安定になっている。何故自分はこんなに必死になっているのか。少女は今更に、自身を滑稽に感じる。
「それは違うお。なんでか知らないけど、やる夫にも信じられないけど、でも、カナはやる夫のことを好きなんだお。なんか、それは、分かる。カナの顔、声、唇を見てたら、なんでか分かっちゃうんだお。カナがやる夫のことを好きなんだって、やる夫には分かる」
妙に気恥ずかしい。先ほどまでの興奮とは違った、頬がかあっと桜色に染まる。じっと観察されて、心の隅までのぞかれたような気がする。分かりやすい性格だ、と姉妹にからかわれたことはある。
しかし、ほとんど初対面の男にすら分かられてしまうほど分かりやすいとは。それとも、この男だからこそ、だろうか。もしそうなら、それはなんだかロマンチックなことに思えた。
少しずつ、じっと喜びがあふれてくる。言葉を尽くし、理解される快感。今日一日で、いや、この一時間少々で、知らなかった心地よさをいくつも感じている。求められ、尽くされ、愛し、それを理解される快感。
先ほど男に舐められた足の指が、いつの間にか乾いている。曲げて、伸ばし、きしみを感じる。この場所は、もう、男に触れられた。男のものとなった場所なのだ。
「でも。でも、やる夫はカナのことを解放する気はないお。少なくとも、やる夫のやりたいことを全部やって、これでもう会えなくなっても悔いはない。そう思える時までは、絶対にカナのこと、手放したりしない」
息をつく。
「未来のことなんか分かりゃしないんだお。外に出たら、カナはやる夫から離れていくかもしれない。カナがいくらやる夫を好きでも、家族がいて、社会があって、偶然もある。今、この手の中に、もうカナがいるのに。だから、せめて、やりたいことは今、全部やっておいて。その後なら、何があっても後悔しないんだお」
「そ、それはやる夫の都合なの。わがままかしら。」
反駁しながらも、少女はもう解放されたいと思わなくなっていた。心の上を家族の、友人の、大学やバイトの仲間の顔が流れていく。もう、会うことのないかもしれない人々。その離別が、何故か今は悲しくない。むしろ、ぞくぞくするほどに心地よい。暗闇に陥って、失う快感がある。
「そう、わがままだお。やる夫はカナを拉致して監禁したんだ。声をかけることもなく、付き合うこともなく、ただしたいことをするためにさらってきたんだ。今更、だお。今更、なんだ。だから、やる夫は好きなことを好きなだけする」
男が頭を振る。
「そう、そうなんだ。今更、だ。ちょっと勘違いしてた。勘違い? いや、頭が回ってなかった。やる夫はやる夫だし、カナはカナだし、誘拐してさらってきて、好きなことするんだ。それは好きだとか、好かれたとか、そんなのは関係ないんだお。気持ちなんて、何をするかってこととは関係ない。すっかり忘れてたお」
自身の愛情さえ否定されたはずの少女は、しかし、それが心地よい。少女はじょじょに男の考え方を理解し始めていた。男は少女の心を拒否したわけではない。そんなものはいらないのだと拒絶したわけではない。それが分かった。
少女と男の関係が変わっても、気持ちが通じ合っても、それが何かを変えることはない。男は男のしたいことをしたいようにするし、少女はそれを受け入れるしかない。
それはおもちゃということなのか。ものと同じ扱いなのか。いや、そうではない。男は少女の心を求めている。少女が受け入れ、拒否し、喜び、悲しむ。その心があるからこそ、男は少女を連れてきた。それはものでは決して適えられない欲求なのだ。
「ところで、分かってるかお? さっきの、言葉。あれは質問だ。だから、やる夫は今、カナに質問する権利を一個持ってる。さっきみたいに、拒絶してもいい。好きにしていいお」
少女は微笑む。
「ううん、もうカナはやる夫の質問とかお願いを拒否したりしない。約束するかしら。嫌なことを嫌って言っていいことにしたら、たぶん、これから二人ともずっと嫌って言い続ける。それはなんだか、あんまりかしら」
「おっ、それは嬉しいお。じゃあ、やる夫も約束する。やる夫も基本的にカナのお願いを拒否したりしない。出たいとか家族に連絡したいとか以外なら、なんでも聞く。それと、何かする時はさっきみたいに、二つから選べるようにするお」
男が手を合わせる。
「なんだか、変なことになっちまったお。最初はもっと、好き放題にやるつもりだったのに。でも、なんだか、良かったお。これはこれで、楽しそうだ」
男の満足げな顔を見て、少女の心があたたかくなる。あたたかくなったことを自覚し、ああ、自分は本当に男のことを好きになってしまったんだな、と思う。こんな気持ちになるなんて、今までなかったことだ。
人心地ついた少女は、尿意に気づく。今はさほど強いものでもないが、あと二時間もすれば耐えきれないほどになるだろう。すんなりトイレに行くためには、男に悟られずに、上手い具合に少女の順番を確保するしかない。
どうにも男は変態的な趣味を持っていることがうかがえる。何しろ、洗ってもいない少女の足を舐めまわしていたのだ。トイレに行きたいなどとストレートに言えば、どうなるか分かったものではない。
「じゃあ、やる夫から質問だお。カナ、カナのあごの下、柔らかいところ。猫を撫でるみたいに、撫でさせて欲しい。それか、口の中。可愛い舌をつまんだり、丸い頬の内側とかを触らせて欲しい。どっちがいい?」